和気藹々、全員が喜色満面の井関さんお誕生会(さわさわ会懇親会)♪

今回で6回目となる井関さんのお誕生会(さわさわ会懇親会)が2019年11月16日(土)、新潟市中央区・燕三条イタイリアンBitを会場に開かれました。出席者は井関さんと金森さんを含めて26名。今年も美味しいお料理を囲みながら、和気藹々、笑顔と歓談する楽し気な声がいつ果てることなく続く、それはそれは楽しい宴となりました。

殊に今年はNoism継続問題も片付き、同時にNoism0が始動するなど、嬉しいニュースも重なり、参加された皆さんは一人残らず、喜色満面。心置きなく、お祝いモード全開といった風情でした。

外は雨がそぼ降る新潟市でしたが、この店内は別世界。年に一回、今年も井関さんのお誕生日をお祝いしながら、全員が幸福感に満たされるという贅沢で、得難い時間を過ごしました。

予定時間を延長したお祝い会の最後は、井関さん、金森さんを交えての大撮影大会。おふたりとフレームに納まるのはどれもいい笑顔ばかりでした。「いいな♪」と思われた向きは是非ともさわさわ会にご入会いただき、来年のこの会にご一緒しませんか。素敵な時間が過ごせること請け合いですよ。

(shin)

秋の鳥取・BeSeTo演劇祭/鳥の演劇祭の『Mirroring Memorries』(2019 ver.)初日

2019年11月9日(土)の鳥取県は鹿野町・旧小鷲河小学校体育館。鳥取市から鳥取自動車道道を使っておよそ30分。例年ならこの時期、鮮やかな紅葉に囲まれているのだろう山あいの水辺。はるばる新潟から訪れて、観てきました『Mirroring Memorries ––それは尊き光のごとく』(2019 ver.)、第26回BeSeTo演劇祭/第12回鳥の演劇祭での初日公演。

個人的には、さして旅好きという訳でもないので、Noismを観ていなかったら、恐らく生涯、足を運ぶこともなかっただろう地、鳥取。更に今年9月に富山県の利賀村に一念発起してシアター・オリンピックスを観に行く選択をしていなかったら、縁遠いままであっただろう地、鳥取。それが、「行ってみるのも面白いじゃない」と考えてしまえるようになり、公演前日の早朝、車で新潟を発ち、約10時間のドライヴで鳥取入りをするなど、以前の私からは考えられないことでした。鳥取に着いてみると晴天で、まだ日も高かったので、小学校の教科書で見た知識の持ち合わせしかなかった鳥取砂丘を訪れ、雲ひとつない青空の下、一足毎、靴が砂に埋まるさえ厭わず、敢えて急峻な斜面を選び、無駄にダッシュで上り下りして、足は上がらないは、息は切れるは、思う存分に「砂丘」を体感する機会を得たのでした。長々と余談でした。スミマセン。

そして迎えた鳥取公演初日、天気予報では下り坂の雨予報。それも公演時間帯あたりが「雨」とのこと。天気を心配しながら、お昼時分に鹿野町に移動してみると、やはり、少しして天気雨に。やがてやや大粒の降りに変わりましたが、さして長く、さしてたくさん降ることもなく上がり、気温が一気に下がることもないまま夕刻を迎えられたのはラッキーでした。

開場直前の様子

午後4時過ぎ、今回の会場となる、かつての小学校体育館脇で料金2500円を払って受付。同じく新潟から駆け付けた顔や、Noismを介して知り合った遠方の友人の顔。そして旧メンバーの浅海さんとご家族。途端にアウェイ感が薄らぐとともに、「いよいよだな」という気分になってきます。

午後5時を告げるサイレンと音楽が山々に谺し、程なくスタッフの指示で入場。正面奥にミラー。その手前、床に敷かれたリノリウムが一番低く、それを階段状に設えられた仮設の客席から見る按配です。満員の客席。私たち知人グループは運良く揃って最前列に腰掛けることが出来ました。そちら、背もたれがないのはいつものこと。演者を間近から見上げることになる席です。そして体育館の床ですから、ただの板張りとは異なります。床下はスプリング構造になっているため、演者が起こした振動が足裏から直に伝わり、こちらの体も共振するような感覚を覚えました。

私をして鳥取まで足を運ばせたもの、それは、2日間限りのキャストを観たいがため。浅海さん、中川さん、シャンユーさん、西岡さんがいなくなり、メンバーが変わって、どんなキャストで、どんな肌合いに仕上がっているのか見逃せないという気持ちからでした。

〈キャストその1〉
〈キャストその2〉

まず、「彼と彼女」、人形(彼女)は西澤真耶さん。白塗りの顔は可愛らしい西洋のお人形さんそのもの、ぴったりの配役に映りました。黒衣のひとりには初登場のスティーヴン・クィルダンさん。彼は続けて、「病んだ医者と貞操な娼婦」と、更に「生贄」「群れ」でも黒衣で踊り、「拭えぬ原罪」からの『Schmerzen(痛み)』において仮面を外して初めて顔認識に至ったのですが、異国の地でのカンパニーに充分溶け込み、違和感はありませんでした。

浅海さん役を引き継ぐのはやはり鳥羽絢美さんです。「アントニアの病」「シーン9–家族」、そしてラストの少女役、どれも彼女らしい弾むようなリズム感を堪能しました。

西岡さんが演じた「Contrapunctus–対位法」を踊ったのは井本星那さん。かつて少年らしく映っていた役どころでしたが、井本さんの持ち味から、女性らしさが拡がっていたように思いました。

中川さんの後を継ぐのは誰か、それが今回の一番の関心事だったと言えます。まずは、「シーン9–家族」の「P」役はNoism2の坪田光さん。当初キャスティングされていたメンバー(タイロンさん)が怪我のため、急遽、抜擢されてのデビュー、頑張っていたと思います。

