また、演劇・ダンス専修では、教員が学生たちに観てほしいと思うダンス公演、演劇公演のチケットを購入し、学生たちが見られるようにしています。そこで、秋学期にはNoism Company Niigata による公演《境界》を取り上げました。「舞踊作品研究B」を履修している学生たちも《境界》を見に行き、課題レポートとして批評を書いて提出しました。
一方で、休憩後中の余韻もお構いなく幕の上がった『Near Far Here』。始まりから、山田うんと対称的に主導権は金森穣にあるようだ。それでも、観客は“待っていました”と言わんばかりに前のめりであった。「近くて、遠い、此処」。私たちが現代社会で見えているもの・感じ取っているものは、果たして何なのか突きつけられているようであった。舞台上に映し出されたNoism0のダンサー3人の影は、私たちが見ようとしてこなかった、あるいは関係のないものとしてきた遠いものなのだろうか。劇場に響き渡るバロック音楽に、決して負けることのない3人のダンサーの身体の運びは、一見客席との境界線を生んでいるかのようであるが、今ココに生きているということを共有し、境界線を無きものとしていたのであった。新潟に本拠地を置くNoismが県外で公演を行う意味、新潟市の様々な問題と向き合う金森穣だからこそ他人事にして欲しくない何かがあるのだろうか。バラが宙を舞う。高知公演の『夏の名残のバラ』に続いていくかのように幕を閉じた。
きたる7月、Noism Company Niigataと鼓童という、世界に向けて本県のパフォーミングアーツを牽引する「新潟ツートップ」が本格的に初共演します。双方の本拠地である新潟を皮切りに、埼玉、京都、愛知、山形と巡るツアーですが、募るその期待感の「受け皿」として、この度、強力な特設サイトがオープンしました。
後半は、金森穣の演出、振付で、Noism0の3人が出演する『Near Far Here』。真っ暗な舞台上に、白いプリーツの打掛のような衣装を纏った井関佐和子が一瞬現れ、暗転。再び白い衣装の井関が現れると、まるで空間移動をしたかのように立ち位置が変わっている。再び暗転から一瞬の明滅で現れる。それを繰り返しながら後方へと移動し、照明がつくと白いオブジェのような井関の前に、黒い衣装の金森が影のように重なっている。やがて動き出した二人が徐々に別れると、矩形の枠が現れ、山田勇気と金森が鏡に映った実体と影のように同調し、重なりながら動き、別れていく。バロック音楽の峻厳で美しい響きが舞台を満たす中で、3人の身体が重なり、離れ、ぶつかり、引き寄せ合いながら踊っていく。
様々な思いを投影しながら井関と金森がデュオで踊っていると、パーセルのオペラ『Dido and Aeneas』から「remember me」という歌詞が切なく響く哀歌が流れ、静かに幕が降りる。生が死によって引き離されるかのような静けさが漂うが、再び幕が上がると舞台一面に赤い紙吹雪が積もっている。ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』が天上から降り注ぎ始めると、三人が舞台へ進み出て挨拶をする。通常は作品と切り離されたカーテンコールが、ここでは死から再生という境界、舞台と客席という境界を超える演出になっているようだ。客電が点くと、赤い紙吹雪が客席にも降ってくる。血潮のように赤い紙吹雪が劇場中に舞うことで、観客である私たちにも境界を超えるための息が吹き込まれるように。
2作目は三好綾音演出振付「French suite #5」(出演:井本星那、庄島さくら、庄島すみれ)。3人の女性舞踊家が無音で、ピシリと動きを合わせてゆく静謐の美。白地の衣装含め、東京バレエ団によるイリ・キリアン「ドリーム・タイム」を連想する、夢のように愛おしい一瞬。そして、バッハの旋律に載って展開する庄島すみれさんのソロ→パ・ド・トロワの、躍動感と矛盾なく立ち現れる穏やかな余韻。井本星那さんと庄島姉妹が織りなす調和も相まって、バッハの楽曲に真摯に向き合った三好演出を味わう。
全5作いずれも、劇場の広さに挑みつつ、見事に観客を驚かせ、高揚へと導く 「ケレン味」と真摯さが同居していた。魔術的な演出を見せる芸術監督・金森穣さんの精神が、若き舞踊家たちの中に脈々と受け継がれていることを強く認識させられた。一朝一夕には生まれえない Noism Company Niigata、その18年の蓄積が、若き舞踊家たちを羽ばたかせているのだ、と思う。