『火の鳥』からの『フラトレス』&『ボレロ』を満喫した「サラダ音楽祭2025」♪

2025年9月15日(月・祝)、前日開幕した「サラダ音楽祭」2日間の2日目、池袋の東京芸術劇場に出掛けて来ました。この日はまず、13時にプレイハウスにて、Noism2による「親子で楽しむダンス バレエ音楽《火の鳥》 Noism2メンバーによるダンス公演&ワークショップ」、そして15時からはコンサートホールでの「音楽祭メインコンサート《Boléro》」において、Noism1の『Fratres』、そしてNoism0+Noism1『ボレロ』が観られるとあっては駆けつけない理由を見つけるのが困難なスケジュールが組まれていたのでした。

まだまだ蒸し暑さが去らないなかでしたが、JR池袋駅から地下通路を使って劇場に向かいますと、不快感はありません。胸が高鳴るのみで、ややもすると足早にさえなりそうでした。

エスカレーターで2階のプレイハウスへ進みます。入場時に渡された二つ折りカラー・リーフレット(デザイン:ツムジグラフィカ・高橋トオルさん)の素晴らしい出来栄えにワクワクしなかった人はいない筈です。名作『火の鳥』、満を持しての東京上演です。

この『火の鳥』の上演&ワークショップは前日の音楽祭初日から既に好評を博していた様子(当然!)ですが、私は各種SNSをほぼ全てシャットアウトしてこの日に臨みました。東京の(家族連れの)観客、一人ひとりの心に刺さる様子を臨場感をもって感じたかったからです。そしてNoism2メンバーの熱演もあり、その通りの「帰結」を迎えたことに心のなかで快哉を叫びました。

金森さんから若者に向けた「贈り物」という性格を有する名作『火の鳥』は、「0歳から入場OK!」と謳われたこの音楽祭での上演にあたり、衣裳、照明など様々な刷新が図られ、より広範な観客を惹き付けるものとなった感があります。特に作品のラストの改変!それはあの二つ折りカラー刷りリーフレットの表紙、容易に切り取れる「白いマスク」によって、誰もが「火の鳥」になった気分を味わえる工夫と相通ずるものと言えるでしょう。この度刷新された『火の鳥』、今後ご覧になる機会もあるだろうことに鑑みて、ここではラストの改変の詳細は伏せておくことと致します。そのときまでお楽しみに。

その後は、「スチール撮影可」のレクチャーとワークショップが続きました。時間にして約30分間、進行は山田勇気さんと浅海侑加さんです。客席から選ばれたお子さんが舞台にあがって、作中の「少年」が持ち上げられる場面を体験する機会なども用意されているなど、満足度の高い好企画だったと思います。自分もひとりの親たる身として、我が子が小さかった頃のことなど思い出したりしながら、微笑ましいひとときを過ごしました。

次いで、15時からの「メインコンサート」です。コンサートホールは3階席まで満員。

当然のことながら、都響(東京都交響楽団)の演奏は素晴らしく、20分間の休憩を挟んだ約2時間、それだけでもホントに贅沢な気持ちになりました。休憩前にはモーツァルトを2曲(『魔笛』序曲と《戴冠式ミサ》)、典雅だったり、厳かだったり、その流麗な心地よさときたら、もうハンパないレベルだったかと。

そして、休憩が終わると、いよいよNoismの登場となります。ペルトの音楽に合わせて踊られる『Fratres』、(彩り豊かで活気溢れるファリャ『三角帽子』を挟んで、)更にラストにはラヴェルの『ボレロ』が待っています。

『Fratres』は、先日の公開リハーサルで、金森さんが繰り返し口にされていた「手の舞」という視点から見詰めました。「う~む、なるほど」と。しかし、これまで幾度も観てきていて、「あ?ん?え?」となった見慣れない振付にも出くわします。終演後に偶然お会いして少しお話しをする機会を得た糸川さんから、それは「利賀村ヴァージョン」(『マレビトの歌』中の『Fratres』)と教えて頂き、既にして「古典」の趣すらあるこの作品も刷新が続いていることを知る機会となりました。

ラストの『ボレロ』。もう圧巻の一言でしかありません。赤い衣裳の井関さん、黒からベージュのNoism1の8人、全員が客席を圧倒し尽くしました。舞踊家にあって、「メディア」としての自らの身体を両の掌で確かめながら、ラヴェルによるリフレインの高揚をそこを通過させ、可視化して周囲に放っていくひとりと8人。

この日、都響が奏でたのは、ともすれば走りがちになりそうなところ、終始、それを抑制しつつ進んでいく泰然たる『ボレロ』であり、過度の興奮を煽ることをしない、ある種禁欲的な姿勢で向き合われたその音楽は、零れるようにニュアンス豊かなものとして耳に届き、その豊かさな響きに同調する舞踊家の9つの身体により、一瞬一瞬、味わい深い厚みが加えられ、見詰める目に映じることとなりました。かようにためてためて「走らない」『ボレロ』、これも糸川さんに伺ったところ、都響とのリハーサルを通してこの間変わらないことだったのだそうです。都度書き換えられていく『ボレロ』の記憶!都響とNoismによる一期一会のもの凄い実演を目の当たりにし、『ボレロ』のまた違った一面に触れた気がして、もう興奮はMAX。繰り返されたカーテンコールに、スタンディングオベーションをしながら、「ブラボー!」と叫ばずにはいられませんでした。

感動を胸に東京芸術劇場を後にしましたが、酩酊は今も…。

(shin)

「こ、これは!」作品の内奥に連れて行かれた驚嘆の「SaLaD音楽祭2025」活動支援会員/メディア向け公開リハーサル♪

酷い雨も去って、酷暑も少しは和らいだ感もありましたが、それでもこの日もやはり暑い一日に変わりはなかった新潟市。2025年9月6日(土)、りゅーとぴあ〈スタジオB〉にて、「SaLaD音楽祭2025」に向けた活動支援会員/メディア向け公開リハーサルを見せて貰ってきました。

受付を済ませて、ホワイエに並べられた椅子に腰掛けると、丁度、正面に見えるパーテーションを兼ねたホワイトボードに、「12:00~公開リハーサル ボレロ」や「ボレロ ダメ出しRH」の文字が書きつけてありましたから、そのつもりで入場を待っていました。

で、12時少し前に、スタッフから「今日は『通し』ではなく、…」とそのあたりのことが告げられようとするや、パーテーションの向こうから、「通します、通します」という金森さんの声が聞こえてくるではありませんか。『ボレロ』のあの高揚感に浸ることが出来る!入場を待つ者のなかに、胸の高鳴りを感じなかった者などいなかった筈です。同時に、この日の公開リハーサルは1時間の予定でしたから、「あと45分程度はどうなるのだろう?」というドキドキもありました。

促されて、〈スタジオB〉に入り、用意された椅子に腰を下ろします。その後、金森さんが「こんにちは」、そう言いながら入って来ます。奥の掛け時計は「11:59」を指しています。メンバーたちは『ボレロ』冒頭の位置につこうとします。

「いこうか。大丈夫?」(金森さん)
「どこまで?」(井関さん)
「通すよ」(金森さん)
「えっ?(知らなかったのは)私だけ?」(井関さん)
「昨日、最後まで確認したじゃん。あと通すだけじゃん?」(金森さん)

そんなハプニングめいたやりとりを目撃して、声をあげて笑う私たち。敢えて表情筋を動かしつつ、スタンバイに入る井関さん。金森さんが音楽スタートの合図を送るときには、張り詰めた空気感が支配していました。

そこからの約16分間、衣裳こそ本番と同じではありませんでしたが、音楽と舞踊が醸す圧倒的な生命力に揺さぶられつつ、惹き込まれて見入りました。

「オーケー!」そう言ってスタジオ中央に進んだ金森さん。手のスパイラルな伸ばし方、中尾さんと糸川さんによる井関さんのリフト、そして「昨日変えたところ」(!)など、幾つかの修正を加えていきました。そして全体的には、金森さんから、「本番は生オケだからどうなるかわからないけど、『ボレロ』は基本、『後(あと)どり』。くっちゃうと高揚感出ないから」という指示があったりもしました。

でも、金森さんから見て、この日通された『ボレロ』は満足いくレベルだったようで、「良かったよ」。更に、「オレは良かったと思うけど、皆さんからダメ出しないですか?」の言葉には、笑いながらも、拍手していた私たちです。

それらが一段落をみると、再び、
「『通し』やると思っていなかったから。今日はダメ出しだと」(井関さん)
「昨日終わってるから」(金森さん)
「両方、飛び交ってたから」(井関さん)
笑う私たち。すると、
「いいよ、いいよ、終わり。『Fratres』やろうか?」(金森さん)
金森さんを除いて、〈スタジオB〉の中にいた誰もが「!」っとなった筈。このとき、時間は12:25。
「ダメ出しは終わったから。ずっとそうやっていてもしょうがないでしょ。通さないから」(金森さん)
そんな訳で、その後、『Fratres』冒頭部分の入念な調整過程をつぶさに見る機会が訪れたのです。