そして、「ミランの幻影」におけるバートル。中川さんからシャンユーさんへ渡されたバトンを今回託されたのは、チャーリー・リャンさん。共通するのはどこかフェミニンな雰囲気を滲ませる存在感でしょうか。井関さんとの切なく華麗なデュエットですから緊張感も半端なかったでしょうが、若々しいバートルを見せてくれました。

その他、キャストに異同のない部分はどっしり安定のパフォーマンスを楽しみましたし、何度も繰り返し観てきた演目でしたが、このキャストを見詰めるなかで、部分部分に様々な感じ方が生じてくることに面白さを感じる1時間強でした。

終演。緞帳はありません。顕わしになったままのミラーを背に全員が並ぶと、会場から大きな拍手が送られ、2度の「カーテンコール」。山陰のNoismにお客さんはみんな大満足だったようです。

その後、BeSeTo演劇祭日本委員会代表/鳥の劇場芸術監督の中島諒人さんと、簡単に汗仕舞いをしたばかりの金森さんによる短めのアフタートークがあり、中島さんの質問に金森さんが答えるかたちで進められました。

質問はまず、上演作の経緯から始まり、恩師ベジャールとの関係などが紹介されていきました。そのなかで、中島さんがタイトルの日本語訳はどうなるか訊ねると、金森さんは構成のプロセスとも重なるとしながら、「乱反射する記憶」と訳出してくれました。

「劇場専属舞踊団」を糸口にしたやりとりの過程で、金森さんはNoismを「プライベートなカンパニーではない」とし、金森さんに依存せず、次代に引き継ぐ長期的なヴィジョンを口にされ、「新しいかたち、どういったかたちで持続可能なのか、我々に課せられた課題である」と語りました。

場内が笑いとともに沸き立ったのは、話がNoism存続問題に及び、市民への還元が課題とされる状況に関して、中島さんが敢えて「不本意?」と本音に切り込んだ時でした。一切動ぜぬ金森さんはすかさず「それは日本のなかで専属舞踊団を抱えることの現実であり、後世に残るモデルケースを築いていくべく3年間頑張る」と、ここでも新生Noismを感じさせる前向きな姿勢で後ろ向きな心配をシャットアウトした際の清々しさと言ったらありませんでした。その返答を聞いた中島さんも「コミュニティと関わる面白くてクリエイティヴな還元方法を発明すること。アーティストとして見つけることもある」と即座に同じ方向に目をやって応じ、トークは閉じられていきました。

会場から外に出ても、闇が迫る旧校庭にはたちずさむ人たちの多いこと。山陰のNoismが多くの人を魅了したことは言うまでもありません。その場に居合わせることが出来て嬉しく思いました。

(shin)

「私がダンスを始めた頃」⑫ タイロン・ロビンソン

私は常にヒップホップやR&Bが聞こえてくる家庭で育ちました。そうした環境だったからこそリズムや動きに対する興味が芽生えたのだと思います。もしあなたもその場にいたら、いつだって若い日の私がリビングでパフォーマンスに興じていたり、乗り気でない友人たち主演のダンス作品を作っていたりするのを目にすることができたことでしょう。

様々な趣味やスポーツにトライしてきましたが、どれも本当に私の興味を刺激してはくれませんでした。10歳の時、母が初めて私をダンスクラスに連れて行ってくれて、動きに対するこの興味の探究を後押ししてくれるまでは。私は自分が夢中になれる居場所を見つけたのですが、そこからが私の才能と技術への挑戦でした。そこは創造的で、自由であることを求められる場所でした。

私は高校に通っている間もダンスを続けました。私が通っていたのはダンス専門の高校で、そこで初めてコンテンポラリーダンスと出会いました。私はアブストラクト(抽象的)なコンテンポラリーダンスに夢中になり、この魅力的な分野の研究を始めました。他の生徒たちが綺麗な動きやターンの数に執心しているあいだ、私はと言うと、自らの体を地面に投げ出して踊るダンサーのビデオに畏敬の念を抱き、振付における静止の美を見出していました。

ダンスに対する愛と才能はあったと思いますが、それでも私は一度たりともキャリアを考える選択肢として捉えたことはありませんでした。もともと私は建築家になりたかったのです。しかし、不運にも、学校での私の成績ではそれが叶うことは考えられないことでした。私は決して学力のある生徒ではありませんでしたし、単位を落としたことで、最終学年を前にして高校を辞めることになってしまったのです。しかし、ひとりのとても協力的なダンスの先生の励ましと手助けのお陰で、ダンスを学べる大学に進学できました。それは一般的な教育システムによらない道でしたが、従来のシステムには生徒たちがその真の知性や可能性を証明するのに適さない部分もあると身をもって示すことになったと思います。

私はWestern Australian Academy of Performing Arts(WAAPA:西オーストラリア・パフォーミングアート・アカデミー)で学び始めて、学ぶことに対するより強い喜びとともに、歴史におけるダンスの影響と身体に興味を抱きました。また、そこで、他のアーティストとの親密な関係を育み、周囲をインスパイアする助言者から学び、そしてパフォーミングアーツを職業にする可能性を見出すことが出来ました。2011年にダンスの学士号(BA)を取得して卒業すると、私はすぐにオーストラリア国内でフリーランスのダンス/パフォーマンスのアーティストとして様々なダンスの仕事を手に入れ、プロとしての人生を歩み出したのです。

プロとしてのキャリアを始めて間もなく、実演家であるよりも振付家であることに興味を抱いている自分に気付き、実演よりも振付の努力にフォーカスし始めました。しかし、じきにクリエイションの壁にぶち当たることになりました。充分な経験を持たないことは創作のビジョンを形にしようともがくことを意味したのです。振付家として成功するために、振付家としては勿論、ダンサーとも変わらぬくらいにアクティヴである必要がある、そう判断したのでした。振付の方法論の抽斗(ひきだし)を豊かにするために他の振付家とともに働いて、彼らから学びながら。

まだ「若い」アーティストと言ってよい年齢にある私は、世代も人種も社会的な背景も異にする様々なアーティストたちの振付のプロセスを掘り下げ、研究を続けています。特にアーティスト同士であるなら、私たちはお互いから学び合うものはたくさんあると思います。そして私が得た知識が他者をインスパイアする芸術創造に役立つことを願うものです。

(日本語訳:shin)

以下はタイロンさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Tyrone Robinson

I grew up in a household where the presence of hip-hop and R&B music could always be heard. I suppose this is where my interest in rhythm and movement began. You could always find a young me preforming in the living room, and directing choreographed dance pieces staring my reluctant friends.

