2023年7月23日(日)、暑い日が続く文月下旬、日曜日の夕方、スタジオBを会場にNoism地域活動部門芸術監督・山田勇気さんが初めてホストを務めるかたちで開催された「柳都会」vol.27を聴いてきました。
山田さんの「柳都会」デビューとなる今回のゲストは栗川治さん(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程ほか)。視覚障がいを持つ栗川さんは、2019年から続く「視覚障がい者のためのからだワークショップ」に初回から参加し、山田さんと共に、同ワークショップの充実・発展に多大な寄与をしながら、普通に、一観客として、本番の公演にも足を運ばれておられます。
栗川さんには、いったいどんな世界が「みえている」のか。打合せ、メール、ワークショップ、公演を通して重ねてきたやり取りを手掛かりに、参加者の皆さんとも一緒に身体や芸術についてイメージを膨らませ、思索を深めます。
Noism Web Site より
申し込みの動きも早く、定員に達して迎えたこの日の会場。参加者は全員、おふたりによる大いに刺激的な対談を堪能しました。
障がいのある人も障がいのない人と同様に、普通の生活を送るべきであり、双方、社会生活を共にするべきとする「ノーマライゼイション(Normalization)」の考え方に基づいた社会参加を行い、サッカー観戦などにも出向く栗川さん。観客4万人のビッグスワンでは、ゴールを外したときや決めたときをはじめ、その場の雰囲気、臨場感に、「見えていないんだけど、その場に身を置いているだけで楽しい」と語り、聞いているし、感じているし、「見ている」だけではない(視覚優位ではない)「五感で開く可能性」に関して、「視覚障がい者のためのからだワークショップ」のこれまでを紹介することを中心に、山田さんと示唆に富む対談を聞かせてくれました。ここでは、かいつまんでそのやりとりのご紹介を試みようと思います。
(1)ワークショップ1回目(2019年12月18日): 手のひら合わせ→相手を感じて動く/踊りになっていく
・この時期は、Noism存続問題で大変だった時期と重なり、一層の地域貢献が求められていた。
・サッカー観戦と異なり、声を出せない劇場の性格から、いきなりの舞踊鑑賞は課題も多い。互いに理解し合う必要があった。
・栗川さん「実際に舞踊家の身体に触ってみてくださいと言われ、全身を触りまくった」
・山田さん「手が求めている。手が目である。触りにきているその勢いに頭が真っ白になった」
・栗川さん「肌と肌の触れ合いのなかで一緒に動いていくことに大きな意味がある。視覚障がい者に対する一般的な鑑賞サポートの在り方が、(1)オーディオガイドによる『ことば』を使った説明、(2)事前事後に組まれる『タッチツアー』と呼ばれる大道具や小道具を触る機会の提供だったりするなか、『ことば』に依らないで、ダンスを感じて、体験することを目指すもので、『とてもよかった』。『ことば』は理解するには優れたツールであるが、ダンスを鑑賞するには、足りないし、場合によっては害になり得る。本来、『ことば』では表現出来ない筈のものを『ことば』に還元してはダメ」
(2)ワークショップ2回目(2020年12月19日): Noismの作品『春の祭典』を踊ってみる
・実際の舞台を経験して貰えないかが出発点。
・『春の祭典』の冒頭部、椅子に座って、踵で床をリズミカルに踏み落とす。(2グループで違うリズムで)
・また、『夏の名残のバラ』の音楽に合わせて、身体で相手を感じて、繋がり、踊った。
・栗川さん「金森さんが『ダンスによる音楽や物語の可視化』と言ったものを、再不可視化したとき、何が残るかを楽しみにして本番の公演を観に来た。音、重量感、拍手、米の音や振動、息遣い等、触れるように感じることが出来た。体験したものが始まる瞬間には『来たー!」という嬉しさがあり、身体が覚えているものは一緒に動いて踊っているように感じた。しかし、映像作品(映像舞踊『BOLERO 2020』)には何も感じなかった」
