『火の鳥』からの『フラトレス』&『ボレロ』を満喫した「サラダ音楽祭2025」♪

2025年9月15日(月・祝)、前日開幕した「サラダ音楽祭」2日間の2日目、池袋の東京芸術劇場に出掛けて来ました。この日はまず、13時にプレイハウスにて、Noism2による「親子で楽しむダンス バレエ音楽《火の鳥》 Noism2メンバーによるダンス公演&ワークショップ」、そして15時からはコンサートホールでの「音楽祭メインコンサート《Boléro》」において、Noism1の『Fratres』、そしてNoism0+Noism1『ボレロ』が観られるとあっては駆けつけない理由を見つけるのが困難なスケジュールが組まれていたのでした。

まだまだ蒸し暑さが去らないなかでしたが、JR池袋駅から地下通路を使って劇場に向かいますと、不快感はありません。胸が高鳴るのみで、ややもすると足早にさえなりそうでした。

エスカレーターで2階のプレイハウスへ進みます。入場時に渡された二つ折りカラー・リーフレット(デザイン:ツムジグラフィカ・高橋トオルさん)の素晴らしい出来栄えにワクワクしなかった人はいない筈です。名作『火の鳥』、満を持しての東京上演です。

この『火の鳥』の上演&ワークショップは前日の音楽祭初日から既に好評を博していた様子(当然!)ですが、私は各種SNSをほぼ全てシャットアウトしてこの日に臨みました。東京の(家族連れの)観客、一人ひとりの心に刺さる様子を臨場感をもって感じたかったからです。そしてNoism2メンバーの熱演もあり、その通りの「帰結」を迎えたことに心のなかで快哉を叫びました。

金森さんから若者に向けた「贈り物」という性格を有する名作『火の鳥』は、「0歳から入場OK!」と謳われたこの音楽祭での上演にあたり、衣裳、照明など様々な刷新が図られ、より広範な観客を惹き付けるものとなった感があります。特に作品のラストの改変!それはあの二つ折りカラー刷りリーフレットの表紙、容易に切り取れる「白いマスク」によって、誰もが「火の鳥」になった気分を味わえる工夫と相通ずるものと言えるでしょう。この度刷新された『火の鳥』、今後ご覧になる機会もあるだろうことに鑑みて、ここではラストの改変の詳細は伏せておくことと致します。そのときまでお楽しみに。

その後は、「スチール撮影可」のレクチャーとワークショップが続きました。時間にして約30分間、進行は山田勇気さんと浅海侑加さんです。客席から選ばれたお子さんが舞台にあがって、作中の「少年」が持ち上げられる場面を体験する機会なども用意されているなど、満足度の高い好企画だったと思います。自分もひとりの親たる身として、我が子が小さかった頃のことなど思い出したりしながら、微笑ましいひとときを過ごしました。

次いで、15時からの「メインコンサート」です。コンサートホールは3階席まで満員。

当然のことながら、都響(東京都交響楽団)の演奏は素晴らしく、20分間の休憩を挟んだ約2時間、それだけでもホントに贅沢な気持ちになりました。休憩前にはモーツァルトを2曲(『魔笛』序曲と《戴冠式ミサ》)、典雅だったり、厳かだったり、その流麗な心地よさときたら、もうハンパないレベルだったかと。

そして、休憩が終わると、いよいよNoismの登場となります。ペルトの音楽に合わせて踊られる『Fratres』、(彩り豊かで活気溢れるファリャ『三角帽子』を挟んで、)更にラストにはラヴェルの『ボレロ』が待っています。

『Fratres』は、先日の公開リハーサルで、金森さんが繰り返し口にされていた「手の舞」という視点から見詰めました。「う~む、なるほど」と。しかし、これまで幾度も観てきていて、「あ?ん?え?」となった見慣れない振付にも出くわします。終演後に偶然お会いして少しお話しをする機会を得た糸川さんから、それは「利賀村ヴァージョン」(『マレビトの歌』中の『Fratres』)と教えて頂き、既にして「古典」の趣すらあるこの作品も刷新が続いていることを知る機会となりました。

ラストの『ボレロ』。もう圧巻の一言でしかありません。赤い衣裳の井関さん、黒からベージュのNoism1の8人、全員が客席を圧倒し尽くしました。舞踊家にあって、「メディア」としての自らの身体を両の掌で確かめながら、ラヴェルによるリフレインの高揚をそこを通過させ、可視化して周囲に放っていくひとりと8人。

この日、都響が奏でたのは、ともすれば走りがちになりそうなところ、終始、それを抑制しつつ進んでいく泰然たる『ボレロ』であり、過度の興奮を煽ることをしない、ある種禁欲的な姿勢で向き合われたその音楽は、零れるようにニュアンス豊かなものとして耳に届き、その豊かさな響きに同調する舞踊家の9つの身体により、一瞬一瞬、味わい深い厚みが加えられ、見詰める目に映じることとなりました。かようにためてためて「走らない」『ボレロ』、これも糸川さんに伺ったところ、都響とのリハーサルを通してこの間変わらないことだったのだそうです。都度書き換えられていく『ボレロ』の記憶!都響とNoismによる一期一会のもの凄い実演を目の当たりにし、『ボレロ』のまた違った一面に触れた気がして、もう興奮はMAX。繰り返されたカーテンコールに、スタンディングオベーションをしながら、「ブラボー!」と叫ばずにはいられませんでした。

感動を胸に東京芸術劇場を後にしましたが、酩酊は今も…。

(shin)

「こ、これは!」作品の内奥に連れて行かれた驚嘆の「SaLaD音楽祭2025」活動支援会員/メディア向け公開リハーサル♪

酷い雨も去って、酷暑も少しは和らいだ感もありましたが、それでもこの日もやはり暑い一日に変わりはなかった新潟市。2025年9月6日(土)、りゅーとぴあ〈スタジオB〉にて、「SaLaD音楽祭2025」に向けた活動支援会員/メディア向け公開リハーサルを見せて貰ってきました。

