圧倒的な舞踊の力を見せつけて幕を下ろした埼玉『マレビトの歌』大千穐楽(2025/12/21)♪

「踊ることでしか伝えられないことがある」、前日のブログでも触れましたが、これは先月(11月28日)の『マレビトの歌』公開リハーサルの後、囲み取材で金森さんが語った言葉。加えて、その折に繰り返し口にされたのが「作品の強度」。この日(12月21日)の大千穐楽を含めた新潟と埼玉での5日間、私たちはそれらの言葉が意味するところを、そう言ってよければ、それらに何の誇張もないさまを、まざまざと目撃・体感してきたのでした。

この日、大千穐楽の終演後も、圧倒的な舞踊の力によって組み伏せられた客席からは、それまでの4日間と全く同様、緞帳が下り切っても、やはり拍手は聞こえてきません。みんな身動ぎすることが憚られたのです。全5公演あったのですから、なかに違った反応があっても不思議ではない筈。しかし、どの日も例外なく同じ反応が返ってきたのです。他のものに代替不可能な舞踊の力を見せつけられ、舞踊に「制圧」され尽くしたからこその反応という以外ありません。

埼玉での2公演で、金森さんはラストシーンを変えてきました。奥行きの深い彩の国さいたま芸術劇場の舞台特性を十二分に活かすための改変です。そのあたり、いかにも金森さんです。やってくれますね。その「埼玉ヴァージョン」は、この作品が『セレネ、あるいはマレビトの歌』として黒部の前沢ガーデン屋外ステージで初演されたときの、目の前に広がる雄大なランドスケープに、(彼岸へと)遠ざかっていく舞踊家たちの後ろ姿と、スロベニア公演を経て新潟で採用された、岩肌に穿たれた開口部を通って(彼岸へと)消えていく舞踊家たちの後ろ姿との、言わば、「ハイブリッド」とも呼ぶべきラストシーンでした。

舞台の一番前、横一列に「火皿(ひざら)」を置いて並んだその位置から、それぞれがその生を総括するように、後方、煙るような闇へと歩を進め、徐々に輪郭が判然としなくなっていく舞踊家たちの後ろ姿。(井関さんを除く。)それが醸し出す、得も言われぬ情緒。個人的なことにはなりますが、その場面と呼び交わすように想起したヴィジョンがありました。それは私が敬愛する映画人、クリント・イーストウッドが撮った『ヒア アフター』(2010)、そこで描かれた「彼岸(=ヒア アフター)」へと歩み去ろうとする人たちの場面です。但し、大きく異なるのは、イーストウッドの「彼岸」が大光量を放つ光源をその中央にあしらって、人物の輪郭をとばしていたこと。ん?え?でも、強い光源をあしらうとなると、黒部での『セレネ、あるいはマレビトの歌』に似てくることに…。そんな按配で、作品の外部とも豊かに呼び交わす舞台、『マレビトの歌』の「埼玉ヴァージョン」に酔いしれつつ、舞台奥の闇に、確かに「彼岸」を幻視する自分がいました。

見どころ溢れる『マレビトの歌』。

冒頭と中盤、金森さんと井関さんによる2度のデュオ、その崇高極まりないさまはどうでしょう。踊るふたりを見詰める目はこの世のものとは思えない美に、都度、釘付けにされ続けました。そして、毎回、その陶酔の果てに、ふたりを越え出る「ナニモノカ」を見るに至るのでした。

また、前半に組み込まれた『Fratres』部分(それはもう『Fratres IV』とでも言いたい気もするものですが)も、舞踊への献身を旨とするカンパニーの精神性が深く共有されていることを遺憾なく示して余りあるもので、観る度に、その濃密で峻厳なさまに言葉を失ってしまいます。

そしてこれはホントに細かい点ではあるのですが、例えば、終盤、手を繋いだ10人が、ゆったりとした音楽に合わせて、横歩きをしていく場面、最後尾の松永樹志さんが後方に伸ばした繋いでいない方の左手、その薬指にピンと力が入り、他と違う気が込められていたこと。そうして見ると、先頭を歩く坪田光さんが前方に伸ばす右手の薬指も同じ様子であることに気付きます。それは金森さん言うところの「Noismでは薬指を大事にしている」、まさにその言葉通りです。そんなふうに、集団として高次に統一された美意識が至るところに認められる美しい舞台だったと言えます。

他にも、勿論、井関さんに庄島さくらさんとすみれさんの3人で踊る場面など、挙げればきりがないほど見どころで溢れかえる舞台だったと言えます。もっと観たかった。5回だけでは少な過ぎる、そう思わせられる舞台でした。

幕を下ろした大千穐楽。見終えたところで、東京に住むNoismファン仲間が言います。「次にどんなものを見せてくれるかしら。楽しみ」、まさに、まさに。「よいお年をお迎えください。また来年」、気付けば、2025年も10日を残すのみ。ホントそんな時期です。お互い、大満足の笑顔で挨拶を交わして、暫しのお別れです。

元来、心配症なもので、乗り遅れたりなどしないよう、遅めの新幹線の指定席をとっていたので、発車までまだまだ時間がありました。(いつもそうなってしまいます。少しは旅上手になりたいものですが。)与野本町駅から大宮駅まで移動し、そこで、随分、時間を潰した後、漸くホームに上がっていくと、そこで見慣れたふたりにバッタリ。地域活動部門芸術監督・山田勇気さんとNoism2リハーサル監督・浅海侑加さんでした。なんでも「新潟に帰るのは私たちだけなんです」とのこと。少し話して、ここでもまた「よいお年を。来年もよろしくお願いたします」と言葉を交わす機会に恵まれたことで、長かった待ち時間も報われたというものです。『マレビトの歌』からの感動のみならず、思いがけず嬉しいハプニングも加わり、更に幸せな気持ちで新潟に戻って来ることが出来ました。

それにしても、Noismにとっての新たな代表作、『マレビトの歌』。また観る日が巡って来るのを楽しみにしております。まだまだ観たいですから。

(shin)

「えええっ!こっ、これは!」魂が震えた「会いに行けるマレビト」・Noism『マレビトの歌』埼玉2デイズ初日♪

2025年12月20日(土)午前、新潟から新幹線に乗車。湯沢を通過するとき、車窓から外に目をやっても、全く積雪がなく、「今って12月だよね、確か」みたいな感覚の攪乱に見舞われつつ、大宮を目指しました。

