2/9埼玉にて大千穐楽を迎えたNoism「円環」ツアー、また巡りくる新たな奇跡を信じる気持ちに♪

2024年2月9日(日)、埼玉は彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉にて、昨年末から始まったNoism0+Noism1「円環」トリプルビルのツアーが、多くの観客を前にして、その幕をおろしました。終演時には、大勢の人たちがスタンディングオベーションで大きな拍手を送り、「ブラボー!」の声も多く飛び交いました。

通常、暫し身を苛まれる「Noismロス」、宮河愛一郎さんと中川賢さんを観る機会がなくなったことが重なるため、いつも以上に重症化しそうに思えていたのでしたが、実際には、過日のJCDN「Choreographers 2024」新潟公演プレトークでの呉宮百合香さんが発した言葉「作品との関係性は上演だけでは終わらず、その後の時間も含めてのもの」「作品が更新されていく」に救われるかたちで、一定程度抑え込めているように思いますし、そもそも井関さんが実現に漕ぎ着けてくれたこの度の公演自体が「奇跡」の名で呼ばれていたのだとしたら、(いかに詭弁に聞こえようと、)その奇跡は既に奇跡ではなく、だとしたら、また巡りくる新たな奇跡すら信じていいのかなとか思えているのです、不思議なことに。
今もなお続くある種の陶酔のなかに身を置きながら、同時に、この先への途方もない期待を抱きつつ、これを書いています。

『過ぎゆく時の中で』、前日(埼玉公演中日)のブログに書いたように、これまで観たことのない「脇役」金森さんの虚ろな姿が、この日も、より一層色濃く迫ってきました。
そうしてみると、あの黒い帽子も、「旬」を過ぎた舞踊家、ただひとり、颯爽とした若手からは歯牙にもかけられなくなりつつある存在のみが身に着けるアイテムにしか見えてきません。彼も一度、それを脱ぎつつ、若手たちと同型の理想に向けて同じように手を伸ばしてもみせますが、すぐに思い直したかのように、頭を垂れるとその帽子を大切そうに胸に抱いて、片膝ついた姿勢から、再びかぶることを選びます。「今の自分」を受け入れた瞬間でしょう。純粋に若手たちの姿に、自らの若き日の格闘(勿論、金森さん自身のそれではなく、舞台上にいる「旬」を過ぎた舞踊家の仮構されたそれであることは言うまでもありません。)を重ね合わせて見るように変貌したことを意味するでしょう。
時を止めてでも浸っていたい「美しさ」、その減却に否応なく直面させられる残酷な事態を金森さんがこの上なく美しく可視化していく、その意味で倒錯的な作品という側面も含めて、金森さんからの愛情に裏打ちされた「檄」に見えると思う訳です。(少しやわらかい言い方をとれば、「励まし」、或いは、期待を込めた「贈り物」となるのかもしれませんが。)そうすると、やはり、金森さん、「脇役」ではありませんよね。疾走感が全編に溢れていて、その部分が大いに目を惹くその見かけの内実、何という複雑な構造をしているのでしょうか。(あくまでも個人的な感想です。)

