「漆黒の中の蠱惑」SCOTサマーシーズン2024 Noism『めまい 〜死者の中から』二日目レポート(サポーターレポート)

*冒頭、8/28夕時点で九州南部に接近し、猛威を振るう「過去最強クラス」の台風10号の被害に遭われた方々に対し、心よりお見舞いを申し上げますと同時に、今後、西日本・東日本を縦断する可能性も報じられるその進路において被害が少ないことをお祈りいたします。(NoismサポーターズUnofficial事務局)

 私にとって、2019年9月の「第9回シアター・オリンピックス」Noism0『still / speed / silence』以来、5年ぶりとなる富山県南砺市利賀村行き。8月23日(金)には富山市に入り、24日(土)・25日(日)の2日間、連絡バスで利賀村迄2往復して、Noism『めまい』2公演に加え、鈴木忠志演出『シラノ・ド・ベルジュラック』『世界の果てからこんにちはⅠ』、瀬戸山美咲演出『野火』の計5公演を鑑賞した。

 映画ファンの端くれとして、10代の頃にヒッチコックの諸作を観、特に圧倒されたのは『めまい』だった。年を重ねた後、シネ・ウインドのスクリーンで『めまい』を再見した時には、若い頃には気付けなかったキム・ノヴァクの肉体が放つ凄まじい色香に、それこそ目眩を覚えたことを思い出す。

 そのヒッチコック作品の原作であるP.ボアロー&T.ナルスジャック『死者の中から』を基に金森穣さんが舞台化すると知った時の驚きたるや。19年に鈴木忠志氏のトークを聴いた利賀芸術公園「新利賀山房」の漆黒の空間を思い起こしつつ、どのような舞台が展開されるか期待に胸膨らませた。

 24日の公演後、野外劇場での『世界の果てからこんにちはⅠ』で隣合わせた金森さんと井関佐和子さんに、「『still / speed / silence』といい、利賀でやる作品は男が女を束縛しようとする話が続きますね」と伝えたところ、金森さんも苦笑されていたが、冗談抜きに、男が欲情し、幻想を託す「女性性」を「演じる」こと自体を、素顔から蠱惑的な表情への変化始め、全身で見せきる井関さんと、バーナード・ハーマンの馴染み深い音楽やシンプルな小道具を駆使しての高低差表現、照明の鮮やかさまで唸るばかりの金森さんの構成力には、惚れ惚れするほどに酔った。

 翌25日、利賀へ向かう連絡バスは、狭隘な山道で豪雨に遭遇した。幸い利賀に着く頃に雨は収まり晴れ間も覗いたが、この道程を越えれば今日もまた『めまい』の濃密な時間に立ち会えるなぁと、その凄絶な甘美を思い出して、山道の恐怖に耐えたものだ。


 二日目の『めまい』、新潟は勿論、関東方面から足を運んだNoismファンの方々始め、世界各国からのお客さんも含めて前日同様の大入満員。巨大な茅葺き住宅を改装した「新利賀山房」の客席に坐ると、眼前には金髪のウィッグを付けた井関さんが、瞬きすることなく虚空を見つめている。その恐ろしくもあり、妖艶でもある眼差しには、直視することを躊躇ってしまう(地元の方と思しき観客の方が、「ずっと瞬きしないぞ」と驚きの声を上げていた)。

 漆黒の「新利賀山房」で展開する、死者の幻影と生身の肉体との相克。特筆したいのは、探偵(映画版ではジェームズ・スチュアート扮する元刑事)役の糸川祐希さん、ヒロインである女優(井関佐和子さん)が追い求める亡霊に扮した三好綾音さん始め、難役に挑んだ若きNoismメンバーの表情豊かな演技だ。失ったと思った女性への執着とその果ての狂気を、鬼気迫るように見せた糸川さんは、初日以上の迫真を感じさせた。井関佐和子さん・山田勇気さんの感情・身体表現の巧みさはNoismの中核だが、若き舞踊家たちもまた、金森作品の凄絶な美を表現する為に喰らいつき、その成果が実りつつあることを確信している。


 この公演に続いて鑑賞した瀬戸山美咲演出『野火』(利賀山房にて)もそうだが、鈴木忠志が築き上げた「利賀芸術公園」という、演劇の桃源郷とも呼びたい異空間に於いて、金森さんも瀬戸山氏も、そして出演者・スタッフが、劇場の漆黒を如何に照らしだし、活かしきり、観る者たちを安全圏に置くことなく没入させる為に尽くしている渾身に思い至る。舞台で展開される凄絶な物語を越えて、人が生み出すものの「美」に強く勇気付けられたのだ。鈴木忠志氏の作品と営為は正しく「過剰」なパワーを発しているが、その「過剰故の余白」が利賀にはあるからこそ、演出家たちの本質が浮き彫りになることに気付いたように思う。

 利賀の地、そして鈴木忠志を更に深く知りたいと渇望するような滞在となった。

(新潟・市民映画館鑑賞会副会長、舞踊家・井関佐和子を応援する会役員 久志田渉)

