Noism1メンバー出演! 好天に恵まれたUTOPIAファッションショー第2弾♪

11月24日(日)14時/17時半、新潟市関屋浜 Sea Point NIIGATAで開催された、UTOPIA2020春夏コレクション。

この時期の新潟の海っていつもなら。。。。。

【寒くて荒れている(?)】というイメージなのですが、この日は晴れて暖かく波も穏やか、気温は22度越え!

私は17時半の回に行きましたが、ホントに春夏の陽気で、夜になっても寒くない♪

14時の回はさぞ海がきれいだったことでしょう。

17時頃の海はうっすらと明るく、薄闇の中、会場付近にキャンドルがた~くさん灯っていて、すごくきれいでした(キャンドルは夜だけのお楽しみ)♪

靴を脱いで会場に入ると、通路を挟んで左右に部屋があり、右側は椅子席、左は床席です。通路には階段があります。左右の部屋を行き来してショーが進められるようです。階段や遮蔽物があるため、反対側の部屋の様子はほぼ見えません。

「汽船去る波打ち際」と題されたショー。春夏の海風に吹かれて船中の物語が始まります。

時間になると明りが落ち、照明は青い暗いライトに。夜の海でしょうか。薄暗闇の中、通路の奥からチャーリー・リャンさんと池ヶ谷奏さんが静かに登場し、左右の部屋へ分かれます。聞えてくる音楽はエリック・サティのジムノペティ。置いてあったトランクを持ち、二人は部屋を入れ替わり、トランクを枕にしてしばし横になり瞑想。ほどなくして場内は明るくなり音楽も変わり、池ヶ谷さんとリャンさんは左右の部屋でそれぞれ踊ります。池ヶ谷さんは、紺色の亀田縞のシャツ・パンツですが、半袖シャツの袖部分~背中の一部は五泉ニットのレースが使われています。お米ボタン。池ヶ谷さんは髪を一部赤く染めていてとてもきれいです。リャンさんは亀田縞生成りボーダーの上下です。

そのあと、ジョフォア・ポブラヴスキーさん(生成り上下 一部水色ボーダー、パンツの一部が小千谷縮みか)、井本星那さん(生成り上下、ノースリーブの上に羽織っているのが袖なしの小千谷縮み)、鳥羽絢美さん(黄色の五泉ニット上下、スカートはニットレース)が登場します。

メンバー5名が左右の部屋でそれぞれソロを踊ったので、見ているこちらは大満足♪

井本さん、鳥羽さんはUTOPIAラベルの袋に入ったえびせんをカモメにあげる仕草をしたり自分も食べたり、観客とも少し絡みます。二人ともとてもきれいでかわいらしかったです♪

ジョフォアさんは左の部屋でしばらく横になって、鳥羽さん、井本さんを眺めていたようですが、いよいよ踊り始めると、何か苦しいような、奇妙な動きの踊りを見せてくれました。存在感がありました。

そして、踊りの合間には数人のモデルさんたちが登場して、コレクションを披露します。そのモデルの一人に、なんと新メンバーのタイロン・ロビンソンさんが! 亀田縞の上下、紺色の長めの上着を羽織って、素敵ないでたちでした。

「旅する衣」をイメージしたUTOPIAファッション。今回は陸を離れ海へ。そして次の陸地へ。船に乗り込む人たち。それぞれの気持ちや思いを持って船の中の時間を一人で過ごし、また、他の人たちとも関わります。出会いと別れ。そんな想像や妄想が容易に膨らむ、踊りとファッションで綴る夢のような物語。

最後のシーンは、宴が終わったような静けさの中、再びのジムノペティ。最初と同じ青い暗い照明の中、池ヶ谷さんと(おそらく向こう側はチャーリーさん)がトランクを枕に横になり瞑想しています。

出演したNoism1メンバー5名

会場設定がぴったりでした。

前回の「オドルフク」に続き、大盛況、大成功おめでとうございます!

スタッフが大勢いました。その一人として、西澤麻耶さんもお手伝いしていたので付け加えておきますね♪

また次回、とても楽しみです。

(fullmoon)

新潟日報「窓」欄掲載『ノイズム追い掛ける幸せ』(+鳥取行・補遺)

本日(2019/11/23・日)の新潟日報朝刊「窓」欄に、Noism1『Mirroring Memories -それは尊き光のごとく』鳥取公演を観に行った際の思い出を綴った拙文を掲載していただきました。(因みに投稿時の原題は『ノイズム追いかけ、車で鳥取』。)鳥取での画像ともどもアップ致します。お目汚しかと存じますが、お読みいただければ幸いです。

