濃密な闇に蠢く身体、その光芒(サポーター 公演感想)

2023年5月に富山県黒部市の前沢ガーデンで初演された『セレネ、あるいはマレビトの歌』の衝撃は今なお鮮明だ。野外劇場と芝生の丘の高低差を活かしきる金森穣さんの演出と照明美、アルヴォ・ペルトの身体の奥底に響く楽曲とNoismメンバーとの共振、そして近年の代表作『Fratres』シリーズをまた異なる文脈で作品に盛り込み、「来訪者」「異邦人」への迫害・抑圧を超えた先にある連帯を見出すヒューマニズム。前沢ガーデンという得難い環境と密接に結びついた作品だけに、他の空間での公演は難しいかと思っていたが、今年12月のりゅーとぴあ・劇場公演に加え、鈴木忠志氏率いる「SCOT」のSUMMER SEASON 2025での利賀公演、更にスロベニア公演が発表され、「果たして金森さんはどのように作品を再創造するのか?」と期待が膨らんでいた。

8月29日(金)、列車や新幹線、南砺市利賀村行きのシャトルバス(狭隘な山道を進む故、時折悲鳴を上げつつ)を乗り継ぎ、利賀芸術公園内の茅葺き住宅を改装した「新利賀山房」を目指した。『マレビトの歌』は29、30、31日の3回公演だったが、より多くの方が鑑賞できるよう「一人一回」のみの鑑賞制限があった。りゅーとぴあでの公演まで再び観られないとあって、何時にも増して舞台の一瞬も見逃すまいと、気合を入れて開演を待った。

漆黒の新利賀山房の舞台。今回加えられた井関佐和子さんと山田勇気さんのデュオから、一気に客席の空気が変質し、情感と凄絶さが同居するその身体に引き込まれてゆく。約1時間の公演中、殆ど休むことなく舞い続ける井関さんは勿論、躍進著しい若きNoismメンバーたちの鬼気迫る表情、汗に濡れていく衣装を、手が届くほどの距離で見つめることの得難さ。観客もまた舞台の共犯者であり、それは一瞬の気の緩みで崩壊してしまうことを突きつけてくる。

メンバーひとりひとりの名前を挙げたいくらいだが、糸川祐希さんの殺気に溢れる表情と身のこなし、春木有紗さんの目力と透き通るような肢体で見せる舞踊の迫力を特筆したい。

漆黒の空間に置き換えられた『マレビトの歌』は、野外劇場の空間とその広がりとは何もかも違う、より濃密かつ人間の闇とその先にある光芒を見つめる作品に変貌したように思う。「来訪者」と魂を通わせ合う女性たちと、暴力・男権によって支配下に置こうとする男たち、彼らの閉鎖的な集団性を打破する女性たちの連帯。この国に暮らすルーツを異にする人々を排斥する現代に、楔を打つようなヒューマニズムは、より切実なものとして胸に刺さった。

初演時、若干の不満を覚えた終幕も、テンポよく再構成されており、りゅーとぴあでの公演までに更に深化されるだろうと、これもまた楽しみ。
終演後、会場のそこかしこから「凄かった」「緊張した」の声が聞こえたが、Noismと向き合うことは観客それぞれの内奥と対峙することだと、改めて思わされた。

久志田渉(新潟・市民映画館鑑賞会副会長、「安吾の会」事務局長、舞踊家・井関佐和子を応援する会「さわさわ会」役員)

SCOTサマー・シーズン2025『マレビトの歌』活動支援会員/メディア向け公開リハーサル、身じろぎすら憚られた57分間♪

2025年8月9日(土)の新潟市は、折しも新潟まつりの2日目ということもあり、街にも人にも華やぎが感じられ、祭りばかりが理由ではないのでしょうが、白山公園駐車場も満車状態。近くの駐車場にまわって、車を駐車して、りゅーとぴあを目指し、12時からの『マレビトの歌』の公開リハーサルを観て来ました。

この日の公開リハーサルでは、鈴木忠志さん率いるSCOTの50周年目という記念すべきタイミングで開催される「SCOTサマー・シーズン2025」において、8/29(金)~31(日)の3日間上演される『マレビトの歌』を通しで見せて貰いました。会場はりゅーとぴあ〈スタジオB〉。その正面奥の壁に掛けられた時計での実測57分間は、ぴんと張り詰めた空気感でのしかかってきて、身じろぎひとつさえ憚られるほどの強烈な圧に満ちた時間でした。

月末の利賀村での3公演の舞台は、富山県利賀村芸術公演の新利賀山房。そこは闇と幾本もの太い柱が統べる合掌造りの劇場空間であり、その印象的な柱を模した「装置」が目に飛び込んでくるなかでのリハーサル(通し稽古)でした。

今回の衣裳は全て黒。『Fratres』シリーズで見てきたものです。その点では、2023年5月の『セレネ、あるいはマレビトの歌』とは異なります。

正午ちょうど、金森さんが「いきましょうか」と発して始まった実測57分間は、私に関して言えば、2年少し前に『セレネ、あるいはマレビトの歌』として観た記憶などちっとも召喚されることもなしに、「これ、前に観たのと同じ?違うんじゃない?」とばかり、ただただ新しい視覚体験として、息をのみながら見詰めるのみでした。自らの情けないくらい頼りなく覚束ない記憶力に呆れつつ、新作を目の前にするかのように目を凝らして…。

12:57、金森さんの「OK!」の声が耳に届くと、壁に沿った椅子に腰掛けて見詰めていた者たちから、汗を迸らせて踊り切り、上手(かみて)側の壁際へとはけた舞踊家たちに対して大きな拍手が送られました。

すると、私たちに向き合うかたちに椅子を移動させた金森さんから、「お盆には相応しいかも。亡き祖先への思いだったり」という思いがけない言葉が発せられると、息をつめて見詰めた者もみな緊張感から解放されて、漸く和むことになりました。

「何か訊きたいことがあれば、どうぞ」金森さんがそう言うので、途中、東洋風の響きに聞こえるものさえ含まれていた使用曲について尋ねると、全てアルヴォ・ペルトの曲で統一されているとのお答えでした。

恐らく、Noismレパートリーのオープンクラス受講者だったのだろう若い女性が、『ボレロ』の振りと似ていると思ったとの感想を口にすると、金森さんは、「若い頃は色々な振りを入れようとしたりするものだが、齢を重ねてくると、目指す身体性や美的身体が定まってくる」と説明してくれましたし、フード付きの衣裳は視界が狭くて踊り難いのではないかとの質問に対しては、「能の面に開いた穴などもほとんど見えないくらいのものだが、日々の鍛錬によって空間認識が出来てくる」と教えてくれた金森さんに、すかさず、井関さんが「最初の頃は結構、柱が倒れていた」とユーモラスに付け加えてくれたりもして、笑い声とともに公開リハーサルは締め括られていきました。

ここからは、以前に当ブログにアップした記事の紹介をさせていただきます。必要に応じて、お読み頂けたらと思います。

まずは、自家用車を運転しての利賀村芸術公園入りを考えておられる向きに対するアクセスのアドバイスになれば、ということで、(昨年8月に『めまい』を観に行ったときのものですが、)こちらをどうぞ。
 → 「SCOT SUMMER SEASON 2024」、新利賀山房にて『めまい ~死者の中から』初日を愉しむ♪(2024/8/25)

