大学生たちが見たNoism『境界』②(公演感想)

様々な『境界』の世界

 「境界」を共通ワードとした山田うん演出振付のNoism1『Endless Opening』、金森穣演出振付のNoism0『Near Far Here』の2本立てで構成された公演。

 『Endless Opening』は何もない無機質な空間に、明かりが入り、音が入り、そして、動きが入る。カラフルでひらひらとした衣装が、この無機質な空間に映える。踊りが進んでいくと、ベッドのようなものが次々と出てくる。そこで踊った後、また何もない真っ白な空間で踊り出す。集団になったり、個々での動きだったり、また衣装も相俟って演者たちは鳥を表しているのではないかと感じた。ベッドの上でスポットライトが当てられ踊る姿は、それぞれの死や苦しみのようなものに見えた。上着を脱ぎ自らベッドを暗闇の中に運び、真っ白な空間で踊りだした。暗闇は自分の命の終わりで、真っ白な空間は死の世界、又は新たな命の世界なのではないかと感じた。
 私はこのように解釈したが、「観客の皆様にそっと寄り添う、時間の花束のような舞踊をお届けできたら、境界という不確かな美を感じていただけたら幸いです」という山田うんが実際に表したものは、「喪失感や虚無感を優しく撫でる光のカーテン」である。この解説を読んだ後、作品を思い返すと、何もない空間が演者によって段々と色付けられていく時間でもあったと感じた。一つ残念に思う点は、ベッドを運んでくる音だ。演出の一部であるのかもしれないが、運んできた時の「ギギッ」という音はあまり良いとは思わなかった。

 『Near Far Here』は常に異世界のような空間にいる感覚があった。少しずつ変わっていく空間。上から四角い枠のようなものが降りてきて、演者が踊る。ただの枠がまるで鏡のように見える演者の動きや、後ろに映る影が1つから2つへ、大と小の動きが幻想的である。照明による影からスクリーンを使った影へと変わり、スクリーンに映る影と実際の影の融合は、現実と映像の境界にある空間を作っている。また影から人物へ、影の時と同じようにスクリーンと実際の人物の境界。幕が閉じ、会場に響く重低音。優しく明るいメロディーが鳴り、幕が開くと、あたり一面真っ赤な花びらの空間になり、客席にも頭上から花びらが降ってくる演出であった。最初に幕が開いた瞬間、何か凄いものが始まるのではないかと感じたのが率直な感想だ。袖幕を取っ払い、照明は剥き出し、上には色々なものが吊られていて、『Endless Opening』とは全く違う空間があった。
 金森穣はこの作品を「近くて、遠い、此処」と表している。此処とは何処なのか、言葉にはできない此処の空間、時間があったと感じた。スクリーンを使うという考えは、現代社会を簡潔に表していると思う。スクリーンが映しだす現実と虚実、実際に演者が動く現実が融合されて、「境界」というワードが当てはまる作品であると感じた。

 2本の作品を観て、「境界」というワードによって、観た人の解釈は様々なものになるのではないかと感じた。コンテンポラリーダンスは、表現の方法が多様である。多様である故に、作る人によって独特な表現で作られる為、受け取る人の解釈も様々であると思う。「境界」というワードがあるだけで、それぞれの作品に隠された「境界」の空間を感じ取ることができるのもコンテンポラリーダンスの面白さであり、それぞれの作品の面白さを感じ取れた公演であったと感じた。

(中川怜菜)

大学生たちが見たNoism『境界』①(公演感想)

いつも公演批評を書かせていただいております、稲田奈緒美と申します。
私は現在、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修で教鞭をとっており、秋学期には私が担当する授業「舞踊作品研究B」で、世界のさまざまな振付家、作品を取り上げました。
オンライン授業だったため、映像ではありましたが、学生たちはたくさん見た作品の中でもNoism作品に大変感動していました。

また、演劇・ダンス専修では、教員が学生たちに観てほしいと思うダンス公演、演劇公演のチケットを購入し、学生たちが見られるようにしています。そこで、秋学期にはNoism Company Niigata による公演《境界》を取り上げました。「舞踊作品研究B」を履修している学生たちも《境界》を見に行き、課題レポートとして批評を書いて提出しました。

学生たちはダンスへの興味も様々で、注目する点も異なります。また、舞台スタッフの視線で上演を見て、レポートを書いた学生もいます。演劇・ダンス専修でダンスや演劇を学ぶ、若い学生たちの瑞々しい視点による、初々しい批評をお読みいただければ幸いです。(稲田奈緒美)

Noism Company Niigata の『境界』観劇して

 世の中がクリスマスムード一色のなか、東京芸術劇場プレイハウスにおいて2つの“境界”を目撃することとなった。

 2021年9月に、Noism1に新たに5人のダンサーが加わった。新潟出身のダンサーが加わったことで、より“新潟からの発信”ということが厚みを帯びたように感じた今作。山田うんと金森穣による“境界”へのアプローチは、同時にNoismの存在価値の表明を意味しているのではないだろうか。山田うんと金森穣の2人の振付家が織りなすNoismダンサーの異なる魅せ方をみていきたい。