「こ、これは!」それこそ、まさしく仏像への「魂入れ」にも似た、あたう限りギリギリまで表現に彫琢を施す時間。剔抉され、刷新されていく動き、そして身体。金森さんがメンバーの動きに向き合い、自らの身体でも示しながら発せられた言葉の数々に、私たちも『Fratres』という作品の内奥にまで連れて行かれることになった、そんな、実に得難い時間だったと言えます。そして、それらの言葉は、『Fratres』を鑑賞する際の私たちの視座に大きな刺激を与え、ことによっては、それを刷新し得るような深みを持つものだったと言っても過言ではありません。断片的に書き留めたそれらの言葉たち、そのなかから少しご紹介いたします。

「ただのポールドブラ(腕の動き)ではなくて、両手のチャクラを身体の前から上に」
「掌のチャクラを開く。何かを外から受けなきゃダメ。そこに掌があるだけじゃダメ。受信する手だから」
「手が伸びるから、身体が伸びる。両手のチャクラ、魂をつかむ。掌が自分の方に向いているか、外を向いているか。伏せて、自分の身体に寄せて、入れて」
「『Fratres』は全て手だから。手との関係性を身体化しないと、ポーズ・ダンスになっちゃう」
「手のなかにある何かを自分の中に入れる。自分の身体を撫でるということを感じて欲しい。ある種の官能性・エロさが欲しい」
「そのままのコントラクション(筋収縮)で足が伸びる」
「耳の後ろに何かあるんだよ。それをとらないと。何かは知らん。夜道で背後に何かを感じるような、自分の背後への感覚。それをとって、見る。掌でまわして、のっけたものを投げる。手をそっちに動かすために、身体を動かす」
「日本舞踊っぽい手の舞。手の繊細さが欲しい。ないと体操っぽくなってしまう」
「観る人に質感を届けなきゃいけない。形じゃなくて」
「持続させなきゃいけない。終わりはない。音楽は続いてるんだから。君たちのなかにある一つひとつのシークエンスを身体化してはいけない」
「手を空間に投げていく。掌にボールを持っている感覚。繋がってなくちゃダメ。ボールを落とさない」
「頭は下に。前じゃなくて。フォーカスは『イン』だよ。見えない壁に頭をぶつけている。鳥籠のなかで鳥が頭をぶつけている。行き詰まっている。壁、壁、壁。向こうに光を見て、リーチ・アウト。伸ばす。スパイラルで」
「宇宙まで伸びる。呼び込んで、自分の身体に集めて、抗って、パッ!離れて」
「外から何かが来る。リアクション。聞きたくないから耳を覆う。祈る。怖い」
「能動ばっかりで、受動がないから、『どうしてそうなったんだろう?』っていうサプライズがない」
「『動きが弱い』と言うと、すぐ、強くやっちゃおうとするんだけど、弱いのはイメージ。イメージの持続」等々…

私自身は『Fratres』という作品の核とも呼ぶべきものに接することが出来て、大興奮の時間となりましたが、それを「紹介」しようとすると、やはり、「紹介」と言うには程遠く、断片的な言葉の羅列となってしまう他ありませんね。その点、力及ばずです。すみません。それでも、上に書き付けたものから少しでも「作品」に近付くアングルを見出して頂けたなら幸いです。

時計の針は予定時間を超過して、13:10を指しています。金森さんが、「時間過ぎちゃった。こんな感じじゃないかな」、そう言ったところで、この日の濃密な公開リハーサルは終了となりました。もう目が点になりっ放し、息を詰めっ放しの一時間強でした。

この『ボレロ』と『Fratres』は、9月15日(月・祝)に東京芸術劇場〈コンサートホール〉にて「サラダ音楽祭」のメインコンサートとして東京都交響楽団の生演奏で踊られます。この日の驚嘆の公開リハーサルを経て、両作品がどう見えてくるか、期待感も募ろうというものです。楽しみでなりません。

なお、今なら期間限定ですが、TVer「アンコール!都響」で、昨年の同音楽祭にて踊られた『ボレロ』ほか(114分)を観ることが出来ます。よろしければ、そちらも次のリンクからどうぞ。

TVer「アンコール!都響」より「サラダ音楽祭2024」メインコンサート

また、今年はNoism2も同音楽祭に初登場し、9月14日(日)、15日(月・祝)の両日、同じく東京芸術劇場の〈プレイハウス〉を会場に、『火の鳥』の上演とワークショップを行います。そちらも楽しみです♪

「活動支援会員」であることのメリットを噛み締めた、豊穣過ぎる一時間強の贅沢でした。

(shin)
(photos by aqua & shin)

1年半振りのインスタライヴで語られた『アルルの女』と『ボレロ』♪

2025年7月15日(火)の夜20:00から、金森さんと井関さんが1年半振りのインスタライヴを行い、2日前に大好評のうちに全6公演の幕をおろした『アルルの女』/『ボレロ』公演について大いに語ってくださいました。

とても興味深いお話が聴けますので、まだお聴きになっておられない向きは、こちらのリンクからお進み頂き、アーカイヴをお聴きになることをお勧めします。

このブログでは、以下に、おふたりのお話を掻い摘まんでご紹介したいと思います。

*『アルルの女』について
○構想は大体1年前くらいからあったが、クリエイションを始めたのは、「円環」公演が終わった3月からで、黒部の『めまい』の稽古と並行して。
●原作を読み、「劇付随音楽」を見つけて「いけそう」と思った金森さんに対して、当時、その「劇付随音楽」を知らなかった井関さんの反応は芳しいものではなかった。しかし、構想と登場人物について聞いて不安は消えた。最後の決め手は複雑で重層的な原作で、オリジナルなものが作れると思った。
○テーマカラーはオレンジと黒。オレンジは人間の網膜が闇のなかで一番認識する色味だとなにかで読んでいて、『アルルの女』の世界観として「これでいける」と思った。コンセプトにあったフレームをオレンジにして、衣裳を全員、黒でいくことにした。

●黒の衣裳: 抽象度を保ちながら、物語の本質を届けるチャレンジにあって、出来るだけ単色として、色による説明を排そうとし、また、全体として「死」がテーマであり「喪に服す」意味合いや、超極彩色の花との対比も意識した。
○衣裳・井深麗奈さん: 井関さんの踊りのファンで、ポートフォリオを送ってきてくれていた。和と洋のミックス、あまり語り過ぎないが、ディテ-ルや繊細さがあるもので、「合うんじゃないかな」と今回初めてお願いしたが、良かった。

●井関さんが踊った「母親」: 昔なら「母親」っぽさ、ある種の具体性とか考えがちだったが、 今回は考えなかった。その裏にあって一番大きかったのは、「演出振付家」(金森さん)への信頼。わざわざ自分がそこに何かを付け加えなくても、何者かになろうとしなくてもいいと。ただ、ディテールを深めて、与えられたものの中でどうやって生きるか。
○「演出家」として、物語や役柄を伝えようとする際に、大切なのは「関係性」。社会的な記号としてではなく、関係性によって「母親」に見えることの方がより本質的。
●こういう家族構成の作品を創ろうと思ったことには、今のNoismのメンバー構成やタイミングがあったのは間違いない。

*『ボレロ』について
○「映像舞踊」ではない『ボレロ』は1年半前のジルベスターコンサート(新潟)が初めて。やる度に構成が少しずつ変わってきている。
●たった15分なのに、「しんどい」。(井関さん)
○金森さんが井関さんに言ったのは、「絶対死ににいっちゃいけない」、それを肝に銘じた。「踊り切って、全身全霊、エネルギーを使い果たして終わる」ことで届けるのは、実演家の自己満足で妄想。「死ににいく」ことで削がれてしまうディテールも物凄くある。コントロールし、制御し、観客の中で「燃え尽きた」ように見えればいいのであって、「芸」の本質としては「燃え尽き」てはいけない。そして今回、敢えてそう言ったのは、「生き方」「死に方」を見つけるのかどうか見ていたかったから。案の定、時期ごとに色んなアプローチをしていて、「ああ、いいなぁ」と思った。演出家としては舞踊家を見て気付くことも沢山あり、それは欠かせないこと。井関さんが見つけていっているものを金森さんも見つけていっていた。
●「再演」: 自分がやったことは自分のなかに残っている。前回、「サラダ音楽祭」で、金森さんから「よかった」と言われ、なにか脳味噌に残っていて、そのときの自分の状態にすがって、リハーサルが始まり、まずはそこにいくことを重要視した。金森さんはそのアプローチは違うなと思ったので、「違うと思うよ」と言った。
○今回の『ボレロ』での、金森さんによる井関さんの「観察」の最終過程、「最終章」は次、来月の「サラダ音楽祭」。そこまでがワンセット。
●昨年、ライヴで都響(=東京都交響楽団)とがっぷり四つで、(「死ににいっている」)素晴らしい実演があり、録音でのアプローチで色々見出した今回があり、それを踏まえて、再びライヴで都響とやるときにどうなるか。

