Noismの現到達点たる『セレネ、あるいはマレビトの歌』、その夢幻(サポーター 公演感想)

5月11日、りゅーとぴあでの『セレネ、あるいはマレビトの歌』公開リハーサルの衝撃は忘れ難い。『Nameless Hands-人形の家』や『NINA』『R.O.O.M.』など舞踊家の渾身と演出振付・金森穣の魔術的洗練に圧倒される舞台に幾度も立ち会ってきたが、りゅーとぴあ〈劇場〉の舞台上に設えられた客席で展開された舞踊と音楽の濁流と、作品の精神には、真底打ちのめされた(リハーサル後、金森さんにバッタリ会い、「これは凄いです。大好きな作品です」と興奮気味に声を掛けてしまった)。

その本番が、5月20日・21日、「黒部シアター2023 春」として黒部市の前沢ガーデン野外ステージにて開催された。初日の圧倒的舞台についてはしもしんさんが当ブログにて詳報している。私もまたTwitterで「激賞」と呼べる感想を書き連ねたり、「月刊ウインド」6月号にて魚津滞在を含めた紀行記事を掲載予定の為、2日目(5月21日)の感想を主に記載する。

魚津駅から黒部駅へあいの風とやま鉄道の列車で向かい、前沢ガーデン行きのバスが発車する「ホテルアクア黒部」へ。新潟や東京から駆け付けたNoismサポーターの方々と合流し、16時発のバス車中では(初見の方も同乗しているので配慮しつつも)昨日の公演の素晴らしさをあれこれ語り合う(この様子を、同乗していた富山県市町村新聞の宮﨑編集長が聞いており、会場でお声がけいただく。公演について記事を書かれるとのこと。特に声の大きな私の放言、失礼しました)。
開演の19時迄は前沢ガーデンの圧倒的な空間美と自然に浸りつつ待機。鈴木忠志氏をお見かけしたり、会場入りする金森穣さんや井関佐和子さん、山田勇気さんにご挨拶(金森さんのご両親や鈴木忠志氏率いる「SCOT」の本拠地である南砺市長も足を運んでいた)。

そして、19時定刻に始まった本番。舞台は常に一期一会だが、野外公演は吹く風や、それにはためく衣装、空の色(この日は渦巻くような雲が空を覆いつつも、陽光がうっすらと覗く)が繊細なコントラストを生み、作品の強度は変わらぬとはいえ、観る者が受け取る印象が新鮮に変わっていく(舞台に立つ舞踊家にとっても、きっとそうなのだろう)。

活動継続問題やコロナ禍の苦しみの中で、ひたすら舞う「Noism」の集団としての強さと祈りに幾度も涙した『Fratres』を、アルヴォ・ペルトの楽曲を駆使しつつ、作品の一部とし、全く違った文脈で再構築した『セレネ、あるいはマレビトの歌』。異端・来訪者を排斥し、互いを縛る「集団」と、個を確立した者が手を取り合う「連帯」との対比。女性同士の深い共感が、集団の論理に楔を打つ展開(井関佐和子さんと6人の女性舞踊家が織り成す洗練と爽やかなエロスに充ちたシークエンスには、ペルトの楽曲相まって涙が溢れた)。ベクトルの異なる舞踊の連鎖を休む間もなく躍り続ける井関佐和子さんやNoism1メンバー、野外ステージの高低差を活かした演出の中で「恐怖」さえ覚える登場を見せる山田勇気さん。そして、言葉を越え、この世界に生きる人の胸に確かに届くであろう「ヒューマニズム」を謳い、アンゲロプロスやタルコフスキーといった名匠が映画で描いた夢幻のごとき光景を現出させた金森穣さんの手腕に、陶然としてしまう。Noismを応援してきた者にとっての冥利を覚えつつも、この現到達点は、Noism Company Niigataの更なる未来と拡がりを想像させる。

カーテンコール後、初日(5月20日)に続いて舞台に立った金森さんは「自分にとっても手応えのある作品」、「この作品を持って海外に出掛け、世界に挑みたい。新潟のカンパニーが黒部に滞在して創った作品です。東京(発)じゃないんです。それが文化」と語った。この挑戦を、更にしっかり応援していきたい。

(久志田渉)

控え目に言って「天人合一」を体感する舞台!「黒部シアター2023 春」の『セレネ、あるいはマレビトの歌』初日(サポーター 公演感想)

2023年5月20日(土)19時、黒部市の前沢ガーデン野外ステージにて祝祭的な雰囲気のなか、Noism0 +Noism1『セレネ、あるいはマレビトの歌』初日公演を観る。

前沢ガーデンとNoismをイメージした
ノンアルコールカクテル
太田菜月さん(左)と兼述育見さん

『イチブトゼンブ』とはB’z(実はさして詳しくもないのだが、)のヒット曲のタイトルであるが、それになぞらえて言えば、かつて私たちをあれほどまでに魅了し尽くした「ゼンブ」が今回、「イチブ」となり、それが属する「ゼンブ」によって、その肌合いや意味合いを異にしてしまう。その構成にまず驚く。

それは例えば、知らぬ者などいよう筈のないオーギュスト・ロダンの彫刻『考える人』が、ダンテの『神曲』に着想を得て制作された『地獄の門』の頂上に置かれた一部分であったように、あの名作『Fratres』をその一部とする作品が構想されようとは!そうした構成上の驚きである。

そもそも私たちは『Fratres』において、集団による求道者然とした献身の果てに達成された「平衡」、その高度な完結に酔いしれていたのではなかったか。『Fratres』とはつまり、純度の高いひとつの達成だったのだが、それがその記憶も新しいうちに、同じ演出振付家の手によって惜しげもなく解体されてしまうのを目にするのであるから、もしかすると「驚き」と呼ぶ程度では足りないのかもしれない。しかし、そう言ってしまってすぐ、過去にもラストシーンを変更することすら厭わない人ではあった、そうも思い当たる。金森さんは常にとどまることを知らず、前へ前へと進んでいく人なのだ。

その密教的な合一をみた感さえある『Fratres』の解体は、破壊音に似た音楽により始まる。現出するのは『ASU-不可視への献身』や、もっと直接的には『春の祭典』における嬲るような排除の構図。女性対男性のある場面など『春の祭典』を思わずにはいられないほどである。