感覚の攪乱…、少し別種のものにはなりますが、2週間前、新潟でのNoism『マレビトの歌』3公演でも連日体感したことは鮮やかに記憶に、この身に刻まれています。大きな感動を伴う強烈な没入感に、「ここはどこ?今はいつ?」のような、そんな心地よい感覚の攪乱でした。

それが2週間前。その際の極めて上質な余韻が忘れ難く、再びそれに浸りたいという思いで、この度の埼玉の舞台を待っていたそんな気持ちもありました。

与野本町の彩の国さいたま芸術劇場に着くと、東京からのNoismファン仲間、新潟のNoismサポーターズ仲間と期待感を共有しながら言葉を交わしました。

開場時間になり、ホワイエに進みます。漂う華やかな雰囲気。金森さんのお父様、それから宮前義之さんの姿も見られます。物販コーナーには、Noism2リハーサル監督・浅海侑加さんに加えて、Noism地域活動部門芸術監督・山田勇気さんもおられました。

靴下屋さんとのコラボ靴下は、メンズは完売と聞きましたし、レディースも残り僅かとのことです。

さて、『マレビトの歌』埼玉2デイズ初日の舞台です。詳しくは書けません。書きません。でも、でもです。書かなければならないこともあります。それはこの埼玉公演を前にして、金森さんが彩の国さいたま芸術劇場の舞台が有する奥行きの深さについて触れ、「『埼玉ヴァージョン』が出来た」と語った(SNSで呟いた)ことに関わるものです。つまり、新潟とは異なる部分があるのです。それも作品の印象を大きく違えることになる箇所で!「えええっ!こっ、これは!」って具合なのです。

舞台の特性を最大限に活かしたその「埼玉ヴァージョン」。それは客席を圧倒しまくり、観客はひとり残らず、魂が震えるのみだった様子。ここ埼玉の地でも、ラスト、緞帳が下り切ってもなお、拍手することが躊躇われる者たちばかりで、深い感動の静寂が濃い密度で覆い被さる場内、息さえ殺してカーテンコールを待つ、という結末が待っていたのでした。新潟公演初日から続く光景です。もう奇跡にも思われてきます。そこから一転しての盛大な拍手、スタンディングオベーション、そして「ブラボー!」の掛け声、その鮮やかな対比。

約60分のマチネ。そんな奇跡に浸らせてくれるNoismという「マレビト」。しかし、それはほぼ誰もが「会いに行けるマレビト」(そんなふうに言うと、何やら撞着語法、或いは、形容矛盾のようでもありますが、)なのです。1日を24分割した僅かな時間を割くことを選択しさえすれば、確実に生涯にわたる感動を与えてくれる奇跡のような「会いに行けるマレビト」。今日また、60分を差し出したところ、大きな驚きとともに、魂を震わせられる体験が待っていた訳です。埼玉を訪れることを選択した自分を褒めてあげたい気持ちもあります。

私は明日も同じ選択をします。恐らく、Noismという「会いに行けるマレビト」はまた、その圧倒的な身体で、私の予想など遥かに凌駕する感動を与えてくれることでしょう。しかし、感動は折り込み済みであっても、その大きさに打ち震える時間は体感することのみの得難いものです。「踊ることでしか伝えられないこと」(金森さん)に目を晒し、心を揺さぶられる選択が出来る、この度の機会も残すところもう明日一日。会いに行きませんか。確実にそこにいる、類い稀なる「マレビト」に。それは今年を締め括るに足る、そして永く忘れられない舞台になると断言しましょう。当日券もありますので、是非。

(shin)

これはもう最強の「番宣」!-ウェブ「dancediton」に金森さんと井関さんの『マレビトの歌』インタビュー掲載♪

2025年10月16日(木)、うかうか更新を見逃してばかりもいられないというので、NPBのクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第2戦を見ながら、「念のため」とウェブ「dancedition」を覗いてみると、何と『マレビトの歌』に関する金森さんと井関さんのインタビューが掲載されているではありませんか!それもかなりのヴォリュームで。ブルッと身震いしました。

「黒部シアター2023春」において、黒部の屋外劇場で上演された『セレネ、あるいはマレビトの歌』の誕生に関する逸話から始まり、「集団の中でひとり異質な者」を体現する井関さんの「必然性」とそのクリエイション。触発し合う井関さんと金森さん。そして黒部での合宿の持つ意味合い。

「SCOTサマー・シーズン2025」、合掌造りの会場で上演された『マレビトの歌』へ。空間の違いがもたらす影響。そして井関さんの「ゾーン」状態など、経験を積むことについて。

そして『マレビトの歌』はスロベニアの「ヴィザヴィ・ゴリツィア・ダンス・フェスティバル」で所謂、劇場版となり、この冬、新潟と埼玉では「凱旋版」へ。金森さんの出演に関しても新たな情報が!

「(舞台芸術って、舞踊と音楽という二つの詩が拮抗して生まれる新たな詩のようなもの」(金森さん)、「金森穣の作品は詩劇」(井関さん)と、お二人とも「詩」をキーワードとして語っておられます。

そして「踊っていても毎回違うテーマが出てくる」「深い作品」「シーンごとに何かを感じてもらえたら」と語る井関さん。これはもう最強の「番宣」ではありませんか!