○「『ボレロ』は終わったときに息切れてちゃ駄目だよ」(金森さん)に対して、「あの作品で息が上がらないって、どういうことだろう?」、でも考えても無理だと思った井関さん、次の日に、考える前に、身体がそのイメージを掴んでくれていた。「あれっ、息がほとんど切れていない」。頭で考えることを止めない限り、そこには行けない。
●最初、闇のなかで待つ時間が長い。3分くらいの感覚。身体の輪郭だけが見えて、あとは空っぽの状態で立っている状態で、考える必要がないってことと理解。
○「ゼロ・ポイント」(金森さん): そこにいるってだけのために必要最低限のエネルギーで、思考も呼吸の意識もなく、邪念もなく、ただそこにポッとある状態。一回、「しんどさ」がわかると、記憶があるために、やる前から「しんどさ」が来て、そっちに引っ張られがちになるのだが、経験も記憶も何もない「ゼロ」の状態に持っていくのは一番目指すところであり、一番難しいところ。でも、それが掴めたら、あらゆることが「初めて」になる。
●『ボレロ』はゆっくり始まるから、点で、何かがよぎる。それをなくすことは絶対無理だが、そこに留まらないで、過ぎていく感じがあるのは、「再演」を重ねてきたお陰。
瞬間に色々なことが起きているのだが、ずっと流れていて、終わったあとに「あれは何だったのだろう?」と。(井関さん)→「自然。全ては流転する」(金森さん)
○(観世寿夫さんの本『心より心に伝ふる花』を手にした井関さん)「自然」という言葉を、昔は「ふと」と読んでいたと。自然は流動的であり、何かに留まろうとするから、苦しいのだなと。
●自然なままに生きる感受性の強い身体であるためには鍛錬が必要であり、鍛錬は自然ではない。しかし、舞台上では鍛錬したことにしがみつくのではなく、全部捨てて、ぽおんと自然のままの状態的にいること。(金森さん)
○舞台上で「立つ」ことは本当に怖いこと。ピラティスで「立つ」ことを学んできたため、怖さは一切なかった。それが自分の中では鍛錬だった。心が落ち着いたということではなく、単純に体重をかけて、どこにアライメントをおいて、立っていることが。(井関さん)
●脳味噌は不思議。自分で翻弄して、自分でびびって、自分で悩んで、自分で解決している。(金森さん)

○井関さんから金森さんに質問、「見ているときって緊張するの?」: 『アルルの女』では見ているシーンの多かった井関さんは「頑張れ、みんな!」と緊張したというが、金森さんはどんどん緊張しなくなってきたという。若い頃は、自分の思う「100%」みたいなものがあり、「みんなミスしないように」と緊張していたが、今は自分が想定する「100%」というのが如何にレベルの低い話かと経験上わかってきているので、逆に、どう想像を超えてくれるかなと期待をして見ている。(金森さん)→それを聞いた井関さんも、自分に対しては全く同じで、集中はするが、緊張はしなくなって、どう超えてくれるかなと自分に期待していると。「経験だと思う」で一致したおふたり。

Q:今回の公演は観客の熱気が特別凄かったと感じた。それについては?
 -A: 「こちら側もそう感じた」、と井関さん。「特に関東であんな感じになるって、そんなにない」と金森さん。井関さん、「有難かった」
Q:ステージからはどうでしたか?
 -A: (井関さん)「ステージからは結構感じた。(Noismの)お客さんは見ているときのエネルギーでわかり易い。上演中に『これは届いているな』とか、『きょとんとしているな』とか」
Q:(金森さんから)最も「きょとん度合い」高め、引っ張れてない感覚があったのは?
 -A: (井関さん)「引っ張れてない」というより、「ふわっとした」感覚があったのは、『Der Wanderer - さすらい人』と『鬼』。時と場合、公演場所による。(井関さん)
コメント: 3公演観ても足りないです。
 -A: (井関さん)「Noismは何回観ても面白いって言ってくださるからね」
Q: 配信とかライヴとかはやらないのですか?
 -A: (金森さん)「ないですね」 
     (井関さん)「なるべくしたくない。やはり生(なま)で。でも、自分たちが死んだりしたら、配信して貰ってもいいと思う。今現在、生(なま)で出来ているのだから、今一緒に生きたい。でも、死んでしまった後は、金森穣という人の作品を色々な人に観て貰いたいので、いっぱい配信してもいいと思う」
     (井関さん、鈴木忠志さんの本『初心生涯 私の履歴書』(白水社)に出てくる「今生きている人の賞は貰わない」に触れながら、)「今、完結されてしまうことに否定的になってしまう」
     (金森さん)「俺はどうでもいいけど」

*今回の『照明』について
●「片明かり」とか増やした。「御大」(=鈴木忠志さん)からの言葉も自分のなかにあったし、「額縁」のなかの(カラバッジオみたいな)ルネサンス絵画(静止画)みたいなものを考えたときに、あの時代、ドラマチックな絵を産むときに、明かりの方向性は重要だった。フラットにならずに、敢えて強めに、片側だけ強めにした。(金森さん)→「初めてだった。面白かった」と井関さん。
○表情: 昔の日本画では、女性はみんな同じ表情をしていた。それはそのシチュエーションで表情で語らせる必要がなく、観る側が表情を想像することが出来た。表情は見えなくても、その時の身体の在り方と美術や人との関係性の在り方とで、その人がどういう表情をしているかは観客はわかる。(井関さん)→その時々の重要な人物への明かりの当て方、バランスは気にした。(本当に大事なところは顔が見えなくても伝わる。)(金森さん)

Q: 音楽とは何か?
 -A: (金森さん)人類が生んだ最高のものじゃないですか。

終わり間際、残り時間も極めて少なくなったなか、金森さん(と井関さん)から、Noismの次の公演は来月、利賀村での『マレビトの歌』であり、それを上演する場が鈴木忠志さん率いるSCOT「50周年」となる夏のフェスティバルであること(かつ、前掲の近著『初心生涯』の素晴らしさ)が触れられ、次回インスタライヴについても、その利賀村の後、「サラダ音楽祭」の前に、「今度は近いうちにやります。さよなら」と、この日のインスタライヴは終わっていきました。

…こんなところをもって、ご紹介とさせて頂きます。それではまた。

(shin)

Noism『アルルの女』/『ボレロ』埼玉で迎えた大千穐楽(「箱推し」の推し活ブログ風)

2025年7月13日(日)、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』公演が、埼玉は彩の国さいたま芸術劇場で大千穐楽を迎え、大評判のうちに、全6公演のその幕をおろしました。ここまで、ネタバレなしにレポートのような、感想のようなブログをあげてきましたが、今日は様々な偶然、それもとても嬉しい偶然が重なったことから、これまでとはまるで違うタッチのブログを残そうという気持ちになりました。敢えて、そのタッチを言い表すなら、「箱推し」の推し活ブログ、とでもなりましょうか。多分に個人的な色彩も強いものになるかもしれませんが、よろしければ、お付き合いください。

朝、宿泊した横浜から、Noism20周年記念の黒Tシャツを着込んで、彩の国さいたま芸術劇場を目指しました。前日の過ごし易さとは打って変わった焦げるように暑い日曜日です。JR与野本町駅からほんの12〜13分歩くだけではあるのですが、それがかなり堪える「苦行」に感じられたため、「着いたら、カフェに行って、冷たいものを飲もう」、そう同行の家族に言うことでやっと辛抱して汗をかきかき歩くことが出来たようなものでした。

劇場前の横断信号を渡って、ガレリアに通ずる入り口を入って、何気なく振り返ると、そこに見覚えのある女性の姿が!その女性、かつて、Noism1メンバーとして活動しておられた西澤真耶さんではありませんか!西澤さんと言えば、映像舞踊版の『ボレロ』に出演しておられるといった点に、今回の公演との繋がりが見出せたりもします。最近は東京で活躍されておられて、なんとかこの日の公演を観に来ることが出来たとのことでした。また、Noism在籍当時に、気さくに接してくださったお母様によろしくお伝えくださいとお願い出来たことも含めて、嬉しい偶然(1)でした。

ミックスジュース、アイスカフェラテ、大人のコーヒーゼリーアフォガード(早くも溶け始めている…)

でも、そのカフェ(Cafe Palette)に着いてみると、みんな考えることは一緒で、3人で座れる席が見つかりません。相席をお願いしようと、連れ合いがお顔も見ずに声をかけさせて貰ったご夫婦が、「えっ!えええっ!」、なんとNoism1の糸川祐希さんのご両親だったのでした。それから約30分間、思いがけずも、糸川さんのこと(今日に通ずる「出発点」Noismのオーディションを受けるに至った経緯なども!)やら、今回の公演のことやらを中心に様々話しながら過ごすことが出来た、スペシャルな時間が持てたのでした。これが嬉しい偶然(2)です。

そして、14:30開場。スーツケースをクロークに預けて「87」の札を受け取った後も、ホワイエに留まり、サポーターズ仲間たちと合流して、大千穐楽開演前の華やぎの中に身を置きながら、入り口付近で外の様子に目をやる金森さんの姿を見続けていると、やがて外に向けて手招きをし始めた金森さん。すると、今年も来月に「サラダ音楽祭」でコラボする東京都交響楽団コンサートマスターの矢部達哉さんが入って来られて、ハグをして、それから親密に話される様子などワクワク見詰めたりしていました。

15:00開演。『アルルの女』です。音楽が耳に届いてくると、緞帳の手前、客席に背中を向けた「アルルの女」井関さんと抱き合う「フレデリ」糸川さん、その目の半端ない色気にうっとりしながら、そこから始まる約50分間の「悲劇」を、この日もカタルシスをもって堪能しました。

