2025年5月17日(土)、朝に雨が降り、風も吹く新潟市を出発して、『めまい - 死者の中から』が上演される富山県黒部市の前沢ガーデンを目指して、車を走らせました。富山県に入ると、やや天気は好転したものの、時折、強風に煽られて叩きつける雨粒に屋外ステージでの公演のことを案じたりもしていました。それでも、受付が始まる夕方迄には雨はすっかりあがり、心配は杞憂に終わって、胸をなで下ろしたような塩梅でした。

昨年8月(SCOT SUMMER SEASON 2024)に利賀村は新戸賀山房でその初演を観た金森さんの『めまい』は、ヒッチコックの同名映画(そこにはサンフランシスコの街路や金門橋といった「抜け感」のある「屋外」シーンもあるにはあるのですが、)同様に、「密室」での奸計、謀略の色彩が濃厚でしたから、黒く太い角柱が死角を産み、影と光のコントラストが強烈な印象を残すその山房のために創作された作品という印象が強く、「まさか、屋外で!?」「一体どうなるのだろう!?」と強く興味を掻き立てられたのは、私だけではなかった筈です。









18:40に整列して、円形の屋外の円形ステージ客席に移動し、腰を下ろすと、もう開演時間です。舞台下手(しもて)側から毛皮を纏った井関さん〈女優〉が姿を現すと、舞台中央に置かれた机と椅子に向けてゆっくりと歩みを進めます。腰掛けた井関さん、瞬きも身じろぎもせず、その右手は、後ほど登場する三好さん〈亡霊〉と同じポジションです。井関さんはまったくの不動なのですが、そこは屋外、そよぐ風が井関さんの衣裳の脚部を揺らしています。そこに山田勇気さん〈男Ⅰ〉がやはり下手(しもて)より登場して、物語が動き出します…。
舞台の奥に広がる「借景」(金森さん)は緑の丘。その手前、舞台との境界には赤いチューリップの花が一列に配され、此岸と彼岸を画するのか、それとも繋ぐのか。気付くと、丘をゆるやかに移動する薄青色の三好さんの姿。見るからに彼岸、或いは冥界。雰囲気たっぷりです。
そしてその丘。冒頭、その斜面にはこれも下手(しもて)側から赤紫の照明が放たれて縞模様を描いています。不穏な印象を掻き立てられるのは、無論、「横縞」と「邪」の濁点の有無という音の近似性からではなくて、自然に対して人為的になされた「装い」(照明)が「偽り」の性格を帯びてしまうことの故かと。
そうです。この作品のそこここで目に飛び込んで来るのは、まさしく、偽って装うことであり、それと絡む夥しい二重性、そして反復の禍々しさなのです。見詰めることになるのは巧みに仕組まれた「犯罪」。偽って装うことそのものです。
対して、対極には自ら装うことなく、ただある自然。例えば、晴れること、或いは、雨が降ること、風が吹くこと等々を含めて、一切装わず、単純で揺るがないもの。自然のそうした側面は、今作に先立つ屋外上演の『セレネ』2作にあって、「悠久」といったものへと拡大していくベクトルが濃厚だったのに対して、今回の『めまい』においては、人の奸計や謀略といったもののスケールの卑小さを際立たせ、強調していくように映じます。その意味で、この『めまい』における自然は、巧緻にあの「犯罪」が仕組まれる「密室」、或いは「閉鎖性」を浮かび上がらせて余りあるもの、そんなふうに言えようかと思います。何という逆説でしょう!痺れてしまいました。そしてそれはまた、井関さん、山田さん、そして糸川さん〈探偵〉をはじめ、出演した9人揃っての息のあった、一分の隙もない熱演あって初めて細部まで鮮明に可視化されるものであることも言を俟たないことでしょう。異様な緊迫感を湛えた約一時間の舞台、その見事だったこと!ここまでそれに触れずに書き進めてきたことの非礼はお詫びするより他にありません。本当にすみません、と。
雨上がりの湿気が照明を燻らせ、「犯罪」や「悲劇」を恐ろしいほどまでに美しく呑み込んでいきました。嘲笑いでもするかのように泰然と。立ち竦むしかない探偵…。
終演後、昨年と同様に、黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会・堀内会長が舞台にあがり、「委員長としての一番の仕事は天気が晴れるよう祈ること」とのつかみで笑いをとって語り始めると、「この環境で、同じ風を感じながら舞台を観たことは素晴らしいことだった」とこの日の舞台の感想を語りました。
その後、堀内会長に促されて、金森さんが今年も登壇。2年前に同じ前沢ガーデン屋外の円形ステージで発表した『セレネ、あるいはマレビトの歌』をもって、5ヶ月後にスロベニアへ行く予定があり、「黒部から世界へ」の一歩を確かに刻めることや、今年50周年を迎えるSCOTの「聖地」利賀村、今年もそこでNoismの公演も予定されていることなどを紹介すると、その都度、客席から大きな拍手が湧き起こります。更に、緑の「借景」を背景とする今回の『めまい』について、昨年の新戸賀山房でのそれとは「こうも違うものか!」との印象を持って貰えたものと思うとも話されました。そして「まだまだこのへんに空席があるので、明日もまた足を運んで欲しい。当日券もあります」と(ユーモラスかつシリアスに)付け加えることも忘れなかった金森さんです。
まず亡霊が、次いで女優も手にし、探偵が翻弄されていく赤いチューリップ。割りと健康的なイメージのある花ですが、「鬱金香(うっこんこう)」と漢字表記にしてみると、途端に、金森版『めまい』において説話論的機能を担った、「メタフォリカル(隠喩的)」な空気感を芬々(ふんぷん)と漂わせ始めるように思います。そして更に、その花、舞台上、彼岸と此岸を越境し、「犯罪」に絡んで、あたかも愛憎をともに起動する装置のように、手から手へ移動しただけでは足りずに、舞台を離れては、奇しくも富山と新潟とがそれぞれにその「県花」としていたりするものでもあります。そこにもまたひとつ二重性が認められること。そんな細部、果たして偶然なのでしょうか。
まだまだ刮目され、読み解かれることを待つ細部に溢れた『めまい ― 死者の中から』。(個人的には、特に前半部分、そんなふうに感じます。)観終えて後、今もなお、痺れています。そして同時に渇望してもいます。もっともっと繰り返して観る機会に恵まれることを。



(shin)