ウェブ「dancedition」の「Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(14)」で2025年を締め括る♪

先日、『マレビトの歌』埼玉公演のあと、金森さんと井関さんがSNSにアップした写真からは、どうやらおふたりが「南半球」におられるらしいことが伝わってきて、ならば、恐らくは「真夏のクリスマス」をお過ごしだったのだろうなどと考えていた折から、今日(2025年12月26日)、「北半球」の、それも新潟市界隈は、正午あたりから、JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)の影響で「真冬」の厳しい風雪に見舞われております。

こんな天候の日には無理して外出せず、暖房のきいた部屋に籠もって、「インドア」ライフに耽るのもよろしいかと。そうです。本日、ウェブ「dancedition」にアップされた「Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(14)」を読んだりするのがベストマッチな訳です。

この連載第14回、冒頭のビジュアルは、「あの」エモい作品の衣裳を纏う井関さんじゃありませんか。しかし、今回、井関さんは、ちょっと例外的に、金森さん演出でもなく、井関さんも踊っていない「Noism1メンバー振付公演」(初演:2015年8月29日・新潟市内各地)(「水と土の芸術祭2015」)から語り始めます。それは前々回(連載第12回)、前回(同第13回)に引き続き、Noismと自分を巡って「闘いの時期」と回顧されたまさにその最中であった故なのでしょう。続いていますね、ヒリヒリする時間。でも、そこはサクッと。

で、次は、プロジェクト・カンパニーとしてのNoism0による最初の舞台、『愛と精霊の家』(初演:2015年9月4日・新潟、埼玉)です。

金森さんと井関さんのプライベート・ユニット「unit-Cyan」による『シアンの家』に遡っての創作中の逸話から始まり、興味深い内容が読めます。なかでも「象徴的な出来事」と言い表された場面などは、人生を賭して舞踊に献身することの「実相」をまざまざ伝えてきて、その覚悟たるや、読んでいて悲痛なものすらあるほどです。

それが『愛と精霊の家』へと。出演者は井関さん、山田勇気さん、小㞍健太さん、奥野晃士さん(SPAC)、そして金森さんと超豪華。赤と黒、そして金色、更に仄暗い闇に印象的な灯り、まさに「大人~♪」な魅力を発散しまくりの舞台でした。それは当時「しんどかった」井関さんにとって「救い」だったのですね。そしてそのNoism0はその後、正式な「Noismのプロフェッショナル選抜カンパニー」になっていくのでした。それって舞踊家たちにとっても、私たち観客にとっても、とても豊かな事柄ですよね。

次いで語られたのは、あの「エモい」作品、Noism1・Noism2劇的舞踊『ラ・バヤデール-幻の国』(初演:2016年6月17日・新潟、神奈川、兵庫、愛知、静岡)です。

脚本は平田オリザさん、音楽にはミンクスに加えて笠松泰洋さん、空間は田根剛(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)さんで、衣裳が宮前義之(ISSEY MIYAKE)さん、木工美術に近藤正樹さんと豪華な面々が関わり、SPACの俳優・奥野晃士さん、貴島豪さん、たきいみきさんも出演したホントの大作と呼べる舞台です。

そして、「振付が特殊で、全てワークショップでつくっています」と井関さん。そうでした、そうでしたね。Noism公式のサイト(Noism Web Site)にも、「振付:Noism1」、そして金森さんには「演出」とクレジットされています。

うん、うん。…えっ!えええっ!なっ、なんと本番前日に「大喧嘩」!?
互いに互いの立ち位置から「最高のもの」を追い求めるふたりには、ハラハラしながらも、ホント頭が下がります。そんな妥協のなさのお陰で、あの「エモい」「影の王国」になるのですね。思い出すだけでため息が出てしまいます♪

実演家の創作の裏側にあるものを伝えて余りある今回の「Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(14)」、是非お読みください。

このあと、コメント欄にて、当時、おふたりの舞踊評論家にお書き願い、Noismサポーターズ会報に掲載させて頂いた文章、浦野芳子さんによる『愛と精霊の家』についてのものと、山野博大さんによる『ラ・バヤデール-幻の国』のご批評ほか(PDFファイル)へのリンクを貼らせて頂く予定です。そちらも是非クリックして、お楽しみください。

