『火の鳥』からの『フラトレス』&『ボレロ』を満喫した「サラダ音楽祭2025」♪

2025年9月15日(月・祝)、前日開幕した「サラダ音楽祭」2日間の2日目、池袋の東京芸術劇場に出掛けて来ました。この日はまず、13時にプレイハウスにて、Noism2による「親子で楽しむダンス バレエ音楽《火の鳥》 Noism2メンバーによるダンス公演&ワークショップ」、そして15時からはコンサートホールでの「音楽祭メインコンサート《Boléro》」において、Noism1の『Fratres』、そしてNoism0+Noism1『ボレロ』が観られるとあっては駆けつけない理由を見つけるのが困難なスケジュールが組まれていたのでした。

まだまだ蒸し暑さが去らないなかでしたが、JR池袋駅から地下通路を使って劇場に向かいますと、不快感はありません。胸が高鳴るのみで、ややもすると足早にさえなりそうでした。

エスカレーターで2階のプレイハウスへ進みます。入場時に渡された二つ折りカラー・リーフレット(デザイン:ツムジグラフィカ・高橋トオルさん)の素晴らしい出来栄えにワクワクしなかった人はいない筈です。名作『火の鳥』、満を持しての東京上演です。

この『火の鳥』の上演&ワークショップは前日の音楽祭初日から既に好評を博していた様子(当然!)ですが、私は各種SNSをほぼ全てシャットアウトしてこの日に臨みました。東京の(家族連れの)観客、一人ひとりの心に刺さる様子を臨場感をもって感じたかったからです。そしてNoism2メンバーの熱演もあり、その通りの「帰結」を迎えたことに心のなかで快哉を叫びました。

金森さんから若者に向けた「贈り物」という性格を有する名作『火の鳥』は、「0歳から入場OK!」と謳われたこの音楽祭での上演にあたり、衣裳、照明など様々な刷新が図られ、より広範な観客を惹き付けるものとなった感があります。特に作品のラストの改変!それはあの二つ折りカラー刷りリーフレットの表紙、容易に切り取れる「白いマスク」によって、誰もが「火の鳥」になった気分を味わえる工夫と相通ずるものと言えるでしょう。この度刷新された『火の鳥』、今後ご覧になる機会もあるだろうことに鑑みて、ここではラストの改変の詳細は伏せておくことと致します。そのときまでお楽しみに。

その後は、「スチール撮影可」のレクチャーとワークショップが続きました。時間にして約30分間、進行は山田勇気さんと浅海侑加さんです。客席から選ばれたお子さんが舞台にあがって、作中の「少年」が持ち上げられる場面を体験する機会なども用意されているなど、満足度の高い好企画だったと思います。自分もひとりの親たる身として、我が子が小さかった頃のことなど思い出したりしながら、微笑ましいひとときを過ごしました。

次いで、15時からの「メインコンサート」です。コンサートホールは3階席まで満員。

当然のことながら、都響(東京都交響楽団)の演奏は素晴らしく、20分間の休憩を挟んだ約2時間、それだけでもホントに贅沢な気持ちになりました。休憩前にはモーツァルトを2曲(『魔笛』序曲と《戴冠式ミサ》)、典雅だったり、厳かだったり、その流麗な心地よさときたら、もうハンパないレベルだったかと。

そして、休憩が終わると、いよいよNoismの登場となります。ペルトの音楽に合わせて踊られる『Fratres』、(彩り豊かで活気溢れるファリャ『三角帽子』を挟んで、)更にラストにはラヴェルの『ボレロ』が待っています。

『Fratres』は、先日の公開リハーサルで、金森さんが繰り返し口にされていた「手の舞」という視点から見詰めました。「う~む、なるほど」と。しかし、これまで幾度も観てきていて、「あ?ん?え?」となった見慣れない振付にも出くわします。終演後に偶然お会いして少しお話しをする機会を得た糸川さんから、それは「利賀村ヴァージョン」(『マレビトの歌』中の『Fratres』)と教えて頂き、既にして「古典」の趣すらあるこの作品も刷新が続いていることを知る機会となりました。

ラストの『ボレロ』。もう圧巻の一言でしかありません。赤い衣裳の井関さん、黒からベージュのNoism1の8人、全員が客席を圧倒し尽くしました。舞踊家にあって、「メディア」としての自らの身体を両の掌で確かめながら、ラヴェルによるリフレインの高揚をそこを通過させ、可視化して周囲に放っていくひとりと8人。

この日、都響が奏でたのは、ともすれば走りがちになりそうなところ、終始、それを抑制しつつ進んでいく泰然たる『ボレロ』であり、過度の興奮を煽ることをしない、ある種禁欲的な姿勢で向き合われたその音楽は、零れるようにニュアンス豊かなものとして耳に届き、その豊かさな響きに同調する舞踊家の9つの身体により、一瞬一瞬、味わい深い厚みが加えられ、見詰める目に映じることとなりました。かようにためてためて「走らない」『ボレロ』、これも糸川さんに伺ったところ、都響とのリハーサルを通してこの間変わらないことだったのだそうです。都度書き換えられていく『ボレロ』の記憶!都響とNoismによる一期一会のもの凄い実演を目の当たりにし、『ボレロ』のまた違った一面に触れた気がして、もう興奮はMAX。繰り返されたカーテンコールに、スタンディングオベーションをしながら、「ブラボー!」と叫ばずにはいられませんでした。

感動を胸に東京芸術劇場を後にしましたが、酩酊は今も…。

(shin)

「こ、これは!」作品の内奥に連れて行かれた驚嘆の「SaLaD音楽祭2025」活動支援会員/メディア向け公開リハーサル♪

酷い雨も去って、酷暑も少しは和らいだ感もありましたが、それでもこの日もやはり暑い一日に変わりはなかった新潟市。2025年9月6日(土)、りゅーとぴあ〈スタジオB〉にて、「SaLaD音楽祭2025」に向けた活動支援会員/メディア向け公開リハーサルを見せて貰ってきました。

受付を済ませて、ホワイエに並べられた椅子に腰掛けると、丁度、正面に見えるパーテーションを兼ねたホワイトボードに、「12:00~公開リハーサル ボレロ」や「ボレロ ダメ出しRH」の文字が書きつけてありましたから、そのつもりで入場を待っていました。

で、12時少し前に、スタッフから「今日は『通し』ではなく、…」とそのあたりのことが告げられようとするや、パーテーションの向こうから、「通します、通します」という金森さんの声が聞こえてくるではありませんか。『ボレロ』のあの高揚感に浸ることが出来る!入場を待つ者のなかに、胸の高鳴りを感じなかった者などいなかった筈です。同時に、この日の公開リハーサルは1時間の予定でしたから、「あと45分程度はどうなるのだろう?」というドキドキもありました。

促されて、〈スタジオB〉に入り、用意された椅子に腰を下ろします。その後、金森さんが「こんにちは」、そう言いながら入って来ます。奥の掛け時計は「11:59」を指しています。メンバーたちは『ボレロ』冒頭の位置につこうとします。

「いこうか。大丈夫?」(金森さん)
「どこまで?」(井関さん)
「通すよ」(金森さん)
「えっ?(知らなかったのは)私だけ?」(井関さん)
「昨日、最後まで確認したじゃん。あと通すだけじゃん?」(金森さん)

そんなハプニングめいたやりとりを目撃して、声をあげて笑う私たち。敢えて表情筋を動かしつつ、スタンバイに入る井関さん。金森さんが音楽スタートの合図を送るときには、張り詰めた空気感が支配していました。