受付を済ませて、ホワイエに並べられた椅子に腰掛けると、丁度、正面に見えるパーテーションを兼ねたホワイトボードに、「12:00~公開リハーサル ボレロ」や「ボレロ ダメ出しRH」の文字が書きつけてありましたから、そのつもりで入場を待っていました。

で、12時少し前に、スタッフから「今日は『通し』ではなく、…」とそのあたりのことが告げられようとするや、パーテーションの向こうから、「通します、通します」という金森さんの声が聞こえてくるではありませんか。『ボレロ』のあの高揚感に浸ることが出来る!入場を待つ者のなかに、胸の高鳴りを感じなかった者などいなかった筈です。同時に、この日の公開リハーサルは1時間の予定でしたから、「あと45分程度はどうなるのだろう?」というドキドキもありました。

促されて、〈スタジオB〉に入り、用意された椅子に腰を下ろします。その後、金森さんが「こんにちは」、そう言いながら入って来ます。奥の掛け時計は「11:59」を指しています。メンバーたちは『ボレロ』冒頭の位置につこうとします。

「いこうか。大丈夫?」(金森さん)
「どこまで?」(井関さん)
「通すよ」(金森さん)
「えっ?(知らなかったのは)私だけ?」(井関さん)
「昨日、最後まで確認したじゃん。あと通すだけじゃん?」(金森さん)

そんなハプニングめいたやりとりを目撃して、声をあげて笑う私たち。敢えて表情筋を動かしつつ、スタンバイに入る井関さん。金森さんが音楽スタートの合図を送るときには、張り詰めた空気感が支配していました。

そこからの約16分間、衣裳こそ本番と同じではありませんでしたが、音楽と舞踊が醸す圧倒的な生命力に揺さぶられつつ、惹き込まれて見入りました。

「オーケー!」そう言ってスタジオ中央に進んだ金森さん。手のスパイラルな伸ばし方、中尾さんと糸川さんによる井関さんのリフト、そして「昨日変えたところ」(!)など、幾つかの修正を加えていきました。そして全体的には、金森さんから、「本番は生オケだからどうなるかわからないけど、『ボレロ』は基本、『後(あと)どり』。くっちゃうと高揚感出ないから」という指示があったりもしました。

でも、金森さんから見て、この日通された『ボレロ』は満足いくレベルだったようで、「良かったよ」。更に、「オレは良かったと思うけど、皆さんからダメ出しないですか?」の言葉には、笑いながらも、拍手していた私たちです。

それらが一段落をみると、再び、
「『通し』やると思っていなかったから。今日はダメ出しだと」(井関さん)
「昨日終わってるから」(金森さん)
「両方、飛び交ってたから」(井関さん)
笑う私たち。すると、
「いいよ、いいよ、終わり。『Fratres』やろうか?」(金森さん)
金森さんを除いて、〈スタジオB〉の中にいた誰もが「!」っとなった筈。このとき、時間は12:25。
「ダメ出しは終わったから。ずっとそうやっていてもしょうがないでしょ。通さないから」(金森さん)
そんな訳で、その後、『Fratres』冒頭部分の入念な調整過程をつぶさに見る機会が訪れたのです。

「こ、これは!」それこそ、まさしく仏像への「魂入れ」にも似た、あたう限りギリギリまで表現に彫琢を施す時間。剔抉され、刷新されていく動き、そして身体。金森さんがメンバーの動きに向き合い、自らの身体でも示しながら発せられた言葉の数々に、私たちも『Fratres』という作品の内奥にまで連れて行かれることになった、そんな、実に得難い時間だったと言えます。そして、それらの言葉は、『Fratres』を鑑賞する際の私たちの視座に大きな刺激を与え、ことによっては、それを刷新し得るような深みを持つものだったと言っても過言ではありません。断片的に書き留めたそれらの言葉たち、そのなかから少しご紹介いたします。

「ただのポールドブラ(腕の動き)ではなくて、両手のチャクラを身体の前から上に」
「掌のチャクラを開く。何かを外から受けなきゃダメ。そこに掌があるだけじゃダメ。受信する手だから」
「手が伸びるから、身体が伸びる。両手のチャクラ、魂をつかむ。掌が自分の方に向いているか、外を向いているか。伏せて、自分の身体に寄せて、入れて」
「『Fratres』は全て手だから。手との関係性を身体化しないと、ポーズ・ダンスになっちゃう」
「手のなかにある何かを自分の中に入れる。自分の身体を撫でるということを感じて欲しい。ある種の官能性・エロさが欲しい」
「そのままのコントラクション(筋収縮)で足が伸びる」
「耳の後ろに何かあるんだよ。それをとらないと。何かは知らん。夜道で背後に何かを感じるような、自分の背後への感覚。それをとって、見る。掌でまわして、のっけたものを投げる。手をそっちに動かすために、身体を動かす」
「日本舞踊っぽい手の舞。手の繊細さが欲しい。ないと体操っぽくなってしまう」
「観る人に質感を届けなきゃいけない。形じゃなくて」
「持続させなきゃいけない。終わりはない。音楽は続いてるんだから。君たちのなかにある一つひとつのシークエンスを身体化してはいけない」
「手を空間に投げていく。掌にボールを持っている感覚。繋がってなくちゃダメ。ボールを落とさない」
「頭は下に。前じゃなくて。フォーカスは『イン』だよ。見えない壁に頭をぶつけている。鳥籠のなかで鳥が頭をぶつけている。行き詰まっている。壁、壁、壁。向こうに光を見て、リーチ・アウト。伸ばす。スパイラルで」
「宇宙まで伸びる。呼び込んで、自分の身体に集めて、抗って、パッ!離れて」
「外から何かが来る。リアクション。聞きたくないから耳を覆う。祈る。怖い」
「能動ばっかりで、受動がないから、『どうしてそうなったんだろう?』っていうサプライズがない」
「『動きが弱い』と言うと、すぐ、強くやっちゃおうとするんだけど、弱いのはイメージ。イメージの持続」等々…