この度のお二人へのインタビュー、かなりのヴォリュームかつ充実した内容で、とても読み応えがあるものと言えます♪

そのインタビュー全文はこちらからどうぞ♪ 『マレビトの歌』への大きな期待感に包まれること、間違いありません。是非ご熟読を。

その『マレビトの歌』新潟公演と埼玉公演のチケットですが、本日、りゅーとぴあ会員及びSAFメンバーズの先行発売が始まりましたし、明後日(10/18・土)には一般発売開始となります。よいお席はお早めに♪

(shin)

Noism『アルルの女』/『ボレロ』埼玉で迎えた大千穐楽(「箱推し」の推し活ブログ風)

2025年7月13日(日)、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』公演が、埼玉は彩の国さいたま芸術劇場で大千穐楽を迎え、大評判のうちに、全6公演のその幕をおろしました。ここまで、ネタバレなしにレポートのような、感想のようなブログをあげてきましたが、今日は様々な偶然、それもとても嬉しい偶然が重なったことから、これまでとはまるで違うタッチのブログを残そうという気持ちになりました。敢えて、そのタッチを言い表すなら、「箱推し」の推し活ブログ、とでもなりましょうか。多分に個人的な色彩も強いものになるかもしれませんが、よろしければ、お付き合いください。

朝、宿泊した横浜から、Noism20周年記念の黒Tシャツを着込んで、彩の国さいたま芸術劇場を目指しました。前日の過ごし易さとは打って変わった焦げるように暑い日曜日です。JR与野本町駅からほんの12〜13分歩くだけではあるのですが、それがかなり堪える「苦行」に感じられたため、「着いたら、カフェに行って、冷たいものを飲もう」、そう同行の家族に言うことでやっと辛抱して汗をかきかき歩くことが出来たようなものでした。

劇場前の横断信号を渡って、ガレリアに通ずる入り口を入って、何気なく振り返ると、そこに見覚えのある女性の姿が!その女性、かつて、Noism1メンバーとして活動しておられた西澤真耶さんではありませんか!西澤さんと言えば、映像舞踊版の『ボレロ』に出演しておられるといった点に、今回の公演との繋がりが見出せたりもします。最近は東京で活躍されておられて、なんとかこの日の公演を観に来ることが出来たとのことでした。また、Noism在籍当時に、気さくに接してくださったお母様によろしくお伝えくださいとお願い出来たことも含めて、嬉しい偶然(1)でした。

ミックスジュース、アイスカフェラテ、大人のコーヒーゼリーアフォガード(早くも溶け始めている…)

でも、そのカフェ(Cafe Palette)に着いてみると、みんな考えることは一緒で、3人で座れる席が見つかりません。相席をお願いしようと、連れ合いがお顔も見ずに声をかけさせて貰ったご夫婦が、「えっ!えええっ!」、なんとNoism1の糸川祐希さんのご両親だったのでした。それから約30分間、思いがけずも、糸川さんのこと(今日に通ずる「出発点」Noismのオーディションを受けるに至った経緯なども!)やら、今回の公演のことやらを中心に様々話しながら過ごすことが出来た、スペシャルな時間が持てたのでした。これが嬉しい偶然(2)です。

そして、14:30開場。スーツケースをクロークに預けて「87」の札を受け取った後も、ホワイエに留まり、サポーターズ仲間たちと合流して、大千穐楽開演前の華やぎの中に身を置きながら、入り口付近で外の様子に目をやる金森さんの姿を見続けていると、やがて外に向けて手招きをし始めた金森さん。すると、今年も来月に「サラダ音楽祭」でコラボする東京都交響楽団コンサートマスターの矢部達哉さんが入って来られて、ハグをして、それから親密に話される様子などワクワク見詰めたりしていました。

15:00開演。『アルルの女』です。音楽が耳に届いてくると、緞帳の手前、客席に背中を向けた「アルルの女」井関さんと抱き合う「フレデリ」糸川さん、その目の半端ない色気にうっとりしながら、そこから始まる約50分間の「悲劇」を、この日もカタルシスをもって堪能しました。

全6公演が終わった今だから書けること、繰り返される4度の「死」について。あのインパクトある表現は、かつて、劇的舞踊vol.4『ROMEO & JULIETS』(2018)で用いられ、大いに衝撃を受けたもの!今回、公開リハーサル時に、舞台の手前に、舞台高と同じ高さで黒く立ち上がり、ピットを隠すようにめぐらされた目隠し状のそれを目にした時から、「もしかしたら、また、鳥肌が立ったあの表現が見られるのではないか」、そう微かな期待感を抱いたのでしたが、実際に、時を隔てて再び目にした「死」の表現としての「落下」は、微塵もその破壊力を減じることのなく、この演目においても見どころのひとつとして機能し、やはり今回も鳥肌ものだったことを認めたいと思います。

モロに「ネタバレ」になってしまうため、ご紹介を控えていたのですが、新潟公演でのアフタートーク(6/28)において、その「落下」後のコツについて、質問があり、ピットには無数のウレタンスポンジが敷き詰められていて衝撃を和らげてはくれるものの、出来るだけ大きな面で受け止められるように落ちるのがダメージが少ない、そう金森さんが説明してくれたことをここに書き記しておきます。

見事に可視化されていく妄想やら、妄執やら、不在の現前やら。瓦解する精神性が命とりになってしまう様子やら、その表現の巧みさとそれを支える身体の迫真性があって初めて、ラスト、微動だにせず、ただ小首を傾げる「ジャネ」(太田菜月さん)の姿に、あのカタルシスが宿る訳です。この日は埼玉の中日(そして初日)のような「静けさ」「静寂」から始まるリアクションとは別物の、大千穐楽という、謂わば「祝祭空間」がもたらしたのだろう即応性の高い熱烈な拍手が、緞帳が下り切る前に劇場内に谺することになりました。その後の休憩時間にあっては、観終えた観客の多くが、入場時に手にしたパンフレットに、さも興味深げに、目を落としていました。

そして、『ボレロ — 天が落ちるその前に』。ひとり、真上からのダウンライトを浴びて、特権的な赤を纏う井関さんを除くと、他は全員、『Fratres』シリーズ(2019-2020)の黒の衣裳で登場してきます。やがて、ひとり、またひとりとそれを脱ぎ捨て、あれは「キナリ」でしょうか、手足を露出させつつ、「脱皮」或いは「メタモルフォーゼ」を遂げていきます。それはベジャール振付の名高い『ボレロ』とは異なり、中心から周囲への「伝播」の方向性をとるものであり、Noismの集団性を謳いあげるベクトルを感じさせるものと言えると思います。やがて、シンクロして踊る身体を見詰める醍醐味が横溢するでしょう。その美しさ!少し先を急ぎ過ぎました。

