大学生たちが見たNoism『境界』①(公演感想)

いつも公演批評を書かせていただいております、稲田奈緒美と申します。
私は現在、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修で教鞭をとっており、秋学期には私が担当する授業「舞踊作品研究B」で、世界のさまざまな振付家、作品を取り上げました。
オンライン授業だったため、映像ではありましたが、学生たちはたくさん見た作品の中でもNoism作品に大変感動していました。

また、演劇・ダンス専修では、教員が学生たちに観てほしいと思うダンス公演、演劇公演のチケットを購入し、学生たちが見られるようにしています。そこで、秋学期にはNoism Company Niigata による公演《境界》を取り上げました。「舞踊作品研究B」を履修している学生たちも《境界》を見に行き、課題レポートとして批評を書いて提出しました。

学生たちはダンスへの興味も様々で、注目する点も異なります。また、舞台スタッフの視線で上演を見て、レポートを書いた学生もいます。演劇・ダンス専修でダンスや演劇を学ぶ、若い学生たちの瑞々しい視点による、初々しい批評をお読みいただければ幸いです。(稲田奈緒美)

Noism Company Niigata の『境界』観劇して

 世の中がクリスマスムード一色のなか、東京芸術劇場プレイハウスにおいて2つの“境界”を目撃することとなった。

 2021年9月に、Noism1に新たに5人のダンサーが加わった。新潟出身のダンサーが加わったことで、より“新潟からの発信”ということが厚みを帯びたように感じた今作。山田うんと金森穣による“境界”へのアプローチは、同時にNoismの存在価値の表明を意味しているのではないだろうか。山田うんと金森穣の2人の振付家が織りなすNoismダンサーの異なる魅せ方をみていきたい。

 照明が白く灯り、『Endless Opening』の幕が上がった。これまでのNoism1では考えられないほど、色鮮やかな衣装を纏っているように感じた。ここから、山田うんと金森穣のNoism1のダンサーの魅せ方の異なりがみえてくるのではないだろうか。山田うんは今回、“新潟”という地での滞在から感じたものをダンサーひとりひとりの身体に落とし込んだ。また、Noism1の新メンバーも半数以上が新潟の地に来てまだ間もないという中の今作品。『Endless Opening』という名の通り、始まりに相応しいかのように華やかさが止まらない。この華やかさの連続性は、作品の中で何度も用いられるカノンの振付にも影響していたのではないだろうか。ダンサーが華やかな衣装に身を包み、舞台上を駆け回って群舞で舞う姿は、まさに花束を観客へと届けるかのようであった。照明のカットアウトの多さから、物語性ではなくダンサーの人間らしい “動”的な部分が強く印象に残った。新潟の地で感じた自然の数々をダンサーに投影し、観客とコミュニケーションを図る技法は、国内外の様々な地でワークショップを行い老若男女問わず様々な人と関わってきた山田うんにしかできない作品であった。また、今作品で使用されたローラー付きの大道具はダンサーの身体性の高さによってローラーそのものにロックをかけずとも成り立っていたのではないだろうか。

 一方で、休憩後中の余韻もお構いなく幕の上がった『Near Far Here』。始まりから、山田うんと対称的に主導権は金森穣にあるようだ。それでも、観客は“待っていました”と言わんばかりに前のめりであった。「近くて、遠い、此処」。私たちが現代社会で見えているもの・感じ取っているものは、果たして何なのか突きつけられているようであった。舞台上に映し出されたNoism0のダンサー3人の影は、私たちが見ようとしてこなかった、あるいは関係のないものとしてきた遠いものなのだろうか。劇場に響き渡るバロック音楽に、決して負けることのない3人のダンサーの身体の運びは、一見客席との境界線を生んでいるかのようであるが、今ココに生きているということを共有し、境界線を無きものとしていたのであった。新潟に本拠地を置くNoismが県外で公演を行う意味、新潟市の様々な問題と向き合う金森穣だからこそ他人事にして欲しくない何かがあるのだろうか。バラが宙を舞う。高知公演の『夏の名残のバラ』に続いていくかのように幕を閉じた。

(石井咲良)

Noism0 / Noism1《境界》東京公演 

稲田奈緒美(舞踊研究・評論)

 2019年からゲスト振付家を招いて催しているダブルビル公演。芸術監督による色を鮮明に打ち出すことで、カンパニーとしての個性を獲得してきたNoismが、いわば外から血を入れることで、多様な視点を獲得し、新たな可能性を見出す機会となっている。今回招かれたのは、山田うんであった。
 
 山田は、圧倒的な身体能力と豊かな感性を持つメンバーで構成するカンパニー、Co.山田うんを主宰しており、その点ではNoism芸術監督の金森穣と等しい。ストイックにダンスを追求する点は同じだが、Noism作品は構築的でエッジの効いたものが多いのに対し、山田うんの作品から受ける印象は対照的である。山田はよりほんわか、ふんわりと包み込んでダンサーの個性を活かしつつ、身体的、芸術的な要求を高め、最大限引き出そうとするのだ。その山田が、今回初めてNoism1のメンバーに振り付けた。プログラムにある金森の文章によると、創作途中でキーワードを山田に尋ねたところ「境界」があがり、偶然にも金森と重なったことから、今回の公演タイトルが決まったそうだ。個性も創作方法も全く異なる二人の振付家が挙げた「境界」をテーマに、この公演が構想された。