私自身は『Fratres』という作品の核とも呼ぶべきものに接することが出来て、大興奮の時間となりましたが、それを「紹介」しようとすると、やはり、「紹介」と言うには程遠く、断片的な言葉の羅列となってしまう他ありませんね。その点、力及ばずです。すみません。それでも、上に書き付けたものから少しでも「作品」に近付くアングルを見出して頂けたなら幸いです。

時計の針は予定時間を超過して、13:10を指しています。金森さんが、「時間過ぎちゃった。こんな感じじゃないかな」、そう言ったところで、この日の濃密な公開リハーサルは終了となりました。もう目が点になりっ放し、息を詰めっ放しの一時間強でした。

この『ボレロ』と『Fratres』は、9月15日(月・祝)に東京芸術劇場〈コンサートホール〉にて「サラダ音楽祭」のメインコンサートとして東京都交響楽団の生演奏で踊られます。この日の驚嘆の公開リハーサルを経て、両作品がどう見えてくるか、期待感も募ろうというものです。楽しみでなりません。

なお、今なら期間限定ですが、TVer「アンコール!都響」で、昨年の同音楽祭にて踊られた『ボレロ』ほか(114分)を観ることが出来ます。よろしければ、そちらも次のリンクからどうぞ。

TVer「アンコール!都響」より「サラダ音楽祭2024」メインコンサート

また、今年はNoism2も同音楽祭に初登場し、9月14日(日)、15日(月・祝)の両日、同じく東京芸術劇場の〈プレイハウス〉を会場に、『火の鳥』の上演とワークショップを行います。そちらも楽しみです♪

「活動支援会員」であることのメリットを噛み締めた、豊穣過ぎる一時間強の贅沢でした。

(shin)
(photos by aqua & shin)

凄いものを聴いた!観た!-「サラダ音楽祭」メインコンサートの『ボレロ』、圧倒的な熱を伝播♪

2024年9月15日(日)、長月も半ばというのに、この日も気温は上昇し、下手をすれば、生命すら脅かされかねない暑熱に晒された私たちは、陽射しから逃げるようにして、這々の体(ほうほうのてい)でエアコンの効いた場所に逃げ込んだような有様だったのですが、まさにそのエアコンが効いた快適な場で、全く別種の「熱」にやられることになろうとは予期できよう筈もないことでした。

「サラダ音楽祭2024」のメインコンサートは早々に完売となり、当日券の販売もなく、期待の高さが窺えます。池袋・東京芸術劇場のコンサートホール場内では文芸評論家で舞踊研究者の三浦雅士さんの姿もお見かけしました。この日ただ一度きりの実演な訳ですから、期待も募ろうというものです。

私自身、先日の公開リハーサルを観ていましたから、この日の『ボレロ』が見ものだくらいのことは容易に確信できていましたけれど、大野和士さん指揮の東京都交響楽団とNoism Company Niigataによるこの日の実演は、そんな期待やら確信やらを遥か凌駕して余りあるもので、凄いものを聴いた、凄いものを観た、と時間が経ってさえ、なお興奮を抑えることが難しいほどの圧倒的名演だったと言わねばなりません。

そのメインコンサートですが、まず15時を少しまわったところで、ラターの《マニフィカト》で幕が開きました。私にとっては初めて聴く曲で、「マリア讃歌」と呼ばれる一種の宗教曲なのですが、そうした曲のイメージからかけ離れて、親しみ易いメロディーが耳に残る、実に色彩豊かで現代的な印象の楽曲でした。更に、前川依子さん(ソプラノ)と男女総勢50人を超える新国立劇場合唱団による名唱も相俟って、場内は一気に祝祭感に包まれていきます。「ラター」という人名と聖歌《マニフィカト》とは私の中にもしかと刻まれました。

20分の休憩を挟んで、後半のプログラムは、ドビュッシーの交響詩『海』で再開しました。こちら、どうしても、金森さん演出振付による東京バレエ団のグランドバレエ『かぐや姫』、その冒頭ほかを想起しない訳にはいきませんよね。粒立ちの鮮明な音たちによって、次第にうねるように響きだす音楽によって、そこここであの3幕もののバレエ作品を思い出さずにはいられませんでした。その意味では、都響によるダイナミックレンジが広く、階調も情緒も豊かな熱演が、同時に、次の『ボレロ』へのプレリュードとしても聞こえてくるというこの上なく贅沢な選曲の妙、憎い仕掛けにも唸らされたような次第です。

そしていよいよラヴェルの『ボレロ』です。金森さんと井関さん共通の友人でもあるコンサートマスターの矢部達哉さんが楽団員たちとのチューニングを始めると、客電が落ち、井関さんをはじめNoismメンバーが上手(かみて)袖からオーケストラ前方に設えられた横長のアクティングエリア中央まで駆け足で進み出て、特権的な赤い衣裳の井関さんを中心に、フードまで被った黒い8人が円を描くように囲んで待機します。金森さんの師モーリス・ベジャールの名作と重なる配置と言えるでしょう。やがてスネアドラムがあの魔的な3拍子のリズムを静かに刻み始め、フルートがそこに重なって聞こえてきます…。昨年末のジルベスターコンサートでの原田慶太楼さん指揮・東京交響楽団の時とは異なり、今回は中庸なテンポです。

金森さんによるこの度の『ボレロ』ですが、先ずは赤い井関さんと周囲の黒ずくめ8人の関係性の違いが、ベジャールの名作と最も大きく異なる点と言えるかと思います。音楽のリズムやビートを最初に刻むのが井関さん。そしてその中心からそのリズムやビートに乗った動きがじわじわ周囲に伝播していくことになります。

両腕を交差させて上方に掲げたかと思えば、両手で上半身を撫でつけたり、或いは、両手を喉元までもって来ることで顔が虚空を見上げるかたちになったり、苦悶と言えようほど表情は固く、如何にも苦しげな様子を経過して、決然たる克己の直立へ戻るということを繰り返すうち、次第に、井関さんから発したその身振りが断片的に、先ず周囲の幾人かに伝播していくのです。この「抑圧」が可視化されている感のあるパートで用いられる舞踊の語彙にはベジャール的なものはまだ含まれておらず、これまでのNoismの過去作で目にしてきたものが多く目に留まります。

