柳都会 第16回 田根剛×金森穣を聞いてきました

Noism『ラ・バヤデール -幻の国』ツアー直前の2016年6月26日(日)午後4時半、
新潟・りゅーとぴあのスタジオBを会場に、
『ラ・バヤデール』の空間を担当された建築家・田根剛さんをお迎えして、
「世界を舞台に飛び回る建築家が考える、21世紀の建築とは?」というサブタイトルのもと、
第16回の柳都会が開かれました。

お二人は旧知の間柄と言うことで、
お互い、なに気兼ねするところなく、テンポよいお話しが展開されました。
全てをお伝えすることは到底無理ですが、エッセンスをご紹介しようと思います。

①エストニアのナショナル・ミュージアム(国立博物館)のコンペ:
2006年、友人を介して知り合い、ご飯を食べてすぐに意気投合したレバノン人女性「リナ」・ゴットメさん(←Noism『SHIKAKU』の映像を見せると、「食いついてきた」。)と田根さん、
そこにもうひとり、イタリア人男性・ドレルさんを加えた3人で、
パリに事務所DGT.(DORELL.GHOTMEH.TANE/ARCHITECTS)設立。

基本的に建築は個人の力、裁量、思いを反映するものなので、
グループでやることは難しいのだが、
一緒にコンペに参加することにし、見事に勝ってしまったのも、
「信じるもの(「滑走路」というコンセプト)」を共有できたことが大きい。

②ARCHAEOLOGY OF THE FUTURE(未来の考古学):
米ニューヨーク流の20世紀の都市の構造が世界を席巻。
投下された資本に比例して縦に伸びていくモデル。(垂直構造の「中心」)
同時に、人の流入により、郊外は拡散。(水平構造の「周辺」)
→できあがったのは、どこともわからない風景、どこにもある街の風景。
仏パリ、1970年代に作られたコンクリート+ガラスの近代建築の方が先に壊されてしまう皮肉。
→近代建築は果たして正しい方向だったのかという疑問が生じる。

*目指したのは、そこにしかない「場所」の意味を掘り下げていくこと。
即座には見えて来ない土地の文化や価値を志向して、
断片的な記憶を積み重ねていくこと。
起源を系統立てて掘り下げるリサーチから、グループ化、関連性を探り、
ひとつのコンセプトを形作っていく作業。

③MEMORY FIELD(記憶):
エストニア、ソ連崩壊に伴って独立。
大国に占領され続けてきた歴史から、民族のアイデンティティが失われそうだった。
ナショナル・ミュージアムのプロジェクトは「国約」。国際コンペをやろうという形で進む。

荒涼とした森のなかに残されたソ連支配時からの「負の遺産」軍用滑走路に着目。
それを抹消するのではなく、ナショナル・ミュージアムに直結させるかたちを提案。
長さ42mの大屋根をもつエントランスから直線的に、
幅72m、長さ355mのスケールが走り、そのまま1.2kmの「滑走路」に連続する博物館。
天上高が段々低くなっていき、出ると「滑走路」に至る建物は、
高さ14mのところに一枚の板が浮いている感じで、重力を感じさせない。
冬はマイナス20℃の白いランドスケープに、光の塊のボリュームが浮かび上がる。
リビングコレクションを収めるほか、シアターや音楽堂も備え、アクティビティも重視する博物館と
国民のイベントとして使用可能な公共の広場になり得る「滑走路」。
→記憶が更新されていく建築。空間的に色々編集可能な建築。

④KOFUN STADIUM(古墳スタジアム):
東京五輪の主会場・新国立競技場コンペでファイナリスト(11案)に残る。
「旧国立競技場は近代建築としては名作。残しておいた方がよかった。
(国立競技場は)ふたつあってもよかったんじゃないか。」(田根さん)