そして、2023年5月の『セレネ、あるいはマレビトの歌』に関するリンク(4つ)となります。
 → 驚嘆!『セレネ、あるいはマレビトの歌』公開リハーサル!!(2023/5/11)
 → 控え目に言って「天人合一」を体感する舞台!「黒部シアター2023 春」の『セレネ、あるいはマレビトの歌』初日(サポーター 公演感想)(2023/5/21)
 → Noismの現到達点たる『セレネ、あるいはマレビトの歌』、その夢幻(サポーター 公演感想)(2023/5/22)
 → 「黒部シアター2023 春」前沢ガーデン野外ステージでの「稀有な体験」が語らしめたインスタライヴ♪(2023/5/24)

お盆を前にして、貴重な晴天だったこの日の夕方、金森さんの言葉とは逆になりますが、私は『マレビトの歌』のリハを思い出しながら、父と祖母が眠るお墓の掃除をしていました。汗だくになり、もう目に入って痛いのなんの。数時間前に心を鷲掴みにされた舞踊家たちの身体を流れた多量の汗には遠く及びませんでしたけれど、それでも同じ57分間はやろうと決めて…。(個人的過ぎる蛇足、失礼しました。)

あの実測57分間は本当に衝撃でした。利賀でご覧になられる方が羨ましいです。それくらい、『マレビトの歌』公開リハーサル、圧倒的でした。

(shin)
(photos by aqua & shin)

1年半振りのインスタライヴで語られた『アルルの女』と『ボレロ』♪

2025年7月15日(火)の夜20:00から、金森さんと井関さんが1年半振りのインスタライヴを行い、2日前に大好評のうちに全6公演の幕をおろした『アルルの女』/『ボレロ』公演について大いに語ってくださいました。

とても興味深いお話が聴けますので、まだお聴きになっておられない向きは、こちらのリンクからお進み頂き、アーカイヴをお聴きになることをお勧めします。

このブログでは、以下に、おふたりのお話を掻い摘まんでご紹介したいと思います。

*『アルルの女』について
○構想は大体1年前くらいからあったが、クリエイションを始めたのは、「円環」公演が終わった3月からで、黒部の『めまい』の稽古と並行して。
●原作を読み、「劇付随音楽」を見つけて「いけそう」と思った金森さんに対して、当時、その「劇付随音楽」を知らなかった井関さんの反応は芳しいものではなかった。しかし、構想と登場人物について聞いて不安は消えた。最後の決め手は複雑で重層的な原作で、オリジナルなものが作れると思った。
○テーマカラーはオレンジと黒。オレンジは人間の網膜が闇のなかで一番認識する色味だとなにかで読んでいて、『アルルの女』の世界観として「これでいける」と思った。コンセプトにあったフレームをオレンジにして、衣裳を全員、黒でいくことにした。

●黒の衣裳: 抽象度を保ちながら、物語の本質を届けるチャレンジにあって、出来るだけ単色として、色による説明を排そうとし、また、全体として「死」がテーマであり「喪に服す」意味合いや、超極彩色の花との対比も意識した。
○衣裳・井深麗奈さん: 井関さんの踊りのファンで、ポートフォリオを送ってきてくれていた。和と洋のミックス、あまり語り過ぎないが、ディテ-ルや繊細さがあるもので、「合うんじゃないかな」と今回初めてお願いしたが、良かった。

●井関さんが踊った「母親」: 昔なら「母親」っぽさ、ある種の具体性とか考えがちだったが、 今回は考えなかった。その裏にあって一番大きかったのは、「演出振付家」(金森さん)への信頼。わざわざ自分がそこに何かを付け加えなくても、何者かになろうとしなくてもいいと。ただ、ディテールを深めて、与えられたものの中でどうやって生きるか。
○「演出家」として、物語や役柄を伝えようとする際に、大切なのは「関係性」。社会的な記号としてではなく、関係性によって「母親」に見えることの方がより本質的。
●こういう家族構成の作品を創ろうと思ったことには、今のNoismのメンバー構成やタイミングがあったのは間違いない。

*『ボレロ』について
○「映像舞踊」ではない『ボレロ』は1年半前のジルベスターコンサート(新潟)が初めて。やる度に構成が少しずつ変わってきている。
●たった15分なのに、「しんどい」。(井関さん)
○金森さんが井関さんに言ったのは、「絶対死ににいっちゃいけない」、それを肝に銘じた。「踊り切って、全身全霊、エネルギーを使い果たして終わる」ことで届けるのは、実演家の自己満足で妄想。「死ににいく」ことで削がれてしまうディテールも物凄くある。コントロールし、制御し、観客の中で「燃え尽きた」ように見えればいいのであって、「芸」の本質としては「燃え尽き」てはいけない。そして今回、敢えてそう言ったのは、「生き方」「死に方」を見つけるのかどうか見ていたかったから。案の定、時期ごとに色んなアプローチをしていて、「ああ、いいなぁ」と思った。演出家としては舞踊家を見て気付くことも沢山あり、それは欠かせないこと。井関さんが見つけていっているものを金森さんも見つけていっていた。
●「再演」: 自分がやったことは自分のなかに残っている。前回、「サラダ音楽祭」で、金森さんから「よかった」と言われ、なにか脳味噌に残っていて、そのときの自分の状態にすがって、リハーサルが始まり、まずはそこにいくことを重要視した。金森さんはそのアプローチは違うなと思ったので、「違うと思うよ」と言った。
○今回の『ボレロ』での、金森さんによる井関さんの「観察」の最終過程、「最終章」は次、来月の「サラダ音楽祭」。そこまでがワンセット。
●昨年、ライヴで都響(=東京都交響楽団)とがっぷり四つで、(「死ににいっている」)素晴らしい実演があり、録音でのアプローチで色々見出した今回があり、それを踏まえて、再びライヴで都響とやるときにどうなるか。

○「『ボレロ』は終わったときに息切れてちゃ駄目だよ」(金森さん)に対して、「あの作品で息が上がらないって、どういうことだろう?」、でも考えても無理だと思った井関さん、次の日に、考える前に、身体がそのイメージを掴んでくれていた。「あれっ、息がほとんど切れていない」。頭で考えることを止めない限り、そこには行けない。
●最初、闇のなかで待つ時間が長い。3分くらいの感覚。身体の輪郭だけが見えて、あとは空っぽの状態で立っている状態で、考える必要がないってことと理解。
○「ゼロ・ポイント」(金森さん): そこにいるってだけのために必要最低限のエネルギーで、思考も呼吸の意識もなく、邪念もなく、ただそこにポッとある状態。一回、「しんどさ」がわかると、記憶があるために、やる前から「しんどさ」が来て、そっちに引っ張られがちになるのだが、経験も記憶も何もない「ゼロ」の状態に持っていくのは一番目指すところであり、一番難しいところ。でも、それが掴めたら、あらゆることが「初めて」になる。
●『ボレロ』はゆっくり始まるから、点で、何かがよぎる。それをなくすことは絶対無理だが、そこに留まらないで、過ぎていく感じがあるのは、「再演」を重ねてきたお陰。
瞬間に色々なことが起きているのだが、ずっと流れていて、終わったあとに「あれは何だったのだろう?」と。(井関さん)→「自然。全ては流転する」(金森さん)
○(観世寿夫さんの本『心より心に伝ふる花』を手にした井関さん)「自然」という言葉を、昔は「ふと」と読んでいたと。自然は流動的であり、何かに留まろうとするから、苦しいのだなと。
●自然なままに生きる感受性の強い身体であるためには鍛錬が必要であり、鍛錬は自然ではない。しかし、舞台上では鍛錬したことにしがみつくのではなく、全部捨てて、ぽおんと自然のままの状態的にいること。(金森さん)
○舞台上で「立つ」ことは本当に怖いこと。ピラティスで「立つ」ことを学んできたため、怖さは一切なかった。それが自分の中では鍛錬だった。心が落ち着いたということではなく、単純に体重をかけて、どこにアライメントをおいて、立っていることが。(井関さん)
●脳味噌は不思議。自分で翻弄して、自分でびびって、自分で悩んで、自分で解決している。(金森さん)