そこからの約16分間、衣裳こそ本番と同じではありませんでしたが、音楽と舞踊が醸す圧倒的な生命力に揺さぶられつつ、惹き込まれて見入りました。

「オーケー!」そう言ってスタジオ中央に進んだ金森さん。手のスパイラルな伸ばし方、中尾さんと糸川さんによる井関さんのリフト、そして「昨日変えたところ」(!)など、幾つかの修正を加えていきました。そして全体的には、金森さんから、「本番は生オケだからどうなるかわからないけど、『ボレロ』は基本、『後(あと)どり』。くっちゃうと高揚感出ないから」という指示があったりもしました。

でも、金森さんから見て、この日通された『ボレロ』は満足いくレベルだったようで、「良かったよ」。更に、「オレは良かったと思うけど、皆さんからダメ出しないですか?」の言葉には、笑いながらも、拍手していた私たちです。

それらが一段落をみると、再び、
「『通し』やると思っていなかったから。今日はダメ出しだと」(井関さん)
「昨日終わってるから」(金森さん)
「両方、飛び交ってたから」(井関さん)
笑う私たち。すると、
「いいよ、いいよ、終わり。『Fratres』やろうか?」(金森さん)
金森さんを除いて、〈スタジオB〉の中にいた誰もが「!」っとなった筈。このとき、時間は12:25。
「ダメ出しは終わったから。ずっとそうやっていてもしょうがないでしょ。通さないから」(金森さん)
そんな訳で、その後、『Fratres』冒頭部分の入念な調整過程をつぶさに見る機会が訪れたのです。

「こ、これは!」それこそ、まさしく仏像への「魂入れ」にも似た、あたう限りギリギリまで表現に彫琢を施す時間。剔抉され、刷新されていく動き、そして身体。金森さんがメンバーの動きに向き合い、自らの身体でも示しながら発せられた言葉の数々に、私たちも『Fratres』という作品の内奥にまで連れて行かれることになった、そんな、実に得難い時間だったと言えます。そして、それらの言葉は、『Fratres』を鑑賞する際の私たちの視座に大きな刺激を与え、ことによっては、それを刷新し得るような深みを持つものだったと言っても過言ではありません。断片的に書き留めたそれらの言葉たち、そのなかから少しご紹介いたします。

「ただのポールドブラ(腕の動き)ではなくて、両手のチャクラを身体の前から上に」
「掌のチャクラを開く。何かを外から受けなきゃダメ。そこに掌があるだけじゃダメ。受信する手だから」
「手が伸びるから、身体が伸びる。両手のチャクラ、魂をつかむ。掌が自分の方に向いているか、外を向いているか。伏せて、自分の身体に寄せて、入れて」
「『Fratres』は全て手だから。手との関係性を身体化しないと、ポーズ・ダンスになっちゃう」
「手のなかにある何かを自分の中に入れる。自分の身体を撫でるということを感じて欲しい。ある種の官能性・エロさが欲しい」
「そのままのコントラクション(筋収縮)で足が伸びる」
「耳の後ろに何かあるんだよ。それをとらないと。何かは知らん。夜道で背後に何かを感じるような、自分の背後への感覚。それをとって、見る。掌でまわして、のっけたものを投げる。手をそっちに動かすために、身体を動かす」
「日本舞踊っぽい手の舞。手の繊細さが欲しい。ないと体操っぽくなってしまう」
「観る人に質感を届けなきゃいけない。形じゃなくて」
「持続させなきゃいけない。終わりはない。音楽は続いてるんだから。君たちのなかにある一つひとつのシークエンスを身体化してはいけない」
「手を空間に投げていく。掌にボールを持っている感覚。繋がってなくちゃダメ。ボールを落とさない」
「頭は下に。前じゃなくて。フォーカスは『イン』だよ。見えない壁に頭をぶつけている。鳥籠のなかで鳥が頭をぶつけている。行き詰まっている。壁、壁、壁。向こうに光を見て、リーチ・アウト。伸ばす。スパイラルで」
「宇宙まで伸びる。呼び込んで、自分の身体に集めて、抗って、パッ!離れて」
「外から何かが来る。リアクション。聞きたくないから耳を覆う。祈る。怖い」
「能動ばっかりで、受動がないから、『どうしてそうなったんだろう?』っていうサプライズがない」
「『動きが弱い』と言うと、すぐ、強くやっちゃおうとするんだけど、弱いのはイメージ。イメージの持続」等々…

私自身は『Fratres』という作品の核とも呼ぶべきものに接することが出来て、大興奮の時間となりましたが、それを「紹介」しようとすると、やはり、「紹介」と言うには程遠く、断片的な言葉の羅列となってしまう他ありませんね。その点、力及ばずです。すみません。それでも、上に書き付けたものから少しでも「作品」に近付くアングルを見出して頂けたなら幸いです。

時計の針は予定時間を超過して、13:10を指しています。金森さんが、「時間過ぎちゃった。こんな感じじゃないかな」、そう言ったところで、この日の濃密な公開リハーサルは終了となりました。もう目が点になりっ放し、息を詰めっ放しの一時間強でした。

この『ボレロ』と『Fratres』は、9月15日(月・祝)に東京芸術劇場〈コンサートホール〉にて「サラダ音楽祭」のメインコンサートとして東京都交響楽団の生演奏で踊られます。この日の驚嘆の公開リハーサルを経て、両作品がどう見えてくるか、期待感も募ろうというものです。楽しみでなりません。

なお、今なら期間限定ですが、TVer「アンコール!都響」で、昨年の同音楽祭にて踊られた『ボレロ』ほか(114分)を観ることが出来ます。よろしければ、そちらも次のリンクからどうぞ。

TVer「アンコール!都響」より「サラダ音楽祭2024」メインコンサート

また、今年はNoism2も同音楽祭に初登場し、9月14日(日)、15日(月・祝)の両日、同じく東京芸術劇場の〈プレイハウス〉を会場に、『火の鳥』の上演とワークショップを行います。そちらも楽しみです♪

「活動支援会員」であることのメリットを噛み締めた、豊穣過ぎる一時間強の贅沢でした。

(shin)
(photos by aqua & shin)

SCOTサマー・シーズン2025『マレビトの歌』活動支援会員/メディア向け公開リハーサル、身じろぎすら憚られた57分間♪

2025年8月9日(土)の新潟市は、折しも新潟まつりの2日目ということもあり、街にも人にも華やぎが感じられ、祭りばかりが理由ではないのでしょうが、白山公園駐車場も満車状態。近くの駐車場にまわって、車を駐車して、りゅーとぴあを目指し、12時からの『マレビトの歌』の公開リハーサルを観て来ました。

この日の公開リハーサルでは、鈴木忠志さん率いるSCOTの50周年目という記念すべきタイミングで開催される「SCOTサマー・シーズン2025」において、8/29(金)~31(日)の3日間上演される『マレビトの歌』を通しで見せて貰いました。会場はりゅーとぴあ〈スタジオB〉。その正面奥の壁に掛けられた時計での実測57分間は、ぴんと張り詰めた空気感でのしかかってきて、身じろぎひとつさえ憚られるほどの強烈な圧に満ちた時間でした。

月末の利賀村での3公演の舞台は、富山県利賀村芸術公演の新利賀山房。そこは闇と幾本もの太い柱が統べる合掌造りの劇場空間であり、その印象的な柱を模した「装置」が目に飛び込んでくるなかでのリハーサル(通し稽古)でした。

今回の衣裳は全て黒。『Fratres』シリーズで見てきたものです。その点では、2023年5月の『セレネ、あるいはマレビトの歌』とは異なります。

正午ちょうど、金森さんが「いきましょうか」と発して始まった実測57分間は、私に関して言えば、2年少し前に『セレネ、あるいはマレビトの歌』として観た記憶などちっとも召喚されることもなしに、「これ、前に観たのと同じ?違うんじゃない?」とばかり、ただただ新しい視覚体験として、息をのみながら見詰めるのみでした。自らの情けないくらい頼りなく覚束ない記憶力に呆れつつ、新作を目の前にするかのように目を凝らして…。