加えてこの演目で、その美しさをもって、観る者を圧倒しにかかるのは、徐々に顕しとなっていく最後方、金色のホリゾント幕です。下の方からその金色が見えてくる様子自体が陶酔を誘うひとつのハイライトを形作っている、そう言っても過言ではないでしょう。有無を言わせぬ圧倒的な美そのものです。それは、かつて、『Liebestod — 愛の死』(2017)で用いられた装置であり、ここでも、ラストにいたって、あのときの「屋台崩し」に似た場面が再現され、その頽れる美の有り様で私たちを虜にしてしまうでしょう。またしても、急ぎ過ぎてしまっているようです。

「魔曲」にのって、自らの身体(メディア)をチューニングし、上方、天に向かって、両の腕を伸ばす舞踊家たち。祈りと献身は、中央の井関さんに発して、フォーメーションを変化させながら、やがて、集団へと「伝播」し、全員のものとなっていく。しなやかで強靭な身体。力強くも繊細な身体。優美ながらも艶かしささえ立ち上げる身体。エロス(生)と同時にタナトス(死)、刹那と同時に永遠さえ表象してしまう身体。およそあらゆる二分法が無効化され、止揚されて、迎えることになるラストの一瞬。その陶酔。

この日も客席からは爆発的な拍手が湧き起こり、「ブラボー!」の声が飛び交ったことは言うまでもないことでしょう。

この火を吹くような『ボレロ』の終演後、興奮を抑えることが出来ないサポーターズ仲間に混じって、前出の糸川さんのお母様が、終盤の盛り上がる場面で、中央の井関さんが両脇に目配せして、「最後、思いっ切り踊り切ろう」という感じで誘いかける様子を目撃したと話されると、確かにそう見えたと応じる人もいました。私自身は、しかと目にしてはいなかったのですが、そうだとしても、何ら不思議ではありませんから、「なるほど」と聞いていました。同時に、「全てを観るためには目はふたつでは足りないな。情報量が多過ぎる」、とも。本当に魂から揺さぶられ通しの、圧倒的な大千穐楽だった訳です。

しかし、偶然はまだここで終わりではなかったのです。新潟に向かう新幹線に乗ろうとJR大宮駅まで行き、やや時間をもて余し気味に、新幹線待合室で過ごしていて、ペットボトルの水でも買おうかと売店まで赴いたとき、目を疑うような偶然(3)があり、驚いたのでした。なんとそこには、先程まで踊っていた庄島さくらさん・すみれさんの姿があったからです。またしてもの「えっ!えええっ!」体験です。私の目はハート型になっていたに違いありません。もうテンパってしまったことは容易に察して頂けるものと思います。感動の舞台のお礼を伝えたのち、テンパっていたのをいいことに、「連れ合いも連れて来ていいですか」など口走って、結果、4人で立ち話をする時間を手に入れてしまった訳です。お疲れのところにも拘らず、(同じ新幹線に乗車予定だったため、)まだ少し時間があると、優しく応じてくれたおふたりには感謝しかありません。

そこで件の『ボレロ』における井関さんの目配せについて訊いてしまいました。訊いちゃったんです、実際に。すると、確かに盛り上がりのところで目配せはあったと教えてくれました。しかし、それはこの日だけではなしに、埼玉入りしてから始まったことだったのだとも。で、その目配せで気持ちが通じていることが嬉しかった、そう教えてくださいました。テンパっていたから訊けたことですよね。で、テンパりついでに、『ボレロ』終盤でのおふたりのポジションについても、下手(しもて)側がさくらさん、上手(かみて)側がすみれさんだったことも確認させて頂き、胸のつかえがとれました。今回は髪の色も同じ、髪型も同じということで、見分けるのが極めて困難だったのですが、そんな私の失礼と言えば、失礼でしかない質問に対しても、「そうですよね、見分けはつき難いですよね」、微笑みながら、そう言ってくださっただけでなく、「穣さんも間違ったりしましたから」とまで付け加えてくださる気遣いにホント感動しました。(おまけに、4人で自撮り写真まで撮らせて頂きました。それ、もう宝物です。)更に更に「推し」ていく他ないじゃありませんか!

そんな夢みたいな時間を過ごして、新潟に向かう新幹線に乗り込み、荷物を棚に上げたりなどしていると、通路を歩いて来る男性が、私の苗字に「さん」付けで呼び掛けてくるではありませんか!偶然(4)はここにも。それは山田勇気さんでした。山田さんも同じ新幹線だったのですね。虚を突かれて、「あっ!どうもです」くらいしか言えず、トイレに向かった連れ合いに知らせに行くと、驚いた連れ合いも大した挨拶も出来なかったような始末。常に平常心でキチンと応じることの出来る人にならねば、この日の締め括りにそんな思いを強くしたような次第です。

思いがけず、様々な嬉しい偶然に恵まれたことで、これを書いている今もまだ「Noismロス」に見舞われずに済んでいました。

ということで、このような「箱推し」の推し活ブログ、長々とお読み頂き、誠に恐縮、並びに心より感謝です。

(shin)

『アルルの女』/『ボレロ』埼玉公演中日、圧巻の舞台に客席は…♪

2025年7月12日(土)朝、新潟から新幹線で埼玉入り。彩の国さいたま芸術劇場を目指したのでしたが、我慢できないほどの暑さではなく、ホント助かりました。はい、実に幸いでした。

新潟からの、そして各地から駆けつけたサポーターズ仲間や友人・知人、その顔を見つけたならば、お互いに笑顔で引き寄せ合い、色々話したりしながら開演時間迄を過ごした、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』埼玉公演の中日(なかび)です。

この日も期待通りに、期待の遥か上をいく圧巻の舞台を見せてくれた舞踊家たち。雄弁な身体が切なくも皮肉な物語を語り尽くし、見詰める目をさらっていってしまう『アルルの女』、徐々に熱を帯びていき、遂には完全な燃焼に至る身体というメディアが座して見詰める者のミラーニューロンを刺激しまくる『ボレロ — 天が落ちるその前に』。

この日(埼玉公演中日)、そんな趣きを異にするふたつの演目に対して、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉の客席も見事なまでに顕著な「二様」の反応を示したことを書き記しておきたいと思うものです。

