名作マッチ+パッサ、残すところあと1公演

2017年2月25日(土)、所謂「ラス前」公演に行ってきました。
この日のスタジオBのホワイエには、
これまでにもNoismの公演でお見かけしてきた顔も多く、
「私は〇回目です。あなたは?」といった会話と同時に、
「あと明日一日になってしまいましたね。淋しいですね」という声が聞かれました。

今回、公演回数も多いスタジオ公演で、
それが新潟であれ、埼玉であれ、
週末には「公演があるのが普通」っていう感覚でいましたが、
やはり終わりは確実に近付いていたのです。

そうして回を重ねて迎えた「ラス前」の舞台は、錬磨・彫琢が際立ち、
第1部『マッチ売りの話』では、人物の造形に厚みと説得力を増し、
込み入った時空も、頭より先に目が納得させられましたし、
第2部『passacaglia』の方は、信仰と科学といった両極を往還する
不連続な連続を織り上げる身体の豊かさ、
その密度に息つく暇もありませんでした。

明日の最終日は、「舞踊家もそういう思いで踊る」(金森さん)ことから、
ますます訴求力を増した、圧倒的な舞台になることは必定。
前売り完売ながら、当日券が数枚出るとのことですから、見逃す手はありませんよね。
まあ、ルーマニアまで遠征するなら、話は別でしょうけど。(笑)

あと、本日の折り込みチラシには、
Noism1の5月末のダブルビル公演の作品タイトルが、
金森さんによる新作『愛の死』と
山田さん作のレパートリー『Painted Desert』と刷られていました。
金森さんは(新作を)「早く作りたくて仕方がない」と言っていましたし、
『Painted …』の方はNoism2で観てきましたが、Noism1が「劇場」で踊るとどうなるのか。
どちらも楽しみですね。

ですが、その前にまずは明日の公演で見納めになる方が多い
『マッチ売りの話』+『passacaglia』。
この名作を心ゆくまで堪能しようではありませんか。
明日の千秋楽に向けて期待は募ります。
「いざ、スタジオBへ」です。 (shin)

マッチ+パッサ、新潟凱旋公演第1ラウンド終了

Noism1『マッチ売りの話』+『passacaglia』新潟凱旋公演第1ラウンドの最終日、
変則日程の2017年2月20日(月)は珍しく雨。
それも強い風と合わさり、体感気温は相当に低く、
「これなら雪の方がまだまし」とは、人はまったく勝手なものです。

fullmoonさんのお陰で、思いがけず、この日の公演を観ることが出来ました。
一昨日の公演を観て、3回目で、ある程度すっきりするところまでいけたので、
この日は「理解したもの」に捕らわれずに
目に徹して観ようという思いを抱えて、スタジオBへ。

もともと多義的なものであり、固定化・安定化しようとする視線をかいくぐり、
常に逸脱していくベクトルとしての身体、
更に、「時間の芸術」(金森さん)としての舞踊。
意味などに拘泥せずとも、
否、理解したつもりでも、
それを超えた豊饒さで私たちを揺さぶってくるのが、
金森穣とNoismだった訳ですし。
そういった刺激に満ちている点では、
ゴダールの映画に似ているように思いますし、
個人的には、それに比肩しうるように感じられます。
決して大袈裟ではなく。

なんとか理解したくて、一生懸命に観て、
少し輪郭を捕まえられたかな、などと感じると、
今度は逆に、その輪郭に縛られてしまって、
もう自由に観ることは困難になってしまうもの。
意味に関しては、人はまったく不自由なものです。

でも、ゴダールも、Noismも、その懐は途轍もなく深いものがあります。
今回途中で、唐突に2度、耳に届く「Patience!」の言葉に、
意味を志向して、それなりに安心を得ようとするのではなく、
豊饒なるものの豊饒さを取り逃がさないよう、
まず「辛抱強く」目に徹せよ、という、
私たちに求められる「エチカ(倫理)」が谺していたように聞きました。

なんだか訳がわからなくなってしまいましたね。
簡単に言うと、「わからない」ことを恐れるな、ってことになりますかね。
そんな心構えを最初に教えてくれたのが、
私の場合、ゴダールでした。
そして今、Noismも。
もともと正解がある訳ではないので、
観たままでいい、と。
それでも充分に美しい、否、それだからこそ美しい。
更新され続け、誰も捕まえてなどおけない「刹那」の美におののき続けること。
まあ、そんなことになるでしょうか。

しかし、ゴダールも金森穣Noismも見終わると、
確実に自分のなかに新しい世界が広がっていて、
その若干の異物感と共に、
刺激に満ちた何物かとして怠惰なままではいられない
スイッチをいれてくる点まで同じなのです。厄介なことに。(笑)
(個人の感想です。(笑))

凱旋公演も、残すところ3回。
豊饒なるものに圧倒される経験をするために、是非スタジオBへ。 (shin)