12:57、金森さんの「OK!」の声が耳に届くと、壁に沿った椅子に腰掛けて見詰めていた者たちから、汗を迸らせて踊り切り、上手(かみて)側の壁際へとはけた舞踊家たちに対して大きな拍手が送られました。

すると、私たちに向き合うかたちに椅子を移動させた金森さんから、「お盆には相応しいかも。亡き祖先への思いだったり」という思いがけない言葉が発せられると、息をつめて見詰めた者もみな緊張感から解放されて、漸く和むことになりました。

「何か訊きたいことがあれば、どうぞ」金森さんがそう言うので、途中、東洋風の響きに聞こえるものさえ含まれていた使用曲について尋ねると、全てアルヴォ・ペルトの曲で統一されているとのお答えでした。

恐らく、Noismレパートリーのオープンクラス受講者だったのだろう若い女性が、『ボレロ』の振りと似ていると思ったとの感想を口にすると、金森さんは、「若い頃は色々な振りを入れようとしたりするものだが、齢を重ねてくると、目指す身体性や美的身体が定まってくる」と説明してくれましたし、フード付きの衣裳は視界が狭くて踊り難いのではないかとの質問に対しては、「能の面に開いた穴などもほとんど見えないくらいのものだが、日々の鍛錬によって空間認識が出来てくる」と教えてくれた金森さんに、すかさず、井関さんが「最初の頃は結構、柱が倒れていた」とユーモラスに付け加えてくれたりもして、笑い声とともに公開リハーサルは締め括られていきました。

ここからは、以前に当ブログにアップした記事の紹介をさせていただきます。必要に応じて、お読み頂けたらと思います。

まずは、自家用車を運転しての利賀村芸術公園入りを考えておられる向きに対するアクセスのアドバイスになれば、ということで、(昨年8月に『めまい』を観に行ったときのものですが、)こちらをどうぞ。
 → 「SCOT SUMMER SEASON 2024」、新利賀山房にて『めまい ~死者の中から』初日を愉しむ♪(2024/8/25)

そして、2023年5月の『セレネ、あるいはマレビトの歌』に関するリンク(4つ)となります。
 → 驚嘆!『セレネ、あるいはマレビトの歌』公開リハーサル!!(2023/5/11)
 → 控え目に言って「天人合一」を体感する舞台!「黒部シアター2023 春」の『セレネ、あるいはマレビトの歌』初日(サポーター 公演感想)(2023/5/21)
 → Noismの現到達点たる『セレネ、あるいはマレビトの歌』、その夢幻(サポーター 公演感想)(2023/5/22)
 → 「黒部シアター2023 春」前沢ガーデン野外ステージでの「稀有な体験」が語らしめたインスタライヴ♪(2023/5/24)

お盆を前にして、貴重な晴天だったこの日の夕方、金森さんの言葉とは逆になりますが、私は『マレビトの歌』のリハを思い出しながら、父と祖母が眠るお墓の掃除をしていました。汗だくになり、もう目に入って痛いのなんの。数時間前に心を鷲掴みにされた舞踊家たちの身体を流れた多量の汗には遠く及びませんでしたけれど、それでも同じ57分間はやろうと決めて…。(個人的過ぎる蛇足、失礼しました。)

あの実測57分間は本当に衝撃でした。利賀でご覧になられる方が羨ましいです。それくらい、『マレビトの歌』公開リハーサル、圧倒的でした。

(shin)
(photos by aqua & shin)

1年半振りのインスタライヴで語られた『アルルの女』と『ボレロ』♪

2025年7月15日(火)の夜20:00から、金森さんと井関さんが1年半振りのインスタライヴを行い、2日前に大好評のうちに全6公演の幕をおろした『アルルの女』/『ボレロ』公演について大いに語ってくださいました。

とても興味深いお話が聴けますので、まだお聴きになっておられない向きは、こちらのリンクからお進み頂き、アーカイヴをお聴きになることをお勧めします。

このブログでは、以下に、おふたりのお話を掻い摘まんでご紹介したいと思います。

*『アルルの女』について
○構想は大体1年前くらいからあったが、クリエイションを始めたのは、「円環」公演が終わった3月からで、黒部の『めまい』の稽古と並行して。
●原作を読み、「劇付随音楽」を見つけて「いけそう」と思った金森さんに対して、当時、その「劇付随音楽」を知らなかった井関さんの反応は芳しいものではなかった。しかし、構想と登場人物について聞いて不安は消えた。最後の決め手は複雑で重層的な原作で、オリジナルなものが作れると思った。
○テーマカラーはオレンジと黒。オレンジは人間の網膜が闇のなかで一番認識する色味だとなにかで読んでいて、『アルルの女』の世界観として「これでいける」と思った。コンセプトにあったフレームをオレンジにして、衣裳を全員、黒でいくことにした。

●黒の衣裳: 抽象度を保ちながら、物語の本質を届けるチャレンジにあって、出来るだけ単色として、色による説明を排そうとし、また、全体として「死」がテーマであり「喪に服す」意味合いや、超極彩色の花との対比も意識した。
○衣裳・井深麗奈さん: 井関さんの踊りのファンで、ポートフォリオを送ってきてくれていた。和と洋のミックス、あまり語り過ぎないが、ディテ-ルや繊細さがあるもので、「合うんじゃないかな」と今回初めてお願いしたが、良かった。

●井関さんが踊った「母親」: 昔なら「母親」っぽさ、ある種の具体性とか考えがちだったが、 今回は考えなかった。その裏にあって一番大きかったのは、「演出振付家」(金森さん)への信頼。わざわざ自分がそこに何かを付け加えなくても、何者かになろうとしなくてもいいと。ただ、ディテールを深めて、与えられたものの中でどうやって生きるか。
○「演出家」として、物語や役柄を伝えようとする際に、大切なのは「関係性」。社会的な記号としてではなく、関係性によって「母親」に見えることの方がより本質的。
●こういう家族構成の作品を創ろうと思ったことには、今のNoismのメンバー構成やタイミングがあったのは間違いない。

*『ボレロ』について
○「映像舞踊」ではない『ボレロ』は1年半前のジルベスターコンサート(新潟)が初めて。やる度に構成が少しずつ変わってきている。
●たった15分なのに、「しんどい」。(井関さん)
○金森さんが井関さんに言ったのは、「絶対死ににいっちゃいけない」、それを肝に銘じた。「踊り切って、全身全霊、エネルギーを使い果たして終わる」ことで届けるのは、実演家の自己満足で妄想。「死ににいく」ことで削がれてしまうディテールも物凄くある。コントロールし、制御し、観客の中で「燃え尽きた」ように見えればいいのであって、「芸」の本質としては「燃え尽き」てはいけない。そして今回、敢えてそう言ったのは、「生き方」「死に方」を見つけるのかどうか見ていたかったから。案の定、時期ごとに色んなアプローチをしていて、「ああ、いいなぁ」と思った。演出家としては舞踊家を見て気付くことも沢山あり、それは欠かせないこと。井関さんが見つけていっているものを金森さんも見つけていっていた。
●「再演」: 自分がやったことは自分のなかに残っている。前回、「サラダ音楽祭」で、金森さんから「よかった」と言われ、なにか脳味噌に残っていて、そのときの自分の状態にすがって、リハーサルが始まり、まずはそこにいくことを重要視した。金森さんはそのアプローチは違うなと思ったので、「違うと思うよ」と言った。
○今回の『ボレロ』での、金森さんによる井関さんの「観察」の最終過程、「最終章」は次、来月の「サラダ音楽祭」。そこまでがワンセット。
●昨年、ライヴで都響(=東京都交響楽団)とがっぷり四つで、(「死ににいっている」)素晴らしい実演があり、録音でのアプローチで色々見出した今回があり、それを踏まえて、再びライヴで都響とやるときにどうなるか。