『にんげんしかく』については、まず、始まって間もなく、樋浦瞳さんが発する了解可能な一語についてのまとめから始めたいと思います。三好さん相手に、バナナらしきものを食べるマイムをしてみせてから、ポケットから取り出すアイテムの名称を大きな声量で明瞭に伝える場面ですが、新潟でのそれは「笹団子」、北九州が「明太子」、滋賀は「琵琶湖」ときて、埼玉では「笹団子」に戻ったことにもひとつの「円環」が見てとれるかもしれません。しかし、大事なのはそこではありません。
そこに至るまでを見直しておきます。最初、緞帳があがると、舞台上には段ボールたち。それがゆるやかに、滑らかに動き始めると、それを見詰める私たちに愛着の萌芽が芽生えます。しかし、ややあってその新鮮さが薄れてくる頃、舞台上では、客席にいる私たちには理解不能な言語でのやりとりが始まり、私たちは取り残されたような、作品に繋がる通路を断たれてしまったような、身の置き所がない感覚を味わう時間がやってきます。そんな理解不能な言語が作品への私たちの没入を怪しくしていたその時です、その一語が耳に入ってくるのは。それは、虚を突きながら、一瞬にして身構えていた部分をやんわり取り払い、謂わば武装解除してしまうだけでなく、逆に、大きな親しみを感じさせてしまう絶大な効果を示すでしょう。瞬時に舞台と客席とを結ぶ確固とした回路が生まれてしまうのです。この35分の作品において、とても印象的なものですらあります。
しかし、やがてそれこそがかなり危うい落とし穴なのだと気付くことになりました。私たちは耳に届く言語が理解可能なのか理解不能なのかに大いに縛られて、居心地がよくなったり、悪くなったりする部分があることに気付かされたのです。その気付きに至る比較対象が、身体の動きだったことは言うまでもないでしょう。私たちは、動きが理解可能か、理解不能かにそれほど頓着したりはしないのではないでしょうか。動きが一義的な意味や合目的性を有していないとしても、なんとなくやり過ごせてしまう、とでも言いましょうか。ところが、言語となると事情は全く別になってしまうのです。あの言語的に理解し得る意味を奪われて見詰める状況下で、耳にする「笹団子」や「明太子」、「琵琶湖」が心地よかった裏には、近藤良平さんが仕掛けた罠があった訳です。言葉など放ったまま捨ておいて、観るべきは動きなのだと。
そうした罠の最たるものが、終盤にやってきます。舞台上の10人が声を揃えて発する「とっても素敵な人生です。(×2)あっちもこっちも楽園です。うーん、迷ったときには、知らないところへ、1、2、どっきゅん」という「何か」を明瞭に指し示し過ぎる言葉です。この言葉は、一見(一聴)すると、作品のテイストを言語化したものに思えますが、私は、新潟公演の初日から、「どこか空疎で、上滑りしている」感が否めないように感じてきたのですけれど、ずっと、それが何故かには気付かずにいたのでした。観るべきは動きでしかないということに。そういう身体の動き重視のスタンスでこの作品に向き合うとき、舞台上の10人が、自分の段ボールが世界の全てだったところから勇気をもって、その外部へと踏み出して、他者からも受け入れられ、他者と多様に繋がっていくさまを余すところなく可視化していく身体の動きは、素敵そのものであり、あんな関係性が構築できたなら、そこはすべからく「楽園」と呼んで差し支えなかろう、といったことくらいは目が既にして納得させられていたことに過ぎなかった訳です。それが上記の「空疎で、上滑り」に感じられた理由だったのです。
近藤良平さんが仕掛けた罠、そう書きましたけれど、もし正面切って訊ねたりしてみれば、一言のもとに、「そんなことは考えていない。ただの僕の『演出の癖』だから」などとやんわり返されてしまいそうなこともわかったうえで、敢えて書いています。しかし、舞踊の根幹を確かめさせられた、そんな作品だったことに間違いはありません。

そしてトン・タッ・アンさんのピアノの音が聞こえてくると、今度は再び金森さんによる美し過ぎる『Suspended Garden - 宙吊りの庭』です。ここで否応なく、向き合うことになるのは、金森さんと近藤さんのテイストの違いでしょう。
並べて鑑賞してきた今、乱暴なことを承知で、私が感じていることを記すならば、金森さんは常に自らを超え出て、「舞踊」というより大きなものに迫ろうとし、至ろうとする、その献身の姿勢に貫かれていて、その透徹した美意識をもって、(どこでもない時空に)豊穣この上ない「非日常」を立ち上げ、私たちを極上の刹那に浸らせてくれる演出振付家と言えるかと思います。永遠への指向性が強く感じられる舞踊が作品の多くを占めています。
かたや、近藤さんは自らの「演出の癖」へのこだわりを土台に、「舞踊」という大きなものの懐に抱かれるかたちで、私たちをアナーキーで混沌とした、唯一無二の「近藤良平ワールド」に引き込んでいくタイプの演出振付家となるでしょうか。与えられた(多くは突飛な)状況を生きる舞踊家の姿そのものを届ける舞踊に映じます。