 一作目は山田うんの演出、振付による『Endless Opening』。第1章から第4章まで分かれており、幕があがると、カラフルな布で作られたシャツとパンツに、柔らかな薄布を花弁のように散らした上衣を羽織ったダンサーたちが、やわらかく、流れるように踊り始める。色の組み合わせはそれぞれ異なるが、男女の区別はない。体形や性別による役割、民族的な差異ではなく、それぞれに色、個性が異なるだけなのだ。そんなジェンダーを揺さぶる小さな仕掛けは、山田の作品に珍しくない。群舞になり、ソロになり、グループに分かれと自在に構成を変えながら、音楽を浴び、光を受けて軽やかに踊るダンサーたちの心地よさが、客席まで伝わってくる。但し、それだけでは面白くない。山田は、動きと動きのあいだの粘りや余韻を振付にいかし、何気ないステップを繋ぐかに見せて、意表を突く。それらがごく自然にダンサーの身体から生まれており、動きの余韻が空気に溶け込んで、フォーメーションやステップの変化によってダンサーとダンサーの関係性が緩んでいくようである。ダンサーたちのからだがおだやかに、やわらかく開かれていくことで生まれるダンスが、自らの身体と空間という境界を、自らの身体と他者の身体という境界を、浸潤していくようである。


 山田は創作のために新潟で滞在した折のことを、以下のようにプログラムに記している。「信濃川のほとりを歩くと、水面を蹴る光、厚い白雲、草の匂いを感じながらその全てが心地よく新鮮で、私に創造する力を与えてくれました」。山田が信濃川のほとりで感じた、光や音や風の有機的な動き、生まれ、消えゆくときの余韻のようなものがインスピレーションを与えたようだ。それがダンスという表現に生まれ変わることで、物理的な境界としての身体、それを囲む空間、自己と他者という境界が、やわらかく浸食しあいながら溶けていくようであった。親和することで、境界がゆるみ、互いに浸潤していくのだ。


 ところが第3楽章になると、ダンサーたちの動きは止まり、一人一人が運んできた台車をのぞき込む姿でフリーズする。台車はベッドになり、棺になって、それをのぞき込んだ体勢のまま動かないダンサーの身体が、死と決別の悲しみ、苦悩、鎮魂を現出する。台車の中に収められ、隠された死と、それを上からのぞき込む生々しい肉体。生と死の境界は断絶されているのか。いや、この境界さえもこのシーンではやわらかく浸潤し合う。そして台車の上に横たわるダンサーたちの身体が、今度は胎児のように縮こまり、種子のように凝縮したところから、揺らぎ、もがくことによって新たな命として誕生していく。そうして生まれ変わったダンサーたちは、両腕にまとってきた薄布の花弁のような袖を脱ぎ、手向けるように台車において、舞台の奥へ向かって台車を押して進んでいく。その姿から色彩が消えて黒いシルエットのみになったとき、台車とダンサーのあいだに幕が降り、幕によって隔てられた明るい空間が再び現れる。

 第4章は、再びあかるく軽やかな音楽に乗って、ダンサーたちは一人で、デュオで、アンサンブルで踊っていく。そのダンスは、他者と共に動くことによって身体という境界を拡張していくようである。最後は全員がひとかたまりとなって踊るのだが、それは一糸乱れぬ群舞が美しい、というある種のダンスの価値観とは異なるものである。個を消して合わせようとするのではなく、個と個が境界を侵食し合うことで緩やかな塊となって動く生命体のようであった。

Noism1『Endless Opening』
撮影:篠山紀信

 心地よい動きや美しいアンサンブルといった、一見ウェルメイドなダンス作品のようでありながら、山田らしいユーモアや痛み、挑戦や揺らぎ、踊る喜びを巧みに配した作品。ダンスによってからだを、個を、生を開き続けていくことで、死と喪失に向き合い、受け入れていく。そんな山田の思いに、信濃川の陽光とNoism1のダンサーたちが応え、観客に伝えてくれた。