(shin)

「dancedition」井関さん連載第6回、公私ともに大きな転換期が語られる♪

2025年8月25日(月)、Noismメンバーたちが週末の「SCOT SUMMER SEASON 2025」出演に向けて、利賀村入りしたことが伝わってきているタイミングで、ウェブ「dancedition」連載の井関さんへのインタビュー企画「Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(6)」がアップされました。

今回、井関さんによって語られるのは、2007年から翌2008年にかけて。Noismというカンパニーとしても、舞踊家・井関佐和子さんとしても、公私ともに大きな転換期を迎えた頃と言ってよい内容が読めます。

また、舞台に立つ舞踊家の心持ちや、出演者に選ばれる/選ばれないを巡る厳しさも窺い知ることが出来て、一観客としても、一ファンとしても、とても興味深いものがありました。

先ず、『PLAY 2 PLAY-干渉する次元』、初演は2007年4月20日。新潟、静岡、東京、兵庫で上演されました。金森さんから、空間の田根剛さん、音楽のトン・タッ・アンさん、衣裳の三原康裕さんに対して、「要望は特になく、『今彼らが何が作りたいか』というある意味一番難しい問いが投げかけられました」(井関さん)とクリエイション最初期の様子が語られています。そのあたり、「20周年記念冊子」には、次のような記載があります。「互いに意見(干渉)し合い、挑戦し、時代を共存すること。容易に分け与えるでもなく、閉ざし守ろうとするのでもなく、与えることによって得て、得たことを与えるという連鎖の中に、現代における総合芸術としての舞踊芸術を創造する。」タイトルに込められた「干渉」の2文字は、リスペクトし合う3人のクリエイターたちの「コラボレイション」の謂いだったことがわかります。

(この『PLAY 2 PLAY-干渉する次元』、私は6年後の「改訂版再演」で初めて観ることになるのですが、その「コラボレイション」が産み落とした「美しさ」にうっとりしたことを強烈に記憶しています。)

次は、外部振付家招聘企画第3弾「W-view」で、中村恩恵さんの『Waltz』、安藤洋子さんの『Nin-Siki』。2007年10月5日の初演で、新潟、東京、福岡、岩手、北海道と巡演。

『Waltz』における演出振付家から井関さんと金森さんへの「プレゼント」の件(くだり)は、「踊る者」同士であればこそ、の素敵さが読み取れる逸話で、私には想像してみることしか出来ませんが、「そうだよね、なるほど」って感じになりました。

井関さんにして、「当時はあまりお姉さん方の頭の中が理解できずにいた」と述懐された女性振付家による2作品ですが、転換期を迎えていたNoismというカンパニー、そして井関さんに対して、「外部」から大きな刺激をもたらしたのだろうことは想像に難くありません。

そして、時期は少し前後しますが、『NINA-物質化する生け贄(simple ver.)』(初演:2007年1月10日)。世界中からの注目に応えるかたちで、チリ、アメリカ、ブラジル、ロシアを巡って、「新潟から世界へ」を現実のものとした後、たたみかけるように、翌2008年には『NINA-物質化する生け贄(ver. black)』(初演:2008年2月7日)が、アメリカ、韓国、新潟、神奈川、台湾、フランスと巡演しました。

この『NINA』に関しては、井関さんが「1番たくさん踊っています」と語り、その上演回数が多かったことがわかります。やはりNoismの代表作のひとつですね。また、井関さんがこれまで色々な機会に語ってきたこのときのツアーの思い出も多彩で、そちらも「読みどころ」と言えます。

以下にリンクを貼っておきますので、今回の「Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(6)」も、是非ご一読ください。

今回は、目下、NHK『あんぱん』で私たちにも広く知られるようになった、井関さんご出身の高知の言葉で締め括ることといたします。「ほいたらね。」(←林田理沙アナの声を脳内に召喚して頂けたら幸いです(笑)。)

(shin)