黒い衣裳の者たち(10人)は「聖」を目指す「俗」であり、その愛の有り様は「アガペー(無償の愛)」や「フィリア(友愛)」を志向しつつもそこには至らない。それはマレビトふたり、つまり、当初の「黒」を脱いだ井関さんとひとり「黒」とは終始無縁の山田さんのデュエットにおいて、井関さんが見せる(金森作品には珍しい)官能的な表情に浮かぶものが「エロス」以外の何ものでもないことからして、無理からぬことではある。井関さんもまた再び「黒」を身に纏ったりし、彼女すら「聖」と「俗」を往還する不安定な存在(「着換える人」)として描かれていく。そうした井関さんの立ち位置にもこれまでにないものが認められよう。

そして従来の「井関さん」的立ち位置は、山田さんによって踊られることになるだろう。二度、緑の芝の丘の向こうから姿を表す山田さん。ゆっくりと、しかし存在感たっぷりに。その二度目の登場場面が只事ではない。尋常ではない。それはほぼ作品のラスト近くに至ってのことなのだが、その「光背」を伴って(敢えて「発散して」と言いたいところであるが、)の登場は、仏像やキリスト像の造形やら数多の映像表現において目にしてきたものであるのかもしれないが、この日、この前沢ガーデンのランドスケープと一体化して見せられると、その神々しさにうっとり平伏すしかないほどの唯一無二の光景となる。そこに目撃される、否、体感されるのは、紛れもなく、刹那の「天人合一」だろう。控え目に言っても。

会場のもつ圧倒的な力。その点では、かつて金森さんと井関さんが原田敬子さんの曲で踊った『still / speed / silence』(第9回シアター・オリンピックス)、その会場・利賀山房でのラストの光景をも想起させるものがあるが、それと較べても、今回、そのスケールは甚だ大きい。宇宙との合一を果たすことになる場に居合わせて、その一部始終を目撃したのである。この日は曇天だったため、ラスト、揃って「個」としての(、そして恐らく「集団」としての)強靭さを増して、「黒」を脱した演者全員が見上げる空を、同様に客席から仰ぎ見ても雲に覆われた空を見るばかりではあったが、唯一、「宵の明星」金星は煌めいており、それを手掛かりに満点の星空を幻視することができた。(また、同様に、野外ステージということでは、照明に寄ってきた鱗翅目がその光を鋭く照り返す様子など、野趣を添える以上の偶然の効果を生んでいたことも書き添えておきたい。)

終演後、気迫の大熱演でこの作品を踊り切り、舞踊家としての矜持を示した全メンバーに、そしてその後、挨拶に立った金森さんに対して大きな拍手が湧き起こったことは言うまでもない。スタンディングオベーションを捧げる観客を含めて、拍手は長く続き、人の両の掌が発するその音は見詰めた者たちの感動を乗せて空へと昇っていった。

席を後にして出口へ向かう際に、(正面2列目でご覧になっていた)鈴木忠志さんが移動するすぐ後ろを(意識的に)歩いたのだが、彼が懇意にする新聞記者に対して、「ダンプ何台分も削って作った」と説明していたこのステージの客席は、そのどの席からも展開されるパフォーマンスをしかと観ることができる筈だ。私はこの日、演者たちの素足が舞台を擦る音や激しい息づかいまで聞こえてくる最前列を選んで腰掛けたのだが、仮に少し上方の席を選んで見下ろしていたとしたら、その姿はさしずめ、ロダンによる件の彫刻のようだったろう。

我を忘れて酔いしれた時間は過ぎたが、なお目を圧して灯る幻想的な大光量を振り返りつつ、前沢ガーデンハウスでトイレを済ませると、20:30発、最終のシャトルバスに乗って車を駐めていた特設駐車場へと向かった。そのバスに乗るまでも、そして乗ってからも、多くを語ろうとする者はいなかった。(「雨にならなくてよかった」以外には。)それくらい誰もがあの55分に圧倒されていたのだ、間違いなく。

金森さんは上で触れた挨拶で、今回の公演実現の経緯を「師匠と仰ぐ鈴木忠志さんから昨年、お誘いを受けた。でも、鈴木さんのお誘いは単なるお誘いではなく、『金森、どんなものを作れるか見せてみろ』という挑戦だった」とし、生涯初めての野外公演に際して夜遅くまで照明作りにあたってくれたスタッフを労いながら、「またここに戻って来たい」との言葉でそれを結んでいた。こんな唯一無二の場所での公演、この日の観客のひとりとしても、同様に「また戻って来たい」と思ったことは言うまでもない。

この度の『セレネ、あるいはマレビトの歌』は僅か2回のみの公演で、私が観たのはその1回に過ぎず、それに基づいて書いた拙文であるが、この驚嘆の作品の「ゼンブ」のうち、「イチブ」でも皆さんと共有し得たならば幸いである。そして書き終えた今は、各々バラバラに再演を望む「イチブ」でしかない者たちの思いが、束になって熱い「ゼンブ」と化し、いつの日か、再演の舞台にまみえることを夢想するのみである。

(shin)

『かぐや姫~第2幕』最終日、炸裂する金森ワールドに蹂躙される悦び♪(サポーター 公演感想)

2023年4月30日(日)、朝、新幹線で新潟を発って、「上野の森バレエホリデイ」での金森さん×東京バレエ団『かぐや姫~第2幕』を含むトリプルビル公演を観てきました。もう圧倒されまくってしまって、今なお続く大興奮かつ陶酔状態のうちにこれを書いています。

初日の舞台についてはかずぼさんが、2日目はfullmoonさんがレポートをあげてくださっていて、そのどちらからも、「どうやら只事ではなさそう」な気配が読み取れていたので、この日に向けて、期待は膨らむばかりでした。で、結論から言いますと、その期待は裏切られることがなかったばかりか、炸裂する金森ワールドに蹂躙される悦び、それにとっぷり浸る類稀なる35分間だったと言いましょう。

