昨年8月(SCOT SUMMER SEASON 2024)に利賀村は新戸賀山房でその初演を観た金森さんの『めまい』は、ヒッチコックの同名映画(そこにはサンフランシスコの街路や金門橋といった「抜け感」のある「屋外」シーンもあるにはあるのですが、)同様に、「密室」での奸計、謀略の色彩が濃厚でしたから、黒く太い角柱が死角を産み、影と光のコントラストが強烈な印象を残すその山房のために創作された作品という印象が強く、「まさか、屋外で!?」「一体どうなるのだろう!?」と強く興味を掻き立てられたのは、私だけではなかった筈です。
*昨年と今年、大きく変えてはいないが、昨年が日本家屋(新戸賀山房)内での上演だったが、今年は屋外の円形ステージになるので、配置などの変更はある。 *赤いチューリップ: 絵のなかの女性(亡霊)と女優を繋ぐものであり、此岸と彼岸の境界を暗示するものでもある。今回は円形ステージ上の舞台装置としての使用も構想している。 *テーブルと椅子: どちらも金属製。「分裂」や「脱皮」などのイメージをもって、須長檀さん(家具)と話し合って作って貰ったもの。今年は少し補修して使用している。また、須長さんの方から椅子を「商品化してもよいか」と言われ、(全く同一ではないが、)実際に買うこともできる。「(値段は)少し高いけど」と金森さん。(→商品化されたものは恐らく、こちら、「guess I’ll hang my tears out to dry」。うむ、高い(汗)。少しじゃなく…。) *「昨年はヒッチコックの映画に寄せながら観たが、今日はバーナード・ハーマンの音楽に乗って展開されるバレエの印象が強かった」の声に、「金森作品は複数回観るんですよ」と繰り返し観ることで感じ方が変わってくると金森さん。
金森さんが、「舞踊家たちの渾身も既にここにはなく、既に皆さんの記憶のなかにあるのみです」と、舞台の「一期一会」性を口にされたとき、観終えたばかりの者たちは皆、この黄昏時に共有し得た「刹那」のかけがえのなさを、そしてその僥倖を噛み締めていた筈です。加えて、金森さんは、昨年上演した『セレネ、あるいはマレビトの歌』を来年、欧州で、という話があることにも触れましたので、堀内さんが期待するNoism Company Niigataにとって、世界への「2つ目のルート」も稼働準備段階にあることはどうやら間違いないことのようです。
樋浦さん「2018年のDance New Airという東京のダンスフェスティバルでのプログラムとして上演された際に出演しました。この作品は、2005年にNoism05が黒田育世さんに振付委嘱して製作されました。初演時は、穣さんや佐和子さんも踊られていました。 自分がこのとき担ったパートは、初演時は平原慎太郎さんが踊られていたところでした。衣裳も当時から同じものがずっと受け継がれているそうです。何回も床に倒れる振付があるので、左肘に緩衝材があてがわれているのが印象的でした」
活動継続問題やコロナ禍の苦しみの中で、ひたすら舞う「Noism」の集団としての強さと祈りに幾度も涙した『Fratres』を、アルヴォ・ペルトの楽曲を駆使しつつ、作品の一部とし、全く違った文脈で再構築した『セレネ、あるいはマレビトの歌』。異端・来訪者を排斥し、互いを縛る「集団」と、個を確立した者が手を取り合う「連帯」との対比。女性同士の深い共感が、集団の論理に楔を打つ展開(井関佐和子さんと6人の女性舞踊家が織り成す洗練と爽やかなエロスに充ちたシークエンスには、ペルトの楽曲相まって涙が溢れた)。ベクトルの異なる舞踊の連鎖を休む間もなく躍り続ける井関佐和子さんやNoism1メンバー、野外ステージの高低差を活かした演出の中で「恐怖」さえ覚える登場を見せる山田勇気さん。そして、言葉を越え、この世界に生きる人の胸に確かに届くであろう「ヒューマニズム」を謳い、アンゲロプロスやタルコフスキーといった名匠が映画で描いた夢幻のごとき光景を現出させた金森穣さんの手腕に、陶然としてしまう。Noismを応援してきた者にとっての冥利を覚えつつも、この現到達点は、Noism Company Niigataの更なる未来と拡がりを想像させる。