I had tried different hobbies and sports but none ever really sparked my interest. It wasn’t until my mother encouraged me to explore this interest in movement by taking me to my first dance class at the age of ten. I had found a place that catered to my love of attention but still challenged my abilities. It was a space to be creative, it was a space to be free.

I continued dance throughout high school, where I attended a specialist dance high school. This was my first contact with contemporary dance. I had become enamoured with contemporary & abstract dance, and began doing my own research into this fascinating sector of the dance world. While other students were obsessing over pretty movements and how many turns they could do, I was in awe of the videos of dancers throwing themselves at the ground and finding the beauty of stillness in choreography.

Although I had the love and talent for dance I still never thought of it as being an eligible option for a career. I had originally wanted to be an architect, unfortunately my grades in school were never going to allow that to happen. I had never really been an academically strong student, and with failing grades I dropped out of high school before my final year. But with the encouragement and help from one of my very supportive dance teachers, I found myself in University studying dance; circumventing the educational system, and proving that most archaic educational systems do not allow students to show their true intelligence and prove their potential.

I began to study at the Western Academy of Performing Arts, finding a renewed joy for learning and an interest in the effects of dance on history and the body. It was there where I fostered close relationships with other artists, learnt from inspiring mentors and discovered the possibility of a career in the performing arts. I graduated with a Bachelor of Arts in 2011 and began my professional life immediately, securing various dance jobs as a freelance dance/performance artist, in Australia.

It didn’t take long after beginning my professional career, that I realised I had more interest in being a choreographer than a performer. I began to focus more on choreographic endeavours, and less on performing. Yet early on I found myself hitting creative walls, and not having enough experience meant that I struggled to see my creative visions come to fruition. I decided that in order for me to be a successful choreographer I needed to stay as active as a dancer as I am a choreographer; working with and learning from different choreographers to build my arsenal of choreographic methods.

At an age where I would still consider myself to be a “young” artist, I continue my research, delving into the choreographic processes of different artists of various generational, racial and social backgrounds. I believe we have a lot to learn from each other especially as artists, and I hope the knowledge I gain will help me create art that inspires others.

(1992年オーストラリア生まれ)

何回も見なければいけない『マッチ売りの話』+『passacaglia』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第31号(2017年5月

 Noismが《近代童話劇シリーズ》の第二作『マッチ売りの話』を『passacaglia』と共に初演した。2017年1月20日に本拠地りゅーとぴあのスタジオBで初日の幕を開け、2月9日からは、彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演した。新潟に戻っての再上演の後にはルーマニア公演の予定もある。日本における創作バレエの初演としては、異例の上演回数だ。

 『マッチ売りの話』も金森穣の演出・振付を、井関佐和子らNoism1の主力メンバーが踊る中編だった。アンデルセンの童話と別役実が1966年に早稲田小劇場のために書き岸田国士戯曲賞を受賞した不条理劇『マッチ売りの少女』の両方が、金森の舞踊台本の背景となっていた。

 《近代童話劇シリーズ》は、第一作の『箱入り娘』もそうだったが、子どもに語って聞かせるとすぐに理解してもらえる童話の舞踊化である『眠れる森の美女』『シンデレラ』『白雪姫』『オンディーヌ』などのようには出来ていない。『マッチ売りの話』も別役の不条理テイストで濃厚に色づけされていた。論理的に説明したり理解したりしにくい状況の中で、登場人物が意味不明に近い出会いや動きを繰り返した。公演パンフレットに書かれた配役(それぞれの年齢が細かく指定されている)の横に「疑問符の相関性」という但し書きがあり、そこに「少女は老人夫婦の孫である?」「少女は女の20年前の姿である?」「女は娼婦の20年後の姿?」などの「問いかけ」が列記されている。これを読むと、舞台上で演じられている出来事の不可解さがいっそう増すことになる。

 ストーリーの展開がよく理解できる舞台や小説が、じつは何が起こるか先のことは何も判らない世の中の現実と似ても似つかない絵空事であることを、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やイヨネスコの『犀』、別役実の諸作品に接してしまった私たちは知っている。それを舞踊でやっているのが金森穣の《近代童話劇シリーズ》なのだ。

 まず巨大なスカートの上から客席を見下ろす精霊(井関佐和子)の姿を見せる。次いで出演者全員が面をかぶり、凝った作りの衣裳をまとって細かくからだをふるわせたりする動きを見せ、個々の人物を表す。そこで提示されたドラマの断片のひとつひとつは、踊りとして緻密に仕上げられていた。「童話」のバレエ化だったら、かわいそうな少女に焦点があたるはずなのだが、いくら待ってもそのようなことにはならなかった。

 精霊が登場して、舞台に置かれた装置を片づけるように次々と指示を与えると、舞台上はきれいさっぱり。ダンサーたちも面を外し衣裳を変え、抽象的な動きによる『passacaglia』を踊る。前半のドラマの断片を連ねたような『マッチ売りの話』とはまったく別の世界が広がった。観客は、ここで初めて「舞踊」を見たという安心感に浸ることができたのではないだろうか。それと同時に前半の舞台の不条理性への理解が心の中にじわじわと広がってくることを感じたに違いない。