また、こちら(11/10の記事)もどうぞ併せてお読みください。

素ラーメン(スラーメン)その1
(武蔵屋食堂)
素ラーメン(スラーメン)その2
(居酒屋・小次郎)
名物(とうふちくわ、砂たまご)
と地ビールの夜
すげ笠御膳(鹿野町・夢こみち)
足湯付きバス停♪
(鹿野町・国民宿舎「山紫苑」前)
公演時間までゆったり過ごしたが、
バス停ながら時計は止まったまま…(汗)
バス停付き足湯なのか?(笑)

今は鳥取駅の反対側に
スタバもできてましたけど、
「鳥取」ゆえに先ずはこちらへ(笑)
「砂場」ならぬ砂丘、風紋、足跡、影…

今は「よく行ってこられたなぁ」とも思いますが、ハンドルを握っている間は不思議にハイテンションで、「なんとかなっちゃった」感じです。Noismを観るためならどこまでも運転できるのか、私?(←本当か?(笑))

極私的なゆる~い記事になりました。最後までお付き合いいただき、有難うございました。m(_ _)m

(shin)

和気藹々、全員が喜色満面の井関さんお誕生会(さわさわ会懇親会)♪

今回で6回目となる井関さんのお誕生会(さわさわ会懇親会)が2019年11月16日(土)、新潟市中央区・燕三条イタイリアンBitを会場に開かれました。出席者は井関さんと金森さんを含めて26名。今年も美味しいお料理を囲みながら、和気藹々、笑顔と歓談する楽し気な声がいつ果てることなく続く、それはそれは楽しい宴となりました。

殊に今年はNoism継続問題も片付き、同時にNoism0が始動するなど、嬉しいニュースも重なり、参加された皆さんは一人残らず、喜色満面。心置きなく、お祝いモード全開といった風情でした。

外は雨がそぼ降る新潟市でしたが、この店内は別世界。年に一回、今年も井関さんのお誕生日をお祝いしながら、全員が幸福感に満たされるという贅沢で、得難い時間を過ごしました。

予定時間を延長したお祝い会の最後は、井関さん、金森さんを交えての大撮影大会。おふたりとフレームに納まるのはどれもいい笑顔ばかりでした。「いいな♪」と思われた向きは是非ともさわさわ会にご入会いただき、来年のこの会にご一緒しませんか。素敵な時間が過ごせること請け合いですよ。

(shin)

秋の鳥取・BeSeTo演劇祭/鳥の演劇祭の『Mirroring Memories』(2019 ver.)初日

2019年11月9日(土)の鳥取県は鹿野町・旧小鷲河小学校体育館。鳥取市から鳥取自動車道道を使っておよそ30分。例年ならこの時期、鮮やかな紅葉に囲まれているのだろう山あいの水辺。はるばる新潟から訪れて、観てきました『Mirroring Memories ––それは尊き光のごとく』(2019 ver.)、第26回BeSeTo演劇祭/第12回鳥の演劇祭での初日公演。

個人的には、さして旅好きという訳でもないので、Noismを観ていなかったら、恐らく生涯、足を運ぶこともなかっただろう地、鳥取。更に今年9月に富山県の利賀村に一念発起してシアター・オリンピックスを観に行く選択をしていなかったら、縁遠いままであっただろう地、鳥取。それが、「行ってみるのも面白いじゃない」と考えてしまえるようになり、公演前日の早朝、車で新潟を発ち、約10時間のドライヴで鳥取入りをするなど、以前の私からは考えられないことでした。鳥取に着いてみると晴天で、まだ日も高かったので、小学校の教科書で見た知識の持ち合わせしかなかった鳥取砂丘を訪れ、雲ひとつない青空の下、一足毎、靴が砂に埋まるさえ厭わず、敢えて急峻な斜面を選び、無駄にダッシュで上り下りして、足は上がらないは、息は切れるは、思う存分に「砂丘」を体感する機会を得たのでした。長々と余談でした。スミマセン。

そして迎えた鳥取公演初日、天気予報では下り坂の雨予報。それも公演時間帯あたりが「雨」とのこと。天気を心配しながら、お昼時分に鹿野町に移動してみると、やはり、少しして天気雨に。やがてやや大粒の降りに変わりましたが、さして長く、さしてたくさん降ることもなく上がり、気温が一気に下がることもないまま夕刻を迎えられたのはラッキーでした。

開場直前の様子

午後4時過ぎ、今回の会場となる、かつての小学校体育館脇で料金2500円を払って受付。同じく新潟から駆け付けた顔や、Noismを介して知り合った遠方の友人の顔。そして旧メンバーの浅海さんとご家族。途端にアウェイ感が薄らぐとともに、「いよいよだな」という気分になってきます。

