勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)

『ROMEO & JULIETS』、世界に誇るべき新バージョンの誕生

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第35号(2019年1月)

 新潟市の公共劇場りゅーとぴあの専属舞踊団Noism1が『ROMEO & JULIETS』を上演した。この振付を担当した金森穣は、最近のコンテンポラリー作品が複雑な動きの連鎖にこだわり過ぎ、「物語」を劇的に語るおもしろさから離れる傾向にあることを懸念したようだ。観客が難しいステップの成り行きなどを気にかけずに、舞台展開を気楽に楽しめるようにと「劇的舞踊」を企図した。そして2010年の『ホフマン物語』を皮切りに、2014年の『カルメン』、2016年の『ラ・バヤデール―幻の国』を順次発表して大きな反響を得た。その第4弾が『ROMEO & JULIETS』なのだ。これはシェイクスピアの書いた悲劇「ロミオとジュリエット」の舞踊化のはずだが、タイトルをよく見るとジュリエットが複数表示になっている。

 バレエ・ファンにはおなじみの、プロコフィエフ作曲の序曲が流れ、幕が開いた。シェイクスピアの書いた冒頭の台詞(日本語訳)が朗々と語られ、その主要部分はスクリーンに文字となって映し出された。ダンサーたちが現れると、その衣裳が長めの白衣であることに気付く。これは病院の眺めではないか。と思ううちにロミオ(武石守正)が車椅子に乗って登場。ジュリエットは複数の女性患者が……。舞台には、半透明のガラスをはめた縦長の衝立がいくつも並び、それをてきぎ移動させることで場面が変った。これは、白い壁とガラスの障壁で仕切られた病院の普通の眺めだった。冒頭でシェイクスピアの言葉を示したスクリーンには、舞台上のあちこちの様子がランダムに映され、病院内の監視モニターのように見えた。

 両家の壮絶な対決シーンが始まり、観客はあっという間にシェイクスピアの世界に引き込まれた。ジュリエット役の浅海侑加、鳥羽絢美、西岡ひなの、井本星那、池ヶ谷奏の5人がさまざまな現れ方で場面に関わった。キャピュレット家の婚約披露の宴会での、ロミオとジュリエットの出会いは、群舞の中にパリス(三島景太)とジュリエットの位置を微妙にずらした踊りを設定し、ロミオとの偶然の触れ合いの機会をこしらえた。バルコニー・シーンはジュリエットの映像を、高い位置のスクリーンに映して二人の位置関係を示しつつ、愛が急速に深まる様子をたっぷりと描いた。さらに、ティボルト(中川賢)とマキューシオ(チャン・シャンユー)の決闘シーン、それに続くティボルトとロミオの死闘が、スリリングに設定され、観客はそれらが病院の中の患者同士の出来事であることを、しばし忘れた。

 後半冒頭に金森の長いソロがあった。金森は病院の医師で患者全体をコントロールする立場にある。物語の上ではロレンスの役を演じてジュリエットに秘薬を与えるので、このソロには彼が全体を仕切る張本人であることを示す意味があったかもしれない。井関佐和子は、ロザラインと看護師の2役を演じてひんぱんに物語の流れに関わり、ダンスの見せ場をはなやかに盛り立てた。最後の墓場のシーンでは、舞台中央のベッドに誰かが横たわっている。そこへロミオが現れて二人の死の場面となる。どうやら先に横たわっていたのは井関が演ずるロザライン(または看護師)だったらしい。それを見た観客サイドは、シェイクスピアの元のストーリーを思い出して両家の和解を想像するなど、つい先を急ぎがちだ。しかしよく考えてみると、ここにロザラインが登場するのは「異常」ではないか。井関の演ずる看護師が、前の場面でアンドロイド風の動きをしていたことなどを思い返すうちに、これはシェイクスピアの芝居の最終シーンではなく、どうやら病院の一風景らしいと気付く。舞台には患者たちの何気ない日常がもどっていた。

 プロコフィエフの音楽でラブロフスキーやクランコらが振付けた「ロミオとジュリエット」が、シェイクスピアの原作を忠実に再現したものであることを我々は知っている。病院の中という状況設定以外は、展開のポイントをまったく変えることなく、金森も自分の『ROMEO & JULIETS』を作った。彼の「劇的舞踊」は、観客の心の中にあるシェイクスピア原作の記憶を刺激して、別に設定した状況に同化させ、そこに新しいダンスの場面をふんだんに織り込むことで成り立つ「舞踊作品」だった。

 病院という閉ざされた世界で、名作バレエのストーリーを再現した例としては、マッツ・エック振付の精神病院内の『ジゼル』(1982年作)がある。金森の『ROMEO & JULIETS』は、無理のないストーリー展開、要所に置かれたダンスのおもしろさ、音楽、舞台美術の的確な運用などを備えており、まさに劇的な出来栄え。世界に誇るべき病院版『ロミオとジュリエット』の誕生だった。

サポーターズ会報第35号より

(2018年9月14日/彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

興味津々、家具デザイナー・須長檀さんをお招きした「柳都会」vol.19に耳傾ける

2018年12月2日(日)、心配された天気は上々。
気温もそれほど下がらず、「冬の一日」にしては過ごしやすかったでしょうか。
師走最初の日曜日のりゅーとぴあでは様々な催し物があり、駐車場は軒並み「満車」の表示。

そんななか、私たちのお目当ては勿論、14:30からの柳都会。
今回はNoismの作品で美術を担当して、極めて印象深い仕事をされている須長檀さんのお話が聞けるとあって、
皆さん、混雑を物ともせず、楽しみに集まってこられている様子が窺えました。
また、この日は、先に露国・サンクトペテルブルクに『ラ・バヤデール』を観に行かれた「幸福な方々」との久し振りの対面の機会ともなり、入場を待つホワイエでは、そのときのお話が聞こえてきていました。

開始10分前に、スタジオBへの入場が始まり、
予定時間ちょうどに、お待ちかねの「柳都会」は始まりました。
お二人のために用意された席の前には、須長さんがこれまでNoism作品のために制作された
椅子が3種(『solo for 2』、『ZAZA』及び『ロミオとジュリエットたち』、『NINA』)と
テーブル(『ロミオとジュリエットたち』)とが並べられ、
その向こうに座ったお二人のやりとりをお聞きしました。