○井関さんから金森さんに質問、「見ているときって緊張するの?」: 『アルルの女』では見ているシーンの多かった井関さんは「頑張れ、みんな!」と緊張したというが、金森さんはどんどん緊張しなくなってきたという。若い頃は、自分の思う「100%」みたいなものがあり、「みんなミスしないように」と緊張していたが、今は自分が想定する「100%」というのが如何にレベルの低い話かと経験上わかってきているので、逆に、どう想像を超えてくれるかなと期待をして見ている。(金森さん)→それを聞いた井関さんも、自分に対しては全く同じで、集中はするが、緊張はしなくなって、どう超えてくれるかなと自分に期待していると。「経験だと思う」で一致したおふたり。

Q:今回の公演は観客の熱気が特別凄かったと感じた。それについては?
 -A: 「こちら側もそう感じた」、と井関さん。「特に関東であんな感じになるって、そんなにない」と金森さん。井関さん、「有難かった」
Q:ステージからはどうでしたか?
 -A: (井関さん)「ステージからは結構感じた。(Noismの)お客さんは見ているときのエネルギーでわかり易い。上演中に『これは届いているな』とか、『きょとんとしているな』とか」
Q:(金森さんから)最も「きょとん度合い」高め、引っ張れてない感覚があったのは?
 -A: (井関さん)「引っ張れてない」というより、「ふわっとした」感覚があったのは、『Der Wanderer - さすらい人』と『鬼』。時と場合、公演場所による。(井関さん)
コメント: 3公演観ても足りないです。
 -A: (井関さん)「Noismは何回観ても面白いって言ってくださるからね」
Q: 配信とかライヴとかはやらないのですか?
 -A: (金森さん)「ないですね」 
     (井関さん)「なるべくしたくない。やはり生(なま)で。でも、自分たちが死んだりしたら、配信して貰ってもいいと思う。今現在、生(なま)で出来ているのだから、今一緒に生きたい。でも、死んでしまった後は、金森穣という人の作品を色々な人に観て貰いたいので、いっぱい配信してもいいと思う」
     (井関さん、鈴木忠志さんの本『初心生涯 私の履歴書』(白水社)に出てくる「今生きている人の賞は貰わない」に触れながら、)「今、完結されてしまうことに否定的になってしまう」
     (金森さん)「俺はどうでもいいけど」

*今回の『照明』について
●「片明かり」とか増やした。「御大」(=鈴木忠志さん)からの言葉も自分のなかにあったし、「額縁」のなかの(カラバッジオみたいな)ルネサンス絵画(静止画)みたいなものを考えたときに、あの時代、ドラマチックな絵を産むときに、明かりの方向性は重要だった。フラットにならずに、敢えて強めに、片側だけ強めにした。(金森さん)→「初めてだった。面白かった」と井関さん。
○表情: 昔の日本画では、女性はみんな同じ表情をしていた。それはそのシチュエーションで表情で語らせる必要がなく、観る側が表情を想像することが出来た。表情は見えなくても、その時の身体の在り方と美術や人との関係性の在り方とで、その人がどういう表情をしているかは観客はわかる。(井関さん)→その時々の重要な人物への明かりの当て方、バランスは気にした。(本当に大事なところは顔が見えなくても伝わる。)(金森さん)

Q: 音楽とは何か?
 -A: (金森さん)人類が生んだ最高のものじゃないですか。

終わり間際、残り時間も極めて少なくなったなか、金森さん(と井関さん)から、Noismの次の公演は来月、利賀村での『マレビトの歌』であり、それを上演する場が鈴木忠志さん率いるSCOT「50周年」となる夏のフェスティバルであること(かつ、前掲の近著『初心生涯』の素晴らしさ)が触れられ、次回インスタライヴについても、その利賀村の後、「サラダ音楽祭」の前に、「今度は近いうちにやります。さよなら」と、この日のインスタライヴは終わっていきました。

…こんなところをもって、ご紹介とさせて頂きます。それではまた。

(shin)

暗闇の先の光芒(サポーター 公演感想)

「黒部シアター2025春」でのNoism Company Niigata『めまい − 死者の中から』を、5月17日(土)、18日(日)の両日鑑賞した。

昨年8月「SCOT SUMMER SEASON 2024」での初演時、アルフレッド・ヒッチコックの大傑作映画や、ボアロー&ナルスジャックによる原作『死者の中から』に基づく金森穣演出と舞踊家達の気迫が、新利賀山房の漆黒の空間に炸裂し圧倒されたことは記憶に新しい。先日、りゅーとぴあ・スタジオBで開催された活動支援会員向けリハーサルでの通し稽古では、会場となる前沢ガーデン野外ステージを想定しての空間を広々と使った構成の変化や、バーナード・ハーマンの楽曲と舞踊とのシンクロの深化、更に「探偵」役・糸川祐希さんの表情・身振りの躍進に唸り、リハーサル後にバッタリ遭遇した金森さんに感想を伝えたところ、嬉しげに「金森作品は何度も観てもらうことで理解が深まりますから」と返してくれたものだ。

今回の黒部シアター公演は、当初雨天が予想され、刻々と変化する天気予報を直前まで追い続けたが、両日共に雨は降ることなく、安堵する思いだった。18日(日)も、16時発の会場行きシャトルバスに乗り込み、開演までの約2時間半を胸高鳴らせつつ過ごした。前沢ガーデンゲストハウスでは、金森さんが旧知と思しき方々と歓談しており、私もご挨拶。更に鈴木忠志氏始めSCOTメンバー、浅海侑加さんや準メンバー、金森さんのご両親もお見かけした。ゲストハウス二階のSCOTに関する展示コーナーでは、23・24年のNoism公演全編が上映されており、改めて前沢ガーデン野外ステージを活かしきった舞踊作品の凄みに気付かされる。

19時の開演直前、利賀新山房では板付きだった井関佐和子さんの「女優」が舞台下手から登場し、虚無とも蠱惑的とも見える表情で中空を見つめる。その視線を見つめ返すことに恐ろしささえ覚えつつ、定刻に舞台は始まった。

「女優」と「亡霊」、横暴な「男Ⅰ」・「男Ⅱ」、「双子」、更に分裂する机や椅子。いくつもの「相似」するイメージに加え、野外ステージ背後の小高い丘を照らす紫の照明と、幻のようにその頂から現れる「亡霊」には、彼岸の光景が現前に現出するようで、感涙を禁じ得なかった。舞踊家の身体とバーナード・ハーマンの楽曲、小道具、照明がピシリと噛み合う舞台には、ヒッチコック作品冒頭のソール・バスによるタイトルバックにも通じる洗練を感じ、ため息さえ漏れた。

