2024年2月9日(日)、埼玉は彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉にて、昨年末から始まったNoism0+Noism1「円環」トリプルビルのツアーが、多くの観客を前にして、その幕をおろしました。終演時には、大勢の人たちがスタンディングオベーションで大きな拍手を送り、「ブラボー!」の声も多く飛び交いました。
通常、暫し身を苛まれる「Noismロス」、宮河愛一郎さんと中川賢さんを観る機会がなくなったことが重なるため、いつも以上に重症化しそうに思えていたのでしたが、実際には、過日のJCDN「Choreographers 2024」新潟公演プレトークでの呉宮百合香さんが発した言葉「作品との関係性は上演だけでは終わらず、その後の時間も含めてのもの」「作品が更新されていく」に救われるかたちで、一定程度抑え込めているように思いますし、そもそも井関さんが実現に漕ぎ着けてくれたこの度の公演自体が「奇跡」の名で呼ばれていたのだとしたら、(いかに詭弁に聞こえようと、)その奇跡は既に奇跡ではなく、だとしたら、また巡りくる新たな奇跡すら信じていいのかなとか思えているのです、不思議なことに。
今もなお続くある種の陶酔のなかに身を置きながら、同時に、この先への途方もない期待を抱きつつ、これを書いています。







『過ぎゆく時の中で』、前日(埼玉公演中日)のブログに書いたように、これまで観たことのない「脇役」金森さんの虚ろな姿が、この日も、より一層色濃く迫ってきました。
そうしてみると、あの黒い帽子も、「旬」を過ぎた舞踊家、ただひとり、颯爽とした若手からは歯牙にもかけられなくなりつつある存在のみが身に着けるアイテムにしか見えてきません。彼も一度、それを脱ぎつつ、若手たちと同型の理想に向けて同じように手を伸ばしてもみせますが、すぐに思い直したかのように、頭を垂れるとその帽子を大切そうに胸に抱いて、片膝ついた姿勢から、再びかぶることを選びます。「今の自分」を受け入れた瞬間でしょう。純粋に若手たちの姿に、自らの若き日の格闘(勿論、金森さん自身のそれではなく、舞台上にいる「旬」を過ぎた舞踊家の仮構されたそれであることは言うまでもありません。)を重ね合わせて見るように変貌したことを意味するでしょう。
時を止めてでも浸っていたい「美しさ」、その減却に否応なく直面させられる残酷な事態を金森さんがこの上なく美しく可視化していく、その意味で倒錯的な作品という側面も含めて、金森さんからの愛情に裏打ちされた「檄」に見えると思う訳です。(少しやわらかい言い方をとれば、「励まし」、或いは、期待を込めた「贈り物」となるのかもしれませんが。)そうすると、やはり、金森さん、「脇役」ではありませんよね。疾走感が全編に溢れていて、その部分が大いに目を惹くその見かけの内実、何という複雑な構造をしているのでしょうか。(あくまでも個人的な感想です。)
『にんげんしかく』については、まず、始まって間もなく、樋浦瞳さんが発する了解可能な一語についてのまとめから始めたいと思います。三好さん相手に、バナナらしきものを食べるマイムをしてみせてから、ポケットから取り出すアイテムの名称を大きな声量で明瞭に伝える場面ですが、新潟でのそれは「笹団子」、北九州が「明太子」、滋賀は「琵琶湖」ときて、埼玉では「笹団子」に戻ったことにもひとつの「円環」が見てとれるかもしれません。しかし、大事なのはそこではありません。
そこに至るまでを見直しておきます。最初、緞帳があがると、舞台上には段ボールたち。それがゆるやかに、滑らかに動き始めると、それを見詰める私たちに愛着の萌芽が芽生えます。しかし、ややあってその新鮮さが薄れてくる頃、舞台上では、客席にいる私たちには理解不能な言語でのやりとりが始まり、私たちは取り残されたような、作品に繋がる通路を断たれてしまったような、身の置き所がない感覚を味わう時間がやってきます。そんな理解不能な言語が作品への私たちの没入を怪しくしていたその時です、その一語が耳に入ってくるのは。それは、虚を突きながら、一瞬にして身構えていた部分をやんわり取り払い、謂わば武装解除してしまうだけでなく、逆に、大きな親しみを感じさせてしまう絶大な効果を示すでしょう。瞬時に舞台と客席とを結ぶ確固とした回路が生まれてしまうのです。この35分の作品において、とても印象的なものですらあります。