 照明が白く灯り、『Endless Opening』の幕が上がった。これまでのNoism1では考えられないほど、色鮮やかな衣装を纏っているように感じた。ここから、山田うんと金森穣のNoism1のダンサーの魅せ方の異なりがみえてくるのではないだろうか。山田うんは今回、“新潟”という地での滞在から感じたものをダンサーひとりひとりの身体に落とし込んだ。また、Noism1の新メンバーも半数以上が新潟の地に来てまだ間もないという中の今作品。『Endless Opening』という名の通り、始まりに相応しいかのように華やかさが止まらない。この華やかさの連続性は、作品の中で何度も用いられるカノンの振付にも影響していたのではないだろうか。ダンサーが華やかな衣装に身を包み、舞台上を駆け回って群舞で舞う姿は、まさに花束を観客へと届けるかのようであった。照明のカットアウトの多さから、物語性ではなくダンサーの人間らしい “動”的な部分が強く印象に残った。新潟の地で感じた自然の数々をダンサーに投影し、観客とコミュニケーションを図る技法は、国内外の様々な地でワークショップを行い老若男女問わず様々な人と関わってきた山田うんにしかできない作品であった。また、今作品で使用されたローラー付きの大道具はダンサーの身体性の高さによってローラーそのものにロックをかけずとも成り立っていたのではないだろうか。

 一方で、休憩後中の余韻もお構いなく幕の上がった『Near Far Here』。始まりから、山田うんと対称的に主導権は金森穣にあるようだ。それでも、観客は“待っていました”と言わんばかりに前のめりであった。「近くて、遠い、此処」。私たちが現代社会で見えているもの・感じ取っているものは、果たして何なのか突きつけられているようであった。舞台上に映し出されたNoism0のダンサー3人の影は、私たちが見ようとしてこなかった、あるいは関係のないものとしてきた遠いものなのだろうか。劇場に響き渡るバロック音楽に、決して負けることのない3人のダンサーの身体の運びは、一見客席との境界線を生んでいるかのようであるが、今ココに生きているということを共有し、境界線を無きものとしていたのであった。新潟に本拠地を置くNoismが県外で公演を行う意味、新潟市の様々な問題と向き合う金森穣だからこそ他人事にして欲しくない何かがあるのだろうか。バラが宙を舞う。高知公演の『夏の名残のバラ』に続いていくかのように幕を閉じた。

(石井咲良)

2022年7月Noism×鼓童公演に向けて、『鬼』特設サイト設けらる♪

きたる7月、Noism Company Niigataと鼓童という、世界に向けて本県のパフォーミングアーツを牽引する「新潟ツートップ」が本格的に初共演します。双方の本拠地である新潟を皮切りに、埼玉、京都、愛知、山形と巡るツアーですが、募るその期待感の「受け皿」として、この度、強力な特設サイトがオープンしました。

こちら、もうご覧のことかと存じますが、内容「鬼」充実で、読み応え満点なうえ、更に以前の金森さんと鼓童・船橋裕一郎さんの「代表対談」動画も見ることが出来ます。2020年7月に配信されたこちらの動画に関しては、本ブログでも取り上げております(「金森さん×「鼓童」船橋裕一郎代表オンライン対談@鼓童YouTubeチャンネル」)が、そのなかで、金森さんが「オレ、せっかちだから」としながら、「そのへんの制作の人」に訴えた「2022年の春夏でお願いしま~す」の共演が実現するのがズバリ2022年7月!さすがはこれまで数々の開かずの扉をこじ開けてきた「有言実行の人」金森さんですね。

作曲家・原田敬子氏による新曲でNoism×鼓童により新たに創作される『鬼』。原田さんと言えば、富山・利賀村で上演されたNoism0『speed/ still/ silence』(@第9回シアター・オリンピックス:2019)の音楽に立ちこめる不穏な濃密さの印象が記憶に新しいところです。そして同時上演されるのはディアギレフ生誕150周年記念・Noism版ストラヴィンスキー作曲『結婚』。こちらのバレエ・カンタータも打楽器と歌を中心とした特異な組み合わせの楽曲ですし、出るのは鬼か蛇か、今から両作に溢れるだろう豊穣なリズムに乗って展開される「異形」の舞踊を妄想しております。

この新作2本立てダブルビル公演は、最初の速報チラシによる告知以来、ワクワク感しかなかった訳ですが、この特設サイトを見ることで、更にそのワクワク感は加速し、身悶えするまでに至ること必至です。まだご覧になってない方は是非とっぷりご堪能ください。

(shin)

Noism0 / Noism1《境界》東京公演 

稲田奈緒美(舞踊研究・評論)

 2019年からゲスト振付家を招いて催しているダブルビル公演。芸術監督による色を鮮明に打ち出すことで、カンパニーとしての個性を獲得してきたNoismが、いわば外から血を入れることで、多様な視点を獲得し、新たな可能性を見出す機会となっている。今回招かれたのは、山田うんであった。
 