関東から来られたNoismファンの方々とも感想が一致したのが、舞台終盤「金髪」に妄執する「探偵」を襲うブロンドの鬘をまとった男女の場面の凄まじさだ。眼前の女性ではなく、「概念」に囚われた男の脆さを突き付けるエログロを視覚化する金森演出に、初期Noism作品の性と暴力のニュアンスを懐かしく想起させられた。

照明も相まってその透き通るような白い肌から醸されるエロスと、妖艶と冷徹を自在に往来する表情で、「男から求められるものを演じる女優」を体現しきる井関佐和子さんに魅了されたのは勿論だが、やはり糸川祐希さんの「探偵」の迫真は今回の公演の収穫だろう。堂々と井関さんに対峙しつつ、終盤「事の真相」が明かされた後の後悔・憤り・慟哭を全身で表現する糸川さんの演技には思わず落涙した。

18日(日)公演では、これまで「亡霊」(映画版のカルロッタ)を演じてきた三好綾音さんに代わって、兼述育見さんがダブルキャストで登場したが、三好さんとはまた違う伸びやかさと儚さで、冥界の存在を見せていた。

改めて思うのは人間の心の闇や脆さを直視し、芸術作品に昇華仕切るNoismと金森穣作品の得難さだ。社会に厳然としてある「不条理」を無きことにし、「明快さ」だけを求める現代社会に疲弊している者は、筆者だけではないだろう。人間の底知れない暗部を苛烈なまでに見つめ、其処に美と光明を見出す芸術の力に、生きる糧を与えられるようであった。

終演後、舞台に立った金森さんは「今日も空席が目立ったのは、私の未熟さ。見巧者とされる人から評価を得ても、それがより広く届かないことは課題」としつつも、師匠・鈴木忠志氏のSCOTや黒部シアターへの敬意、今年10月のスロベニア公演など「世界へ向けた闘い」を力強く語り、大きな拍手が巻き起こった。

これからの利賀や黒部での公演は勿論、Noismの「闘い」を応援し続ける為に、観客である私もまた新たな闘志を授けられたように思う。

久志田 渉(新潟・市民映画館鑑賞会副会長、「安吾の会」事務局長、舞踊家・井関佐和子を応援する会「さわさわ会」役員)

「黒部シアター2025春」、前沢ガーデン屋外ステージで観た『めまい ― 死者の中から』初日公演に痺れる♪

2025年5月17日(土)、朝に雨が降り、風も吹く新潟市を出発して、『めまい - 死者の中から』が上演される富山県黒部市の前沢ガーデンを目指して、車を走らせました。富山県に入ると、やや天気は好転したものの、時折、強風に煽られて叩きつける雨粒に屋外ステージでの公演のことを案じたりもしていました。それでも、受付が始まる夕方迄には雨はすっかりあがり、心配は杞憂に終わって、胸をなで下ろしたような塩梅でした。

昨年8月(SCOT SUMMER SEASON 2024)に利賀村は新戸賀山房でその初演を観た金森さんの『めまい』は、ヒッチコックの同名映画(そこにはサンフランシスコの街路や金門橋といった「抜け感」のある「屋外」シーンもあるにはあるのですが、)同様に、「密室」での奸計、謀略の色彩が濃厚でしたから、黒く太い角柱が死角を産み、影と光のコントラストが強烈な印象を残すその山房のために創作された作品という印象が強く、「まさか、屋外で!?」「一体どうなるのだろう!?」と強く興味を掻き立てられたのは、私だけではなかった筈です。

18:40に整列して、円形の屋外の円形ステージ客席に移動し、腰を下ろすと、もう開演時間です。舞台下手(しもて)側から毛皮を纏った井関さん〈女優〉が姿を現すと、舞台中央に置かれた机と椅子に向けてゆっくりと歩みを進めます。腰掛けた井関さん、瞬きも身じろぎもせず、その右手は、後ほど登場する三好さん〈亡霊〉と同じポジションです。井関さんはまったくの不動なのですが、そこは屋外、そよぐ風が井関さんの衣裳の脚部を揺らしています。そこに山田勇気さん〈男Ⅰ〉がやはり下手(しもて)より登場して、物語が動き出します…。

舞台の奥に広がる「借景」(金森さん)は緑の丘。その手前、舞台との境界には赤いチューリップの花が一列に配され、此岸と彼岸を画するのか、それとも繋ぐのか。気付くと、丘をゆるやかに移動する薄青色の三好さんの姿。見るからに彼岸、或いは冥界。雰囲気たっぷりです。

そしてその丘。冒頭、その斜面にはこれも下手(しもて)側から赤紫の照明が放たれて縞模様を描いています。不穏な印象を掻き立てられるのは、無論、「横縞」と「邪」の濁点の有無という音の近似性からではなくて、自然に対して人為的になされた「装い」(照明)が「偽り」の性格を帯びてしまうことの故かと。

そうです。この作品のそこここで目に飛び込んで来るのは、まさしく、偽って装うことであり、それと絡む夥しい二重性、そして反復の禍々しさなのです。見詰めることになるのは巧みに仕組まれた「犯罪」。偽って装うことそのものです。

対して、対極には自ら装うことなく、ただある自然。例えば、晴れること、或いは、雨が降ること、風が吹くこと等々を含めて、一切装わず、単純で揺るがないもの。自然のそうした側面は、今作に先立つ屋外上演の『セレネ』2作にあって、「悠久」といったものへと拡大していくベクトルが濃厚だったのに対して、今回の『めまい』においては、人の奸計や謀略といったもののスケールの卑小さを際立たせ、強調していくように映じます。その意味で、この『めまい』における自然は、巧緻にあの「犯罪」が仕組まれる「密室」、或いは「閉鎖性」を浮かび上がらせて余りあるもの、そんなふうに言えようかと思います。何という逆説でしょう!痺れてしまいました。そしてそれはまた、井関さん、山田さん、そして糸川さん〈探偵〉をはじめ、出演した9人揃っての息のあった、一分の隙もない熱演あって初めて細部まで鮮明に可視化されるものであることも言を俟たないことでしょう。異様な緊迫感を湛えた約一時間の舞台、その見事だったこと!ここまでそれに触れずに書き進めてきたことの非礼はお詫びするより他にありません。本当にすみません、と。

雨上がりの湿気が照明を燻らせ、「犯罪」や「悲劇」を恐ろしいほどまでに美しく呑み込んでいきました。嘲笑いでもするかのように泰然と。立ち竦むしかない探偵…。

終演後、昨年と同様に、黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会・堀内会長が舞台にあがり、「委員長としての一番の仕事は天気が晴れるよう祈ること」とのつかみで笑いをとって語り始めると、「この環境で、同じ風を感じながら舞台を観たことは素晴らしいことだった」とこの日の舞台の感想を語りました。

