東京文化会館小ホールに登場したNoism

Noism1特別公演:『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』 〈上野の森バレエホリデイ2018〉(2018/04/28~30)

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第34号(2018年7月)

 東京で本格的なバレエ公演が行われるところとしては、上野公園にある東京文化会館の大ホールが広く知られている。その正面入り口の左手の緩やかなスロープを登ったところにあるコンサート用の小ホールが舞踊のために使われることは最近ではほとんどない。しかしここは天井の高い石造りの荘重な雰囲気を漂わせた空間であり、かつてはときどき舞踊にも使われていたのだ。その小ホールに、会館主催の《上野の森バレエホリデイ2018》の特別公演として新潟市の公共ホールりゅーとぴあの専属舞踊団 Noism1 が登場した。そして金森穣の新作『Mirroring Memories -それは尊き光のごとく』を上演した。ドアーサイズの鏡10枚を横に並べた舞台がひろがっていた。鏡は半透明でその後ろにあるものに光が当たると、前と後ろが同時に見える仕掛だ。鏡をいろいろに並べ替えて舞台を作った。

 金森のソロから始まった。シェイクスピアの芝居などで開幕に役者が登場し口上を述べる場面を思い出した。しかしこれは、エコール=アトリエ・ルードラ・ベジャール・ローザンヌで、彼が振付を習った当時の初心を振り返るシーンだった。金森は、師の舞踊劇創作の手法を彼の方法で踏襲し、作品を創り続けてきた。ここでは、2008年の『人形の家』より「彼と彼女」、09年の『黒衣の僧』より「病んだ医者と貞操な娼婦」、10年の『ホフマン物語』より「アントニアの病」、11年の『Psychic 3.11』より「Contrapunctus」、12年の『Nameless Voice』より「シーン9-家族」、14年の『カルメン』より「ミカエラの孤独」、15年の『ASU』より「生贄」、16年の『ラ・バヤデール-幻の国』より「ミランの幻影」、13年の『ZAZA』より「群れ」、17年の『マッチ売りの話』より「拭えぬ原罪」のハイライトを次々に披露した。

 黒衣(くろご)とか、後見(こうけん)と呼ばれる舞台で演技者を助ける役割の者が、日本の能、歌舞伎、日本舞踊などの世界には存在する。彼らは着物の肌脱ぎの手伝い、早替わりの糸の引き抜き、小道具その他の受け渡し、不要となったものの取り片付け、役者の座る椅子の調整などを行っているが、もともとは演技者が舞台を続けられなくなった時に、即座に代わることを主な役割とする人たちだった。客席にいる将軍などの要人に対して、舞台の中断があってはならないという配慮から用意されたと言われている。

 その黒衣が金森の作品にはしばしば登場して重要な役割を担ってきた。後見は着物姿だが、黒衣は黒装束に黒頭巾。日本の古典芸能の世界では、どちらも観客には見えていないことを約束事として舞台は進行する。ところが金森の使う黒衣は、黒の装束は同じでも、その役割はずっと重い。ドラマの進行そのものが黒衣のコントロール下にあるような感じを受ける場面もあるほどだ。主役同士の互いの意志だけで世の中の諸事が進むわけではなく、何かより大きな力によって思いがけない結末に転じて行くのが現実だ。そのようなところで、彼らの存在が際立つ。『Mirroring Memories』を見て、私はその感をいっそう深くした。

 最後は金森と井関佐和子のデュエットだった。女性ひとりを舞台中央に残して彼らは鏡の背後に…。鏡のそれぞれには、それまで彼の作品を踊っていたダンサーたちがすでに並んでいた。その眺めは、役者の絵看板を並べた芝居小屋の風景であり、人気俳優のブロマイドを並べたような感じでもあった。彼は、日本の舞台芸能独特の黒衣を有効に活用する手法も加味して、師匠のベジャールに倣い舞踊劇を作り続けてきた。ここで上演された『Mirroring Memories』では、ハイライトを並べたことにより、彼の手法がより明確になった。 

 私は、彼が選んだ作品のすべてを見ていなかったし、そのハイライト部分がオリジナルのどのあたりだったかを明確に特定できないこともあった。また舞踊作家自身が自身の過去の作品を再演すると、どうしても今の自分を抑えきれず、オリジナルから離れるものだ。そんなこともあって、次々に手際よく展開された上野文化会館小ホールでのダンスの奔流を、私は彼の最新作という印象で見せてもらった。