マッチ+パッサ新潟凱旋公演第1ラウンド中日(なかび)を観ました

週末の2017年2月18日(土)、
新潟凱旋公演第1ラウンド中日(なかび)、
開演時刻の午後5時が近づくと、
あたかもそれは県外からのお客様への「礼儀」であるとでも言わんばかりに、
雪がちらつく新潟市。
誰も困りはしない程度に「情緒」としての雪〈天花〉を降らせてしまう
金森穣とNoismはやはり恐ろしいと思う。

『マッチ売りの話』+『passacaglia』、3回目の鑑賞。
イントロ部の精霊・井関さんは
NHKバレエの饗宴2015の『supernova』を思わせるような超越的な存在。

からの第1部、『マッチ売りの話』の具象世界へ暗転。
そこは西洋と日本が同居する時空。
表情を奪い、身体を際立たせ、それでいながらも様々な陰影を伝える仮面。

交錯する現在、過去、そして未来、
更には、あり得たかも知れないパラレルワールド、その一瞬の提示。

眼前で展開される加害と被害の混沌。
互いに指弾し、互いに指弾される怯える者たち。
安逸に、(不毛な)「夜のお茶」の作法に耽っていたというのに、
過去の、否、未来の侵犯により、しっぺ返しを受けて震える老夫婦。
そして封印していたはずの獣性の蘇り。
目を逸らしたままでいたかった過去。

今日のささやかな日常は何のうえに成り立っていたというのか。
蓋をして、無き者にしてしまいたかったというのに、
「忘れさせまいぞ」とばかり
蘇ってはのし掛かってくる、各人の存在の内側に折りたたまれたこの国の過去。

プログラムには「たとえその足跡が、
降り積もる天花(雪)によって
消え去ろうとも。」とあるものの、
それは、むしろ逆。
雪によってでも消し去ってしまいたい足跡ではなかったか。

今一度、プログラムに戻れば、そこに書き綴られた
「私たちは歩いて行かなければならない。
(信じ、)打ちのめされ、立ち上がっては過去を背負い、
一歩一歩大地を踏みしめるように、
歩いて行かねばならない」が、
それぞれに傷を負った9人によって
厚みをもって可視化されていきます。
並び立つ、諧謔と戦慄。

明転から、精霊・井関さんの導きで抽象舞踊の第2部『passacaglia』へ。
まずは、アウトフォーカスで互いを視認することなく
「コンタクト(接触)」という言葉では言い表せないほどの
驚異の濃密な絡みを見せる井関さんと中川さんのパートは福島さんの現代音楽。

次いで音楽がビーバーに変わると、
そこではコンタクトとリリースを繰り返す
デュエットを基本にしたユニゾンに一転。

しかしそれも束の間。
更に、再び、福島さんの現代音楽に転じると、
今度はコンタクトは極小に。

かように多彩な舞踊のボキャブラリーを見せつけて踊る10人の舞踊家。飛び散る汗。
プログラムにある通り、「信じ」て踊る、舞踊家の覚悟が身体から迸ります。

複雑を極める現代にあって、
複雑を複雑のままに提示することに誠実さを見出す今回の作品、
見事に構築された重層性には唸るより他ありません。

この新潟凱旋公演第1ラウンドは変則日程で、
日曜日が休演日。次の公演は月曜日となってます。
土日には都合がつかない方もご覧になるチャンスです。
金森さんとNoism1が現代に向き合い、
「劇場」から投げかける問いに挑んでみては如何でしょうか。

私も期せずして月曜日の公演に行ける幸運に恵まれました。
スタジオBでお会いしましょう。 (shin)

Noism1新作・第2クール2日目(1/28・SAT.)を観ました

1月28日(土)、fullmoonさんが投稿された前日の公演レポートを読んだことにより、
前週より更に進化・深化した舞台が観られることを確信しつつ、
期待を膨らませるだけ膨らませて、2度目のスタジオBへ。

期待は裏切られることはありません。
動きはこなれて、余裕が感じられる様子にブラッシュアップ。
まったく趣を異にする1部と2部とが、
より大きな統一体へと止揚(アウフヘーベン)されていく、
その醍醐味が今作の大きな魅力と言えるでしょう。
ですから、これも前日fullmoonさんが提起した問い、
「『精霊』のスカートのなかに何があるのか」
---私は第1部と第2部の作品世界全てをその裡に包含する衣裳とみます。
みなさんの目にはどう映りますか。
コメントなどでやりとりできたら楽しいですよね。

(この先、公演に関する個人的な印象を盛り込んだ書き方をしているため、
幾分か、公演内容に触れておりますことを書き添えておきます。
ご覧になりたくない方は、*****印より下まで、スクロールしてください。)

さて、第1部は『マッチ売りの話』、
幕開け前に私たちの耳に届く冷たい吹雪の音は
「初演直前の新潟で録音されたもの」(金森さん)なのだそうです。
前回、1/22の公演後のブログには「ごった煮」と書きましたが、
この日の印象はまったく別物で、
様々な時空、様々な立場にあるはずの9名が
まるでひとつの家族ででもあるかのように映りました。
一人ひとりは異なっているのにも拘わらずです。
哲学者ヴィトゲンシュタインが唱えた「家族的類似性」という概念が浮かびます。
完全に一致する共通点などはあり得ないものの、
様々な類似性が隙間なく重なりあい、交差しあって、
直接、間接に緩く繋がる「家族」という集合体にヒントを得た着想で、
家族のもつ「その家族らしさ」、というようなことになるでしょうか。