 しかし一回見ただけでは、この実感を素直に受け入れる心境にはなかなかなれないことも事実。『ゴドーを待ちながら』は、何度も見ているうちに、だんだん何事も起こらない舞台を平気で見て、楽しめるようになる。『マッチ売りの話』+『passacaglia』では、それと同じような或る種の「慣れ」が必要だ。何回も何回も見るうちに、不条理な現実世界に立ち向かえる勇気が身内に湧き起こってくると思う。

サポーターズ会報第31号より

(彩の国さいたま芸術劇場小ホール)

井関佐和子が踊った『Liebestod-愛の死』

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第32号(2017年12月)

 2017年5月26日にりゅーとぴあで初演された金森穣の新作『Liebestod-愛の死』を、6月2日に彩の国さいたま芸術劇場で見た。これはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』をベースにして創られた、男女二人だけの踊りだ。井関佐和子と吉﨑裕哉が踊った。金森はこのデュエットが『トリスタンとイゾルデ』の舞踊化であるとは言っていない。しかし見る側が、ワーグナーの音楽を聞いてかってに想像をふくらませることを予測して振付けたに違いないと私は思った。

 妖しい「トリスタン和音」が彩の国さいたま芸術劇場の大空間に響き渡る。タッパの高い舞台の背後には、滑らかで重厚な質感の幕が丈高く吊られている。この幕が物語の展開に重要な役割を果たす。舞台には、コーンウォールを治めるマルケ王に嫁ぐために船に乗るアイルランドの王女イゾルデの姿があった。王の甥であるトリスタンが彼女の警固役としてつき従っているのだが、この二人は恋に落ちてしまう。イゾルデは、トリスタンと共に死ぬことを決意して、侍女に毒薬を持ってくることを命ずる。ところが侍女の持ってきたのは「愛の薬」だった。船がコーンウォールに着くまでに、二人の愛はいっそう深まっていた。

 マルケ王に嫁いだイゾルデのところへ、王が狩に出た隙をねらってトリスタンが忍んでくる。イゾルデと愛を語り合うところへ王が……。王の忠臣メロートがトリスタンに斬りかかる。トリスタンは自ら刀を落とし、メロートに斬られる。このあたりはほとんどトリスタンひとりの演技で処理されている。瀕死のトリスタンは背景の幕の下に転がされ消えて行く。

 残されたイゾルデの嘆きの踊りとなる。井関が背後に高く吊られた幕を手でたたき、幕を波打たせると悲しみの輪が幾重にも広がり、それが嘆きの感情を表した。イゾルデが前に進み出て死の決意を示す。その直後に背後の幕が落ちて彼女の姿を覆い隠す。その幕の下で二人が立ち上がる気配があり、あの世での愛の成就を暗示して作品は終わる。井関の渾身の演技が深く心に残った。

 かつては、すべての振付者がバレリーナのことを目立たせるために、あれこれと演出を考え奉仕するのが常だった。しかし、しだいに振付者の地位が高まり、作品の創造ということに舞台の重点が移ってきた。それに伴って、近年ではバレリーナの方が振付者のためにがんばることが普通になっている。

 井関の踊る金森作品を私はずっと見てきたが、常に井関は金森の作品の完成のために力のすべてを注ぎ込んでいた。彼女は自身の舞踊生活について「Noism井関佐和子 未知なる道」という本(2014年・平凡社刊)を出しているが、その中でも金森の作品のためにどうしたら役に立てるかということを、繰り返し書いている。例えば「舞台の上では“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“カルメン”を見せたい」というように……。

 しかし『Liebestod-愛の死』における金森は、バレリーナ井関佐和子をまず観客にアピールすることを第一と考えて作品に取り組んでいたと私は思う。井関の方は今までと変わらず“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“イゾルデ”を見せようとがんばっていた。その結果は、バレリーナと振付者の力が合体して1+1=2以上の大きな結果をもたらすことになった。

 金森が、この作品を『トリスタンとイゾルデ』のバレエ化だと言わなかったのは、井関が“井関佐和子”のままで踊ることを望んでいたからではないか。全体の構成、細部の振付も、イゾルデの感情描写にウエイトをかける一方、トリスタンの方は背景と一体化して見せるという、明らかに均衡を失した配分がなされていた。『Liebestod-愛の死』は、井関佐和子のイゾルデでしか見てはいけない愛のデュエットだったのだ。

サポーターズ会報第32号より

(2017年6月2日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

「世界に繋がる新潟のシンボルでありたい」(金森さん@BSN「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」)

この度の台風19号の被害に遭われた方々に対し、改めまして心よりお見舞い申し上げます。

(新潟日報10/19朝刊・テレビ欄より)

さて、先週の放送予定が延期となったBSNテレビのゆうなびスペシャル「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」が、この日(10/19・土)放送されました。ご覧になられましたか。新潟県外の方にも放送内容をお知らせしたいと思い、かいつまんでレポートいたします。

「30分番組」は、9月の活動更新記者会見の模様から始まりました。『Fratres I』と『Mirroring Memories』からの場面が続き、5月の『カルメン』モスクワ公演の様子が流され、芸術性の高さが伝えられる一方、「地方の現実」として、税金を投入する以上、地域への貢献が求められる事情が示されました。相克、或いは止揚。Noismの存在をめぐって、「新潟は何を問われたのか」との番組テーマが掲げられます。

「りゅーとぴあ」: 市民活動は勿論、3部門(音楽・演劇・舞踊)を核に創造型事業を展開。市からの事業費補助は、Noismを含む舞踊部門に約5,000万円、音楽部門・演劇部門他に約1億4,400万円。(いずれも年間平均)

金森さん「東京の公演を買ってくることがメインの劇場文化は『中央集権』を助長するだけ。劇場は本来、文化による『地方分権』を成立させ得る拠点」 → 篠田昭前市長は「新潟から世界に発信していく」ビジョンに惹かれて惚れ込んだと話し、2004年、公共劇場がプロのダンスカンパニーを抱えるという国内初めての取り組みが始まった経緯を説明。しかし、前例のない挑戦を待ち受けていた厳しい現実。例えば、「時間と場所」。「Noismに独占されては困る」など、契約更新のたびに難題に直面してきた。「劇場はプロが作品をつくる場所」とする金森さん。生じる摩擦。舞踊団と行政とが互いに妥協点を見出しながら積み重ねてきた15年。