世阿弥『風姿花伝』の「序破急」に倣って言うなら、この「第2幕」は、拍子が変わる「破」そのもの。そしてその今回の「破」ですが、2021年の11月に初演された「第1幕」から時間をあけてクリエイションされてきたことが作品全体に極めて大きな質的変化をもたらすことになった点は金森さんも認めているところです。

舞台装置が、そして何より衣裳が、その趣を一変させていることに驚きました。「第1幕」では、金森さんの方が「現存する日本最古の物語」の時空に寄せて、目に見えるかたちで民話風の昔っぽさなど取り込みつつ、(ある意味、ある程度まで美しささえ犠牲にしつつ、)大人から子どもまで楽しめる日本ものの「グランド・バレエ」としての雰囲気を立ち上げようとしていたように思います。ところが、この「第2幕」では、逆に金森ワールドの方に、その「グランド・バレエ」や東京バレエ団を寄せてクリエイションを行っているのです。私たちが目にするのは、金森さんの審美眼に適った怖いくらいに美しく、怪しい世界…。

廣川玉枝さんによるこの「第2幕」の衣裳は、もうほとんどNoism『NINA-物質化する生け贄』(ver.2017)です。その『NINA』の既視感たっぷりな鈍く煌めく深みのある「赤」を纏って、この日「影姫」を踊った沖香菜子さんの驚愕の存在感には筆舌に尽くし難いものがありました!「第2幕」の主役は(沖さんが踊った)「影姫」と言ってよいように感じたほどです。勿論、秋山瑛さん(かぐや姫)、柄本弾さん(道児)、大塚卓さん(帝)をはじめ、皆さん素晴らしかったのですが、それでも、沖さんの凄みが凌駕していたということで…。

加えて、シンボリックな階段や高低差、はらはら舞い落ちてくる冒頭の赤い花弁。奥を微かに透かせて見せる紗幕の絶妙な効果、矩形の衝立が閉じては開く、そのめくるめく移動。それらはどれも抽象度や象徴度の高いものであり、その点で「第1幕」からの隔たりは大きいと言えるのですが、そうしたスタイルや説話の話法こそ元来、金森さんが自家薬籠中の物としてきたのであり、それが溢れているのがこの「第2幕」なのです。

その抽象性と象徴性のゆえに、もう「いつの日本」を舞台としたものなのか、否、そもそも「いつどこ」の物語なのかも判然としなくなっているくらいです。しかし総体として、客席から見詰める目に対して「圧」をかけて迫ってくるこの「第2幕」は間違いなく高い普遍性を獲得し得ていると感じます。金森さんはもう「竹取物語」をなぞることから脱して、本来その原ストーリーが有する「可能性」の中心に身を置き、自身の創造性(クリエイティヴィティ)を解き放つかたちでクリエイションを推し進めていく途を選択したということが明瞭に感じられる舞台でした。

それは誤解を恐れずに言うならば、2016年に庵野秀明が『シン・ゴジラ』において示した方向性とも重なるものと言えようかと思います。庵野が『シン・ゴジラ』からの「シン・」シリーズでやったこと(その後の2作の出来不出来は敢えてここでは問いません。)とは、つまり、原初にある周知の設定を土台に据えながら、そこに自らの創造性を絡めることで、新たな物語を立ち上げてみせること。その意味からは、『シン・かぐや姫』といった見方もできそうなくらいです。また、そこに現代社会に注がれる目線がある点も庵野との間の共通点として認められるものでしょう。時空を隔てて、よく知られた原ストーリーとせめぎ合うかたちで展開される「シン・」ストーリー。「影姫」の創作などはその最たる例かと思われます。

また、『中国の不思議な役人』、『カルメン』、『お菊の結婚』等々、過去のNoism作品と呼び交わす細部(動きや振り)にも満ちており、瞬間、記憶の中の諸作を想起させられる楽しみも随所で味わいました。

大方の予想と重なるだろうために、もう「予想」と呼ばれる資格を欠いてしまっているのでしょうが、このあと、「全3幕もの」として公演される際(今年10月・上野3公演、12月・新潟2公演)には、既に世に出ていて、私たちが目にしていたあの「第1幕」も大幅に改訂されていることでしょう。(少なくとも、衣裳は遡って変更される筈です。)

この「第2幕」、幾分、唐突に終わる感じもありますが、そこは見方によれば、切れ味鋭いナイフのようなカットアウトとも。そんな「第2幕」、続く「第3幕」への期待を掻き立てて止みませんが、これ単体でも「名作」と呼ばれる資格があるものと思いました。酔えます。

「凄いものを目にした」、そう感じた観客が多かったからでしょう。終演後、何度も何度も繰り返されるカーテンコール。その都度、「ブラボー!」の声がかかり、一人また一人とスタンディングオベーションに加わる人数が増えていき、遂には、客電も点いて、もう拍手もやめる潮時という雰囲気が場内を覆ってさえ、あろうことか拍手は一向に止む気配を見せず、緞帳がまた(仕方なしに躊躇でもするかのような風情で)上がると、客席からは嬉しいどよめきが、舞台上には苦笑を浮かべながらも満更ではなさそうな出演者の表情があり、その一瞬、場内はそれ以上望むべくもない極上の一体感に包まれたように感じました。

おっと、「上野の森バレエホリデイ」全体の雰囲気についても触れるべきだったのでしょうが、あのひとつの演目に圧倒されて木っ端微塵にされた感のある身としては、それをなすべき余力は既にありません。舞台を見詰める前に撮った画像をアップすることで、その代わりとさせて貰おうかと思います。

(shin)

東京バレエ団『スプリング・アンド・フォール』『イン・ザ・ナイト』『かぐや姫(第2幕)』初日を観てきました。(サポーター 公演感想)

この公演はG.W.期間中に開催される「上野の森バレエホリデイ2023」の一環として開催されるものです。
東京文化会館もバルーンで飾り付けられたり、ロビーにバレエの衣装やダンサーのポワントの展示があったりと、いつもに増して華やいだ雰囲気でした。

入り口では巨大なバルーンのエントランスが
お出迎え。
小ホール向かうスロープにも
こんな素敵な電飾が!

今日(2023/04/28)は平日(金曜)夜公演ということもあってか、客層は大人が多く、落ち着いた印象を受けました。明日、あさっては休日の午後公演ですし、関連イベントも盛りだくさんなので、お子さんや家族連れのお客さんも増えるのでしょう。

(ちょっとギリギリかな)と思いつつ、入場を終えプログラムを購入してから席に着くと、午後7時の開演時刻から約10分過ぎに照明が落ち、ノイマイヤー『スプリング・アンド・フォール』が始まりました。
ドヴォルジャークの弦楽セレナーデで踊られる作品は、ところどころ東洋的な所作なども感じ、若々しく爽やかに演じられました。とても東京バレエ団にふさわしいレパートリーだと思いました。

休憩後、舞台袖にグランド・ピアノが運び込まれ、ロビンズの『イン・ザ・ナイト』がショパンのノクターンの生演奏とともに演じられます。
夜の闇と星のみえる舞台で三組のデュオによる素敵な作品でした。
(長身の上野水香さんは舞台に映えるなあ。今、長身のプリンシパルって少ないかも)などと思いながら観ていました。

そして次の休憩後には、待ちに待った金森さんの『かぐや姫(第2幕)』です。金森さんが事前にお話ししていたように、衣装・舞台装置が一新されましたが、想像以上で驚きました!
舞台が宮廷のシーンに移ったから、という解釈もありますが、概念としての「かぐや姫」としたほうが時代考証などに縛られず、作品が普遍性を持つのでは、と思いました。
Noismで『鬼』をスタイリッシュに作り上げた金森さんらしいと思います。

白く輝く舞台がシンプルながらゴージャスで美しく、まさに宮殿の雰囲気を感じます。

迫力のある男性群舞や摺り足で踊る女性群舞もみものでした。普段の金森作品にはあまり感じないベジャールっぽさも感じました(いや、でもあれもこれも金森さんの動きだ!と当惑しつつ)。

今回は10場(10曲)のシーンから構成されていますが、普通のグランドバレエにある情景や間奏曲というものがないためか、どれも見もので気が抜けない!
今回(今日)は初演ということで、上演中の拍手はありませんでしたが、拍手を受ける「間」はありそうなので、今後は曲毎の拍手も入るのでしょうか。

そして第2幕を観終わったあとに思ったのが、(2幕でここまでなら、3幕はどうなるの?)という疑問。既に自分の知る「かぐや姫」とは微妙にストーリーが異なっているように感じますし、3幕は更に金森さんの世界が拡がる予感がします。
既に発表されている1幕との接続性も含めて、秋の全幕初演が今から楽しみです!

ホワイエ中央には大きなバルーンが輝いていました!
今「かぐや姫」が熱い?
来年にはこんなイベントが!

(かずぼ)

胸熱の感動に涙腺は崩壊!『Der Wanderer-さすらい人』大千穐楽@世田谷パブリックシアター(サポーター 公演感想)

2023年2月26日(日)午後、前日に続いて三軒茶屋の世田谷パブリックシアターまで『Der Wanderer-さすらい人』の大千穐楽を観に行きました。

控え目に言っても「傑作」や「名作」と呼ばれるべき公演でしたから、この公演中心の2日間を過ごしたような次第です。何しろ70分間のこのクオリティ、いつでも観られると思ったら大間違いなレベルなので、至極当然ななりゆきに過ぎなかった訳ですが。

その舞台。この世田谷パブリックシアターで迎えた大千穐楽の舞台。シューベルトの歌曲、金森さんの演出振付、舞踊家の「顕身」、それらが渾然一体となった稀有な時間に浸り、もう胸熱の感動に涙腺は崩壊しまくりで、マスクの下はぐしょぐしょ状態に。そこだけは若干不快ながらも、類い稀なる爽やかな優しさを全身で受け止めて気持ちはいつになく昂揚するのみでした。

前半。他に関心が赴くことなく、求めて与えず、そればかりか徒に他を弄んだり、世界の中心に自分だけを見ようとするかのようにして、余りにも利己的に愛を求めようとする振る舞いの帰結として、孤独に直面します。その若さが横溢するさまは現メンバーの年格好とも重なるもので、幾分、戯画的な味付けもなされていて、微笑ましく映じたりするほどです。同時に、自らの思いを伝えんがために薔薇を手折ることも厭わない残酷な側面も同居させていますが、いかにもその点には無関心な様子から始まり、6曲目「ミューズの子」の中尾さんに至っては薔薇は投げ捨てられさえするほどです。

その残酷さですが、まず、7曲目「至福」の後半に至り、自己嫌悪とともに樋浦さんによって見出されると、続く8曲目「狩人」で愛憎入り乱れる荒々しさの頂点を経過したのちの杉野さんによってはっきりと自覚されることになります。

そうして導入されたある種の「転調」は、9曲目「月の夕暮れ」の三好さんへと引き継がれ、「シューベルト」山田勇気さんの傍ら、彼女は4本の薔薇を植えることになります。

10曲目「ナイチンゲールに寄せて」でひとり自らの愛情を大事に抱く井本さんを経て、山田さんが傍らの4本の薔薇を見詰めていると、山田さんの「分身」のような4人の「シューベルツ」が導き入れられます。11曲目「セレナーデ」は薔薇の赤と衣裳の黒のコントラストがこのうえなく美しいパートであり、4本と4人、それぞれの「生命」が咲き誇るかのようです。

後半。12曲目「彼女の肖像」を踊る井関さんが運び入れるのは何やら不穏な空気であり、13曲目「鴉」の山田さんを含めて、「死」の気配が兆し始めます。そこからはもう怒濤の展開で、その孤独の究極の形態が美しく踊られて、可視化或いは形象化されていきます。踊られるのはもう若さとは真逆に位置するものであり、まったく別物の空気感を醸し出してくる身体、その「顕身」振りには驚きを禁じ得ません。彼ら(の多く)は若かったのではないのか。

14曲目「糸を紡ぐグレートヒェン」の庄島さくらさん・すみれさんの鏡とドッペルゲンガーぶりにしろ、15曲目「魔王」の糸川さん・坪田さん・樋浦さんを巡る運命が行き着く先にしろ、はたまた、16曲目「死と乙女」の井本さん・糸川さんの切ない情緒であれ、17曲目「月に寄せて」の中尾さん・樋浦さんから18曲目「トゥーレの王」の三好さん・杉野さんに続く胸ふたがれるような満たされなさであれ、金森さんが繰り出す見せ場の連打であり、舞踊家がそれに全身で応えていきます。その際立つ悲劇的な美しさには恍惚となるほかありません。

それを締めるのがやはりNoism0のふたり。山田さんの19曲目「さすらい人の夜の歌」から井関さん(と山田さん)の20曲目「影法師」に至る風格は絶品です。息絶えんとする山田さん、そのとき、目を覆う井関さん。死は直視し難いものであることに間違いはありません。しかし…。

終曲「夜と夢」、11名の舞踊家がそれぞれ5本の薔薇を胸に舞台上に回帰してきます。それぞれ中空に視線をやり、何かに目を止めたのち、横一列をつくると、頭を垂れて、無言の「有難う」とでも言うかのように。そして揃って後退りしながら、1本ずつ1本ずつ、胸に抱いていた赤い赤い薔薇を舞台に立てていきます。それはそれぞれが生きてきた舞台としての11の人生を、最後の最後に肯定しようとする振る舞いであり、そのことに観る者も慰撫され、感極まるのだと断言したいと思います。

暗転を経て、再び照らされた舞台は無人となっていて、赤い薔薇で形作られた格子状の矩形のみが残されています。11人×5本で、都合55本の薔薇。その色彩は、死の象徴たる黒い矩形を遥かに凌駕するインパクトをもって私たちの目に飛び込んでくるでしょう。

暗転のところから始まった、客席からの鳴りやまぬ拍手は、一見、舞台上にそれを捧げる対象を欠いてしまっているように見えるかもしれませんが、それこそラストに金森さんが舞踊家たちの「顕身」を通して示したかったどこまでも人生を肯定しようとする姿勢が金森さんをして、そこに身を置いた全員に共有される「場」そのものに対して拍手が注がれることを選択させたものと見ても強ち間違いとは言えないのだろう。赤い薔薇が描く生命力を感じさせる矩形からはそんなふうに感じられてならないのです、私には。

圧倒的な余韻を残した『Der Wanderer-さすらい人』。絶対に再演して欲しい作品のリストに挙げられる「傑作」、「名作」であることに異を唱える者はいない筈です。皆さんはどうご覧になられましたか。コメント欄などにお寄せ頂けましたら幸いです。

そして、この出演を最後に退団される井本さんに対して、これまでたくさんの感動を頂いたお礼をここに書き記したいと思います。どうも有難うございました。今作においても本当に素敵でした。また踊る井本さんを観ることが出来ますことを願っています。

この日のブログ、最後を締め括る写真はかつてのNoismメンバーが多数集結した大千穐楽終演後に撮らせて貰った画像です。ちょっとピントが甘いのですが、慌てて撮ったためです。ご容赦ください。(汗)

(shin)

若き舞踊家の跳躍と、音楽の奔流に、芸能の起源を見た(サポーター 公演感想)

8月21日(日)、佐渡市小木での「アース・セレブレーション2022」木崎神社フリンジ会場でのNoism2×鼓童のステージ(11時~、16時~の2回公演)を観賞した。
同行はシネ・ウインド代表、安吾の会世話人代表、舞踊家・井関佐和子を応援する会会長の齋藤正行さんと、安吾の会会員、フリーライターで佐渡に詳しい本間大樹さん(’19年のNoism劇的舞踊『カルメン』モスクワ公演もご一緒した)。アース・セレブレーション第一回に深く関わった齋藤代表(中上健次さんの出演を取り持った)の思い出を聞きつつ、本間さんの運転で両津から小木を目指す。
小木港のメイン会場から程近い木崎神社。万代太鼓や佐渡の伝統芸能など無料公演が、本殿前の特設ステージで繰り広げられた。この日の佐渡は最高気温27度予想だったが、陽光が強く照りつけ、小木の街はどこか南国の風景を思わせた。


11時の開演を前にNoism0・山田勇気さんや、Noism2リハーサル監督・浅海侑加さん、Noismサポーターズの方々に加え、プライベートで駆け付けたNoismメンバーやスタッフを見かけ、ご挨拶。公演前には座席の殆んどが埋まった。
ステージは金森穣芸術監督振付『砕波』の生演奏バージョンと、鼓童の楽曲『紫』に山田勇気さんが振付をした新作の2部構成。昼の部の『砕波』では青木愛美さん・土屋景衣子さん・渡部梨乃さんの3名が舞台に立った。鼓童メンバーの奏でる音色に溶け込みつつ、時に静謐に揺蕩い、伸びやかに舞い、鮮烈に跳躍する3人。それぞれの舞踊家としての技量と、清冽な若々しさとが炸裂する。昼の部では、夕方の部で『砕波』を踊る兼述育見さん・糸川祐希さん・太田菜月さんがラストに登場し、6人で波の動きを演じる演出があった。


舞台転換の間は、鼓童メンバー2名が進行を務め、兼述さん・糸川さん・太田さんへのインタビューコーナーとなる。Noism2の紹介、カンパニーの一日の流れ、休日の過ごし方など、軽妙な進行と、Noism2メンバーの真っすぐな語りが印象的(「全員20代ですか?」の問いに、「19歳です」と答えた糸川さんに、客席から驚きの声があがった)。


そして第2部は『紫』。ステージを飛び出し、客席脇の参道までフル活用して、にこやかに舞うNoism2メンバーたち。鼓童メンバーの演奏と、彼女・彼らの舞踊がスイングするさまは、まさしくジャムセッションのよう。韓国の伝統芸能「サムルノリ」など、人が音楽を奏で、舞うという芸能の根源が眼前に現れたようで、感動しつつも、愉しさが体の奥から湧いてくる。客席からも手拍子が起こり、舞台と混然一体となる喜びにひたすら浸った。