まずは『アルルの女』。ビゼーの音楽も消え、緞帳が完全に降りてしまってもなお、ラストシーンの余韻の強烈さに圧倒された客席は水を打ったように静まり返り、居合わせた誰もがその沈黙を破ることを躊躇い、物音ひとつ聞こえない「静けさ」が訪れたのでした。(それも、体感的には、随分と長い時間に感じられました。)で、ややあって、一斉に沸騰したかのような熱い拍手が湧き起こったような按配なのですが、その拍手の熱さよりも、それに先立つ重くのしかかってくるかのような「静けさ」の方に、Noism版『アルルの女』の凄さを見せつけられた思いがし、この日、そんな稀な時間に立ち会えたことは決して忘れないだろう、そう思っています。

次いで『ボレロ — 天が落ちるその前に』。「魔曲」とも呼ぶべきラヴェルの『ボレロ』に乗って、発火していく身体がまさに生を燃焼し尽くすかのようなその一瞬が訪れるが早いか、座ったまま、煽られに煽られた客席の興奮も頂点に達して、間髪を入れずの熱狂的な拍手と方々から響く「ブラボー!」の声、また声。すぐには笑顔を浮かべることも出来ない、滴る汗と荒い息遣いの舞踊家たちに対し、全身で受け止めた大きな感動に加えて、その昂った感情を解き放つ時を得て、欣喜雀躍するかのようにもスタンディングオベーションを拡げていった観客たち。観る側にとっても、それは同様になかなかに得難い「生」の発露の一瞬だったのであり、「伝播」の主題は間違いなく客席も呑み込んでいってしまったのでした。

この埼玉公演中日は、踊られたふたつの演目がそれぞれに客席を圧倒し、客席は劇場で圧倒される「非日常」の幸福に酔いしれることとなった、それはそれは豊穣な1日でした。

残すは大千穐楽の舞台のみ。凄い「二様」を是非一度、是非もう一度♪

(shin)

彩の国さいたま芸術劇場でのNoism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』初日公演(2025/7/11)に行ってきました。(サポーター 公演感想)

前日(2025/7/10)の大豪雨の効果影響か、道中は大変涼しく、劇場に向かう足どりも心なしか軽やかでした。金森さんの仕業でしょうか(笑)。

いつも楽しみにしている壁面の巨大ポスター、今回はありませんでした。残念…
劇場ビュッフェも営業していました!「コエドビール」が気になる…

客席も平日夜間にしては大分埋まっており安心しました。冬公演(「円環」)からのリピーターもたくさんいらっしゃるのかもしれません。

新潟初日以来の2回目の鑑賞となりますが、2回目にして更に感動しました!
『アルルの女』については金森さんが設定を変えているので、舞台上で起こる出来事をありのまま受け取るのが良いかもしれません。
詳細は観てのお楽しみですが、ひとこと。終盤の「ファランドール」は音楽とのシンクロが笑っちゃうぐらい見事で感動しました!

『ボレロ』も歩みを止めず、徐々に陰を陽に変える力強さが素晴らしいです。過去2回のオーケストラとの共演ではあまり感じませんでしたが、円(卓)を囲んでおどると途端にベジャールぽくなるのが不思議です。

明日、あさってもきっと良い公演となるでしょう。私も最終日に伺う予定です。楽しみにしています!

開場時にはまだ明るかったのに
終演後はすっかり暗くなりました。

(かずぼ)

2/9埼玉にて大千穐楽を迎えたNoism「円環」ツアー、また巡りくる新たな奇跡を信じる気持ちに♪

2024年2月9日(日)、埼玉は彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉にて、昨年末から始まったNoism0+Noism1「円環」トリプルビルのツアーが、多くの観客を前にして、その幕をおろしました。終演時には、大勢の人たちがスタンディングオベーションで大きな拍手を送り、「ブラボー!」の声も多く飛び交いました。

通常、暫し身を苛まれる「Noismロス」、宮河愛一郎さんと中川賢さんを観る機会がなくなったことが重なるため、いつも以上に重症化しそうに思えていたのでしたが、実際には、過日のJCDN「Choreographers 2024」新潟公演プレトークでの呉宮百合香さんが発した言葉「作品との関係性は上演だけでは終わらず、その後の時間も含めてのもの」「作品が更新されていく」に救われるかたちで、一定程度抑え込めているように思いますし、そもそも井関さんが実現に漕ぎ着けてくれたこの度の公演自体が「奇跡」の名で呼ばれていたのだとしたら、(いかに詭弁に聞こえようと、)その奇跡は既に奇跡ではなく、だとしたら、また巡りくる新たな奇跡すら信じていいのかなとか思えているのです、不思議なことに。
今もなお続くある種の陶酔のなかに身を置きながら、同時に、この先への途方もない期待を抱きつつ、これを書いています。

『過ぎゆく時の中で』、前日(埼玉公演中日)のブログに書いたように、これまで観たことのない「脇役」金森さんの虚ろな姿が、この日も、より一層色濃く迫ってきました。
そうしてみると、あの黒い帽子も、「旬」を過ぎた舞踊家、ただひとり、颯爽とした若手からは歯牙にもかけられなくなりつつある存在のみが身に着けるアイテムにしか見えてきません。彼も一度、それを脱ぎつつ、若手たちと同型の理想に向けて同じように手を伸ばしてもみせますが、すぐに思い直したかのように、頭を垂れるとその帽子を大切そうに胸に抱いて、片膝ついた姿勢から、再びかぶることを選びます。「今の自分」を受け入れた瞬間でしょう。純粋に若手たちの姿に、自らの若き日の格闘(勿論、金森さん自身のそれではなく、舞台上にいる「旬」を過ぎた舞踊家の仮構されたそれであることは言うまでもありません。)を重ね合わせて見るように変貌したことを意味するでしょう。
時を止めてでも浸っていたい「美しさ」、その減却に否応なく直面させられる残酷な事態を金森さんがこの上なく美しく可視化していく、その意味で倒錯的な作品という側面も含めて、金森さんからの愛情に裏打ちされた「檄」に見えると思う訳です。(少しやわらかい言い方をとれば、「励まし」、或いは、期待を込めた「贈り物」となるのかもしれませんが。)そうすると、やはり、金森さん、「脇役」ではありませんよね。疾走感が全編に溢れていて、その部分が大いに目を惹くその見かけの内実、何という複雑な構造をしているのでしょうか。(あくまでも個人的な感想です。)