胸に迫る万感と感涙、そしてその先へと~Noism20周年記念公演「Amomentof」新潟公演の幕おりる

2024年6月30日(日)、Noism20周年記念公演「Amomentof」新潟公演楽日の新潟市は昼過ぎから雨。あたかも一足先に天がホームでの最終舞台となるのを惜しむかのように、数時間後の私たちの心を映した天候となっていったのでしょうか。そんなふうにすら思えてしまうほど、楽日の心持ちには寂しさも忍び込んでいたりします。

この日は15時の開演でしたが、通常より30分早い14時ちょうどにホワイエまでの開場となり、そのホワイエ内で同時刻に『劇場にて-舞踊家 金森穣と新潟』の上映が始まり、多くの人たちが大型モニターの前に立ち、その優れたドキュメンタリーに見入っていました。

そうでなくても、楽日の賑わいを示すホワイエ。この日の公演に足を運んだ方々のなかには、金森さんの芸術監督招聘およびNoismの設立に関わった篠田昭前新潟市長や、鼓童とのコラボレーション『鬼』の音楽を作曲した原田敬子さん、そしてかねてより金森さんと親交が深く、『ラ・バヤデール-幻の国』において空間を担当した建築家・田根剛さんといった面々の姿がありました。(とりわけ、ご自身も登場するドキュメンタリーに視線を送る原田さんの姿には興味深いものがありました。)

約55分の尺をもつドキュメンタリーが半ば過ぎに差し掛かった14:30、客席への入場も始まりました。チケットカウンターには「当日券あります!!」の表示があったりもしましたが、この日の〈劇場〉はほぼ満席に近かったように見えました。

20年!そう、20年前に今のNoism Company Niigataを、ピークを更新し続ける日本唯一の公共劇場専属舞踊団の姿を想像できていた人は恐らく、そう多くはなかったのではないでしょうか。勿論、金森さんを除いて。

「すみずみまで明瞭にイメージできたことは間違いなく成就するのです。すなわち見えるものはできるし、見えないものはできない。したがって、こうありたいと願ったなら、あとはすさまじいばかりの強さでその思いを凝縮して、強烈な願望へと高め、成功のイメージが克明に目の前に『見える』ところまでもっていくことが大切になってきます」そう書いたのは京セラを設立した稲盛和夫氏(著書『生き方』(サンマーク出版)より:同書は「あの」大谷翔平選手がお勧めの本として挙げる一冊。)ですが、恐らく、金森さんが歩んで来た20年の軌跡にも、ここに引いた内容と重なる部分が大きかったものと推察されます。(稲盛さんの「見える/見えない」という言い回しは、奇しくも前日のアフタートークにおいて、音楽に振り付ける際のキーワードとして金森さんが使ったものでもあります。)

この度の記念公演の舞台を観ていると、新潟と世界が直結されている、或いは、今のこの一瞬間、ここ新潟はある意味、間違いなく世界の中心と言って差し支えなさそうだ、そんな普通なら途方もない放言と捉えられかねない思いさえ、自然に信じられてくるのです。恐るべし、金森さん。余人をもって代え難い芸術総監督、そう思う所以です。そして、今この国にあってそんな類い希な芸術家を支援することの豊かさや誇らしさといったらそうそうあるものでもないのでは。そんな思いも。

「今、自分が日本の劇場で働けていることは誇りなんですね。海外への憧れよりも、もっと素敵な『夢』を20年かけて作ってきてくれたという思いをのせて公演をよいものにしたいです」4月19日の20周年記念公演「Amomentof」記者発表の席上、そう語ったのはNoism1メンバーの三好綾音さん。(ウォルト・ディズニーではありませんが、)「ワンマンズ・ドリーム」を着実に根付かせるといった「偉業」に対して、(その闘いを知る)メンバーから贈られたこの言葉に相好を崩した金森さん。そして今公演で踊るメンバーたちを「みんないい顔をしている」と評したのは金森さんと井関さん。大きく頷いた山田さん。信頼やら発展やら継承やら…。素晴らしい公演にならない訳がないのです。

新潟楽日のこの日も終演後、りゅーとぴあ〈劇場〉は割れんばかりの拍手とどんどんその数を増していくスタンディングオベーション、そして飛び交う「ブラボー!」の掛け声に満たされました。誰もが幸せを絵に描いたような表情を見せています。(最高潮に達したところで終わりを告げるマーラーの楽曲、前日同様、それにつられて湧き起こった拍手すらご愛敬に見えました。)