そんな観点から、この日、目に付いた細部。
「老夫婦」が冒頭に示す「夜のお茶」の「作法」は
「女」と「双子の弟」たちによって反復されますし、
「義父」が「少女」に加える「殴打」の主題は
「女」によって「双子の弟」たちに対して反復されます。
「老夫婦」は商品名「チャッカマン」で呼称されることの多い点火棒を用いますが、
「女」の方はマッチを用い、
「少女」との連続性を表象します。
そのように散りばめられた様々な細部が「家族的類似性」を色濃く表現していきます。
そしてそれは時代に翻弄されるよりなかった日本人の姿に重ね書きされているようでもあります。
「少女」が数度見せる涙を拭う仕草が胸に迫りました。

第2部は『passacaglia』、
まずはブルーグレーの照明の下、福島諭さんの現代音楽パート。
井関さんと中川さんは、ふたりなのか、それともひとりなのか。
私たちが目撃するのはついぞ目にしたことがない類いの
異なるふたつの身体が同化しては離れる驚きの光景。
「動きを微分化していくと、そのものには意味がない」(金森さん)のに、
10名の舞踊家の身体が、それを越えた何かを獲得していくパートです。

白い照明に切り替わると、一転、そこは情感たっぷりなビーバーの音楽。
ヴァイオリンによる旋律が美しい。
舞踊家も瞬時に典雅な風情を漂わせる、
ある種古典的な動きに切り替わり、ユニゾンで魅了します。
このパート、「その瞬間のエモーション」(金森さん)に目は射貫かれます。

ふたつのパート間の見事な往還が数回繰り返されるあいだ、
私たちは身じろぎもせず、固唾を呑んで、「ふたつの眼」に成り切るのみです。
その至福。まさに眼福です。

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言語化されざる動きがもたらす大いなる感動がここにはあります。
公演を重ねるなかで、「彼ら(=舞踊家)も何かを見出し、
私自身(=金森さん)も何かを見出す」のだそうです。
「(彼らが)今日見出したというところもあって、
面白いなぁと思って、
次はこんなことをやらせてみたいと思う」とは金森さん。
それらの言葉は、常に停滞することのないNoismらしさの、
その根幹をなすものを正確に言い表す言葉と言えるでしょう。

まだまだ先へ行く作品『マッチ売りの話』+『passacaglia』。
何度でも観たい舞台、
友人はそのあたりのことを「週末にNoismがある幸せ」と表現しました。
それを是非多くの方と一緒に体感していきたいと思います。

追記
今回のNoismTシャツ、各色とも良い感じですよ。
私はメンズLサイズのブラックとネイビーを買いました。
価格は2,800円(金文字入りピンクのレディースのみ3,000円)。
とてもクールでお勧めです。

更に、この日のアフタートーク、一番最後に、
金森さんが新潟のことを、
「人生の中で一番長く住んでいる場所。
街が変容していくのを目にし、友人ができ、
『ふるさと』と化していく過程を理屈抜きで感じている。
大切な場所である、既に」と語ってくれたことに、
胸が熱くなったことも書き添えておきたいと思います。 (shin)

Noism1新作、第1クール最終日(1/22・SUN.)そして活動支援懇親会

Noism1最新作の初演の幕があがった金曜日も、昨日の土曜日も、
雪が降るぞ、雪になるぞ、と思わせるだけ思わせておいて、
実際はさして降らずにきてましたが、
遂にこの日、雪片が落ちてきました。
しかし、湿り気の多さと、形状が無駄に大きいことから、
新潟県人なら誰しも「まあ、今は積もらない」と思える牡丹雪でしたが、
県外からいらした方々はさぞや心配だったことでしょう。
そんな『マッチ売りの話』+『passacaglia』第1クール最終日の日曜日、
スタジオBへ出掛けて来ました。

各種SNSで目にしていた、前日までの書き込みはどれも
感動の大きさを示していましたし、待ち遠しい思いに、期待は募る一方でした。
そして実際に目にしてみると、その複雑さに酔いしれる自分に気付くことになりました。

(このあと、個人的な印象を含めて、公演内容に若干触れています。
ご覧になりたくない方は、下のお料理とお酒の画像あたりまでスクロールしてください。)

開演。冒頭、一旦の闇を経た後、天井から光が落ちてくると、
舞台中央に、白と濃いグレーが彩なす、裾の長い衣裳に身を包む精霊・井関さん。
上から降り注ぐ照明は刻々明るさを変えていきます。
両の腕を持ち上げる、或いは下ろす、ゆっくりと。
ゆっくり体を捻ると、衣裳もゆっくり捻れる。ひと言、エレガントです。
1部と2部とを繋ぐこの象徴的なイントロ部を観るだけで
手もなくNoismの世界観に引き込まれてしまうはずです。