○「『ボレロ』は終わったときに息切れてちゃ駄目だよ」(金森さん)に対して、「あの作品で息が上がらないって、どういうことだろう?」、でも考えても無理だと思った井関さん、次の日に、考える前に、身体がそのイメージを掴んでくれていた。「あれっ、息がほとんど切れていない」。頭で考えることを止めない限り、そこには行けない。
●最初、闇のなかで待つ時間が長い。3分くらいの感覚。身体の輪郭だけが見えて、あとは空っぽの状態で立っている状態で、考える必要がないってことと理解。
○「ゼロ・ポイント」(金森さん): そこにいるってだけのために必要最低限のエネルギーで、思考も呼吸の意識もなく、邪念もなく、ただそこにポッとある状態。一回、「しんどさ」がわかると、記憶があるために、やる前から「しんどさ」が来て、そっちに引っ張られがちになるのだが、経験も記憶も何もない「ゼロ」の状態に持っていくのは一番目指すところであり、一番難しいところ。でも、それが掴めたら、あらゆることが「初めて」になる。
●『ボレロ』はゆっくり始まるから、点で、何かがよぎる。それをなくすことは絶対無理だが、そこに留まらないで、過ぎていく感じがあるのは、「再演」を重ねてきたお陰。
瞬間に色々なことが起きているのだが、ずっと流れていて、終わったあとに「あれは何だったのだろう?」と。(井関さん)→「自然。全ては流転する」(金森さん)
○(観世寿夫さんの本『心より心に伝ふる花』を手にした井関さん)「自然」という言葉を、昔は「ふと」と読んでいたと。自然は流動的であり、何かに留まろうとするから、苦しいのだなと。
●自然なままに生きる感受性の強い身体であるためには鍛錬が必要であり、鍛錬は自然ではない。しかし、舞台上では鍛錬したことにしがみつくのではなく、全部捨てて、ぽおんと自然のままの状態的にいること。(金森さん)
○舞台上で「立つ」ことは本当に怖いこと。ピラティスで「立つ」ことを学んできたため、怖さは一切なかった。それが自分の中では鍛錬だった。心が落ち着いたということではなく、単純に体重をかけて、どこにアライメントをおいて、立っていることが。(井関さん)
●脳味噌は不思議。自分で翻弄して、自分でびびって、自分で悩んで、自分で解決している。(金森さん)

○井関さんから金森さんに質問、「見ているときって緊張するの?」: 『アルルの女』では見ているシーンの多かった井関さんは「頑張れ、みんな!」と緊張したというが、金森さんはどんどん緊張しなくなってきたという。若い頃は、自分の思う「100%」みたいなものがあり、「みんなミスしないように」と緊張していたが、今は自分が想定する「100%」というのが如何にレベルの低い話かと経験上わかってきているので、逆に、どう想像を超えてくれるかなと期待をして見ている。(金森さん)→それを聞いた井関さんも、自分に対しては全く同じで、集中はするが、緊張はしなくなって、どう超えてくれるかなと自分に期待していると。「経験だと思う」で一致したおふたり。

Q:今回の公演は観客の熱気が特別凄かったと感じた。それについては?
 -A: 「こちら側もそう感じた」、と井関さん。「特に関東であんな感じになるって、そんなにない」と金森さん。井関さん、「有難かった」
Q:ステージからはどうでしたか?
 -A: (井関さん)「ステージからは結構感じた。(Noismの)お客さんは見ているときのエネルギーでわかり易い。上演中に『これは届いているな』とか、『きょとんとしているな』とか」
Q:(金森さんから)最も「きょとん度合い」高め、引っ張れてない感覚があったのは?
 -A: (井関さん)「引っ張れてない」というより、「ふわっとした」感覚があったのは、『Der Wanderer - さすらい人』と『鬼』。時と場合、公演場所による。(井関さん)
コメント: 3公演観ても足りないです。
 -A: (井関さん)「Noismは何回観ても面白いって言ってくださるからね」
Q: 配信とかライヴとかはやらないのですか?
 -A: (金森さん)「ないですね」 
     (井関さん)「なるべくしたくない。やはり生(なま)で。でも、自分たちが死んだりしたら、配信して貰ってもいいと思う。今現在、生(なま)で出来ているのだから、今一緒に生きたい。でも、死んでしまった後は、金森穣という人の作品を色々な人に観て貰いたいので、いっぱい配信してもいいと思う」
     (井関さん、鈴木忠志さんの本『初心生涯 私の履歴書』(白水社)に出てくる「今生きている人の賞は貰わない」に触れながら、)「今、完結されてしまうことに否定的になってしまう」
     (金森さん)「俺はどうでもいいけど」

*今回の『照明』について
●「片明かり」とか増やした。「御大」(=鈴木忠志さん)からの言葉も自分のなかにあったし、「額縁」のなかの(カラバッジオみたいな)ルネサンス絵画(静止画)みたいなものを考えたときに、あの時代、ドラマチックな絵を産むときに、明かりの方向性は重要だった。フラットにならずに、敢えて強めに、片側だけ強めにした。(金森さん)→「初めてだった。面白かった」と井関さん。
○表情: 昔の日本画では、女性はみんな同じ表情をしていた。それはそのシチュエーションで表情で語らせる必要がなく、観る側が表情を想像することが出来た。表情は見えなくても、その時の身体の在り方と美術や人との関係性の在り方とで、その人がどういう表情をしているかは観客はわかる。(井関さん)→その時々の重要な人物への明かりの当て方、バランスは気にした。(本当に大事なところは顔が見えなくても伝わる。)(金森さん)

Q: 音楽とは何か?
 -A: (金森さん)人類が生んだ最高のものじゃないですか。

終わり間際、残り時間も極めて少なくなったなか、金森さん(と井関さん)から、Noismの次の公演は来月、利賀村での『マレビトの歌』であり、それを上演する場が鈴木忠志さん率いるSCOT「50周年」となる夏のフェスティバルであること(かつ、前掲の近著『初心生涯』の素晴らしさ)が触れられ、次回インスタライヴについても、その利賀村の後、「サラダ音楽祭」の前に、「今度は近いうちにやります。さよなら」と、この日のインスタライヴは終わっていきました。

…こんなところをもって、ご紹介とさせて頂きます。それではまた。

(shin)

Noism『アルルの女』/『ボレロ』埼玉で迎えた大千穐楽(「箱推し」の推し活ブログ風)

2025年7月13日(日)、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』公演が、埼玉は彩の国さいたま芸術劇場で大千穐楽を迎え、大評判のうちに、全6公演のその幕をおろしました。ここまで、ネタバレなしにレポートのような、感想のようなブログをあげてきましたが、今日は様々な偶然、それもとても嬉しい偶然が重なったことから、これまでとはまるで違うタッチのブログを残そうという気持ちになりました。敢えて、そのタッチを言い表すなら、「箱推し」の推し活ブログ、とでもなりましょうか。多分に個人的な色彩も強いものになるかもしれませんが、よろしければ、お付き合いください。

朝、宿泊した横浜から、Noism20周年記念の黒Tシャツを着込んで、彩の国さいたま芸術劇場を目指しました。前日の過ごし易さとは打って変わった焦げるように暑い日曜日です。JR与野本町駅からほんの12〜13分歩くだけではあるのですが、それがかなり堪える「苦行」に感じられたため、「着いたら、カフェに行って、冷たいものを飲もう」、そう同行の家族に言うことでやっと辛抱して汗をかきかき歩くことが出来たようなものでした。