そんなベクトルの違い、そしてその先、舞踊の多様性に感情を大きく揺さぶられたことで、一応のものとはいえ、上に書いてきたような無茶苦茶なまとめまでしてみたくなるほど、見終えた後もその魅力が尾を引く「円環」トリプルビル公演でした。またこの演者たち、この作品たちに見(まみ)える途方もない新たな奇跡を信じつつ…。

(shin)

「2/9埼玉にて大千穐楽を迎えたNoism「円環」ツアー、また巡りくる新たな奇跡を信じる気持ちに♪」への12件のフィードバック

  1. shinさま
    大千穐楽のご感想ありがとうございました。
    そして連日のブログアップありがとうございます。
    お疲れのことと存じます。

    大千穐楽すばらしかったですね✨
    今も感動の余韻に浸っています。

    さて、shinさんのご感想を読んで、同感の箇所と、全く感じ方が違うな~と思う所がありました。
    個人の感想ですから当然ですよね。
    『Suspended Garden - 宙吊りの庭』と、金森さん、近藤さんのダンス観については同感です。
    この作品は美しいとしか言いようがありませんね。
    ダンス作品の至宝と思います。
    またの奇跡を願っています♪

    他のことについてはまた後ほど書きますね。
    壮大なブログを連日書かれるshinさんに比べ、遅くなって申し訳ないです。
    とりいそぎ、失礼いたします。

    皆さまもどうぞご遠慮なく、この欄に何か書いていただけると嬉しいです♪
    (fullmoon)

    1. fullmoon さま
      コメント有難うございます。
      このあと、お感じになられた事柄をお書き頂ける由、とても嬉しく思います。
      先日のブログでもご紹介した事柄ですが、「Choreographers 2024」のプレトークにおいて、左東範一さんが、「コンクールの審査員同士でも、「『ここまで評価が違うか』と思うくらい、決着のつきそうにない割れ方をすることもあり、各自にこだわりがある」と言えば、
      呉宮百合香さんも、「(審査の)対話の中でも見方が変わっていき、自分のなかで、作品が更新されていく」と話されていましたし、様々な見方や感想に触れることで、新たな発見が生じることへの期待感が増している今日この頃です。
      併せて、多くの方々からも「円環」公演のご感想をお寄せ頂きたいと思う次第です。お互いに感じたところを否定することなく、やりとりする場として、このコメント欄が盛り上がっていったら嬉しい限りです。
      皆さま、感想お待ちしております。
      (shin)

  2. shinさま
    コメント返信ありがとうございました!
    遅くなってすみません。
    shinさんのご感想を読み返して、私もいろいろ思いが変わっていきました。

    まずは『にんげんしかく』について。
    shinさんの、「観るべきは動き」=「舞踊の根幹」という結論。
    同感です!
    『にんげんしかく』は「動き」「踊り」以外の部分も多いので、劇のような感じがしました。
    箱に入って動くのも、箱を叩くのも「動き」であり「踊り」であるという考え方は知っていますが、せっかくのNoism1ですから、もっと普通に(?)踊ってほしかったです。
    でも、実はかなりハードに踊ってはいるんですよね。飛んだり跳ねたり。
    箱の動きもかわいくて、観る方はいいですが、メンバーは大変だったと思います。

    新潟公演初日から、埼玉最終日まで、振付は変えられない中、メンバーは工夫して、喋りや表情、動きがどんどん変化していきました。
    特に大千穐楽は一番弾けていて楽しかったです♪
    メンバーの奮闘に大拍手です!!