 山田は、圧倒的な身体能力と豊かな感性を持つメンバーで構成するカンパニー、Co.山田うんを主宰しており、その点ではNoism芸術監督の金森穣と等しい。ストイックにダンスを追求する点は同じだが、Noism作品は構築的でエッジの効いたものが多いのに対し、山田うんの作品から受ける印象は対照的である。山田はよりほんわか、ふんわりと包み込んでダンサーの個性を活かしつつ、身体的、芸術的な要求を高め、最大限引き出そうとするのだ。その山田が、今回初めてNoism1のメンバーに振り付けた。プログラムにある金森の文章によると、創作途中でキーワードを山田に尋ねたところ「境界」があがり、偶然にも金森と重なったことから、今回の公演タイトルが決まったそうだ。個性も創作方法も全く異なる二人の振付家が挙げた「境界」をテーマに、この公演が構想された。

 一作目は山田うんの演出、振付による『Endless Opening』。第1章から第4章まで分かれており、幕があがると、カラフルな布で作られたシャツとパンツに、柔らかな薄布を花弁のように散らした上衣を羽織ったダンサーたちが、やわらかく、流れるように踊り始める。色の組み合わせはそれぞれ異なるが、男女の区別はない。体形や性別による役割、民族的な差異ではなく、それぞれに色、個性が異なるだけなのだ。そんなジェンダーを揺さぶる小さな仕掛けは、山田の作品に珍しくない。群舞になり、ソロになり、グループに分かれと自在に構成を変えながら、音楽を浴び、光を受けて軽やかに踊るダンサーたちの心地よさが、客席まで伝わってくる。但し、それだけでは面白くない。山田は、動きと動きのあいだの粘りや余韻を振付にいかし、何気ないステップを繋ぐかに見せて、意表を突く。それらがごく自然にダンサーの身体から生まれており、動きの余韻が空気に溶け込んで、フォーメーションやステップの変化によってダンサーとダンサーの関係性が緩んでいくようである。ダンサーたちのからだがおだやかに、やわらかく開かれていくことで生まれるダンスが、自らの身体と空間という境界を、自らの身体と他者の身体という境界を、浸潤していくようである。


 山田は創作のために新潟で滞在した折のことを、以下のようにプログラムに記している。「信濃川のほとりを歩くと、水面を蹴る光、厚い白雲、草の匂いを感じながらその全てが心地よく新鮮で、私に創造する力を与えてくれました」。山田が信濃川のほとりで感じた、光や音や風の有機的な動き、生まれ、消えゆくときの余韻のようなものがインスピレーションを与えたようだ。それがダンスという表現に生まれ変わることで、物理的な境界としての身体、それを囲む空間、自己と他者という境界が、やわらかく浸食しあいながら溶けていくようであった。親和することで、境界がゆるみ、互いに浸潤していくのだ。


 ところが第3楽章になると、ダンサーたちの動きは止まり、一人一人が運んできた台車をのぞき込む姿でフリーズする。台車はベッドになり、棺になって、それをのぞき込んだ体勢のまま動かないダンサーの身体が、死と決別の悲しみ、苦悩、鎮魂を現出する。台車の中に収められ、隠された死と、それを上からのぞき込む生々しい肉体。生と死の境界は断絶されているのか。いや、この境界さえもこのシーンではやわらかく浸潤し合う。そして台車の上に横たわるダンサーたちの身体が、今度は胎児のように縮こまり、種子のように凝縮したところから、揺らぎ、もがくことによって新たな命として誕生していく。そうして生まれ変わったダンサーたちは、両腕にまとってきた薄布の花弁のような袖を脱ぎ、手向けるように台車において、舞台の奥へ向かって台車を押して進んでいく。その姿から色彩が消えて黒いシルエットのみになったとき、台車とダンサーのあいだに幕が降り、幕によって隔てられた明るい空間が再び現れる。

 第4章は、再びあかるく軽やかな音楽に乗って、ダンサーたちは一人で、デュオで、アンサンブルで踊っていく。そのダンスは、他者と共に動くことによって身体という境界を拡張していくようである。最後は全員がひとかたまりとなって踊るのだが、それは一糸乱れぬ群舞が美しい、というある種のダンスの価値観とは異なるものである。個を消して合わせようとするのではなく、個と個が境界を侵食し合うことで緩やかな塊となって動く生命体のようであった。

Noism1『Endless Opening』
撮影:篠山紀信

 心地よい動きや美しいアンサンブルといった、一見ウェルメイドなダンス作品のようでありながら、山田らしいユーモアや痛み、挑戦や揺らぎ、踊る喜びを巧みに配した作品。ダンスによってからだを、個を、生を開き続けていくことで、死と喪失に向き合い、受け入れていく。そんな山田の思いに、信濃川の陽光とNoism1のダンサーたちが応え、観客に伝えてくれた。