大きなテーマはふたつ。
北欧と日本、そして日常と非日常。
全体的には、まず須長さんがお話をし、それを聞いた金森さんが様々な質問をぶつけては、
須長さんが言葉を選びながら答える。
すると、またその答えに金森さんがツッコミを入れ、
また須長さんが答えて、といった具合で、
20年来の親友という関係性を基に、
金森さんが繰り出す様々な質問を通して、
須長さんのプロフィールが立体的に立ち上がってくるといった感じで進行していきました。
主に攻める金森さん、主に困る須長さん、お二人とも本当に楽しそうでした。
ここでは、以下にそうしたなかから一部紹介を試みようと思います。

北欧と日本
☆スウェーデンのデザイン: 1880年代迄のデザイン史には「グスタビアンスタイル」と呼ばれる王侯貴族のためのデザインのみ。
女性解放運動家のエレン・ケイ(1849-1926)が登場し、女性的視点を取り入れ、生活に即した日常的なデザインを提唱。「生活者のデザイン」を重視。
★日本のデザイン: 浮世絵が「ジャポニズム」として輸出され、もてはやされる状況を危惧。
土着的な民芸品を高く評価し、「用の美」を唱えて、民藝運動を展開した柳宗悦(1889-1961)や
その実子で、前回(1964)の東京五輪・聖火トーチやバタフライ・スツール等で有名な柳宗理(1915-2011)の無意識のデザインが呼応する。
手から生まれるデザイン。それは量は質に転化する「反復」の点で、舞踊にも重なり合うものと言える。(蛇足ですが、我が家でも、柳宗理氏の片手鍋と薬缶を使っているのですが、手にすっと馴染む、使い勝手の良さには実に気持ちいいものがあります。)
☆北欧と日本の地政学的親和性: アニミズム的心性と「森」。
北欧が誇るガラス作品制作において、火は絶やすことができない。→その点でも「森」の国であることが重要。
また、「森」との関連からよい刃物が不可欠で、それが家具作りを後押しした。
一方の日本: 「森」(森林率)は世界第2位に位置する。

無意識・無作為
☆『NINA』の赤い皮の椅子「ウワバミ」*: 基本的に、スチールパイプの構造体に濡れた皮を被せる作業に無駄な作為は一切介在せず、10%程度縮んで固まっただけ。
ネジも一切使用していない。素材が形の決定性をもっているだけの作品。(現在は金森さんの私物なのだそうです。)
須長さん「どうしてこれを使ってくれたのですか?」
金森さん「皮膚の緊張感を感じる。身体の張りとエネルギーを要する椅子。知的なレベルの理解とそれを越える美しさ。そして時間が止まって見えること。『舞踊とは何ですか?』には『この椅子です』と答えられる、そんな椅子。普通に座れるが、身体を休ませることを許さない椅子。」
*「ウワバミ」のネーミングは、サン=テグジュペリ『星の王子さま』に登場する「ゾウをこなしている」ヘビに由来するとのこと。
★『ZAZA』の正立方体+アクリル板の椅子: 常に壊れるんじゃないかという感じがつきまとい、楽に座ることの出来ない椅子。正立方体のため、垂直方向にも、水平方向にも綺麗に並ぶ。(金森さん)
☆正立方体が歪んだかたちのテーブル: 『ZAZA』では使われず、『ロミジュリ(複)』で登場。歪みを特徴としながらも、ただ一方向、「正立方体」に見える角度がある。世界の見え方の喩。
★軽井沢のアトリエ「RATTA RATTARR」: 4つの「ART」のアナグラム。「うさぎのダンス」のようでもあり。
「唐突の美」: 淡い期待とすれ違いの繰り返しの狭間に唐突に現れる美をつかまえる。
障碍者(無意識・無作為)と支援員(他者の目)の二人でひとつの作品を作るスタイル。
パウル・クレー(1879-1940)は、制作の際、自分の中に他者の目を持つことを心掛けたという。
天才でなくとも、二人でなら可能になる。「ART」の再構成。予想外のものが返ってくる、発見の喜びがある。
ストップをかけずに感覚的に作る者(障碍者)+舵取りをする者(支援員)。極力舵取りをしなかった製品がよく売れる傾向がある。
それに対して、「個人の内的なプロセスでも可能ではないか」として、大きな差異を認めず、
「そこに座って観ているだけで、ワァッ!となるものを創っていかなければならない。」とするのは金森さん。

無関心
☆「棚がなくなる」: 現代は物質が情報化される時代。家具自体がなくなる、或いはシェアされる流れにある。
→所有欲や親密性も新しい姿に書き換えられざるを得ず、そのことに怖さと楽しみの両方がある。
世代を越えて使われる家具: 修理、愛着。他者にまつわるイマジネーションの問題。

無防備
★Noismを観ること: 圧倒的な情報量に晒されること。ある時から、舞台に対して無防備な状態で向き合うことにした。
混沌とした状態で観終えて、その後の道すがらから、観た舞台の再構築化を楽しむ。それが大事。
Noism以外では、このようなことは体験したことがない。
そうした再構築化が可能となるのは、一人の作家(金森さん)の作品をずっと見続けてきたことによるもの。
繰り返して何度も観てきたので、根底に流れているものにも気付けることはあるのだろう。
☆『solo for 2』の傾いた椅子: 非日常。この上なく身体を必要とする自立しない椅子。同時に、「片足が折れている」ことのメタファー。
驚くほど軽量であるうえ、美しく設えられた八角形のビスを外すと、バラすこともできるという優れもの。そのビスに代表されるように、客席からは見えない細かな部分まで手が込んでいる。
→舞台上で実演家が感じるクオリティは還元されて客席に伝わる。(金森さん)
公演時、舞踊家が椅子を離れると、椅子も逆方向にパタッと倒れたのが、「椅子が踊っている」ように見え、感動した。最も好きな椅子。(須長さん)

強度のあるデザイン
★「美しいものを作るためには誰かのために作らなきゃならないよ」: 行き詰まりを感じていた頃、金森さんからかけられたこの言葉にハッとした。(但し、金森さんは「そんなこと言った記憶はない」と言うので、真偽のほどは不明ながら。)
デザインの強度: 「切望」を相手にするデザイン。自分のためではなく、他者のためのデザインであること。舞台の仕事も良いトレーニングとなった。