一転、「ごった煮」感のある第1部は
別役実『マッチ売りの少女』を下敷きにしたオリジナルの物語舞踊。
舞踊家の顔を覆う「仮面」が異なる時間の混在を可能にすると、
マッチとライターと商品名「チャッカマン」で知られる類いの点火棒の3種が、
20年後、そのまた20年後と20年間隔で隔てられた3つの時間を象徴しつつ、
物語が3つ同時に展開されていきます。
人間関係の把握はなかなか容易ではありません。
しかし、それは敢えて志向された複雑さなのであって、
何かが伝え切れずに複雑に見えてしまうのとは根本的に事情が異なります。
謎は謎のままで構わないのでしょう。
舞踊家が繰り出す身体表現を目で追うことで、
たとえ、整理がつかない部分が残ったにせよ、
全体の印象はさして違わないはず、
そう思わせるような第1部に見えました。

井関さんがひとりソロを踊る傍ら、
舞踊家たちの手で
セットが全て綺麗に片付けられてしまうと、
うって変わって抽象舞踊の第2部です。
まずは井関さんと中川さんが絡む、もぐる、捻れる、翻る、解け合う。
互いにアイコンタクトをとらないまま、アウトフォーカスで、
あんなになって、こんなになる福島諭作曲の音楽パート。
カウントの取りづらいシンセサイザー音楽のなか、
頭に浮かんだのは、なんと歌川国芳の浮世絵『みかけはこわいがとんだいいひとだ』。
(個人の感想です。(笑))
ふたつの身体が皮膚レベルで融合して、別のひとつの身体を獲得するかのようです。
アフタートークで金森さんは、このあたりのイメージを、
「雪が溶けて水になる」と表現されていましたので、相当開きがあるかも、ですけど。(汗)
ところが、音楽がビーバー作曲の「passacaglia」に切り替わると、
今度は西洋の「正統的な」舞踊に近付きます。男性5人・女性5人による群舞は圧倒的です。
その後も、福島パートとビーバー・パートが交互に現れ、
舞踊の「洋の東西」が10人の舞踊家の身体を介して
絡んで、もぐって、捻れて、翻って、解け合う印象です。
このスイッチの切り替えには相当な集中力が必要となるはずです。
言葉では表現できない領域を身体で可視化していきます。
観る者も置き換えるべき言葉など容易に見つけられたりはしません。
汗を迸らせながらの熱演にただただ圧倒されるのみです。

そして先日の金森さんの言葉の正しさを知ることになります。
曰く、「一度ではわからない」と。
この日は「1回目より、2回目の方がよくわかるのがNoism」とおっしゃっていた金森さん。
複雑で、到底一度では理解出来ませんでしたが、目は大いに堪能したと脳に伝えてきました。
この後も公演は続きます。
まだまだ変化、変貌を遂げていくこと必至の作品でもあり、目が離せません。
また観ます。まだ観ます。

終演後、アフタートークを挟んで、初めて活動支援懇親会に参加してきました。
金森さん・山田さんをはじめ、Noism1、Noism2のメンバーも全員加わり、
あちこちで、美味しいお寿司と飲み物を頂きながら、
色んな話が交わされた、とても楽しい約1時間でした。

 

画像は左、米粉のキャラメルレクチェロール、鴨スモークと柔肌ネギのピンチョス。
その右隣の静岡・土井酒造場の日本酒「開運」はSPACさんからの頂き物なのだそうです。
私はこちらのお酒を贅沢にも井関さんから封を切って頂いたうえ、
真っ先に、直々注いで頂き、たいへん美味しく頂戴しました。
口当たりが柔らかく、スッキリした甘さで飽きの来ない、いいお酒でした。

NoismサポーターズUnofficial同様、活動支援者にも加わってNoismを応援していきませんか。

さて、話は戻って、『マッチ売りの話』+『passacaglia』。
次の公演は今週末に3日間。
「わかるか、わからないか」はわかりませんが、
それは大した問題ではないようです。
観ることの魅力に溢れたスタジオ公演の会場でお会いしましょう。(shin)

Noism1最新作 プレス向け公開リハーサル&囲み取材に参加してきました

2017年1月12日(木)の新潟はNoism1新作チラシに2度言及されている「雪」の予報。
そして冬の仄暗さのなか、
あたかも天気予報が律儀に約束を履行しようとでもするかのように小雪がちらつく午後1時、
プレス向け公開リハーサル(スタジオB)とその後の囲み取材(練習室5)に参加してきました。

  

午後1時からのプレス向け公開リハーサルで見せて貰ったのは、
前回、本ブログで「まだ見ぬ第1部」と書いた、
近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』の一部でした。

どうやら日本であるらしい、古風な、しかし金色の卓袱台が鎮座する家の「内」と
これも古めかしい形状の街灯を付けた電信柱が屹立する「外」が同居し、
更に幾つかの時間が混在する、不可思議な時空間。

 