 後半は、金森穣の演出、振付で、Noism0の3人が出演する『Near Far Here』。真っ暗な舞台上に、白いプリーツの打掛のような衣装を纏った井関佐和子が一瞬現れ、暗転。再び白い衣装の井関が現れると、まるで空間移動をしたかのように立ち位置が変わっている。再び暗転から一瞬の明滅で現れる。それを繰り返しながら後方へと移動し、照明がつくと白いオブジェのような井関の前に、黒い衣装の金森が影のように重なっている。やがて動き出した二人が徐々に別れると、矩形の枠が現れ、山田勇気と金森が鏡に映った実体と影のように同調し、重なりながら動き、別れていく。バロック音楽の峻厳で美しい響きが舞台を満たす中で、3人の身体が重なり、離れ、ぶつかり、引き寄せ合いながら踊っていく。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 やがてスクリーンが上方から降ろされると、3人の影が映し出され、影が踊り始める。さっきまで目の前で踊っていた3人が映し出されていると思いきや、微妙なずれから予め撮影された映像と、今起こっているダンスの影で構成されていることがわかってくる。今、ここで、目の前で起こっているリアルな現象と思い込んでいることが、じつは今、ここではない時間と場所で起こったことであり、その判別が困難であることを示す。次に山田が透明のひし形プレートを持って現れ、それをあいだに挟んだまま、触れ合うことのないまま井関と踊る。手を伸ばせばすぐに届きそうでありながら、決して到達することのないその距離は、私たちの日常を彷彿とさせる。さらにスクリーンが上部から降りてくると、鏡を重ねたように映像がコピーされながら奥へ奥へと、無限に反復していく。それはコピーと反復によって作られた、ここから遠くへと引き延ばされていく、目の眩むような時間である。このように様々な象徴的な仕掛けによって、様々な遠近を見せながら、3人は別々に、あるいはデュオで踊っていく。ここにいる自分と他者、ここにいるはずが幻影であった他者、近くにいるのに触れることはできない距離などが、次々と呼び寄せられ、それらを隔てている境界が身体によって検証されていくかのようだ。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 様々な思いを投影しながら井関と金森がデュオで踊っていると、パーセルのオペラ『Dido and Aeneas』から「remember me」という歌詞が切なく響く哀歌が流れ、静かに幕が降りる。生が死によって引き離されるかのような静けさが漂うが、再び幕が上がると舞台一面に赤い紙吹雪が積もっている。ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』が天上から降り注ぎ始めると、三人が舞台へ進み出て挨拶をする。通常は作品と切り離されたカーテンコールが、ここでは死から再生という境界、舞台と客席という境界を超える演出になっているようだ。客電が点くと、赤い紙吹雪が客席にも降ってくる。血潮のように赤い紙吹雪が劇場中に舞うことで、観客である私たちにも境界を超えるための息が吹き込まれるように。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 今回は山田作品、金森作品ともに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延という現状を含めた別離や鎮魂を経て、救いや希望へと向かう意思を感じさせた。鋭敏な感性の持ち主である振付家、ダンサー、スタッフらが自ずと時代を映し出したのだろう。山田は、ダンサーの身体によって、身体という境界を浸潤し、親和しようとする。対して金森は、境界についての世界を立ち上げ、物語るために、ダンサーの身体とその動きは様々な象徴や記号として変化しながら立ち現れる。二人の振付家とダンサーたちによる、身体の、人と人の、時間と空間の、リアルとバーチャルの様々な境界に関する思索が、全く異なるアプローチによって表現されることで、身体を媒体とするダンスの豊かさと可能性を噛みしめる充実した公演であった。

(2021.12.24(金)/東京芸術劇場〈プレイハウス〉)

PROFILE | いなた なおみ
幼少よりバレエを習い始め、様々なジャンルのダンスを経験する。早稲田大学第一文学部卒業後、社会人を経て、早稲田大学大学院文学研究科修士課程、後期博士課程に進み舞踊史、舞踊理論を研究する。博士(文学)。現在、桜美林大学芸術文化学群演劇・ダンス専修准教授。バレエ、コンテンポラリーダンス、舞踏、コミュニティダンス、アートマネジメントなど理論と実践、芸術文化と社会を結ぶ研究、評論、教育に携わっている。

ほくそ笑む金森さんを想像して膝を打つ、新潟と池袋の『境界』公演(サポーター 公演感想)

☆Noism0 / Noism1『境界』新潟公演・東京公演

 新たなレジデンシャル制度への移行に際して、「芸術監督」の任期が取り沙汰されるなか、先にNoismの活動継続の折に求められていた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会の提供と、金森さん自身がかねてから唱えている「劇場文化100年構想」の今後の展開とをリンクさせるかたちで結実したこの度の『境界』公演。それは、私たちの、言ってみれば「平穏」やら「安定」やらを志向しがちなやわな気持ちを大きく揺さ振る、「越境」の意志に満ちた大胆な公演だったと振り返って思う、今。

 先ずは、山田うんさんが招聘されて演出振付を行ったNoism1『Endless Opening』。ボロディンの弦楽四重奏曲第二番、その旋律が伝えてくる軽やかな華やぎと、時折、そこに差し込むある種の切なさが、9人の舞踊家の「個」を魅力的に見せつつも、より大きな調和へと回収するかたちで踊られていくことで、端正なイメージを残す爽やかな作品。主に「生」と「死」を巡る「境界」が主題化されているとみたが、「死」が組み込まれて流れる「生」の時間の在り方を首肯せざるを得ないものとしつつ、それでも踊らずにはいられない、或いは、それ故にこそ抗して踊らんとする舞踊家の意志、または宿痾とも呼ぶべきものが清冽に発散される愛すべき演目だったと言える。