やがて井関さんとその周囲、赤と黒、合わせて9人のポジションは、(徐々に黒い衣裳を脱がせながら、脱ぎながら、)3人×3という構成にシフトしていきます。それは即ち、最初の円形が横方向へ伸びるフォーメーションへの移行を意味します。そうなるともう多彩な群舞の登場までは時間を要しません。Noism的な身体によるNoism的な舞踊の語彙が頻出する限りなく美しい群舞が待っていることでしょう。見詰める目の至福。そしてそこに重ねられていくのは師へのオマージュと解されるベジャールの動きの引用。ここに至って、感動しない人などいよう筈がありません。飛び散る汗と同時に、9人の表情もやらわぎを見せ始め、笑みさえ認められるようになってきます。それは演出でもあるのでしょうが、自然な成り行きに過ぎないとの受け止めも可能でしょう。可視化されるのは「解放」です。その「解放」があの3拍子のリズムに乗って圧倒的な熱と化して、見詰める目を通して、私たちの身体に飛び込んでくるのですから、一緒に踊りたくなってうずうずしてしまう(或いは、少なくとも一緒にリズムを刻みたくなってしまう)のも仕様のないことでしかありません。(私など全く踊れないのにも拘わらず、です。)そして同時に、心は強く揺さぶられ、狙い撃ちにされた涙腺は崩壊をみるよりほかありません。

金森さん演出振付のダンス付きの、この都響の『ボレロ』は、最初のスネアドラムが刻んだかそけき音に耳を澄まし、それと同時に生じた井関さんの動きに目を凝らしたその瞬間から、最後の唐突に迎える終焉に至るまで、刻まれる時間と場内の空気は全てオーケストラによる楽音とNoismメンバーの身体の動き、ただそのふたつのみで充填し尽くされてしまい、夾雑物などは一切見つかりようもありません。両者、入魂の実演はまさに一期一会です。そんな途方もない時間と空間の体験は、それが既に過去のものとなっているというのに、未だに心を鷲掴みにされ続けていて、落ち着きを取り戻すことが難しく感じられるのですから、厄介なことこの上ありません。

繰り返されたカーテンコールで、満面の笑みを浮かべて拍手と歓声に応えた金森さんの姿も(腕まくりと駆け足も含めて)忘れられません。そんなふうに凄いものを聴き、凄いものを観た9月折り返しの日曜日、Noism20周年のラストを飾るに相応しかったステージのことを記させて貰いました。

(shin)

音の粒を宿す身体、その僥倖(サポーター 公演感想・2023/08/06)

「サラダ音楽祭」での東京都交響楽団とNoism Company Niigataとのコラボレーションも今年で四年目となった。20年9月、新型コロナ禍による緊急事態宣言下での『Fratres』上演に新潟から駆けつけた時の緊張感と、街行く人の多くがマスクを着けていない現在との対比や、まとわり着くような東京の暑熱に眩暈しつつ、会場となる東京芸術劇場へ向かった。

今回は金森穣さんと井関佐和子さんのデュオが、都響と共演。J.S.バッハ(マーラー編曲)管弦楽組曲「序曲」がクライマックスに差し掛かる頃、舞台の上手・下手から金森さんと井関さんが登場。舞台中央で互いを見つめつつ廻る二人の姿に眼を奪われる内、間断無くに「エア(アリア)」(ヴァイオリン曲に編曲された『G線上のアリア』として有名)の演奏と舞踊が始まる。

大野和士氏指揮による都響の演奏、その音のひと粒ひと粒を身体に置き換えるように、互いが時に主旋律、重低音となって舞う金森さんと井関さん。先日の『Silentium』同様、言葉以上の雄弁さで、信頼・愛情・緊張を身体の動きで語り尽くす二人から放たれる情感は圧倒的。個として立脚した舞踊家が、緊迫感と多幸感を矛盾させることなく、互いの身体と音楽に解け合って行く約5分の舞台を、脳裏に焼き付けるよう見つめた。僥倖のようなひと時と言いたい。私はどうしても男女の愛しあう姿を二人に重ねて羨望を覚えてしまうが、それに留まらない普遍性を伴って、音楽そのものになって舞う金森さん・井関さんに、惜しみ無い拍手が送られた(カーテンコールは三回に及んだ)。

続くドヴォルザークの歌曲『スターバト・マーテル』は80分を超える10曲の演奏だったが、4人の声楽家、新国立劇場合唱団の圧倒的な歌声も相まって、音楽の渦を全身で味わい尽くすような時間だった。

(久志田渉)

「SaLaD音楽祭2022」メインコンサートで魅せたNoism♪

*西日本各地で猛威を振るい、北上を続ける台風14号。被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

Twitterで金森(穣)さんの従兄弟の金森大輔さんが防災の観点からのツイートを多数続けて発信してくれている状況下でもあり、「行けるのだろうか?」「大丈夫なのか?」「見送るべきではないのか?」と不安な気持ちは否めませんでしたが、タイミング的に新潟・東京間の往復ならギリギリ何とかなりそうと、2022年9月19日(月)、東京は池袋の東京芸術劇場での「SaLaD音楽祭」メインコンサートを観に行ってきました。

時折、思い出したように激しく雨が路面を叩きつけていましたが、池袋駅から地下通路で繋がる東京芸術劇場は、傘の出番もなく、大助かりでした。

15時、コンサートホール。都響の楽団員が揃い、矢部達哉さんによるチューニングに続き、指揮の大野和士さんが姿を見せると、次いで上手側からNoism Company Niigata の7人が歩み出て来ました。順に樋浦瞳さん、糸川祐希さん、三好綾音さん、中尾洸太さん(センター)、井本星那さん、坪田光さん、杉野可林さんで、公開リハ初日とは樋浦さんと糸川さんのポジションが入れ替わっていました。ペルトの音楽による『Fratres I』横一列ヴァージョンです。都響による演奏はCD音源と較べても、弦の音が遥かに繊細に響き、その楽音を背中から受けて踊る面々の様子はいずれも最高度の集中を示して余りあるものでした。