少女、女性、娼婦、おばあちゃん、双子、弟、遺影、犬・・・そして仮面・・・???
今回も目に飛び込んでくる情報量は多めで、同時に様々なことが起こっているようです。
アンデルセンの童話というよりも、別役実による同名の不条理劇的要素が濃厚に感じられました。

生来のぼんやりゆえ、「筋」らしきものは辿れませんでしたが、
「昭和」を思わせる、幾分か大袈裟で古臭い感じの音楽が流れるなか、
同シリーズの1作目『箱入り娘』同様に、
コミカルで、ユーモラスな動きが楽しい、
「見ることの愉悦」に溢れた第1部と言えるでしょう。

午後1時30分、公開リハーサルに続き、
場所を隣の練習室5に移して、金森さんの囲み取材が行われました。
交わされた質疑応答のなかから、今作鑑賞のヒントになりそうな
金森さんの言葉を要約して幾つかご紹介します。

「タイトルを『少女』ではなく『話』としたのは、
本作はアンデルセンと別役実を下敷きにしたオリジナル作品であって、
アンデルセンだと思ってこられると訳がわからなくなってしまうだろうから。」

「物語舞踊の第1部と抽象舞踊の第2部を、休憩を挟まず地続き(70分間)でお見せするのは、
多様な価値観が云々される現代、本来共存し得ないものを同時に受け入れ、
その共通項だったり、同時に見ることで何かを感じて欲しいという思いから。
是非混乱しよう。(笑) そしてその後で何を感じるか。
混乱しながら、これを読み解いて欲しい。」

「仮面の使用は一番最後にきたもの。
そう言えば『ホフマン物語』の仮面があるよね、と。
もう一個抽象化して、『私でもあり得る、あなたでもあり得る、誰でもあり得る私』へ飛躍させようと。
また、舞踊家にとって仮面を付けて踊るのは難しいことではあるが、欧州では誰もが通る必須の課程でもある。
私たちは普段いかに表情にごまかされているか。
それを封じて、舞踊家の身体的なものに置き換えたい。」

「見渡せば、あちらでもこちらでもポピュリズム(大衆迎合)が大手を振って罷り通っている。
そうした困難な時代に生きている私たち。この困難な時代に何を作るのか。
目指すのは、答えを出すことではなく、考えるきっかけを与えること。
何となく幸せな気分に浸っていたければ、劇場になんか来ない方が良い。(笑)
舞踊家集団として抱く疑問を提示していきたい。」等々。

最後は、金森さんの「俺が言うと、何か変だけど、今回は2回は観て欲しい。1回ではわからない。(笑)」
という言葉をもって、囲み取材は和やかな空気感のうちに閉じられました。

金森さんの「1回ではわからない」発言への対策のひとつとして、
明日夜19:00開催のリーディングイベント、
★★声に出して読む、不条理劇 別役実「マッチ売りの少女」★★ などは如何でしょうか。
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日時:2017年1月13日(金)19:00~21:00
会場:kaffa 蒼紫~パルム(新潟市中央区古町6、萬松堂向かいの小路を入った2階 電話025-228-2050)
定員:25名  参加費:1,000円(資料代&ワンドリンク代)
申込:「新潟でリーディングを楽しむ会」/電話・ショートメール090-8615-9942
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ナビゲーター・市川明美さん(月刊ウインド編集部 制作長)の手ほどきで予習すれば
心強いこと間違いありません。
期日が迫っておりますので、ご連絡はお早めに。

・・・こちら、私は残念ながらどうやっても参加できそうにない日程だったため、
代わりに、りゅーとぴあからの帰路、ほんぽーと新潟市立中央図書館に寄って、
別役実『マッチ売りの少女』を収めた『現代日本戯曲大系・7』(三一書房刊)を借りてきました。

いずれにしても、Noism1新作・近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』+『passacaglia』公開を来週末に控えて、
ワクワクが募って仕方ありません。
今は一刻も早く「混乱したい」気持ちです。(笑)
皆さん、是非、一緒に金森さんの企てで「混乱」しましょう!(笑)

(shin)
(撮影:aqua)

Noism1新作の公開リハーサルに行ってきました!

皆様、新年明けましておめでとうございます。
今年も本ブログを何卒宜しくお願い申し上げます。

ということで、雪のない2017年1月8日(日)、
三連休中日の午後、りゅーとぴあのスタジオBに、
来週末に公開が迫ったNoism1の新作・近代童話劇シリーズvol.2
『マッチ売りの話』+『passacaglia』の公開リハーサルを観に行ってきました。

新潟市はこの日が成人式。
百貨店などは春のSALE期間中だったりもしたうえ、
様々なイヴェントも重なり、街や道路、駐車場も大混雑。
そんななか、スタジオBのホワイエには、新作公開を待ちわびる
あの人の顔や、この人の顔が続々集ってきます。
なかには「この1時間のために」はるばる群馬からお越しになられた男性もおられ、
切望する気持ちを共通項として繋がりが拡がっていくことに、
改めてNoismの凄さを実感する思いがしました。
新年の挨拶を交わし、近況をやりとりしながら入場を待ちます。