これからのデザイン
☆AIの可能性: 売れるものを作るためにはAIに優位性あり。また、スタディの結果、奇抜さでもAIが勝る可能性がある。(人間らしいエラーすらスタディされてしまいかねないのだから。)
何故、AIに抗うのか?→物を作る喜びを探しているだけかもしれない。(須長さん)
現代のリアクションとこの先のリアクションが異なるのは当然だろう。知性が問われる。
現在の主潮は「対AI」的感覚だが、そのうち「対人間」的なものになる時が来るかもしれない。
「人間とは何か?」: 舞踊芸術として常に向き合っているテーマ。(金森さん)
いい意味でも悪い意味でも変わっていかざるを得ないだろう。面白いじゃない。(金森さん・須長さん)

そんなふうに時空を縦横に行き来しながら、創作というものの神髄を感じさせてくれた、
本当に濃密な2時間でした。
途中に一度、「トイレのための小休憩」(金森さん)という10分休憩がとられたのですが、
その間も、多くの方がトイレに行くことなど後回しにして、須長さんの作られた椅子とテーブルを見て、触って、持ち上げたりする姿が見られ、すっかりお二人のお話の虜になってしまっていたようでした。
それはまさに私のことでもあり、到底見るだけでは済まず、すべて触って、それでも足りずに持ち上げてみてを繰り返し、ほぼ10分間ずっと、それらの感触を実際に自分の手で確かめて過ごしました。

そんな今回の「柳都会」も最終盤に至って、
須長さんに向けて「実際にその椅子は買えるんですか?」との質問が出たのですが、
それに対しては、「家具デザイナーですから」と言うのみで、否定はされませんでしたから、
もしどうしても欲しいという方は、須長さんに相談してみられたらよろしいかと思います。

須長檀さん、物腰の柔らかい、穏やかな方でした。
問うこと及び考えること、その愉悦に満ち、とても刺激的だった「柳都会」は予定通り、16:30にお開きとなり、
その後、金森さんたちは足早に、同じりゅーとぴあ内のコンサートホールへ、17:00開演の東京交響楽団の公演を聴きに行かれました。
「Liebestod」や「タンホイザー」序曲など、予てより金森さんが興味を寄せるワーグナーの楽曲が並んだプログラム。
この日のワーグナー受信がいつか金森さんをしてどんなアウトプットを成さしめるのか、
そんな日のことを夢想しながら帰路につきました。

【追記】この日は、Noism新作『R.O.O.M.』&『鏡の中の鏡』東京・吉祥寺シアター公演のチケット発売日でもあり、私も無事に2公演のチケットを押さえることができました。
須長さんは、金森さんからの依頼を受け、この新作のために新たな制作をされているとのこと。
奥深いお話しを伺い、これまで以上に須長さんの仕事を注視していきたいと思いました。
新作、そうした意味からも期待大です。
(shin)

中川 賢さん、吉﨑裕哉さんからサポーターズのみなさんへ

昨シーズンをもって、Noismを退団した中川賢さん、吉﨑裕哉さん。
この度、お二人のご好意により、急遽、サポーターズ事務局関係者(普段から発送作業等に参加していだいている有志のみなさん)と共にお二人からのメッセージをお預かりさせていただく機会をいただきました。
お二人ともNoismで培ったものを大切にこれからを歩んでいきたいと話していらっしゃいました。
今後、中川さんは舞踊家として。
吉﨑さんは振付家・舞踊家として。
ご活躍を期待したいですね!

aco

お二人の気持ちが書かれたロミジュリTシャツにて、サポーターズのみなさんへのメッセージをいただきました。
応援してくださったサポーターズの皆様へ!

渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)

2018年9月16日(日)。
この日の劇的舞踊Vol.4大千秋楽について記すにあたり、
NoismでもSPACでもなく、全く別の件から書き始めることをお許し願います。
時、まさに午後5時ちょうどくらい。
打ち震えるような感動に包まれつつ、会場を後にし、
歩きながら、劇場内ではOFFにしていたスマホの電源を入れなおした際、
目に飛び込んできたニュースの見出し、
「樹木希林さんが死去 最期は自宅で家族に看取られて」に心底うろたえたからです。
75歳。この秋も来月、映画『日日是好日』(大森立嗣)を楽しみにしていた矢先の訃報。
込み上げる喪失感。
飾らない人柄で、奥深い表現を欲しいままにしていた名女優。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

…喪失感。感動が大きかっただけに…。
勿論、それはまた『ロミオとジュリエットたち』のことでもありました。
すっきりと晴れたとは言い難いものの、気温もあがり、
雨が降って幾分肌寒かった前日とは違うこの日、大千秋楽の地、埼玉は与野本町の天候。
金森さんは、そして舞踊家と俳優はどんな舞台で私たちを圧倒してくれるのか。
退団される舞踊家(中川さん、吉﨑さん)の姿も瞼に焼き付けなくては。
みなさん、そうした共通の思いを胸に、彩の国さいたま芸術劇場を目指した筈です。

この劇的舞踊、途中に約2か月の間を挟むことで、
新たな彫塑が加えられ、
表現は、より自然さを増して嵌るべきところに嵌り、熟成の度を増しながら、
この日の大千秋楽に至った訳です。
そんな「大航海」を経ての最後の寄港地、彩の国さいたま芸術劇場。
そこはまた言うまでもなく、蜷川幸雄シェイクスピア劇の本拠でもあります。
金森さんのこの意欲的な挑戦を誰より喜んだのは、
物思わし気に娘・実花の写真に収まる今は亡き蜷川本人だったかもしれません。
次にご紹介するのは、メモリアルプレートに刻まれた彼の言葉です。
>最後まで、枯れずに、過剰で、
>創造する仕事に冒険的に挑む、
>疾走するジジイであり続けたい。
>Till the end, never wither, beyond limits.
>Take risks in creativity, and stay at top speed.
>So I wish as a man of theater. 蜷川幸雄

さて、『ロミジュリ(複)』です。
前日のブログにも書きましたが、それはとりもなおさず「生々流転」の舞台。
作品自体が、より自然であることを求め、
あたかも生き物ででもあるかのように、自ら呼吸を始め、
それに応えて金森さんが創造の手を休めることなく動かす構図とでも言いましょうか。
もしかしたら、新潟3公演、富山1公演、静岡2公演、埼玉3公演で、
どれひとつとして同じ舞台はなかったのかもしれません。
いえ、きっとそうに違いありません。

