2024年5月26日(日)、少し汗ばむ陽気だった新潟市。随分、日も高くなった日曜日の夕方、4時半から、りゅーとぴあ〈能楽堂〉にて、「医師」で医学博士である稲葉敏郎さんをお迎えしての「柳都会」を聴いてきました。
―模索する。新しい社会の一環としてのあり方。
Noism Web Site より
東京大学医学部附属病院を経て、医療の多様性と調和への土壌づくりのため、西洋医学だけではない幅広い医療を修めている医師で医学博士の稲葉俊郎氏。在宅医療や山岳医療にも従事しながら、東北芸術工科大学客員教授でもあり、2020年からは山形ビエンナーレの芸術監督を務めています。アートや日本文化の能など、あらゆる分野との接点を探っている稲葉氏は、芸術と医療には強いつながりがあるといいます。医師として芸術を通して人間の健康をどう捉えているのか。新しい社会の一環としての医療のあり方を模索しています。
医療と舞踊、分野は異なるも互いに身体の専門家である2人が芸術に、社会に、どう向き合おうとするのか、じっくり語り合います。
主に稲葉敏郎さんのこれまでの足跡を中心に、稲葉さんが感じてきた医療と芸術の関わりについてのやりとりに耳を傾けた90分間でした。その医療と芸術、恐らく一般的にはかなり縁遠そうにも感じられるものかと思われますが、稲葉さんのお話をお聴きしていると、必ずしもそうではないばかりか、すぐれた芸術が有する力の大きさに目から鱗が落ちる思いがしました。そのあたり、詳細にお伝えするには全く力不足ではありますが、以下に、かいつまんでお知らせしたいと思います。
熊本は水俣出身(1979年生まれ)
*水俣病とは何か?ハンセン病患者の日本初の救済施設、本妙寺。山岳宗教・修験道で知られる金峰山、そして宮本武蔵がその『五輪の書』を書いたことで知られる洞窟。祖父のシベリア抑留生活等々、敢えて語られなかった生命の繋がりを思う現在。敬愛する横尾忠則氏によれば、「全ては幼少期にある」。それをなぞって生きている。
*肩書き的には現在、「慶應義塾大学システムデザイン・マネジメント研究科特任教授」と語る稲葉敏郎さん。祖父の代から三代の医者だったが、約20年に及んだ「医師をこの春、一回辞めてみた」のだそう。「結構な決断でしたね」と金森さん。そのいきさつを問うと、「やり尽くすと手放したくなる性分で」と稲葉さん。更に「凝り性で、心臓の治療など追求してきたが、『ちょっと違うなぁ』という感覚があった」とのこと。本質的な医療とは?そのフィールドに山岳医療・在宅医療。伝統医療・民間医療も含まれる稲葉さんが感じた「違和感」は東日本大震災で大きなものに。
能を学ぶ
*南相馬市でのボランティアの最中、海にむかって鎮魂の声を届ける能楽師に出会ったのをきっかけに能を学び始める。感じた能の凄さ、深さ。医学は生きている者の都合で構成されているのに対して、死の世界に入っていって戻ってくる能。また、実演における身体の使い方や所作には昔の人の身体に対する深い知恵が感じられる。
*「論理に落とし込めない、一子相伝的な部分が大きく、継承していくことの難しさはよりハードルが上がっている」と金森さんが言えば、稲葉さんも「師匠との1対1の稽古は、指図されることはなく、真似していけばいい。それが時にひとつに重なったりもするが、何が違っているのかわかり難かった。いつ終わるのかもわからず、『何となく今終わったんだな』とか、謎に耐える力が必要とされる学習法は新鮮だった」と。
ミクロとマクロを繋ぐ
*ウィルス:0.1マイクロメートル →[10の7乗]→ 人体:1メートル →[10の7乗]→ 地球の直径 の気付き。
*[他力]・病:Diease(現代医療)と[自力]・健康:Health Harmony(伝統医療)の対比。
*古代ギリシャのエピダウロス(世界遺産): 医神アスクレピオスの生誕地にして、自然・芸術・温泉・眠りの場を備えた古代遺跡。熟睡と夢による癒し、救い。眠りこそが自分自身であり、生命の居場所。覚醒しているときには社会的な役割を演じている。それをうまく繋ぐのが医療の役割。
*[内界(生命界・睡眠・死)]と[外界(社会・意識・生)]という異なる原理の世界を繋ぐことが重要。そしてそこに医術と芸術の接点を見る。やがて、医療の制約のために、芸術の文脈の方が近いのかなと…そう語った稲葉さん。