しかし、やがてそれこそがかなり危うい落とし穴なのだと気付くことになりました。私たちは耳に届く言語が理解可能なのか理解不能なのかに大いに縛られて、居心地がよくなったり、悪くなったりする部分があることに気付かされたのです。その気付きに至る比較対象が、身体の動きだったことは言うまでもないでしょう。私たちは、動きが理解可能か、理解不能かにそれほど頓着したりはしないのではないでしょうか。動きが一義的な意味や合目的性を有していないとしても、なんとなくやり過ごせてしまう、とでも言いましょうか。ところが、言語となると事情は全く別になってしまうのです。あの言語的に理解し得る意味を奪われて見詰める状況下で、耳にする「笹団子」や「明太子」、「琵琶湖」が心地よかった裏には、近藤良平さんが仕掛けた罠があった訳です。言葉など放ったまま捨ておいて、観るべきは動きなのだと。
そうした罠の最たるものが、終盤にやってきます。舞台上の10人が声を揃えて発する「とっても素敵な人生です。(×2)あっちもこっちも楽園です。うーん、迷ったときには、知らないところへ、1、2、どっきゅん」という「何か」を明瞭に指し示し過ぎる言葉です。この言葉は、一見(一聴)すると、作品のテイストを言語化したものに思えますが、私は、新潟公演の初日から、「どこか空疎で、上滑りしている」感が否めないように感じてきたのですけれど、ずっと、それが何故かには気付かずにいたのでした。観るべきは動きでしかないということに。そういう身体の動き重視のスタンスでこの作品に向き合うとき、舞台上の10人が、自分の段ボールが世界の全てだったところから勇気をもって、その外部へと踏み出して、他者からも受け入れられ、他者と多様に繋がっていくさまを余すところなく可視化していく身体の動きは、素敵そのものであり、あんな関係性が構築できたなら、そこはすべからく「楽園」と呼んで差し支えなかろう、といったことくらいは目が既にして納得させられていたことに過ぎなかった訳です。それが上記の「空疎で、上滑り」に感じられた理由だったのです。
近藤良平さんが仕掛けた罠、そう書きましたけれど、もし正面切って訊ねたりしてみれば、一言のもとに、「そんなことは考えていない。ただの僕の『演出の癖』だから」などとやんわり返されてしまいそうなこともわかったうえで、敢えて書いています。しかし、舞踊の根幹を確かめさせられた、そんな作品だったことに間違いはありません。
そしてトン・タッ・アンさんのピアノの音が聞こえてくると、今度は再び金森さんによる美し過ぎる『Suspended Garden - 宙吊りの庭』です。ここで否応なく、向き合うことになるのは、金森さんと近藤さんのテイストの違いでしょう。
並べて鑑賞してきた今、乱暴なことを承知で、私が感じていることを記すならば、金森さんは常に自らを超え出て、「舞踊」というより大きなものに迫ろうとし、至ろうとする、その献身の姿勢に貫かれていて、その透徹した美意識をもって、(どこでもない時空に)豊穣この上ない「非日常」を立ち上げ、私たちを極上の刹那に浸らせてくれる演出振付家と言えるかと思います。永遠への指向性が強く感じられる舞踊が作品の多くを占めています。
かたや、近藤さんは自らの「演出の癖」へのこだわりを土台に、「舞踊」という大きなものの懐に抱かれるかたちで、私たちをアナーキーで混沌とした、唯一無二の「近藤良平ワールド」に引き込んでいくタイプの演出振付家となるでしょうか。与えられた(多くは突飛な)状況を生きる舞踊家の姿そのものを届ける舞踊に映じます。






そんなベクトルの違い、そしてその先、舞踊の多様性に感情を大きく揺さぶられたことで、一応のものとはいえ、上に書いてきたような無茶苦茶なまとめまでしてみたくなるほど、見終えた後もその魅力が尾を引く「円環」トリプルビル公演でした。またこの演者たち、この作品たちに見(まみ)える途方もない新たな奇跡を信じつつ…。
(shin)