「私がダンスを始めた頃」#23 太田菜月

幼い頃、母に連れられ親戚が通っていた近所のバレエスクールの発表会を観に行った事が、舞踊と出会うキッカケです。その後直ぐに私もやってみたい!と言って体験レッスンを受けに行きました。ですが、私の記憶ではレッスンに含まれていたスキップがあまりにも楽しく、バレエを習えばスキップを沢山出来るものだと当初は勘違いしていました。念願叶い、お教室に通い始めましたが、バーレッスンやセンターレッスンなど、地味で思っていたものとは違う内容だったので、最初の方は直ぐにつまらなくなってしまったのを覚えています。

そんな私ですが、元々目立ちたがりの性格の為、初めて出た発表会で自分だけに当たるスポットライト…観客の視線…大きな拍手に快感を覚え、益々バレエにのめり込んでいきました。習い事はバレエ以外にも、囲碁やテニス、体操、ピアノ、陸上教室等興味を持った事には何でもチャレンジさせてもらってきましたが、どれか1つに!となった時に迷わずバレエを選びました。ポワントを履き始めてからは、負けず嫌いな性格だったので、誰よりも練習し、誰よりも上手になりたい…と情熱を燃やし、全てをバレエに注いでいたような気がします。

転機となったのは、同じお教室に通っていた憧れの先輩の存在です。彼女が好き過ぎて、やる事なす事全て真似していたのを覚えています。その先輩のお陰で今の私があると言っても過言ではありません。彼女の後を追うように、私もイギリスに留学し、そこで初めてクラシック以外の様々なジャンルの舞踊を学び、踊りの幅や意識が大きく変わりました。

新しい自分に出会いたいとチャレンジしたNoismのオーディションは正に運命を感じました!その時、クラスをしてくださった佐和子さんの美しさには思わずオーディションだという事を忘れるぐらいの衝撃を感じ、見惚れてしまっている自分がいました。 Noismでの毎日は、日々刺激的でもあり、大変な事も多々ありますが、その瞬間瞬間を大切に!幼い頃に、抱いていたワクワク感をいつまでも忘れずに、私の事を支えてくださった全ての方々に感謝しながら、これからも精進して参ります。

(おおたなつき・1998年京都府生まれ)

「私がダンスを始めた頃」#22 糸川祐希

 幼い頃、あるテレビドラマの主題歌に合わせて何度も何度も踊っていたそうです。母がそれを見ていて「ダンスが向いているのでは?」と思い、3歳の頃にダンススクールに連れて行ってくれました。通い始めてから半年間は、恥ずかしがって母のそばから離れなかったそうです。先生や先輩のお兄さんお姉さんから辛抱強く声をかけてもらって、気がついた時はダンスに夢中になっていました。

子供の頃は様々なジャンルのダンス(ヒップホップやジャズなど)を習っていました。ここではダンサーとしての心構えや態度もたくさん学びました。


11歳の時に、先生や大人の方も踊るコンテンポラリーダンスの作品に出させていただく機会があり、その頃からプロのダンサーになりたいという気持ちが芽生え始め、バレエ学校に通い始めました。そこで出会ったバレエの先生から留学を進めていただき、スカラシップを得て2年半アメリカの学校でダンスを学びました。帰国後、バレエ学校で指導されていた先生の教室に入れていただき、そこで新潟にNoismというカンパニーがあると教えてくださいました。


こうして振り返ってみて、多くの先生方から踊りを教わり、機会をいただき、導かれて今ここにいるんだと改めて感じました。


今も応援してくださる恩師や家族には感謝しかありません。これからも感謝の気持ちを忘れず、舞踊と向き合っていきます。

(いとかわゆうき・2002年神奈川県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」#21 杉野可林

 動くことが大好きでいつも元気に走り回っていた私に母が何か習い事をさせようとしたのは4歳の頃でした。
 その時は体操教室も候補に挙がっていたようですが、幼稚園のお友達に誘われて先に体験に行ったバレエ教室で私は「楽しい!」とバレエを気に入り、そのまま習い始める事となりました。先生に褒めてもらえるのが嬉しかった事を覚えています。

左・杉野可林

 コンテンポラリーダンスに出会ったのは小学六年生の時でした。それまで踊ってきたバレエとは違い、表現の幅が広がっていく感覚があり、とても新鮮でした。
 内気で怖がりな性格ですが、実はふざけたり目立ったりしたい気持ちがあったようで、その時の映像を観るとかなり楽しんでいる私が映っていました。