 身体のメカニクス的に「踊れる」舞踊家9人を前にして、楽しくて仕方なくて、「もっともっと」と要求していったのだろう山田さんと、作品が求める笑顔のままに、それに応じ続けた舞踊家9人との創作過程を想像してしまうのも宜なるかなといったところか。踊り終えて、下りた緞帳のその向こう、舞踊家9人の荒々しい息遣いが客席まで届いてきたその演目、それをNoism的なるものと非Noism的なるものの化学反応が結実した果実とみるなら、それはまさしく、当初、両者の間に存した「境界」の双方からの「越境」そのものなのであり、同時に、それは冒頭に挙げた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会が提供されたことをも意味しよう点で、金森さんが期待し、思い描いたところが十全に成し遂げられたということにもなろう。その後の20分間の休憩時間を、まるで夢見心地の、ふわふわした気分で過ごしたことが思い返される。

 しかし、休憩という「境界」を挟んで、まったく異質の時空に身を置くが如き体験が待っていようとは、いかに予想していようと、していないも等しいほどであった。

 金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』、先刻までの夢見心地も何処へやら、冒頭、雷鳴に続いて、井関さんの姿が闇に浮かび上がる場面から、力ずくで「越境」してくる途方もない凄みには観る度に圧倒され、捻じ伏せられるより他になかった。

 「バロック」が意味する「歪な真珠」然として、敢えて統一感を放棄したかのような幾つもの部分からなる作品構成には、ただ繰り出されるものを整理する間もなく受け取ることしか許され得ず、いったい今がいつで、ここ(Here)はどこなのかを不分明にしてしまう効果が絶大で、私たちは手もなく、これに続く「越境」の渦中に自らを見出すのみである。

 そうした敢えての不統一のなかにあって、下りてくる「枠(フレーム)」を巡る金森さんと山田勇気さん、或いは、「影(シルエット)」の前景で踊る3人、そして大写しにされた自身の「映像」の前で踊る井関さん、そのいずれもが「二重性」という共通項をもって、見詰める目に迫ってきたことは印象深い。彼は、彼女は誰なのか、その「境界」はどう画されるのかという訳であり、ここで想起したのは、フランスの哲学者ジャック・デリダの「差延(さえん)」という概念であった。「自己同一性」はアプリオリ(先天的・先験的)に自明な「境界」を有してはおらず、他との「差異」に遅れて現われてくる(現前する)ものに過ぎないとするものである。しかし、そうした概念と共に見詰めてしまうのは、「観ることの純粋な驚き」を減じかねない危険性を孕むことでもあり、決して望ましい態度ではないのかもしれないが、よぎってしまった以上、もう仕様がない。それでも充分に刺激的な視覚体験であったうえに、同時に、一種、哲学的な(自分という存在の「境界」を巡る)問題系に放り込まれたことで、嗜虐的な快楽を愉しんだことは記しておきたい。

 そして圧巻はラストの場面。目の前に広がったえも言われぬ光景には、呆然とし、息を呑んだ。もしかしたら、あらゆる人の裡に共通して存在するイメージが可視化されたのではないかと思われるような光景。また、それは「人」という存在にプリインストールされた内なる「宗教心」(それは実際のあれやこれやの宗教に向けてのものではない)のようなものに触れる場面だったという言い方も出来るかもしれない。その怖いような美しさを前にして味わった感覚は、勿論、快感でありながらも、「戦慄した」という表現の方が似つかわしいものという思いは今も拭えない。

 更に、その後も「越境」が追い打ちをかけてくる。舞台のみならず、客席にも紅い花片を降らせることで、両者の「境界」を「越境」したかと思えば、カーテンコールを行わないことで、(正確には、新潟公演の初日に、鳴り止まない大きな拍手に、仕方なく、やや渋面をつくって3人が姿を現した例外があるし、高知公演がどうだったかはこの目で観ていないので語り得ないが、)公演がもつ時間的な「境界」を「越境」してみせた。その鮮やかな手捌きには今回も唸らざるを得なかった。「お見事!」(と、黒沢清『スパイの妻』(2020)で、夫(高橋一生)の計略に嵌まったことに気付いた妻(蒼井優)が叫ぶ場面が脳裏をかすめる。)

 カーテンコールにて自らの感動を熱く演者に伝えることからは、なにがしかの心地よさが得られるものと心得ているが、そうはさせてくれないのが今回の金森さんである。いくら手を叩いても「それ」は行われない。やがて、無機質な「本日の公演はすべて終了しました」のアナウンスが放送装置から耳に達するだろう。それでも「それ」を求めて拍手を止めない観客たち。「非日常」に浸食されたまま放置される「日常」、そんな客席をよそに、舞台袖、或いは、楽屋で、にこやかに「はい、お疲れさん」などと言いながら、その実、ほくそ笑む金森さんを想像してみるのは、思わず膝を打ってしまうくらいにご機嫌なことであった。実際にほくそ笑んでいたかどうかは知り得ようもないが、意図してラストの「越境」を仕掛けた以上、そうであって欲しい、否、そうであるべきだと思っている、今。