『にんげんしかく』については、まず、始まって間もなく、樋浦瞳さんが発する了解可能な一語についてのまとめから始めたいと思います。三好さん相手に、バナナらしきものを食べるマイムをしてみせてから、ポケットから取り出すアイテムの名称を大きな声量で明瞭に伝える場面ですが、新潟でのそれは「笹団子」、北九州が「明太子」、滋賀は「琵琶湖」ときて、埼玉では「笹団子」に戻ったことにもひとつの「円環」が見てとれるかもしれません。しかし、大事なのはそこではありません。
そこに至るまでを見直しておきます。最初、緞帳があがると、舞台上には段ボールたち。それがゆるやかに、滑らかに動き始めると、それを見詰める私たちに愛着の萌芽が芽生えます。しかし、ややあってその新鮮さが薄れてくる頃、舞台上では、客席にいる私たちには理解不能な言語でのやりとりが始まり、私たちは取り残されたような、作品に繋がる通路を断たれてしまったような、身の置き所がない感覚を味わう時間がやってきます。そんな理解不能な言語が作品への私たちの没入を怪しくしていたその時です、その一語が耳に入ってくるのは。それは、虚を突きながら、一瞬にして身構えていた部分をやんわり取り払い、謂わば武装解除してしまうだけでなく、逆に、大きな親しみを感じさせてしまう絶大な効果を示すでしょう。瞬時に舞台と客席とを結ぶ確固とした回路が生まれてしまうのです。この35分の作品において、とても印象的なものですらあります。
しかし、やがてそれこそがかなり危うい落とし穴なのだと気付くことになりました。私たちは耳に届く言語が理解可能なのか理解不能なのかに大いに縛られて、居心地がよくなったり、悪くなったりする部分があることに気付かされたのです。その気付きに至る比較対象が、身体の動きだったことは言うまでもないでしょう。私たちは、動きが理解可能か、理解不能かにそれほど頓着したりはしないのではないでしょうか。動きが一義的な意味や合目的性を有していないとしても、なんとなくやり過ごせてしまう、とでも言いましょうか。ところが、言語となると事情は全く別になってしまうのです。あの言語的に理解し得る意味を奪われて見詰める状況下で、耳にする「笹団子」や「明太子」、「琵琶湖」が心地よかった裏には、近藤良平さんが仕掛けた罠があった訳です。言葉など放ったまま捨ておいて、観るべきは動きなのだと。
そうした罠の最たるものが、終盤にやってきます。舞台上の10人が声を揃えて発する「とっても素敵な人生です。(×2)あっちもこっちも楽園です。うーん、迷ったときには、知らないところへ、1、2、どっきゅん」という「何か」を明瞭に指し示し過ぎる言葉です。この言葉は、一見(一聴)すると、作品のテイストを言語化したものに思えますが、私は、新潟公演の初日から、「どこか空疎で、上滑りしている」感が否めないように感じてきたのですけれど、ずっと、それが何故かには気付かずにいたのでした。観るべきは動きでしかないということに。そういう身体の動き重視のスタンスでこの作品に向き合うとき、舞台上の10人が、自分の段ボールが世界の全てだったところから勇気をもって、その外部へと踏み出して、他者からも受け入れられ、他者と多様に繋がっていくさまを余すところなく可視化していく身体の動きは、素敵そのものであり、あんな関係性が構築できたなら、そこはすべからく「楽園」と呼んで差し支えなかろう、といったことくらいは目が既にして納得させられていたことに過ぎなかった訳です。それが上記の「空疎で、上滑り」に感じられた理由だったのです。
近藤良平さんが仕掛けた罠、そう書きましたけれど、もし正面切って訊ねたりしてみれば、一言のもとに、「そんなことは考えていない。ただの僕の『演出の癖』だから」などとやんわり返されてしまいそうなこともわかったうえで、敢えて書いています。しかし、舞踊の根幹を確かめさせられた、そんな作品だったことに間違いはありません。

そしてトン・タッ・アンさんのピアノの音が聞こえてくると、今度は再び金森さんによる美し過ぎる『Suspended Garden - 宙吊りの庭』です。ここで否応なく、向き合うことになるのは、金森さんと近藤さんのテイストの違いでしょう。
並べて鑑賞してきた今、乱暴なことを承知で、私が感じていることを記すならば、金森さんは常に自らを超え出て、「舞踊」というより大きなものに迫ろうとし、至ろうとする、その献身の姿勢に貫かれていて、その透徹した美意識をもって、(どこでもない時空に)豊穣この上ない「非日常」を立ち上げ、私たちを極上の刹那に浸らせてくれる演出振付家と言えるかと思います。永遠への指向性が強く感じられる舞踊が作品の多くを占めています。
かたや、近藤さんは自らの「演出の癖」へのこだわりを土台に、「舞踊」という大きなものの懐に抱かれるかたちで、私たちをアナーキーで混沌とした、唯一無二の「近藤良平ワールド」に引き込んでいくタイプの演出振付家となるでしょうか。与えられた(多くは突飛な)状況を生きる舞踊家の姿そのものを届ける舞踊に映じます。


そんなベクトルの違い、そしてその先、舞踊の多様性に感情を大きく揺さぶられたことで、一応のものとはいえ、上に書いてきたような無茶苦茶なまとめまでしてみたくなるほど、見終えた後もその魅力が尾を引く「円環」トリプルビル公演でした。またこの演者たち、この作品たちに見(まみ)える途方もない新たな奇跡を信じつつ…。

(shin)

晴天の与野本町、Noism「円環」埼玉公演中日(2/8)♪

2025年2月8日(土)、大雪の新潟市を脱出して与野本町、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉でNoism「円環」中日(なかび)の舞台を観ました。

しかし、その道中は実に大変なものがありました。上越新幹線で大幅な遅延が生じていたせいで、始発の新潟駅を出発する時点で既に満席で、通路にも多くのお客さんが立っている状態。40分ほど並んで、何とか自由席に座ることは出来ましたが、大宮駅にはダイヤから約90分遅れでの到着でした。でも、それはまだマシだった方で、そこから先は新幹線が「渋滞」しているため、終点の東京駅まで40〜50分を要する見込みで、在来線の方が早いとの珍妙過ぎる車内アナウンスが流れていたくらいです。新幹線って「bullet train(弾丸列車)」ですよね。そんなこんながあって、与野本町に辿り着いたとき、見上げた青空がホント「非日常」の光景として目に映じたような次第です。