ペルトの『Fratres ~ 弦楽と打楽器のための』に金森さんが振り付けた作品は、これまで、順に『Fratres III』まで観てきていますが、ここでその始原とも呼ぶべき『Fratres I』を、それも金森さんが踊らず、極めてシンプルな(一切のごまかしが利かぬ)横一列で観ることには、観る側にも初見時の緊張を思い出させられるものがあったと言いましょう。冒頭から暫く、上からの照明は踊る7人の顔を判然とさせず、黒い衣裳を纏った匿名性のなか、7人がNoism Company Niigataの「同士」であることのバトンを託されて踊る峻厳極まりない様子には瞬きすることさえ憚られました。

踊り終えて、下手側に引っ込んだ後、盛大な拍手のなか、大野さんに促されて再び姿を見せた7人。緊張から解き放たれ、安堵した表情を見たことで、こちらも頬が緩みました。それほどの厳しい空気感を作り出した11分間の舞踊だったと言えます。

その後、都響による華やかなウェーバー:歌劇『オベロン』序曲を挟んで、15時30分になると、再び、Noismのダンスを伴う、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章です。金森さんが振り付けた舞踊作品としてのタイトルは『Sostenuto』。同曲の発想記号からの命名です。

舞台の準備段階から、通常のピアノ協奏曲のときと異なり、指揮者の大野さんに正対してピアニストの江口玲さんが演奏するかたちでピアノが配置されたのが先ず印象的でした。先の『Fratres I』同様、オーケストラの手前でNoismが踊るのですが、その姿を捉えながら演奏する必要があってのことでしょう。

死、喪失、悲しみ、絶望…、そうしたものの果てに「音が保持され」、光や希望が見出され、人と人の時間が、或いは彼岸と此岸とが繋がれるに至る叙情的な作品『Sostenuto』、その世界初演。白い衣裳、白みがかった照明。井関佐和子さん、山田勇気さん、井本さん、三好さん、中尾さん、庄島さくらさん、庄島すみれさん、坪田さん、樋浦さんの9人によって踊られました。人ひとりが不在となることに胸が締め付けられつつ進み、最後に光や希望が見出され、思いが繋がるとき、涙腺は崩壊せざるを得ません。これまで幾度となく聴き、「ロシア的」と解してきたラフマニノフによる旋律が、この舞踊を想起することなしには聴けなくなってしまった感すら否めない胸に迫る濃密な叙情性。こちらも時間にすると11分ほどの小品ながら、忘れ難い印象を残す作品です。この先、いずれかの公演時にこの度と同じ完全な形での(再)上演が望まれます。

Noismの舞踊は僅か「11分×2」という短さながら、台風への不安を抑えて行った甲斐のあるこの度の「SaLaD音楽祭2022」でした。幸い、帰りの新幹線も無事運行しており、安全に帰宅できましたし。

この度の公演会場でも、Noismサポーターズの数名とお会いできましたし、開演前、そして途中休憩と終演後にも、浅海侑加さん(と彼女のお母様)にばったり出くわし、その都度、ちょっとずつお話しすることができ、何よりご結婚の祝いを直接お伝えできました。で、浅海さんからは「これを終えると、メンバーは明日(9/20)から一週間お休み」とお聞きしました。18thシーズンから19thシーズンへの移行期は色々とイヴェントが目白押しでメンバーはとても忙しかったことに改めて気づかされました。充分な期間とは言えないかもしれませんが、一週間ゆっくりして、再び新シーズンに臨んで欲しいと思いました。

(shin)

「SaLaD音楽祭」活動支援会員対象公開リハーサル初日(9/10・土)を観てきました♪

夏が舞い戻ってきたような感があり、強い日差しに汗ばむ2022年9月10日(土)の新潟市。りゅーとぴあのスタジオBまで、活動支援会員を対象とする「SaLaD音楽祭」にむけた公開リハーサル(初日)を観に行ってきました。

シーズンが改まり、メンバーも入れ替わったNoism Company Niigata。
(Noismボードの入れ替えも進んでいます。まだ完了していませんが…。)

9/19のメインコンサートにて、ペルトの『Fratres』とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第2楽章を東京都交響楽団の生演奏で踊るNoismですが、果たしてどんな面子で踊られるのか、興味津々でない者などいなかった筈です。

2分弱進んでいたスタジオBの時計が13:02を示す頃、つまりほぼ予定されていた時間通りに公開リハーサルは始まりました。

最初の演目『Fratres』(13:00~13:10)から。あの黒い衣裳を纏って、スタジオB内の上手側から一列に歩み出たのは、順に、糸川祐希さん、樋浦瞳さん、三好綾音さん、中尾洸太さん(センター)、井本星那さん、坪田光さん、杉野可林さんの7人。本番の狭いアクティング・エリアを考慮した「横一(列)ヴァージョン」(金森さん)です。
これまでも何度も観てきた作品ですが、間近で観ることで、手や足の動き、身体のバランスの推移などをガン見することができ、それはそれはこの上ない目のご馳走であり、ホントに興奮しながら見詰めていました。
あと、本番でも「降るもの」はないでしょうし、足をドンドンと踏みならす場面は演出が変更されていたことを記しておきたいと思います。

着替えを挟んで、もうひとつの演目・ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番より第2楽章(13:15~13:30)です。今度は先刻までと打って変わって、全員が白い衣裳に身を包んでいます。踊るのは、井関佐和子さん、山田勇気さん、井本さん、三好さん、中尾さん、庄島さくらさん、庄島すみれさん、坪田さん、樋浦さんの9人です。こちらは完全な新作で、この曲を都響から提案を受けてすぐ、「見えた」と金森さん。「丁度、バレエの恩師が亡くなった直後だったことで、思いを馳せながら創作した」のだそうです。見覚えのある小道具が効果的に用いられ、生と死、喪失の哀切と受け継がれていく思いが可視化されていきます。