16時からの夕方の部は、昼の部以上にたくさんの観客で会場が埋まる。幼い子たちや、外国の方も多く、またNoismを初めて知るという人が多かった。公演前にはハプニングが起こったり、舞台に集中していない方も多い印象だったが、『砕波』から質問コーナー(土屋さんの的確なコメントが光る)、『紫』に至る内に、境内全体の空気が熱を帯び、舞台と共振して、「いい空気」が醸されていく、その変化の過程がNoismファンにとって感動的だった。身体に直接響く太鼓の響きや笛の音、笑顔いっぱいに舞い踊るNoism2メンバーのしなやかな姿、夕方の陽光。すべてが溶け合い、忘れ難い舞台空間を生み出していた。


公演後、齋藤代表は「普段は劇場で、金森さんの演出でストイックに作品を作っている。それもいいけど、空も空間も会場に変えてしまった今回もすごく良かった。これこそアングラだよね」と嬉し気に語っていたが、劇場から地域に出向き、土地や伝統文化に寄り添いつつ、Noismを知らない人にその魅力を届けるNoism2の「地域貢献活動」(それを支える山田勇気さん・浅海侑加さん、スタッフの営為)の、現時点での集大成を見るようで、胸の奥が熱くなった。
Noismと鼓童とのコラボレーションがもたらした、喜びに満ちた芸能・舞台芸術は、やがて日本の津々浦々や世界へも波及してゆくだろう。


(「月刊ウインド」編集部、安吾の会事務局長、舞踊家・井関佐和子を応援する会 「さわさわ会」役員 久志田 渉)

【追記】同日16時からの公演の模様は太鼓芸能集団 鼓童 Kodo 公式インスタグラムに残されたアーカイヴにてご覧頂けます。こちらからどうぞ。(*音量にご注意ください。)

大学生たちが見たNoism『境界』⑤(公演感想)

Noism0/Noism1『境界』の世界

 2021年12月26日の東京芸術劇場で上演されたダンスカンパニーNoism Company Niigataの『境界』を鑑賞した。これは二幕の構成で、一幕はゲスト振付家に山田うんさんを迎え、Noism1メンバーが踊っている。二幕ではNoism芸術監督金森穣さん演出振付でダンサー井関佐和子さん、山田勇気さんと共にNoism0の作品として構成されている。

 一幕Noism1の演目、タイトルは『Endless Opening』。1楽章「風のような姿 花のような香り」、2楽章「誰かに手を伸ばしたくなる」、3楽章「この大海原に誕生の祝福」、4楽章「種子 突風に乗って つと」で構成されている。最初に9人のダンサーがそれぞれ色とりどりのレオタードを着て、柔らかい風になびいて舞うオーガンジーの羽織を身にまとって登場する。ダンサーの息づかい、地面の擦れる音が聞こえるような静かな空間の中で舞い踊る姿はまさに花のように美しかった。体が動いた後にオーガンジーの羽織もその軌道を追ってついていく。その止まることなく永遠に続く様子が春の喜びを感じられるような情景であった。そこからまた誰もいない静かな空間になる。小道具を一人一つ持ってダンサーが現れるが、私はこれをベッドだと捉えた。ここでは人間、生命の生まれを踊りで表現していると感じた。上からのスポットライトを浴びて、その光に向かっていくように手足を伸ばしていく。それぞれ違う動きで起き上がり、最後に羽織を脱ぎすて、人としての成長を表わしているのではないかと考える。静かな世界から一変し、早い曲調の楽曲が流れる。2人、3人ずつの踊りでは、お互いの空気感を感じながら息の合ったダンスを繰り広げていった。人数が増え、最後の総踊り、一糸乱れぬ美しいダンスは見ている人の心に幸福感を感じさせるほどで、幸せを得ることができた。

 二幕Noism0『Near Far Here』。一幕とは変わってバロック音楽の中、薄暗い空間の中でピンスポットがあたる。ここでは生と死がテーマになっており、その境界を表現していた。決して激しく踊り狂う訳ではなく、その劇場の空間を自分の体で吸収し、丁寧に舞っている。すると下手(しもて)に影を映すスクリーンのようなものが降りてくる。今見えている世界と影の世界、お互いが全く同じ動きでシンクロしている。影の世界に最初は一人しかいないと思わせていたが、そこから分離し、もう一人いることがわかる。そして真っ白の衣装を身に纏う女性が、見える世界に現れる。重力を感じさせないリフト、アクリル板を使ったパドドゥ、三人での踊りは身体全体からエネルギーが溢れていることを感じさせる。しかし激しく乱雑に踊るのではなく、まるで美術作品を見ているようなゆっくりと濃い絡みであった。そして最後に舞台上、客席にも降ってくる赤色の花びらは、この生と死の境界がある世界の儚さや脆さをその空間で表現していると感じた。

 Noism0/Noism1 『境界』を鑑賞し、コロナ禍で人とのつながりが一時は途絶え、孤独な時間を多く過ごしていた日々があったことを思い出した。人との間に壁があると寂しいもので、それだけで距離が離れているように感じられる。コロナ禍で制限しなければならないことが多くあり、その中でも大切な家族、友人と過ごす時間はかけがえのないものであり、その有難さを改めて考えなければいけないと思った。この作品で見た人の生まれる感動、生と死の境界は儚くありながらも美しい。そして先がどうなるかはわからないが、きっと明るい未来が待っている、そう感じさせるその空間は幻想のような世界観で温かかった。

(米原花桜)

 皆さま、ここまで、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修にて稲田奈緒美さん(舞踊研究・評論)の指導のもと、「舞踊作品研究B」という科目を学ぶ学生さん5人による5本のレポートを5日連続でご紹介して参りましたが、如何だったでしょうか。
 瑞々しい感性で綴られた5つの瑞々しい文章をこうして続けてご紹介できたことはとても喜ばしいことでした。Noism Company Niigataを「生で」観るのは初めてという人も多かったようですが、今回のレポート執筆が、5人の(そしてそれ以外の多くの)学生さんたちにとって、Noism Company Niigataとの良き「出会い」となり、このあとも継続して接し続けて貰えたら、そう願っています。
 なお、掲載したそれぞれの文章は読みやすさに照らして、文意を変えない範囲で若干の修正を施した箇所があることもここにお断りしておきます。その点、悪しからずご了承ください。