    さて、ダンボール箱を見て思ったこと。
    2021年「境界」で、外部振付家の山田うんさん『Endless Opening』で、Noism1メンバーは各自1台ずつ、棺のようなベッドのような台車と共演しました。
    公開リハーサルでは台車と「格闘」していましたが、本番の使いこなしは見事でした♪
    今回もダンボールと仲良しになっていましたが、共演者(道具)には苦労しますね。

    さて皆さま、言葉に敏感なshinさんと、そうでもない私の感じ方の違いを楽しんでください♪
    shinさん:(最初の方)客席にいる私たちには理解不能な言語でのやりとりが始まり、私たちは取り残されたような、作品に繋がる通路を断たれてしまったような、身の置き所がない感覚を味わう時間がやってきます。
    私:確かに、理解不能なキャピキャピ言葉でしたが、面白いし可愛らしくて私は楽しめました♪
    あなたは?:

    shinさん:「とっても素敵な人生です。(×2)あっちもこっちも楽園です。うーん、迷ったときには、知らないところへ、1、2、どっきゅん」という「何か」を明瞭に指し示し過ぎる言葉です。この言葉は、一見(一聴)すると、作品のテイストを言語化したものに思えますが、私は、新潟公演の初日から、「どこか空疎で、上滑りしている」感が否めないように感じてきたのですけれど、ずっと、それが何故かには気付かずにいたのでした。
    私:はい、私も「どこか空疎で、上滑りしている」どころか、「今さら何言ってるの??」という感じでした。
    shinさんは「それは何故か」を追求するところが偉いですね。
    皆さまはこのセリフをどう感じましたか?:

    shinさんとは行く道は違っても、辿り着く結論は同じで無事「円環」♪
    近藤さんらしい作品でした。

    次に『過ぎゆく時の中で』について。
    文中shinさんは、「(勿論、金森さん自身のそれではなく、舞台上にいる「旬」を過ぎた舞踊家の仮構されたそれであることは言うまでもありません。)(あくまでも個人的な感想です。)」と書かれていますし、感想は個人的なものですから別にいいのですが、それにしても前日に引き続き、辛辣なご感想だなぁと思った次第です。もうちょっとやんわり書いてほしい~
    とは言え、金森さんが「脇役」ではなく実は「主役」であるという点(メンバーも主役ですが)、この上なく美しく可視化していく倒錯的な作品、複雑な構造という箇所、いいですね♪

    この作品、大好きです!
    Noism1メンバーが疾走する姿、生き生きしたダンスと影の動き、難しさを感じさせないハイテクニック!
    そこに絡むナゾの金森さん!
    金森さんの動きはメンバーが踊る姿を引き立てていると感じました。
    そのこともshinさんが書かれた「檄」になるのかなと今は思います。

    この作品の初演は2021年のサラダ音楽祭です。そのときは山田勇気さんが金森さんの役で、井関さんも出演していました。
    後ろはオーケストラですし、初演時と今回ではかなり違っていました。
    でも演出振付の金森さんの思いは同じ。
    「一瞬を永遠の輝きに!」
    メンバーと金森さんの輝き、しっかり受け取りました♪

    最後に、金森さんご自身の感懐もご紹介します。
    金森さんX『過ぎゆく時の中で』出演について:
    「今回は時間にすれば12分程度の時間だったけれど、実演はやはり特別。齢50にして、改めてその特殊な意義(異常さ)を痛感する。観客の前に現れて、再び消えるまでの実存の燃焼。あらゆる思考や感情を飲み混んで、剥き出しになった精神を観客に晒すこと。批判も称賛もこの身に刻み、再び稽古に励むこと。」
    https://x.com/jokanamori/status/1888912227392201075

    金森さんほどのベテランでも舞台出演の妙を痛感するのですね。
    50歳はまだまだ若いです。
    これからもバリバリ出演して、痛感し続けてほしいです!

    長々と失礼しました。
    ありがとうございました♪
    (fullmoon)

  3. fullmoon さま
    コメント有難うございました。とても嬉しいです。
    こうしたリアクションがあることで、Noismと金森さんを応援する枠組みのなかで、当ブログが開かれた場になっていけたら最高ですよね。様々な感じ方があることを前提として、否定するようなかたちではなく、です。