体制も刷新されたNoism Company Niigataの19thシーズン、その劈頭の舞台「SaLaD音楽祭」。自らの、或いはNoismの活動を「文化、芸術を残していく闘い。願わくば、数十年後、例えば、ここが改修されていたりとかしても、その時代の舞踊家が躍動していて欲しい」と語った金森さん。「このふたつを持っていってきます」の言葉に力が込められていたのを聞き逃した者はいなかったでしょう。大きな拍手が送られましたから。

明日の日曜日、もう一日、公開リハーサルはあります。ご覧になられる方はどうぞお楽しみに♪そして「SaLaD音楽祭」メインコンサートでの本番の舞台のチケットをお持ちの方も期待値を上げて上げてお持ちください。

(shin)

大学生たちが見たNoism『境界』⑤(公演感想)

Noism0/Noism1『境界』の世界

 2021年12月26日の東京芸術劇場で上演されたダンスカンパニーNoism Company Niigataの『境界』を鑑賞した。これは二幕の構成で、一幕はゲスト振付家に山田うんさんを迎え、Noism1メンバーが踊っている。二幕ではNoism芸術監督金森穣さん演出振付でダンサー井関佐和子さん、山田勇気さんと共にNoism0の作品として構成されている。

 一幕Noism1の演目、タイトルは『Endless Opening』。1楽章「風のような姿 花のような香り」、2楽章「誰かに手を伸ばしたくなる」、3楽章「この大海原に誕生の祝福」、4楽章「種子 突風に乗って つと」で構成されている。最初に9人のダンサーがそれぞれ色とりどりのレオタードを着て、柔らかい風になびいて舞うオーガンジーの羽織を身にまとって登場する。ダンサーの息づかい、地面の擦れる音が聞こえるような静かな空間の中で舞い踊る姿はまさに花のように美しかった。体が動いた後にオーガンジーの羽織もその軌道を追ってついていく。その止まることなく永遠に続く様子が春の喜びを感じられるような情景であった。そこからまた誰もいない静かな空間になる。小道具を一人一つ持ってダンサーが現れるが、私はこれをベッドだと捉えた。ここでは人間、生命の生まれを踊りで表現していると感じた。上からのスポットライトを浴びて、その光に向かっていくように手足を伸ばしていく。それぞれ違う動きで起き上がり、最後に羽織を脱ぎすて、人としての成長を表わしているのではないかと考える。静かな世界から一変し、早い曲調の楽曲が流れる。2人、3人ずつの踊りでは、お互いの空気感を感じながら息の合ったダンスを繰り広げていった。人数が増え、最後の総踊り、一糸乱れぬ美しいダンスは見ている人の心に幸福感を感じさせるほどで、幸せを得ることができた。

 二幕Noism0『Near Far Here』。一幕とは変わってバロック音楽の中、薄暗い空間の中でピンスポットがあたる。ここでは生と死がテーマになっており、その境界を表現していた。決して激しく踊り狂う訳ではなく、その劇場の空間を自分の体で吸収し、丁寧に舞っている。すると下手(しもて)に影を映すスクリーンのようなものが降りてくる。今見えている世界と影の世界、お互いが全く同じ動きでシンクロしている。影の世界に最初は一人しかいないと思わせていたが、そこから分離し、もう一人いることがわかる。そして真っ白の衣装を身に纏う女性が、見える世界に現れる。重力を感じさせないリフト、アクリル板を使ったパドドゥ、三人での踊りは身体全体からエネルギーが溢れていることを感じさせる。しかし激しく乱雑に踊るのではなく、まるで美術作品を見ているようなゆっくりと濃い絡みであった。そして最後に舞台上、客席にも降ってくる赤色の花びらは、この生と死の境界がある世界の儚さや脆さをその空間で表現していると感じた。

 Noism0/Noism1 『境界』を鑑賞し、コロナ禍で人とのつながりが一時は途絶え、孤独な時間を多く過ごしていた日々があったことを思い出した。人との間に壁があると寂しいもので、それだけで距離が離れているように感じられる。コロナ禍で制限しなければならないことが多くあり、その中でも大切な家族、友人と過ごす時間はかけがえのないものであり、その有難さを改めて考えなければいけないと思った。この作品で見た人の生まれる感動、生と死の境界は儚くありながらも美しい。そして先がどうなるかはわからないが、きっと明るい未来が待っている、そう感じさせるその空間は幻想のような世界観で温かかった。

(米原花桜)

 皆さま、ここまで、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修にて稲田奈緒美さん(舞踊研究・評論)の指導のもと、「舞踊作品研究B」という科目を学ぶ学生さん5人による5本のレポートを5日連続でご紹介して参りましたが、如何だったでしょうか。
 瑞々しい感性で綴られた5つの瑞々しい文章をこうして続けてご紹介できたことはとても喜ばしいことでした。Noism Company Niigataを「生で」観るのは初めてという人も多かったようですが、今回のレポート執筆が、5人の(そしてそれ以外の多くの)学生さんたちにとって、Noism Company Niigataとの良き「出会い」となり、このあとも継続して接し続けて貰えたら、そう願っています。
 なお、掲載したそれぞれの文章は読みやすさに照らして、文意を変えない範囲で若干の修正を施した箇所があることもここにお断りしておきます。その点、悪しからずご了承ください。

 書くことで初めて見えてくるものがあります。また、書くことは自らをさらけ出す事であるとも言えるでしょう。
 対象のなかにただならぬものを見出し、対象と格闘しながら、なにがしかの文章を書くという行為は、対象に従属する受け身の行為に収まらぬ、極めて創造的な行為にも転じ得るものです。そして、書かれた文章が、それを読む者と繋がり、触発・刺激していくこと、その豊かさを知る者が文章を書き続けるのでしょう。今回、文章を掲載した5人にとって、そんな豊かさに繋がるきっかけを、ここに提供することが出来ていたなら望外の喜びです。また書いてください。 (shin)