それはまた、新しい総合芸術の在り様を模索する営みでもありました。
舞踊(身体)、演劇(台詞)、文字、映像、更には呪術的な炎と、
あらゆるメディアを縦横無尽に駆使することで結実をみる作品です。
例えば、市川崑や庵野秀明が用いる明朝体寄りの文字が得体のしれない不気味さを示すのに対し、
今回、不在の大公を示すゴシック体の文字は、
威圧感たっぷりに抑圧やある種の「通じなさ」といったものを体現していました。
(それと同時に、仮に明朝体を採った場合、
否が応でも『エヴァンゲリオン』を想起させずにはおかないという側面もあった筈です。)

また、映像で看過できないのは、
ロザラインがポットパンを籠絡させて入手した手紙を読む大写しの映像です。
私の記憶する限り、緞帳に投影されるこの映像は2度差し替えられて、
順に次の3通りがあり、それを観る際も全く気が抜けませんでした。
その3つ、①新潟・富山:読み終えてからも、手紙は両手のなかにある。
②静岡:読み終えてから、それを破る。
そしてこの度の③埼玉:読み終えると、それは両手からするりと落ちる。
そのどれを目にしたかで、ロザラインの印象は全く異なるものにならざるを得ないでしょう。

「奈落」の演出に至っては、この日は会場の少なくとも2、3箇所から、
期せずして「あッ!」という驚きの声が上がり、
一番最初に新潟で観た時の感覚を思い起こすことができました。
ツアー中、唯一、静岡公演のみ、ピットが設けられない劇場形状のため、
「奈落」を用いることなく、亡骸が舞台上に留まるかたちで進行していったことも
ここに改めて書き添えておきます。
「その一瞬」の衝撃こそありませんが、逆に、舞台上が血で染まっていくかのような
おどろおどろしさを幻視するように感じたものです。
そしてその静岡公演以降、
冒頭部分が、舞台上を埋め尽くす夥しい死体のイメージで始まるかたちに改められたことも
大きな変更点と言えるでしょう。

(今回の劇的舞踊における斬新さの最たるもの、ロザラインとロレンスに関しては、
また別の場所(次号のサポーターズ会報)で、触れてみたいと考えています。
少し時間はあきますが、その際、こちらと併せてお読みいただけましたら幸いです。)

舞踊の枠組みに収まり切らない過剰さ加減には、
当然、当惑する向きもあるかもしれません。
しかし、作品同様、私たち自身が刷新されていく感覚は
あまり経験したことのない性質のものであり、
それはまさに「冒険」としか言いようのないものだったと思っています。

この日、当面これが最後の機会になると思いながら見つめた第一部の終わり、
舞台中央奥から白く胡乱な金森さんがゆっくり出てくる場面を観ているだけで、
客席にあって、全身を目のようにして見詰める体の、
その胸部から発する動悸が、あたかも出口を求めでもするかのように、
体内を揺さぶり、総身を経巡った果てに、
内耳に、そして外耳に至って、熱く激しい耳鳴りと化し、
同時に頭はのぼせていくような、まるで触知可能な身体感覚に囚われたことも
書き記しておきたいと思います。
気付くと、自然と拍手している自分がいました。

埼玉公演における驚きの最たるものは、
なんといっても、井関さんと金森さんのパドドゥがひとつ増えていたことを措いてありません。
そして、追加されたふたつめのパで、
ふたり(?←片方はアンドロイドだけに。)の立ち位置がより明瞭になる仕掛けでした。

最後の最後、所謂「屋台崩し」のようなボールチェーンの扱いに至っては、
見るたびごとに鳥肌が立つような感覚があり、この日も例外ではありませんでした。
舞台上、大千秋楽の全てが終わりを告げたとき、
渾身の熱演を繰り広げて、観客を魅了し尽くした舞踊家と俳優に対して、
鳴りやまぬ大きな拍手とあちこちから飛び交う「ブラボー!」の声たち、
更にはスタンディングオベーションが贈られたのは至極当然のことに過ぎませんでした。

拍手に応えるカーテンコール。
笑顔で並ぶ実演家たちの横一列。
中央に金森さん、その左隣(私たちから見て右側)に中川さん。
いつとも知れず金森さんの手のなかにあったそれに気付いたのは、
笑顔の金森さんからさりげなく、実にさりげなく、中川さんに向けて差し出され、
中川さんが反射的に、一層、相好を崩して受け取ったそのときでした。
「それ」、最終盤でベッド上から散らばった小道具の白い百合の花。
勿論、本物の花であろう筈もなく、
まき散らされた人工的な小道具のなかから拾い上げられたに過ぎないただの一片が、
ふたりが重ねてきたこれまでの時間を祝福する、
この上なく感動的なアイテムたり得ることを目撃したこの瞬間の感動には、
拙い言葉をどれだけ連ねても迫れないほどに味わい深いものがありました。
今、こうして思い出すだけでも熱いものが込み上げてきます。

意欲作『ロミオとジュリエットたち』が帰結した大きな感動に包まれながらも、
否、それが大きな感動であっただけに、同時に感じる思いにも強いものがあります。
7月に始まったツアーが全て終わってしまったことからくる寂寥感。
そして、中川さんと吉﨑さん、去っていく舞踊家ふたりへの感謝と喪失感。
かように、Noism 15thシーズンのスタートがいつになく寂しさが相半ばするものであったことも
この場では包み隠さずにおきます。
(shin)

『ロミジュリ(複)』埼玉公演2日目、こみ上げる「マジか⁈」

「秋の3連休ウイークその1」がスタートした2018年9月15日(土)、
この日早くからかなりの雨量をもたらした雨雲も去った与野本町の午後5時。
彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉で
『ロミオとジュリエットたち』埼玉公演2日目を観てきました。

この日に至るまでの金森さんのツイートや
前日の公演をご覧になった方々のSNSなどから
色々変更点もあるだろうことは予想していたのですが、
それでもそんな予想を上回る程に、あちこち手が入っていて、
「えっ、マジか⁈」となってしまいました。
特に、作品の根幹に関わる「ある関係性」を
より明確化して前面に押し出した部分など
まさに驚きを禁じ得ませんでした…。