そんな塩梅で、公演が始まる前に、ある種の「非日常」にとっぷり浸っていたのでしたが、17時からの約2時間、瞬きするのも惜しいほどの真の「非日常」に触れることになりました。私ににとって、新潟・りゅーとぴあ3days以来となるこの日の「円環」トリプルビルの舞台はより深みと強靭さを増した印象で迫ってきました。

先ずはNoism0+Noism1『過ぎゆく時の中で』。若いNoism1メンバーたちの疾走に対する金森さんの歩みは長じた者が示す所謂「泰然」や「達観」とは別種のものに映じ、私たちはこれほど惑い、あたふた慌てた挙句、崩れ落ちたりもする「弱い」、言わば「脇役」の金森さんをこれまで一度たりとも目にしたことなどなかった筈です。これは尋常なことではありません。そして、この日、強く印象に残ったのは、庄島さくらさんとのデュエットを踊る際、さくらさんの身体に添えられた金森さんの妖艶と言っても過言ではない手(指)の表情でした。ゾクっとしました。しかし、それも束の間、坪田光さんとの溌剌としたパートナリングに乗り換えられてしまうのです。そうした全てが「時よ止まれ!君(たち)は美しい…」に収斂していくのです。いや、そこに込められた金森さんの思いは、正確には「君(たち)は美しい筈…」なのではないでしょうか。この一作まるまるが若き舞踊家たちへの愛情に満ちた厳しい「檄」になっていて、この先への大きな期待が込められていると言ってしまったら穿ち過ぎでしょうか。で、Noism1メンバーたちはその期待に充分応えるだけの熱演を見せてくれています。それはこの日も明らかなことでした。

続くふたつ目の演目は、彩の国さいたま芸術劇場芸術監督・近藤良平さん演出振付のNoism1『にんげんしかく』です。この日、まず、私に深く食い込んできたものは、指示対象や意味内容が明示的でない言語(=何を言っているのかわからない言葉)が一方にあり、指示対象や合目的性を持たない身体の動き(=何をしているのか判然としない動き)がまた一方にあって、それらに接して感じ得る美しさという点では、両者に途方も無い開きがあるということでした。勿論、美しいのは身体の動きの方であることは言うまでもありません。そんなことを考えてしまったきっかけは樋浦瞳さんのポケットの場面にあります。了解可能な「あの一瞬」が強いインパクトを残せばこそ、そうした対比が迫って来たという訳です。そのあたり、まだ大千穐楽を残している今、詳しくは書けませんし、元々がうまく説明出来る自信もないのですが、機会を改めて試みてみます…すみません。
そしてこの演目、個人的なツボがカーテンコールのときにもひとつあります。それは拍手に応えて立つ彼ら彼女たちが、やがて段ボールに手を置いて微笑み、お辞儀をするところです。中でも、上手(かみて)手前の太田菜月さんが「相棒」の熱演をそっと称えるかのように手を添える姿にキュンとしてしまいます。それはやはりこの日も同じでした。皆さんはどうですか。

三つ目の演目は、Noism0『Suspended Garden — 宙吊りの庭』です。耳を澄ませました、目を凝らしました、この日も。そして息を呑みました、この日も。美しさの極致にして、様々なことを想像させて余りある余白。それは静まり返っているようでもあり、饒舌なようでもあり、簡単に言葉では掴まえられないような、そう、まさに前言語的な、雄弁な身体のなせる業。4人+トルソー+トン・タッ・アンさんの音楽による夢幻のようなひとときの悦楽。ゲストの宮河愛一郎さん、中川賢さんがいてこそ立ち上がる情緒は、如何に望もうともあと一度しか観ることが叶わないもの。大千穐楽が本当の見納めです。

埼玉公演中日、そんなことを感じました。

そして、もうひとつ書き記しておきます。それは、各種の公演チラシと一緒に皆さまのお手元に渡されている「さわさわ会」(舞踊家 井関佐和子を応援する会)の会報誌についてです。Noism20周年、「さわさわ会」10周年にあたって制作されたこの度の会報誌は、その足跡を井関さんのお誕生日の画像で辿るもので、とても素敵な仕上がりになっています。是非、しげしげガン見してみてください。味わい深いものがありますから。

大好評のうちに、今回の「円環」ツアーも大千穐楽を残すのみとなりました。豊穣な「非日常」を味わえる舞台です。当日券の販売もあるようですし、皆さま、どうぞお見逃しなく!

(shin)

速報!2/7のNoism「円環」埼玉公演初日について(サポーター 公演感想)

彩の国さいたま芸術劇場でのNoism「円環」初日公演に行ってきました。

劇場に向かう埼京線が少し遅れていて、駅から劇場までは周りの方たちと同様に早足で向かいました。

心配していたお客さんの入りも上々で(Noismの皆さんは満席を目指しているのでしょうが)、トリプルビルそれぞれの実演も素晴らしく、お客さんの反応もとても良かったです。

私もそれぞれの演目に新しい発見や感動があり、全く飽きることがありません。特に『宙吊りの庭』については、これまでクール系と感じていたのですが、激アツな作品であることに(今さらですが)気づきました。金森さんもこのメンバーとのクリエーションが嬉しかったのでしょうね!

明日、あさっての公演も楽しみです!

『Singing Daxophone』のCD、購入しました!