 後半は、金森穣の演出、振付で、Noism0の3人が出演する『Near Far Here』。真っ暗な舞台上に、白いプリーツの打掛のような衣装を纏った井関佐和子が一瞬現れ、暗転。再び白い衣装の井関が現れると、まるで空間移動をしたかのように立ち位置が変わっている。再び暗転から一瞬の明滅で現れる。それを繰り返しながら後方へと移動し、照明がつくと白いオブジェのような井関の前に、黒い衣装の金森が影のように重なっている。やがて動き出した二人が徐々に別れると、矩形の枠が現れ、山田勇気と金森が鏡に映った実体と影のように同調し、重なりながら動き、別れていく。バロック音楽の峻厳で美しい響きが舞台を満たす中で、3人の身体が重なり、離れ、ぶつかり、引き寄せ合いながら踊っていく。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 やがてスクリーンが上方から降ろされると、3人の影が映し出され、影が踊り始める。さっきまで目の前で踊っていた3人が映し出されていると思いきや、微妙なずれから予め撮影された映像と、今起こっているダンスの影で構成されていることがわかってくる。今、ここで、目の前で起こっているリアルな現象と思い込んでいることが、じつは今、ここではない時間と場所で起こったことであり、その判別が困難であることを示す。次に山田が透明のひし形プレートを持って現れ、それをあいだに挟んだまま、触れ合うことのないまま井関と踊る。手を伸ばせばすぐに届きそうでありながら、決して到達することのないその距離は、私たちの日常を彷彿とさせる。さらにスクリーンが上部から降りてくると、鏡を重ねたように映像がコピーされながら奥へ奥へと、無限に反復していく。それはコピーと反復によって作られた、ここから遠くへと引き延ばされていく、目の眩むような時間である。このように様々な象徴的な仕掛けによって、様々な遠近を見せながら、3人は別々に、あるいはデュオで踊っていく。ここにいる自分と他者、ここにいるはずが幻影であった他者、近くにいるのに触れることはできない距離などが、次々と呼び寄せられ、それらを隔てている境界が身体によって検証されていくかのようだ。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 様々な思いを投影しながら井関と金森がデュオで踊っていると、パーセルのオペラ『Dido and Aeneas』から「remember me」という歌詞が切なく響く哀歌が流れ、静かに幕が降りる。生が死によって引き離されるかのような静けさが漂うが、再び幕が上がると舞台一面に赤い紙吹雪が積もっている。ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』が天上から降り注ぎ始めると、三人が舞台へ進み出て挨拶をする。通常は作品と切り離されたカーテンコールが、ここでは死から再生という境界、舞台と客席という境界を超える演出になっているようだ。客電が点くと、赤い紙吹雪が客席にも降ってくる。血潮のように赤い紙吹雪が劇場中に舞うことで、観客である私たちにも境界を超えるための息が吹き込まれるように。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 今回は山田作品、金森作品ともに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延という現状を含めた別離や鎮魂を経て、救いや希望へと向かう意思を感じさせた。鋭敏な感性の持ち主である振付家、ダンサー、スタッフらが自ずと時代を映し出したのだろう。山田は、ダンサーの身体によって、身体という境界を浸潤し、親和しようとする。対して金森は、境界についての世界を立ち上げ、物語るために、ダンサーの身体とその動きは様々な象徴や記号として変化しながら立ち現れる。二人の振付家とダンサーたちによる、身体の、人と人の、時間と空間の、リアルとバーチャルの様々な境界に関する思索が、全く異なるアプローチによって表現されることで、身体を媒体とするダンスの豊かさと可能性を噛みしめる充実した公演であった。

(2021.12.24(金)/東京芸術劇場〈プレイハウス〉)

PROFILE | いなた なおみ
幼少よりバレエを習い始め、様々なジャンルのダンスを経験する。早稲田大学第一文学部卒業後、社会人を経て、早稲田大学大学院文学研究科修士課程、後期博士課程に進み舞踊史、舞踊理論を研究する。博士(文学)。現在、桜美林大学芸術文化学群演劇・ダンス専修准教授。バレエ、コンテンポラリーダンス、舞踏、コミュニティダンス、アートマネジメントなど理論と実践、芸術文化と社会を結ぶ研究、評論、教育に携わっている。

ほくそ笑む金森さんを想像して膝を打つ、新潟と池袋の『境界』公演(サポーター 公演感想)

☆Noism0 / Noism1『境界』新潟公演・東京公演

 新たなレジデンシャル制度への移行に際して、「芸術監督」の任期が取り沙汰されるなか、先にNoismの活動継続の折に求められていた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会の提供と、金森さん自身がかねてから唱えている「劇場文化100年構想」の今後の展開とをリンクさせるかたちで結実したこの度の『境界』公演。それは、私たちの、言ってみれば「平穏」やら「安定」やらを志向しがちなやわな気持ちを大きく揺さ振る、「越境」の意志に満ちた大胆な公演だったと振り返って思う、今。

 先ずは、山田うんさんが招聘されて演出振付を行ったNoism1『Endless Opening』。ボロディンの弦楽四重奏曲第二番、その旋律が伝えてくる軽やかな華やぎと、時折、そこに差し込むある種の切なさが、9人の舞踊家の「個」を魅力的に見せつつも、より大きな調和へと回収するかたちで踊られていくことで、端正なイメージを残す爽やかな作品。主に「生」と「死」を巡る「境界」が主題化されているとみたが、「死」が組み込まれて流れる「生」の時間の在り方を首肯せざるを得ないものとしつつ、それでも踊らずにはいられない、或いは、それ故にこそ抗して踊らんとする舞踊家の意志、または宿痾とも呼ぶべきものが清冽に発散される愛すべき演目だったと言える。

 身体のメカニクス的に「踊れる」舞踊家9人を前にして、楽しくて仕方なくて、「もっともっと」と要求していったのだろう山田さんと、作品が求める笑顔のままに、それに応じ続けた舞踊家9人との創作過程を想像してしまうのも宜なるかなといったところか。踊り終えて、下りた緞帳のその向こう、舞踊家9人の荒々しい息遣いが客席まで届いてきたその演目、それをNoism的なるものと非Noism的なるものの化学反応が結実した果実とみるなら、それはまさしく、当初、両者の間に存した「境界」の双方からの「越境」そのものなのであり、同時に、それは冒頭に挙げた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会が提供されたことをも意味しよう点で、金森さんが期待し、思い描いたところが十全に成し遂げられたということにもなろう。その後の20分間の休憩時間を、まるで夢見心地の、ふわふわした気分で過ごしたことが思い返される。