・栗川さん「視覚的には『見る』とは網膜に映すことを意味するが、網膜を介さなくても頭にイメージが浮かべば『見た』ことになるのではないか。何らかのかたちで外界をキャッチすることが『見る』ではないか」
・山田さん「踊っているとき、まだ見えないものやこれからの動き等、半分はイメージの中にいる。そういう時間軸のなかで踊っている。
・栗川さん「目で『見る』というのはほんの一部に過ぎない。視覚は強烈な感覚であるだけに人を惑わすこともある」
・山田さん「そのことは舞踊の本質と関係ある。いろんな要素が絡み合って、いい舞踊となる」
(3)ワークショップ3回目(2022年3月12日): Noismの作品『Nameless Hands - 人形の家』を踊ってみる
・栗川さんから「物語、ストーリー、Noismの世界観を感じたい」とのリクエストを受けて実施。
・山田さん「『ことば』だけでなく、身体で直接、伝え導いて振り付けることは出来ないかと考え、人形浄瑠璃にヒントを得た、黒衣による人形振りの作品を選んだ」
・栗川さん「本当に後ろから抱きかかえられて、人形となり、それが踊りになっていくのは面白かった」
・山田さん「最後はアラベスク、足を上げる動きまでいった」
(4)ワークショップ4回目(2022年12月17日): 『Der Wanderer - さすらい人』を踊ってみた
・スタジオBに設えられた本番の舞台で、空間も共有し、本番の曲を踊るに至った。
・更にワークショップの終わりには、車座になってのディスカッションの時間が初めて設けられ、感想や疑問を出し合った。
・栗川さん「本番も観に来たが、スタジオBでは、(劇場ほど大きい空間ではないので、)空気を切って動く動きまでを全身で感じることが出来た。また、歌曲の歌詞も貰っていたので、点訳したものに触りながら鑑賞することが出来た。リハーサルでは倒れて死んでいる筈がハアハアしていたのが、本番ではピタッと息を止めていた」(笑)
・山田さん「栗川さんが来ているときの本番では、踊りが『やかましくなる』。(笑)そこにいる人にどうしたら何かが届けられるか、届けたいと思うから」
(5)『Floating Field』 声の踊り: 新たな試み、その映像の紹介
・山田さん「舞台上のあちこちで展開される、抽象的で踊りそのもののような作品『Floating Field』。それを踊っている映像に、演出振付・二見一幸さんの許可を得て、Noism2のメンバーたちによって、『シュッ』『ダッ』『ドンドン』などの声(一種のオノマトペ)をインプロ(即興)でかぶせて録音してみた」
・栗川さん「割といいかもしれない。可能性があるかもしれない。意味のある『ことば』よりもスピード感やきざみがあって、動きに近い。例えば、リヒャルト・ワーグナーは楽劇を創るにあたって、キャラクターの音形を『ライトモチーフ』として予め設定しておいて、それを用いて構築していくスタイルをとった。また、これはこれで現代音楽としても面白いんじゃないか」
*会場からの質問01: ワークショップといった体験なしに、実際の舞台を見ることは可能か?
-栗川さん: 「領域」ダブルビル公演は体験なしに観た。金森さんと井関さんの『Silentium』はとても静かな作品だったので、ステージの気配を感じ取るハードルは高かったが、『Floating Field』の方は動きが激しいので感じ易かった。
*会場からの質問02: ダンスという非日常の体験を経て、日常の何かが変わったようなことはあるか?
-栗川さん: 便秘気味だったが、「ピョンピョン」とか「ブルブル」とか、身体を大きく動かしたり、細かく動かしたりして、便通がよくなった。内臓にもいいのでは。Noismのお陰かなと。(笑)
*会場からの質問03: 視覚障がい者のためのからだワークショップ、ひとつの舞台のように見えた。見学できないか?