    そこで、fullmoonさんが書いてくださった、「辛辣」さと読めてしまった『過ぎゆく時の中で』に対する私の感想についての弁解から始めさせて頂きます。
    言われてみれば、「言葉足らずだったな」と感じています。書いている時にも、「ちょっと表現が強く響くかな」と思っていたところはあったのでした。
    で、それ、あの作品が「倒錯的」で「複雑な構造」をもっているというところと関係が大きいのですが、それは、舞台で踊る金森さんとNoism1が、本人たちとは全く別の、「旬」を過ぎた舞踊家と「のびしろ」だらけで「勢い」のある若手舞踊家たちを踊っているのだということを押さえておくことから始まります。一般論として、「勢い」のある若手にも、間違いなく「旬」を過ぎるときが訪れることになります。それこそが残酷な「時」のなせる業で、そうであればこそ、「時よ止まれ!君(たち)は美しい…」と発したい気持ちになる訳です。
    ところが、今、私たちが目の当たりにしているのは、そうした「時」の残酷さに追いつかれることなく、「旬」を更新し続けている稀代の舞踊家・金森さんなのです。本来、驚きをもってその舞踊を語ることこそ相応しい、「時」を超越したかのような金森さんが、そうした事実に反して、「旬」を過ぎた舞踊家を踊っているのですから、そこに「倒錯的」とか「複雑な構造」とかと感じられるものが見てとれる訳です。
    2日間使った「檄」という単語選びについてです。当初から若干迷いはあったのですが、一人ひとりが「のびしろ」に手を伸ばし続けて止まない舞踊家であり続けて欲しいという強い気持ちや願いが、「時よ止まれ!君(たち)は美しい…」の裏に読めるように思えたことから、敢えて、「檄」としてみたような次第です。現実に、「時」の残酷さに抗い続けることの厳しさを知る金森さんがそう書いているのですから、ある程度の響きの強さは不可欠に思ったのでした。
    私もfullmoonさん同様、金森さんのバリバリ出演を強く望むものです。いつまでも私たちを驚かせ続けて欲しいと思っています。