午後3時、既に階段状の客席が組まれたスタジオBへ。
金森さんのご挨拶に引き続き、第2部『passacaglia』のリハーサルを一部見せて頂きました。

そもそも「passacaglia」って何?---から始まる、私と同様の方もいらっしゃるかもなので、
仄聞したところを紹介しますと、「もとはスペイン語の『歩く』と『通り』に由来する言葉。
17世紀のスペインやイタリアで流行した舞曲で、バロック期に純器楽曲として様式化された
遅い3拍子の連続的変奏曲」とか。
音楽的には「繰り返しの切れ目は不分明で、音楽が途切れなく流れていく」のが特徴らしいです。
「常に動いていく」感じでしょうか。
新たなメンバーも加わり、女性5名、男性5名のNoism1による第2部。
そんなイメージをもって眺めていても、概ね間違いではなさそうな舞踊と言えるでしょう。

「最近は『物語』よりも『動き』を求める声もあったし」とは金森さん。
第1部のあとに、20分間動き続ける第2部、舞踊家にとっても相当な運動量です。
キツイはずです。一本通した後の皆さんも随分呼吸が荒くなっておられたようです。

そんな第2部のリハーサル。
直しの様子も見学した後、金森さんから「皆さん、どうでしたか?」と振られると、
「久し振りに穣さんの『グニャグニャ』が観れて嬉しかった」の感想は
サポーターズ事務局のfullmoonさん。
すると、金森さんも「そうですね。『グニャグニャ』ですね。」
続けて、「今回は、複雑な構造を単純に見せるのではなく、
複雑なものを複雑に見せることがテーマ」とおっしゃられていたことをご紹介しておきます。
第2部は、「グニャグニャ」と「Noismならではの複雑な動き」がキーワードでしょうか。
絡まり合う10人の身体が目を奪います。

これにまだ見ぬ第1部を加えて、刺激に富んだ舞台の幕があがるのは1月20日(金)。
照明と衣裳が加わることで、更に凄みを増すNoism1新作『マッチ売りの話』+『passacaglia』、
チケット絶賛発売中です。既に完売の公演もございます。お早めにお買い求めください。
期待感を大いに膨らませて、是非、スタジオBでお会いしましょう。 (shin)

Noism2定期公演、好評のうちに全5公演の幕おりる

楽日の日曜日、最終17時からの公演を観るために、穏やかだった前日とはうって変わって、冷たい風雨のなか、師走の混雑した道路をりゅーとぴあへと向かいました。

まずは『火の鳥』。今回、ダブルキャストのこの演目は、この日、前日とは異なるキャストで、「少年」に門山楓さんが、「火の鳥」に西岡ひなのさんが配役されていました。土日を続けて観たので、ダブルキャストのどちらも観ることができ、それぞれに持ち味の異なる『火の鳥』を堪能できたのはラッキーでした。
金森さんが5年前にNoism2のために振り付けたこの名作レパートリーは、微塵も「けれん」がなく、キャストが変わろうと常に瑞々しく、これまでも、これからも、変わることなく、舞踊に邁進する若手舞踊家の行く手を照らし、手を引き、或いは背中を押すものと言えます。若々しい身体で描かれていくのは、理想、懊悩、死、嗚咽、慟哭、そして再生、超克、ニーチェ的「超人」。「限界のない豊穣なる身体」(金森さん)に向き合う彼ら(正確には「彼女ら」)の将来に栄えあれという思いで見詰めていました。

続けて、山田さんの新作『ÉTUDE』。こちらもさながら「女子校のよう」(山田さん)な若きメンバーたちへの愛に溢れた美しい逸品。白い衣裳に身を包み、直線的な動きを見せる8人の女性舞踊家はまるで凛として風にそよぐ8輪の「百合」。
幕開けは、こぼれ落ちんばかりに蕾をふくらませ、これから咲き誇らんとする手前の、若さが眩しい人生の一時期。志を同じくする者たちが明瞭なピアノのリズムに合わせて繰り広げるユニゾンは、憧れ、友情、信頼、切磋琢磨、はたまた葛藤、挫折と励まし、あるいは決意や勇気。それらは全て青春期の可視化。微かな「禁断の香り」も漂わせつつ、ただひたすらに美しい。しかし、その時間も端から永劫ではあり得ず、終焉は突然に訪れる類いのもの。音は途切れ、個々に、自らのなかに「音」を探さねばならない季節の到来。それぞれ無音の格闘ののち、やがて聞こえてくる微けき旋律、それは既に青春期あるいはÉTUDE(練習曲)の終わり。ピアノに一輪ずつ感謝の白い花を手向け、代わりに、ほの紅く発光する生命の玉を掌中に収めての巣立ち。優しい眼差しで人生の前半期を俯瞰するかのような成長譚は余韻も格別です。