大学生たちが見たNoism『境界』④(公演感想)

舞踊作品研究批評課題 Noism Company Niigata <境界>
2021.12.26観劇 @東京芸術劇場(プレイハウス)

はじめに
 私は12月26日、日本初の公共劇場専属舞踊団である、Noismの『境界』を観劇した。Noismには、プロフェッショナル選抜メンバーによるNoism0、プロフェッショナルカンパニーNoism1、研修生カンパニーNoism2の3つの集団がある。この度の公演は、2019年冬公演に次いで、ゲスト振付家を迎えて行われたダブルビル公演であり、Noism0をNoismの芸術監督である金森穣が、Noism1をゲストである山田うんが、それぞれ「境界」を共通のテーマとして振付した。

第一章
 まず、Noism1山田うん振付の『Endless Opening』が始まった。幕が開き、そこに広がっていたのは、舞台美術もない、照明もシンプルでフラットな白い世界であった。Noism1は男性4名女性5名計9名でダンスが展開された。衣裳は全員、色がバラバラで、しかしパステルカラーの半透明な羽織にはっきりとした色のレオタードを着用していることは共通していた。ダンサーは次々と出てきて踊り始めた。時には3~4人の小グループでそれぞれ踊るシーンがあった。踊っている中で、カウントを一個ずらし時差を持たせて踊ったり、小グループメンバーが離脱・参加したりと、常に同じメンバーでは踊っていないところが複雑にできていた。それに対して群舞のシーンでは半透明な羽織が良い効果を出していた。山田うんはインタビューの際、「花束をお渡ししたい」という言葉を語った。まさに花と思わせるような衣裳がダンサーを綺麗に彩っていた。ダンスの世界では当たり前なのかもしれないが、9人もダンサーがいるのにも関わらず、足音が全くしないことがダンスを学んでいる私にとって、とても印象的で、よく鍛え上げられていると感じた。このシーンでは群と個で踊るシーンや小グループで踊るシーンがあり、そこの間に境界があるというように見えた。
 途中、ついにベッドのような小道具が出てきた。円形に回り、どんどん増えていく、そして舞台に規則的に並べられた。ベッドに座ったり、寝たり、立ったり、様々な手法で踊られていた。車輪がついている不安定なベッドの上で踊ったり、隠れるシーンでは全くはみ出ることなく隠れたり、ダンサーの稽古時の努力を感じた。ベッドが並んだ時、前からの照明により、後ろの白い壁に柵ができたように見えた。ダンサーがベッドと共に後ろに向かうシーンでは地平線に歩いていくような、境界に向かっていくような、テーマを提示しているようだった。照明がシンプルに作られており、ダンサーの邪魔をしないよう工夫されていると感じた。身体がよく見え、ダンサーが最大限に身体を使い、花を表現していたと感じた。

第二章
 次に、Noism0金森穣の『Near Far Here』が始まった。幕開き、そこに広がっていたのは舞台美術がないのは先ほどの作品と共通していたが、照明が暗く、同じ舞台と思えない黒い世界が広がっていた。副芸術監督である井関佐和子が白い高貴な衣裳を着ており、照明が彼女を当てては消え、当てては消えを様々な場所で行い、井関が瞬間移動しているように見えた。金森穣とNoism1リハーサル監督である山田勇気のふたりが黒い衣裳で同様の演出で舞台に現れた。見ていて、先ほどのグループより踊りの感じや熟練度や経験に違いを感じ、さすが選抜メンバーだと感じた。舞台上方から木の枠が下りてきた。普段の生活感覚からしてみればただの木枠だが、この舞台では鏡に見えた。前から照明が来ていて、背景に影が一致していて「鏡」感を出していたと感じた。鏡の先と今立っている場所とが木枠によって境界を表現しているのだなと感じた。木枠が上がって次に白いスクリーンが下りてきた。スクリーンには事前に撮られた影の映像と実際に今光で当たっている影が映し出された。影同士が踊り、ダンサーと影、現実世界と影の世界、映像の自分と今の自分、スクリーンを境界として色々考えることができた。次にガラスの板と共に、ペアで踊るシーンでは、ペアで踊るにも手や足以外でも物でつながることができることを提示していた。ガラスの板という境界、その境界をうまく操りながら踊るというのがとても印象的だった。最終シーンでは舞台一面が赤くなっていて、上から赤いバラのようなものが降ってきて、一つ境界の先の世界のイメージがあったと感じた。歩いているだけなのに音響の効果やその世界に鳥肌が立った。

まとめ
 山田うんと金森穣が同じテーマで作品を作ったのを見て、照明がシンプルだったり凝っていたり、舞台が白かったり黒かったり、衣裳がカラーだったりモノクロだったり、演出が正反対と言ってもよいくらい違うのに、どちらも『境界』という作品として出来上がっており、様々な表現ができるダンスの多様性を感じた。

(田中来夢)

大学生たちが見たNoism『境界』③(公演感想)

様々な境界

はじめに
 「境界」はあらゆるところに存在する。今回 Noism の『境界』という作品を鑑賞してそれを多くの場面で感じた。ダンサーの踊りはもちろん、照明や様々な舞台装置を駆使した素晴らしい演出。それらから表される物語性や演出家の意図に注目していく。

