前日に引き続き、2026年4月8日(水)の新潟日報朝刊は連載の「問いかけるNoism」「舞踊の十字路」〈中〉を掲載しました。
これがまだ「連載」企画になるとは知らずにいた2月半ば、一年のなかでもチョコレートのやりとりが活況を呈する日の前日に、fullmoonさんと一緒にメディアシップに伺って1時間強も諸々話してきたなかから、私の「ぼやき」発言も掲載して貰っております。かつての故・野村克也さん一流の「ぼやき」には到底かないませんけれど。でも、さすがは地元紙・新潟日報さんです。朝から記事を読んだ旨の連絡が幾つも届きました。願わくば、そんな「ぼやき」を受け止めたなかから、新庄剛志さんのような人が出てくれたりすると有難いのですけれど…(笑)。
冒頭から話が逸れ過ぎました。すみません。この日の記事は、長らく課題とされてきた「市民への浸透」を扱うもので、「芸術的評価と比例せず」と「裾野広げる仕組み課題」の見出しも掲げられています。
有識者が語る、コンテンポラリーダンスは「多くの市民にとってなじみがない」という状況下、金森さんとNoism Company Niigataは、記事にも触れらている小学校への「アウトリーチ」や視覚障がいを持つ方々を対象とするものを含む多様なオープンクラスを展開してきました。どれも間違いなく、世界的に見て他に類のないものばかりです。しかし、同時に、どれも自ら取りにいかなければ、そうした情報に接することは出来ない環境にあったことを看過してはならないと思うものです。
何が足りなかったのか。もう一目瞭然ですよね。新潟市の積極的な関与や発信に尽きます。それが「ぼやき」の本質です。
プロスポーツなどと縁遠かった新潟に、あのサッカーチームが出来た頃、回覧板で観戦無料チケットの必要枚数を書き込む用紙が何度回ってきたことか。そうした時期を経て、老若男女問わずの盛り上がりを形成されていき、現在の「アイシテルニイガタ」に繋がっていったのです。そのチームは市役所や区役所にチームユニフォームを寄贈して広報に努めています。かたや、新潟市がNoismについてどうだったかというと…。はい。紹介できる事例など見当たりません。たとえば、「市報」すら、紙幅の都合から掲載スペースの割り当てに順番があるのだとか、ないのだとか。はい。残念過ぎる事例なら枚挙にいとまがないほどです。
ですから、新装なったJR新潟駅舎内、多くの往来がある通路脇に出来た観光案内センターの中に、一枚Noismのポスターを貼って、チラシを常備するラックのひとつも用意して欲しいと何度も訴えてきましたし、空の玄関口の新潟空港にNoismをあしらった「ウェルカムボード」のようなものを作ることなども提案してきました。後者は一時期設置されましたが、今はりゅーとぴあ内にあり、極めて限られた期間のものでしかなかったこともまた残念な事柄に属します。(前者は、今日に至るまで何一つ対応されたことなど見つかりません。)
「市民への浸透」、率先して行うべき主体は果たしてどこなのでしょうか。
この日の記事中、地域活動部門芸術監督・山田勇気さんの「すぐに効果を求めるのではなく、中長期的な視点が必要」との見解こそ重く受け止められなければならないものです。小学生への「アウトリーチ」という種蒔きは巡り巡って、将来の観客という実を生み出すのです。 また、地元・新潟りゅーとぴあでの公演において精力的に実施されてきたアフタートークなども、金森さんが長期的な視座で、地元に「見巧者(みごうしゃ)」(=目の肥えた観客)を育てていこうとする意志なしには行い得ないものであり、劇場が身近にある豊かさを実感できる贅沢なひとときになっています。
「市民への浸透」、ただただ何もなさず、無為の日々を過ごすのみで、真に責めを負うべきはどこなのでしょうか。
2月の市議会の一般質問において、シビックプライド醸成の観点から、「経済・観光との接続」「教育・福祉との接続」について問われた際に、文化スポーツ部長はいつになく前向きな答弁を行いましたが、今年度、そうした側面において新潟市がどう関わってくるのか注視したいと思います。そして、増してやそれがそのまま「丸投げ」されて、Noismの事業負担増加のみに繋がるなどということのないよう、目を光らせておくことも必要かと。
限られた税収のなか、諸々課題がある状況下で、将来を見据えた文化政策の成否にはそれなりの覚悟が伴うものと思います。批判逃れに、安易に「平等性・公平性」を持ち出す無責任体質を脱却して、金森さんが「劇場文化100年構想」で唱える意を汲んで、その将来の豊かさの実現に向けて邁進して欲しいと思うものです。
どれだけ紙幅があったとしても、収まり切らない私の「ぼやき」、とりあえず、今はここまでにしておきます。
新潟日報紙のこの連載、次回は4月10日掲載予定とのことです。
(shin)