    逆になってしまいましたが、次に『にんげんしかく』についても、もう少し記させて頂きたいと思います。
    あの段ボール箱、揺りかご、或いは、外界から身を守るシェルターのように登場し、「ライナスの毛布」期を経て、楽器や遊び道具、そして疲れた身体を横たえるベッドや、他者との了解のもと、繋げることで目的とする場に到達するための道路にも姿を変えますが、それらを遂に脱却する時も訪れ、最後には居並ぶ墓石のような光景を描くでしょう。(随所で、fullmoonさんが触れてくださったとおり、山田うんさん『Endless Opening』の台車のイメージが想起されました。)
    赤いハート型を目指して、手を伸ばした三好さん。それを手にした瞬間、ハート型がくり抜かれた赤い段ボール箱が落ちてきて、すっぽり被ってしまうことになる樋浦さん。往年のドリフターズの「金だらい」の直撃みたいな、近藤さん一流のギャグかと思っていたのですが、埼玉での大千穐楽を見終えてから、私の頭上にも「金だらい」が落ちてきたかのように、突然、ひとつの「解釈」が生まれました。
    それはこうです。あの10人の中に、自ら、「生」の意味に向けて手を伸ばす者(三好さん)もいれば、あるとき、「生」の不意打ちをくらう者(樋浦さん)もいたのです。樋浦さんへの不意打ちは、彼が仲間たちの写真を撮ろうとしたときに訪れます。生きていることや現在を慈しむからこそ、人は写真を撮ろうとするのではないでしょうか。あの場面、単なるギャグではなかったのです。
    そして、その場面とそこからの流れをじっくり思い出してみることで、漸くにして、もうひとつ大事なことに気付きました。(「遅い!」とツッコミを受けるだろうことは覚悟して書いています。)それは、この『にんげんしかく』という作品は、正確には、10人集まっての群像劇だったのではなく、ひとりの主人公が据えられて構成された作品だったということです。ひとりだけ、仲間たちの写真を撮ろうとして、ひとりだけ、仲間たちの最期に手を振って見送り、最後に自分も「ハコ」に入っていく存在、そう、樋浦さんこそ紛れもなく『にんげんしかく』の主人公だったということに、です。(「遅い!」ですよね(汗)。)
    あの10個の段ボール箱ですが、後方の席からですと、よくは見えなかったかと思われますけれど、中から外を見るための小さな穴がふたつ開けられているのです。そして、それが段ボール箱の「目」のように見えて、愛らしかったのですけれど、だとすると、穴の開けられた面が正面、謂わば「顔」になろうかと思われます。
    最終盤、樋浦さんが手を振り、他の9人が手を振り返しつつ、それぞれの「ハコ」に入っていく場面、9人の「ハコ」の正面(「顔」)は樋浦さんの方に向けられていて、9人はその「ハコ」の背面(謂わば「背中」となるでしょうか。)から中に入っていきます。しかし、最後、ただひとり樋浦さんだけは「ハコ」の正面(「顔」)側から入っていくのです。樋浦さんだけが、自分の分身、或いは、相棒、転じて自分の人生に向き合って消えていくのです。そうしてみると、9人の最期にあたって、9人の「ハコ」が樋浦さんの方を向いていた意味が分かってきたのです。それはあくまでも、樋浦さんから見た9人とその「ハコ」だったからに相違ありません。つまり、今回、私たちが見た『にんげんしかく』(敢えて、そう書きます。)は、10人の人生全てを追った群像劇だったのではなくて、あくまでも、樋浦さんと樋浦さんが関知し得た限りでの他の9人についてのバージョンだったということです。そうであるならば、昨今よく見かけるスピンオフ的に、今回のとは違う、他の9人それぞれの視線を中心に据えた『にんげんしかく』もあり得る、ということになるでしょう。「ひえ~!」って感じがしました。
    その「ひえ~!」ですが、まだもうひとつそう感じる場面に思い当たりました。それは、上で書いた樋浦さんが手を振り、9人が手を振り返す同じその場面です。その動きには、fullmoonさんが「面白いし、可愛らしい」とした「キャピキャピ言葉」が伴われていたのでした。私は「取り残されたような」とした理解不能な言語でのやりとりが行われたのです。最後の最後、私たち観客はその10人のコミュニティの外にあり、そのコミュニティ内のことは理解不能とされてしまった、そう思えたのでした。
    でも、もとより、一人ひとりの人生の意味なんて、当事者以外には(そして、場合によっては、当事者にも)わかりっこないものですよね。やんわり、そんな厳しい真実を突きつけられた訳ですから、「ひえ~!」ってなったのでした。近藤良平さんも人が悪い(笑)。音楽の効果なども含め、一つひとつシークエンスを追って確かめたい気持ちも強くなりましたから、また巡りくる新たな奇跡、信じたいところです。

    最後に、『Suspended Garden -宙吊りの庭』です。「ダンス作品の至宝」とのfullmoonさんの言葉、まさに「我が意を得たり」です。そんなふうに感じた人も多い筈ですよね。

    「超」長文となってしまいました。本当に申し訳ありません。
    しかしながら、これ、fullmoonさんからコメントを頂いたことで、書くことができたものです。本当に有難うございました。そしてあくまでも、全て個人的な感想です。

    皆さまからもたくさん公演感想、お寄せいただけたらと思います。よろしくお願いします。
    (shin)

  4. shinさま
    丁寧なご返信ありがとうございました!
    ご感想、深いですね~
    まさに「ひえ~!」です!!
    感服いたしました。
    近藤さんが読まれたら感涙することでしょう。

    皆さまもドシドシご感想をお寄せくださいね♪
    (fullmoon)

    1. fullmoon さま
      誠に恐縮です。
      しかし、次のような自覚もあります。
      それは、「言葉など放ったまま捨ておいて、観るべきは動きなのだと」と再確認していながら、「動き」については触れない「言葉」を書き連ねてきたことは自己撞着以外の何物でもないということです。再度、「ひえ~!」となりながら、公演感想を書くことに宿る困難さに向き合っています。そしてそれは今後も…(汗)。
      そんな困難さに向き合った営みのひとつくらいの感じで、お読み頂けたら幸いです。
      そして、皆さまの向き合い方への興味にも強いものがあります。是非是非ドシドシお願いします。
      (shin)

