稲田奈緒美(舞踊研究・評論)
2019年からゲスト振付家を招いて催しているダブルビル公演。芸術監督による色を鮮明に打ち出すことで、カンパニーとしての個性を獲得してきたNoismが、いわば外から血を入れることで、多様な視点を獲得し、新たな可能性を見出す機会となっている。今回招かれたのは、山田うんであった。
山田は、圧倒的な身体能力と豊かな感性を持つメンバーで構成するカンパニー、Co.山田うんを主宰しており、その点ではNoism芸術監督の金森穣と等しい。ストイックにダンスを追求する点は同じだが、Noism作品は構築的でエッジの効いたものが多いのに対し、山田うんの作品から受ける印象は対照的である。山田はよりほんわか、ふんわりと包み込んでダンサーの個性を活かしつつ、身体的、芸術的な要求を高め、最大限引き出そうとするのだ。その山田が、今回初めてNoism1のメンバーに振り付けた。プログラムにある金森の文章によると、創作途中でキーワードを山田に尋ねたところ「境界」があがり、偶然にも金森と重なったことから、今回の公演タイトルが決まったそうだ。個性も創作方法も全く異なる二人の振付家が挙げた「境界」をテーマに、この公演が構想された。
一作目は山田うんの演出、振付による『Endless Opening』。第1章から第4章まで分かれており、幕があがると、カラフルな布で作られたシャツとパンツに、柔らかな薄布を花弁のように散らした上衣を羽織ったダンサーたちが、やわらかく、流れるように踊り始める。色の組み合わせはそれぞれ異なるが、男女の区別はない。体形や性別による役割、民族的な差異ではなく、それぞれに色、個性が異なるだけなのだ。そんなジェンダーを揺さぶる小さな仕掛けは、山田の作品に珍しくない。群舞になり、ソロになり、グループに分かれと自在に構成を変えながら、音楽を浴び、光を受けて軽やかに踊るダンサーたちの心地よさが、客席まで伝わってくる。但し、それだけでは面白くない。山田は、動きと動きのあいだの粘りや余韻を振付にいかし、何気ないステップを繋ぐかに見せて、意表を突く。それらがごく自然にダンサーの身体から生まれており、動きの余韻が空気に溶け込んで、フォーメーションやステップの変化によってダンサーとダンサーの関係性が緩んでいくようである。ダンサーたちのからだがおだやかに、やわらかく開かれていくことで生まれるダンスが、自らの身体と空間という境界を、自らの身体と他者の身体という境界を、浸潤していくようである。
山田は創作のために新潟で滞在した折のことを、以下のようにプログラムに記している。「信濃川のほとりを歩くと、水面を蹴る光、厚い白雲、草の匂いを感じながらその全てが心地よく新鮮で、私に創造する力を与えてくれました」。山田が信濃川のほとりで感じた、光や音や風の有機的な動き、生まれ、消えゆくときの余韻のようなものがインスピレーションを与えたようだ。それがダンスという表現に生まれ変わることで、物理的な境界としての身体、それを囲む空間、自己と他者という境界が、やわらかく浸食しあいながら溶けていくようであった。親和することで、境界がゆるみ、互いに浸潤していくのだ。
撮影:篠山紀信
ところが第3楽章になると、ダンサーたちの動きは止まり、一人一人が運んできた台車をのぞき込む姿でフリーズする。台車はベッドになり、棺になって、それをのぞき込んだ体勢のまま動かないダンサーの身体が、死と決別の悲しみ、苦悩、鎮魂を現出する。台車の中に収められ、隠された死と、それを上からのぞき込む生々しい肉体。生と死の境界は断絶されているのか。いや、この境界さえもこのシーンではやわらかく浸潤し合う。そして台車の上に横たわるダンサーたちの身体が、今度は胎児のように縮こまり、種子のように凝縮したところから、揺らぎ、もがくことによって新たな命として誕生していく。そうして生まれ変わったダンサーたちは、両腕にまとってきた薄布の花弁のような袖を脱ぎ、手向けるように台車において、舞台の奥へ向かって台車を押して進んでいく。その姿から色彩が消えて黒いシルエットのみになったとき、台車とダンサーのあいだに幕が降り、幕によって隔てられた明るい空間が再び現れる。
撮影:篠山紀信
撮影:篠山紀信
第4章は、再びあかるく軽やかな音楽に乗って、ダンサーたちは一人で、デュオで、アンサンブルで踊っていく。そのダンスは、他者と共に動くことによって身体という境界を拡張していくようである。最後は全員がひとかたまりとなって踊るのだが、それは一糸乱れぬ群舞が美しい、というある種のダンスの価値観とは異なるものである。個を消して合わせようとするのではなく、個と個が境界を侵食し合うことで緩やかな塊となって動く生命体のようであった。
撮影:篠山紀信
心地よい動きや美しいアンサンブルといった、一見ウェルメイドなダンス作品のようでありながら、山田らしいユーモアや痛み、挑戦や揺らぎ、踊る喜びを巧みに配した作品。ダンスによってからだを、個を、生を開き続けていくことで、死と喪失に向き合い、受け入れていく。そんな山田の思いに、信濃川の陽光とNoism1のダンサーたちが応え、観客に伝えてくれた。