7月の新潟、富山、静岡から、シーズンを跨いで迎えた埼玉3daysも、
いよいよ明日が大千秋楽。
もう1日残っていますし、
明日また変わる部分もあるかもしれませんから、
今は詳しくは書きませんが、
観る都度、刷新される舞台はまさに「生々流転」。
作品から響きだす声に耳を澄まし、
自ずと見えてくる世界に目を凝らし、
常にとどまることを知らず、
理想の舞台を追求してやまない金森さんの飽くことなき姿勢に、
これまでも、そしてこれからも、この人からは片時も目が離せない、
やはりこの人について行こう、
そんな思いがいや増すこととなりました。

シェイクスピアが書いた、年端の行かぬ若者ふたりの
「ボーイミーツガール」的な恋とその後の運命を描いた
あまねく知らぬ者などいようのない周知の枠組みに、
金森さんによる、今日的な問題系を踏まえた重ね書きが施され、
より緻密で重層的に立ち上げられた時空は、
そこにジュリエットが複数いるだけでなく、
恐らくみんなの共通認識のなかの姿より齢を重ね、ある種「拗ね者」と化したロミオがいて、
更に、「自然の力は偉大」としながらもそれに挑まんとする
医師ロレンスとその被造物ロザラインまでが配されることで、
原作にはない、怪しいほの暗さを纏って私たちを魅了します。

7月には唯一無二と承知していた筈なのに、
約2ヶ月の間をおき、大幅な変更を伴い、
装いも新たに、私たちに届けられたこちら埼玉の舞台は、
より一層の熟成、或いは深化を感じさせるものになっていました。

この日は第一部の終わりにも拍手が起こりましたし、終演後送られた拍手は途切れることを知らず、
それに合わせてカーテンコールが何度も繰り返されました。

明日9/16、遂にラストを迎える『ロミジュリ(複)』、
金森さんはそれをどんな作品に纏めあげてくるでしょうか。
大トリの舞台まで、メタモルフォーゼは続くのでしょうか。
もう既に驚く用意はできていますけれど、(笑)
明日を最後にNoismを離れるメンバーもいますし、
様々な思いが胸を去来したりもします。
今は、明日の公演が待ち遠しいような、
でも、明日はまだまだ来て欲しくないような、
そんな落ち着かない気分に包まれている
埼玉の深夜です…。
(shin)

9/14,15,16 ロミジュリ埼玉公演!

9月より、新メンバーを迎え、Noism 15thシーズン始動!
Noismの活動がますます楽しみです♪
https://mobile.twitter.com/NoismPR/status/1036841739212881920/photo/1
http://noism.jp/20180904_15th_start/

そして早速、来週開幕!
Noism1×SPAC『ROMEO&JULIETS』埼玉公演
日時:9月14日(金)19:00 、15日(土)17:00 、16日(日)15:00
会場:彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉
入場料:一般:5,500/U25 3,500円
※15,16日、残席わずか
http://noism.jp/npe/n1_spac_romeo_juliets_saitama/

7月からのロミジュリ各地ツアー公演、埼玉が最終となります。
どうぞお見逃しなく。
ぜひご覧くださいね!

埼玉でお会いしましょう♪

閑話休題:

★9月1日(土)ギャラリー蔵織(新潟市中央区西堀前通1)での
RGB2ライブに金森穣さん、極秘ゲリラ出演!
https://mobile.twitter.com/jokanamori/status/1035832756633128966?p=v

音楽 福島諭&映像 遠藤龍&立体 タンジェントデザイン(高橋悠+高橋香苗)による、第2回RGBライブに行ってきました!
http://www.shimaf.com/photo/20180901_event.html

昨年の第1回も行きましたが、今回は本当に驚きました。
福島諭さん(エレクトリックギター+コンピューター同時処理)の即興演奏×金森穣さん即興舞踊があるとは!
全くのサプライズで、びっくり仰天!!
なんというラッキー!!!
観客はそれほど多くなく、出演者の関係者とかの方が多かったかも(?)

最初、福島さん(コンピューター)と尺八の方の読譜演奏があり、そのあと福島さんが、「次に即興でやります」と言ったので、尺八との即興演奏かなと思っていたら、どこからともなく、いつの間にか、金森さんが現れていて、舞台の端にある椅子に座っているではありませんか!

どうしてここに金森さんが!?
静かにどよめく観客(私の席の周りには金森さんを知っている人たちが3,4人いたので)。

福島さんの、幽かな雨粒の音のような、ギター+コンピューターの演奏が静かに始まります。
椅子に座っている金森さんは瞼を閉じて瞑想しているかのようです。

演奏が進んでいくと、金森さんの指先が微かに動き、指から手、腕、上半身と、徐々に動きが伝わっていきます。
非常にゆっくりと、音楽に導かれるように、やがて椅子から立ち上がり、ある種奇妙な動きで、舞台中央へと移動していきます。

舞台と言っても狭く、壇があるわけでもなく、金森さんが踊るスペースは一畳分あるかどうか。
とてもゆっくりとした、いつもとは違う、しかし緊張感あふれる、金森さんの動き。
目が離せません。

そして音楽の盛り上がりと共に、次第に動きも大きく、激しくなっていきます。
クライマックスへ!

この感動をなんと言葉にすればよいのでしょうか。

やがて、音楽・舞踊とも、徐々に静まっていき、金森さんはゆっくりとした動きで椅子に戻っていきます。

全てが終わり、嵐のような拍手。
時間にして20分程度、金森さんが踊ったのは15分くらいでしょうか。
終演後、金森さんはどこへともなく、風のように去っていきました。

会場には秘密の通路があるようです。

私は福島諭さんの公演にはなるべく行くようにしていますが、こんなことがあるとは思いもよらず、なんとうれしいことでしょう。
即興ライブ、感激、感動しました。
寿命が延びた心地です。

たまたま私の隣席は、音楽ブログ専門ながら、Noism公演の感想ブログも書いてくださっている、いちかっこジョバンニさんで、お互いに感動の嵐!
ジョバンニさんの今回のブログ、ぜひお読みください。
RGB2の全容がわかりますし、私と違って芸術的な表現です。
http://clothoiddiary.blog.fc2.com/blog-entry-1127.html

翌2日、福島さんは岐阜県美術館で「ぎふ未来音楽展2018」のプレコンサート「音響室内楽」に出演。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/wp/wp-content/uploads/2018/08/6d7e5258f6bd0460bb149359d9d24dd5.pdf

あさって9日は「ぎふ未来音楽展2018」のガラ・コンサートに出演して新曲を演奏します。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/1667/