芸術祭という「場」:山形ビエンナーレの芸術監督に
*感じてきた医療の限界について、医療の世界の人々に向けて書いた筈の本が、意外にもアーティストやミュージシャンと呼ばれる人たちからの反響が大きかった。山形市から声がかかり、引き受けた芸術監督。コロナ禍の真っ只中ではあったが、人間は分断されると病んでいくという確信があり、「対話の場」をつくろうとオンライン実施の方向で。
*行政レベルでは、「何故やらなければならいのか」「何が必要なのか」を言語化して伝えるある種のロジックが、そして熱意や熱量が必要。AIからは熱量は感じられない。棲み分けが必要か。AIや人工的なコンテンツの前に、「皮膚レベル」の感覚や空間の共有といったものも「冬の時代」のプロセスにあり、一回、「アイデンティティ・クライシス」を経由する必要があるかもしれない。今は過渡期。「ごちゃまぜ」の時代がきている。
*AIは表層的。しかし、「その程度でいい人たちはその程度でいい」。それが「9割」の人たちでマジョリティ。フェイクが跋扈する現代。それを「1割」の本物志向の人たちがくいとどめる必要がある。本当の真実とは何か?人間が人間である以上、掘っていけば辿り着ける。深いところに潜っていくと、より強い生命エネルギーの恩恵を受けられる。それが作品の強度となって、広く観客に届く。より深いところで作られた創造物は人とより深いところで繋がれる。
*「騙される人」の特徴:フェイクばかりに触れている。本物を見ればよい。
*生きている私たちのなかには、(死んでいない限り、)マグマみたいな生命エネルギーがある。それは私たちの中にしかないもの。しかし、それが遮断されてしまっている場合、それを繋ぐのが医療の役割。そしてそうした問題を抱えているとは見做されない、クリティカル・ポイントを迎える前の人への対応としては、「本物」を届けること。それは医療ではなく、芸術・文化の働き。よい芸術・音楽・文化に触れれば、「大惨事」にはならないで済む。
*言葉は薬にもなる。「その意味ではSNS社会は相当にヤバイ」と金森さん。罵詈雑言や呪詛が溢れかえっている。「AIに学習させるそんなデータベース自体に既にバイアスがある訳で」(金森さん)→言葉を見詰める必要がある。AIも結局は人間が問われている。人間が人間であることを取り戻さなければ、AIに駆逐されてしまうことに。
*コロナ禍も落ち着き、温泉場を利用した開催も。それはエピダウロスの例もあり、目指していたもの。
*湯治場: 誰でも意識と無意識のあわいになれる場。芸術・音楽を体験する場。
*道 ~身心と日本の伝統~: 日本では身体と心の知恵は全て芸能のなかにある。
「縦糸と横糸」:横尾忠則『原郷の森』(文藝春秋社・2022年)から
*「縦糸が芸術だとすると、横糸が礼節だ。その二つの交点に霊性が宿る。地上的な作品を作りたければ無礼でいいだろうが、天に評価される作品を創造したければそこに霊性が宿らなければならない」 (…三島由紀夫の言葉とのことです。)
Noismについて
*自分も長い間、公務員だったが、大変だと思う。公務員的な人たちのなか、道路や水道ほかの社会的なインフラのひとつとして芸術がある。「果敢に挑戦している。頼みの綱。何とか乗り切って貰いたい。生命を支える社会的な基盤。わかる人にはわかる。
*「若い人からも挑戦する人が出てきて欲しい。今やっている穣さんが言うと嫌らしいから(笑)、私たち(=今日来ている、「コスパが悪い(笑)」にも拘らず、劇場に通う「稀有な」人たち)みたいな人がやるべきことかと」(稲葉さん)
…長年にわたる医療的な見地を踏まえ、生命エネルギーを活性化させるものとして、すぐれた芸術の力を捉える稲葉敏郎さん。「9割」と「1割」に拘りを見せる金森さんと重ねたやりとりには、「何故、劇場へ行ってまで時間を費やす『コスパ』度外視の振る舞いによって人は元気になるのか」その理由が解き明かされていくような感覚を覚えました。
医療という縁遠いフィールドから、この日、私のコスモロジーに入ってきた「マレビト」によって、劇場の真理が露呈されていく時間を楽しみました。そんな一端でもお伝えできていたなら、嬉しく思います。以上、「柳都会」報告でした。
(shin)