午後5時を告げるサイレンと音楽が山々に谺し、程なくスタッフの指示で入場。正面奥にミラー。その手前、床に敷かれたリノリウムが一番低く、それを階段状に設えられた仮設の客席から見る按配です。満員の客席。私たち知人グループは運良く揃って最前列に腰掛けることが出来ました。そちら、背もたれがないのはいつものこと。演者を間近から見上げることになる席です。そして体育館の床ですから、ただの板張りとは異なります。床下はスプリング構造になっているため、演者が起こした振動が足裏から直に伝わり、こちらの体も共振するような感覚を覚えました。

私をして鳥取まで足を運ばせたもの、それは、2日間限りのキャストを観たいがため。浅海さん、中川さん、シャンユーさん、西岡さんがいなくなり、メンバーが変わって、どんなキャストで、どんな肌合いに仕上がっているのか見逃せないという気持ちからでした。

〈キャストその1〉
〈キャストその2〉

まず、「彼と彼女」、人形(彼女)は西澤真耶さん。白塗りの顔は可愛らしい西洋のお人形さんそのもの、ぴったりの配役に映りました。黒衣のひとりには初登場のスティーヴン・クィルダンさん。彼は続けて、「病んだ医者と貞操な娼婦」と、更に「生贄」「群れ」でも黒衣で踊り、「拭えぬ原罪」からの『Schmerzen(痛み)』において仮面を外して初めて顔認識に至ったのですが、異国の地でのカンパニーに充分溶け込み、違和感はありませんでした。

浅海さん役を引き継ぐのはやはり鳥羽絢美さんです。「アントニアの病」「シーン9–家族」、そしてラストの少女役、どれも彼女らしい弾むようなリズム感を堪能しました。

西岡さんが演じた「Contrapunctus–対位法」を踊ったのは井本星那さん。かつて少年らしく映っていた役どころでしたが、井本さんの持ち味から、女性らしさが拡がっていたように思いました。

中川さんの後を継ぐのは誰か、それが今回の一番の関心事だったと言えます。まずは、「シーン9–家族」の「P」役はNoism2の坪田光さん。当初キャスティングされていたメンバー(タイロンさん)が怪我のため、急遽、抜擢されてのデビュー、頑張っていたと思います。

そして、「ミランの幻影」におけるバートル。中川さんからシャンユーさんへ渡されたバトンを今回託されたのは、チャーリー・リャンさん。共通するのはどこかフェミニンな雰囲気を滲ませる存在感でしょうか。井関さんとの切なく華麗なデュエットですから緊張感も半端なかったでしょうが、若々しいバートルを見せてくれました。

その他、キャストに異同のない部分はどっしり安定のパフォーマンスを楽しみましたし、何度も繰り返し観てきた演目でしたが、このキャストを見詰めるなかで、部分部分に様々な感じ方が生じてくることに面白さを感じる1時間強でした。

終演。緞帳はありません。顕わしになったままのミラーを背に全員が並ぶと、会場から大きな拍手が送られ、2度の「カーテンコール」。山陰のNoismにお客さんはみんな大満足だったようです。

その後、BeSeTo演劇祭日本委員会代表/鳥の劇場芸術監督の中島諒人さんと、簡単に汗仕舞いをしたばかりの金森さんによる短めのアフタートークがあり、中島さんの質問に金森さんが答えるかたちで進められました。

質問はまず、上演作の経緯から始まり、恩師ベジャールとの関係などが紹介されていきました。そのなかで、中島さんがタイトルの日本語訳はどうなるか訊ねると、金森さんは構成のプロセスとも重なるとしながら、「乱反射する記憶」と訳出してくれました。

「劇場専属舞踊団」を糸口にしたやりとりの過程で、金森さんはNoismを「プライベートなカンパニーではない」とし、金森さんに依存せず、次代に引き継ぐ長期的なヴィジョンを口にされ、「新しいかたち、どういったかたちで持続可能なのか、我々に課せられた課題である」と語りました。

場内が笑いとともに沸き立ったのは、話がNoism存続問題に及び、市民への還元が課題とされる状況に関して、中島さんが敢えて「不本意?」と本音に切り込んだ時でした。一切動ぜぬ金森さんはすかさず「それは日本のなかで専属舞踊団を抱えることの現実であり、後世に残るモデルケースを築いていくべく3年間頑張る」と、ここでも新生Noismを感じさせる前向きな姿勢で後ろ向きな心配をシャットアウトした際の清々しさと言ったらありませんでした。その返答を聞いた中島さんも「コミュニティと関わる面白くてクリエイティヴな還元方法を発明すること。アーティストとして見つけることもある」と即座に同じ方向に目をやって応じ、トークは閉じられていきました。