競技場の起源は古代ギリシャ、大地を掘り込んで作られていた。
防災、交通の問題から競技場の郊外化は進み、場所の意味も失われていった。
元来、神宮内苑は明治天皇の鎮魂の場。
神宮外苑に古代の古墳を蘇らせようという発想として結実。日本にしかないもの。
「古墳」: 2011年の震災→都市のなかで「死」をどう考えていくかを問われた。
イベントのとき以外は、展望台施設として活用可能で、
環境装置、防災拠点としての機能をも負う「強い森」「100年の森」の提案だった。

物質的に失われたとしても残るものは記憶。個人の記憶を超えた集合記憶。
建築が残ることによって文化は継承され得る。記憶装置としての建築。
建築の価値: 建て直し、建て増しをしても損なわれることはない。
過去の記憶を掘り下げようとすればするほど、近代建築とは異なる意味が見えてきた、等々。

参加者からの質問: いくつかご紹介しましょう。
--Q.田根さんから見たりゅーとぴあの印象は?
--A.いい劇場であり、好感が持てる。明るく、気持ちよい空間。
「強そうな劇場」と言うより、よくデザインされた、散歩の途中に寄れる「公園」のよう。
但し、劇場のアイデンティティを支える存在である、13年目のNoismにとっての
使い勝手や動線についてはもっとコンパクトにならないかという思いはある。

--Q.今後、作りたいものはあるか?
--A.意外とあまりない。キャリアが博物館から始まってしまったこともあるだろう。
場所・人・時代・コンペとの出会いの方が重要だと考えている。

--Q.既存の建築でこれは面白いものというものを教えて欲しい。
--A.少し遠いが、南仏ル・トロネ修道院を挙げたい。
南仏特有の光線のなか、そこにある全てのものが美しく見える建築。
精神を受け継ぎ、整えるのみで、建てられたときのままの姿で今に至っている。

結び「建築は公共の福祉」:
「しっかり残されていく建物を建てることは21世紀にあって可能なのか。
もう建てなくていいんじゃないか」(金森さん)に対して、
「そこは欲望。『建てたい』」と田根さん。
日々活動するなかで、文化的なものが何のために役立つのかという疑問も生じるが、
単に美しいとかではなく、人々にとって幸福に変わるもの、喜びになるものを作りたい。

*建築は公共の福祉: 建築は不特定多数が体験できるもので、体験した人の人生に関わるもの。
一昨年、東京・南青山スパイラルでのCITIZENのインスタレーション制作中、
疲労困憊のなかで、作品を前に幸せそうな様子の来場者を目にして生まれた意識。

終始穏やかな口調で語る田根さん、鋭いツッコミを入れる金森さん。
「LECTURE + DISCUSSION」というスタイルに捕らわれることなく、
およそ自由に、そしてとても嬉しそうにやりとりするお二人の姿が印象的でした。

この場では、田根さんのご発言を中心に纏めようと試みましたが、
それすら門外漢の私にとっては困難を極めることであり、
字数だけは使いましたが、
どれだけのことを伝えられたか自信はありません。
田根さんと金森さん、お二人からは共通に時間を経てもなお残るものを志向する
「構築への意志」が感じられる2時間でした、
と書いて切り上げるほかなさそうです。

終了後も、スタジオBからホワイエに出る扉の外に田根さんを認めると
すぐに長い人の列ができたのですが、その最後の一人に至るまで、
丁寧に質問に答え、写真撮影に応じ、
あるいはサインをする田根さんの「神対応」振り、
そこに表れたお人柄について触れながら、
この拙いレポートを終わりにしたいと思います。
長々お読みいただき、有難うございました。  (shin)

連日進化する舞台『ラ・バヤデール -幻の国』新潟楽日

2016年6月19日、早くから気温が上昇し、梅雨を通り越して、「真夏日」を記録した日曜日、
Noism『ラ・バヤデール -幻の国』は早くも新潟楽日を迎えました。

公演後、ミストレスの真下さんやSPACの俳優・奥野さんも話されていたことですが、
この日、出演者は一人残らず、3日間でもベストのパフォーマンスを示していたように思います。
それはまるで「幻の民族」(金森さん)が、個々の舞踊家や俳優を越え、時空を越えて、
りゅーとぴあ・劇場の舞台上に出現し、呼吸していたかのようでした。