 しかし、休憩という「境界」を挟んで、まったく異質の時空に身を置くが如き体験が待っていようとは、いかに予想していようと、していないも等しいほどであった。

 金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』、先刻までの夢見心地も何処へやら、冒頭、雷鳴に続いて、井関さんの姿が闇に浮かび上がる場面から、力ずくで「越境」してくる途方もない凄みには観る度に圧倒され、捻じ伏せられるより他になかった。

 「バロック」が意味する「歪な真珠」然として、敢えて統一感を放棄したかのような幾つもの部分からなる作品構成には、ただ繰り出されるものを整理する間もなく受け取ることしか許され得ず、いったい今がいつで、ここ(Here)はどこなのかを不分明にしてしまう効果が絶大で、私たちは手もなく、これに続く「越境」の渦中に自らを見出すのみである。

 そうした敢えての不統一のなかにあって、下りてくる「枠(フレーム)」を巡る金森さんと山田勇気さん、或いは、「影(シルエット)」の前景で踊る3人、そして大写しにされた自身の「映像」の前で踊る井関さん、そのいずれもが「二重性」という共通項をもって、見詰める目に迫ってきたことは印象深い。彼は、彼女は誰なのか、その「境界」はどう画されるのかという訳であり、ここで想起したのは、フランスの哲学者ジャック・デリダの「差延(さえん)」という概念であった。「自己同一性」はアプリオリ(先天的・先験的)に自明な「境界」を有してはおらず、他との「差異」に遅れて現われてくる(現前する)ものに過ぎないとするものである。しかし、そうした概念と共に見詰めてしまうのは、「観ることの純粋な驚き」を減じかねない危険性を孕むことでもあり、決して望ましい態度ではないのかもしれないが、よぎってしまった以上、もう仕様がない。それでも充分に刺激的な視覚体験であったうえに、同時に、一種、哲学的な(自分という存在の「境界」を巡る)問題系に放り込まれたことで、嗜虐的な快楽を愉しんだことは記しておきたい。

 そして圧巻はラストの場面。目の前に広がったえも言われぬ光景には、呆然とし、息を呑んだ。もしかしたら、あらゆる人の裡に共通して存在するイメージが可視化されたのではないかと思われるような光景。また、それは「人」という存在にプリインストールされた内なる「宗教心」(それは実際のあれやこれやの宗教に向けてのものではない)のようなものに触れる場面だったという言い方も出来るかもしれない。その怖いような美しさを前にして味わった感覚は、勿論、快感でありながらも、「戦慄した」という表現の方が似つかわしいものという思いは今も拭えない。

 更に、その後も「越境」が追い打ちをかけてくる。舞台のみならず、客席にも紅い花片を降らせることで、両者の「境界」を「越境」したかと思えば、カーテンコールを行わないことで、(正確には、新潟公演の初日に、鳴り止まない大きな拍手に、仕方なく、やや渋面をつくって3人が姿を現した例外があるし、高知公演がどうだったかはこの目で観ていないので語り得ないが、)公演がもつ時間的な「境界」を「越境」してみせた。その鮮やかな手捌きには今回も唸らざるを得なかった。「お見事!」(と、黒沢清『スパイの妻』(2020)で、夫(高橋一生)の計略に嵌まったことに気付いた妻(蒼井優)が叫ぶ場面が脳裏をかすめる。)

 カーテンコールにて自らの感動を熱く演者に伝えることからは、なにがしかの心地よさが得られるものと心得ているが、そうはさせてくれないのが今回の金森さんである。いくら手を叩いても「それ」は行われない。やがて、無機質な「本日の公演はすべて終了しました」のアナウンスが放送装置から耳に達するだろう。それでも「それ」を求めて拍手を止めない観客たち。「非日常」に浸食されたまま放置される「日常」、そんな客席をよそに、舞台袖、或いは、楽屋で、にこやかに「はい、お疲れさん」などと言いながら、その実、ほくそ笑む金森さんを想像してみるのは、思わず膝を打ってしまうくらいにご機嫌なことであった。実際にほくそ笑んでいたかどうかは知り得ようもないが、意図してラストの「越境」を仕掛けた以上、そうであって欲しい、否、そうであるべきだと思っている、今。

(shin)

『境界』東京公演千穐楽、圧倒的な余韻を残してその幕を下ろす

前夜、東京に僅かな雪片ながら、年内の「初雪」が記録されるなど寒冬の2021年12月26日(日)、Noism0 / Noism1『境界』の東京公演が人々の網膜に、心に、圧倒的な余韻を残しながら、その幕を下ろしました。

入場後のホワイエに、元Noism1メンバーの西澤真耶さんとお母様の姿を見つけたので、お声掛けして、少しお話しすることが出来たのも、個人的に嬉しい出来事でした。同時に、山田うんさんの作品を踊る彼女を妄想し、綺麗だったろうな、観たかったなとか思うことしばし。