劇場前の横断信号を渡って、ガレリアに通ずる入り口を入って、何気なく振り返ると、そこに見覚えのある女性の姿が!その女性、かつて、Noism1メンバーとして活動しておられた西澤真耶さんではありませんか!西澤さんと言えば、映像舞踊版の『ボレロ』に出演しておられるといった点に、今回の公演との繋がりが見出せたりもします。最近は東京で活躍されておられて、なんとかこの日の公演を観に来ることが出来たとのことでした。また、Noism在籍当時に、気さくに接してくださったお母様によろしくお伝えくださいとお願い出来たことも含めて、嬉しい偶然(1)でした。

ミックスジュース、アイスカフェラテ、大人のコーヒーゼリーアフォガード(早くも溶け始めている…)

でも、そのカフェ(Cafe Palette)に着いてみると、みんな考えることは一緒で、3人で座れる席が見つかりません。相席をお願いしようと、連れ合いがお顔も見ずに声をかけさせて貰ったご夫婦が、「えっ!えええっ!」、なんとNoism1の糸川祐希さんのご両親だったのでした。それから約30分間、思いがけずも、糸川さんのこと(今日に通ずる「出発点」Noismのオーディションを受けるに至った経緯なども!)やら、今回の公演のことやらを中心に様々話しながら過ごすことが出来た、スペシャルな時間が持てたのでした。これが嬉しい偶然(2)です。

そして、14:30開場。スーツケースをクロークに預けて「87」の札を受け取った後も、ホワイエに留まり、サポーターズ仲間たちと合流して、大千穐楽開演前の華やぎの中に身を置きながら、入り口付近で外の様子に目をやる金森さんの姿を見続けていると、やがて外に向けて手招きをし始めた金森さん。すると、今年も来月に「サラダ音楽祭」でコラボする東京都交響楽団コンサートマスターの矢部達哉さんが入って来られて、ハグをして、それから親密に話される様子などワクワク見詰めたりしていました。

15:00開演。『アルルの女』です。音楽が耳に届いてくると、緞帳の手前、客席に背中を向けた「アルルの女」井関さんと抱き合う「フレデリ」糸川さん、その目の半端ない色気にうっとりしながら、そこから始まる約50分間の「悲劇」を、この日もカタルシスをもって堪能しました。

全6公演が終わった今だから書けること、繰り返される4度の「死」について。あのインパクトある表現は、かつて、劇的舞踊vol.4『ROMEO & JULIETS』(2018)で用いられ、大いに衝撃を受けたもの!今回、公開リハーサル時に、舞台の手前に、舞台高と同じ高さで黒く立ち上がり、ピットを隠すようにめぐらされた目隠し状のそれを目にした時から、「もしかしたら、また、鳥肌が立ったあの表現が見られるのではないか」、そう微かな期待感を抱いたのでしたが、実際に、時を隔てて再び目にした「死」の表現としての「落下」は、微塵もその破壊力を減じることのなく、この演目においても見どころのひとつとして機能し、やはり今回も鳥肌ものだったことを認めたいと思います。

モロに「ネタバレ」になってしまうため、ご紹介を控えていたのですが、新潟公演でのアフタートーク(6/28)において、その「落下」後のコツについて、質問があり、ピットには無数のウレタンスポンジが敷き詰められていて衝撃を和らげてはくれるものの、出来るだけ大きな面で受け止められるように落ちるのがダメージが少ない、そう金森さんが説明してくれたことをここに書き記しておきます。

見事に可視化されていく妄想やら、妄執やら、不在の現前やら。瓦解する精神性が命とりになってしまう様子やら、その表現の巧みさとそれを支える身体の迫真性があって初めて、ラスト、微動だにせず、ただ小首を傾げる「ジャネ」(太田菜月さん)の姿に、あのカタルシスが宿る訳です。この日は埼玉の中日(そして初日)のような「静けさ」「静寂」から始まるリアクションとは別物の、大千穐楽という、謂わば「祝祭空間」がもたらしたのだろう即応性の高い熱烈な拍手が、緞帳が下り切る前に劇場内に谺することになりました。その後の休憩時間にあっては、観終えた観客の多くが、入場時に手にしたパンフレットに、さも興味深げに、目を落としていました。

そして、『ボレロ — 天が落ちるその前に』。ひとり、真上からのダウンライトを浴びて、特権的な赤を纏う井関さんを除くと、他は全員、『Fratres』シリーズ(2019-2020)の黒の衣裳で登場してきます。やがて、ひとり、またひとりとそれを脱ぎ捨て、あれは「キナリ」でしょうか、手足を露出させつつ、「脱皮」或いは「メタモルフォーゼ」を遂げていきます。それはベジャール振付の名高い『ボレロ』とは異なり、中心から周囲への「伝播」の方向性をとるものであり、Noismの集団性を謳いあげるベクトルを感じさせるものと言えると思います。やがて、シンクロして踊る身体を見詰める醍醐味が横溢するでしょう。その美しさ!少し先を急ぎ過ぎました。

加えてこの演目で、その美しさをもって、観る者を圧倒しにかかるのは、徐々に顕しとなっていく最後方、金色のホリゾント幕です。下の方からその金色が見えてくる様子自体が陶酔を誘うひとつのハイライトを形作っている、そう言っても過言ではないでしょう。有無を言わせぬ圧倒的な美そのものです。それは、かつて、『Liebestod — 愛の死』(2017)で用いられた装置であり、ここでも、ラストにいたって、あのときの「屋台崩し」に似た場面が再現され、その頽れる美の有り様で私たちを虜にしてしまうでしょう。またしても、急ぎ過ぎてしまっているようです。

「魔曲」にのって、自らの身体(メディア)をチューニングし、上方、天に向かって、両の腕を伸ばす舞踊家たち。祈りと献身は、中央の井関さんに発して、フォーメーションを変化させながら、やがて、集団へと「伝播」し、全員のものとなっていく。しなやかで強靭な身体。力強くも繊細な身体。優美ながらも艶かしささえ立ち上げる身体。エロス(生)と同時にタナトス(死)、刹那と同時に永遠さえ表象してしまう身体。およそあらゆる二分法が無効化され、止揚されて、迎えることになるラストの一瞬。その陶酔。

この日も客席からは爆発的な拍手が湧き起こり、「ブラボー!」の声が飛び交ったことは言うまでもないことでしょう。

この火を吹くような『ボレロ』の終演後、興奮を抑えることが出来ないサポーターズ仲間に混じって、前出の糸川さんのお母様が、終盤の盛り上がる場面で、中央の井関さんが両脇に目配せして、「最後、思いっ切り踊り切ろう」という感じで誘いかける様子を目撃したと話されると、確かにそう見えたと応じる人もいました。私自身は、しかと目にしてはいなかったのですが、そうだとしても、何ら不思議ではありませんから、「なるほど」と聞いていました。同時に、「全てを観るためには目はふたつでは足りないな。情報量が多過ぎる」、とも。本当に魂から揺さぶられ通しの、圧倒的な大千穐楽だった訳です。

しかし、偶然はまだここで終わりではなかったのです。新潟に向かう新幹線に乗ろうとJR大宮駅まで行き、やや時間をもて余し気味に、新幹線待合室で過ごしていて、ペットボトルの水でも買おうかと売店まで赴いたとき、目を疑うような偶然(3)があり、驚いたのでした。なんとそこには、先程まで踊っていた庄島さくらさん・すみれさんの姿があったからです。またしてもの「えっ!えええっ!」体験です。私の目はハート型になっていたに違いありません。もうテンパってしまったことは容易に察して頂けるものと思います。感動の舞台のお礼を伝えたのち、テンパっていたのをいいことに、「連れ合いも連れて来ていいですか」など口走って、結果、4人で立ち話をする時間を手に入れてしまった訳です。お疲れのところにも拘らず、(同じ新幹線に乗車予定だったため、)まだ少し時間があると、優しく応じてくれたおふたりには感謝しかありません。

そこで件の『ボレロ』における井関さんの目配せについて訊いてしまいました。訊いちゃったんです、実際に。すると、確かに盛り上がりのところで目配せはあったと教えてくれました。しかし、それはこの日だけではなしに、埼玉入りしてから始まったことだったのだとも。で、その目配せで気持ちが通じていることが嬉しかった、そう教えてくださいました。テンパっていたから訊けたことですよね。で、テンパりついでに、『ボレロ』終盤でのおふたりのポジションについても、下手(しもて)側がさくらさん、上手(かみて)側がすみれさんだったことも確認させて頂き、胸のつかえがとれました。今回は髪の色も同じ、髪型も同じということで、見分けるのが極めて困難だったのですが、そんな私の失礼と言えば、失礼でしかない質問に対しても、「そうですよね、見分けはつき難いですよね」、微笑みながら、そう言ってくださっただけでなく、「穣さんも間違ったりしましたから」とまで付け加えてくださる気遣いにホント感動しました。(おまけに、4人で自撮り写真まで撮らせて頂きました。それ、もう宝物です。)更に更に「推し」ていく他ないじゃありませんか!