*ワレリー・シャドリンさん(チェーホフ国際演劇祭ゼネラルディレクター:5月に『カルメン』を招聘) 「日本の若い世代の演出家の中で金森さんほど才能がある人を私は知りません」 → 終了後、早速、次回(2021年)の出演を依頼。しかし、継続問題の渦中にあるため、返答できず。

*篠山紀信さん(写真家:Noismの15年間を撮り続ける) 「(『Fratres I』を評して)金森さん独特のストイシズム。そのことの感動だね」「金森さんがここ(新潟市)に来て、本当に良かったと思う。これ以上の待遇はなかっただろう。新潟の宝物だと思う、本当に」

*篠田昭前市長 「全国に『りゅーとぴあ』を知らしめているものは何かと言えば、そのほとんどがNoismの活動によるもの」 しかし、…

  • 昨年11月の市長交代期を挟み、基金の減少など厳しい財政状況を背景に、中原八一新市長が様々な事業の見直しを表明。=「Noism活動継続問題」
  • 6月の新潟市議会:Noismの活動継続を疑問視する声があがる。「存在すら知らない市民もいる」
  • 7月、市民有志が市長に活動継続の要望書を提出。
  • 同7月、文化政策の専門家を構成員とする「劇場専属舞踊団検証会議」が初めて開かれる。市の税金で支えていくことの意味が議論される。
  • 8月末、契約更新に向けた市の意向が金森さんに伝えられる。(地域貢献活動を含む6つの課題を提示し、改善への取り組みを条件とする。)

Noismの海外公演: これまで15年間で11か国、22都市、58公演。「欧米に敵うんだ。欧米の人が『すげぇ!』って言うものを創れる。しかも、中央からじゃなく、地方から。それが我々のやっていること」(金森さん)

「地域貢献」か「世界と繋がる芸術の創造」か。地方は芸術にどう関わっていくべきなのか。相克、否、止揚。

ひとつの答えを導き出した場所:富山県南砺市利賀村。1976年、主宰する劇団ごと東京から移転してきた演出家・鈴木忠志さんは、過疎の村を「演劇の聖地」に育て上げた。現在、村や県のみならず、国、政治・経済界を巻き込む支援を得ている。世界と繋がる芸術に地域が価値を見出し、共に歩む。活動の集大成とも言える国際演劇祭「シアター・オリンピックス」は、人口500人に届かない村に国内外から2万人を集める。

*鈴木忠志さんは「支援への還元」に関して、「本当の芸術活動、優れた芸術家は人類の財産になることを目指す。地域の利益のためにやっていたら利益誘導にしかならない」とし、金森さんについても「芸術的には今の日本で大変優れた仕事をしている。応援しなければいけない」と話し、地域全体で取り組むことの重要性を強調。

平田オリザさん(劇作家・演出家)「Noismの活動の価値は圧倒的なものがある。それをどう生かすかは新潟市の側の問題」

金森さんは「世界に繋がる新潟のシンボルでありたい。自分たちのこの街が世界と繋がっている。特に若い子たちはどんな仕事を志すにしろ、世界に対して広い視野を持って貰いたい。経済的に大変であっても、人や心の部分、文化の部分では国際的であって欲しい。自分はそのために呼ばれたと思っているからね」とあくまでもこの街(新潟市)に思いを馳せ、未来を見据えて語りました。

番組ラストのナレーションは「日本でただひとつの劇場専属舞踊団を抱くこの街は、何を目指し、どこへ向かうのか」 金森さんが唱えるブレることのない「劇場100年構想」を想起してみるなら、その答えは明白でしょう。私たち一人ひとりの豊かな人生、それを措いて他に何があるというのでしょう。

皆さんはどうご覧になりましたか。そして、拙いレポートではありますが、ご覧になれなかった方に内容の一端でもお届けできていたら幸いです。

(shin)

活動期間更新記者会見について、みたびの新潟日報「窓」

本日(10/12)の新潟日報「窓」欄に、過日の活動期間更新記者会見に臨んだ印象を綴る拙稿「『ノイズム第2章』に期待」を掲載していただきました。折しも、BSNゆうなびスペシャルで「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」(17:00~)が放送される朝。

あの日、テレビや新聞では伝わり難かった「会見場」の雰囲気、その一端でもご紹介したいと考え、書いたものでした。真新しい内容ではありませんが、お読みいただけましたら幸いです。 

上で触れました本夕放送のBSNゆうなびスペシャルにつきましては、こちらも新潟日報から。

(新潟日報10/10朝刊より)
(朝日新聞10/12朝刊・テレビ欄より)

併せまして、よろしければ、こちら9/27の記事(金森さん「このタイミングでこのような体制で挑めることに感謝」(9/27記者会見))もご再読ください。

(shin)

【追記】「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」は台風の影響から、この日は放送されず、一週間後に日を改めて放送されました。こちら10/19のレポートをご覧ください。

白鳥は何を夢見る

Noism1 『NINA』 『The Dream of the Swan』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第33号(2018年4月)

 Noism1の埼玉公演で『NINA』を見た。この作品は、2005年の初演から金森穣の代表作と云われ、国内外で数多く上演されてきた。私は、これを見るのが初めてだったので、期待して客席についた。

