新潟から届いた箱の中に入っていた心のときめき

Noism1:実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』を見る

山野博大(舞踊評論家)

 新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ専属舞踊団Noismが吉祥寺シアターで公演を行い、金森穣の新作、実験舞踊『R.O.O.M.』と『鏡の中の鏡』を上演した。舞台には長方形の巨大な箱が置かれていた。内部には、銀色の正方形のパネルが上から奥、そして両サイドまでぴたりと張り巡らされていて、客席側の紗幕(実際には紗幕は無いが)から、奥に広がる何もない空間が見えた。日本の能、歌舞伎、日本舞踊などの世界には、黒衣(くろこ)とか、後見(こうけん)と呼ばれる舞台で演技者を助ける役割の者が存在し、それを「見えないもの」とする約束事がある。それと同様に、そこに紗幕がなかったとしたら…。ダンサーたちは、完全に密閉された箱の中で踊り、それを見る人は誰もいないという状況が出現しているのではないか。金森穣は、そんな設定で実験舞踊を創ったのだという想いが頭をよぎった。

『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信

 突然、カミ手寄りの天井のパネルが開き、男性ダンサーの下半身が現れるという思いがけない成り行きで『R.O.O.M.』は始まった。男性5人が次々と落ちてきた。彼らは特に何かを表現するということもなく、ただただ力一杯に動き回った。次いでトゥシューズの女性ダンサー6人がやはり上部のパネルのあちこちに開いた穴から登場し、バレエのステップを粛々と展開した。井関佐和子のソロがあり、次いで、はじめに登場した男性5人のひとり、ジョフォア・ポプラヴスキーとのデュエットになった。デュエットでは男女のさまざまな心理的変化が描かれることが多いのだが、このふたりはむしろそれを排除して踊っているように見えた。さらに男女12人のダンスが続き、箱のそこここにぽっかりと開く穴からダンサーたちが忙しく出入りした。最高潮で暗転となり、全員が現れて前にずらりと横一列に並んだ。これはどう見てもカーテンコールの風景だ。ひとしきり動いて次々に退場。最後に井関が中央奥の穴から退いて作品は終った。劇場の黒い幕が降りて長方形の巨大な箱を隠すと、劇場空間の舞台と客席を分かつ基本構造のからくりが、精密に仕組まれたダンスの紡ぎ出す人間の感情を抑えた『R.O.O.M.』のドライな触感の余韻と共に、にわかに明らかになった。

 舞台と客席を幕で仕切った劇場という空間は、よく考えてみるとおかしな場所だと思う。舞台の上で繰り広げられる出来事とまったく関係のない人間がそこにつめかけ、一喜一憂するのだ。演出家をはじめとする多くの人たちが寄り集まって、客席との一線を意識させないようにいろいろと工夫を凝らし、観客の心を舞台の上で進行している出来事に取り込もうと手を尽くす。そのおかげで、観客は、普通ではなかなか体験できないような不思議な世界に遊ぶことができる。そんな劇場という空間の基本的な仕組みを、金森穣は観客に思い出させた。

 次の『鏡の中の鏡』の幕が開くと、金森が中央に座り、カミ手後方に等身大の鏡がはめこまれている空間が見えた。密封された箱の中という状況は同様だった。金森が力強く動いては、時おり鏡に自身のからだを写した。しばらくして、その鏡に井関佐和子の姿がダブって写った。鏡は半透明になっており、その背後のものに光をあてると、それが同時に写るように仕組まれている。暗転後、パ・ド・ドゥとなった。人間的な感情の交換がたっぷりとあり『R.O.O.M.』のデュエットとの対比は明らかだった。しばし踊った後、二人ははなれたところに座り、もう動こうとしなかった。金森がわずかに動いたところで暗くなり、そのまま『鏡の中の鏡』は終わった。

『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信
『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信
『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信

 新潟から届いた巨大な箱の中に入っていた、人間的な感情の交換を徹底的に排除した『R.O.O.M.』と情感たっぷりの『鏡の中の鏡』の対比が心に残った。金森穣が設定した外から見ることができないはずの空間での実験に立ち会った私は、劇場の持つ意味を改めて確認し、「見られないはずのものを見せてもらった」ひそかな心のときめきを覚えつつ劇場を後にした。
(2019年2月21日/吉祥寺シアター所見)

「新潟から届いた箱の中に入っていた心のときめき」への2件のフィードバック

  1. 「劇場」という魅惑的な虚構の装置への目配り。言われてみて、改めて、その一端を僅かながら共有させていただきました。
    今回、山野さんが敢えて「紗幕あり」とした舞台と客席の境界。舞台にとっての「正面」性。まさに仰る通りで、「開口部あり」と捉えてはいけないのですね。その文意に沿って、不遜を顧みずに踏み込むなら、「紗幕」でもなく、他の5面と同様に無数の正方形から構成される鈍い銀色の「壁」がなければならない箇所だと気付かせられました。
    そういえば、井関さんとジョフォアさんのデュエットにおいて、(ジョフォアさんのユーモラスな腰つきとともに、)なんら目新しくもないパントマイムが幾分誇張気味に「壁」の存在を示していたことも思い出されます。
    では、私たちはどこにいて、どこからあの矩形の内部を見ていたのでしょうか。
    例えば、それは「吉祥寺シアター」の「D列6番」などと座標的に定まる「席」などからでは断じてないとしなければ、「劇場」という虚構の装置に身を置く醍醐味も半減しようというものです。
    その意味からも、やはりあの境界には「紗幕」が掛かっていたり、他と同じ「壁」が屹立していたりして、理念上、「不可視」であるという暗黙の了解がなければならない訳です。しかし、その「不可視」を見せてくれる「劇場」という虚構の装置と、それを見詰めることからくる根源的な興奮。(或いは「たじろぎ」などと言い換えることすら出来るのかもしれませんが。)そこに打ち震えた感性、それを言語化することで、あの傑出した舞台を通して、私たちを「劇場とは何か」の再考へと誘う文章だと感じました。
    (shin)

  2. 山野さんは、「紗幕」と表記したところは「開口部」ではなく実は「壁」である、と直観されたのでしょうね。
    そして、それを裏付けるshinさんのコメント!
    見えるモノから見えないモノを感じ取る、見る者の目線と感覚の鋭敏さに驚きます。
    そして、それは作品の強度があればこそ!
    創る者、見る者、見られる者、そして「劇場」の奥深さ、全てに改めて感嘆!!
    (fullmoon)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA