2017年5月28日(日)夕刻、正確には17時半過ぎ。
今回はいきなりその時刻の心境から書き出します。
その時刻、・・・
はや1時間も前に、Noism1ダブルビル・新潟公演(全3公演)は、
客席からの鳴りやまぬ大きな拍手と
飛び交う「ブラボー!」の掛け声をもって、
感動のうちに楽日の幕を下ろしてしまっていた、そんな時刻。
アフタートークを終えてさえ、なお日は高かったものの、
既に先刻、羨望の的たる「世界の中心」が
新潟から埼玉へとシフトしてしまったという思いを抱えつつ、
場所を移して座った、さるカフェの屋外ベンチ。
珈琲のカップを傾ける者たちの上に注がれていたのは、
まったく艶を欠いた日光であり、
その抜け殻のような光を照り返す街の姿もやはりどこか虚ろで、
それらは全て、心の中の寂寥感のなせる業。
感動と感傷、否、感動から感傷へ。
他でもない、早くも、所謂「Noismロス」に陥ってしまっていたに違いありません・・・。
☆ ★ ☆ ★ ☆
新潟3デイズを終えて(寂しさと共に)振り返る
感動のダブルビル公演、
全く趣きを異にする2作とも見えますが、
初日のアフタートークでの客席からの感想にもあったように
大きな共通点を有する2作ともとれました。
異なるベクトル。
間断なく耳をいらだたせるノイズ群に合わせて、
脱中心化され、拡散する印象の身体と
甘美にうねることで心を揺さぶるワーグナーの旋律へと
一分の隙もなく収斂していく雄弁な身体。
しかし、観点をずらすと見えてくるものも変わります。
両作品に共通するもの。
抗いようにも抗い得ない物理的な事実と、
如何に抗い得ないとしても、それでもなお抗うよりない身体。
人など卑小な存在に過ぎませんが、それでもなお抗う、
その身体が内側から発光するさまを目撃すること。
刹那の輝きという共通点。
そしてそれがまさに刹那のものであるがゆえに、
心は揺さぶられずにはいないのだと言い切りましょう。
「見る」という特に何の変哲もない営為を通してではありながら、
どのように作品にコミットするかが大きく分かれる2作。
舞踊の多彩さの一端に触れるのが
観客としての最も豊かな振る舞いであることは言を俟ちません。
ここまで書いてきて、はたと気付くのは、
どんなに言葉を費やしても、「良いものは良い、ただ見詰めるのみ。
そして感じるだけ」と言うのと何ら大差がないという事実。
私のような者が語っても、端から同語反復の徒労に終わる他ないのでしょうが、
新潟3デイズを終えた今に至り、
見終えて、こんなにも寂寥感を掻き立てる感動の舞台を、
埼玉でも、是非とも多くの方にご覧頂きたいとの思いから、
非力を顧みず書いてきたような次第です。
今回、埼玉へ行くことが叶わない者にとっては、
感動が大きかった分、ぽっかり空いた穴も大きい訳ですが、
所詮、相手は刹那なるもの。
ここは気持ちを切り替えて、
網膜を通して刻まれた記憶を愛撫し、或いは咀嚼しながら、
また再びNoism1にまみえる日を待つことにします。
埼玉公演は今週末の全3公演。
圧巻の舞台をご堪能ください。 (shin)