 ところが幕があいて最初の作品は、井関佐和子の踊る金森の最新作『The Dream of the Swan』だった。舞台にはベッドが置かれ、そこに井関がひとり寝ているという意外なシチュエーションに、心が揺れた。病院でよく見るようなベッドの上には、室内灯がさがり、やや狭い空間の印象。どう見てもバレリーナが寝ている優雅な部屋とは思えない。そこでの井関の動きは、寝ていることの苦しさから、なんとか脱出しようといった「もがき」から始まった。細かな動きを積み重ね、ついにベッドの外へ。彼女の動きはますます加速され、ついには狂おしいまでに高調し、ベッドの周辺にまで広がったが、それはすべて 夢の中のことなのだ。すべては、バレリーナを夢見る少女の生態の精密な描写だった(もしかすると怪我で動けないダンサーの・・・)。井関の迫真の演技が、見る者の心を鋭くえぐった。しかしそこに描かれていたのは、どこかにはなやかささえ感じさせる、よくある普通の情景だった。

 バレリーナが踊るソロ作品は、意外なことにほとんど無い。アンナ・パヴロワが踊ったフォーキンの名作『瀕死の白鳥』ぐらいしか思い出せない。バレエの世界で女性がソロを踊る時には、グラン・パ・ド・ドゥのバリエーションが選ばれることが多い。そんなバレエ界に出現した『The Dream of the Swan』は今後たびたび見たい作品のひとつになる可能性を秘めている。

 『NINA-物質化する生け贄』は今から10年以上前に発表された人工の知能を備えたロボットの反乱を描いたようにも見える問題作だ。冒頭の大音響で観客を別の世界へ隔離して、以後の衝撃的な展開を語りつぐ。その前に『The Dream of the Swan』を置いて、異界への転異の衝撃を和らげた金森の配慮には意味があった。今後、このふたつの作品は同時に上演されるようになるのかもしれない。

 初めて見た『NINA』は、期待通りのインパクトのある作品だった。Noism1のダンサーたちの、感情を交えない動きの不気味な展開は、我々の生きる未来の風景だった。彼らの好演を恐々見終わった後、『The Dream of the Swan』の人間感情の横溢するどこか危うい世界をもう一度懐かしく思い出すことになった。

サポーターズ会報第33号より

(2018年2月18日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

森優貴さんを招いた「柳都会」vol.21を聴いてきました♪

2019年9月29日(日)の新潟市は雨模様で、じめじめした一日。Noism活動継続の記者会見からわずか2日というタイミングで、「日本の劇場で、専属舞踊団は必要とされるのか?」をテーマに、「柳都会」vol.21が開かれました。今回のゲストは、2012年から今夏まで7年間にわたって、ドイツはレーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーで日本人初の芸術監督を務め、この度帰国した森優貴さん。欧州の状況に照らして、日本の現状を考える、またとない好機ということで、興味津々、会場のスタジオBへと赴きました。

定刻の15:00ちょうど、ふたりが登壇し、着席。金森さんから紹介され、「もう始める?」と切り出した森さん。2012年にダンサーを公式に引退して、レーゲンスブルク歌劇場の舞踊部門の芸術監督に就任。10代で欧州に渡って23年という年月は、在日本より長く、「日本語が出てこない」とおどけながらも、ところどころ関西弁を交えて、軽妙に語る森さんはとても気さくな方でした。森さんのお話しは独・レーゲンスブルク歌劇場の説明から始まりました。以下、手許のメモをもとに、要約でお届けします。

レーゲンスブルク歌劇場: 人口12~13万人、世界遺産の街・レーゲンスブルク(独・バイエルン州)。レーゲンスブルク歌劇場は3階だて、築100年くらいの建物にはオペラハウス(キャパ580名程)ともうひとつホール(キャパ620名程)があり、約360名が雇用されている。年間会員制度があり、それぞれの嗜好(コンサート、オペラ、舞踊等)と曜日の組み合わせから、30数種類のモデルが用意されており、年間会員は決まった座席で鑑賞する。毎週火曜日に会議があり、売り上げをチェック。そこでは年間会員以外の一般の売り上げの多寡が重視される。

歌劇場のサイクル: 年間スケジュールは年毎に変化はなく、夏休みは閉鎖、9月から始まる。舞踊関係では、11月に秋の新作公演、加えて、「社会貢献」としてHIVチャリティガラコンサートが秋に行われている。次いで冬の新作公演は2月。3月にはミュージカル公演があり、ダンサーも出演必須で、振付も行う。5月にはオペレッタで、舞踊ナンバーが2~3曲入る。6月はヤング・コレオグラファーの公演、とほぼ固定で回っていく。あくる年の方向性が決まるのは12月、1月頃。 

劇場支配人(インテンダント)と芸術監督: 劇場トップには劇場支配人(インテンダント)1名がいて、そのインテンダントに選任された4名の芸術監督(芝居・舞踊・楽団・青少年の芝居ユンゲス・シアター)がいるスタイルはほぼドイツで一般的なもの。インテンダントは市の評議会が選任する。その際には、その人が持つ人脈が重視されるケースが多い。インテンダントまで上り詰める者は、オペラのディレクター、芝居の演出家などであるのが通例。舞踊からの者はほとんどいない。森さんが務めた芸術監督は各プロダクション毎に予算を示されるのみであり、売り上げの責任を負う立場にはない。

舞踊部門の芸術監督: 劇場が年間38~40の新作を送り出しているなか、舞踊部門は最もプロダクションが少なく、予算もカットされ易いのが現状。「舞踊部門は立ち位置が弱いよね」(金森さん)。どういうところで勝てる喧嘩をしていくか、それなしには舞踊の位置づけを守れない。長期の準備期間を要するのが舞踊。台本がなく、曲探しから始め、秋に新作公演を打つためには、1年半くらい前に始めないと間に合わない。確固たるイメージが共有されなければ、美術・衣裳などは作れない。その舞台・衣裳などは劇場内に工房があり、ほぼ外注することはなく、正確な情報を渡さないと動いてくれない。また、レーゲンスブルク歌劇場にはストレージ(倉庫)がないことから、公演は連続公演のかたちで組まれ、公演後、美術は破棄される。よって、再演は行わない(行えない)。