右端・杉野可林
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 あの頃は、自分が新潟でプロとして踊るだなんて夢にも思っていませんでした。知らない世界、知らない感情、知らない自分に出会える舞踊とまだまだ向き合っていきたいと思います。

 己の限界を超える。

(すぎのかりん・1996年大阪府生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑳ 樋浦瞳

 小さい頃から、じっとしていることが苦手でした。暇さえあれば兄と妹と、犬と猫と、ひたすら走り回っていました。

 私が踊りを始めたのは、母が近所のモダンダンス教室に連れていってくれたことがきっかけです。その教室では、小さい子のクラスは先生と遊ぶことが主な内容でした。ボール遊び、バドミントン、フラフープ、大縄跳び、マットと平均台でアスレチックを作って跳び越えたり、床にチョークで好きな模様をかいてケンケンパをしたり……。

 様々な遊びの中でも一番楽しかったのが、変身遊びでした。先生が言ったお題に次々変身していくのですが、私は「カエル」や「うさぎ」や「カンガルー」と言われると、顔を輝かせて狂ったように跳びまわっていたそうです。この身体の歓びが、私が踊る原点だと思います。

 その後、大学進学のために地元の新潟から関東へ移り、筑波大学の舞踊研究室で学びました。そこで様々な身体表現の在り方を知り、日本における芸術と社会との関わり方について、問題意識をもつようになりました。
 その頃から自分が舞踊とどのように関わっていきたいのか考えるようになりました。
 研究者や教師の道へ進む友人が多かったのですが、人生で元気に身体を動かせる時間は限られているので、まずは自分自身が踊ることでどこまでいけるのか挑戦してみようと思い立ちました。

 踊っているときは何にでもなれて、どこへでも行けて、何者でもなくなれて、どこでもない場所へ行けます。
 これが、自分が舞踊に惹かれ続ける理由です。
 舞台の上から、作品とお客さんを無限に旅へ連れていける踊り手になりたいです。

(ひうらあきら・1995年新潟県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑲ 中村友美

 まだつかまり立ちの頃、読経に合わせて母の肩を支えに縦ノリで踊り出した0歳児。初ダンス。

 幼少期は、何かに成り切るのが好きでした。特別な力を持っている、変身出来ると本気で信じ込んでいるような子でした。変な子です。

 そして8歳でクラシックバレエを始めました。母の昔の夢がバレリーナだったので、私がそれを叶えたかったのがきっかけです。しかし、文武両道出来なければ辞めることを条件に。

 時は過ぎ、高校卒業、大学に入学。プロへのチャンスを探すが良いご縁がなく。夢を追い続けるのか、新卒として周りの友達同様に一般の就職をするのか悩んでいました。
 そんな中、練習中に足を骨折。足が動かせないなら腕をトレーニング。次は腕が腱鞘炎。もう片腕は打撲。
 ”踊れない”。バレエを始めて十数年の中で、初めての経験。踊れない辛さ、苦しみを初めて心の底から感じました。踊れる日常が当たり前だったので、”踊りたい”という感情がこんなにも強くあることにこの時初めて気付きました。

 これがこの道に’覚悟’を決めた瞬間でした。一度きりの人生、周りと同じ道に進まなくても良い。上手じゃなくても、リスキーだけど出来るとこまで、気がすむまで自分に賭けて挑戦するぞ、と。

 後に、コンテンポラリーバレエに出会い、クラシックバレエでは出来ない表現や、身体の可能性を感じました。
 クラシックバレエ以外の舞踊も挑戦したい、知りたいと思い受けたのがNoismオーディション 。そして、今に至ります。

 これからも自分の進む道に、挑戦、変化を恐れず。日頃の感謝を舞台にのせて。

(なかむらともみ・1997年大阪府生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑱ 坪田光

 5歳のときにミュージカルを始めました。母が若い頃通っていたスタジオに、とりあえず1年だけでも通わせたいという母の想いで連れていかれました。


 そのスタジオにはダンススクールとミュージカルスクールがあり、年に1回舞台がありました。初舞台では、出番が終わり舞台袖で母に「照明があたって楽しかった」と言ったそうです。公演後ミュージカルを続けることを決めて、ダンスも少しずつアフリカンステップ、タップダンス、ジャズダンス、hiphopなどを始めていきました。