その後、堀内会長に促されて、金森さんが今年も登壇。2年前に同じ前沢ガーデン屋外の円形ステージで発表した『セレネ、あるいはマレビトの歌』をもって、5ヶ月後にスロベニアへ行く予定があり、「黒部から世界へ」の一歩を確かに刻めることや、今年50周年を迎えるSCOTの「聖地」利賀村、今年もそこでNoismの公演も予定されていることなどを紹介すると、その都度、客席から大きな拍手が湧き起こります。更に、緑の「借景」を背景とする今回の『めまい』について、昨年の新戸賀山房でのそれとは「こうも違うものか!」との印象を持って貰えたものと思うとも話されました。そして「まだまだこのへんに空席があるので、明日もまた足を運んで欲しい。当日券もあります」と(ユーモラスかつシリアスに)付け加えることも忘れなかった金森さんです。

まず亡霊が、次いで女優も手にし、探偵が翻弄されていく赤いチューリップ。割りと健康的なイメージのある花ですが、「鬱金香(うっこんこう)」と漢字表記にしてみると、途端に、金森版『めまい』において説話論的機能を担った、「メタフォリカル(隠喩的)」な空気感を芬々(ふんぷん)と漂わせ始めるように思います。そして更に、その花、舞台上、彼岸と此岸を越境し、「犯罪」に絡んで、あたかも愛憎をともに起動する装置のように、手から手へ移動しただけでは足りずに、舞台を離れては、奇しくも富山と新潟とがそれぞれにその「県花」としていたりするものでもあります。そこにもまたひとつ二重性が認められること。そんな細部、果たして偶然なのでしょうか。

まだまだ刮目され、読み解かれることを待つ細部に溢れた『めまい ― 死者の中から』。(個人的には、特に前半部分、そんなふうに感じます。)観終えて後、今もなお、痺れています。そして同時に渇望してもいます。もっともっと繰り返して観る機会に恵まれることを。

(shin)

「漆黒の中の蠱惑」SCOTサマーシーズン2024 Noism『めまい 〜死者の中から』二日目レポート(サポーター レポート)

*冒頭、8/28夕時点で九州南部に接近し、猛威を振るう「過去最強クラス」の台風10号の被害に遭われた方々に対し、心よりお見舞いを申し上げますと同時に、今後、西日本・東日本を縦断する可能性も報じられるその進路において被害が少ないことをお祈りいたします。(NoismサポーターズUnofficial事務局)

 私にとって、2019年9月の「第9回シアター・オリンピックス」Noism0『still / speed / silence』以来、5年ぶりとなる富山県南砺市利賀村行き。8月23日(金)には富山市に入り、24日(土)・25日(日)の2日間、連絡バスで利賀村迄2往復して、Noism『めまい』2公演に加え、鈴木忠志演出『シラノ・ド・ベルジュラック』『世界の果てからこんにちはⅠ』、瀬戸山美咲演出『野火』の計5公演を鑑賞した。

 映画ファンの端くれとして、10代の頃にヒッチコックの諸作を観、特に圧倒されたのは『めまい』だった。年を重ねた後、シネ・ウインドのスクリーンで『めまい』を再見した時には、若い頃には気付けなかったキム・ノヴァクの肉体が放つ凄まじい色香に、それこそ目眩を覚えたことを思い出す。

 そのヒッチコック作品の原作であるP.ボアロー&T.ナルスジャック『死者の中から』を基に金森穣さんが舞台化すると知った時の驚きたるや。19年に鈴木忠志氏のトークを聴いた利賀芸術公園「新利賀山房」の漆黒の空間を思い起こしつつ、どのような舞台が展開されるか期待に胸膨らませた。

 24日の公演後、野外劇場での『世界の果てからこんにちはⅠ』で隣合わせた金森さんと井関佐和子さんに、「『still / speed / silence』といい、利賀でやる作品は男が女を束縛しようとする話が続きますね」と伝えたところ、金森さんも苦笑されていたが、冗談抜きに、男が欲情し、幻想を託す「女性性」を「演じる」こと自体を、素顔から蠱惑的な表情への変化始め、全身で見せきる井関さんと、バーナード・ハーマンの馴染み深い音楽やシンプルな小道具を駆使しての高低差表現、照明の鮮やかさまで唸るばかりの金森さんの構成力には、惚れ惚れするほどに酔った。

 翌25日、利賀へ向かう連絡バスは、狭隘な山道で豪雨に遭遇した。幸い利賀に着く頃に雨は収まり晴れ間も覗いたが、この道程を越えれば今日もまた『めまい』の濃密な時間に立ち会えるなぁと、その凄絶な甘美を思い出して、山道の恐怖に耐えたものだ。


 二日目の『めまい』、新潟は勿論、関東方面から足を運んだNoismファンの方々始め、世界各国からのお客さんも含めて前日同様の大入満員。巨大な茅葺き住宅を改装した「新利賀山房」の客席に坐ると、眼前には金髪のウィッグを付けた井関さんが、瞬きすることなく虚空を見つめている。その恐ろしくもあり、妖艶でもある眼差しには、直視することを躊躇ってしまう(地元の方と思しき観客の方が、「ずっと瞬きしないぞ」と驚きの声を上げていた)。

 漆黒の「新利賀山房」で展開する、死者の幻影と生身の肉体との相克。特筆したいのは、探偵(映画版ではジェームズ・スチュアート扮する元刑事)役の糸川祐希さん、ヒロインである女優(井関佐和子さん)が追い求める亡霊に扮した三好綾音さん始め、難役に挑んだ若きNoismメンバーの表情豊かな演技だ。失ったと思った女性への執着とその果ての狂気を、鬼気迫るように見せた糸川さんは、初日以上の迫真を感じさせた。井関佐和子さん・山田勇気さんの感情・身体表現の巧みさはNoismの中核だが、若き舞踊家たちもまた、金森作品の凄絶な美を表現する為に喰らいつき、その成果が実りつつあることを確信している。


 この公演に続いて鑑賞した瀬戸山美咲演出『野火』(利賀山房にて)もそうだが、鈴木忠志が築き上げた「利賀芸術公園」という、演劇の桃源郷とも呼びたい異空間に於いて、金森さんも瀬戸山氏も、そして出演者・スタッフが、劇場の漆黒を如何に照らしだし、活かしきり、観る者たちを安全圏に置くことなく没入させる為に尽くしている渾身に思い至る。舞台で展開される凄絶な物語を越えて、人が生み出すものの「美」に強く勇気付けられたのだ。鈴木忠志氏の作品と営為は正しく「過剰」なパワーを発しているが、その「過剰故の余白」が利賀にはあるからこそ、演出家たちの本質が浮き彫りになることに気付いたように思う。

 利賀の地、そして鈴木忠志を更に深く知りたいと渇望するような滞在となった。

(新潟・市民映画館鑑賞会副会長、舞踊家・井関佐和子を応援する会役員 久志田渉)

「SCOT SUMMER SEASON 2024」、新利賀山房にて『めまい ~死者の中から』初日を愉しむ♪

 2024年8月24日(土)の富山は前日ほどではないものの酷暑の予報。更に午後には雷雨の可能性も高いとのこと。穏やかな天気となることを願って、朝早く新潟を車で出発して、利賀芸術公園を目指しました。

 この日、車のナビもスマホのgoogle先生も富山ICからの利賀入りを推していたため、それに従いましたが、待っていたのはつづら折の狭い狭い山道で、それこそ生きた心地がしないウイリアム・フリードキン『恐怖の報酬』(1977)のようなドライヴ。ちょっと大袈裟?いや、マジで。ホントのホント。
 「えっ?前はそうでもなかったんだけどな…」以前に来たときには砺波ICから利賀に入るコース(国道359→国道471→県道229)だったのですが、そちらの方が運転してて、格段に楽なので、ルートを思案中の方には、私、迷わずそちらお勧めします。