15時。涼風にのって舞うパステルカラーの花びらと化した、或いは、天使然とした9人のNoism1メンバーが生を言祝ぐかのような、山田うんさん演出振付の『Endless Opening』。ボロディン弦楽四重奏曲第二番の美しい旋律と一体化したダンスによって誘われた先で味わうのは、まさに弾むような「多幸感」そのもの。
例えば、随所で、編み上げられていく群舞に、そしてそれが時間差でほどけていくさまに、また、細かいところでは、例えば、諸々の象徴であるところの9台の台車が、ジョフォアさんひとりの上半身を見せながら、勝手にするするその向きを変えていくかの場面の、そのえも言われぬ平滑さ加減に、観ることの愉悦を感じなかった者などいなかった筈です。
終演後に繰り返されたカーテンコール、笑顔でその生命力を横溢させた、身長も不揃いのパステルカラー9人には、いつ果てるともない大きな拍手が贈られました。それは、踊りというかたちで届けた彼ら・彼女たちの生の躍動に対してのものでもあり、同時に、見詰めた私たちの生に向けてのものでもあり、という側面があったように思われます。拍手しながら、そのときの場内に、生を共通項とするある種「祝祭」的な空間が立ち上がっていたように感じていました。

20分の休憩を経て、金森さん演出振付、Noism0『Near Far Here』。雷鳴が聞こえ、一瞬浮かび上がる強烈な白。それは井関さん。あたかも稲光のよう。数度、場所を変えつつ、鮮烈に浮かんでは、残像を残して消える井関さんの姿にはインパクト絶大なものがあります。最奥に場所を移した井関さんの前に蹲る黒い姿は金森さん。向こう向きのまま、素早く広げられる両腕の不穏なばかりの力強さ。苦悶。観る者は一瞬にして、作品のトーンを掴み、その渦中に放り込まれた自分を見出すことになります。上手(かみて)前方からやはり黒い衣裳の山田勇気さん。雰囲気は中和されることなく、金森さんとのデュオに移行しますが、それに一瞥もくれることなく、上手(かみて)奥の袖へとゆっくり歩んで消えていく井関さん。その後、黒白のなか、様々に登場しては消えていく3人。張り詰めた不穏さは和らぎの兆候すら見せないまま、舞台が進行していきます。
するすると下りてくる矩形の枠。鏡なのか、異界への入口なのか。不穏さは相変わらずですが、金森さんと勇気さん、やがて、井関さんも加わった極みの達人芸は目のご馳走というほかありません。
また、舞台上手(かみて)を斜めに切り裂くような大きなスクリーン。束の間もたらされた安らぎもやがてめくるめくかの混乱に陥り、影の黒に覆われ尽くすことでしょう。
更に、コロナ禍を象徴するアイテムであるアクリル板と勇気さん、井関さんによる「パ・ド・トロワ」の場面には、この日、最も目を凝らして、食い入るように見詰めたと言ってもいいかもしれません。隔てられてなお、(その菱形の「落下」などあり得ない、)強い繋がりを示す超絶技巧に酔いました。
一様な黒を背景に、井関さんひとりを映す全く奥行きを欠いた映像が続きますが、それがもたらす「異界」感も尋常ではありません。その手前、時折、シンクロする生身の井関さんの踊りは、今度は手を伸ばしても伸ばしても届かないもどかしさ、或いは距離を可視化していました。
黒白で展開していた舞台がラストに至り、下りていた緞帳が上がり始めると、まずは隙間から漏れ出る光輝のなか、「その色」が目に入ってきて、次第に視界全体へと拡大していくときの怖いような美しさ。それはまさしくこの世のものとは思えないような光景です。しかし、ここまでSNS各所で数多く触れられているその詳細については、この後、高知公演(トリプルビル!)をひとつ残している事情から、ここではまだ記さずにおきます。ひとりでも多くの方の驚きのために。ぐうの音も出ないほどの圧倒的な体験が待っています、とするだけに留めておきます。

そう、圧倒的。本公演の2演目はその趣をまったく異にするものですが、『Near Far Here』の幕切れが示す「境界」の無効化の効果もあり、ふたつの作品がもたらした余韻は、舞台を見詰めた私たち観客の「日常」へと横滑りし、嵌入したまま、それを浸し続けることでしょう。途方もなく永く。

これを書いている私の『境界』公演はこの日まで。言葉で表現出来ない類いの感動に身震いした東京公演千穐楽。『境界』を越え出て、私たちをどこまで連れて行こうとするのか、Noism Company Niigata。身震いは今も止むことはありません。

(shin)

「聖性」降臨に息を呑む東京芸術劇場『境界』2日目

2021年12月25日(土)、イエス降誕の日とされるこの日の朝、まだ雪が降り出す前の新潟市から新幹線を利用して池袋へ。穏やかな青空を見せる首都圏にいることに安堵しながらも、新潟駅前を撮るライヴカメラの中継で、遠くて近いそこに降雪が始まってはいないか、随時チェックして過ごしていました。

かつて「IWGP(池袋ウエストゲートパーク)」として知られた「GLOBAL RING」に隣接する東京芸術劇場界隈は、ひとつ前の記事にfullmoonさんが聖夜の美しいイルミネーション画像をアップしてくださいましたが、この日も多くの人たちが足を止めて楽しむ光景が見られました。

東京芸術劇場は中に一歩足を踏み入れて、どの方向に目をやってみても、その目を楽しませてくれるお洒落で素敵な施設です。

エスカレーターで上がると、プレイハウスのエントランスがあり、山田うんさんと金森さんが仕掛ける「非日常」との「境界」を画す円柱の間を進んで、期待を胸に入場しました。