 しかしミュージカルクラスの中で月に1度のバレエクラスがとても嫌いで、ずっと、なぜ綺麗にしなければいけないのか、なぜピチッとしたタイツを履かなければいけないのかなどと思いながらバレエレッスンを受けていました。
 

 時が経ち、ミュージカルスクールは中学3年生で卒団という決まりだったので、卒団前にはダンスを続けることを決意。そのとき、先生に「ダンスを続けるならバレエを始めなさい」と言われ、渋々バレエを始めました。しかし、これが自分の転機で、自分の身体の変化が楽しくなり、みるみるバレエが大好きになっていました。高校2年生のとき、男性のバレエの先生から指導を受けた方が良いと紹介していただき、バレエ教室に通うことになりました。そして高校3年の進路を考える時期に、バレエのコンクールに出てみないかと声をかけていただき、がむしゃらに挑戦してみたところ、スカラーシップをいただき、アメリカのJoffrey Academyに2年間留学しました。今まで自分がプロのダンサーになりたいとも、なれるとも思っていませんでしたが、そこで素敵なダンサーの方々に出会い、ダンサーになりたいと強く思うようになっていました。

 
 振り返ってみると、私は様々な方に出会い、刺激を受け、導かれてここにいます。全てのことに感謝を忘れず、頑張っていきます。

(つぼたひかる・1999年兵庫県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑰ 庄島すみれ

 私が6歳の時にクラシックバレエを始めたのは、内股歩きだったのを心配した母が医者に相談し、バレエを勧められたのがきっかけです。母に「バレエやってみる?」と聞かれ、「やる!」と言ったのを今でも覚えています。

 最初は近所の公民館で少人数でのクラスで、友達に会いに行く様な感覚でバレエ教室に通い始めました。その後本部に行くことになり、踊ることに段々のめり込んでいきました。恥ずかしがり屋で自分の感情を表に出すのが苦手でしたが、不思議と踊ることは好きでした。

 中高校生になってからは、ただバレエが好きという訳にもいかず、コンクールで悔しい思いをしたり、自信を失ったりすることも多々ありました。それでも、発表会やコンクールなどで人前で踊ることは私にとってとても特別なことで喜びでした。

 高校卒業後の進路はとても悩みました。バレエを続けたい気持ちとバレエの道へ進む事への不安で葛藤していました。しかし、バレエの先生からの勧めと、今までバレエの事にあまり口を出さなかった母が「留学してみたら?」と言ってくれたのが大きなきっかけとなり、スイスのバレエ学校に留学することを決心しました。バレエ留学してからは、プロのダンサーになる! と初めてはっきりとした目標を持てた気がします。

 その後、スロバキアのバレエ団に入団する事が決まりプロのダンサーとしての活動が始まりました。私のプロのダンサーとしての道は沢山の人達の支えがあって切り開かれたんだなと改めて思いました。

(しょうじますみれ・1990年福岡県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑯ 庄島さくら

 私は6歳の頃に、近所にある公民館でバレエを始めました。
 幼かった私は、仲の良いお友達がバレエをしているから私もやってみたい! とバレエを始めました。また、自覚はなかったのですが、母によると私とすみれ(双子の姉)は2人揃ってひどい内股で、走ったり階段を降りたりするときいつ転ぶかとヒヤヒヤしていた様です。そんな私達にお医者さんがバレエを勧めたこともあり、母は私達にバレエさせることに決めたそうです。

 シャイな私は人前で踊りを披露するのが苦手でしたが、毎回のバレエのクラスで、先生が筋肉はどのように付いているか、どういう風に使うとジャンプができ、足が高くあがり、怪我をしないかなど、子供の私達に丁寧に身体のつくりを教えてくださり、自分自身の体を研究するように、試行錯誤しながらバレエをすることに没頭していきました。いつのまにか内股も改善し、いつも最下位だった徒競走も上位になっていました。


 ダンサーに怪我はつきものですが、今まで深刻な故障に悩まされなかったのは子供の頃から自分自身の体と向き合う時間が多かったからかもしれません。

 海外で10年間プロのバレエダンサーとして踊り、今帰国してNoismで踊ることになりました。私にとって”体と向き合う”から次のステップに挑戦中です。とてもマイペースな私のダンサーライフですが、まだまだ新しい発見に出会える予感がしています。