  5. shinさま fullmoonさま

    こんばんは。おふたりのやり取り、なるほどと思いながらみていました。

    「にんげんしかく」についてはあまり考えることをせずに、ただただ楽しく鑑賞しました。

    ダンサーが自ら衣装のデザインをしたり、デタラメ語でお話したり、段ボールで演奏したりと、いつものnoismではあり得ない光景が観られ、新鮮で良かったです。

    近藤良平さんは「noismダンサーの踊りのテクニックを魅せることが自分の役割ではない」と割り切って、noismダンサーの個を際立たせ、魅力を引き出すことに徹しておられたように思います。

    段ボールも衣装も言葉も踊りも物語も、そのための素材に過ぎずあまり重要ではなかったのかも、と(今となっては)思います。

    「とっても素敵な人生です〜」のくだりは、近藤良平さんからダンサーへのメッセージなのかな、と思いました。

    いずれ何らかの重要な決断をする際、あの言葉に勇気づけられる時がくるのかも知れません。

    1. かずぼ さま
      ご感想、有難うございます。
      とても嬉しく思います。

      『にんげんしかく』に関して、かずぼさんが「ただただ楽しく鑑賞」とされたところ、私自身も確かにそんな感じで観ていたことに間違いありません。
      更に「ダンサーの個を際立たせ、魅力を引き出すことに徹して」いた近藤さんというところ、そして「段ボールも衣装も言葉も踊りも物語も、そのための素材に過ぎずあまり重要ではなかったのかも」も頷けます。そうしたアプローチが近藤良平さんの「演出の癖」或いは、傾向、もっと言えば、近藤良平イズムなのでしょう。この作品、その「近藤良平イズム」>「Noism」という不等式をNoismメンバーが踊っていたってところで、新鮮に見えた訳ですね。わかります。
      (常に)ハチャメチャな楽天性を見出すことが出来ますよね、近藤良平さん作品。ある意味、いい加減にも見えて、頓着しないフットワークの軽さが持ち味というか、そんな感じ。それが、新潟「笹団子」→北九州「明太子」→滋賀「琵琶湖」ときておいて、埼玉も「笹団子」でいいや、としてしまう部分にも感じられました。(別に、ディスっているのではありません。それはそれで面白いじゃないですか、ってことです。)

      で、私が「ライヴで」感じたことで、かずぼさんと違っていた箇所がありますので、そこについて、少し書かせて頂きます。それは、「とっても素敵な人生です」から始まるシークエンスです。「近藤良平さんからダンサーへのメッセージ」と見たとのこと。
      その色彩は濃厚だな、そう思いました。でも、お互い、舞踊家同士なので、その「言葉」が必要だったかという疑問が残ります。
      そして、あのシークエンスについて、私自身が「ライヴで」感じたこと(気持ち)の変遷をできるだけ丁寧に記させて貰います。
      ブログでは「新潟公演の初日から、『どこか空疎で、上滑りしている』感が否めない」と書きましたが、最初はそれでも少し好意的に受け取れていたのです。かずぼさんが言われる「メッセージ」に近いものも感じていたのかもしれません。忘れないように頭の中で何度も復唱して、終演後、真っ先に手元の紙に書き付けましたし。
      それが、いつからか、別の様相を帯びて迫ってくるようになったのです。それはもう「どこか空疎で、上滑りしている」程度で済むものではなく、あの楽天的な「言葉」とは裏腹に、強いて言うならば、「戦慄」に近いものを受け取る場面となったのです。(ここまでは、さすがにブログでは書けませんでしたけれど、ここでは敢えて書いています。)理由ははっきりしています。10人がいかにも綺麗な隊列を組んで前方へせり出しながら、手を打ち鳴らし、頭を上下に振りながら、声を合わせて力強く唱和する、その圧の強さゆえです。背筋が寒くなる、と言っては言い過ぎかもしれませんが、私には、健康的な「メッセージ」の範疇を遥かに超え出たものとして映じるようになってしまったのです。作品全体に漲る、「生」へのポジティヴな姿勢・態度だけでも、否、それだけの方が良かったのではないか、そう私は思っています。まさに感じ方は人それぞれですね。語りたいことが多く、長くなってしまいました。すみません。
      かずぼさんのご感想を読むことで、ハッとさせられながら、自分が感じたことを掘り下げてみる機会に恵まれたことを心から嬉しく思うものです。同時に、ブログを担当する者としても、このコメントの場で活気あるやりとりがなされることは喜び以外の何物でもありません。どうも有難うございました。また、感じたところをドシドシお寄せください。
      (shin)