(shin)

地元紙・新潟日報、新「レジデンシャル制度」に関する記事を掲載

Noism0 / Noism1 『境界』東京公演の幕が下りてしまい、ファイナルの高知公演(1/10)まで、年末年始2週間の「Noism-less」期の今、2021年12月28日(火)、地元紙・新潟日報がその文化面において、「Noism 脱皮への次章」という記事を掲載し、新「レジデンシャル制度」について取り上げています。この日(12/28)分には「上」とありますので、あと2回が予定されているのでしょうか。
クリスマス期の耳目を集めた『境界』東京公演の感想がSNS各所を賑わせている現在、多くの方からの関心が寄せられるものと思われます。「新潟の動向には注目が集まっている」状況下、県外の方にもお読み頂きたく、ご紹介を試みたいと思います。

新潟日報・2021年12月28日(火)朝刊より

私も、本ブログを担当している関係からでしょうか、「市民サポート団体」として取材を受け、皆さんの気持ちを代表するだろう思いを話してきました。

金森さんが心血を注いだ17年という年月が折り畳まれているNoism Company Niigataの現在地。新潟で、東京で、あの『境界』ダブルビル公演を観た後の今、私の中にある、やはり「金森さんなしでは」の思いはより強固なものになっています。否、常に思うところに過ぎないのですけれども、それ。

このあと、(多分)「2回」(?)がどのような内容なのか。いずれにしましても、「No Noism, No Life.」の私たち「市民サポート団体」にとって、「Noism-less」の今であってみれば、次が待ち遠しい道理ではあります。
そして、そもそも、地元紙が取り上げる新潟市の新「レジデンシャル制度」ですが、その刷新振りで全方位的な大きな期待感を集める、言うなれば「シン・レジデンシャル制度」であって欲しい、否、そうしたものにしていかなければならないと思う年末です。
皆さんからのコメント、お待ちしております。

【追記】「Noism 脱皮への次章」翌日掲載分はこちらからもどうぞ。

(shin)

『境界』東京公演千穐楽、圧倒的な余韻を残してその幕を下ろす

前夜、東京に僅かな雪片ながら、年内の「初雪」が記録されるなど寒冬の2021年12月26日(日)、Noism0 / Noism1『境界』の東京公演が人々の網膜に、心に、圧倒的な余韻を残しながら、その幕を下ろしました。

入場後のホワイエに、元Noism1メンバーの西澤真耶さんとお母様の姿を見つけたので、お声掛けして、少しお話しすることが出来たのも、個人的に嬉しい出来事でした。同時に、山田うんさんの作品を踊る彼女を妄想し、綺麗だったろうな、観たかったなとか思うことしばし。

15時。涼風にのって舞うパステルカラーの花びらと化した、或いは、天使然とした9人のNoism1メンバーが生を言祝ぐかのような、山田うんさん演出振付の『Endless Opening』。ボロディン弦楽四重奏曲第二番の美しい旋律と一体化したダンスによって誘われた先で味わうのは、まさに弾むような「多幸感」そのもの。
例えば、随所で、編み上げられていく群舞に、そしてそれが時間差でほどけていくさまに、また、細かいところでは、例えば、諸々の象徴であるところの9台の台車が、ジョフォアさんひとりの上半身を見せながら、勝手にするするその向きを変えていくかの場面の、そのえも言われぬ平滑さ加減に、観ることの愉悦を感じなかった者などいなかった筈です。
終演後に繰り返されたカーテンコール、笑顔でその生命力を横溢させた、身長も不揃いのパステルカラー9人には、いつ果てるともない大きな拍手が贈られました。それは、踊りというかたちで届けた彼ら・彼女たちの生の躍動に対してのものでもあり、同時に、見詰めた私たちの生に向けてのものでもあり、という側面があったように思われます。拍手しながら、そのときの場内に、生を共通項とするある種「祝祭」的な空間が立ち上がっていたように感じていました。