今このときに踊るべき題材の、贅沢なダブルビル公演。『火の鳥』同様、『ÉTUDE』もレパートリー化されて欲しいと思いました。3日間で5公演はかなり大変だったはずですが、アフタートークの冒頭、金森さんと山田さんの口から「やり切ったね」という言葉が出たことで、メンバーの疲れも吹き飛んだのではないでしょうか。

金森さんと山田さんが言葉を選びながら丁寧に話してくれたアフタートークも含めて、本当に素敵な時間でした。満たされた思いでりゅーとぴあを後にするときには雨も上がっていました。
次は新年、「けれんみたっぷり」(金森さん)のNoism1のスタジオ公演。期待は募りますが、それまでのしばしのお別れ。またりゅーとぴあでお会いしましょう。  (shin)

Noism0『愛と精霊の家』、「reunion(再会)」に心酔

昨年初秋の新潟、一夜限りで上演されたNoism0『愛と精霊の家』が、第23回BeSeTo演劇祭・新潟における日本からの演目として、2016年10月7日(金)新潟・りゅーとぴあ劇場の舞台に戻ってきました。再演、そして或いは「reunion(再会)」。

日に日に秋の気配が濃くなる新潟、開演時間前のホワイエには遠方からのお客様も多かったと見え、あちらこちらで、久し振りの再会に驚き、笑顔を浮かべて喜び合う姿が見られました。—–「再会」。Noismが紡ぐ縁は見事に「劇場」の役割を具現化していて、その場に身を置くだけで既に幸福感に満たされるようでした。

そして開演、赤と黒と椅子と白いトルソー。瞬間の暗転ののち、そこに舞踊家と俳優の姿を嘘のように目にしてしまえば、たちどころに心を鷲づかみにされ、虜になるより他ありません。
13ヶ月前のあの一夜の「幻」が再び降臨してきます。あとは酔いしれるだけで充分。なにしろこれは「約束された幸福」に過ぎないのです。

あたかも碁盤の目のように、天井一面に方形を描いて吊された夥しい数のペンダントライトは、全体として見事な均整がとれているばかりか、ひとつひとつが切っ先を下にしたその鋭利なプロポーションで豪華さと同時にある種の不吉さをも醸し出します。その下で、網膜に長く残像を残す金森さんのダンスに圧倒され、奥野さんのイヨネスコ『椅子』からの台詞にいつともどことも知れない時空に誘い出され、振り付け家・山田さんパートのミラー/ハーフミラーで繰り広げられる夢幻に浸り、下りてきたペンダントライトに檻のように囲まれるなか、小㞍さんとの間に純粋な愛と悲しみを可視化されては、心はもう大忙し。観る者は徹頭徹尾翻弄されっ放しな訳です。そして「無垢」という言葉が似つかわしい風情で、強ばりなく、人形、舞踊家、妻、母になれない女を完璧に踊り倒す井関さんからは、4人のパートナーへの強い信頼が、リスペクトが溢れていました。

椅子が想起させずにはおかない「存在」と「不在」を介して、ラストの「Under the marron tree」へ。 机と椅子と赤と黒、そして金。4人の男たちの追憶、井関さんが右手の人差し指で表す数字「1」への憧憬。まったくもって豪華な締め括りです。瞬きするのさえ惜しい、まさに心酔の60分間でした。アフタートークで「今日は本当に気持ちよかった」と語った井関さん。舞台上で私たちが目にしたものもまさしく演者の「reunion」の果実であったのでしょう。

終演後も、立ち去りがたく感じたお客様が大勢いらっしゃいました。私たちも同様。次なるNoism公演での「reunion」を約して漸く帰路につけたような塩梅です。
この二日後には、来年1月からのNoism1の新作・近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』+『passacaglia』(タイトル仮)の稽古が始まるとのことでしたし、12月には、Noism2定期公演『火の鳥』(金森さん振付・再演)と『ÉTUDE』(山田さん振付・新作)の同時上演も控えています。また、会場でお会いしましょう。   (shin)

ツアー最終地、静岡公演初日を観てきました

2016年7月23日(土)、思ったほどの気温上昇もなく、曇天。
朝、新潟を出て、新幹線を乗り継ぎ、東静岡駅を目指したのですが、途中、分厚い雲がたちこめていて、残念なことに富士山の姿を拝むことはできませんでした。

静岡入りしてからはまず、Noismメンバーたちが食べていたハンバーグに舌鼓を打ち、夕方17時半過ぎに、目的地・静岡芸術劇場に到着しました。東静岡駅に向けて示すグランシップの威容に圧倒されながら、反対側にある入り口へ。受け付けや案内などをSPACの俳優の方々が担当しているなかに、新潟のNoismスタッフの姿を見つけ、やがて新潟から駆けつけたサポーターの方々と合流して話しをしながら、客席開場を待ちました。

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静岡芸術劇場はこじんまりとしていながら、アールが印象的な円柱に似た作り。開場時間になると、客席への入り口に立った小柄な芸術総監督の宮城聰さんに挨拶しながら入場するお客様が多くいらっしゃることに、「ここはあなたの劇場」を肌で感じることができました。「奥野さん、貴島さん、たきいさん、おかえりなさい」という思いの方々も多かったことでしょう。