  6. 皆さま

    公演についてのそれぞれの思い、興味深く拝見しております。

    「過ぎゆく時の中で」「宙吊りの庭」に関しては、ただただ作品に浸るのみでしたが、「にんげんしかく」に関しては、思いが観る度に変わる思いがしました。
    初演時は「ゲスト振付家」を越えて、見応えのある舞台を創り上げた近藤良平さんに唸りましたが、繰り返し観る内に、違和が芽生えたのも事実です。
    冒頭から「誰かの動き」を模倣し、それが全体に伝播してゆく構成に、集団性への嫌悪感を徐々に覚えました。生の肯定には共感するものの、「陰り」「暗さ」「惑い」の無い「ポジティブ」な感覚の徹底も、shinさんが指摘する「とっても素敵な人生です」の歌同様に、ある種の「戦慄」を感じたのです。
    日本的な集団性への批評性の無さ故でしょうか。
    一方で、「個」である者たちが他生の縁で触れ合い、やがてまた絶対の個に立ち返り、「無」になったとしても、過ごした時間や思いは消えないということを思わせる、舞台上のハートの箱や、大千穐楽でのメンバーそれぞれの情感豊かな佇まいに打たれ、ラストで初めて涙ぐみました。音楽が頭を離れずにもおります。
    様々な意味で、忘れ難い作品と思います

    1. 久志田 さま
      ご感想をお寄せいただき、有難うございます。
      まず、ある種の「戦慄」に似たものとして、舞台奥に積み上げた段ボール箱を崩す場面、10人の立ち姿のシルエットに不穏過ぎるものを感じたりしていました。ほんわか、作品全体を貫く楽天性とは相容れないような凶暴な暴力性が剥き出しになっていることに大いに戸惑ったことも冒頭記しておきたいと思います。

      で、この作品を締めくくるラストの場面ですが、「『個』である者たちが他生の縁で触れ合い、やがてまた絶対の個に立ち返り、『無』になったとしても、過ごした時間や思いは消えないということを思わせる、舞台上のハートの箱」のご指摘、まさに同様な感じ方をしておりました。夕景を思わせる照明のなか、舞台上に誰ひとりいなくなってさえ残るあの赤い「ハコ」、情緒たっぷりで、味わい深いものがありましたよね。

      肯定される「生」に紛れて、(意図してか、意図せずにか)「戦慄」がよぎり、呑気に構えてはいられず、肌が粟立つ思いを味わう瞬間があったことは隠さずにおきたいと思います。でも、最後には、あの赤い「ハコ」と、そして終演後のカーテンコールにおいて「相棒」に手を添える舞踊家たちの姿(私の場合、とりわけ、太田菜月さんの表情と仕草ですが、)とによって救われることになり、ホッとして見終えるのでしたが。(そんなふうに、一筋縄ではいかない作品かと。)

      久志田さん、色々反芻する機会を得ました。どうも有難うございました。
      (shin)

      1. 森田芳光版「阿修羅のごとく」のテーマ曲が使われるシークエンス、それまで積み上げた「街」を思わせる段ボールを、躊躇なく崩すシーンと紅い照明は大好きです。そこに至るまで、「間違えて落ちないでよ」と祈るように見つつ、その崩壊を心待ちにするアンビバレントな感情も思い起こしております。
        余談ですが、さきほど、本作を観たシネ・ウインドのアルバイト学生さんに感想を話していたら、「私も太宰治は嫌いです」と返され、「にんげんしかく」「人間失格」の聴き違いと気付きました。まさか、タイトルで太宰の韻を踏んでいるとは思いませんが

        1. 久志田 さま
          あの場面、不穏ですが、その不穏さがいいんですね。確かに。
          有難うございます。
          (shin)

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