●同じく9日、
7月末のNoism2特別公演「ゾーン」演出振付、元Noism所属の
櫛田祥光さんのダンスカンパニー「Lasta」による公演「火の鳥」
が千葉県流山市民芸術劇場で17:00~18:30、開催されます。
櫛田さんご本人、そして、元Noism2の秋山沙和さんも出演します。
https://danpre.jp/5360/

真下恵ダンスパフォーマンス「dana」
日時:10月20日(土)①13時~②19時~
   10月21日(日)③13時~④15時~
会場:砂丘館ギャラリー(蔵) 新潟市中央区西大畑町5218-1
料金:一般/1,800円 学生/1,200円 
定員:各回20名

*9月19日(水)9:00~予約受付開始
申込:砂丘館TEL & FAX 025-222-2676
E-MAIL SAKYUKAN@BZ03.PLALA.OR.JP

詳細:https://www.sakyukan.jp/2018/08/6951

元Noism1メンバー・バレエミストレスの真下恵さんは、新潟でヨガインストラクター、バレエヨガ・コンテンポラリーダンス講師として活躍しています。
何度かインドに行かれていますが、この夏も行ってこられました。
『dana』とは、お布施とか寄付の意味もあるようですが、「与える give」という言葉のようです。

久しぶりの、真下恵さんの踊り、とても楽しみです♪
この公演は、真下さんのほか、コンテンポラリーダンサーさんたちも数名、出演するようです。

このパフォーマンスとは別に、
●西大畑町・旭町文化施設連携事業
【新潟 竹あかり花あかり】関連イベント
真下恵ダンスパフォーマンス

日時:10月20日(土) 18:00~
会場:砂丘館庭園
参加無料(予約不要・直接会場へお越しください)

というソロパフォーマンスもあるようです。

どうぞお運びくださいね♪
(fullmoon)

満席の『ロミジュリ(複)』静岡 2 Days、Noism1「14th シーズン」を締めくくる

関東地方の気温が摂氏40度に迫ろうかという週末、
2018年7月21日(土)及び22日(日)はまた、
Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ロミオとジュリエットたち』静岡公演の週末。

舞台形状の都合上、「静岡オリジナル演出」が金森さんから予告されていた「2 Days」。
その二日目、静岡楽日の公演を、急遽、観に行ってきました。
前日に決めたばかりの日帰り弾丸静岡行、SPACの「ホーム」グランシップ。
前の座席の背もたれのてっぺんには通風孔があり、
そこから絶えず涼やかな微風が出ているのですね、静岡芸術劇場。
なるほど、息苦しさを感じずにいられる訳です。

しかし、早めに新潟に戻らねばならない事情があり、
「さわやか」のげんこつハンバーグを食べて、『ロミジュリ(複)』を観たら、
もう後ろ髪を引かれる思いを振り切って、
アーティストトークは聞かずに、
速攻帰らなきゃ(涙)---それがこの日の私。

でも、舞台さえ観られれば、
(+結局、ハンバーグを食べることへの拘りも捨てきれなかったのですけれど、)
との思いで行って参りました。
そして、結局、無事にそのふたつの「ミッション」は完了したのですが、
刺激的なこと請け合いのアーティストトークを聞いていないのですから、
本来、これを書く資格などない訳でしょうが、
そこは「大人の事情」(なのか?)、ご容赦願います。

まだ、9月の埼玉公演が残っているので、
間接的にせよ、過度のネタバレに繋がる要素は回避しながら、
「静岡オリジナル演出」など、この日私が目にしたものを、
今、書ける範囲で書き記したいと思います。

「あの終幕」を変更するとなると、
もう冒頭の「怯え」の演出から変えざるを得なくなる訳ですから、
それはもう「えらいこと」なのでしょうが、
そこは金森さん、最終的に決めたのは静岡入りしてからだったにせよ、
静岡でやるとなった最初の時点で既に織り込み済みだった筈とも。

で、静岡。
もうトップシーンから全く異なっていて、驚きました。
「怯え」の対象、「怯え」をもって見詰める方向が真逆になっていることから、
全員の存在の、その在り方がまるで違って見えてくる印象です。
(苦しいところですが、この点に関して、今はこれ以上書けません。ご容赦を。m(__)m)
そのあとも、随所に細かな変更を伴いながら舞台は進んでいきました。
より「演劇寄り」の雰囲気になっている印象で、
描かれる「死」は、唐突さの印象を薄め、
それを契機に「垂れ込める暗い運命」の禍々しさを濃厚に漂わせていたと思います。
敷き詰められた変わらぬ黒のリノリウムに
鮮血の赤色を幻視する思いがしました。

そしてこれは「ネタバレ」にはならないかと思いますので、書きますが、
井関さん演じる「ロザライン」の映像も差し替えられていて、
「えっ!?」となりました。(汗)

こちら、前日もご覧になったfullmoonさんから教えていただいたところによれば、
この日(7/22)になって初めて目にした、前日(7/21)までとは異なる箇所とのことで、
このあと、9月の埼玉でも踏襲されることになるものだろうと思われます。
アンドロイド「ロザライン」の哀しみや憧れとも言うべきものが
より前景に出てくるようで、切なさが身に染みる表現になったように感じました。

ですから、新潟公演~富山公演~静岡公演初日までをご覧になられた方にとっては、
是が非でも、埼玉の舞台に足を運ぶ必要がありそうです。(笑)

Noismの「14th シーズン」を締めくくるこの日の公演、
二幕が終わり、全篇の終幕に至って、
緞帳がさがり、客電が灯っても、なお、
会場は水を打ったような静寂に包まれていました。
まるで、即座に拍手することなど、野暮で無粋な振舞いだとでも言うかのように…。
漲る万感を一旦胸に収める必要があった、そんな感じで、
一様に客席中に下りてきて張り詰めた静寂。
一瞬あって、みな我に戻ると、今度は、堰を切ったように、
舞台上、横一列に並ぶ舞踊家と俳優に大きな拍手が贈られ、場内に谺しました。

SPACの本拠地で金森さんが仕掛けた「劇的舞踊」、
演劇を見慣れたこの地のお客様の目にはどのように映じたことでしょうか。
もしかすると、終演後のアーティストトークで、
そのあたりが語られていたのかもしれませんが、
そこはご報告できず、申し訳ありません。
どなたか、コメント欄にてお知らせ頂けましたら幸いです。