 でも、そのような思いをしてまでも観たかった、そして観てよかったのが、金森さん演出振付の新作『めまい ~死者の中から』でした。

 開演時間は14時。受付開始はその1時間前でしたが、入場整理番号は既に電話による観劇予約の順番で割り振られていますから、示された整列開始時間までに受付を済ませて会場前に並べばよい訳です。

 今回、その会場は新利賀山房。金森さんは「狂気の生まれる場」と書いていますが、まさしく「禍々しい」と言ってよいような、圧倒的な「場」の力を宿す建物でした。外観は合掌造りの所謂「和テイスト」そのものですが、中はガラリとその雰囲気を異にします。凹凸があり陰影に富む表情豊かな壁の手前、横長に広がる空間(アクティング・エリア)。そこに敢えて不可視の領域を作り出さんとでもするかのように突き刺さる角ばった黒い2本の柱の存在感。そして照明に(逆に)浮かび上がるかのような闇。のし掛かかってくるその威容に観客は一瞬にして飲み込まれてしまわざるを得ません。

 その威容に一歩も引けを取らない濃密な舞踊を私たちは目撃したのでした。それはまさにその「場」だからこそ生まれた圧巻の作品だったと言えるでしょう。

 金森さんは「演出ノート」に、今作(そのタイトルも途中から『めまい』ではなく、『めまい ~死者の中から』に変更されています。)が、あくまでもボアロー=ナルスジャックの原作『死者の中から』にインスピレーションを得た制作であると書いていて、ヒッチコックの映画『めまい』に関する言及は使用音楽について見出されるのみと、極めて限定的なものでしかありません。「女優(井関さん)」と「探偵(糸川さん)」をめぐる展開に関しても下敷きにされたのがどちらかは明らかでしょう。

 では、こう考えてみるのはどうでしょうか。『死者の中から』からインスピレーションを得て作品を作った者がふたりいて、私たちはふたりによるふたつの作品を愉しむ豊かさを手にしている、と。

 今回の井関さんも、いつも通り、冒頭からまったく見事な存在感を示しており、目は釘付けにされるでしょう。その点ではヒッチコック映画のキム・ノヴァクも同様です。違うのは、監督と演出振付家からふたりへの「愛」が感じられるかどうかです。その点で、映画『めまい』において、観客はキム・ノヴァクではなく、ジェームズ・スチュアートにシンパシーを感じながら見詰めることになるのですが、金森さんの『めまい~死者の中から』にあっては、そこは間違っても、糸川さん寄りの目線にはならない訳です。ですから、伴って、新利賀山房の私たちはあたかも「男Ⅰ(山田さん)」の共犯者のようにして事のなりゆきを見詰めていたのでしょうし、まあ、少し控え目に言っても、「未必の故意」的な心持ちでその推移を目撃し続けるのだろうことくらい最初から予見できてしまう恐ろしい「場」に身を置いていたとは言えるのではないでしょうか。

 で、同じひとつの原作から生まれたふたつの作品に認められるそうした味わい或いは肌合いの違いはまさしく互いに相照らすことで豊かさを増すものでもあり、私たちはここで「2」という象徴的な数字を前にすることになります。「2」の象徴性は、まさしく金森さんが今回の作品のあちこちに(岩波書店「思想」2024年第8号風に言えば、「過剰に」)散りばめたものです。「1」は自立し得ないとでも言うかのように…。

 その「場」の凄さを構成する要素のひとつに照明があることに異を唱える者はいないでしょう。で、その照明スタッフとして、金森さん、丹羽誠さんふたりの名前に先立ち、先頭に「御大」鈴木忠志さんの名前も見られるのです。これからご覧になる方は、凝りに凝った照明もご期待ください。

 …とまあ、ネタバレしないように気を配りながら、あの「場」で、そしてその後、私が個人的に感じたことを書いてきました。あくまでも個人的な感じ方に過ぎません。しかし、観終えたら、「はい、おしまい」で済むような作品ではないことは確かです。初日をご覧になられた皆さんの目にはどのように映り、どのように感じられましたでしょうか。とても興味があります、ハイ。

 あと、この日の利賀のことをもう少しだけ。作品に圧倒されて、新利賀山房を出ると、予報通りというか、雷鳴が轟くではありませんか。夏そのものの濃い青ではなく、舞踊作品に浸っているい時間のあいだに、すっかりグレーにその色を変えてしまっていた空がまるで突然に破けでもしたのではないかと思うような凄まじい雷鳴が、すぐ頭の上で聞こえたのでした。その後、やはり(!)雨も降り出します。これらも金森さんの演出か!?そんな感じでした。

 不穏な作品に不穏な天気が追い打ちをかけてくるのです。でも「怖い思い」はもうたくさん。帰りは車のナビで「砺波IC入り口」を検索して、車を走らせることにしました。県道229号線方向に左折すると、目の前にトンネル!見覚えがあります。思い出しました。そうそう、この道、この道!そこからの帰路はあまり怖い思いをすることもなく、新潟を目指すことができました。『めまい ~死者の中から』の余韻を『恐怖の報酬』で上書きすることなしに、です。蛇足でしたが、ご参考まで。

 以上、少し歩くだけですぐに汗が噴き出す暑さはあっても、蜻蛉も多く飛び交い、一足早く、確実に季節の移行も感じさせるこの時期の利賀芸術公園、『めまい 〜死者の中から』初日レポートとさせて頂きます。

(shin)

SCOTサマー・シーズン2024 Noism0+Noism1『めまい』公開リハーサル♪ ~ヒッチコックとトリュフォー、キム・ノヴァクのことなども~

 2024年8月11日(土)、夜には新潟まつりの花火が打ち上げられるこの日、白山公園駐車場は一部終日閉鎖されていたりしたこともあり、車で駆け付けるのもなかなか容易ではなかったような事情もありましたが、そんななか、りゅーとぴあ〈スタジオB〉にて、12:30から正味1時間、たっぷり『めまい』の公開リハーサルを見せて貰いました。

 今夏「SCOT SUMMER SEASON 2024」の公式チラシに読める今作の紹介には「ヒッチコックのサスペンス映画『めまい』の原作となっているボアロー=ナルスジャックの小説『死者の中から』にインスピレーションを得て制作される作品。自他の境を見失っていく人間の様態を踊る」とあり、映画『めまい』に魅了された者としては興味を惹かれない筈がありません。

 そのピエール・ボワロー&トマ・ナルスジャックによる原作小説『死者の中から』についてですが、フランソワ・トリュフォーが敬愛するアルフレッド・ヒッチコックに行った50時間に及ぶインタビューを収録した名著『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(1981)(*註)のなかに、同小説がヒッチコックに映画化されることを念頭において書かれた数篇の小説のひとつであり、その映画化権をパラマウント社がヒッチコックのために買い取ったという事実がトリュフォーの口から語られるのですが、ヒッチコックは自身を巡るそうした経緯をまるで知らなかったことが読めます。(同書pp.249-250)

 続けて、トリュフォーがその小説のどこに惹かれたのか訊ねると、ヒッチコックは、「主人公が、死んだ女を生き返らせようとするところ、生きている女を死んだ女のイメージに重ね合わせて愛してしまうところ」(同p.250)と答えています。