 書くことで初めて見えてくるものがあります。また、書くことは自らをさらけ出す事であるとも言えるでしょう。
 対象のなかにただならぬものを見出し、対象と格闘しながら、なにがしかの文章を書くという行為は、対象に従属する受け身の行為に収まらぬ、極めて創造的な行為にも転じ得るものです。そして、書かれた文章が、それを読む者と繋がり、触発・刺激していくこと、その豊かさを知る者が文章を書き続けるのでしょう。今回、文章を掲載した5人にとって、そんな豊かさに繋がるきっかけを、ここに提供することが出来ていたなら望外の喜びです。また書いてください。 (shin)

大学生たちが見たNoism『境界』④(公演感想)

舞踊作品研究批評課題 Noism Company Niigata <境界>
2021.12.26観劇 @東京芸術劇場(プレイハウス)

はじめに
 私は12月26日、日本初の公共劇場専属舞踊団である、Noismの『境界』を観劇した。Noismには、プロフェッショナル選抜メンバーによるNoism0、プロフェッショナルカンパニーNoism1、研修生カンパニーNoism2の3つの集団がある。この度の公演は、2019年冬公演に次いで、ゲスト振付家を迎えて行われたダブルビル公演であり、Noism0をNoismの芸術監督である金森穣が、Noism1をゲストである山田うんが、それぞれ「境界」を共通のテーマとして振付した。

第一章
 まず、Noism1山田うん振付の『Endless Opening』が始まった。幕が開き、そこに広がっていたのは、舞台美術もない、照明もシンプルでフラットな白い世界であった。Noism1は男性4名女性5名計9名でダンスが展開された。衣裳は全員、色がバラバラで、しかしパステルカラーの半透明な羽織にはっきりとした色のレオタードを着用していることは共通していた。ダンサーは次々と出てきて踊り始めた。時には3~4人の小グループでそれぞれ踊るシーンがあった。踊っている中で、カウントを一個ずらし時差を持たせて踊ったり、小グループメンバーが離脱・参加したりと、常に同じメンバーでは踊っていないところが複雑にできていた。それに対して群舞のシーンでは半透明な羽織が良い効果を出していた。山田うんはインタビューの際、「花束をお渡ししたい」という言葉を語った。まさに花と思わせるような衣裳がダンサーを綺麗に彩っていた。ダンスの世界では当たり前なのかもしれないが、9人もダンサーがいるのにも関わらず、足音が全くしないことがダンスを学んでいる私にとって、とても印象的で、よく鍛え上げられていると感じた。このシーンでは群と個で踊るシーンや小グループで踊るシーンがあり、そこの間に境界があるというように見えた。
 途中、ついにベッドのような小道具が出てきた。円形に回り、どんどん増えていく、そして舞台に規則的に並べられた。ベッドに座ったり、寝たり、立ったり、様々な手法で踊られていた。車輪がついている不安定なベッドの上で踊ったり、隠れるシーンでは全くはみ出ることなく隠れたり、ダンサーの稽古時の努力を感じた。ベッドが並んだ時、前からの照明により、後ろの白い壁に柵ができたように見えた。ダンサーがベッドと共に後ろに向かうシーンでは地平線に歩いていくような、境界に向かっていくような、テーマを提示しているようだった。照明がシンプルに作られており、ダンサーの邪魔をしないよう工夫されていると感じた。身体がよく見え、ダンサーが最大限に身体を使い、花を表現していたと感じた。

第二章
 次に、Noism0金森穣の『Near Far Here』が始まった。幕開き、そこに広がっていたのは舞台美術がないのは先ほどの作品と共通していたが、照明が暗く、同じ舞台と思えない黒い世界が広がっていた。副芸術監督である井関佐和子が白い高貴な衣裳を着ており、照明が彼女を当てては消え、当てては消えを様々な場所で行い、井関が瞬間移動しているように見えた。金森穣とNoism1リハーサル監督である山田勇気のふたりが黒い衣裳で同様の演出で舞台に現れた。見ていて、先ほどのグループより踊りの感じや熟練度や経験に違いを感じ、さすが選抜メンバーだと感じた。舞台上方から木の枠が下りてきた。普段の生活感覚からしてみればただの木枠だが、この舞台では鏡に見えた。前から照明が来ていて、背景に影が一致していて「鏡」感を出していたと感じた。鏡の先と今立っている場所とが木枠によって境界を表現しているのだなと感じた。木枠が上がって次に白いスクリーンが下りてきた。スクリーンには事前に撮られた影の映像と実際に今光で当たっている影が映し出された。影同士が踊り、ダンサーと影、現実世界と影の世界、映像の自分と今の自分、スクリーンを境界として色々考えることができた。次にガラスの板と共に、ペアで踊るシーンでは、ペアで踊るにも手や足以外でも物でつながることができることを提示していた。ガラスの板という境界、その境界をうまく操りながら踊るというのがとても印象的だった。最終シーンでは舞台一面が赤くなっていて、上から赤いバラのようなものが降ってきて、一つ境界の先の世界のイメージがあったと感じた。歩いているだけなのに音響の効果やその世界に鳥肌が立った。

まとめ
 山田うんと金森穣が同じテーマで作品を作ったのを見て、照明がシンプルだったり凝っていたり、舞台が白かったり黒かったり、衣裳がカラーだったりモノクロだったり、演出が正反対と言ってもよいくらい違うのに、どちらも『境界』という作品として出来上がっており、様々な表現ができるダンスの多様性を感じた。

(田中来夢)

大学生たちが見たNoism『境界』③(公演感想)

様々な境界

はじめに
 「境界」はあらゆるところに存在する。今回 Noism の『境界』という作品を鑑賞してそれを多くの場面で感じた。ダンサーの踊りはもちろん、照明や様々な舞台装置を駆使した素晴らしい演出。それらから表される物語性や演出家の意図に注目していく。