20年!当たり前のように新潟の地にあり続けたNoism。一瞬一瞬の献身によって、弛むことなくピークを更新し続けた20年。しかし(これも前日のアフタートークで語られたことにはなりますが、)20年という年月にすら、何かを成し遂げたという感覚はなく、常に今日より明日、すべての可能性はここにあるとして更に先へと目を向ける金森さん、井関さん、山田さん。翻って私たち観客は、だから、次から次へと、常に純度の高い良質な刺激に恵まれた20年を過ごしてこられた訳です。それを幸せ以外のどんな言葉で言い表せましょうか。

『Amomentof』も『セレネ、あるいは黄昏の歌』も、Noism20年の軌跡の果てに、今この時点で結実した「奇跡」のような2演目であり、同時に、そこにはNoismに伴走してきた私たち観客側の年月も(当然に)織り込まれる筈ですから、涙腺破壊指数が高くて当たり前な道理です。舞踊家と観客、向かい合う2者が、非言語の「舞踊」を介して(無言のうちに)20年の区切りを寿ぐことになる2演目と言えます。

しかし、安住することを嫌うのが金森さん。この間の金森さんの言動によって想起させられるものはといえば、やはり彼が常々唱える「劇場文化100年構想」でしょう。20年をかけて、既に言葉以上のものとなっている金森さんの「ワンマンズ・ドリーム」、その軌跡を情感豊かに可視化させた2作品にまみえることを通じて、更に長い100年というスパンで劇場文化を捉える視座のもとに、一緒に明日の劇場を作っていく観客という名の「同志」として誘われているようにも感じた次第です。胸に迫る万感と感涙、それを携えながら、更にその先へと。金森さんと一緒なら。
…そんなことを感じた新潟3daysの楽日でした。

さて、全舞踊ファン必見のNoism Company Niigata 20周年記念公演「Amomentof」ですが、今度は約1ヶ月後の7月26、27、28日、埼玉3days(@彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉)です。期待に胸を膨らませてお待ちください。

(shin)

山野博大さん追悼(1):Noism芸術監督対談「舞踊を語る!」(金森穣×山野博大)再掲

初出:サポーターズ会報第29号(2016年6月)

*さる2021年2月5日に惜しまれながら急逝された山野博大さん。生前、サポーターズの会報に掲載させていただきながら、その後、本ブログには再掲せずにいたものがふたつありました。この度、感謝と追悼の気持ちを込めまして、それらを掲載させていただくことに致しました。まずは金森さんとの対談(2016年3月)からお届け致します。深い内容を熟読玩味頂きますとともに、在りし日の山野さんを偲ぶよすがとなりましたら幸いでございます。 (shin)

* * * * *

春まだ浅い2016年3月22日。

舞踊評論家の山野博大さんを東京から新潟にお招きし、りゅーとぴあで金森芸術監督と対談していただきました。

お話は舞踊批評を中心に、舞踊の歴史とメソッド、海外との文化比較、劇場専属舞踊団の存在意義、そして劇的舞踊『ラ・バヤデール-幻の国』の創作秘話まで多岐にわたり、和気藹藹とテンション高く進みました。

photo by Ryu Endo

劇場

金森 今日はよろしくお願いします。

山野 こちらこそ。先ほど、館内を案内していただいて劇場やリハーサルを見せていただきましたが、なかなかいい環境だね。だけど、劇場のステージはもう少し奥行きがあるといいね。

金森 そうなんですよ。さすがよくわかってらっしゃる。奥行きがないのはなかなか大変です。やはり日本の劇場は建てる時にそこを使う専門家集団が不在のまま建てているので、どうしてもその辺の問題は出てしまうでしょうね。

山野 どこの劇場もそうなんだよね。建築家にも劇場に来てもらえるといいね。

金森 そうですね。

山野 帝劇っていう劇場があったでしょ。

金森 日本バレエ発祥の。

山野 そうそう。あそこを最初に建てたときに、歌舞伎もやりたいというニーズがあって、タッパをちょっと低くして間口を広くした。だから他のものをやるにはバランスが中途半端なんだけど、その後出来た劇場は、みんなそこを真似て造ってるんだよね。1970年くらいまでの公的ホールは全部その寸法。その後は外国のものを観る人も出てきて、縦長のものも増えましたけど。

金森 なるほど、帝劇モデルだったんだ。

山野 その帝劇は今はもう無いんだけどね。

金森 帝劇から日本の洋舞は始まってますもんね。

山野 そうそう。帝劇はそこだけ除くと他は素晴らしい劇場だったね。

舞踊批評

金森 そもそも山野さんは何故、批評を始めたんですか?