全6公演が終わった今だから書けること、繰り返される4度の「死」について。あのインパクトある表現は、かつて、劇的舞踊vol.4『ROMEO & JULIETS』(2018)で用いられ、大いに衝撃を受けたもの!今回、公開リハーサル時に、舞台の手前に、舞台高と同じ高さで黒く立ち上がり、ピットを隠すようにめぐらされた目隠し状のそれを目にした時から、「もしかしたら、また、鳥肌が立ったあの表現が見られるのではないか」、そう微かな期待感を抱いたのでしたが、実際に、時を隔てて再び目にした「死」の表現としての「落下」は、微塵もその破壊力を減じることのなく、この演目においても見どころのひとつとして機能し、やはり今回も鳥肌ものだったことを認めたいと思います。

モロに「ネタバレ」になってしまうため、ご紹介を控えていたのですが、新潟公演でのアフタートーク(6/28)において、その「落下」後のコツについて、質問があり、ピットには無数のウレタンスポンジが敷き詰められていて衝撃を和らげてはくれるものの、出来るだけ大きな面で受け止められるように落ちるのがダメージが少ない、そう金森さんが説明してくれたことをここに書き記しておきます。

見事に可視化されていく妄想やら、妄執やら、不在の現前やら。瓦解する精神性が命とりになってしまう様子やら、その表現の巧みさとそれを支える身体の迫真性があって初めて、ラスト、微動だにせず、ただ小首を傾げる「ジャネ」(太田菜月さん)の姿に、あのカタルシスが宿る訳です。この日は埼玉の中日(そして初日)のような「静けさ」「静寂」から始まるリアクションとは別物の、大千穐楽という、謂わば「祝祭空間」がもたらしたのだろう即応性の高い熱烈な拍手が、緞帳が下り切る前に劇場内に谺することになりました。その後の休憩時間にあっては、観終えた観客の多くが、入場時に手にしたパンフレットに、さも興味深げに、目を落としていました。

そして、『ボレロ — 天が落ちるその前に』。ひとり、真上からのダウンライトを浴びて、特権的な赤を纏う井関さんを除くと、他は全員、『Fratres』シリーズ(2019-2020)の黒の衣裳で登場してきます。やがて、ひとり、またひとりとそれを脱ぎ捨て、あれは「キナリ」でしょうか、手足を露出させつつ、「脱皮」或いは「メタモルフォーゼ」を遂げていきます。それはベジャール振付の名高い『ボレロ』とは異なり、中心から周囲への「伝播」の方向性をとるものであり、Noismの集団性を謳いあげるベクトルを感じさせるものと言えると思います。やがて、シンクロして踊る身体を見詰める醍醐味が横溢するでしょう。その美しさ!少し先を急ぎ過ぎました。

加えてこの演目で、その美しさをもって、観る者を圧倒しにかかるのは、徐々に顕しとなっていく最後方、金色のホリゾント幕です。下の方からその金色が見えてくる様子自体が陶酔を誘うひとつのハイライトを形作っている、そう言っても過言ではないでしょう。有無を言わせぬ圧倒的な美そのものです。それは、かつて、『Liebestod — 愛の死』(2017)で用いられた装置であり、ここでも、ラストにいたって、あのときの「屋台崩し」に似た場面が再現され、その頽れる美の有り様で私たちを虜にしてしまうでしょう。またしても、急ぎ過ぎてしまっているようです。

「魔曲」にのって、自らの身体(メディア)をチューニングし、上方、天に向かって、両の腕を伸ばす舞踊家たち。祈りと献身は、中央の井関さんに発して、フォーメーションを変化させながら、やがて、集団へと「伝播」し、全員のものとなっていく。しなやかで強靭な身体。力強くも繊細な身体。優美ながらも艶かしささえ立ち上げる身体。エロス(生)と同時にタナトス(死)、刹那と同時に永遠さえ表象してしまう身体。およそあらゆる二分法が無効化され、止揚されて、迎えることになるラストの一瞬。その陶酔。

この日も客席からは爆発的な拍手が湧き起こり、「ブラボー!」の声が飛び交ったことは言うまでもないことでしょう。

この火を吹くような『ボレロ』の終演後、興奮を抑えることが出来ないサポーターズ仲間に混じって、前出の糸川さんのお母様が、終盤の盛り上がる場面で、中央の井関さんが両脇に目配せして、「最後、思いっ切り踊り切ろう」という感じで誘いかける様子を目撃したと話されると、確かにそう見えたと応じる人もいました。私自身は、しかと目にしてはいなかったのですが、そうだとしても、何ら不思議ではありませんから、「なるほど」と聞いていました。同時に、「全てを観るためには目はふたつでは足りないな。情報量が多過ぎる」、とも。本当に魂から揺さぶられ通しの、圧倒的な大千穐楽だった訳です。

しかし、偶然はまだここで終わりではなかったのです。新潟に向かう新幹線に乗ろうとJR大宮駅まで行き、やや時間をもて余し気味に、新幹線待合室で過ごしていて、ペットボトルの水でも買おうかと売店まで赴いたとき、目を疑うような偶然(3)があり、驚いたのでした。なんとそこには、先程まで踊っていた庄島さくらさん・すみれさんの姿があったからです。またしてもの「えっ!えええっ!」体験です。私の目はハート型になっていたに違いありません。もうテンパってしまったことは容易に察して頂けるものと思います。感動の舞台のお礼を伝えたのち、テンパっていたのをいいことに、「連れ合いも連れて来ていいですか」など口走って、結果、4人で立ち話をする時間を手に入れてしまった訳です。お疲れのところにも拘らず、(同じ新幹線に乗車予定だったため、)まだ少し時間があると、優しく応じてくれたおふたりには感謝しかありません。

そこで件の『ボレロ』における井関さんの目配せについて訊いてしまいました。訊いちゃったんです、実際に。すると、確かに盛り上がりのところで目配せはあったと教えてくれました。しかし、それはこの日だけではなしに、埼玉入りしてから始まったことだったのだとも。で、その目配せで気持ちが通じていることが嬉しかった、そう教えてくださいました。テンパっていたから訊けたことですよね。で、テンパりついでに、『ボレロ』終盤でのおふたりのポジションについても、下手(しもて)側がさくらさん、上手(かみて)側がすみれさんだったことも確認させて頂き、胸のつかえがとれました。今回は髪の色も同じ、髪型も同じということで、見分けるのが極めて困難だったのですが、そんな私の失礼と言えば、失礼でしかない質問に対しても、「そうですよね、見分けはつき難いですよね」、微笑みながら、そう言ってくださっただけでなく、「穣さんも間違ったりしましたから」とまで付け加えてくださる気遣いにホント感動しました。(おまけに、4人で自撮り写真まで撮らせて頂きました。それ、もう宝物です。)更に更に「推し」ていく他ないじゃありませんか!

そんな夢みたいな時間を過ごして、新潟に向かう新幹線に乗り込み、荷物を棚に上げたりなどしていると、通路を歩いて来る男性が、私の苗字に「さん」付けで呼び掛けてくるではありませんか!偶然(4)はここにも。それは山田勇気さんでした。山田さんも同じ新幹線だったのですね。虚を突かれて、「あっ!どうもです」くらいしか言えず、トイレに向かった連れ合いに知らせに行くと、驚いた連れ合いも大した挨拶も出来なかったような始末。常に平常心でキチンと応じることの出来る人にならねば、この日の締め括りにそんな思いを強くしたような次第です。

思いがけず、様々な嬉しい偶然に恵まれたことで、これを書いている今もまだ「Noismロス」に見舞われずに済んでいました。

ということで、このような「箱推し」の推し活ブログ、長々とお読み頂き、誠に恐縮、並びに心より感謝です。

(shin)

凄いものを聴いた!観た!-「サラダ音楽祭」メインコンサートの『ボレロ』、圧倒的な熱を伝播♪

2024年9月15日(日)、長月も半ばというのに、この日も気温は上昇し、下手をすれば、生命すら脅かされかねない暑熱に晒された私たちは、陽射しから逃げるようにして、這々の体(ほうほうのてい)でエアコンの効いた場所に逃げ込んだような有様だったのですが、まさにそのエアコンが効いた快適な場で、全く別種の「熱」にやられることになろうとは予期できよう筈もないことでした。

「サラダ音楽祭2024」のメインコンサートは早々に完売となり、当日券の販売もなく、期待の高さが窺えます。池袋・東京芸術劇場のコンサートホール場内では文芸評論家で舞踊研究者の三浦雅士さんの姿もお見かけしました。この日ただ一度きりの実演な訳ですから、期待も募ろうというものです。

私自身、先日の公開リハーサルを観ていましたから、この日の『ボレロ』が見ものだくらいのことは容易に確信できていましたけれど、大野和士さん指揮の東京都交響楽団とNoism Company Niigataによるこの日の実演は、そんな期待やら確信やらを遥か凌駕して余りあるもので、凄いものを聴いた、凄いものを観た、と時間が経ってさえ、なお興奮を抑えることが難しいほどの圧倒的名演だったと言わねばなりません。