いきなり話はアフタートークに飛びますが、この日、久方ぶりに金森さんと舞踊家(井関さん、中川さん、石原さん)が登壇し、公演に負けず劣らず、興味深い話を聞かせてくださいました。

誰しも関心を寄せる事柄であり、この場で紹介しても差し支えなさそうな、
「振付: Noism 1」というクレジットについて書きます。
質問シートでそのプロセスを質されると、
①まず、今回、金森さんは1個も振りを作っておらず、②Noism 1メンバーにキーワードが示され、
③メンバーが各自、それから喚起される言葉や音を20ほど挙げ、④そのなかから3~4程度の動きを作る。
⑤そうして集まった40~50の断片を金森さんが編集して、舞踊家に割り当てるというプロセスだったことが明かされました。
その時の様子を、「『悠子の振りは激しいから、お願い、私のところに来ないで』と思っていた」と井関さんが笑って打ち明ければ、石原さんは「(金森)穣さんが自分を消そうとして、抑制する姿が印象的だった」と振り返りました。
続けて、割り当てられた振りを覚えるために、メンバーは一つひとつの振りに考案者の名前を付け、
例えば、「悠子」「賢」・・・などと声に出しながら動いて練習していたという裏話が披露されると、
会場はその様子を想像して頷きながら聞き入っていました。
他も興味深い話ばかりでしたが、ネタバレになりそうな部分もあるため、
ここでは差し控えさせていただきます。

また、アフタートーク後、6F展望ラウンジに場所を移して開かれた初の試み
「公演感想を語り合いましょう!」も30名ほどの参加者を得ました。
公演を終えたばかりでお疲れのところ、
上に名前を挙げた真下さんと奥野さんからもご参加いただきました。どうも有難うございました。
和気藹々とした、とても自由な集まりになり、楽しい時間を過ごしたことを記しておきます。
また集まりましょう。

話を公演に戻します。
私たち観客の心に生涯に渡って煌めき続けるだろう今回の劇的舞踊は、
150年前に作られたバレエ『ラ・バヤデール』を云々する際、
堂々と参照すべきもうひとつの基準たる舞台作品の誕生を告げるものであり、
そのあたり、どう控えめに見積もっても、
「バレエの歴史に爪痕を残す」(平田オリザさん)ことは
成し遂げられたと言って間違いないでしょう。
21世紀に創作されるべき意義と、同時に、歴史に名を残す普遍性を備えた品格ある舞台。
ご覧になられた方々は幸福です。

他方、世界初演の一昨日から連日の変更を重ね、常に進化を続ける舞台はまさに生き物。
あまり気が回らない私は変化にも気付かないことが多いのですが、
それでも、何度も足を運びたくなる所以です。

そして、この後、神奈川、兵庫、愛知、静岡、少しおいて鳥取を巡るツアーにあっても、
連日進化するだろう舞台。
「情熱とお時間とゆとりがある方は追っかけて欲しい」と金森さん。
ただ、そのどれもが揃わない限り追いかけるのは難しい規模のツアーです。
それ故、この先成熟していく舞台に心底嫉妬せずにはいられない人が大多数でしょう。
オリジナルのバレエを凌駕したと言っても過言ではないくらい、幻想的で、
筆舌に尽くしがたい「影の王国」の美しさをはじめ、
様々な種類の「美」が途切れることなく繰り出される、『ラ・バヤデール -幻の国』。
これからご覧になられる方々は幸福です。

公演会場がお近くなら、是非お誘い合わせの上、ご来場いただき、
大人数で「約束された幸福」に浸って欲しいものです。  (shin)