芸術監督の交代期: 一旦、全員解雇のかたちをとり、オーディションを行い、残留者が決まるのが普通。どの劇場も一斉に動くため、流れには乗れる。一方、カイロプラクティック等への転身等の他の選択肢や補助金等のサポートもあるため、見切りをつける子も多い。失業手当(1年間)なども受給可能。レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーのダンサーは男女5名ずつの10名。そこに世界中から700~800の応募がある。(イタリア、スペイン、キューバ、ブラジル、日本、韓国などからの応募が多い。)また、オーディションにおいて、不採用とする際には、訴訟を避けるためにも芸術面での理由を述べる必要がある。

欧州の劇場: 日本と違い、「貸館」主体の劇場はない。貸日を設けているくらい。公演チケットの価格は、良席でもオペラで10,000円未満、ダンスは4,800円くらい。他に、学生チケットや「ラストミニッツチケット」(格安で売り出される当日券)などバラエティに富むものが用意されている。 

劇場の今: 教育機関に対する責任の大きさから、アウトリーチ活動を行い、新作初日までのクリエイションの過程を見せるなど、どうやって作品が出来上がっていくのかを見せて、劇場に足を運んで貰えるよう努力している。それを担うのは広報部長(1名)であるなど、雇用人数に対してオーバーワークという現実がある。また、近年、ドイツでは芝居に客が入らなくなってきている。理由は時間がかかるから。その点、舞踊は、生きる総合芸術という側面を手軽に楽しんで貰える利点があり、芝居の売り上げが思わしくなかったり、歌手が体調を崩したりしたときなどには、「優貴!(やってくれ!)」と(舞踊に)声がかかることも多かった。他面、観客に目を向けると、ファンを除いて、市外の劇場へ足を伸ばす者は少なく、市内で完結してしまうことが多い点や高齢化に伴い、次世代の観客が減少している点なども問題として浮上してきている。

日本の劇場、日本に戻ってきて: 公民館と区別がつかないような劇場の日本。「実際、公民館の跡地に劇場が建っている例も多い」(金森さん)。まず、集客の保証があってという順序ではなく、その地域、その劇場で作ったものを発信していくことの意義は大きい。生の人間が作って、生の人間が関わるところに本質的な対話や共感が生まれる。土壌もない状況でNoismができたことは、歴史的な事件であり、希望であったし、それが15年続いたことも含めて、奇跡のような事件。それだけに、今日まで「2番手」が出てこなかったことが腹立たしくて仕様がない。語弊はあるが、もし「2番手」ということになるなら、自分以外にいないんじゃないかと思った。(会場から拍手)

ラストの会話を再現してみます。
-「なんで日本に戻ってきたの?」(金森さん)
-「まあ、いろいろ」(森さん)
-「とりあえず、倒れてもいいのがわかったからね。頑張ってみるよ」(金森さん)
-「金森さんはいつだって追いかけるべき先輩だった」(森さん)
-「避ける者も多いよ。その道は絶対に行かないというか…」(金森さん)(笑)
-「芸術監督の立場について色々相談したし、『同志』と言って貰えたことは嬉しかった。『2番手』、責任だと思ってた」(森さん)
-「俺、もうちょっとやりたいんだけど、いい?」(金森さん)
-「金森穣だけで終わってしまってはいけない。ひとりではできないけど」(森さん)
-「まだ帰ってきたばかりじゃない?」(金森さん)
-「今、勢いあるからさぁ、やるなら今かなぁと」(森さん)(笑)

すべて網羅することは到底できよう筈もありませんが、上のやりとりのような感じで、終始、和やかに進められたこの日の「柳都会」。途中には、森さんがレーゲンスブルクで振り付けた作品の公式トレイラーも5本流され、その色彩感豊かな映像に、来る12月・1月の『Noism1+Noism0 森優貴/金森穣 Double Bill』への期待も募りました。3歳違いのふたり(金森さんが3つ年上)、今、その振付の個性を並べて観ることが待ち遠しくて仕方ない心境です。とても楽しい2時間でした。

(shin)

 

金森さん「このタイミングでこのような体制で挑めることに感謝」(9/27記者会見)

2019年9月27日(金)午後2時半、「 りゅーとぴあ劇場専属舞踊団 Noism 第6期活動期間の更新『Noism1+Noism0  森優貴/金森穣 Double Bill』製作発表 記者会見」に参加してきました。

会場はりゅーとぴあ ・ 能楽堂のホワイエ、 出席者は中原八一新潟市長、金森さん、りゅーとぴあ支配人の仁多見浩さんの3名。傍らに井関さん・山田さんをはじめとするNoismメンバーが勢揃いするなか、中原市長の「よろしくお願いします」の言葉から会見は始まりました。

まず最初に、中原市長がこの一年間を「Noismの活動を理解する期間が必要だった」としながら、「Noismの活動に支障をきたさないように」これまで15年間の活動を検証し、さる8月24日、りゅーとぴあ及び金森さんに課題と方向性を伝えたところ、「本当に真摯に検討してくれた」と説明。Noism・りゅーとぴあと協力しながら、市民との関係を築き、レジデンシャル組織としての優良事例となること、新潟市の踊り文化に対し、好影響を与えることで、より一層の高評価を獲得していく期待を語りました。

仁多見支配人は、2022年までの活動を認めてもらったことに感謝しながら、課題には「身が引き締まる思いがする。りゅーとぴあとして真摯に受け止め、改善に取り組んでいきたい」と第一声。続けて、「意思疎通を図りながら、全国のモデルとなり得るよう努めていきたい」と。

金森さんは皮切りに、中原市長には、「難しい判断と決定」であっただろうことに思いを馳せて、そして仁多見支配人には、連携の重要性に鑑みて、「力強い協力」を申し出てくれたことに対して、ともに感謝を口にし、「このタイミングで、このような体制で挑めることに感謝します」とも。