-山田さん: 人数が多くなると大変なところもあるが、今後、目が見える人と一緒にやることなどもあっていいかもしれない。
…と、そんな感じだったでしょうか。一緒によりよいものを目指して、模索し、工夫に工夫を重ねて、「視覚障がい者のためのからだワークショップ」をアップグレードしてきたおふたり。「柳都会」の終わりにあたり、山田さんが「ワークショップで出会えた人たちに感謝します。踊りが広がり、身体感覚が深くなった」と語れば、栗川さんは「一緒に芸術を創っていきたい」と応じました。
手探りで始められたのだろう「ワークショップ」が僅か4回で大きな進歩を遂げてきたことに驚きを隠せません。
そして、何より、山田さんのみならず、金森さんも井関さんも常々、ワークショップに出られる視覚障がい者の方たちの感覚が、「本当に踊れる舞踊家のようだ」と語っている、その一端を垣間見ることができて、多くの学びを得ることが出来ましたし、今回の「柳都会」のおふたりのやりとりの中心にあった『見る』ことや、逆に、やや旗色の悪い趣だった『ことば』の働きについて、更なる思索に誘われる刺激に満ちた時間となりました。そうした空気感だけでも伝えることができたら幸いです。それではこのへんで今回の「柳都会」レポートを終わりとさせて頂きます。
(shin)
皆さま
実に考える刺激に富んだ、楽しい「柳都会」でした。
そこを再度、ここに書き記したうえで、旗色の悪かった「ことば」(の主に厄介な性格)について、ちょっと書き添えておきたいと思います。
動物は例外なくその本能として、その動物に合ったやり方で外界(世界)を過不足なく把捉しています。そのあたりのことを市川浩は「身分け構造」と定義しました。曰く、その身(動物)によって世界が分節化(その身にとっての意味を生じること)され、それと同時に、その身の方も世界によって分節化されると言うのです。このそれぞれの動物による世界のゲシュタルト化(単なる要素の総和を超えた、全体のイメージが構築されること)が「身分け構造」です。
更に、人間はひとりその「身分け構造」に加えて、「ことば」という、不在すら現前化させる高度な抽象化能力を携えて世界に参入しています。それは「ことば」によって世界を分節化することであり、翻って、「ことば」によって自らも分節化される「生」を生きることを意味します。丸山圭三郎はそのことを「言分け」と呼び、それが、市川の「身分け構造」の上に重ね書きされることで、「身分け構造」は破綻を余儀なくされ、本能の図式に加えて、「ことば」による象徴化を蒙った世界の複雑なゲシュタルトのなかに、複雑に「言分け」されるかたちで生きざるを得なくなっていると「見る」ものです。
人間は「ことば」を介在させずに生きること、考えることは出来ないのです。言ってみれば、「ことば」を介在させずに「感じる」ことも出来ません。すべて感じ方も「ことば」によって規定されていて、仮に「ことば」なしに感じられるものを想定してみたとしても、それはのっぺらぼうで無意味な連続体に過ぎず、そこに切れ目を入れて(分節化して)、何かの感情を把捉するには「ことば」の働きが不可欠なのです。
事態はかなりややこしく感じられるかもしれません。今回の「柳都会」の席上、度々、「『ことば』を介さない」ことが登場しているのですが、直接、動く経験は、その時点では「ことば」の介在を免れ得たとしても、身中に蓄積された記憶に向き合うとき、「ことば」が顔を出してくる筈だからです。
更に、刺激的だった「声の踊り」に関しても、栗川さんはワーグナーの「ライトモチーフ」を引き合いに出しながら、オノマトペについて、例えば、『クルッ』は「回転」を、『スーッ』は「滑る」を、というように固定化させることで精緻化するアイディアを出されましたが、それはしかし、多義的な「動き」のそれぞれに「ことば」のラベル貼りを施すことと同義で、既に否定されていた「オーディオガイド」の精緻化以外の何物でもないのではないでしょうか。(勿論、スピード感やきざみなどがある点では動きには近づくのでしょうが。)そうした疑問が残りました。(あの会場にいたときには、考えがまとまらず、質問するに至れなかったことが残念です。)
人間は「ことば」を介在させずに何かを把捉出来ませんし、何かを豊かに感じるためにも「ことば」は介在せざるを得ません。勿論、その場合の「ことば」とは日常生活でのやりとりに用いている狭義の「ことば」を意味するものではありません。実体験の記憶を含む広義の「ことば」の領域を耕すことのみが、(障がいの有無に関わらず、)私たちが豊かに生きるうえで必須なことは自明でしょう。「見ること」「見えないこと」のなかにも常に「ことば」が介在しています。たとえ、機能的には「見える」目であったとしても、「ことば」による分節化が粗い場合、網膜に映ってはいても、「見えた」ものとして取り出されることはないでしょう。(よく言う「節穴」状態です。)私たち人間は「ことば」と無縁では生きられないのです。