会場を魅了! 『ラ・バヤデール ー幻の国』新潟公演2日目

2016年6月18日(土)、新潟市内某所で開催される大がかりなイヴェントと重なり、
その影響が心配された日だったのですが、さほどの混乱もなく、
前夜、平田オリザさんから「こちらの方が大事」と言って頂いた『ラ・バヤデール -幻の国』の新潟公演2日目は午後5時、無事にスタートしました。

二日続けての鑑賞でしたが、舞踊家も俳優も、動きが台詞が滑らかになった印象を持ちました。
細かな変更や小さなアクシデントもあったようですが、
舞台狭しと繰り広げられる群舞やパ・ド・ドゥに魅了されるうちに、
一幕50分、二幕45分、休憩を入れると110分という時間が嘘のように過ぎていきました。

中川さんのバートル(=ソロル)が、井関さんのミラン(=ニキヤ)が、
オリジナルのバレエ版『ラ・バヤデール』に欠けている「深み」を備えて、
あの環境下で「言葉」を持たない者、
為す術なく翻弄されるだけの者の悲哀を可視化して踊る点は
オリジナルを凌駕していると断言しましょう。

終盤、たきいみきさん演じるマランシュ帝国皇女フイシェンは言います。
「この国では誰も本当のことは言えない。」
中川さんの身体が、井関さんの身体が、あるいは全ての舞踊家の身体が示す深度や強度が、
更には俳優の示す存在感が、そして衣裳、音楽、照明、空間、美術、その他諸々が、
見事に渾然一体となって、この劇的舞踊における「本当のこと」を立ち上げていきます。

圧巻の分厚さで終演を迎えると、カーテンコールでは、
「ブラボー!」という掛け声があちらからもこちらからも飛び交いました。
なかには、金森さん曰く「Noism公演では珍しく」、
「(中川)さとしさ~ん!」という黄色い声援も含まれていました。
しかし、その気持ちは充分わかります。

アフタートークでは、前日の平田オリザさんの言葉とシンクロするかのように、
オリジナルの『ラ・バヤデール』を何度もご覧になられているお客様から
是非ともヨーロッパに持って行って欲しいとの声があがりました。

また、二幕冒頭の亡霊の群舞について、
「個人的には好きなシーン。悪くないんじゃないかな。」
「バレエの歴史のなかでも重要なシーンであり、
150年前のミンクスを21世紀にどう蘇らせるかが課題だった。
正直、ホッとした。」と金森さん。

更に、「マランシュ帝国の13年」と「13年目のNoism」という符合に関する質問には、
平田さんが下敷きにした史実からくる年数であると答えながらも、
「すぐ気付きましたよ。平田さんの脚本を見て、これ、Noismじゃん。ヤバイじゃん。」と
おどけて笑いながら話す金森さん。和やかさのうちにこの日のアフタートークは閉じられました。

新潟・りゅーとぴあ公演も残り一日。
前売り席は完売とのことですが、お得な見切れ席の当日販売はございます。
金森さんをはじめ、結集した全てのクリエイターたちの自信作『ラ・バヤデール -幻の国』。
お見逃しなく。

追記    19日(日)は、アフタートーク後 18:00頃~19:00 りゅーとぴあ展望ラウンジにて、
「公演感想を語り合いましょう!」の予定もあります。そちらも是非。   (shin)

バレエの歴史に新たな一頁! 劇的舞踊『ラ・バヤデール ー幻の国』初日、遂に世界初演の幕上がる

朝、激しい雨に見舞われた記憶もあるのですが、
同じ一日のうちにこうも変わるものかというくらい
連続性を欠いた天気の変わりようは何かの暗示だったのかもしれません。

2016年6月17日(金)、新潟、りゅーとぴあ・劇場、
少し早く会場に着いてみると、はやくも見知った顔がちらほら。
時間を追う毎に、明らかに期待で上気した面持ちの輪があちらこちらで形作られ、
ロビー開場されたのちのホワイエでは、待ち遠しさは既に幸福の予感へと姿を変えて膨らみ、
それさえ、あと数分で現実のものとなることを知る全ての顔には
「劇場」が果たす役割が見事に投影されていたと言えます。
そして午後7時、遂にNoism劇的舞踊『ラ・バヤデール -幻の国』世界初演の幕が上がりました。