 しかし、ヒッチコックのその『めまい』(1958)は、本来、ヴェラ・マイルズ主演で構想されたものの、彼女の妊娠がわかり、それを断念。キム・ノヴァクを主演に据えて撮影されることになるのですが、撮影前のそんな事情もあって、「映画のリズムがうまくつかめなくなってしまった」(ヒッチコック)として、ヒッチコック自身からの同作及びキム・ノヴァクに対する評価が低いことにも触れられています。(同pp.254-255)

 また、それに関係して、もうひとつここで触れたいと思うのは、映画『めまい』を観ていると、ヒッチコックのキム・ノヴァクに対する「距離」或いは「隔たり」が否応なく感じられるということです。同作に起用されたキム・ノヴァクの素晴らしさはトリュフォーも言及している通りで、間違いないことなのですが、他のヒッチコック作品における監督から主演女優に捧げられる「愛」とも呼ぶべき親密さが目に映ずることはありません。(個人的な印象ですが、的外れではないと確信しています。)映画って怖いなぁと…。

 そんな色々な経緯がありながらも、ヒッチコック自身のために書かれた小説を本人自らが映画化した訳ですが、ブロンドのマデリンとブルネットのジュディ(キム・ノヴァクの二役)がそれぞれ登場する前半と後半の「間」に、ヒッチコックは(周囲には猛反対されたと明かす)作品構成上の大きな改変を差し挟んでいます。彼の慧眼はそのことによって心理的なサスペンスを導入することに成功したのでした。
 「はてさて、金森さんはそのあたりどう処理して表現していくのだろう?」興味は尽きませんでした。否、正確には、そこが気になって仕方なかったと言うべきだったでしょうか。で、基本的にはストーリーを踏まえつつ、「なるほど、そうなのか!」という舞踊作品に仕上がっています。

 さて、その金森さんと井関さん、そしてNoism0+Noism1(浅海侑加さん、樋浦瞳さんは出演されないようですが、)による舞踊作品『めまい』です。監督と主演女優の間の葛藤は、当然、ここには存在しません。
 金門橋をはじめ、サンフランシスコのランドスケープを背景に、自動車で経巡る迷宮めいた街路や霧など効果的に用いて展開されるヒッチコック作品に対して、金森さんの舞踊作品版は、自他の間に横たわる「2」という数を随所に象徴的に用いながら紡がれていきます。で、キム・ノヴァクが演じた役どころは井関さんと三好さんが担い、痩身ジェームズ・スチュアートについてはやはり似た体つきの糸川さんがそのイメージを引き受けつつ、情感豊かな熱演を見せてくれます。

 舞踊作品ですから、展開されていく舞踊を観るのが本筋な訳で、原作(や映画)のストーリーに過度に頓着・執着するべきではありませんが、やはり文化史的な「教養」の一部としてヒッチコックの映画は観ておいた方がよいかなとは思います。未見の方はこの機会に是非ご鑑賞ください。

 たっぷり全編を見せて貰って、13:30、この日の公開リハーサルは終了しました。1時間ものの大作です。観終えて圧倒されている私たちに、「いつにもまして皆さんシーンとしていますね」と笑って切り出した金森さん。「このあいだの20周年記念公演のあと、こんな作品を作っていたんです。16日には利賀に行きます。(Noism0とNoism1)みんなで行くのは初めてですが、その経験も必ず今後に活きると思いますし、活かしていきます」と今後の展開も視野に収めつつ力強く語りました。

 「Noismの公演(『めまい』)は完売ということなので、またどこかで」そうも語った金森さん。この意欲作、ほぼ2週間ののち、利賀村の新利賀山房でご覧になられる、その意味で「幸運な」方はどうぞ期待してお待ちください。

 私はエサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルス・フィルによるバーナード・ハーマン映画音楽集CDに収められた『めまい』の音楽をかけて、今日の余韻を楽しみながら、花火までの時間を過ごすことと致します。

(shin)

【*註】この『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(山田宏一・蓮實重彦訳:1981・晶文社)という本には、ヒッチコックがイギリスから移り住んだアメリカにおいて、偉大な「映画作家」と看做されることなく、単なるサスペンス映画の「職人」として不当に低く評価されてきたことを看過できなかったフランスのトリュフォーが、「映画作家」としてのヒッチコックの真価、その凄さをアメリカに逆輸入・再評価させるための「教育」或いは「啓蒙」の書として企画されたものという側面もあります。
 また、ヒッチコックの『めまい』(1958)に関しても、現在では映画史に残る名作の呼び声を欲しいままにしていますが、公開当時は興行的な成功を収めることがなかっただけでなく、同作に対する評価が真に高まりを見せるのも後年になってのことです。 (shin)

岩波書店「思想」(2024年第8号)、鈴木忠志さんへの熱い思いを綴る金森さん♪

皆さま、先月末(7/31)に金森さんがXで呟いていましたが、鈴木忠志さんを特集した岩波書店「思想」(2024年第8号)はもうお手にとられましたでしょうか。「SCOT SUMMER SEASON 2024」をすぐすぐに控えたこの時期に、「知」のあり方を問い、超絶硬派、ハイブローで知られる「あの」雑誌が組んだ鈴木忠志さん特集。そこに金森さんも寄稿されておられるのです。そんなことでもなければ、私にとってはなかなか手に取ることもない雑誌なのですが(汗)。

ですが、ですが、金森さんにとって、モーリス・ベジャール、イリ・キリアンと並んで、「師」と仰ぐ3人目、鈴木忠志さんの特集ですから、金森さんが寄せた9頁分の文章「過剰の思想」には、鈴木さんに寄せる金森さんの思いの熱さが溢れていて、読み応え満点なのです。

2023年の自著『闘う舞踊団』(夕書房)においても、第Ⅱ部の「6.Noismの身体性を模索する」と題された章で、「鈴木忠志の衝撃」として記されていた内容と重なるものではありますが、今回の「思想」誌においては、いつも通りの切れ味鋭い明晰な文章に溢れんばかりの敬慕の念を込めて、「師」の存在を知った際のその「衝撃」が、更に、既に自らと同じ「闘い」を経験し、紛れもなくこの国の文化シーンにおいて変革を成し遂げた道程への「驚愕」が綴られていくのです。そしてそれは恐らく、自らを照らす「希望」の光としても。

で、誠に恐縮なのですが、ちょっと私自身のことを書かせていただきます。利賀には『still / speed / silence』(2019)を観に行ったことがあり、今月の『めまい』も観に行くことにしていますが、未だ鈴木忠志さんの作品は観たことがない私です。そしてこの「思想」誌についても、ここまでに読んだ部分もまだまだ少ないのですが、頁を繰っているだけで、今回の利賀行を『めまい』だけにしたことを少し後悔する気持ちも湧いてくるほどです。その裏には、巻頭の「思想の言葉」で、柄谷行人さんの「鈴木忠志と『劇的なるもの』」なる文章が読めてしまうこともあるかもしれません。若かった頃、彼の『マルクスその可能性の中心』や『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』『内省と遡行』などを心躍らせて読み、彼が、書かれたもの(エクリチュール)をその他多くの作品たちと呼び交わすような開かれた「読み」の相において捉え、原テキストからは想像もつかないような途方もない豊かな「読み」の可能性を引き出してしまうその精緻な手捌きに大いに刺激を受けたからです。でも、そうした「間テクスト性(アンテルテクスチュアリテ)」こそ、金森さんとNoismの舞踊にも大いに見出せる要素ではないかと思ったりもして、さきの「後悔」にも繋がるのです。

私事はそれくらいにして、金森さんが同誌に寄せた文章に戻ります。その分量にして9頁の「過剰の思想」ですが、綴られた鈴木忠志さんへの敬慕は、その奥に、金森さん自身を取り巻くこの国の状況とそれに関する金森さんの問題意識を読むことができるものでもあります。その意味からも必読の文章と言えるでしょう。まだ手にとられていない方も勇気を出して(笑)、是非!