「アーティストトークも聞きたいけれど、…」
「…ならぬ『逢瀬』をなんとしよう、
なんとしよう…」
断ち切り難い未練を断ち切って、
JR東静岡駅へと向かうべく、
グランシップ出口を目指す私を、
神様が憐れんでくれたのか、
久しぶりにSPAC俳優・奥野晃士さんの姿が目に飛び込んできます。
少しお話をする機会が持てたことで、喜んでいると、
更に、奥野さんからSPAC芸術総監督・宮城聰さんにご紹介をいただき、
初めてご挨拶して、少し言葉を交わすことまでできてしまったという…。
誠に嬉しいハプニングでした。

「行けてよかった」
「案外近いじゃん、静岡」
喜びを胸に、
「このメンバーで踊られる『ロミジュリ(複)』はこれが最後か」
同時に、寂しさも感じつつ、
東海道新幹線、上越新幹線と乗り継いで、
新潟に戻ってきました。

でも、今はもう既に、
ああ、9月の埼玉公演が待ち遠しい。
皆さま、そんな思いですよね。
(shin)

『ロミジュリ(複)』in富山、一夜限りの舞台が客席沸かす

予報に違わず、酷暑が日本全土を襲った
三連休初日の2018年7月14日(土)。
Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ROMEO & JULIETS』が
「ホーム」新潟を離れ、最初のツアーの地、
富山のオーバード・ホールの舞台に登場しました。

開演1時間前、午後4時になると、
当日券を求める人が並び、
順に、それぞれ、出来るだけ良い席を確保しようと、
示された座席表に目を落とし、
真剣に席を選ぶ姿が見られました。

欧州の劇場かと見紛うような
大層立派な劇場、オーバード・ホールの威容。
鮮やかな差し色も美しい場内のあちこちには、
様々なアート作品が飾られ、
それはそれは本当に素敵な大劇場でした。

加えて、この日、ホワイエの客席入口脇には、
地元・チューリップテレビからNoismとSPACに贈られた花と、
和田朝子舞踊研究所からかつて所属していた中川賢さんの
「凱旋」に対して贈られた花とが飾られ、
富山での今公演の実現を祝していました。

…午後5時を少し回って、客電が落ちる前の場内に
あの音楽が流れ出し、
いよいよ富山『ロミジュリ(複)』開演です。…

こんなに立派な劇場での公演がツアーに組み込まれていたのですから、
恐らく、富山にお住いの方々は、
この日が今作初鑑賞という方が大多数だった筈。
金森さんが仕掛けた様々な見せ場に、
客席からは、とてもダイレクトで、素直な反応が返されていました。

1幕、金森さんが提示する「厚み」に気持ちよく翻弄されたことでしょう。
幕がおりたあと、ややあって、あちこちから拍手が起こり、
それがやがて、会場中に広がりました。

2幕、冒頭から眼を凝らして見入る張り詰めた空気感のうちに
ラストの衝撃まで連れて行かれたことでしょう。
繰り返されたカーテンコールでは、
スタンディングオベーションと「ブラボー!」の声が送られました。

で、客電が点いたあとも幕があがったことで、
「えっ?」という笑顔を浮かべて並ぶ実演家たち。
その姿を目にした客席からも、笑みが広がり、
更に大きさを増した拍手が送られて、
和やかな空気感のうちに
一夜限りの富山公演は締め括られていきました。

twitterで金森さんが呟いていた「追加された演出」、
…わかりませんでした。(涙)

しかし、個人的には初めて訪れた劇場オーバード・ホールで、
富山のお客さんたちと一緒に、新たな気分で翻弄され、
心臓はバクバク、
大いに楽しみました。
中川賢さん繋がりということもあってのことでしょうが、
何より、昨年の射水市に続き、
今年もこの公演を組んでいただき、
富山を再訪する機会に恵まれたことも
心底嬉しかったです。

ツアーに出た『ロミジュリ(複)』、
次の訪問地はSPACの「ホーム」静岡。
7/21分は前売り完売で、キャンセル待ち。或いは当日券対応があるかも(?)で、
翌7/22も残り席はホントに数枚とのこと。
それでも、何としてもご覧頂きたい真の意欲作です。
更に、静岡公演についてはその劇場形状から「変更」箇所もあるとのこと!
私は行けないのが残念でなりません。
皆さま、是非お見逃しなく!
(shin)

『ロミオとジュリエットたち』感動の新潟楽日を終えて、アフタートーク特集

2018年7月8日(日)、雨予報を裏切り、晴れるも、相当な蒸し暑さの一日。
感動のうちに、「新潟 3 DAYS」全3公演の幕が下りました。
この日のアフタートークでのSPAC・舘野百代さんの言葉を借りれば、
「一幕の丁々発止のやりとりから、このまま二幕も転がる感じがした」との、
鼓動は高まり、「胸熱」だった新潟公演の楽日。

一幕の終わりにこの日も拍手が沸き起こり、(私も拍手しました)
終幕には「ブラボー!」の掛け声、(私も叫びました)
そしてスタンディングオベーション。(私も自然と立ち上がっていました)

回数を重ねたカーテンコールのラストに至り、
退団が決まっている中川賢さんと吉﨑裕哉さんに、
金森さんから情熱的な赤色が印象的な花束が手渡されると、
会場中から一層大きな拍手が贈られたこともここに書き記しておきます。

この日はアフタートークに先立って、
客席で一緒に新潟楽日の公演を観た篠田昭・新潟市長の挨拶があり、
「文化発信都市」を自認する一地方都市・新潟市にあって、
ここまでNoismが担ってきた役割の大きさについて話され、
今後も持続可能な活動を作っていきたいと結ばれました。

「ホーム」新潟・りゅーとぴあ公演における一大アドバンテージと言ってよい
3日間のアフタートークには、
連日、Noism1からは、金森さん、井関さん、山田さん、
SPACからは、武石さん、貴島さん、舘野さんの合わせて6名が終演後の舞台に登場して、
様々な質問に答えたり、色々なお話を聞かせてくださいました。

で、ここからは、今回の分厚い力作『ロミジュリ(複)』を観るにあたり、
期間中のアフタートークから、
読んでおけば、少しは参考になる事柄などを少しご紹介していきたいと思います。
ネタバレはしないつもりですが、それでもご覧になりたくない向きには、
この下の部分(☆★を付した部分)をそっくり読み飛ばしていただきますようお願い致します。