そんな夢みたいな時間を過ごして、新潟に向かう新幹線に乗り込み、荷物を棚に上げたりなどしていると、通路を歩いて来る男性が、私の苗字に「さん」付けで呼び掛けてくるではありませんか!偶然(4)はここにも。それは山田勇気さんでした。山田さんも同じ新幹線だったのですね。虚を突かれて、「あっ!どうもです」くらいしか言えず、トイレに向かった連れ合いに知らせに行くと、驚いた連れ合いも大した挨拶も出来なかったような始末。常に平常心でキチンと応じることの出来る人にならねば、この日の締め括りにそんな思いを強くしたような次第です。

思いがけず、様々な嬉しい偶然に恵まれたことで、これを書いている今もまだ「Noismロス」に見舞われずに済んでいました。

ということで、このような「箱推し」の推し活ブログ、長々とお読み頂き、誠に恐縮、並びに心より感謝です。

(shin)

『アルルの女』/『ボレロ』埼玉公演中日、圧巻の舞台に客席は…♪

2025年7月12日(土)朝、新潟から新幹線で埼玉入り。彩の国さいたま芸術劇場を目指したのでしたが、我慢できないほどの暑さではなく、ホント助かりました。はい、実に幸いでした。

新潟からの、そして各地から駆けつけたサポーターズ仲間や友人・知人、その顔を見つけたならば、お互いに笑顔で引き寄せ合い、色々話したりしながら開演時間迄を過ごした、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』埼玉公演の中日(なかび)です。

この日も期待通りに、期待の遥か上をいく圧巻の舞台を見せてくれた舞踊家たち。雄弁な身体が切なくも皮肉な物語を語り尽くし、見詰める目をさらっていってしまう『アルルの女』、徐々に熱を帯びていき、遂には完全な燃焼に至る身体というメディアが座して見詰める者のミラーニューロンを刺激しまくる『ボレロ — 天が落ちるその前に』。

この日(埼玉公演中日)、そんな趣きを異にするふたつの演目に対して、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉の客席も見事なまでに顕著な「二様」の反応を示したことを書き記しておきたいと思うものです。

まずは『アルルの女』。ビゼーの音楽も消え、緞帳が完全に降りてしまってもなお、ラストシーンの余韻の強烈さに圧倒された客席は水を打ったように静まり返り、居合わせた誰もがその沈黙を破ることを躊躇い、物音ひとつ聞こえない「静けさ」が訪れたのでした。(それも、体感的には、随分と長い時間に感じられました。)で、ややあって、一斉に沸騰したかのような熱い拍手が湧き起こったような按配なのですが、その拍手の熱さよりも、それに先立つ重くのしかかってくるかのような「静けさ」の方に、Noism版『アルルの女』の凄さを見せつけられた思いがし、この日、そんな稀な時間に立ち会えたことは決して忘れないだろう、そう思っています。

次いで『ボレロ — 天が落ちるその前に』。「魔曲」とも呼ぶべきラヴェルの『ボレロ』に乗って、発火していく身体がまさに生を燃焼し尽くすかのようなその一瞬が訪れるが早いか、座ったまま、煽られに煽られた客席の興奮も頂点に達して、間髪を入れずの熱狂的な拍手と方々から響く「ブラボー!」の声、また声。すぐには笑顔を浮かべることも出来ない、滴る汗と荒い息遣いの舞踊家たちに対し、全身で受け止めた大きな感動に加えて、その昂った感情を解き放つ時を得て、欣喜雀躍するかのようにもスタンディングオベーションを拡げていった観客たち。観る側にとっても、それは同様になかなかに得難い「生」の発露の一瞬だったのであり、「伝播」の主題は間違いなく客席も呑み込んでいってしまったのでした。

この埼玉公演中日は、踊られたふたつの演目がそれぞれに客席を圧倒し、客席は劇場で圧倒される「非日常」の幸福に酔いしれることとなった、それはそれは豊穣な1日でした。

残すは大千穐楽の舞台のみ。凄い「二様」を是非一度、是非もう一度♪

(shin)

彩の国さいたま芸術劇場でのNoism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』初日公演(2025/7/11)に行ってきました。(サポーター 公演感想)

前日(2025/7/10)の大豪雨の効果影響か、道中は大変涼しく、劇場に向かう足どりも心なしか軽やかでした。金森さんの仕業でしょうか(笑)。

いつも楽しみにしている壁面の巨大ポスター、今回はありませんでした。残念…
劇場ビュッフェも営業していました!「コエドビール」が気になる…

客席も平日夜間にしては大分埋まっており安心しました。冬公演(「円環」)からのリピーターもたくさんいらっしゃるのかもしれません。

新潟初日以来の2回目の鑑賞となりますが、2回目にして更に感動しました!
『アルルの女』については金森さんが設定を変えているので、舞台上で起こる出来事をありのまま受け取るのが良いかもしれません。
詳細は観てのお楽しみですが、ひとこと。終盤の「ファランドール」は音楽とのシンクロが笑っちゃうぐらい見事で感動しました!

『ボレロ』も歩みを止めず、徐々に陰を陽に変える力強さが素晴らしいです。過去2回のオーケストラとの共演ではあまり感じませんでしたが、円(卓)を囲んでおどると途端にベジャールぽくなるのが不思議です。

明日、あさってもきっと良い公演となるでしょう。私も最終日に伺う予定です。楽しみにしています!

開場時にはまだ明るかったのに
終演後はすっかり暗くなりました。

(かずぼ)

ウェブ「dancedition」井関さんの連載インタビュー第2回、アップされていました(汗)

Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演に完全に気持ちが向かっていたところ、「投稿日:2025/6/23」との日付で、ウェブ「dancedition」に、井関さんの連載インタビュー「Noism20年 井関佐和子、全作品を語る(2)」が掲載されておりました。1週間以上前になります(汗)!油断しておりました。

既にご覧になられた方も多くいらっしゃると思います。初回分をこちらのブログでもご紹介した際、同サイトでの他の連載ものの更新頻度を「2〜3週間」とみたまでは良かったのですが、『アルルの女』の『ボレロ』の公演が控えていたことから、勝手に次回は「3週間」後くらいかなと判断していました。正確に「2週間」後の第2回アップでしたね。すみませんでした。

でも、更新頻度が「2週間」であるならば、ひと月に2回アップされることになる訳で、予定も立ち易いですね。

で、今回は「black ice」(初演:2004年10月28日)。中越地震のこと、そして誕生日を祝う私家版「金森さん映画」(!)などにも触れられていて、惹き付けられて読みました。「black ice」公演、私はまだ観ていなかった頃ですので、ご覧になられた方々からのコメントをお待ちしております。

第2回へは下のリンクからもどうぞ。

次回は更新から遅れずにお届け出来ますよう、心して臨みます。m(_ _)m

(shin)