…というようなことを感じました。勿論、「ことば」の手助けを借りて(或いは「ことば」の桎梏のなかで)。
「見えること」「見えないこと」と舞踊を巡って、色々考えさせられる本当に有意義な時間でした。それにひきかえ、こうした長々とした駄文を書いてしまったことはお詫びするより他にありません。しかし、今回の素晴らしい「柳都会」に参加して、刺激を受けた今の私が書ける限界がこちらです。ご容赦願います。
(shin)
shinさま
詳細レポート、そして考察コメント、恐れ入ります。
「ことば」に対してのshinさんの深く真摯な思索コメントを拝読し、それこそ、言葉を失っております。
今回、私は栗川さんがたいそう能弁なことに驚きました。
shinさんのコメントにあるように、
「機能的には「見える」目であったとしても、「ことば」による分節化が粗い場合、網膜に映ってはいても、「見えた」ものとして取り出されることはないでしょう。(よく言う「節穴」状態です。)」
の箇所ですが、私は「自分の目は節穴だ」と思うことが多いので、何とも痛いですね。
この度のshinさんのコメントに対しても、読むことはできましたが、どれほど理解できたのか心許ないです。
そして、
「実体験の記憶を含む広義の「ことば」の領域を耕すことのみが、(障がいの有無に関わらず、)私たちが豊かに生きるうえで必須なことは自明でしょう。」
の、「「ことば」の領域を耕す」ことと共に、「障がいの有無に関わらず」というところに、栗川さんの能弁さと考えあわせて感銘を受けました。
目が見えない、耳が聞こえない、となると、何かと不自由なことと思いますが、かえって他の感覚が研ぎ澄まされるのではないかとも思いました。
「ことば」そして「身体」を使い、前向きに思索して生きていくこと。
そして言語化できないもの。目に見えていることや言葉で表れたことだけではないものの豊かさも噛みしめたいと思いました(とは言っても、それらもすべて「ことば」の軛に囚われているわけですが)。
今回の柳都会に参加された方たちは、お話を聴いて各々いろいろなところに興味を感じ、考えを広げられたことと存じます。
山田勇気さん、Noismの取り組みに敬意を表します。
(fullmoon)
fullmoon さま
まっとうなコメントをいただき、有難うございました。
山田さんとNoismの取り組み、劇場での鑑賞にまつわる新しい「領域」を開いていくような素晴らしいものだと認識できましたよね。
この度の「柳都会」を聴いて、その劇場での生の鑑賞機会は、勿論、視覚優位であることは否めないでしょうが、それ以上のものだと再認識いたしました。
五感で受け止める生の刹那。何事かがそこで起きているその「現場」に身を置くこと。サッカー観戦、ビッグスワン、…、…スタジアム、…野球場。そう、野球場もそう。テレビ中継で観るのに比べて、必ずしもよく「見える」訳ではないうえに、エアコンもなく、決して天気がよい訳でもなく…。でも、ビール片手にあの空気感に浸りながら、何なら、ゲームの進行次第では、敵味方関係なく、野次までとばせる、そうした「現場」に身を置くこと。ああ、私、甲子園球場に行きたくなってしまいました。(笑)
また、栗川さんが触れていた「来たー!」の感覚まで考慮しますと、事前のワクワクから、事後に尾をひく余韻に至るまで、まるごとひとつのパッケージでもあるのだとも。
そのいずれもが、事後、記憶というかたちでの言語化(「ことばにできない」という言語化も含めて)を蒙らざるを得ないとしても、その自らの言語化作用自体を豊かなものにする「事件性」の「体験」としての刹那、その一回性。
視覚のほか、劣位に置かれたすべての感覚の動員までをも極めて自然なかたちで求めてくる「現場」に身を置くことの豊かさ。そうしたものに向き合う刺激的な時間でした。
栗川さん、山田さん、どうも有難うございました。
(shin)
皆さま
最初のコメントで書いた「疑問」について、山田勇気さんその人から丁寧なご返答を頂き、少しやりとりさせて頂きましたので、その山田さんのご返答をここにご紹介させて頂きます。山田さんと栗川さんの「オーディオガイド」に対するスタンスをより詳しく説明してくださったことも有難いです。それでは(少し長くなりますが、)お読みください。
「shinさん、いつもありがとうございます。サポーターズのブログ読ませていただきました。『ことば』についていろいろと考えさせられました。言葉の世界からは逃れられない、しかしだからこそ言葉を尽くして生きていかなきゃならないなと思います。
僕も栗川さんもオーディオガイドや言葉による解釈を否定しているわけではないんです。ここで議論していたのは言語化の良し悪しではなく、体験の質のことだと思っています。