  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★ 
〇井関さんの役柄「ロザライン」: 原作では直接登場してこない役どころながら、
  「元来、物語全体がメインの人物だけに付随する構造は好きじゃない。
  ほんのちょっとしか登場しない人が見ている世界の方が豊かなこともあり得る」(金森さん)
  ということで、ロザラインの比重が大きくなったのだと。
  ロザラインはアンドロイドの看護師(全機、両手に手袋)、
  他の看護師ふたりは歪な体はしているが、人間、
  金森さんが演ずる医師ロレンスは半人半機(片手の手袋)の存在。
◎その井関さん: 「一番楽しいシーンが一番大変で、大変過ぎて笑っちゃうくらいだった」と  
  明かす。←きっと「あの」シーンです。

〇患者たち、チームC(奇数)とチームM(偶数)について:
  「キャピュレットは奇数っぽかったし、モンタギューは偶数っぽかったので、
  そういう患者ナンバーを割り振った。(笑)」(金森さん)
  彼らはみんな、ナンバー化され、ナンバーとして管理される存在。
  それぞれの背中、縦一列にナンバーが付けられている。
◎彼らの体のあちこちに貼られたテープ2種の意味合い: 
  暖色(オレンジ)→パワーアップしている部位、
  寒色(青緑)→マイナスがかった部位、 をそれぞれ示している。
  【例】山田さん演じるポットパンは頭に「寒色」: おつむが弱い。
     5人のジュリエットたちも喉に「寒色」: 発話しない(できない)。
     反対に、ティボルト(中川さん)は両手が「暖色」、
     マキューシオ(シャンユーさん)は両足が「暖色」。
〇両足「寒色」で車椅子のロミオについて:
  「車椅子を押してまっすぐ行くのも、曲がるのも難しい。人の体なら通じるのに、
  物はなかなか通じない」と井関さん。
  ロミオ役の武石さんは「車椅子での事故はなかった。愛があった」と。  

◎精神病院でのロミジュリ、あるいは、多様性(diversity)と包括性(inclusiveness)の問題:
  「今の時代を言い現わす象徴的な2語だろう。
  多種多様な人たち、多種多様な趣味嗜好、多種多様な価値観が混在する世界。
  それはどのように包括されたらよいのか。
  『視線』が複雑なものにならざるを得ないのが、まさに(現代の)世界。
  今回の作品も同じ。そのどこを見て、何を感じるのか。
  作品に正解を求めるのではなく、どう見るかを問いたい」(金森さん)
〇金森さんが師と仰ぐ鈴木忠司さんの『リア王』も精神病院を舞台にしていたが、その類縁性について:
  「絶対、言われるだろうと思っていたが、好きなので、『まあ、いいや』と。
  今回の『ロミジュリ』に関しては無自覚だった部分もあったのだが、
  大好きなので、そういう文脈で観て貰えることは嬉しい」(金森さん) 

◎実演家として大事だと思う事柄:
  SPAC武石守正さん(ロミオ役): 「関係性。ある瞬間が切り取られたものが舞台。
    他者との関係の中で、声も演技も定まってくる」
  SPAC貴島豪さん(グレゴリー/キャピュレット役): 「見られている感覚。
    本番までどういう準備をして、舞台に立つのか。
    お客さんが舞台を観に来られる理由はさまざま。
    何が観る者の心を動かすのか」 
  Noism山田勇気さん: 「関係性。例えば、武石さんが体から発しているものがあって、
    自分はそこにどう居るべきなのか、肌で受け止める。
    そうやって何かが生まれたら嬉しい」
    (そこで金森さんの「感受性だね」の言葉に一同頷く。)

〇シェイクスピア『ロミオとジュリエット』は「死ぬことでしか叶わない愛」を描くが、
  「今回のロザラインには『死ねないことの悲哀』を込めた」(金森さん)
  (また、「ジュリエットたち」が果たしてどうなっていくかについても要注意、
   と書くことに留めておきます。)
・・・場合によっては、読み飛ばして欲しい箇所、ここまで。
  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★

Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ROMEO & JULIETS』、
「お互い境界線を感じない、ひとつの舞台を創る舞台人」(井関さん)として、
舞踊家と俳優とががっぷり四つに組み、
渾然一体となって取り組んだこの野心的なクリエイションで、
双方の実演家の皆さんが異口同音に、
大きな刺激を受けたと語っておられたことも印象的でした。
それはひとえにどちらも「劇場専属」という在り方に関わっているのだとする
金森さんの指摘にも首肯する他ない事実が含まれているように思いました。

また、「繰り返される一回性」や「一瞬、一瞬」という言い方も、
日頃の金森さんがよく口にされる「刹那」とピタリ重なり合って、
動かしようのない「舞台の真実」を物語っていました。

「繰り返す『一回性』」と語ったのは武石さん。
更に続けて、「舞台は日々模索し、発見するもの。
再現することが出来ないことも多いのだが、
再現しなきゃならない」とも。
で、井関さんが、「舞台は立たないとわからない。常に発見があり、
お客さんが入ると、本気を越えた本気になる」と言えば、 
貴島さんも、「毎日、フルパワーでやっていても、日々違うものがある。
一回一回新しいものがどんどん生まれている。
いろんなところに『宝箱』があって、それを探しに行く感じ」と応じました。
山田さんは、「舞踊でも演劇でもない『劇的舞踊』がようやくわかってきた。
やっているなかで、見出すもの」と語り、
舘野さんも、「神秘的で曰く言い難い魅力」を指すらしい「ドゥエンデ」という
言葉を使って、それがあるのが舞台であると纏めました。
そんなふうに、舞台のうえで生まれる「一瞬、一瞬」を共有しに、
私たちも劇場に足を運び続けましょう。
…人生を豊かにするために♪

以上、力の及ぶ限りの「採録」を試みてみました。
ご覧になられた方にとっても、これからご覧になられる方にとっても、
僅かでも何かの参考にしていただけたなら、望外の喜びです。

さて、3日間、新潟の地に大きな驚きと感動をもたらした『ロミジュリ(複)』、
次は、週末7/14(土)、中川さんご出身の富山県はオーバード・ホールに参ります。
演出・振付家、舞踊家、俳優が揃って創りあげるこの渾身の舞台、
ゆめゆめお見逃しなきように!
(shin)