『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日、「舞踊」と一体化して踊った舞踊家たちに客席は熱狂!そしてプレトークのことも♪

この「55分」と「15分」の組み合わせを僅か「3回」しか含まない「3日間」は如何に短い時間であったことか。そんな思いに駆られている今は2025年6月29日(日)の夕刻。陽が傾いていて、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日の舞台の幕は既に降りてしまっています。

「3日間」で「3回」、その3日目で3回目の舞台は、舞踊家たちが「舞踊」と一体化した感のある渾身の踊りを見せてくれたお陰で、客席でその一挙一動を細大漏らさず見詰めようとした私たちも、自分のなかにこんなに滾る思いがあったのかと、驚くばかりの「熱狂」に引き摺り込まれてしまうことになりました。りゅーとぴあ〈劇場〉にはそんな非日常過ぎる時間が訪れていたのでした。この表現には、一片の誇張も含まれていません。そしてこの日の高揚感を味わってしまった者は誰しも、既に「Noism沼」の只中にいる自分を見出している筈かと。この表現も、全く大袈裟なものではありません。ただの帰結に過ぎないからです。私、今もまだ余韻に浸っています。

動きが流れるような滑らかさを獲得したことに加えて、表現には一層のエッジが利き、作品はどこをとってもその強度を増して、悲劇性が哀しくも美しく胸に迫ってきた『アルルの女』。
胸熱の高揚感は言うまでもなく、身体、衣裳、照明、装置の全てが綾なす色の美しさは息をのむほどで、金森さんの美意識がこれでもかと詰め込まれた『ボレロ - 天が落ちるその前に』。
両作品によって心を激しく揺さぶられ、興奮の坩堝と化した客席からは、(この日も)割れんばかりの拍手+「ブラボー!」+スタンディングオベーションが沸き起こり、その「熱狂」のなか、新潟公演の幕は降りていきました。

そこから時間を随分と遡ることになるのですが、開演時間(15:00)の1時間前に初めて取り入れられた趣向である「プレトーク」についてご報告することも、この日のブログの務めと認識しておりますので、ここからは、金森さんが大勢の前で語った内容を掻い摘まんでご紹介させて頂きます。(13:58~14:17)

○初めての「プレトーク」、やりたいと言い出したのは井関さん。「踊っていないので、やれますよね」と言われて。元来、前もってしゃべることは好きではないのだが。色々書いたりはしているけれど…。

●(『アルルの女』のあらすじに触れながら、)祖父、母、フレデリ、そして原作では「ばか」と呼ばれる弟ジャネという家族構成中、「一番大切なフィギュアなんじゃないかと思った」のは、弟ジャネ。「アルルの女」と息子、母と息子、家族と村、村と都会、様々な問題について、その全てを見詰めながら、ある種の「知的判断」を下さない存在。

○そのジャネをその身振りから、犬や猫という「ペット」と見た人もいたりするみたいだが、彼は弟。しかし、自由に発想して欲しい。皆さんの感性が何を読み解くか、それが「芸術」。

●祖父の役名は「常長」とした。初めて欧州に渡った日本人のひとり(支倉常長)。原作の舞台は南仏だが、「模倣」してやっても仕方ないので、そこになにがしか「和」の要素、身体的・精神的な繋がりのエッセンスを盛り込みたいと思ったもの。

○南仏の死生観、(花々を投げ込むような)祝祭性のなかに、すっと入り込んでくる死。死の捉え方を南仏のものではなく、「和」的なものに置き換える。(「メメント・モリ」、『葉隠』に言及しながら、)武道をもってある種の「生きること」「死ぬこと」を見る。

●南仏と日本人。『ファランドール』の感動。聴いたとき、木刀となぎなたを持つ日本人の姿が見えた。そんな自分を「変な人なんです」と金森さん。

○ビゼーによる『アルルの女』、もともとは「劇付随音楽」として作曲されたもの。ビゼーの死後、後世の人たちが「組曲版」を構成。もとが悲劇だけに、「劇付随音楽」には、不安や哀切を掻き立てる旋律があり、そのCDに出会ったとき、これはオリジナルなものが作れるなと思った。このような音楽構成で『アルルの女』をやっている例は他にない。

●ドーデの原作「戯曲」には、村、コミュニティ、家族といった囲い(フレーム)が出てくる。人はひとつのフレームのなかに、またいくつものフレームを抱えて存在している。フレームはその人を規定する要素でありつつ、それによって、どれだけ束縛され、囚われて生きているか。フレームのメタファー。そのひとつとして、劇場舞台のプロセニアム・アーチも挙げられる。(それがために、かつて街なかへ出たりした人たちもいたが、やがて劇場に回帰した。)『アルルの女』では、それを視覚的に意識して貰いつつ、物語的には、他にもフレームが登場してくる。

○フレームと関連したものとしての「静止」のシーン。ある種の「絵画性」がある。静止画は、物質化した「もの」として見ようとする見方による。身体を単純に「もの化」することは出来ないが、そこにある身体を極めて非日常な「もの」として、或いは、身体の可能性として、美しい身体を提示したい。カラヴァッジオが描いた、ルネサンス期の絵であるような身体を。
今回は演出としても、いつも以上に意識的に「静止」を多用している。絵画から発せられる非言語的な何かを視覚的に読み取ろうとすることは、舞台芸術に対する場合も同じ。

●(「プレトーク」も終わりに至り、)一旦、今聴いたことは全て忘れてください。舞台芸術を観ている時間は本当に自由な時間。正しいか、正しくないかではなく、「自分はこう感じた」を大切に。

…頑張ってみたつもりです。金森さん初めての「プレトーク」の試み、ご紹介は以上とさせて頂きます。

さて、6月のNoism公演はこの日をもって終了し、今度は2週間後の7/11(金)、12(土)、13(日)、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉での「埼玉3Days」に引き継がれます。
埼玉でご覧になる予定の方、もう少しの辛抱です。その間、期待値をバクあげしておいてお運びください。それでもその「期待値」想定を遥かに凌駕する大きな感動と出会えることに間違いないものと信じます。「しあわせは食べて寝て待て」ってことですかね。

書き終わってみると、既に「大河ドラマ」は終わっていました(汗)。蛇足でした。

(shin)

『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演中日、日々新たな感動と金森さんのアフタートーク♪

蒸し暑かった2025年6月28日(土)。この日が中日(なかび)だったNoism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』の新潟公演ですが、本公演期間中、唯一、終演後に金森さんによるアフタートーク(約30分)が組まれた、その意味でスペシャルな一日だった訳です。

今日のブログは、そのアフタートークを中心に書こうと思っていますが、先ずはこの日のふたつの演目について感じた事柄を簡単に書き記すことから始めさせて頂きます。

『アルルの女』、昨日に続けて2度目の鑑賞となると、当たり前のことですが、かなり余裕をもって見詰めることが出来ました。前日は拾えなかった細部にも目を凝らすことが出来てみると、この作品は、「ある種の抽象度」があるという触れ込みですが、「妄想」や「妄執」を中心に据えつつ、細部が知的かつ繊細に組み立てられた精緻な作品という思いを強くしました。ただ観ているだけでも相当に楽しい55分間なのですが、作品内で提示された関係性について考えてみようとすると、理詰めで細部から作品全体に迫る途が見えてくるように思えます。ですから、見終えた後もじっくり考えてみる楽しみがある作品と言えるでしょう。

『ボレロ - 天が落ちるその前に』となって、こちらもこの日が2度目の「シン・ボレロ」。散りばめられた師「ベジャール印」の引用と教え子「金森印」の動きが、ラヴェルのあの音楽内で同居し、かつ、豊かに絡み合う様子を見詰めることによって、私たちの目が感知するのは、師と教え子の間の深い愛情以外の何物でもないでしょう。注がれた愛情に報いんとばかりに、ありったけの思いを込めて両手を伸ばして、届け返そうとする先は、これもまた「天」。ですから、「天」はこの作品において、単に「杞憂」の対象であるばかりではないことを感じ、その意味でも胸を熱くしました。