そのメインコンサートですが、まず15時を少しまわったところで、ラターの《マニフィカト》で幕が開きました。私にとっては初めて聴く曲で、「マリア讃歌」と呼ばれる一種の宗教曲なのですが、そうした曲のイメージからかけ離れて、親しみ易いメロディーが耳に残る、実に色彩豊かで現代的な印象の楽曲でした。更に、前川依子さん(ソプラノ)と男女総勢50人を超える新国立劇場合唱団による名唱も相俟って、場内は一気に祝祭感に包まれていきます。「ラター」という人名と聖歌《マニフィカト》とは私の中にもしかと刻まれました。

20分の休憩を挟んで、後半のプログラムは、ドビュッシーの交響詩『海』で再開しました。こちら、どうしても、金森さん演出振付による東京バレエ団のグランドバレエ『かぐや姫』、その冒頭ほかを想起しない訳にはいきませんよね。粒立ちの鮮明な音たちによって、次第にうねるように響きだす音楽によって、そこここであの3幕もののバレエ作品を思い出さずにはいられませんでした。その意味では、都響によるダイナミックレンジが広く、階調も情緒も豊かな熱演が、同時に、次の『ボレロ』へのプレリュードとしても聞こえてくるというこの上なく贅沢な選曲の妙、憎い仕掛けにも唸らされたような次第です。

そしていよいよラヴェルの『ボレロ』です。金森さんと井関さん共通の友人でもあるコンサートマスターの矢部達哉さんが楽団員たちとのチューニングを始めると、客電が落ち、井関さんをはじめNoismメンバーが上手(かみて)袖からオーケストラ前方に設えられた横長のアクティングエリア中央まで駆け足で進み出て、特権的な赤い衣裳の井関さんを中心に、フードまで被った黒い8人が円を描くように囲んで待機します。金森さんの師モーリス・ベジャールの名作と重なる配置と言えるでしょう。やがてスネアドラムがあの魔的な3拍子のリズムを静かに刻み始め、フルートがそこに重なって聞こえてきます…。昨年末のジルベスターコンサートでの原田慶太楼さん指揮・東京交響楽団の時とは異なり、今回は中庸なテンポです。

金森さんによるこの度の『ボレロ』ですが、先ずは赤い井関さんと周囲の黒ずくめ8人の関係性の違いが、ベジャールの名作と最も大きく異なる点と言えるかと思います。音楽のリズムやビートを最初に刻むのが井関さん。そしてその中心からそのリズムやビートに乗った動きがじわじわ周囲に伝播していくことになります。

両腕を交差させて上方に掲げたかと思えば、両手で上半身を撫でつけたり、或いは、両手を喉元までもって来ることで顔が虚空を見上げるかたちになったり、苦悶と言えようほど表情は固く、如何にも苦しげな様子を経過して、決然たる克己の直立へ戻るということを繰り返すうち、次第に、井関さんから発したその身振りが断片的に、先ず周囲の幾人かに伝播していくのです。この「抑圧」が可視化されている感のあるパートで用いられる舞踊の語彙にはベジャール的なものはまだ含まれておらず、これまでのNoismの過去作で目にしてきたものが多く目に留まります。

やがて井関さんとその周囲、赤と黒、合わせて9人のポジションは、(徐々に黒い衣裳を脱がせながら、脱ぎながら、)3人×3という構成にシフトしていきます。それは即ち、最初の円形が横方向へ伸びるフォーメーションへの移行を意味します。そうなるともう多彩な群舞の登場までは時間を要しません。Noism的な身体によるNoism的な舞踊の語彙が頻出する限りなく美しい群舞が待っていることでしょう。見詰める目の至福。そしてそこに重ねられていくのは師へのオマージュと解されるベジャールの動きの引用。ここに至って、感動しない人などいよう筈がありません。飛び散る汗と同時に、9人の表情もやらわぎを見せ始め、笑みさえ認められるようになってきます。それは演出でもあるのでしょうが、自然な成り行きに過ぎないとの受け止めも可能でしょう。可視化されるのは「解放」です。その「解放」があの3拍子のリズムに乗って圧倒的な熱と化して、見詰める目を通して、私たちの身体に飛び込んでくるのですから、一緒に踊りたくなってうずうずしてしまう(或いは、少なくとも一緒にリズムを刻みたくなってしまう)のも仕様のないことでしかありません。(私など全く踊れないのにも拘わらず、です。)そして同時に、心は強く揺さぶられ、狙い撃ちにされた涙腺は崩壊をみるよりほかありません。

金森さん演出振付のダンス付きの、この都響の『ボレロ』は、最初のスネアドラムが刻んだかそけき音に耳を澄まし、それと同時に生じた井関さんの動きに目を凝らしたその瞬間から、最後の唐突に迎える終焉に至るまで、刻まれる時間と場内の空気は全てオーケストラによる楽音とNoismメンバーの身体の動き、ただそのふたつのみで充填し尽くされてしまい、夾雑物などは一切見つかりようもありません。両者、入魂の実演はまさに一期一会です。そんな途方もない時間と空間の体験は、それが既に過去のものとなっているというのに、未だに心を鷲掴みにされ続けていて、落ち着きを取り戻すことが難しく感じられるのですから、厄介なことこの上ありません。

繰り返されたカーテンコールで、満面の笑みを浮かべて拍手と歓声に応えた金森さんの姿も(腕まくりと駆け足も含めて)忘れられません。そんなふうに凄いものを聴き、凄いものを観た9月折り返しの日曜日、Noism20周年のラストを飾るに相応しかったステージのことを記させて貰いました。

(shin)

「サラダ音楽祭」活動支援会員対象公開リハーサル、その贅沢なこと、贅沢なこと♪

2024年9月7日、ここ数日で気温自体はやや落ち着きを見せてきてはいましたが、それでも湿度が高く、「不快指数」も相当だった土曜日、りゅーとぴあのスタジオBを会場に、「サラダ音楽祭」メインコンサートで生オーケストラをバックに踊られる『ボレロ』の公開リハーサルを観て来ました。

この日のりゅーとぴあでは、「西関東吹奏楽コンクール」中学生の部Aがコンサートホールで開催されており、大型バスが何台も駐められていたりした駐車場は、スタッフが入庫の采配を振るっているなど、普段とは異なる様相を呈していて、早めに到着したことで慌てずに駐車できました。りゅーとぴあ内外には楽器を抱えた中学生や関係者の方々の姿が溢れていて、それは賑やかな風景が広がっていました。

そんな湿度と人熱(ひといき)れのりゅーとぴあでしたが、この日開催された活動支援会員対象の公開リハーサルは、この上なく贅沢なものでした。

正午頃、少し早くスタジオB脇の階段まで行って待っていると、ホワイエには椅子に腰掛けて何かを読んでいる金森さんの後ろ姿がありますが、スタジオ内からはラヴェルの『ボレロ』の音楽が漏れ聞こえてきます。メンバーたちは入念に準備をしているようです。

12:27、スタッフに促されて私たちもスタジオ内に進みます。
12:29、金森さんが「もう全員(来た)?」と確認すると、やがて静かにあの音楽(金森さん曰く「テンポ感的によかった」というアルベール・ヴォルフ指揮、パリ音楽院管弦楽団演奏の古い音源らしい)が聞こえてきて、公開リハーサルが始まりました。中央に井関さん、そして取り囲むように円形を描く8人のNoism1メンバーたち。金森さんの『ボレロ』も、その滑り出しにおいては、ベジャールの『ボレロ』を思わせる配置から踊られていきますし、ベジャール作品において象徴的なテーブルの「赤」も別のかたちで引き継がれています。

今回の金森さんの『ボレロ』ですが、恩師ベジャールへのオマージュとしての引用には強く胸を打たれるものがあります。そしてそれと同時に、これまでのNoism作品で金森さんが振り付けてきた所謂「金森印」に出会うことにも実に楽しいものがあります。とりわけ、あたかも『Fratres』シリーズや『セレネ』2作を幻視させられでもするかのように目を凝らす時間は、紛れもなくNoismの『ボレロ』を観ているという実感を伴うことでしょう。

クレッシェンドの高揚していく展開だけではなしに、実に細かなニュアンスに富んだこの度の『ボレロ』、Noismならではの身体が魅せる群舞の美しさは格別です。
加えて、井関さんと中尾さんに糸川さん。三好さんと庄島すみれさんに坪田さん。樋浦さんと庄島さくらさんに太田菜月さん。その3組を軸にしたフォーメーションの変化も見どころと言えるでしょう。

12:45、音楽と舞踊の切れ味鋭い幕切れの時が来ました。「OK!」の金森さんの声。予定時間のほぼ半分の時間です。「あと15分、金森さんの細かなチェックが入る様子を観ることになるのかな」、そう思った瞬間、「10分休憩してください」と踊り終えた9人に向けて、金森さんがそう言葉を発するではありませんか!「えっ?えっ?どゆこと?」頭には無数のクエスチョンマークが飛び交いました。