見たり聴いたりして舞踊を鑑賞し、事後に言語化するという体験がある一方で、そこで起っていることが言語化されたものを聞くということが、事後にさらに言語化を促すような“舞踊”の鑑賞体験となり得るのかという問いだったのだと思います。
もちろんそれはなり得ると思います。ただいろいろなアプローチがある中で、まだまだ可能性は汲み尽くされていないのではないかという気がしています。
声の踊りはまだまだ実験段階ですが、ほのかに可能性を感じているところです。声の踊りは詩のようなものかもしれません。
声のラベル貼りは確かにオーディオガイドの精緻化とも言えると思います、しかし実際にすべての動きにラベリングするのはたぶん難しいです。膨大な動きの一つ一つに異なった特定の声を当てていくのは、発声する方も聞く方も大変だろうと思います。なので動きの中で代表的なもの(例えば、回る、飛ぶ、歩くなど)に声を当ててラベリングをしていくのが精一杯だと思っていますし、それでいいような気もしています。
さらに、例えば回る動きに『クルッ』という声を紐づけたとしても、実際に動きと合わせて発声していくなかでは『クゥーーーーールッ』となったり『グル!!』や『キュルゥーー』なんてのも出てくると思います。そしてそれぞれ音量や声色、明瞭さなども違ってくるはずです。そんな発声の小さな差異が、多様な動きのイメージの伝達を可能にしてくれると思っています。動きの種類と動きの質を同時に伝えることができたら面白いだろうなと。
作品が変わればまた全然違ったアプローチが必要になってくるかもしれませんが、それが楽しくもあります。
視覚障がいがある、といってもいろいろな方がいて一括りにはできませんが、まずはNoismの活動の中で出会った皆さんと意見を出し合い、より深く楽しい舞踊鑑賞の可能性を探っていけたらいいなと思っています。(もしご興味がありましたら神奈川での試みも少し見てみてください。『音で観るダンスのワークインプログレス』で検索すると動画など出てくるとおもいます。)
長文失礼しました。 山田勇気」
更に、「WS参加者の方の中には、もっと言葉で説明をしてほしいという声もたくさんあります。『さすらい人』ではそのように歌詞と状況と雰囲気などを舞踊鑑賞のキーワードとして書き出し、それと一緒に舞台を見てもらったりもしました。
栗川さんは本人もおっしゃていた通り『変わった人』なのかもしれません。笑
だからこっちもなんか驚くようなことしたいなーと思ってしまうんです。
声の踊りは二見さんの作品が言葉で説明するのが難しいということで苦肉の策として思いついた感じです。面白いと思うのでなんとか発展させていきたいです。
こうやって議論ができて、初の柳都会で内心ドキドキでしたがやってよかったなと思います。栗川さんのおかげです。
ブログ、まったく問題ないですので是非使ってください。
よろしくお願いします。 山田勇気」
山田さん、本当に有難うございました。
当日、「声の踊り」についてはほんの数分ご紹介頂いただけでしたが、私のなかで、普段、「劣位」に置かれている聴覚が「優位」な視覚の位置を脅かすさまにドキドキを禁じ得ないものがありました。それだけに、オーディオガイドとの関連が気になったのでしたが、「否定」するものではないとのお答えにスッキリしもしました。単純です。(笑)
障がいの有無に関わらず、「現場」での刹那の一回性への関与をどう切り拓いていくか、語られていたのはそうした当事者性の問題だったのだということが改めて確認でき、更に(下手は下手なりに)考えていきたいと思いました。山田さん、本当に有難うございました。
(shin)
皆さま
もうひとつだけ追加のコメントを入れさせて頂きます。
諸々インパクトがあったこの日の「柳都会」でしたが、なかでも、個人的に凄く印象に残っている場面があります。それは2回目の「視覚障がい者のためのワークショップ(2020/12/19)」(「Noism作品『春の祭典』を踊ってみる」)について、栗川さんが、「拍子を数えながら、間違えながら、実際にやってみた」と笑顔で語った場面でした。この「間違えながら」のなかに、個別の「生」への関与性が強く感じられ、「そういうことなのだなぁ」と思ったのでした。
その意味から、山田勇気さんが説明してくれた「(ここで議論していたのは言語化の良し悪しではなく、)体験の質のことだと思っています」がストンと腑に落ちてきます。
今回の「柳都会」に照らして言えば、私たちは一人ひとり、偶然「見えたり」「見えなかったり」するまったく個別の「生」を生きているのですが、その「生」へのコミットメント、或いは偶然の出会いを期待しつつ、劇場に足を運ぶのだと思うものです。「刹那」に揺さぶられる実体験を求めて。「体験の質」、改めてこの「ことば」にハッとさせられました。自身の鈍麻した感覚に向き合わせられたような次第です。
(shin)