17時を少しまわって、緞帳が上がると、山田うんさん×Noism1『Endless Opening』から。怪我も癒えて、前日から復帰していた中尾洸太さんが見られたことにホッとしましたし、その東京公演初日はやや硬かったというメンバーの表情もこの日は柔らかく、全員で生きることを肯定するダンスを、これ以上は想像できないくらいの清らか(浄らか)さを立ち上げつつ踊っていきました。荒くなっていく一方の呼吸もものともせず、笑顔を浮かべ、「俗」を脱ぎ捨て、天上界を思わせる「聖」の高みへふわり飛翔していく9人の姿には見る目に眩しいものがあります。大きな拍手がずっとずっと続くのも不思議はありません。心地よいのです。

休憩時間中のホワイエでは、元Noism1メンバーの鳥羽絢美さん、林田海里さんの姿もお見かけしました。新旧メンバーから常に、そして当たり前のようにして、感動を貰えていることはまさに驚きであり、感謝しかない訳です。そんなことを思いました。

見る度に圧倒されるのが、金森さんによるNoism0『Near Far Here』であり、最初の数秒にして既に抗おうにも抗えない空気感に包まれてしまうのは、この日も変わりありませんでした。どこかにそこはかとなく喪失感や哀しみ、或いは死の影のようなものを宿すのが金森作品の変わらぬ魅力。そうやって惹きつけるだけ惹きつけておいてからの「聖性」の降臨…。まだまだ詳細は書かないでおきますが、日常と非日常の「境界」を越境するだけでなく、更に、そうした私たちの非日常レベルを一瞬にして置き去りにして、その極北とも言うべきイメージで塗り替えてしまう想像力/創造力のもの凄さ。それがこのクリスマス時期、巷に溢れる厳かな神聖さに似たものとして捉えられたとしても無理もないことでしょう。季節の大いなる贈り物として。そしてそれに浸され、降伏する他ない観客の無上の幸福。

この豪華なダブルビルの東京公演も残すところ、あと一日。ふたりの演出振付家の作家性と舞踊家たちの身体性、そしてそれらが相俟って降臨する聖性に蹂躙される幸福はそうそう味わえる類のものではありません。明日の東京芸術劇場•プレイハウス『境界』は東京公演の千穐楽、まさに必見です。

(shin)

サラダ音楽祭メインコンサートのNoism in 2021(サポーター 公演感想)

☆『過ぎゆく時の中で』(ジョン・アダムズ:ザ・チェアマン・ダンス)/『Under the marron tree』(マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調より第4楽章アダージェット)

***九州・中国地方をはじめ、今も続く大雨、その被害にあわれている多くの方々に対し、心よりお見舞い申し上げます。***

 今日(2021/8/13)はこれまでの暑さからは信じられないほど涼しく、雨が降ったり止んだりの一日でしたが、東京芸術劇場で開催されたサラダ音楽祭メインコンサートに行ってきました。

頭上注意!
東京芸術劇場前の広場はハトがたくさん
小雨が降ったり止んだりの天気

 サラダ音楽祭は東京都交響楽団が毎年豪華ゲストと共に送るスペシャルなコンサートで、昨年に続きNoism Company Niigataが出演しました。吉野直子さんのハープ、新国立劇場合唱団の合唱、小林厚子さんの独唱、そして何より都響の演奏が素晴らしかったのですが、今回はこのブログの趣旨としてNoismが出演した2演目(2曲)について書きたいと思います。

当日(2021/8/13)のプログラム

 まずジョン・アダムズ『ザ・チェアマン・ダンス』。コンサート最初に演奏されました。
黒いレオタード姿のNoism1による群舞と帽子を被った黒スーツの男(山田勇気さん)。軽快な曲に合わせてメンバーが舞台に次々と出現しては踊り、また颯爽と駆け抜けていきます。黒い帽子の男はその様子を見つつ時折絡みます。
プログラム解説を読むと、この曲はニクソン大統領の中国訪問(チェアマン=毛沢東)が題材となっているそうです。もしかしたら黒スーツの男はニクソンなのかもしれません。中盤のややゆったりした音楽になると、井関さんとジョフォアさんによる社交ダンス(風)もありました。これは江青と毛沢東のダンスでしょうか。

 金森さんがつけた『過ぎゆく時の中で』というタイトルのごとく、あっという間に駆け抜けていきました。走馬灯をみるとは本来こういうことかもしれません。
演奏終了後にはカーテンコールもあり、Noismの皆さんに客席から沢山の拍手が送られました。何人かのメンバーにとってはNoismとしてラストステージとなる訳ですが、今回は感傷に浸る隙すらありませんでした。これも時が過ぎてから湧き上がってくるものなのかもしれません。

 次にマーラーの「アダージェット」。前半プログラムの最後に演奏されました。舞台上には大きな黒テーブルと2脚の椅子。演奏が始まると井関さんがテーブル下から現れ少女のように踊り戯れます。
『Under the marron tree』は金森さんの初めての作品ですが、その後の作品に通じる「孤独」「不在」が既に感じられます。
私はこの作品を「青山バレエフェスティバルLast Show」と Noism0『愛と精霊の家』の初演・再演で観ることができました。Noismを観続けていく中で、折々に原点となる作品に再会できるのはとても嬉しいことです。

 演奏後にはこちらも割れんばかりの拍手。カーテンコールも3回ほどあったでしょうか。井関さんも笑顔で拍手に応えます。

 困難な状況の中で無事開催されたサラダ音楽祭。まったく油断できない厳しい状況が続きますが、感染しない・させないよう十分注意しつつ劇場に通い続けたいと思った夕べのひと時でした。

(かずぼ)