で、その「休憩」時間中に金森さんが明かした衝撃の(笑撃の)事実をこちらにも書き記しておきましょう。Noismの『ボレロ』と言えば、昨年(2023年)大晦日のジルベスターコンサートでの実演の記憶が新しいところですが、実はあのときの演奏は正味13分台という「ありえない速さ」(金森さん)だったのだと。リハーサルのときから速かったので、ゆっくり演奏して欲しいと伝えていたにも拘わらずで、「みんなめちゃめちゃ怒っていた」(笑)のだそう。気の毒!それを聞いた私たちは大爆笑でしたが。
確かにあの夜は亀井聖矢さんが弾いたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番もそうでしたが、それもこれも指揮の原田慶太楼さんが「煽って仕掛けてきた」(亀井さん)ってことでしたね。…「お疲れ様でした」以外の言葉は出てきません。

それから今回のアクティングエリアの奥行きは「リノ4枚分」しかなくて、ジルベスターコンサートのときよりもめちゃめちゃ狭いため、横に展開しなければならないのだとも。

で、金森さんからそんな話を聞いていた10分後、(否、5分後くらいからだったでしょうか、)そこから13:30迄、私たちは、実に贅沢なことに、金森さんの「ダメ出し」からの、言うなれば、「ワーク・イン・プログレス」による作品の練り上げ過程をつぶさに目撃することになるのです。

「そこ、ノーアクセント。力入れ過ぎ」…「最初からお願い」…「それ、『3』の終わりじゃないの?」…「じゃあ、『2』の始まりから音ちょうだい」…「蹲踞のところなんだけど…」…「3個目で膝立ち」…「近づいてくるところ、足幅(注意)」…「『11』の始まりね」…「ちょっとやってみて」…「フードを脱ぐタイミングも」…「ああ、なるほどね」…「最後のところ見せて」…「ダウンステージ(=ステージ前方部分)で走るところ、結構急だけど、『さくすみ(庄島すみれさん・すみれさん)』はとりあえず走ればいい。ジャストだから」…等々、その臨場感ハンパなしだった訳で。

はたまた、とある場面では、「マテリアルのAとB」とか「女性はB・B、男性はC・A」や「BとB’(ダッシュ)に」などの言葉が飛び交い、カウントを唱えながら、色々試してみた末に、私たちの方に向き直った金森さんから、「どう、こっちの方が良くない?」とか訊かれたりしても、答えられませんって(笑)。でも、もうそれくらい特別な時間過ぎて、堪えられなかった私たちなのでした。

ここまでの全体の仕上がり具合(通し)を見ておいてから、その後、それがいささかの瑕疵も見逃さぬ鋭敏な手捌きをもって部品(要素の振り)にばらされると、数多の部品が繊細に再検討に付され、ヤスリがかけられ、注油されるように徐々にその精度を高めていく工程。見詰めた約1時間の興奮。その贅沢。

13:30、「OK!以上かな、ハイ。あとは現場でテンポを合わせて。じゃあ、ここまででございます。いつもご支援有難うございます」と金森さん。
ついで、金森さんから「挨拶の空気」を伝えられた井関さんが、「今シーズン、これ(サラダ音楽祭)が最後です。これが終われば夏休み。頑張ります」と語って予定された倍の時間たっぷり見せてもらったこの日の公開リハーサルが終わりました。

きたる9月15日(日)「サラダ音楽祭」メインコンサート(@東京芸術劇場)での一回限りの実演に向けて、更に更にブラッシュアップが続くものとの確信とともに、りゅーとぴあのスタジオBを後にしたような次第です。当日、ご覧になられる方々、どうぞ期待値MAXでお運びください♪

(shin)

「きゃあ!あっちにもこっちにも♪」メディア登場ラッシュのNoismに嬉しい悲鳴♪

設立20周年の記念すべきシーズンのラスト、来週の「サラダ音楽祭」での『ボレロ』を前にして、このところのNoism Company Niigataはメディア登場ラッシュで、嬉しい悲鳴の「大渋滞」中♪

皆さんはそれら全てを追えているものと思いますが、こちらにもその「大渋滞」を纏めておきたいと思います。よろしければ、改めてご確認ください。

見逃し無料配信動画サービス「TVer」のTOKYO MX『アンコール!都響』#32 J.S.バッハ(マーラー編曲):管弦楽組曲より「序曲」「エア(アリア)」,ドヴォルザーク:スターバト・マーテル【配信期限あり・9/21(土)14:59まで】

2023年の「サラダ音楽祭」メインコンサートにおいて、J.S.バッハ(マーラー編曲)管弦楽曲より「エア(アリア)」を踊る金森さんと井関さんを観ることができます。
*8:15あたりで、メインコンサート映像の前説が始まり、おふたりのパフォーマンスについて、「その存在自体が美しい」「『美しい』の一言に尽きる」などと語られます。
*9:08頃より、今回の放送に向けての金森さんからのメッセージがあります。こちら、ご覧ください。


*10:06から「序曲」「アリア」が始まります。
*16:20頃、両袖から金森さんと井関さんが登場して「アリア」(17:47頃)に繋がっていきます。まさに「美しさの極み」です。配信終了まで何度も観ちゃいますよね。

NHK国際放送「ワールドジャパン」、「Direct Talk」での金森さんのインタビュー動画「Dancing into the Future」

15分に纏められたインタビュー自体、「稽古ism」Noismに関する奥深い内容が語られていて興味深いのは勿論ですが、途中にインサートされる欧州時代の若き金森さんの画像と動画はまさに「蔵出し」クラス!「喜びの舞」もので、必見です♪

③ 「新潟日報デジタルプラス」の連載記事(全4回)「新潟からの挑戦Noism(ノイズム)20年」です。
こちらでは、以下にX(旧twitter)「新潟日報ニュース」のポストへのリンクを貼らせていただきます。
【各記事の全文を読むためには、新潟日報パスポート(ID)の登録が必要となります。(新潟日報ご購読の方は無制限で利用できます。)】

〈1〉「国内初、そして唯一の公共劇場専属舞踊団…「りゅーとぴあ」から劇場文化をつくる」
〈2〉「財政難の新潟市が税金を投じる意義とは…存続問題浮上、文化的価値の評価は難しく」
〈3〉「地域に根ざした舞踊団になるには…アウトリーチやコラボに手応え、世代超えファン増やす」
〈4〉「金森穣さんが考える地方発信とは、井関佐和子さんの舞台への思いとは/インタビューで語る現在地」

Noismのこれまでを読み、新潟市のこれからを考える機会となる連載記事です。なかでも、「第4回」に出てくる新たなレジデンシャル制度における芸術監督の任期「1期5年、最大2期10年」という規定と金森さんの思いが気になるのは、この間ずっと変わりません。

…以上、今回は各メディアで「大渋滞」となっている昨今のNoism Comapny Niigataについて、「交通整理」を試みたつもりですが、「賞味期限」の早いもの(TVerの配信)から一つひとつ全てご覧頂きたいと思います。そして、更に支援に力を注いで参りましょう。

(shin)

「柳都会」Vol.28 矢部達哉×井関佐和子(2024/2/4)を聴いてきました♪

2024年2月4日(日)、暦の上では「春」となるこの日の午後2時半から、りゅーとぴあ〈能楽堂〉にて、東京都交響楽団のソロ・コンサートマスターを務める矢部達哉さんをお迎えしての「柳都会」を聴いてきました。

―届けているのは本物。音楽と舞踊の関係性、不可分性。

柳都会vol.28 矢部達哉×井関佐和子 | Noism Web Site

今回の「柳都会」は、聞き手の井関さんが話をお聞きしたいお相手として、矢部さんを希望されたところ、快諾をいただき、実現したものとのこと。そして、開催日時が近付いてくるなか、SNSに「ミニ・ワークショップもある」という追加情報も出されるなど、これまでにないスタイルへの期待も膨らみました。

予定時間となり、井関さんからのご紹介で登場した矢部さん。鏡板の「松」の手前、「人生で初めて履いた」という足袋姿+「お見せするだけ」のヴァイオリンを携えたそのお姿はそれだけでもうかなり微笑ましいものがありましたが、その後、トークの間に、何度もヴァイオリンを弾いて説明してくださった矢部さんのお人柄に場内の誰もが惹かれることになりました。終始、穏やかな語り口で、ユーモアを交えて話された矢部さん。ここでは話された内容からかいつまんでご紹介しようと思います。

*矢部さんとNoismとの出会い
2011年、〈サイトウ・キネン・フェスティバル松本2011〉でのバルトーク『中国の不思議な役人』のとき。
矢部さん: 『中国の不思議な役人』は信じられないくらい難しい曲。しかし、指揮者から「舞台の上(Noism)はあまりにも完璧でびっくりする」と言われていて、ピットの中からは見えなかったのだが、舞台の上と繋がっている感覚があった。後からビデオで観て、(Noismに)一気に興味が湧いて、それ以来、自分の人生の中で欠かせないものとなっている。尊敬し過ぎていて、ただのファンという感じ。

