美容院に行っているときに思い立って、その午後の実施が決まるという油断出来なさ加減で届けられた7月30日(日)のインスタライヴは、リアルタイムでの対応が難しかった向きもあったかと思われますが、かく言う私もそう。その後もバタバタしていて、漸くアーカイヴをクリック出来たのは月も変わった葉月朔日のこと。
この日はゲンロンカフェも控えているし、ってことで、バタバタしたままに、かいつまんだご紹介をさせて頂こうと思います。詳しくは、おふたりのInstagramのアカウントに残されたアーカイヴをご覧ください。
約54分間、実に刺激的なお話を聴くことが出来ます。その「刺激的」というのは、如何に目の前で展開される踊りの実相に迫るのが難しいかということに尽きます。「領域」ダブルビル公演の『Silentium』において、金森さんと井関さんが「ほぼ初めてふたりだけで約18分間踊る」という前情報に接しただけで、おふたりの「息の合った」踊りを見ることになるのだろうという(ある意味、安直な紋切り型の)憶断が形作られてしまい、そうなるともう、それを離れて自由な視線を送り得なくなってしまうという、そんな作品、そんな実相…。
それでは…
*井関さんは昨年決まっていたこの作品を「軽いと思っていた。中継ぎみたいに凄く軽く考えていた。全く想像がつかなかったから」そう語ります。
*しかし、あちこち色々な場所で行われたクリエイションは「ペルトの『音楽ありき』で、曲だけ決まっていたが、曲が曲だけに音にあてて振りを作る訳にはいかず、振りは振りで無音で作っていった。何が生まれるか、実験的だった。漠然とは考えていたが、こんなに大変とは思わなかった」という展開をたどることになります。また、振りの前に宮前義之さんから衣裳が届いていたという稀有なパターンだったとも。
*本番では普通とは違う集中力で噛み合うものの、稽古では、お互い自分を出してくるので噛み合わないとか、本番では「その瞬間を生き切る」刹那感で、予定調和は全部はずれちゃう、と金森さんが語れば、井関さんは本番では委ねられる、委ねるしかないと言い、更に、一緒に踊ると、舞台にあがったときの金森さんはその差が激しく、「ここまではっきり違う人はいない」、びっくりするとも。
*『Silentium』での「一体感」については、ふたりは性格もアプローチの仕方も全然違っていて、直前のルーティンも別々。「そうじゃないとあそこまでいけない。一個人一個人なんだけど、お互い協力して乗り切るしかない」のだと金森さん。そのうえで、井関さんが、金森さんと踊るときの「面白いことふたつ」を、「①委ねられる。行こうとしている動きのところに必ずいてくれる。②自分の足に立てなくさせるときもある。基本、自分の足で立っていない」そう語り、その具合を「安心感」とともに「怖い」と表現して伝えてくれました。
*また、無音のなかカウントで踊るかたちだったのではなく、要は呼吸だったとし、アクセントからアクセントまでの尺のなかで、「ここらへんにいる」は決まっていても、それも大分揺らいでいて、そうした音に対する遅れがわかるのは井関さんの方で、金森さんはざっくりやっている感じなのだと明かしてくれました。
*宮前さんによるあの衣裳に関しては、「塗り壁」がコンセプト。あそこまで覆われていて踊るのはそうないので難しかったそう。軽くて着心地はいいが、存在感があり、骨や身体の中の構造を意識して踊る必要があったと金森さん。
*また、あの作品、床に敷かれていたのはリノリウムではなくて、パンチカーペット。「米を降らせたかったから」(金森さん)、音がしないのがよかった。キュッという音もなかった。「床大臣」の井関さんは滑らないスプレーを見つけたとのこと。
…と、そんなところを取り出して極々簡単なご紹介を試みてみましたが、勿論、もっともっと豊かな膨らみに満ちたお話を聴くことが出来ますから、実際にお楽しみ頂くのが一番です。
最後、再度、この日のインスタライヴを聴いた個人的な印象で締め括らせて頂きます。お話を聴けば聴くほど、予断を持たずに目に徹することが如何に困難だったかに直面させられた次第です。舞台に向かっていた約18分間、あの緩やかさのなかに、或いはその奥に激しさやらきつさやらを見出すことは出来ました。しかし、今、「息が合っている」という枠組みのなかで見詰めるのみだったことを思い出しています。勿論、「息が合っている」のですが、その真相、或いは深層を聴いて、見ることの困難さに愕然とさせられているような塩梅です。その意味で、とてもスリリングなインスタライヴだったと思います。また、聴こうと思います。
(shin)