(しょうじまさくら・1990年福岡県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑮ 中尾洸太

 クラシックバレエを始める前、私は両親がテニスをしていた影響もあり、とても小さいころから週末や休日などを二つ上の兄とともにテニスの練習に励む、そんな幼少期を送っていました。ある日、テニスをするのに体が柔らかいことは怪我の予防にもなるからという理由で、柔軟性の向上を目的に、母の知り合いが教師をしているバレエスタジオに通い始めることになりました。当初は趣味程度、あるいはテニスのためのバレエと考えていましたが、次第に兄がバレエに魅了されていく姿に惹かれ、私も徐々にバレエに魅力を感じるようになっていきました。

 プロになるまでに、私には大きな二つのターニングポイントがありました。最初のターニングポイントは兄の海外留学でした。それまでプロになることはたやすいものではないと思っていましたが、兄の海外留学により“プロのバレエダンサーになる”ということが私の中で現実味を帯びてきました。そして“私もプロになりたい”という意思がより強く芽ばえ、2016年よりドイツに留学することになりました。私のもう一つのターニングポイントはコンテンポラリー・モダンダンスとの出会いでした。留学先の学校で、幸運にも素晴らしい恩師に出会うことができ、その方から共有させていただいたたくさんのインスピレーションやアイデアは、いつも私にとってとても魅力的で、次第に私もコンテンポラリーダンサーになりたいと思うようになりました。

 私がプロになりたいと思ったのは自分の感じ方や考え方など自分にしかないものを舞台の上でアーティストとして表現していきたいと思ったからです。私は振付家になりたいと思っているので、そのためにもさまざまな表現をNoismでも学ぼうと思います。

(なかおこうた・2001年愛媛県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑭ 三好綾音

運動会の出し物の「ぶひぶひロックンロール」というダンスを家で30分踊り続ける子だった、通っていた幼稚園でやっていたバレエ教室を毎回部屋の外からじーっと見ていた、そして母自身がバレエダンサーのパトリック・デュポンが大好きだったこともあり、バレエを始めることになりました。

ほとんど同じ時期にピアノを習い始めていたのですが、気に入らないことは一切やらない、好きなときに勝手にレッスンを終わらせるような大変な子供だったと聞いています。

小さい頃も大きくなってからも、よく母と一緒にシルヴィ・ギエムのガラやパリ・オペラ座の来日公演などを観に行きました。何かを観た後にレッスンに行くと、楽しそうに見えるのか、すぐに先生に気づかれたものです。

自分がプロのダンサーを目指して具体的に動き始めたのは高校生3年生になってからです。高校生になって”進路”というものがリアルになった時、一度音楽でもバレエでもなく(この頃はピアノも弾いていて、ミュージカルやオペラの授業をとって歌うこともしていました)、大学で芸術から離れた勉強をする選択をしようとしました。

自分にダンサーになる力はないと思っていましたし、音楽ではほとんどの場合食べていけないと知っていたからです。それが正しいと思いました。両親も、バレエやピアノの先生も、その選択を受け入れてくれました。

しかし、教室とは別に所属していたユースバレエの先生にその事を伝えに行くと、その先生が「今度イギリスのサマースクールに連れていこうと思ってたのになー」と冗談のようにさらっと言ったんです。

私にもそんな事が出来るなら、やらない理由がどこにも見当たらないと思いました。その時はもう既に17歳で、18歳になろうとしていました。

勉強はいつでも出来るけど、踊りは今蓋をしたら一生届かなくなる! 今しかない、そう思ったら、それまで散々進路の話をしてきた先生方や母や色んな大人を驚かせてしまっても、なりふり構う暇はありません。とにかく急がなければと思いました。

望むなら動けばいいんだと気づいたのです。自分が望んだことなら絶対に後悔はしないと。

結局その先生が言っていたサマースクールは書類審査で落とされましたが、すぐに別の学校のサマースクールを探して書類や写真を送って、初めて海外に行きました。

そこからはひたすら前に進み続けて今に至ります。すぐにNoism2に入ることができ、毎日踊りに向き合える環境にいさせてもらえたこと、私の意思を全て尊重し支援してくれる両親であったことが本当に幸運で、進み続ける為には絶対に欠かせませんでした。

踊りが突然上手くはならないので壁は高いですが、挑戦することには躊躇せずにいられるようになりました。

とりあえずやる、反省はするけど後悔はしない。

何か迷ったときは、こう思うことにしています。

(みよしりお・1997年東京都生まれ)