第一章
 まず山田うんさん振り付けの『Endless Opening』についてだ。最初に目に入ったのはひらひらとした花びらのようにも鳥の羽のようにも見える衣装。衣装はピンクや水色など、淡い色が多く使われており、女性らしいという固定概念に当てはまるようなものだった。その中で男性ダンサーも女性と共に踊っており、女性と全く同じ衣装を着ていたのが印象に残っている。男性らしさと女性らしさの概念をはっきりと分けないジェンダーレスという現代だからこその衣装構成だと感じた。ダンサーそれぞれが優雅ながらもパワフルに動き、唯一無二のダンスを生み出していた。
 最も興味深く感じたのが作品の後半、自らのひらひらした袖を外し、ベッドのようなものに置いて舞台に下がってくる幕の中へと消えていくシーンだ。舞台上にいるダンサーではなく、背景に映し出される影に自然と目がいってしまうような演出と無音の中でダンサーが後ろに向かって歩いていくシーンは、特に凄い技術を見ているわけではないのに見入ってしまった。自ら取った袖をどこかに置いてきたダンサー達は弾けるように踊る。そこに幕という物理的な境界によって生と死の見えない境界線が描かれていると感じた。

第二章
 次に観劇した金森穣振さん振り付けの『Near Far Here』は言葉にするのは難しく、とても神秘的な作品だ。Noismはたとえ何もない空間だとしても、場面展開が早く、ダンサーの技術と共に、見ていて目が離せなくなってしまうのが一つの特徴だと思う。今回の作品もシンプルな額縁やスクリーンがあるだけなのに、そこで繰り広げられる沢山の物語が次々と見えてくる。そんな洗練されたこの作品には様々な境界が存在する。私には本物と偽りの境界、またどこからが境界かが段々とわからなくなっていく不思議さを作品の中に感じた。例えば、スクリーンに映し出された三人のダンサーとそのスクリーンの前で踊るもう一組の三人のダンサー。言い換えれば、実際にそこにいる本物とスクリーンの向こう側にいるように見える偽り。最初は互いに違う動きをしているのだが、段々と動きがリンクしていき、しまいには一人がスクリーンの中に入ってしまう。そこにスクリーンを挟んだ一つの境界があると感じた。最も印象的だったのはラストだ。舞台一面に真っ赤な花が散りばめられていた演出だった。美しさに見惚れていると、観客席にも赤い花が降ってきた。舞台と客席の間にも一つの境界があると考えると、花が降ってくる光景はまるで客席も舞台と化しているようだった。だからこの境界がなくなったとき、私は何か大きな境界がなくなった気がして不思議さを覚えた。またダンサーが舞台から降ってくる花に驚いている私たちをただ立ち尽くして見るというのも面白い光景だった。ダンサーと同じ空気を吸い、同じ空間にいることを自覚させられたような感覚だった。

まとめ
 今回初めてNoismの作品を生で観劇して、固定概念に囚われない演出が凄く新鮮で、自分にとって参考になった。一つの小物や小さな動き、衣装が少し変わるだけで、そこから多くの物語が始まっていくのを目の当たりにし、表現の可能性は無限だと感じた。

(三田ひかる)

大学生たちが見たNoism『境界』②(公演感想)

様々な『境界』の世界

 「境界」を共通ワードとした山田うん演出振付のNoism1『Endless Opening』、金森穣演出振付のNoism0『Near Far Here』の2本立てで構成された公演。

 『Endless Opening』は何もない無機質な空間に、明かりが入り、音が入り、そして、動きが入る。カラフルでひらひらとした衣装が、この無機質な空間に映える。踊りが進んでいくと、ベッドのようなものが次々と出てくる。そこで踊った後、また何もない真っ白な空間で踊り出す。集団になったり、個々での動きだったり、また衣装も相俟って演者たちは鳥を表しているのではないかと感じた。ベッドの上でスポットライトが当てられ踊る姿は、それぞれの死や苦しみのようなものに見えた。上着を脱ぎ自らベッドを暗闇の中に運び、真っ白な空間で踊りだした。暗闇は自分の命の終わりで、真っ白な空間は死の世界、又は新たな命の世界なのではないかと感じた。
 私はこのように解釈したが、「観客の皆様にそっと寄り添う、時間の花束のような舞踊をお届けできたら、境界という不確かな美を感じていただけたら幸いです」という山田うんが実際に表したものは、「喪失感や虚無感を優しく撫でる光のカーテン」である。この解説を読んだ後、作品を思い返すと、何もない空間が演者によって段々と色付けられていく時間でもあったと感じた。一つ残念に思う点は、ベッドを運んでくる音だ。演出の一部であるのかもしれないが、運んできた時の「ギギッ」という音はあまり良いとは思わなかった。

 『Near Far Here』は常に異世界のような空間にいる感覚があった。少しずつ変わっていく空間。上から四角い枠のようなものが降りてきて、演者が踊る。ただの枠がまるで鏡のように見える演者の動きや、後ろに映る影が1つから2つへ、大と小の動きが幻想的である。照明による影からスクリーンを使った影へと変わり、スクリーンに映る影と実際の影の融合は、現実と映像の境界にある空間を作っている。また影から人物へ、影の時と同じようにスクリーンと実際の人物の境界。幕が閉じ、会場に響く重低音。優しく明るいメロディーが鳴り、幕が開くと、あたり一面真っ赤な花びらの空間になり、客席にも頭上から花びらが降ってくる演出であった。最初に幕が開いた瞬間、何か凄いものが始まるのではないかと感じたのが率直な感想だ。袖幕を取っ払い、照明は剥き出し、上には色々なものが吊られていて、『Endless Opening』とは全く違う空間があった。
 金森穣はこの作品を「近くて、遠い、此処」と表している。此処とは何処なのか、言葉にはできない此処の空間、時間があったと感じた。スクリーンを使うという考えは、現代社会を簡潔に表していると思う。スクリーンが映しだす現実と虚実、実際に演者が動く現実が融合されて、「境界」というワードが当てはまる作品であると感じた。

 2本の作品を観て、「境界」というワードによって、観た人の解釈は様々なものになるのではないかと感じた。コンテンポラリーダンスは、表現の方法が多様である。多様である故に、作る人によって独特な表現で作られる為、受け取る人の解釈も様々であると思う。「境界」というワードがあるだけで、それぞれの作品に隠された「境界」の空間を感じ取ることができるのもコンテンポラリーダンスの面白さであり、それぞれの作品の面白さを感じ取れた公演であったと感じた。

(中川怜菜)