そんなふたつの演目を一度に観ることが出来る「イヴニング」です。ホントに「マジ凄い」としか言えない訳です。

『アルルの女』の後も、客席からは熱のこもった反応が示されましたが、『ボレロ』の後はやはり、大興奮が客席を覆い、割れんばかりの大きな拍手に、「ブラボー!」が交じり、スタンディングオベーションが広がっていきます。舞台上もそれに応えるべく、金森さんも加わったかたちでの前日同様のカーテンコールが幾度も幾度も繰り返されることになりました。

ここからは、この日のアフタートークについて掻い摘まんでのご報告とさせて頂きます。登壇者はNoism Company Niigata芸術総監督・金森穣さん。先ずはいつも通りに、「今日初めてNoismをご覧になったという方、手を挙げてください」から。客席を見渡した金森さん、「割といるね。Noismのチケット買えないよね、ってふうにならないとね」と続けて、その後、スタッフが客席から回収した「質問シート」について、「今日は結構あるね」と言いながらも、ひとつひとつ丁寧に答えていってくれました。

Q1: ストーリーのある演目で、それぞれのキャラクターはどう確立させるのか?
 -A: キャラクターは個々に伝えていくが、最初からはあまり伝えない。舞踊家が音楽と振付からキャラクターを感じ取る。メンバー同士でも、どう感じて、どう出してくるか。そこからまたキャラクターを拾い上げていく。必ずしも当初のイメージ通りではないが、その舞踊家が見出したものは豊かだ。

Q2: 舞踊家の個性について
 -A: 個性のない人はいない。舞踊家にとって、如実に身体そのものが一人ひとりの個性。そしてそれをもって何になりたいかが大事。また、関係性のなかで、人格は形成されていく。例えば、Noismに入って形成されるものもある。日々深化し、日々見出されるものでもあり、それはまた、今のものでしかない。より高めよう、深めようとすること。 

Q3: 海外公演について
 -A: スロベニア公演が6年振りの海外公演。国際的な場で、どう評価されるか、世界中の反応を直に見てみたいと思っている。そして、それをもって「ホーム」新潟で公演したい。自分たちが信じている表現がどう受け止められるのか、如実にわかるのが海外公演。

Q4: なぎなた、木刀が象徴するものは?
 -A: ある種の「葉隠」。生きるとは?死ぬとは?これ以上は言いません。

Q5: 音楽と振付、どちらが先か?
 -A: 7~8割、音楽が先。音楽がなければ、振付が始まらないっていうのはシャクに触ったりもするが(笑)、この世にあって欲しいものの筆頭が音楽。音楽が先。

Q6: 「役を入れ込む」作業に関して
 -A: 「入れ込む」?彫刻家が彫っていく感じ。無駄なものを削いでいく。どうしてもくっつけたくなりがちだが、より強い表現は足していったものではなく、削いでいったものの方。

Q7: 今回の『ボレロ』における、ベジャールさんへのオマージュに関して
 -A: 例えば、師匠の「赤い円卓」が、井関さんの「赤い衣裳」になっている。師匠の円卓は、俺にとっては身体なんだと。

Q8: キャスティングに関して
 -A: その世界のなかに見えることが大前提。しかし、今持っているものだけでキャスティングしていく訳ではなく、これからの変貌も楽しみ。苦労がある方がいい。

Q9: 『ボレロ』を作るときの思いにはいつもと違うものがあったか?
 -A:恩師の代表作ということはあるが、特別違うということはない。覚悟が要ることではあるけれど。

Q10: (山田勇気さんが演じた)「祖父」は侍なのか?
 -A: ドーデによる原作は南仏が舞台で、「常長」は架空の設定。欧州に初めて渡った日本人のなかに侍だった人がいた(=支倉常長(はせくらつねなが))。時代とともにその存在価値が失われていった侍。彼が欧州で家族を持ったらどんなだったかと空想してみた。

Q11: 本番までのプロセスに関して
 -A: 先ずは、信じる。→ついで、批判的に疑う。→そして、迷った末に見つける。そのループのなかで本番という瞬間を迎える。その時にはもう信じるしかないが、終わった瞬間に、また疑問が生じてくるもの。

Q12: ビゼー『アルルの女』の音楽に関して
 -A: 「劇伴音楽」として作曲されたもので、そこには不穏さや蠱惑的なものもあったが、コンサートでは、人はそんなものを聞きたがらず、「組曲版」では、明るくポジティヴなものだけが残ることになった。「そりゃ、そうだよね」。今回、「劇伴音楽」も使ったが、フェイドアウトやカットなどを除けば、特にアレンジはしていない。

Q13: 赤いフレームと衣裳のなかの「赤」に関して
 -A: どちらの色も実は「オレンジ」。衣裳には「傷」が欲しかった。その「傷」から見える内面の色、それをフレームと同じ色にした。オレンジは人間の網膜によって、闇のなかで一番強く認識される色でもある。

Q14: 動きと「語り」に関して
 -A: 常に口を酸っぱくして言っているのが、「動きで語りなさい」。もし語っていない瞬間があれば、それはダメ出しのポイント。

Q15: 『アルルの女』の衣裳に関して
 -A: 今回担当して貰ったのは初めて一緒にやるデザイナー(井深麗奈さん)。あるとき、ポートフォリオを送ってきてくれて、いつか一緒にやりたいと思っていた。先ずこちらからざっくりしたイメージと台本的なものを送り、デザイン画を描いて送って貰うところから始まった。また、お願いしたい。

Q16: どうして『アルルの女』をやることに決まったのか?
 -A: 自分のなかでは、気がついたら決まっていた。「もう『アルル』だなと」。たまたま原作を読んだら、「なるほどね」となった。だから出会い。机の上に読んでいない本や聴いていない音楽がたまっている。それがあるとき、ガチャガチャッと嵌まっていく。今この瞬間にやりたいのに、それが作品になるのが「2年後」というのも不思議と言えば、不思議。その間は「多重人格」的な自分がいる。『アルル』に恋した自分と、次のものに恋している自分。色々なものがアンテナに触れて、それでも失われない「恋」が本物。『アルル』は変わらなかった。
 あと、何作品作れるんだろう。これまで100作くらい作ったが、「今、これが最後になっても構わない」という思いで作ってきた。身体はひとつだし、時間も限られている。結構、本気。もっと色々作りたいのに、今、これしか出来ないそのひとつなので、賭けている。舞踊家の佐和子も、あと何回踊れるだろうという思いに向き合っている。終わるとなくなってしまい、後には残らない、舞台芸術の不条理。いつまで作れるのか、いつまで踊れるのか、わからない。まさに一期一会。だから、見逃さないで欲しい。
 明日もまだ少しチケットはある様子、是非もう一度。(19:15)

…ざっと、そんなところで、アフタートークのご報告とさせて頂きます。(ネタバレとなってしまうやりとりについてはご紹介を控えさせて貰いました。全公演終了後にでも、改めて書きたいと思います。)

さて、日付は6月29日(日)にかわり、はやくも今日が『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日です。空席を作っておくのは実に勿体ない、充実した公演であることは、ご覧になられた方はお分かりの筈。ならば是非、もう一度♪未見の方も是非、一度♪この公演を目にしてしまったなら、「必見」というどこまでも「無粋」でしかない言葉など使わずにおきたいところですので、こちらをお読みになられた方は是非、喜び勇んで、りゅーとぴあ〈劇場〉まで♪想像し得る限りの豊かな時間が保障されています。

(shin)