20分の休憩を経て、金森さん演出振付、Noism0『Near Far Here』。雷鳴が聞こえ、一瞬浮かび上がる強烈な白。それは井関さん。あたかも稲光のよう。数度、場所を変えつつ、鮮烈に浮かんでは、残像を残して消える井関さんの姿にはインパクト絶大なものがあります。最奥に場所を移した井関さんの前に蹲る黒い姿は金森さん。向こう向きのまま、素早く広げられる両腕の不穏なばかりの力強さ。苦悶。観る者は一瞬にして、作品のトーンを掴み、その渦中に放り込まれた自分を見出すことになります。上手(かみて)前方からやはり黒い衣裳の山田勇気さん。雰囲気は中和されることなく、金森さんとのデュオに移行しますが、それに一瞥もくれることなく、上手(かみて)奥の袖へとゆっくり歩んで消えていく井関さん。その後、黒白のなか、様々に登場しては消えていく3人。張り詰めた不穏さは和らぎの兆候すら見せないまま、舞台が進行していきます。
するすると下りてくる矩形の枠。鏡なのか、異界への入口なのか。不穏さは相変わらずですが、金森さんと勇気さん、やがて、井関さんも加わった極みの達人芸は目のご馳走というほかありません。
また、舞台上手(かみて)を斜めに切り裂くような大きなスクリーン。束の間もたらされた安らぎもやがてめくるめくかの混乱に陥り、影の黒に覆われ尽くすことでしょう。
更に、コロナ禍を象徴するアイテムであるアクリル板と勇気さん、井関さんによる「パ・ド・トロワ」の場面には、この日、最も目を凝らして、食い入るように見詰めたと言ってもいいかもしれません。隔てられてなお、(その菱形の「落下」などあり得ない、)強い繋がりを示す超絶技巧に酔いました。
一様な黒を背景に、井関さんひとりを映す全く奥行きを欠いた映像が続きますが、それがもたらす「異界」感も尋常ではありません。その手前、時折、シンクロする生身の井関さんの踊りは、今度は手を伸ばしても伸ばしても届かないもどかしさ、或いは距離を可視化していました。
黒白で展開していた舞台がラストに至り、下りていた緞帳が上がり始めると、まずは隙間から漏れ出る光輝のなか、「その色」が目に入ってきて、次第に視界全体へと拡大していくときの怖いような美しさ。それはまさしくこの世のものとは思えないような光景です。しかし、ここまでSNS各所で数多く触れられているその詳細については、この後、高知公演(トリプルビル!)をひとつ残している事情から、ここではまだ記さずにおきます。ひとりでも多くの方の驚きのために。ぐうの音も出ないほどの圧倒的な体験が待っています、とするだけに留めておきます。

そう、圧倒的。本公演の2演目はその趣をまったく異にするものですが、『Near Far Here』の幕切れが示す「境界」の無効化の効果もあり、ふたつの作品がもたらした余韻は、舞台を見詰めた私たち観客の「日常」へと横滑りし、嵌入したまま、それを浸し続けることでしょう。途方もなく永く。

これを書いている私の『境界』公演はこの日まで。言葉で表現出来ない類いの感動に身震いした東京公演千穐楽。『境界』を越え出て、私たちをどこまで連れて行こうとするのか、Noism Company Niigata。身震いは今も止むことはありません。

(shin)

「聖性」降臨に息を呑む東京芸術劇場『境界』2日目

2021年12月25日(土)、イエス降誕の日とされるこの日の朝、まだ雪が降り出す前の新潟市から新幹線を利用して池袋へ。穏やかな青空を見せる首都圏にいることに安堵しながらも、新潟駅前を撮るライヴカメラの中継で、遠くて近いそこに降雪が始まってはいないか、随時チェックして過ごしていました。

かつて「IWGP(池袋ウエストゲートパーク)」として知られた「GLOBAL RING」に隣接する東京芸術劇場界隈は、ひとつ前の記事にfullmoonさんが聖夜の美しいイルミネーション画像をアップしてくださいましたが、この日も多くの人たちが足を止めて楽しむ光景が見られました。

東京芸術劇場は中に一歩足を踏み入れて、どの方向に目をやってみても、その目を楽しませてくれるお洒落で素敵な施設です。

エスカレーターで上がると、プレイハウスのエントランスがあり、山田うんさんと金森さんが仕掛ける「非日常」との「境界」を画す円柱の間を進んで、期待を胸に入場しました。

17時を少しまわって、緞帳が上がると、山田うんさん×Noism1『Endless Opening』から。怪我も癒えて、前日から復帰していた中尾洸太さんが見られたことにホッとしましたし、その東京公演初日はやや硬かったというメンバーの表情もこの日は柔らかく、全員で生きることを肯定するダンスを、これ以上は想像できないくらいの清らか(浄らか)さを立ち上げつつ踊っていきました。荒くなっていく一方の呼吸もものともせず、笑顔を浮かべ、「俗」を脱ぎ捨て、天上界を思わせる「聖」の高みへふわり飛翔していく9人の姿には見る目に眩しいものがあります。大きな拍手がずっとずっと続くのも不思議はありません。心地よいのです。

休憩時間中のホワイエでは、元Noism1メンバーの鳥羽絢美さん、林田海里さんの姿もお見かけしました。新旧メンバーから常に、そして当たり前のようにして、感動を貰えていることはまさに驚きであり、感謝しかない訳です。そんなことを思いました。

見る度に圧倒されるのが、金森さんによるNoism0『Near Far Here』であり、最初の数秒にして既に抗おうにも抗えない空気感に包まれてしまうのは、この日も変わりありませんでした。どこかにそこはかとなく喪失感や哀しみ、或いは死の影のようなものを宿すのが金森作品の変わらぬ魅力。そうやって惹きつけるだけ惹きつけておいてからの「聖性」の降臨…。まだまだ詳細は書かないでおきますが、日常と非日常の「境界」を越境するだけでなく、更に、そうした私たちの非日常レベルを一瞬にして置き去りにして、その極北とも言うべきイメージで塗り替えてしまう想像力/創造力のもの凄さ。それがこのクリスマス時期、巷に溢れる厳かな神聖さに似たものとして捉えられたとしても無理もないことでしょう。季節の大いなる贈り物として。そしてそれに浸され、降伏する他ない観客の無上の幸福。