*矢部さんとヴァイオリン
・矢部さん5歳: ヴァイオリンは、クリスマスに親が出し抜けに買ってきて、「あなた、コレやるんですよ」と言われて、始めたもの。それがずっと続いて今日に至るのだが、現実は甘くない。「100年にひとり」とかいう存在になるなど、「皮膚感覚で無理」とすぐにわかった。
・矢部さん高1: 病気で学校に行けなかった頃、マーラーのオーケストラ曲と出会い、「これが弾きたい」という気持ちになって、オーケストラでヴァイオリンを弾くことが目標に定まった。
・オーケストラとソリスト: 実力、メンタリティや意識のほか、奏法も違う。オーケストラは調和が大事なのに対して、ソリストは孤独に耐えることができて、一人で2000人の聴衆の一番後ろまで音を届かせなければならない。(一方からもう一方への転向はそれぞれに難しい。)
しかし、ソリストも弾く曲を自分で選べる訳ではない。例えば、メンデルスゾーン、チャイコススキー、シベリウスなどは1年に何度も弾かねばならない。一方、オーケストラでは色々な曲、色々な指揮者に出会えるメリットがある。
・矢部さん22歳: 4つのオケからオファーがあったなか、東京都交響楽団のコンサートマスターになる。その際は、急遽の展開だったため、オケ側の事前協議や準備もままならず、(ご自身は何も事情を知らないながらも、)「不完全なかたちでお迎えして申し訳ない。これからのことはもう少ししてから」と言われての4月のスタートだった。→その後、「大丈夫になりました」と言われたのは、1990年6月6日に「信じられないくらい美しい音楽」マーラーの交響曲第3番・第6楽章を演奏した日のことで、きたる6月に「20周年記念公演」で同曲を踊るNoismとシンクロする。

*コンサートマスターの仕事 
矢部さん: 指揮者とオーケストラは大抵、喧嘩するもの(笑)。そのとき、間に立って、いいかたちに持っていく役割。(穣さんほどじゃないけれど、)生意気だったかもしれないが(笑)、「長い目で見てあげよう」と思われていたのだろう。同時に、最初の4~5年くらいは、「子ども」で大丈夫かとも見られていたようで、「ごめんなさい」という感じで座っていたりもした。
井関さん: 若くしてコンサートマスターになる人はいるのか。
矢部さん: そんな時代もあり、昔は何人かいたが、ここ30年程でオーケストラの技量が格段にアップしてしまって、現在は難しい。

*(舞踊の)カウントと(オーケストラの)指揮者
井関さん: 舞踊の場合、指揮者にあたるのはカウント。カウントを数えて踊るのだが、最終的には、カウントを数えていると「見えなくなる」。 
矢部さん: (例えば、小澤征爾さんとか)本当に凄い指揮者は見なくても伝わってしまう。磁場ができて、自由に弾かせて貰っている感じになる。そのとき、舞台上は有機的に繋がっていて、触発され、相乗効果で演奏している感覚に。それがオーケストラで演奏する醍醐味。

*音楽性をめぐって
矢部さん: 才能もあるが、表現、音の陰翳、色の捉え方が大事。
井関さん: 舞踊家が音楽を身体に落とし込んでいくやり方は、個人によって異なる。矢部さんはどういうふうにキャッチしているのか。
矢部さん: 簡単に言うと、「作曲家の僕(しもべ)」として。例えば、ベートーヴェン。200年も経っているのだが、ビクともせず、生き残っている。普遍的な力で、現在に至るまで、どの時代の人の心も捕らえてきた。生き残らせる役割を仰せつかっている。音楽によって聴衆との間に生まれる空気を共有することが目的。

井関さん: 作曲家の意図を汲みつつ、オケにあって個性は必要なのか。
矢部さん: 生まれ育った環境も心の在り方も異なるのだから、個性は違って当たり前。
ピタリ合っただけの音楽は異様で、生きた音楽にはなり得ない。小澤さんは、個を出した上で有機的に調和することを求めた。

矢部さん: 音楽史上、最も偉大な3人(バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン)の音楽は色々な解釈、色々なアプローチを受け付ける。スパゲティ・ナポリタンにも色々なものがあるのと同じ(笑)。(ナポリタンである必要もないが(笑)。)

*呼吸をめぐって
井関さん: 踊っているときの自分の呼吸に興味がある。昨日、弾いて貰うのを聴いていて、矢部さんの呼吸にも。
矢部さん: あっ、そうか。(呼吸)しているんでしょうね。呼吸を入れると、身体が自然に動くが、止めると、身体も止まる。酸素を取り入れた方が流れがよくなる。
井関さん: 呼吸のコントロールで表現が変わってくる。自分の呼吸に気をつけていると、「離れる」こと、「引く」ことができて、身体に影響が大きい。
矢部さん: ヴァイオリンの場合、ダウンボウでは吐き出して、アップボウでは吸う。音の方向性(上に行くものと下に行くもの)に違いがある。

(5分間の休憩後には、予告されていた「ミニ・ワークショップ」から再開される。)

*金森さんの音楽センスと「ミニ・ワークショップ」
(金森さんも加わって、再開)
金森さん: 「雇われ演出家」の金森穣です(笑)。
矢部さん: 穣さんの音楽センスは、まわりの芸術家のなかでも傑出していて、まさに天才。音の陰翳、色を捉えた演出、ずっと興味があった。ドビュッシーの交響詩『海』、ずっと好きで、繰り返し聴いてきたが、『かぐや姫』で聴いたときが一番よかった。それが「金森マジック」。

「ミニ・ワークショップ」: 矢部さんが、金森さん×東京バレエ団『かぐや姫』で金森さんが使用しているドビュッシーの『亜麻色の乙女』、『海』(のそれぞれ一部)を弾き、その場で金森さんが即興で井関さんに振り付ける様子を観る、実に贅沢な時間…♪

矢部さん: (「ミニ・ワークショップ」では)ただ弾いていただけではなくて、彼ら(金森さんと井関さん)の動きを観ることで、陰翳が変わった。触発されて、別の弾き方をしてみたくなる。相乗効果。とてもクリエイティヴ。
金森さん: 呼吸の「間(ま)」、振付を考えるうえで大きいかもしれない。言葉がないもの、説明のしようがないものを届ける。非言語での想起。
矢部さん: 芸術は受け取る側に委ねられている。(恣意的に歪めることは違うが。)今あるメロディがより綺麗に聞こえる、「金森マジック」。
(この間、約15分。金森さん退場)

*呼吸、カウント、一体感…
井関さん: 最近、「声」が入っているもので踊る機会が多い。歌手の呼吸を聴き込んで踊っている。矢部さんの呼吸をキャッチできたときに一体化できる。
矢部さん: (小澤さんをはじめ、)偉大な指揮者は例外なく呼吸から受け取るものが多い。呼吸によって出て来る音楽が異なる。
井関さん: 一旦、繋がってしまうと、テンポはそれほど重要ではなくなる。信頼関係かもしれない。
矢部さん: 音楽よりカウントを優先させてしまうと、ズレてしまうかもしれない。うねり、抑揚、陰翳…音楽が身体に入ってくると、自ずと身体の使い方が変わってくるのではないか。

矢部さん: まっさらな楽譜に「ボウイング」を書き込むのもコンサートマスターの仕事。でも、違うんじゃないかと言われて、消しゴムで直すなんてことも(笑)。
井関さん: 普通に矢部さんのお仕事見学に行きたい。
矢部さん: そんなに面白くはない…(笑)。

(と、ここで井関さんが終了時刻の午後4時になっていることに気付き、告げる…)

矢部さん: あら、そうね。また遊びに来ます。今度は舞踊について質問したいことがたくさんあるから、それはまた機会を改めて。

…と、そんな感じでした。
矢部さんは「お見せするだけ」の筈だった(?)ヴァイオリンで、上に記した曲のほか、オーケストラとソリストの弾き方の違いを説明する際に、ブラームスの交響曲第1番からのソロ・パートを、更に、アップボウとダウンボウの違いに関しては、マスネの「タイスの瞑想曲」も(一部)弾いてくださいました。お陰で、(金森さん登場の「ミニ・ワークショップ」も含めて、)おふたりの本当に濃密、かつ、わかり易いやりとりを堪能させて貰えました。そんな豊かな時間を過ごせたことに、感謝しかありません。(何しろ終わったばかりで、こんなことを書くのは欲張りも過ぎる気がしますが、)是非、舞踊に関して改めての「機会」が実現しますように♪

(shin)




音の粒を宿す身体、その僥倖(サポーター 公演感想・2023/08/06)

「サラダ音楽祭」での東京都交響楽団とNoism Company Niigataとのコラボレーションも今年で四年目となった。20年9月、新型コロナ禍による緊急事態宣言下での『Fratres』上演に新潟から駆けつけた時の緊張感と、街行く人の多くがマスクを着けていない現在との対比や、まとわり着くような東京の暑熱に眩暈しつつ、会場となる東京芸術劇場へ向かった。

今回は金森穣さんと井関佐和子さんのデュオが、都響と共演。J.S.バッハ(マーラー編曲)管弦楽組曲「序曲」がクライマックスに差し掛かる頃、舞台の上手・下手から金森さんと井関さんが登場。舞台中央で互いを見つめつつ廻る二人の姿に眼を奪われる内、間断無くに「エア(アリア)」(ヴァイオリン曲に編曲された『G線上のアリア』として有名)の演奏と舞踊が始まる。