サポーターズ会報第34号より

新潟から届いた箱の中に入っていた心のときめき

Noism1:実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』を見る

山野博大(舞踊評論家)

 新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ専属舞踊団Noismが吉祥寺シアターで公演を行い、金森穣の新作、実験舞踊『R.O.O.M.』と『鏡の中の鏡』を上演した。舞台には長方形の巨大な箱が置かれていた。内部には、銀色の正方形のパネルが上から奥、そして両サイドまでぴたりと張り巡らされていて、客席側の紗幕(実際には紗幕は無いが)から、奥に広がる何もない空間が見えた。日本の能、歌舞伎、日本舞踊などの世界には、黒衣(くろこ)とか、後見(こうけん)と呼ばれる舞台で演技者を助ける役割の者が存在し、それを「見えないもの」とする約束事がある。それと同様に、そこに紗幕がなかったとしたら…。ダンサーたちは、完全に密閉された箱の中で踊り、それを見る人は誰もいないという状況が出現しているのではないか。金森穣は、そんな設定で実験舞踊を創ったのだという想いが頭をよぎった。

『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信

 突然、カミ手寄りの天井のパネルが開き、男性ダンサーの下半身が現れるという思いがけない成り行きで『R.O.O.M.』は始まった。男性5人が次々と落ちてきた。彼らは特に何かを表現するということもなく、ただただ力一杯に動き回った。次いでトゥシューズの女性ダンサー6人がやはり上部のパネルのあちこちに開いた穴から登場し、バレエのステップを粛々と展開した。井関佐和子のソロがあり、次いで、はじめに登場した男性5人のひとり、ジョフォア・ポプラヴスキーとのデュエットになった。デュエットでは男女のさまざまな心理的変化が描かれることが多いのだが、このふたりはむしろそれを排除して踊っているように見えた。さらに男女12人のダンスが続き、箱のそこここにぽっかりと開く穴からダンサーたちが忙しく出入りした。最高潮で暗転となり、全員が現れて前にずらりと横一列に並んだ。これはどう見てもカーテンコールの風景だ。ひとしきり動いて次々に退場。最後に井関が中央奥の穴から退いて作品は終った。劇場の黒い幕が降りて長方形の巨大な箱を隠すと、劇場空間の舞台と客席を分かつ基本構造のからくりが、精密に仕組まれたダンスの紡ぎ出す人間の感情を抑えた『R.O.O.M.』のドライな触感の余韻と共に、にわかに明らかになった。

 舞台と客席を幕で仕切った劇場という空間は、よく考えてみるとおかしな場所だと思う。舞台の上で繰り広げられる出来事とまったく関係のない人間がそこにつめかけ、一喜一憂するのだ。演出家をはじめとする多くの人たちが寄り集まって、客席との一線を意識させないようにいろいろと工夫を凝らし、観客の心を舞台の上で進行している出来事に取り込もうと手を尽くす。そのおかげで、観客は、普通ではなかなか体験できないような不思議な世界に遊ぶことができる。そんな劇場という空間の基本的な仕組みを、金森穣は観客に思い出させた。

 次の『鏡の中の鏡』の幕が開くと、金森が中央に座り、カミ手後方に等身大の鏡がはめこまれている空間が見えた。密封された箱の中という状況は同様だった。金森が力強く動いては、時おり鏡に自身のからだを写した。しばらくして、その鏡に井関佐和子の姿がダブって写った。鏡は半透明になっており、その背後のものに光をあてると、それが同時に写るように仕組まれている。暗転後、パ・ド・ドゥとなった。人間的な感情の交換がたっぷりとあり『R.O.O.M.』のデュエットとの対比は明らかだった。しばし踊った後、二人ははなれたところに座り、もう動こうとしなかった。金森がわずかに動いたところで暗くなり、そのまま『鏡の中の鏡』は終わった。

『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信
『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信
『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信

 新潟から届いた巨大な箱の中に入っていた、人間的な感情の交換を徹底的に排除した『R.O.O.M.』と情感たっぷりの『鏡の中の鏡』の対比が心に残った。金森穣が設定した外から見ることができないはずの空間での実験に立ち会った私は、劇場の持つ意味を改めて確認し、「見られないはずのものを見せてもらった」ひそかな心のときめきを覚えつつ劇場を後にした。

(2019年2月21日/吉祥寺シアター所見)