活動支援会員対象の「サラダ音楽祭」公開リハーサル(2日目)を観てきました♪

2021年8月6日(金)、スマホでチェックしたネットのニュースで「39.2℃」「危険な暑さ」と報じられたのは新潟市秋葉区。りゅーとぴあがある中央区は幾分かはましといえども、ひなたに駐車していた車に乗り込むと、外気温は46℃を表示しているなど、もうどうかしちゃった感のある殺人的な暑さのなか、活動支援会員対象「サラダ音楽祭」公開リハーサル(2日目)を観てきました。

この度の公開リハーサルは当初、この金曜日だけの予定でしたが、申し込まれた支援会員が多かったため、すぐに前日の木曜日分が追加されたのでした。その2日目。

巨大スポーツイヴェント開催に伴い、国民のあいだに「安心バイアス」が拡がり、新規陽性者数も右肩上がりに増加していくなか、「緊急事態宣言」下にある東京都へ赴くのは躊躇われますから、多くの方にとって、この機会はかなり貴重なものと捉えられていたのでしょう。

スタッフが付き添うかたちでの検温と手指消毒を済ませても、予定時間までは「スタジオB」のある4Fではなく、2Fロビーで入場の案内を待つというのも、これまでになく、慎重のうえにも慎重な対応でした。で、一旦、案内されてみると、今度は、そのまま「スタジオB」まで進みます。これもホワイエでの歓談を徹底して避けようとする意図によるものです。

そうやって、みんながスタジオ内の壁沿いに用意された椅子に腰をかけると、金森さんの合図でリハーサルが始まりました。まずは11人が踊る演目の一部です。みんな感染予防のマスクをつけ、見覚えのある衣裳を纏った11人(女性5人、男性6人)。その衣裳について、「本番の衣裳ですか」と金森さんに尋ねてみましたところ、「そうです。使い回しで~す。予算もかけられないので」とのことで、同時に、何の衣裳だったのか、ふたつの作品名も教えて頂きましたが、今はそれは伏せておきます。本番をご覧になられる方は当日、脳内検索をかけてヒットする作品名は何か、お楽しみ頂きたいと思います。男女10人があるひとつの作品からのもので、ひとり山田勇気さんだけは他の作品からの衣裳を纏って踊ります、とだけ。

こちら、かなり激しい動きを求められる演目のようで、袖に引っ込んだタイミングでは、(というのも、スタジオBには袖がなく、全て顕わしになっていますから、)腰に手をあて、息もあがりがちになっている姿も見られました。限られた狭いアクティング・エリアのなか、生オケで踊るのはホントに大変だろうことは一目瞭然です。しかし、いつもの金森さんの言葉を借りれば、「舞踊家が苦しければ苦しいほど、観客は喜ぶ」のでしょう。そんな舞踊家たちの動きから召喚された記憶は『クロノスカイロス1』、衣裳の色味こそ異なりますが。

そして井関さんひとりが踊る演目の方に移りました。本番では、ハープの協奏曲(約15分)を間に挟んで踊られるとのことですが、情緒も一転、まったく趣を異にする時間が楽しめる筈です。この日のリハーサルからだけでもそれは疑い得ないことと確信致しました。

約30分の公開リハーサルの最後にあたって、メンバーを呼び集めて挨拶するなか、「劇場が開いている以上、我々舞踊家としては、充分に配慮しながら、出来ることをやっていくことで、これからも世界に向けた発信を続けていきます」と金森さん。常に歩みを止めない姿勢には胸が熱くなります。「これからも引き続き、ご支援宜しくお願い致します」の言葉に、恐らく、その場にいた全員が心のなかで「勿論です」と返していたのではなかったでしょうか。その気持ちの籠もった拍手がスタジオBに響いていました。

「サラダ音楽祭」本番まで残すところ一週間。これからも一切妥協することなく、実演の精度を極限まで上げながら、当日の舞台を迎えるのでしょう。ご覧になられる方、感染状況、健康状態ほか、本当に気を遣うことと思いますが、その分も、忘れられない舞台になること間違いありません。ご堪能ください。

(shin)

本夕、BSNテレビ「ゆうなび」にて「サラダ音楽祭」が♪

新潟県内の皆さま、朗報です。本日の夕方(18:15~)のBSNテレビ「ゆうなび」のなかで、過日、同局クルーが同行取材されたサラダ音楽祭の様子がオンエアされるそうです。必見、必録ですね。

ワクワクものですね。で、放送後、同番組をご覧になられたご感想などもお寄せ頂けましたら幸いです。(以下、Noism Company Niigata のtwitterからの転載です。)

これを書いている今、時刻は朝の8時を回ったところ。あと10時間が待ち遠しい!BSNさんには、出来るだけ「尺」をとって頂きたいと思いますが、とりあえず、楽しみでしかありませんね。皆さま、どうぞお見逃しなく♪

*追記*  同特集の内容につきましては、下のコメント欄にて若干ご紹介させて貰いました。どうぞ、コメント欄にお進み頂き、併せてお読みください。

(shin)

サラダ音楽祭メインコンサートのNoism@池袋・東京芸術劇場 in 2020(サポーター 公演感想)

☆『Adagio Assai』(ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調より第2楽章)/『FratresIII』(ペルト:フラトレス~ヴァイオリン、弦楽と打楽器のための)