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予定の開演時間18時半を少し過ぎていたでしょうか。静かに緞帳が上がると、鈍い銀色の慰霊碑、そして老いたムラカミの姿。ツアー最終地・静岡公演初日の舞台が始まりました。舞台を「額縁」のように区切る構造物を「プロセニアムアーチ」と呼ぶのだそうですが、こちらの舞台にはそれがないため、臨場感も格別です。いきなりムラカミの回想のなかに投げ込まれでもしたかのようでした。

恐らく、日頃からこちらでSPACの演劇をご覧になられているお客様の目には「劇的舞踊」の「舞踊」部分が、逆に、この舞台、この客席でNoismを観ようと臨まれたお客様の目には「劇的」部分が際立つ、そんな劇場と観客の構図だったのではないでしょうか。どちらにとっても新鮮な視覚体験だった筈です。

1ヶ月にも及ぶツアーも最終盤ということで、錬磨に錬磨を重ねた表現は身体化の度を深めていて、そんな俳優と舞踊家が拮抗する舞台は、「劇的舞踊」ならではの濃密な刹那の連鎖として観る者を揺さぶっていきます。

ここを「自分の劇場」とする豊かさを知る客席から、1幕では「壺の踊り」の終わりに、2幕では「影の王国」の終わりに、それぞれ大きな拍手が湧き上がりました。その拍手の極めて自然な様子に、SPAC18年の活動が達成した「結実」の一端を見る思いがしました。こうした劇場があり、こうした観客がいることは、両者にとって幸福な状況であるのは間違いないことでしょう。それこそ金森さんが常々口にされる「劇場文化」なのであり、他方、奇しくも、この日配布された公演プログラムが、他会場で渡される通常プログラムとは異なる、SPAC独自制作のもので、そのタイトルとして刷られた「4文字」もまさしく『劇場文化』なのでした。そんな同じ射程で営まれる劇場を有するふたつの祝福された土地、ここ静岡と新潟。贅沢なことです。
(なお、SPAC独自プログラムには、文芸評論家で舞踊研究家・三浦雅士さんによる劇評も掲載されていて、とても参考になります。こちらで読むことができます。http://spac.or.jp/culture/)  

話しをこの日の舞台に戻します。この日、「壺の踊り」や「影の王国」を超えて、私の目に強烈なインパクトを残したのは、ラストの結婚式の場面、上からの白い照明を浴びつつ、両眼を覆って立つ亡霊・井関さんのその立ち姿の強靭さでした。まるで見るのを拒絶することで、続くカタストロフィを引き起こしでもしたかのようです。そしてひとり、混乱に背を向けて舞台奥に去っていく・・・。そんな印象で振り返ってみると、舞台全体がまた別の遠近法で描かれたものに変貌していきます。

終演後、SPAC劇場総監督の宮城聰さんと金森さんが登壇したアフタートークでも、同じものを見つめて活動してきたおふたりであればこそ理解し合える先駆者の胸の内から話が始まりました。
クリエーションの過程で抽象化作業を通過することは観客の想像力を刺激することに繋がり、とても重要だとする点で認識の一致を見るおふたり。
「劇的舞踊」に関して、俳優と舞踊家、異なる身体表現者をその専門領域で対峙させることへの金森さんの飽くことなき意欲。
「物語」は普遍性を持ち得るが、ともすると、演者が「物語」のための絵の具や道具に成り下がってしまう危険性を孕むため、演じるカンパニーの力が問われるという宮城さんの指摘、等々。
本当に興味深い話ばかりだったのですが、なんと言っても、圧巻だったのは、宮城さんが携えて登壇していた平田オリザさん執筆の脚本から、その一部を紹介してくれたことではなかったかと思います。例として皇女フイシェンとミランふたりの場面を取り上げながら、平田さんによって書き込まれたミランの台詞を読み上げ、クリエーションの様子について訊ねると、金森さんからは、舞踊においては音楽が台詞なのであり、書かれた台詞を説明する必要性は感じなかったこと、ただ平田さんが何を思っているのか知りたかったので書いて貰った旨の答えがあり、創作過程の背景を少しだけ垣間見ることができました。

帰りの新幹線の時間を気にしつつ、ギリギリ粘って、なんとかおふたりのお話を聞き届けて、慌ただしく小走りで劇場出口に向かうと、既にそこには着替えを済ませた奥野さん、貴島さん、そしてアフタートークを終えたばかりの宮城さんまでもが挨拶に立たれていて、観客と時間を共有しながら「劇場文化」を育もうとする静岡芸術劇場の立ち位置が窺え、温かい思いを胸に会場を後にしました。

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さまざまな見方ができるこの豊かな舞台『ラ・バヤデール −幻の国』も、鳥取公演を別にすれば、静岡での千秋楽を残すのみとなりました。俳優と舞踊家、それぞれの身体が際立つ熱い舞台は生涯に渡る感動をもたらしてくれることでしょう。まだご覧になられていない方はこの機会をお見逃しなく。   (shin)