大野和士氏指揮による都響の演奏、その音のひと粒ひと粒を身体に置き換えるように、互いが時に主旋律、重低音となって舞う金森さんと井関さん。先日の『Silentium』同様、言葉以上の雄弁さで、信頼・愛情・緊張を身体の動きで語り尽くす二人から放たれる情感は圧倒的。個として立脚した舞踊家が、緊迫感と多幸感を矛盾させることなく、互いの身体と音楽に解け合って行く約5分の舞台を、脳裏に焼き付けるよう見つめた。僥倖のようなひと時と言いたい。私はどうしても男女の愛しあう姿を二人に重ねて羨望を覚えてしまうが、それに留まらない普遍性を伴って、音楽そのものになって舞う金森さん・井関さんに、惜しみ無い拍手が送られた(カーテンコールは三回に及んだ)。

続くドヴォルザークの歌曲『スターバト・マーテル』は80分を超える10曲の演奏だったが、4人の声楽家、新国立劇場合唱団の圧倒的な歌声も相まって、音楽の渦を全身で味わい尽くすような時間だった。

(久志田渉)

「領域」東京公演最終日、「舞踊」の力を見せつけて大千穐楽の幕おりる♪

2023年7月16日(日)、三連休中日の東京はまるで電子レンジのなかにいて、ジリジリ蒸しあげられていくのを待ってでもいるかのような「超現実」の一日。朝、新幹線で新潟を発ってから、外気に身を晒す度に、「温帯」に位置する国の首都にいることが信じられないほどの危険な感覚を味わいました。そんな「超現実」。

そう、そんな「超現実」の「危険」を避けることができるエアコンが効いた屋内での舞台鑑賞と言えば、何やらこの上なく「優雅」な振る舞いとも思われかねませんが、そこはNoism0 / Noism1「領域」ダブルビル公演です。「優雅」なことは間違いありませんが、レイドバックしてなどいられない、またひとつ別種の「超現実」を受け止めることになるのでした。

開演前のホワイエには、金森さんと親交の深い東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター矢部達哉さんのお姿もあり、この先の「サラダ音楽祭」での共演への期待感も一層高まりました。

この日、『Silentium』開演は15時。それ以前から緞帳があがって顕しになった舞台上、上手(かみて)にはこんもりした古米の小山があるのは新潟公演のままでしたが、下手(しもて)側、既に炎が灯っていたのは、新潟で観た3日間との違いでした。

やがて、おもむろにペルトの楽音が降ってくると、それに合わせて緞帳がおりてきての開演。再び緞帳があがると、古米の小山の脇、少し奥に揺れるふたりの姿が朧気に見えてきます。朧気に。それもその筈、未だ紗幕によって隔てられているためです。その紗幕もスルスルあがると、見紛うべくもない金森さんと井関さん、ふたりの姿が明瞭に視認できます。既に緩やかに踊っているふたりが。

既に踊っているのです。新潟公演中日のブログでも書いたことですが、演目の始まりが曖昧化されているのです。

そして落下する古米の傍ら、全くと言ってよいほど重力を感じさせないふたりの身のこなしやゆっくりとしたリフトは見るだに美しいものに違いありませんが、そうこうしているうちに、次に不分明になってくるのが、その「ふたり」であるという至極当然に過ぎる事実です。宮前さんの驚きの衣裳を纏って絡み合う「ふたり」がもはや「ふたり」には見えてこなくなる瞬間を幾度も幾度も目撃することになるでしょう。「じょうさわさん」とも呼ぶべき「キメラ」然とした様相を呈する「ふたり」は、「耽美的」なものに沈潜しようとすることもありません。安直な「美」を志向しようともしない、その振付の有様は、容易に言い表すことを拒むものですが、強いて言うなら、「超現実」的な意味合いで「変態的」(決して貶めているのではありません。むしろ独創性に対する驚嘆を込めた賛辞のつもりですが、安易な形容など不可能な故に、このような一般には耳障りの悪い表現になってしまったものです。ご容赦願います。)とでも形容せざるを得ないもの、そんなふうに感じた次第です。また、無音で振り付けたという動きは、観ているうちに、20分弱流れるペルトが触媒として聞こえてくるような塩梅で、音楽との関係も普通らしい領域を逸脱してくるようにも感じられました。

「変態的」と形容した所以。それは舞台上に提示された「20分弱」がひとつの舞踊作品としてではなく、あろうことか、金森さんと井関さん「ふたり」がこれまで共に歩んできた舞踊家としての膨大な時間のなかの僅か「20分弱」を垣間見せようとする意図の上に構築されたものに違いないと思ったことによるものです。これまでの全てを包含したうえで、今、そこで踊られていて、この先も変わらず踊られていく、互いに信頼し合う「同志」としての「ふたり」の関係性や覚悟そのものが作品として提示されていた訳です。ですから、作品として画するべき始まりも終わりも持たないことは必定でしょう。それはすなわち、私たち観客にとっては「超現実」であっても、「ふたり」にとってはこれまで重ねてきて、これからも重ねていく「日常」でしかないような、そんな「作品」。そこで映じることになるのは勿論、「ふたり」が示す舞踊への献身そのもの。その崇高さが溢れ出てくるさまが終始、見詰める目を射抜く「作品」。「ふたり」の舞踊家の(或いは「ひとつ」と化したふたつの)人生が示す、その選び取られた「やむにやまれなさ」加減が通常とは異なる「美」の有り様を立ち上げて、観る者の心を強く揺さぶるのです。

その「作品」、この日の大千穐楽で観た東京ヴァージョンのラストシーンは新潟公演で採用された2つとは異なる「第三の終章」。隣り合い並んで、下手(しもて)側に傾いた姿勢で静止したふたりの立ち姿がシルエットとして浮かび上がるその様子。それは紛れもなく動的な静止。美しさに息を呑みました…。当然の如く、盛大な拍手とスタンディングオベーションが待っていました。

20分間の休憩。上気したままに過ごしているうち、次の演目が始まろうとする頃合いになり、ホワイエから客席に戻ると、会場後方に、山田勇気さんと並んで座る二見一幸さんのお姿を認め、この間、サインを頂いたお礼も含めてご挨拶させて貰いに行きました。その際のブログもお読み頂いた旨、話されたので、感激してしまい、「握手して貰ってもいいですか」そう訊ねて、この日は握手して頂きました。「手、冷たくてすみません」と柔和な笑顔の二見さん。この日もその魅力にやられてしまったのでした。

そんないきさつがあり、再びニマニマして迎えた二見さん演出振付の『Floating Field』。そう、こちらの作品はそれ自体、ニマニマを禁じ得ないスタイリッシュさが持ち味。

しかし、この日はニマニマしてばかりもいられない事情が…。それはここまでかなり目立つポジションで踊られていた庄島すみれさんが怪我のために降板し、急遽、Noism2の河村アズリさんが新潟から召集されて、代役を務めることになっていたからです。前日も振りやフォーメーションに若干の変更が施されたとのことですが、何しろ、この日は大千穐楽です。もう「頑張れ!」しかない訳です。

冒頭、トップライトを受けた中尾さんの「蹴り」から「領域」を画するラインが横方向に伸びていくと、早速、坪田さんと河村さんの登場場面となります。すると、「頑張れ!」と視線を送ろうとしていた筈が、すぐに「これは大丈夫だ。凄い!」に変わり、安心して作品世界に没入することが出来ました。新潟公演楽日のブログで挙げそびれていた「ツボ」ポイントのひとつ、坪田さんの左の体側に、その右の体側をまるごと預けて、坪田さんが左足を横方向に持ち上げると、そのまま持ち上がってしまうすみれさんという場面も、河村さんでしっかり現出されていて、この日も改めて酔うことが出来ましたし。

そんなふうにして、様々に移ろい、漂っていく「領域」の千変万化振りが、この日も極めて自然に可視化されていき、新潟で観た際と比べても見劣りすることもありませんでした。二見さんによる演出の変更と、しっかりとした基礎を共有する河村さんの奮闘に加えて、サポートする立場にまわったすみれさん、そして見事にカバーした他のメンバーたち。更にはスタッフの尽力もあったことでしょう。それらどれひとつ欠けても、作品の成否を左右した筈です。それだけを思っても胸が熱くなったこの日の二見作品でした。

中間部、メロウでセンチメンタルに響くスカルラッティを経て、テンポアップして、扇情的、挑発的にぐんぐん盛り上がっていく後半は、その圧巻の幕切れに至るまで、音圧とともに目を圧してたたみかけてくる迫力に、観る度、その都度、耳たぶが熱くなり、身中、どくどく滾る自らの血流を感じさせられずにはいませんでした。勿論、この日も例外ではなく。

こちらも鳴り止まぬ拍手とスタンディングオベーションが起こったことは言うまでもありません。

「領域」ダブルビル公演の大千穐楽だったこの日、まったく方向性を異にするふたつの作品からは、「舞踊」の奥深い世界や在り方を見せつけられ、「舞踊」が持つ力に組み伏せられてしまったと言えそうです。「超現実」だったり、「非日常」だったりする時空の懐に抱かれたことの幸福を噛み締めているところです。

この後、Noism Company Niigataとしては、いくつかのイヴェントを抱えてはいるものの、シーズン末まできたということで、すみれさんにはしっかり怪我を直して来季に備えて欲しいと思うものです。

来季、Noism Company Niigataはまた何を見せてくれるのか。完膚なきまでに圧倒されることを期待しつつ、今はその時を待つことといたします。

(shin)