会場から外に出ても、闇が迫る旧校庭にはたちずさむ人たちの多いこと。山陰のNoismが多くの人を魅了したことは言うまでもありません。その場に居合わせることが出来て嬉しく思いました。

(shin)

「私がダンスを始めた頃」⑫ タイロン・ロビンソン

私は常にヒップホップやR&Bが聞こえてくる家庭で育ちました。そうした環境だったからこそリズムや動きに対する興味が芽生えたのだと思います。もしあなたもその場にいたら、いつだって若い日の私がリビングでパフォーマンスに興じていたり、乗り気でない友人たち主演のダンス作品を作っていたりするのを目にすることができたことでしょう。

様々な趣味やスポーツにトライしてきましたが、どれも本当に私の興味を刺激してはくれませんでした。10歳の時、母が初めて私をダンスクラスに連れて行ってくれて、動きに対するこの興味の探究を後押ししてくれるまでは。私は自分が夢中になれる居場所を見つけたのですが、そこからが私の才能と技術への挑戦でした。そこは創造的で、自由であることを求められる場所でした。

私は高校に通っている間もダンスを続けました。私が通っていたのはダンス専門の高校で、そこで初めてコンテンポラリーダンスと出会いました。私はアブストラクト(抽象的)なコンテンポラリーダンスに夢中になり、この魅力的な分野の研究を始めました。他の生徒たちが綺麗な動きやターンの数に執心しているあいだ、私はと言うと、自らの体を地面に投げ出して踊るダンサーのビデオに畏敬の念を抱き、振付における静止の美を見出していました。

ダンスに対する愛と才能はあったと思いますが、それでも私は一度たりともキャリアを考える選択肢として捉えたことはありませんでした。もともと私は建築家になりたかったのです。しかし、不運にも、学校での私の成績ではそれが叶うことは考えられないことでした。私は決して学力のある生徒ではありませんでしたし、単位を落としたことで、最終学年を前にして高校を辞めることになってしまったのです。しかし、ひとりのとても協力的なダンスの先生の励ましと手助けのお陰で、ダンスを学べる大学に進学できました。それは一般的な教育システムによらない道でしたが、従来のシステムには生徒たちがその真の知性や可能性を証明するのに適さない部分もあると身をもって示すことになったと思います。

私はWestern Australian Academy of Performing Arts(WAAPA:西オーストラリア・パフォーミングアート・アカデミー)で学び始めて、学ぶことに対するより強い喜びとともに、歴史におけるダンスの影響と身体に興味を抱きました。また、そこで、他のアーティストとの親密な関係を育み、周囲をインスパイアする助言者から学び、そしてパフォーミングアーツを職業にする可能性を見出すことが出来ました。2011年にダンスの学士号(BA)を取得して卒業すると、私はすぐにオーストラリア国内でフリーランスのダンス/パフォーマンスのアーティストとして様々なダンスの仕事を手に入れ、プロとしての人生を歩み出したのです。

プロとしてのキャリアを始めて間もなく、実演家であるよりも振付家であることに興味を抱いている自分に気付き、実演よりも振付の努力にフォーカスし始めました。しかし、じきにクリエイションの壁にぶち当たることになりました。充分な経験を持たないことは創作のビジョンを形にしようともがくことを意味したのです。振付家として成功するために、振付家としては勿論、ダンサーとも変わらぬくらいにアクティヴである必要がある、そう判断したのでした。振付の方法論の抽斗(ひきだし)を豊かにするために他の振付家とともに働いて、彼らから学びながら。

まだ「若い」アーティストと言ってよい年齢にある私は、世代も人種も社会的な背景も異にする様々なアーティストたちの振付のプロセスを掘り下げ、研究を続けています。特にアーティスト同士であるなら、私たちはお互いから学び合うものはたくさんあると思います。そして私が得た知識が他者をインスパイアする芸術創造に役立つことを願うものです。

(日本語訳:shin)

以下はタイロンさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Tyrone Robinson

I grew up in a household where the presence of hip-hop and R&B music could always be heard. I suppose this is where my interest in rhythm and movement began. You could always find a young me preforming in the living room, and directing choreographed dance pieces staring my reluctant friends.

I had tried different hobbies and sports but none ever really sparked my interest. It wasn’t until my mother encouraged me to explore this interest in movement by taking me to my first dance class at the age of ten. I had found a place that catered to my love of attention but still challenged my abilities. It was a space to be creative, it was a space to be free.

I continued dance throughout high school, where I attended a specialist dance high school. This was my first contact with contemporary dance. I had become enamoured with contemporary & abstract dance, and began doing my own research into this fascinating sector of the dance world. While other students were obsessing over pretty movements and how many turns they could do, I was in awe of the videos of dancers throwing themselves at the ground and finding the beauty of stillness in choreography.