斜陽。自らの来し方を証し立てようとでもするかのように語り始める車椅子のムラカミ。
舞台を占める鈍い銀色は生命の躍動から最も隔たったかのような配色です。

一転、回想のなかにあっては、衣裳の色彩は鮮烈にして、
その民族のアイデンティティの別を視覚的に浮かび上がらせます。
馬賊の赤、カリオン族の青、高貴なガルシンの紫等々、
勢揃いする場面では、あたかも色の洪水のよう。
なかでも踊り子たちの背中や肩が青い衣裳から零れて露出するさまの、
優美にして官能的な、えもいわれぬ美しさに思わず息を呑みました。

ムラカミが回顧する総天然色の物語部分にあっては、まずはミンクスの音楽ありきで、
いつになくバレエらしさを示して踊るNoismダンサーたちが却って新鮮に映じました。

フイシェンとバートルの婚約式の席上、ミランが仕掛けられた奸計に陥り、一幕が閉じると、
休憩をはさみ、二幕は「影の王国」から始まります。
冒頭は、過日、公開リハーサルで見たパートの筈が、
大胆に手が加えられていて、よりスッキリとした印象で滑り出します。

芥子の白い花びらを思わせる装置の下、繰り広げられる亡霊たちによる耽美的な群舞には
バートルならずとも目を奪われるほかありません。
瞬きも忘れて見開かれたままの両の眼は潤いを失い、ドライアイになるとも、
幻覚の亡霊たちによる誘惑と、それに翻弄されるバートルの寄る辺ない背中とに
釘付けになる以外なかったのです。
まさにこの世のものならぬ美しさに酔いしれる時間。贅沢このうえありません。

はなから宮前義之さんによって描き分けられた異なる色と質感の衣裳たちは
それぞれに異なる神をいただき、相和することなど幻想でしかなかった筈です。
未だ若い国にとって必要とされたはずの憎しみが、
ほんの13年間という時間ののちに全てを跡形もなく葬り去ってしまうまでを描くのに、
奇を衒いすぎることなく、敢えてバレエのフィールドに留まったまま、
バレエの古典『ラ・バヤデール』に挑んでいく金森さんとNoismダンサーたち、
そして素晴らしい存在感を示す3人の俳優。
それは古典的な佇まいを残しながら、現代的なバレエを模索する営みと言えるでしょう。
今回のNoismの「実験」(金森さん)には、またまた虚を衝かれたと打ち明けざるを得ません。

終演後、観客と共に初日の舞台を見届けた篠田新潟市長が登壇、挨拶し、「今までで一番解りやすかった」等と感想を述べたあとのアフタートークで、「ヨーロッパでも勝負できる舞台ができた。
100年後演じられるのは、この演出の『ラ・バヤデール』だろう」と平田オリザさん。
俳優が話す台詞との対比から、「改めて舞踊の本質に向き合う機会を得た」と語る金森さん。
この日、確かにバレエはその懐を広げたと言っても過言ではないでしょう。

様々な才能が結集して、
バレエの歴史に新たな一頁を刻む、
新しい古典・Noism劇的舞踊『ラ・バヤデール -幻の国』がここに誕生しました。
新潟・りゅーとぴあから世界を目指す、その船出をみんなで祝おうではありませんか。
土曜、日曜も是非りゅーとぴあ・劇場へ。 (shin)

『ラ・バヤデール ー幻の国』公開リハーサルに行ってきました

Noismの新作・劇的舞踊『ラ・バヤデール -幻の国』。
その世界初演を約一ヶ月後に控えた5月15日(日)午後3時、
りゅーとぴあ「スタジオB」での公開リハーサルに行ってきました。

この日公開されたのは、同名バレエでは「影の王国」として知られる部分で、
作品の第二部、フィナーレ付近に至るクリエイション風景でした。

阿片中毒患者「癮(いん)」を踊るメンズ6人衆から始まり、
精霊12人の群舞、井関さんと中川さんのパ・ド・ドゥまで約30分通して踊ったあと、
振りのみならず、細かい所作に至るまで、金森さんの鋭いメスが入れられていきました。
例えば、目線ひとつで、精霊たちは100mも上空から地上を見下ろす風情に一変しました。
曰く、「自分の内側のイメージを変えないと動きは変わらない。」

更に、「『間(ま)』がなかったら美しくない」こと、
「体は止まっていても、中は動いている」状態でいること、
仰臥位で横たわる場面では「重力に抗うんだよ。腹筋を使って重力を消すんだよ。
重力という性(さが)や俗を」、等々。
身振り手振りを交えて、あるときは自ら踊って見せながら、
金森さんの発する熱い言葉が
メンバー一人ひとりの動きをみるみる変えていきます。

他方、メンバーがそれぞれ纏う
ISSEY MIYAKE宮前さんによる衣裳はどれも素敵だったこと、
SPAC(静岡県舞台芸術センター)から出演する3名の俳優の方の台詞が
質感豊かに私たちを「幻の国」へ誘ってくれたことまで含めて、
改めて、Noismのクオリティは短時間で成し遂げられるものではないことを
痛感させられた次第です。

予定の1時間を越えて、4時15分過ぎまで、
真剣なクリエイションの一挙手一投足に至るまで何も見逃すまいと、
瞬きすることさえ忘れて、視線を注いでいるうちに、
こちらにも張り詰めた空気は伝わってきて、
ただ座って見ているだけだったというのに疲れを感じたほどでした。

こうして遂に一部ヴェールを脱いだNoism劇的舞踊『ラ・バヤデール -幻の国』。
まだまだ錬磨に錬磨を重ねて初日を迎えることに間違いはありません。
そして公演初日、『ラ・バヤデール』の歴史は書き換えられることでしょう。
その歴史の転換点を自らの目で目撃するチャンスを逃す手はありません。
残席も残りわずかと聞いています。良いお席はお早めに。
刮目して待つことにいたしましょう。  (shin)

『柳都会 第15回 平田オリザ×金森穣』が開催されました

昨日4月23日(土)、りゅーとぴあ能楽堂にNoism新作『ラ・バヤデール-幻の国』の脚本を担当された劇作家で演出家の平田オリザさんをお迎えして、第15回柳都会が開催されました。
15回まで回を重ねてきた「柳都会」ですが、冒頭、金森さんより「今回から、ゲストの方のレクチャーを聞き、それに基づいた対談」というスタイルに変更された旨の告知がありました。
午後4時、スクリーンとホワイトボードが用意された能楽堂の舞台で、まず平田オリザさんのレクチャーが始まりました。

LECTURE: 「新しい広場を作る」をテーマに、ユーモアを交えて、社会における劇場の役割について話されました。要旨を少しご紹介いたします。

☆劇場の役割:  限られたお金で、次の3点をバランス良く執り行うことが文化政策として重要。
①芸術そのものの役割・・・感動、世界の見方が変わる。 (100~200年スパン)
被災時の「自粛」の風潮を巡って: 「自粛」は創造活動の停止を意味する。100年後、200年後の被災者は何によって慰められるのか。また、地球の裏側の難民を慰める可能性のある「公共財」を作り続けなければならない。
公的なお金を使う以上、後に残るものを作る。作らなければ、何も残らない。新作を作り続けるなかで、一本レパートリーになればそれで良い。