山野 中学2年生のときにね、バレエ団で踊ってる同級生がいて、それを観に行ったんですよ。そしたら、「これはなかなか面白い」と思った。面白いと思ったら、自分がやるのが普通でしょ。ところが、その同級生が稽古で学校へは出て来れないし、留年しちゃうし、大変でね。それで「こりゃ、やるより観るほうがいいな」と思っちゃったわけですよ(笑)。そこから観始めて、大学2年生のときに批評家になりました。アントニー・チューダーのライラック・ガーデンでノラ・ケイを観たときに、それまでクラッシック・バレエっていうのは“こういうものだ”という固定観念で観ていたのが全く違う世界に出会って衝撃を受けた。「舞踊とはここまで表現できるものなんだ!」と。ならば一生この世界で生きてもいいなと思ってね。

金森 中学校の同級生の公演を観に行って以降というのは、その方の公演とかをご覧になっていたんですか?

山野 いや、外国から来たものはなんでも観に行ったりしながらのめり込んでいきました。新聞に投稿したりとかしてね。当時は一般的に男の子が舞踊を観に行くということに対して、否定的でしたからね。

金森 そうでしょうねぇ。

山野 うちの場合はね、母親が芸事が大好きで理解があったんですよ。観に行くことに反対もされなかったし、チケットも買ってもらえた。そんななか、次第に趣味の域からは離れていきましたね。あるとき、図書館で本を読んでいたら、学校の先輩が「君、バレエの本を読んでるみたいだけど、興味があるの?」と声をかけてきてくれてね。当時はコピー機がないから書き写しをしていたんだけど、「その本なら家にあるから遊びにおいで」って言ってくれた。

金森 そのエピソード、山野さんの本(「踊る人にきく」三元社)に書いてありましたね。

山野 そうそう。それがきっかけで日本を代表する大評論家の光吉夏弥さんの家に通えるようになったんですよ。光吉さんに当時自分が書いた評論を見せたら、「これは中学生の作文だ。批評というのはちゃんとルールがあって書くんだ。感想文じゃないんだ」って言われた。「批評の第一は“舞台で何が行われていたのかを正確に書く”こと。その次に“批評”がくる。そうでなければ、その人がどう観て評価しているのかわからないじゃないか」と。しかも「歴史的な流れがどうあって、今ここがあるのかを理解していないと批評というのも意味がない」と言われてね。観てることをちゃんと書いて、それが歴史的にどうなのかというところも理解した上で自分の意見がどうなのか。批評というのはそういうふうに書きなさいと言われましたね。

金森 素晴らしい方にお会いしたんですね。そのような批評は、残念ながら日本ではなかなか目にしませんね。 “舞台上で何が行われていたか”だけか、“自分がどう感じたか”だけのものが多くて、その間が無い。歴史を踏まえた上でどうなのかというところは専門的知識がないと書けないものだとは思うんですが。

山野 だからね、批評家になるには少なくとも10年は観てないと、批評家って看板はかけられないんですよ。今を批評するならば、それ以前のことを把握し、理解を深めて自分の知識を補強していかないとならない。