Although I had the love and talent for dance I still never thought of it as being an eligible option for a career. I had originally wanted to be an architect, unfortunately my grades in school were never going to allow that to happen. I had never really been an academically strong student, and with failing grades I dropped out of high school before my final year. But with the encouragement and help from one of my very supportive dance teachers, I found myself in University studying dance; circumventing the educational system, and proving that most archaic educational systems do not allow students to show their true intelligence and prove their potential.

I began to study at the Western Academy of Performing Arts, finding a renewed joy for learning and an interest in the effects of dance on history and the body. It was there where I fostered close relationships with other artists, learnt from inspiring mentors and discovered the possibility of a career in the performing arts. I graduated with a Bachelor of Arts in 2011 and began my professional life immediately, securing various dance jobs as a freelance dance/performance artist, in Australia.

It didn’t take long after beginning my professional career, that I realised I had more interest in being a choreographer than a performer. I began to focus more on choreographic endeavours, and less on performing. Yet early on I found myself hitting creative walls, and not having enough experience meant that I struggled to see my creative visions come to fruition. I decided that in order for me to be a successful choreographer I needed to stay as active as a dancer as I am a choreographer; working with and learning from different choreographers to build my arsenal of choreographic methods.

At an age where I would still consider myself to be a “young” artist, I continue my research, delving into the choreographic processes of different artists of various generational, racial and social backgrounds. I believe we have a lot to learn from each other especially as artists, and I hope the knowledge I gain will help me create art that inspires others.

(1992年オーストラリア生まれ)

*2020年8月退団

何回も見なければいけない『マッチ売りの話』+『passacaglia』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第31号(2017年5月

 Noismが《近代童話劇シリーズ》の第二作『マッチ売りの話』を『passacaglia』と共に初演した。2017年1月20日に本拠地りゅーとぴあのスタジオBで初日の幕を開け、2月9日からは、彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演した。新潟に戻っての再上演の後にはルーマニア公演の予定もある。日本における創作バレエの初演としては、異例の上演回数だ。

 『マッチ売りの話』も金森穣の演出・振付を、井関佐和子らNoism1の主力メンバーが踊る中編だった。アンデルセンの童話と別役実が1966年に早稲田小劇場のために書き岸田国士戯曲賞を受賞した不条理劇『マッチ売りの少女』の両方が、金森の舞踊台本の背景となっていた。

 《近代童話劇シリーズ》は、第一作の『箱入り娘』もそうだったが、子どもに語って聞かせるとすぐに理解してもらえる童話の舞踊化である『眠れる森の美女』『シンデレラ』『白雪姫』『オンディーヌ』などのようには出来ていない。『マッチ売りの話』も別役の不条理テイストで濃厚に色づけされていた。論理的に説明したり理解したりしにくい状況の中で、登場人物が意味不明に近い出会いや動きを繰り返した。公演パンフレットに書かれた配役(それぞれの年齢が細かく指定されている)の横に「疑問符の相関性」という但し書きがあり、そこに「少女は老人夫婦の孫である?」「少女は女の20年前の姿である?」「女は娼婦の20年後の姿?」などの「問いかけ」が列記されている。これを読むと、舞台上で演じられている出来事の不可解さがいっそう増すことになる。

 ストーリーの展開がよく理解できる舞台や小説が、じつは何が起こるか先のことは何も判らない世の中の現実と似ても似つかない絵空事であることを、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やイヨネスコの『犀』、別役実の諸作品に接してしまった私たちは知っている。それを舞踊でやっているのが金森穣の《近代童話劇シリーズ》なのだ。

 まず巨大なスカートの上から客席を見下ろす精霊(井関佐和子)の姿を見せる。次いで出演者全員が面をかぶり、凝った作りの衣裳をまとって細かくからだをふるわせたりする動きを見せ、個々の人物を表す。そこで提示されたドラマの断片のひとつひとつは、踊りとして緻密に仕上げられていた。「童話」のバレエ化だったら、かわいそうな少女に焦点があたるはずなのだが、いくら待ってもそのようなことにはならなかった。

 精霊が登場して、舞台に置かれた装置を片づけるように次々と指示を与えると、舞台上はきれいさっぱり。ダンサーたちも面を外し衣裳を変え、抽象的な動きによる『passacaglia』を踊る。前半のドラマの断片を連ねたような『マッチ売りの話』とはまったく別の世界が広がった。観客は、ここで初めて「舞踊」を見たという安心感に浸ることができたのではないだろうか。それと同時に前半の舞台の不条理性への理解が心の中にじわじわと広がってくることを感じたに違いない。