この豪華なダブルビルの東京公演も残すところ、あと一日。ふたりの演出振付家の作家性と舞踊家たちの身体性、そしてそれらが相俟って降臨する聖性に蹂躙される幸福はそうそう味わえる類のものではありません。明日の東京芸術劇場•プレイハウス『境界』は東京公演の千穐楽、まさに必見です。

(shin)

真冬の新潟市、雪に負けぬ花々の彩り - 『境界』新潟公演楽日

早くも来てしまったNoism0 / Noism1『境界』新潟公演 3 Daysの楽日、2021年12月19日(日)は、朝からの風雪。当初、天気予報では金曜、土曜あたりが降雪のピークと伝えられていたので、てっきり峠は過ぎたのかなと思っていたのですが、さにあらず。この日までずれ込んでいるというのが実際のところだった模様。(涙)
忍耐を試すかのような降り方をする雪に、しかし、50cmとか80cmとかの積雪もと言われていたのに較べれば「御の字」と気持ちを公演に切り替えて過ごしたのは私だけではなかったでしょう。圧雪状態を呈する路面をスリップしないように車を走らせるのは、ほぼ今季初でしたから、緊張感はありましたけれども。(汗)

でも、個人的には、そんな心を支えてくれたものがありました。それは『境界』新潟公演初日のサポーターズ・ブログに関するツイートを山田うんさんがコメント付きでリツイートしてくださったことでした。こちらがそのツイートです。目にした瞬間、まず、「えっ!」となって、その後、じわじわ喜びが込み上げてきました。嬉しい!ホントに!うんさん、本当に有難うございました。これからも頑張っていきます。

という訳で、新潟公演楽日についてです。この日も、もう大感動の舞台でした。

15時、その山田うんさん演出振付のNoism1『Endless Opening』から。この日も前日同様、中尾洸太さんは怪我で出演せず、横山ひかりさんが代役を務めました。「怪我の功名」ということもあります。中尾さんには東京公演までに良くなって、悔しさをぶつけて踊って頂きたいですし、全力で溌剌と踊っていた横山さんにはこれを機により自信を深めて頂きたいと思いました。越境に期待致します。
また、坪田光さんの身のこなしの繊細さ、樋浦瞳(あきら)さんの踊りが発する伸びやかな朗らかさにも触れておきたいと思います。

走って、跳ねて、回転して、ゆらゆらして、緩においても、急にあっても、その全身から踊ることの情熱を、喜びを、苦悩を、覚悟を迸らせて、微笑んで咲き誇る花々と化した3公演10人の全員に大きな拍手を贈りたいと思います。休む間もなく、音楽と一体化して踊るかなり苦しい作品かとは思いますが、いつまでも観ていたかった…。音楽が聞こえなくなってしまっても。少し馴染みを覚え始めたうんさんの舞踊語彙に酔い続けていたかった、いつまでも…。そんな思い。

終演後、一列に並んだ、この日の9人に大きな拍手が贈られたことは言うまでもありません。最前列のスタンディングオベーションに頬を緩めたメンバーもいました。そこまで含めて、凍てつくこの日の新潟市に華やぎをもたらしてくれた、とても爽やかな舞台だったと思います。

そしてこれまで通り、20分のインターミッションを挟むと、がらり質を異にする時間、金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』です。冒頭から終演まで、透徹した美意識に貫かれたこの作品は、その美しさにおいて、心胆を寒からしめるものがあるとでも言わずにはいられないものがある、そう書きたいと思います。実はこの表現、初日のブログに一旦使ってはみたのですが、やはり「相手を心から恐れさせる」意はどうかと思い、削ってしまった表現なのです。(書き改める迄の、ほんの短い間に目にされた方もおられるかと思います。)「畏怖」の念というよりは「恐ろしさ」、そう、3日続けて、容赦なく捻じ伏せられた感覚はやはり純粋に「恐ろしさ」こそが似つかわしいと、敢えて新潟楽日に書くことを選んだ表現。そこには私自身の語彙の限界(「境界」)が画されていることを思い知らされつつも、しかし、今、体感としては心胆を寒からしめられたと言うほかなしと。美しさと恐ろしさとは隣り合わせで認識され得る感覚なのですね。

そしてラスト、見詰める両目から入って、一瞬にして全身を浸してしまう、夢幻の体感はまさに悦楽。その想像力と創造力たるや、この日も、到底、人間業とは思えないほどでした。いや、大袈裟ではなく。参りました、金森さん。

サポーターズ・インフォメーション5号・裏面

様々な越境に満ちたNoism0 / Noism1『境界』。新潟公演は、その幕を下ろしましたが、今度はばっちりクリスマス期の東京に舞台を移し、そこでも多くの観客を魅了することでしょう。『Endless Opening』と『Near Far Here』、あなたの人生に嵌入する「事件」が起こります。その「多幸感」、是非、ご体感ください!

(shin)