金森 そうですよね。バレエでもなく現代舞踊でもないNoismがやっているような表現を、何舞踊というのか、山野さんに名称を考えていただきたいな。コンテポラリーという名称は嫌なんですよ。消費文化の象徴のようで。コン、テンポラリーじゃないですか。テンポラリーって一時的なものですよね。今の批評家のお話じゃないですけど、歴史性を踏まえてこれから何をするかと考えていくときに、自分の世代、育ちにおいては、やはり洋舞の影響なしには語れません。ただアイディア的に面白いとか、一時的なものではなく、バレエや現代舞踊、また、日本舞踊や舞踏など日本のなかで培われてきた歴史的身体の知識みたいなものと、自分がヨーロッパで学んできたものなど全部を活かして日本の21世紀の舞踊スタイルとして何かを残したいと考えています。

photo by Ryu Endo

舞踊の歴史とメソッド

山野 洋舞が一番影響を受けているのは、日本舞踊だと思うんですよ。我々日本人の立居振舞いを基本にして出来ているからね。日本舞踊が歴史的に培ってきたものをもっと使えばいいと思う。

金森 日本舞踊って型があるじゃないですか。稽古はどのようにしているんですか?

山野 稽古のメソッドはないんですよ。

金森 ないんですか?

山野 日本舞踊というのはね、先生と弟子が1対1で相対して、先生が三味線弾いて、振りを写していくんです。

金森 集団で稽古をしないんですか?

山野 振りを写していくのが稽古。つまり、日本舞踊って「システム」じゃないんです。作品集なんですよ。

金森 なるほど。でも上達はどのように見ていくんですか?

山野 師匠によって良し悪しが下される。エリアナ・パブロワが日本で最初にクラッシックバレエを教えたんだけど、それは日本舞踊と同じやり方で教えていた。

金森 パブロワが何の規範もなく、いいとかよくないとか言うわけですか。

山野 そう。つまり、パブロワはバレエ団に属していませんでしたからね。

金森 そうですよね。そこですよね。

山野 パブロワは貴族で、先生を家に呼んで教わっていた。貴族が没落して、日本に流れてきてバレエを教えながら生活していたんだね。その後、オリガ・サファイアという人が日本に来て、理論と技術を日本に伝えた。そこで初めて世界のバレエと日本が繋がったんだね。

金森 日本に初めて来たバレエ団がロシア系だったわけで、バレエと言えばロシアというところがあったし、新国立劇場ができたときにも最初にロシアのスターを招いていた。それはオリガ・サファイアからの影響だと思うんですが、なぜ日本のバレエ界は日本のバレエのメソッドを創らなかったんでしょうね。

山野 日本のバレエのメソッド…創れないですよ。

金森 創れますよ! デンマークだってブルノンヴィルが創っているし。フランスだって、イタリアだって、イギリスだってそうだし、アメリカだってバランシンの影響があるにしてもアメリカのバレエだなって感じがするじゃないですか。日本は何故いつまでも海外の真似をして、海外のスターを呼んで公演をしているんでしょう。

山野 つまりはね、海外に繋がっていることで日本というのは評価される。

金森 そう! それが情けなくてしょうがない。

山野 う~ん。そこが日本なのね。でもね。バレエの歴史というのは500年あるわけよ。

金森 そうですね。

山野 日本のバレエの歴史っていうのは、まだ100年ほどなんだよ。無理だよ、まだ。

金森 なるほど。これからですかね。

山野 これからは、あなた方の番だね。やらなきゃならないね。

劇場専属舞踊団

山野 日本のバレエというのはね、スタートがそうだったから、なかなか劇場でバレエをやるというスタイルになってこなかったんですよ。だから、日本のバレエ団は個人名がついているわけ。海外でね、個人名のついているバレエ団は少ない。

金森 そうですね。海外では結局、劇場がその国や街の文化政策として運営されているから、その劇場専属の舞踊団も当然その国や街の名前が付けられていますね。

山野 向こうは劇場に舞踊家が棲んでいるわけですよ。日本みたいに個人がバレエ団を創って、劇場を借りてやるんだということを考えた人は、世界でディアギレフが最初。日本はずっとディアギレフ・スタイル。

金森 でも、ディアギレフは天才的なプロデューサーとして、すごい芸術家たちを集めてやっていましたよね。日本の舞踊団はバレエ団のトップの方がいなくなると成り立たなくなってしまう。

山野 そういう在り方は世界では非常識で、劇場についてるバレエ団というのが常識なんですよ。そう考えると、りゅーとぴあに在るNoismっていうのは世界の常識に適っているわけだよね。日本では他に新国立劇場しかない。やはり、それ以外にも公的なところが舞踊団を持とうとして劇場を提供してくれるようなシステムが出てこないと世界と伍していけないわけよね。

金森 なんでできないんですかね。

山野 まだまだ、世間の関心が低いんですよ。

『ラ・バヤデール』平田オリザ脚本

山野 今回の『ラ・バヤデール』では平田オリザさんが脚本を書いているということですけど、平田さんとはどういう関係性があったんですか?