 しかし一回見ただけでは、この実感を素直に受け入れる心境にはなかなかなれないことも事実。『ゴドーを待ちながら』は、何度も見ているうちに、だんだん何事も起こらない舞台を平気で見て、楽しめるようになる。『マッチ売りの話』+『passacaglia』では、それと同じような或る種の「慣れ」が必要だ。何回も何回も見るうちに、不条理な現実世界に立ち向かえる勇気が身内に湧き起こってくると思う。

サポーターズ会報第31号より

(彩の国さいたま芸術劇場小ホール)

井関佐和子が踊った『Liebestod-愛の死』

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第32号(2017年12月)

 2017年5月26日にりゅーとぴあで初演された金森穣の新作『Liebestod-愛の死』を、6月2日に彩の国さいたま芸術劇場で見た。これはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』をベースにして創られた、男女二人だけの踊りだ。井関佐和子と吉﨑裕哉が踊った。金森はこのデュエットが『トリスタンとイゾルデ』の舞踊化であるとは言っていない。しかし見る側が、ワーグナーの音楽を聞いてかってに想像をふくらませることを予測して振付けたに違いないと私は思った。

 妖しい「トリスタン和音」が彩の国さいたま芸術劇場の大空間に響き渡る。タッパの高い舞台の背後には、滑らかで重厚な質感の幕が丈高く吊られている。この幕が物語の展開に重要な役割を果たす。舞台には、コーンウォールを治めるマルケ王に嫁ぐために船に乗るアイルランドの王女イゾルデの姿があった。王の甥であるトリスタンが彼女の警固役としてつき従っているのだが、この二人は恋に落ちてしまう。イゾルデは、トリスタンと共に死ぬことを決意して、侍女に毒薬を持ってくることを命ずる。ところが侍女の持ってきたのは「愛の薬」だった。船がコーンウォールに着くまでに、二人の愛はいっそう深まっていた。

 マルケ王に嫁いだイゾルデのところへ、王が狩に出た隙をねらってトリスタンが忍んでくる。イゾルデと愛を語り合うところへ王が……。王の忠臣メロートがトリスタンに斬りかかる。トリスタンは自ら刀を落とし、メロートに斬られる。このあたりはほとんどトリスタンひとりの演技で処理されている。瀕死のトリスタンは背景の幕の下に転がされ消えて行く。

 残されたイゾルデの嘆きの踊りとなる。井関が背後に高く吊られた幕を手でたたき、幕を波打たせると悲しみの輪が幾重にも広がり、それが嘆きの感情を表した。イゾルデが前に進み出て死の決意を示す。その直後に背後の幕が落ちて彼女の姿を覆い隠す。その幕の下で二人が立ち上がる気配があり、あの世での愛の成就を暗示して作品は終わる。井関の渾身の演技が深く心に残った。

 かつては、すべての振付者がバレリーナのことを目立たせるために、あれこれと演出を考え奉仕するのが常だった。しかし、しだいに振付者の地位が高まり、作品の創造ということに舞台の重点が移ってきた。それに伴って、近年ではバレリーナの方が振付者のためにがんばることが普通になっている。

 井関の踊る金森作品を私はずっと見てきたが、常に井関は金森の作品の完成のために力のすべてを注ぎ込んでいた。彼女は自身の舞踊生活について「Noism井関佐和子 未知なる道」という本(2014年・平凡社刊)を出しているが、その中でも金森の作品のためにどうしたら役に立てるかということを、繰り返し書いている。例えば「舞台の上では“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“カルメン”を見せたい」というように……。

 しかし『Liebestod-愛の死』における金森は、バレリーナ井関佐和子をまず観客にアピールすることを第一と考えて作品に取り組んでいたと私は思う。井関の方は今までと変わらず“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“イゾルデ”を見せようとがんばっていた。その結果は、バレリーナと振付者の力が合体して1+1=2以上の大きな結果をもたらすことになった。

 金森が、この作品を『トリスタンとイゾルデ』のバレエ化だと言わなかったのは、井関が“井関佐和子”のままで踊ることを望んでいたからではないか。全体の構成、細部の振付も、イゾルデの感情描写にウエイトをかける一方、トリスタンの方は背景と一体化して見せるという、明らかに均衡を失した配分がなされていた。『Liebestod-愛の死』は、井関佐和子のイゾルデでしか見てはいけない愛のデュエットだったのだ。

サポーターズ会報第32号より

(2017年6月2日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

「世界に繋がる新潟のシンボルでありたい」(金森さん@BSN「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」)

この度の台風19号の被害に遭われた方々に対し、改めまして心よりお見舞い申し上げます。

(新潟日報10/19朝刊・テレビ欄より)