 池袋の東京芸術劇場でサラダ音楽祭メインコンサートを観てきました。 とても素敵なコンサートで、そのすべてについて感想を書きたいところですが、私の文章力ではだらだら長く散漫な文章になってしまいそうなので、今回はこのブログの趣旨でもあるNoism Company Niigataが出演した2演目についてレポートしたいと思い ます。

東京芸術劇場外観
劇場エントランス
サラダ音楽祭の垂幕がかかっている
コンサートホールへと続く長いエスカレーター
改修前はもっと長くて恐かった
エスカレーターをコンサートホール側から見たところ
地下の広場
受付
チケットは自分でもぎる

 

 最初の演目モーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」ではモダンオルガンも音を奏でましたが、その後の舞台転換ではこのパイプオルガンが隠れるほど大きなスクリーンが吊り上げられます。 いよいよラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調 第2楽章」のはじまりです(先日の新潟公演では「Adagio Assai(仮)」として上演)。指揮の大野和士さんと共にピアニストの江口玲さんが登場、演奏が始まるかと思えば、Noism0の井関佐和子さん、山田勇気さんがおもむろに現れ大きく踊りだします。冒頭の部分は「Adagio Assai(仮)」から、より大空間に対応すべく変更されたようです。

 江口さんの素敵なピアノの旋律と共に井関さん山田さんの舞踊がドラマチックに語られます。金森さんが以前「退団するメンバーとの別れの寂しさから小さな作品がつくれそう」とつぶやいていたのは、恐らくこの作品のことでしょう。2人のダンスは別れを語っているように感じました。井関さん山田さんの軌跡がストップモーション風に切り取られスクリーンに映し出されます。それはまるで流れつづける時間(現実)と、もはや永遠となった回想がオーバーラップして現れるように感じました。井関さんはオーケストラの間を抜け舞台後方に、山田さんは前方に留まり離れ離れでラストを迎えます。しばしの沈黙のあと万雷の拍手で賞賛されるお二人。

 続いて転換の後、暗転したままの舞台上にオーケストラメンバーと共に入ってきたのは金森穣さん。ヴァイオリンソロの矢部さんも自席で座ったまま演奏するようです。 舞台前方のリノリウム上で気合がみなぎっている様子の金森さんはこれまでにないほど大きく、異様な雰囲気を漂わせています。その直後に大野さんも入場すると場内から拍手が起こりますが拍手には応えず指揮台にのぼり演奏のスタンバイに入りました。 矢部さんのヴァイオリンが鳴ると同時に金森さんの身体が即座に反応し二人の激しい演奏が始まります。ペルトの「Fratres」です。次第に舞台の上手下手からフードで表情のみえないNoism1ダンサーがゆっくりと入場、芸術劇場の舞台上横いっぱいに広がり完璧なユニゾンを踊ります。金森さんは矢部さんのヴァイオリンソロと呼応、群舞はアンサンブルと呼応し演奏が繰り広げられます。金森さんの演舞は鬼気迫るものがあり圧倒されますし、対する矢部さんのヴァイオリンは冷静沈着な中に鋭さがあり、まるでサムライのような凄みがあります。また矢部さんは冒頭の超絶技巧後も、ソリストとオーケストラのコンサートマスターとしての役割を同時に担い、アンサンブルを率いつつソロを奏でます。

 Noismの踊りはコンテンポラリーでありながら原始的であり、純粋な祈りの儀式のように感じられました。「Fratres」シリーズ最終章となる「FratresⅢ」では「これからも踊り続けること」「新型ウイルスの終息」「舞台芸術の存続」の祈りのように感じられました(もちろん観る人によって感じ方は様々でしょう)。 ちなみに、これまでの「Fratres」シリーズでは天井より白いモノが落下してくる演出があり、それが非常に感動的なのですが、こちらについて興味がある方もいらっしゃると思いますので、単独公演との演出の違いについても簡単に書き記します。まず落下物の演出は照明を操作することで同様の効果が得られていました。またラストの円舞もスペースの都合上変更されていて、上手下手に分かれて非常にゆっくりと退場していき最後は金森さんだけが舞台上にいる、といった演出がされていました。

 打楽器の余韻が鳴り止むと同時にこれまた大きな拍手が起き、舞台袖に捌けていたNoism1ダンサーも舞台上に戻りカーテンコールに応えます。ここで金森さん、勢いのあまり矢部さんに握手を求めました。矢部さんは一瞬困惑したように見えましたが握手に応じていました(ちなみに指揮者大野さんと矢部さんは握手の代わりに肘タッチをしていました)。

 また演奏会の終演後は、再びのカーテンコールとなり今度は金森さんが臼木さん、江口さんと共に登場しました。ここでも大きな拍手が観客から送られカーテンコールが何度も続きました。 ちなみに、東京都交響楽団は7月に主催公演を再開しましたが都響会員・サポーターに限られていたため、今回のサラダ音楽祭が一般に開かれたコンサートの久しぶりの再開となったようです。 都響、Noismの公演を待ち望んでいたファンにはとても感慨深いコンサートとなりました。と同時に、いつもNoismの公演には必ず現れる熱いファンの姿が今回は見えなかったこともあり、新型ウイルスの影響により泣く泣く来場を諦めた、自粛した方もいらっしゃることも知っています。 本日のNoismの祈りが天に届き、早く舞台人が正常の舞台活動が出来る日が訪れることを私も願っています。

(かずぼ)