(かずぼ)

場内を魅了し尽くして幕をおろした「Amomentof」7/28大千穐楽(@埼玉)+6/29アフタートーク補遺

Noism Company Niigataの20周年記念公演「Amomentof」が、遂に2024年7月28日(日)に灼熱の埼玉は与野本町、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉にてその全6公演の幕をおろしました。

この日の開演時刻(15:00)頃には、気温は38℃になるとの予報が出ていた与野近辺。風もなく、蒸し風呂の中にでもいるかのようなその暑さは、ヒトの暑熱順化など到底追いつくべくもないほどの気温であったかと。

そんな酷暑の街路を辿って彩の国さいたま芸術劇場を目指して歩いていたのは、しかし、別種の「熱」を求める人たち。その移動振りは、この日、その場所を目指した目的から、周囲の異常とも言える高温にさえ負けぬ様子を示していたように思います。

その「熱」を発する舞台を観ようと集まってきた大勢の観客のなか、浅海侑加さんのお母さん、糸川祐希さんのお母さんと、そしてフランスからドバイ経由の20時間の空旅で駆けつけた旧メンバー・中村友美さんとも色々お話ができましたし、更に宮前義之さんの姿なども認めたりして、いやが上にも気分はあがりました。

大千穐楽の舞台はやはり「熱」を発して余りあるものでした。

まずは『Amomentof』。バレエバーに手をかけて身体をほぐすことに始まる日常から、日々に住まう葛藤や苦悩をあからさまにしつつ、物凄い高揚を見せてのち、最初の場面へ。「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道」と言ったのはイチロー選手。誰もが肯(がえ)んずるほかない真理なのですが、この舞台ほどの説得力を伴って可視化されることは稀でしょう。井関さん、金森さん、そして他のメンバーたち、それぞれが見せる目の表情、それらが行き違い、交錯するさまには実にスリリングなものがあります。

この演目には、Noismの過去作で目にしてきた「振り」の数々があちらこちらに織り込まれているだけでなく、終盤に至っては、私たちが見詰めるその舞台の奥に、『Mirroring Memories』を彷彿とさせるようなかたちで、先刻、ハケたメンバーたちがこれまで井関さんが纏ってきた数々の衣裳ほかに身を包んで居並ぶ姿が見えてくるではありませんか!更に、やがて、その上方に「20年間」の公演ポスターが一気に映し出されて追い打ちをかけてくるのです。胸に去来する様々な思い出の場面。「ずるいよ、金森さん」涙を堪えることなど早々に諦めるしかありませんから。目に映ずるのは孤高を経て、やがて敬意の群舞へと転じ、その舞台狭しと躍動するメンバーたちの中央、井関さんが発する万感籠もった泣き叫びの声には胸を強く揺さぶられずにはいられません。

更に言えば、マーラーの交響曲第3番第6楽章「愛が私に語りかけるもの」をその作品中に取り込んでしまうといった、大胆と言えば大胆に過ぎる構成の妙も畳みかけてきます。マーラーの旋律とともに現前する圧倒的な高揚感の画、しかし、その全てが、最後、井関さんがメンバーたちに向けるキョトンとした目によって、ありふれた日常の時間のなかに回収されてしまうさまが実に詩情豊かで、切れ味抜群、憎いくらいに見事なのです。

この日は完全に幕がおり切るまで、拍手は一切起こらず、(刹那とはいえ、)甘美な余韻が静寂となってホール内におりてきました。その後、「もっと拍手をしていたいのに」、そんな気持には頓着することなく、呆気なく客電が灯るのはいつも通りでした。

20分の休憩を挟んで、『セレネ、あるいは黄昏の歌』が記念公演の掉尾を飾りました。この大作も、目の表情のスリリングさの点で『Amomentof』に全く引けを取らないものがあります。陶然として春の歓びを発散させる目があったかと思えば、動物的な「生」のエネルギーが「性」的な逸脱へと至る様子を押し殺した怒りを浮かべながらも、敢えて直視しようとしない目があり、はたまた、「憎しみ」の連鎖を宿し、その対象を見出してしまう凶暴な目や、その自らの「蛮行」に自ら怯える目もあり、老いて呆けた印象の、同時に寛容さを示す目に、それを模倣しようとする剽軽な目や、何物にも囚われることのない無邪気さそのものの目、かと思えば、呪術的な手の仕草を繰り返しながら、真っ直ぐ前を見詰めて動じない迫力に満ちた目、等々、挙げだしたらきりがないほどです。舞踊作品において、目ばかり取り上げるのもどうかと思いますが、少なくとも、そこにこの作品を読み解く鍵(のひとつ)があるとしか思えないのです。

命が芽吹く春。内的な力が溢れて、ときに暴発し、その様相をすっかり異にしてしまう夏。平衡かに見える秋を経て、やがて冬の死へ。しかし、一刻も止まることはなく、やがて再生へ…。そんなふうに巡る季節。循環。描かれる円環。

そう、「ENKAN」。近藤良平さんを招いての来る冬の「トリプルビル」です。「巡ること」のモチーフはこの後のNoismにあって、多様に追い求められていくことになりそうですね。楽しみです。

大千穐楽の幕がおりたとき、場内に谺した大きな拍手と「ブラボー!」。そして広がったスタンディングオベーション。無理からぬことです。「20周年」ということを全く抜きにしても、私たちが目撃したのは、物凄い訴求力をもつふたつの演目であり、それは取りも直さず、舞踊家の献身煌めく刹那が途切れることなく連なることで編み上げられた舞台だった訳ですから。もう、端的に言って、至福のときを過ごしたとしか言いようがありません。

皆さんの目には、そして心にはどう映じたでしょうか。「Amomentof」大千穐楽についてはここまでです。

ここからは、以前(2024/6/29)のブログ記事(「Noism 20周年記念公演新潟中日の眼福と楽しかったアフタートークのことなど♪」)において、公演が続いている事情から、「ネタバレ」に繋がるので書けないでいた同夜のアフタートークでの井関さんと金森さんのやりとちをご紹介して、ブログの締め括りにしたいと思います。以前の分と併せてご覧頂けたら幸いです。

☆★6/29アフタートーク(新潟公演中日終演後開催)補遺★☆
☆井関さんが一番思い出に残っている衣裳は何か
金森さん: 『Amomentof』では井関さんがこれまでに着た衣裳を出した。
井関さん: 「一番」となると難しいが、思い入れで言ったら、故・堂本教子さんによる『夏の名残のバラ』の赤い衣裳。生地に拘って色々語っていたのを思い出す。今回、出ていなかった衣裳だけど。
金森さん: 色味が色々あったし、バランスがあった。でも、拘りがあって、最後の最後、井関さんが「あれは(出すのは)イヤだと言った」
井関さん: アレを出したら、「私が着ます」となっちゃうから。

…というところを今漸く書くことが出来て、スッキリした気持になりました。以上です。

(shin)