さて、先週の放送予定が延期となったBSNテレビのゆうなびスペシャル「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」が、この日(10/19・土)放送されました。ご覧になられましたか。新潟県外の方にも放送内容をお知らせしたいと思い、かいつまんでレポートいたします。

「30分番組」は、9月の活動更新記者会見の模様から始まりました。『Fratres I』と『Mirroring Memories』からの場面が続き、5月の『カルメン』モスクワ公演の様子が流され、芸術性の高さが伝えられる一方、「地方の現実」として、税金を投入する以上、地域への貢献が求められる事情が示されました。相克、或いは止揚。Noismの存在をめぐって、「新潟は何を問われたのか」との番組テーマが掲げられます。

「りゅーとぴあ」: 市民活動は勿論、3部門(音楽・演劇・舞踊)を核に創造型事業を展開。市からの事業費補助は、Noismを含む舞踊部門に約5,000万円、音楽部門・演劇部門他に約1億4,400万円。(いずれも年間平均)

金森さん「東京の公演を買ってくることがメインの劇場文化は『中央集権』を助長するだけ。劇場は本来、文化による『地方分権』を成立させ得る拠点」 → 篠田昭前市長は「新潟から世界に発信していく」ビジョンに惹かれて惚れ込んだと話し、2004年、公共劇場がプロのダンスカンパニーを抱えるという国内初めての取り組みが始まった経緯を説明。しかし、前例のない挑戦を待ち受けていた厳しい現実。例えば、「時間と場所」。「Noismに独占されては困る」など、契約更新のたびに難題に直面してきた。「劇場はプロが作品をつくる場所」とする金森さん。生じる摩擦。舞踊団と行政とが互いに妥協点を見出しながら積み重ねてきた15年。

*ワレリー・シャドリンさん(チェーホフ国際演劇祭ゼネラルディレクター:5月に『カルメン』を招聘) 「日本の若い世代の演出家の中で金森さんほど才能がある人を私は知りません」 → 終了後、早速、次回(2021年)の出演を依頼。しかし、継続問題の渦中にあるため、返答できず。

*篠山紀信さん(写真家:Noismの15年間を撮り続ける) 「(『Fratres I』を評して)金森さん独特のストイシズム。そのことの感動だね」「金森さんがここ(新潟市)に来て、本当に良かったと思う。これ以上の待遇はなかっただろう。新潟の宝物だと思う、本当に」

*篠田昭前市長 「全国に『りゅーとぴあ』を知らしめているものは何かと言えば、そのほとんどがNoismの活動によるもの」 しかし、…

  • 昨年11月の市長交代期を挟み、基金の減少など厳しい財政状況を背景に、中原八一新市長が様々な事業の見直しを表明。=「Noism活動継続問題」
  • 6月の新潟市議会:Noismの活動継続を疑問視する声があがる。「存在すら知らない市民もいる」
  • 7月、市民有志が市長に活動継続の要望書を提出。
  • 同7月、文化政策の専門家を構成員とする「劇場専属舞踊団検証会議」が初めて開かれる。市の税金で支えていくことの意味が議論される。
  • 8月末、契約更新に向けた市の意向が金森さんに伝えられる。(地域貢献活動を含む6つの課題を提示し、改善への取り組みを条件とする。)

Noismの海外公演: これまで15年間で11か国、22都市、58公演。「欧米に敵うんだ。欧米の人が『すげぇ!』って言うものを創れる。しかも、中央からじゃなく、地方から。それが我々のやっていること」(金森さん)

「地域貢献」か「世界と繋がる芸術の創造」か。地方は芸術にどう関わっていくべきなのか。相克、否、止揚。

ひとつの答えを導き出した場所:富山県南砺市利賀村。1976年、主宰する劇団ごと東京から移転してきた演出家・鈴木忠志さんは、過疎の村を「演劇の聖地」に育て上げた。現在、村や県のみならず、国、政治・経済界を巻き込む支援を得ている。世界と繋がる芸術に地域が価値を見出し、共に歩む。活動の集大成とも言える国際演劇祭「シアター・オリンピックス」は、人口500人に届かない村に国内外から2万人を集める。

*鈴木忠志さんは「支援への還元」に関して、「本当の芸術活動、優れた芸術家は人類の財産になることを目指す。地域の利益のためにやっていたら利益誘導にしかならない」とし、金森さんについても「芸術的には今の日本で大変優れた仕事をしている。応援しなければいけない」と話し、地域全体で取り組むことの重要性を強調。