②コミュニティ形成や維持のための役割・・・「社会包摂」 (30~50年スパン)
郊外型大型店舗の出店により、中心市街地が衰退し、画一化する地方都市。資本原理は地方ほど荒々しく働く。利便性の代わりに失われてしまったのは無意識のセーフティネット。
「ひきこもり・不登校」:人口20~50万人程度の地方都市(そこでは、若者の居場所が固定化・閉塞化しており、「成功」の筋道がひとつしか存在しない)で深刻。
「社会包摂(social inclusion)」:ひきこもり・失業者・ホームレスの人たちにとっての居場所も備える重層化された社会をつくる。(欧州では普通の政策)
欧州の劇場は自由に使えるパソコンを置いたカフェを併設するなど、社会参加を促している。
社会との繋がりを保つことは結局は社会的なコストの低廉化に通ずる。人間を孤立化させない、市場原理とも折り合いをつけた「新しい広場」としての劇場。「(劇場に)来てくれて有難う。」
出会いの場、きっかけを与える場としての劇場。結節点(繋ぎ目)としての演劇・バレエ等々…。
孤立しがちな人間を文化的な活動によって社会にもう一度包摂していく役割を果たす劇場。

③直接、社会の役に立つ役割・・・教育、観光、経済、福祉、医療 (3~5年スパン)
(例)認知症予防に効果があるとされる「社交ダンス」人気、等々。

また、国民の税金を使いながらも、首都圏に暮らす人たちしかその恩恵に浴しにくい、日本の文化的な状況の問題点にも触れて、経済格差より文化格差の方が発見されにくい性質のものであるとし、文化の地域間格差が拡大している現状を危惧しておられました。「身体的文化資本」(個人のセンスや立ち居振舞いといったものの総体:本物がわかる目)を育てることは、理屈でどうこうなるものではなく、常に本物に触れさせる以外に方法はないそうです。
まったくその通りですね。

(追記: この日のレクチャーの内容については、平田さんのご著書最新刊『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書)に詳しく書かれているとのことです。是非ご一読ください。私もこれから読みたいと思います。)

DISCUSSION: 5分間の休憩を挟んだのち、平田さんと金森さんの対談パートでは、劇場の「ミッション(使命)」を中心に話が進んでいきました。「何のために劇場はあるのか?」

☆劇場の「ミッション」:
欧州の劇場には、その時々の課題や問題を作品のかたちで提示し、それについて考える機会を提供する場としての側面も大きいとのこと。

平田さんが制定に大きく関わった「劇場法」では、劇場を、作品を作る場と同時に、蓄積する場(フローとストック)と捉え、アウトリーチをも含め、そこには専門家が必要であるとします。
とりわけ、平田さんは、「館」全体についての責任を負い、ミッションを定める立場の総支配人を支え、そのミッションを遂行する「専門家」として芸術監督(や音楽監督)を養成するシステムを整備していくことが必要であり、リベラルアーツ(一般教養)としての舞踊の教育とは別に、「個」を育てる、舞踊のエリートのための教育を行うことで、そうした芸術監督をキチンと育てていきたい、そして色々なものを見せる劇場、そのレパートリーを信頼して観に来て貰える劇場を作っていきたいと語っておられました。プロとアマの間の線引きが不明瞭な舞踊の現状に歯噛みする思いの金森さんも「我が意を得たり」と得心の様子でしたね。

この日、新作『ラ・バヤデール-幻の国』も、初めての「通し稽古」をやったそうですが、最後、平田さんからの「極めて良いものが出来上がった。バレエの歴史にちょっとは爪痕を残せるものと確信している。その初演に立ち会って欲しい」という言葉で、ちょうど午後6時、ふたりのアーティストの矜持に満ちた、内容の濃い会は締め括られました。

「20年くらいかかるだろうけれど、この国に『劇場文化』を根付かせたい」と語った平田さん。それはスパンこそ違えど、金森さんが常々「劇場文化100年構想」と呼ぶ ヴィジョンとピタリ重なるもので、まさに「問題意識」を共有するおふたりと言えるでしょう。そのおふたりがタッグを組んだ新作です。ますます期待は高まりますね。6月、新潟・りゅーとぴあ・劇場から始まる公演に是非お運びください。そして、平田オリザ×金森穣が提示する劇場の「ミッション」をご感得ください。  (shin)