金森 2年前の夏に演出家の鈴木忠志さんが拠点とされている利賀村の演出家コンクールで審査員を依頼された際に、平田さんが審査委員長でしたから、お会いしたんです。初めてお会いしたのはおそらく10年近く前だと思うのですが、ゆっくりとお話ししたのはそこが初めてでした。利賀村に入っていると演劇を観る、あるいは食事をする以外の時間は空いていますから、そこにいる専門家たちと非常に密な話ができるわけです。そんななかで平田さんにどんどん興味を持つようになって、「いつかNoismのために脚本書いてください」って言ったら、「いいですよ」と言ってくださって。

山野 平田さんの芝居は観たことあるの?

金森 稽古を見せていただいたことはありますが、舞台はまだ生では無いです。映像で観て感銘を受けたのと、書かれた本を幾つか読んでいます。でも、平田さんの演劇的なものをNoismで表現したいということではなく、彼の論理的構築の仕方や政治に深くコミットしているところに強く関心を持ちました。“なぜ平田オリザだったか”と言えば、やはり「政治」というキーワードですね。新しく劇的舞踊を考えるにあたり、社会的なことを盛り込まないといけないと感じた。今、我々が直面している社会的な問題や課題をもとにした戯曲を書くために、シンプルに深い洞察ができる人っていうのは、やはり平田オリザさんだな、と思ったんですね。そしたら、もう想像以上の脚本が来ました。今、まさに考えるべきことだし、創るべきものだし、皆さんにお届けするべき物語になりましたね。

山野 なるほど。

金森 平田さんは、要望があれば書き直すし何かを加えたいという希望もウェルカムだからと言ってくださいました。なので、結構自分のアイディアも盛り込んでいただきながら、今、第6稿まで詰めていただきました。

山野 そうなの! すごいねぇ。

金森 ありがたいです。

山野 そういうやりとりがあるというのがいいね。音楽や美術や照明など、その他の要素というのはどういうふうに?

金森 衣裳を宮前義之さん、空間は田根剛さん、木工美術を近藤正樹さん、そして今回は新たに笠松泰洋さんに音楽の部分をお願いしています。今回の創作にあたり、やはり彼らだなと強く思いました。彼らが『ラ・バヤデール』の物語を通して、今の時代の課題をどう考え、表現するのかに興味があります。世界的な視座を持って活動している同時代の信頼できるクリエーターたちですね。

山野 なるほど。楽しみですね。

金森 ありがとうございます。楽しみにしていてください。

(2016.3.22/りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)

(取材・文: fullmoon / aco ) 

PROFILE  |  やまの はくだい

舞踊評論家。1936年(昭和11年)4月10日、東京生まれ。1959年3月、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。1957年より、新聞、雑誌等に、公演批評、作品解説等を書き、今日に至る。文化庁の文化審議会政策部会、同芸術祭、同芸術団体重点支援事業協力者会議、同人材育成支援事業協力者会議、日本芸術文化振興基金運営委員会等の委員を歴任。文化勲章、芸術選奨、朝日舞台芸術賞、橘秋子賞、服部智恵子賞、ニムラ舞踊賞等の選考、国内各地の舞踊コンクールの審査にあたる。舞踊学会、ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク、日本洋舞史研究会等に所属。日本洋舞史を舞踊家の証言で残す連続インタビュー企画《ダンス=人間史》の聞き手をつとめる。《舞踊批評塾》主宰。インターネット舞踊批評専門誌「ダンス・タイムズ」代表。舞踊関係者による《まよい句会》同人。2006年、永年の舞踊評論活動に対し、文化庁長官表彰を受ける。NoismサポーターズUnofficial会員。2021年(令和3年)2月5日永眠。享年84。