後半は、金森穣の演出、振付で、Noism0の3人が出演する『Near Far Here』。真っ暗な舞台上に、白いプリーツの打掛のような衣装を纏った井関佐和子が一瞬現れ、暗転。再び白い衣装の井関が現れると、まるで空間移動をしたかのように立ち位置が変わっている。再び暗転から一瞬の明滅で現れる。それを繰り返しながら後方へと移動し、照明がつくと白いオブジェのような井関の前に、黒い衣装の金森が影のように重なっている。やがて動き出した二人が徐々に別れると、矩形の枠が現れ、山田勇気と金森が鏡に映った実体と影のように同調し、重なりながら動き、別れていく。バロック音楽の峻厳で美しい響きが舞台を満たす中で、3人の身体が重なり、離れ、ぶつかり、引き寄せ合いながら踊っていく。
撮影:篠山紀信
撮影:篠山紀信
撮影:篠山紀信
やがてスクリーンが上方から降ろされると、3人の影が映し出され、影が踊り始める。さっきまで目の前で踊っていた3人が映し出されていると思いきや、微妙なずれから予め撮影された映像と、今起こっているダンスの影で構成されていることがわかってくる。今、ここで、目の前で起こっているリアルな現象と思い込んでいることが、じつは今、ここではない時間と場所で起こったことであり、その判別が困難であることを示す。次に山田が透明のひし形プレートを持って現れ、それをあいだに挟んだまま、触れ合うことのないまま井関と踊る。手を伸ばせばすぐに届きそうでありながら、決して到達することのないその距離は、私たちの日常を彷彿とさせる。さらにスクリーンが上部から降りてくると、鏡を重ねたように映像がコピーされながら奥へ奥へと、無限に反復していく。それはコピーと反復によって作られた、ここから遠くへと引き延ばされていく、目の眩むような時間である。このように様々な象徴的な仕掛けによって、様々な遠近を見せながら、3人は別々に、あるいはデュオで踊っていく。ここにいる自分と他者、ここにいるはずが幻影であった他者、近くにいるのに触れることはできない距離などが、次々と呼び寄せられ、それらを隔てている境界が身体によって検証されていくかのようだ。
撮影:篠山紀信
撮影:篠山紀信
撮影:篠山紀信
様々な思いを投影しながら井関と金森がデュオで踊っていると、パーセルのオペラ『Dido and Aeneas』から「remember me」という歌詞が切なく響く哀歌が流れ、静かに幕が降りる。生が死によって引き離されるかのような静けさが漂うが、再び幕が上がると舞台一面に赤い紙吹雪が積もっている。ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』が天上から降り注ぎ始めると、三人が舞台へ進み出て挨拶をする。通常は作品と切り離されたカーテンコールが、ここでは死から再生という境界、舞台と客席という境界を超える演出になっているようだ。客電が点くと、赤い紙吹雪が客席にも降ってくる。血潮のように赤い紙吹雪が劇場中に舞うことで、観客である私たちにも境界を超えるための息が吹き込まれるように。
撮影:篠山紀信
今回は山田作品、金森作品ともに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延という現状を含めた別離や鎮魂を経て、救いや希望へと向かう意思を感じさせた。鋭敏な感性の持ち主である振付家、ダンサー、スタッフらが自ずと時代を映し出したのだろう。山田は、ダンサーの身体によって、身体という境界を浸潤し、親和しようとする。対して金森は、境界についての世界を立ち上げ、物語るために、ダンサーの身体とその動きは様々な象徴や記号として変化しながら立ち現れる。二人の振付家とダンサーたちによる、身体の、人と人の、時間と空間の、リアルとバーチャルの様々な境界に関する思索が、全く異なるアプローチによって表現されることで、身体を媒体とするダンスの豊かさと可能性を噛みしめる充実した公演であった。
(2021.12.24(金)/東京芸術劇場〈プレイハウス〉)
PROFILE | いなた なおみ
幼少よりバレエを習い始め、様々なジャンルのダンスを経験する。早稲田大学第一文学部卒業後、社会人を経て、早稲田大学大学院文学研究科修士課程、後期博士課程に進み舞踊史、舞踊理論を研究する。博士(文学)。現在、桜美林大学芸術文化学群演劇・ダンス専修准教授。バレエ、コンテンポラリーダンス、舞踏、コミュニティダンス、アートマネジメントなど理論と実践、芸術文化と社会を結ぶ研究、評論、教育に携わっている。
稲田 さま
この度も読み応え満点の評論をお寄せ頂き、有難うございました。
読み進めるうちに、隔てられた時間を遡行して、再び、舞台に向き合うかのような臨場感に浸りました。
「境界」というテーマのもと、ふたつの作品が全く異なるアプローチで、思索の可視化として、それぞれに様々な「境界」を現出させていたことが、個人的に探しあぐねた精緻な言葉たちの連なりによって、高解像度で、キチンと定位されていく醍醐味を満喫いたしました。
まさに「そうそう、そういう感じ」って具合に、ストンストン腑に落ちて感じられることは大きな驚きでもありました。
読むことでいろいろ整理が進み、更に新しい思索に誘われるような素敵な評論をどうも有難うございました。まだまだ熟読玩味させて頂くつもりです。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
(shin)
稲田さま
この度も大変素晴らしいご批評を どうもありがとうございました。
文字の連なりを読み進めていく喜びを感じました。
今後とも どうぞよろしくお願いいたします。
(fullmoon)