第一章
 まず山田うんさん振り付けの『Endless Opening』についてだ。最初に目に入ったのはひらひらとした花びらのようにも鳥の羽のようにも見える衣装。衣装はピンクや水色など、淡い色が多く使われており、女性らしいという固定概念に当てはまるようなものだった。その中で男性ダンサーも女性と共に踊っており、女性と全く同じ衣装を着ていたのが印象に残っている。男性らしさと女性らしさの概念をはっきりと分けないジェンダーレスという現代だからこその衣装構成だと感じた。ダンサーそれぞれが優雅ながらもパワフルに動き、唯一無二のダンスを生み出していた。
 最も興味深く感じたのが作品の後半、自らのひらひらした袖を外し、ベッドのようなものに置いて舞台に下がってくる幕の中へと消えていくシーンだ。舞台上にいるダンサーではなく、背景に映し出される影に自然と目がいってしまうような演出と無音の中でダンサーが後ろに向かって歩いていくシーンは、特に凄い技術を見ているわけではないのに見入ってしまった。自ら取った袖をどこかに置いてきたダンサー達は弾けるように踊る。そこに幕という物理的な境界によって生と死の見えない境界線が描かれていると感じた。

第二章
 次に観劇した金森穣振さん振り付けの『Near Far Here』は言葉にするのは難しく、とても神秘的な作品だ。Noismはたとえ何もない空間だとしても、場面展開が早く、ダンサーの技術と共に、見ていて目が離せなくなってしまうのが一つの特徴だと思う。今回の作品もシンプルな額縁やスクリーンがあるだけなのに、そこで繰り広げられる沢山の物語が次々と見えてくる。そんな洗練されたこの作品には様々な境界が存在する。私には本物と偽りの境界、またどこからが境界かが段々とわからなくなっていく不思議さを作品の中に感じた。例えば、スクリーンに映し出された三人のダンサーとそのスクリーンの前で踊るもう一組の三人のダンサー。言い換えれば、実際にそこにいる本物とスクリーンの向こう側にいるように見える偽り。最初は互いに違う動きをしているのだが、段々と動きがリンクしていき、しまいには一人がスクリーンの中に入ってしまう。そこにスクリーンを挟んだ一つの境界があると感じた。最も印象的だったのはラストだ。舞台一面に真っ赤な花が散りばめられていた演出だった。美しさに見惚れていると、観客席にも赤い花が降ってきた。舞台と客席の間にも一つの境界があると考えると、花が降ってくる光景はまるで客席も舞台と化しているようだった。だからこの境界がなくなったとき、私は何か大きな境界がなくなった気がして不思議さを覚えた。またダンサーが舞台から降ってくる花に驚いている私たちをただ立ち尽くして見るというのも面白い光景だった。ダンサーと同じ空気を吸い、同じ空間にいることを自覚させられたような感覚だった。

まとめ
 今回初めてNoismの作品を生で観劇して、固定概念に囚われない演出が凄く新鮮で、自分にとって参考になった。一つの小物や小さな動き、衣装が少し変わるだけで、そこから多くの物語が始まっていくのを目の当たりにし、表現の可能性は無限だと感じた。

(三田ひかる)

大学生たちが見たNoism『境界』②(公演感想)

様々な『境界』の世界

 「境界」を共通ワードとした山田うん演出振付のNoism1『Endless Opening』、金森穣演出振付のNoism0『Near Far Here』の2本立てで構成された公演。

 『Endless Opening』は何もない無機質な空間に、明かりが入り、音が入り、そして、動きが入る。カラフルでひらひらとした衣装が、この無機質な空間に映える。踊りが進んでいくと、ベッドのようなものが次々と出てくる。そこで踊った後、また何もない真っ白な空間で踊り出す。集団になったり、個々での動きだったり、また衣装も相俟って演者たちは鳥を表しているのではないかと感じた。ベッドの上でスポットライトが当てられ踊る姿は、それぞれの死や苦しみのようなものに見えた。上着を脱ぎ自らベッドを暗闇の中に運び、真っ白な空間で踊りだした。暗闇は自分の命の終わりで、真っ白な空間は死の世界、又は新たな命の世界なのではないかと感じた。
 私はこのように解釈したが、「観客の皆様にそっと寄り添う、時間の花束のような舞踊をお届けできたら、境界という不確かな美を感じていただけたら幸いです」という山田うんが実際に表したものは、「喪失感や虚無感を優しく撫でる光のカーテン」である。この解説を読んだ後、作品を思い返すと、何もない空間が演者によって段々と色付けられていく時間でもあったと感じた。一つ残念に思う点は、ベッドを運んでくる音だ。演出の一部であるのかもしれないが、運んできた時の「ギギッ」という音はあまり良いとは思わなかった。

 『Near Far Here』は常に異世界のような空間にいる感覚があった。少しずつ変わっていく空間。上から四角い枠のようなものが降りてきて、演者が踊る。ただの枠がまるで鏡のように見える演者の動きや、後ろに映る影が1つから2つへ、大と小の動きが幻想的である。照明による影からスクリーンを使った影へと変わり、スクリーンに映る影と実際の影の融合は、現実と映像の境界にある空間を作っている。また影から人物へ、影の時と同じようにスクリーンと実際の人物の境界。幕が閉じ、会場に響く重低音。優しく明るいメロディーが鳴り、幕が開くと、あたり一面真っ赤な花びらの空間になり、客席にも頭上から花びらが降ってくる演出であった。最初に幕が開いた瞬間、何か凄いものが始まるのではないかと感じたのが率直な感想だ。袖幕を取っ払い、照明は剥き出し、上には色々なものが吊られていて、『Endless Opening』とは全く違う空間があった。
 金森穣はこの作品を「近くて、遠い、此処」と表している。此処とは何処なのか、言葉にはできない此処の空間、時間があったと感じた。スクリーンを使うという考えは、現代社会を簡潔に表していると思う。スクリーンが映しだす現実と虚実、実際に演者が動く現実が融合されて、「境界」というワードが当てはまる作品であると感じた。

 2本の作品を観て、「境界」というワードによって、観た人の解釈は様々なものになるのではないかと感じた。コンテンポラリーダンスは、表現の方法が多様である。多様である故に、作る人によって独特な表現で作られる為、受け取る人の解釈も様々であると思う。「境界」というワードがあるだけで、それぞれの作品に隠された「境界」の空間を感じ取ることができるのもコンテンポラリーダンスの面白さであり、それぞれの作品の面白さを感じ取れた公演であったと感じた。

(中川怜菜)