(shin)

「鈴木忠志・金森穣・瀬戸山美咲による対談」(2023/12/20)(サポーター レポート)

SCOT吉祥寺シアター公演での「対話」へ行ってきました。
舞踊と演劇に関して様々な話題が出ましたが、主に金森さんに関連する部分をレポートさせていただきます。 乏しい記憶力と書きなぐりメモが頼りゆえ、事実と違ったり、話の順番やニュアンスが正しくないかもしれない点はご容赦ください。

劇場の黒い舞台の下手から鈴木忠志さん、金森さん、瀬戸山美咲さんと並び、皆さんモノトーンの装いで、シックな雰囲気。客席には井関さんのお姿も。

まず鈴木さんがおふたりを紹介し、おふたりからも簡単な自己紹介。
鈴木さんは、これまで2人に利賀でやってもらったが、今後も何かやれたらと思う、将来を嘱望されている2人がこれから活躍するにあたり、何が問題かをどんどんしゃべってほしい、何か力になれれば、と前置き。
『闘う舞踊団』については、良く書いたなー、読む方は誰かわかるでしょ?とコメント、皆ジワッと笑い。

金森さんは、日本では劇場の中にプロの専属集団がいないこと、プロではなく「趣味」に生きていると思われがちなこと、地方では多額の税金が、限られた市民だけ、または、東京から舞台を呼ぶことに使われている…という、これまでにもお話しされていた問題点を述べ、帰国して日本の状況に失望し、海外へ戻ろうと思った頃、鈴木さんと会って作品を見て、メソッドを持ち、何十年も身体と向き合っている集団があることに驚き、理解したいと思った。
日本の演劇には、物語はあるが、役者からのエネルギー、生身の身体があることの必然性が感じられないが、SCOTにはそれがあって感動した。
Noismを20年やっても公立の舞踊団は唯一で、新国立のバレエ団もコールドは給料で生活できず、新国立が海外から呼ばれることもない、というのが現実。
国の制度を変えたい、「御大(=鈴木さん)」の背中を見ていれば、変えられると思う、とのこと。

「劇場」について、鈴木さんは、劇場には空間(建築)があって思想があるべき。能舞台がそうで、海外ではピーター・ブルック等が自分の劇場を作っている。空間に合う思想を具現化する技術は何かを考えることが必要で、日本には劇場が沢山あるが、本当の意味での劇場がない…と熱い語り。
瀬戸山さんは、演出家の目線が入っていない劇場が多く使いづらいと指摘。
金森さんは、誰のための劇場かわからないと今後も同じことになる。公平性が社会的正義となると、(誰にでも)使いやすいことが優先されると危惧。

金森さんからの、鈴木さんの舞台は身体が強いので色々な空間で上演される、という言葉を受け、鈴木さんは、自分はどこでもやれる自信があるとキッパリ。能舞台があり能役者がいるのが素晴らしい、というのではなく「軸」が重要。思考の軸・基準がなければ、身体も集団もダメになる、とのこと。

また、「劇作家」「演出家」についての話の流れで、鈴木さんは、金森さんは演出家だと思うが、まだ言葉をしゃべったことがない、舞台の言葉は日常とは異なり、簡単じゃない、と語られましたが、これから言葉を入れることに挑戦してほしいという意味なのかどうか、よくわかりませんでした。

「地域への貢献」の話題で、金森さんは、今の世の中の今の新潟で、「軸」を失わずにできることをやる。「軸」のために闘い方を捻りだし、地域貢献も必要ならやる。今は主にNoism2 が行い、金森さん自身が直接関わらなくても良い仕組みを作ったと説明。

鈴木さんは、「地域貢献」は結果であり、「人類へ貢献したい」。「地域」は政治家が考えることで、芸術家の役割は、多民族や異なる思想を持つ人々の間に共通の悩みや問題があることを示し、それに役立つような共通の思考を見いだし、1つの共同体だけでなく異質なものに橋を架けること。「日本人だけ」はナンセンスとも。
瀬戸山さんが、日本は、日本の演劇を海外へ紹介する意識がないと言うと、金森さんは、日本の演劇の作り手は、そもそも、海外と勝負できる・人類の財産となると思っていないのでは…と一言。

鈴木さんは、公共と関わる場合は税金が使われるから難しく、「アナタの金ではないから偉そうなことは言うな」と言われるのは仕方ないが、本来そこは政治家が説得すべきこと。行政が芸術を助けるのでなく、経済人・政治家・芸術家が対等でなければならない。行政サービスとしてではなく、国家政策としてやらせることが重要と主張。
金森さんに対しては、政治家はいずれ選挙で落ちるけれど、自分は死ぬまで金森穣でやるから、(政治家に)もっと闘ってくれ、と言うべき、と煽り(?)、瀬戸山さんに対しては、日本語を守るためにも戯曲は大事だから、立候補したら?と唆し(?)。

鈴木さんから、自分はやりたいことができているが、このままではダメではないかと考えている。(2人に対して)でっかい態度で発言しなさい、悪口を言えばお金が出るから…と、まさに「御大」な発言が。もちろん「悪口の基盤が重要」と釘さし。

その後、利賀を作り上げるまでの逸話(今ではNGなことも)を披露。はじめは自費だったが、そのうち知事が来て行政からお金が出るようになったとも。
金森さんは、Noism設立時は、流行りの芸術監督制度をやりたいスタッフに自分が呼ばれ、今は、現市長は前市長のやったことをやめると色々言われるから続けている。
「やってください」と言われるまでになっていないので、覚悟しかない、と。

最後に鈴木さんから、「世界はこうだ、私は天才だ」と大きなことを言った方が良い。2人とも頑張っている、きっと思いは通じる。「あれだけのことを言うからには裏に何かある」と思ってくれる、と再び激励。
瀬戸山さんは、今は萎縮したり慎重になりがちだけど、大きな夢を語るのは大事ですね、と。
金森さんは、今、刀を研いでいます、追い出される前に追い出します、と不敵な笑み。

当初、「自分は司会」と言っていた鈴木さんも沢山話してくださり、そこに思いを2人が受け継いでくれるという期待が感じられました。それを聞く金森さんが、嬉しそうだったり、照れくさそうだったり、困惑したり、慌てたり、いつもと少し違う表情を見せていたのが印象的でした。

また、若き日のご自身を「老人キラー」と称した鈴木さんによると、金森さんも「老人キラー」だそうです。何人か殺しちゃってるんですね(笑)。

質問コーナーはなしで約1時間45分、貴重なお話をたっぷりと聞けました。この日の視点は主に作り手側から。いつか観客の視点を交えた対話の場が持たれることに期待します。

(うどん)