平田オリザさん(劇作家・演出家)「Noismの活動の価値は圧倒的なものがある。それをどう生かすかは新潟市の側の問題」

金森さんは「世界に繋がる新潟のシンボルでありたい。自分たちのこの街が世界と繋がっている。特に若い子たちはどんな仕事を志すにしろ、世界に対して広い視野を持って貰いたい。経済的に大変であっても、人や心の部分、文化の部分では国際的であって欲しい。自分はそのために呼ばれたと思っているからね」とあくまでもこの街(新潟市)に思いを馳せ、未来を見据えて語りました。

番組ラストのナレーションは「日本でただひとつの劇場専属舞踊団を抱くこの街は、何を目指し、どこへ向かうのか」 金森さんが唱えるブレることのない「劇場100年構想」を想起してみるなら、その答えは明白でしょう。私たち一人ひとりの豊かな人生、それを措いて他に何があるというのでしょう。

皆さんはどうご覧になりましたか。そして、拙いレポートではありますが、ご覧になれなかった方に内容の一端でもお届けできていたら幸いです。

(shin)

活動期間更新記者会見について、みたびの新潟日報「窓」

本日(10/12)の新潟日報「窓」欄に、過日の活動期間更新記者会見に臨んだ印象を綴る拙稿「『ノイズム第2章』に期待」を掲載していただきました。折しも、BSNゆうなびスペシャルで「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」(17:00~)が放送される朝。

あの日、テレビや新聞では伝わり難かった「会見場」の雰囲気、その一端でもご紹介したいと考え、書いたものでした。真新しい内容ではありませんが、お読みいただけましたら幸いです。 

上で触れました本夕放送のBSNゆうなびスペシャルにつきましては、こちらも新潟日報から。

(新潟日報10/10朝刊より)
(朝日新聞10/12朝刊・テレビ欄より)

併せまして、よろしければ、こちら9/27の記事(金森さん「このタイミングでこのような体制で挑めることに感謝」(9/27記者会見))もご再読ください。

(shin)

【追記】「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」は台風の影響から、この日は放送されず、一週間後に日を改めて放送されました。こちら10/19のレポートをご覧ください。

白鳥は何を夢見る

Noism1 『NINA』 『The Dream of the Swan』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第33号(2018年4月)

 Noism1の埼玉公演で『NINA』を見た。この作品は、2005年の初演から金森穣の代表作と云われ、国内外で数多く上演されてきた。私は、これを見るのが初めてだったので、期待して客席についた。

 ところが幕があいて最初の作品は、井関佐和子の踊る金森の最新作『The Dream of the Swan』だった。舞台にはベッドが置かれ、そこに井関がひとり寝ているという意外なシチュエーションに、心が揺れた。病院でよく見るようなベッドの上には、室内灯がさがり、やや狭い空間の印象。どう見てもバレリーナが寝ている優雅な部屋とは思えない。そこでの井関の動きは、寝ていることの苦しさから、なんとか脱出しようといった「もがき」から始まった。細かな動きを積み重ね、ついにベッドの外へ。彼女の動きはますます加速され、ついには狂おしいまでに高調し、ベッドの周辺にまで広がったが、それはすべて 夢の中のことなのだ。すべては、バレリーナを夢見る少女の生態の精密な描写だった(もしかすると怪我で動けないダンサーの・・・)。井関の迫真の演技が、見る者の心を鋭くえぐった。しかしそこに描かれていたのは、どこかにはなやかささえ感じさせる、よくある普通の情景だった。

 バレリーナが踊るソロ作品は、意外なことにほとんど無い。アンナ・パヴロワが踊ったフォーキンの名作『瀕死の白鳥』ぐらいしか思い出せない。バレエの世界で女性がソロを踊る時には、グラン・パ・ド・ドゥのバリエーションが選ばれることが多い。そんなバレエ界に出現した『The Dream of the Swan』は今後たびたび見たい作品のひとつになる可能性を秘めている。

 『NINA-物質化する生け贄』は今から10年以上前に発表された人工の知能を備えたロボットの反乱を描いたようにも見える問題作だ。冒頭の大音響で観客を別の世界へ隔離して、以後の衝撃的な展開を語りつぐ。その前に『The Dream of the Swan』を置いて、異界への転異の衝撃を和らげた金森の配慮には意味があった。今後、このふたつの作品は同時に上演されるようになるのかもしれない。

 初めて見た『NINA』は、期待通りのインパクトのある作品だった。Noism1のダンサーたちの、感情を交えない動きの不気味な展開は、我々の生きる未来の風景だった。彼らの好演を恐々見終わった後、『The Dream of the Swan』の人間感情の横溢するどこか危うい世界をもう一度懐かしく思い出すことになった。

サポーターズ会報第33号より

(2018年2月18日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)