次いで、まず、舞踊団の総称を、これまでの「Noism – RYUTOPIA Residential Dance Company」から「Noism Comapany Niigata」に改称する旨を発表。これは、国外での「RYUTOPIAとは?」と国内の「Residentialとは?」の疑問を一挙に解消しながら、より単刀直入に、「Niigata(新潟)」の名を国際的に発信することを可能にするもの、としました。

更に、新体制として、これまでのNoism1とNoism2に、プロフェッショナル選抜カンパニーNoism0を加えた、3部体制にすること、舞踊家とスタッフに関しては、舞踊家1名減、スタッフ1名増で臨むことが触れられました。

その後、「提言」を受けて纏められた「活動方針(案)」(文化政策課)に盛り込まれた6点の課題改善に向けた取り組みや方向性が説明されました。

①地域貢献のための活動: 市内の舞踊団体との連携(R2秋・新潟市洋舞踊協会合同公演における金森さんによる新作振付)、「Noismスクール(経験者向け・初心者向け)」の新規実施、「柳都会」・「公開リハーサル」等の継続実施、更に、市民へのスタジオBの提供等。

②国内他館との信頼関係・ネットワーク: 少数精鋭の選抜カンパニーNoism0(金森さん・井関さん・山田さん)は小規模の故、他館との連携のし易さというメリットがあり、連携には好都合と。

③Noism以外の舞踊の提供: 金森さん以外の振付家招聘公演として、年末からの『Noism1+Noism0 森優貴/金森穣 Double Bill』を実施。独・レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニー芸術監督を辞し、帰国した森さんに帰国後1本目として、Noismへの振付を委嘱。

④コンプライアンス・意思疎通、⑤労務管理、⑥予算減の可能性: 規約等を再確認のうえ、適切に進める(④)、十分に協議のうえ、改善に努める(⑤⑥)、とされました。

金森さんの説明に続き、メンバーを代表して、井関さんと山田さんもこれからの活動について語りました。井関さんが自身の経験に重ねて、「若い世代の人たちにとって、時間・空間・人のサポートは重要。これからも与えていって欲しい」と語れば、山田さんも「(Noism2リハーサル監督という)責任ある立場として、遠い未来を見つめて、よりよい価値をつくっていきたい」と話しました。

その後、簡潔に、(極めて簡潔に、)『森優貴/金森穣 Double Bill』について触れられたあと、報道各社からの質疑応答に時間が割かれました。ここでは、それらを通して語られたことをまとめてご紹介します。

仁多見支配人: 公演を観ることが生き甲斐になったり、観ることで人生観が変わったり、町の賑わいにも繋がったりと、芸術活動の意味は大きい。公共劇場に課せられた責任の重さとともにやりがいを感じる。

Noismはりゅーとぴあ専属の舞踊団、それをどう支えていくかが課題解決に向けて最も重要なところ。職員全体がそういう意識を共有しながら進めていく。公演の度、スタッフには負担も大きい。実態に目を通しながら、金森さんと一緒に体制作りをしていきたい。

支配人になってから、初めてNoismの公演を観た。言葉にならない感動とはこういうものなんだなと知った。人生観も変わるくらい凄い。必ず感動します。まず一度観ていただきたい。

中原市長: 文化を創造し、世界に向けて発信していくところに予算を使う意味がある。「3年後」は正直、未定。レジデンシャルカンパニー制度が新潟市として持続可能か、全国的にも意味を持ち得るか、定期的な検証は必要。

今回、私が市長になって検討することになった。そのなかでも、金森さんはキチンとした話し方をされる。世界的にも評価される金森さんが真摯に受け止めてくれ、解決しようと決意してくれたことを有難く思う。こういう方から新たに色々取り組んでいただくのだから、必ず評価は高まっていくものと確信している。新たなファンも必ず生まれる筈。

名称も新たに「Noism第二幕」の開幕。芸術性の高い素晴らしい舞踊を楽しんでいただきたい。期待していただきたい。是非応援してくださいと言いたい。

金森さん: Noismの存在理念が討議されたのは今回が初めて。特別の感慨がある。それぞれの「課題」に対して驚きはなかったが、同時に、どれもNoismという一舞踊団だけで取り組める性質のものではない。支配人から「力強い協力」の言葉を得て、取り組めるんじゃないかと思うようになった。

「財政再建」問題は、新潟市民として「関係ない」と言って済ませられるものではない。粉骨砕身、頑張っていくことしかない。時間は大事だが、あればいいというものでもない。限られたなかで、成果を出していくことが問われている。具体的に動いて、適宜、その都度、改善していきたい。

かつて、芸術家の後ろにパトロンがいたものが、社会制度の中に落とし込んで劇場が成立するようになった。どのようなものを発信していけば地域のためになるのかという問題は、一芸術家としては相容れない部分もある。右目で新潟を、左目で世界を見て、その焦点に浮かび上がるものが自分の現実。

「新潟から世界へ」と言っても、誰も本気で信じてはくれなかったんじゃないかな。(笑)それから15年。今、それだけのレベルのものを地域に還元していきたい。

劇場の扉を開けて外に出ていくことをしながらも、本義は舞台表現。是非、観に来ていただきたい。

会見が始まると、すぐに固さはやわらぎ、終始、穏やかな表情で前向きに語る3人を目の前にして、課題は課題として、一致協力してそれに向き合おうとする新潟市とりゅーとぴあと金森さん(Noism)を認め、少しホッとし、漸く、あの「提言」に対して抱いた違和感も薄らぎました。

未だ、予算や市民貢献活動ほか、制約は多くありますが、「新生Noism Company Niigata」として新たなカンパニー・モデルを立ち上げていってくれるだろうこと、と同時に、支援の輪が広がり、「新たな金森ファン、Noismファン」(中原市長)に囲まれ、誰知らぬ者などない、揺るがぬ「新潟市の顔」となる日のことを思いました。それに向けて、私たちも頑張って支えて参りましょう。新たな一歩が踏み出されました。

終了は見事に予定時間ピッタリの午後3時半。日曜日の「柳都会」も楽しみです♪

(shin)