「SCOT SUMMER SEASON 2024」、新利賀山房にて『めまい ~死者の中から』初日を愉しむ♪

 2024年8月24日(土)の富山は前日ほどではないものの酷暑の予報。更に午後には雷雨の可能性も高いとのこと。穏やかな天気となることを願って、朝早く新潟を車で出発して、利賀芸術公園を目指しました。

 この日、車のナビもスマホのgoogle先生も富山ICからの利賀入りを推していたため、それに従いましたが、待っていたのはつづら折の狭い狭い山道で、それこそ生きた心地がしないウイリアム・フリードキン『恐怖の報酬』(1977)のようなドライヴ。ちょっと大袈裟?いや、マジで。ホントのホント。
 「えっ?前はそうでもなかったんだけどな…」以前に来たときには砺波ICから利賀に入るコース(国道359→国道471→県道229)だったのですが、そちらの方が運転してて、格段に楽なので、ルートを思案中の方には、私、迷わずそちらお勧めします。

 でも、そのような思いをしてまでも観たかった、そして観てよかったのが、金森さん演出振付の新作『めまい ~死者の中から』でした。

 開演時間は14時。受付開始はその1時間前でしたが、入場整理番号は既に電話による観劇予約の順番で割り振られていますから、示された整列開始時間までに受付を済ませて会場前に並べばよい訳です。

 今回、その会場は新利賀山房。金森さんは「狂気の生まれる場」と書いていますが、まさしく「禍々しい」と言ってよいような、圧倒的な「場」の力を宿す建物でした。外観は合掌造りの所謂「和テイスト」そのものですが、中はガラリとその雰囲気を異にします。凹凸があり陰影に富む表情豊かな壁の手前、横長に広がる空間(アクティング・エリア)。そこに敢えて不可視の領域を作り出さんとでもするかのように突き刺さる角ばった黒い2本の柱の存在感。そして照明に(逆に)浮かび上がるかのような闇。のし掛かかってくるその威容に観客は一瞬にして飲み込まれてしまわざるを得ません。

 その威容に一歩も引けを取らない濃密な舞踊を私たちは目撃したのでした。それはまさにその「場」だからこそ生まれた圧巻の作品だったと言えるでしょう。

 金森さんは「演出ノート」に、今作(そのタイトルも途中から『めまい』ではなく、『めまい ~死者の中から』に変更されています。)が、あくまでもボアロー=ナルスジャックの原作『死者の中から』にインスピレーションを得た制作であると書いていて、ヒッチコックの映画『めまい』に関する言及は使用音楽について見出されるのみと、極めて限定的なものでしかありません。「女優(井関さん)」と「探偵(糸川さん)」をめぐる展開に関しても下敷きにされたのがどちらかは明らかでしょう。

 では、こう考えてみるのはどうでしょうか。『死者の中から』からインスピレーションを得て作品を作った者がふたりいて、私たちはふたりによるふたつの作品を愉しむ豊かさを手にしている、と。

 今回の井関さんも、いつも通り、冒頭からまったく見事な存在感を示しており、目は釘付けにされるでしょう。その点ではヒッチコック映画のキム・ノヴァクも同様です。違うのは、監督と演出振付家からふたりへの「愛」が感じられるかどうかです。その点で、映画『めまい』において、観客はキム・ノヴァクではなく、ジェームズ・スチュアートにシンパシーを感じながら見詰めることになるのですが、金森さんの『めまい~死者の中から』にあっては、そこは間違っても、糸川さん寄りの目線にはならない訳です。ですから、伴って、新利賀山房の私たちはあたかも「男Ⅰ(山田さん)」の共犯者のようにして事のなりゆきを見詰めていたのでしょうし、まあ、少し控え目に言っても、「未必の故意」的な心持ちでその推移を目撃し続けるのだろうことくらい最初から予見できてしまう恐ろしい「場」に身を置いていたとは言えるのではないでしょうか。

 で、同じひとつの原作から生まれたふたつの作品に認められるそうした味わい或いは肌合いの違いはまさしく互いに相照らすことで豊かさを増すものでもあり、私たちはここで「2」という象徴的な数字を前にすることになります。「2」の象徴性は、まさしく金森さんが今回の作品のあちこちに(岩波書店「思想」2024年第8号風に言えば、「過剰に」)散りばめたものです。「1」は自立し得ないとでも言うかのように…。

 その「場」の凄さを構成する要素のひとつに照明があることに異を唱える者はいないでしょう。で、その照明スタッフとして、金森さん、丹羽誠さんふたりの名前に先立ち、先頭に「御大」鈴木忠志さんの名前も見られるのです。これからご覧になる方は、凝りに凝った照明もご期待ください。

 …とまあ、ネタバレしないように気を配りながら、あの「場」で、そしてその後、私が個人的に感じたことを書いてきました。あくまでも個人的な感じ方に過ぎません。しかし、観終えたら、「はい、おしまい」で済むような作品ではないことは確かです。初日をご覧になられた皆さんの目にはどのように映り、どのように感じられましたでしょうか。とても興味があります、ハイ。

 あと、この日の利賀のことをもう少しだけ。作品に圧倒されて、新利賀山房を出ると、予報通りというか、雷鳴が轟くではありませんか。夏そのものの濃い青ではなく、舞踊作品に浸っているい時間のあいだに、すっかりグレーにその色を変えてしまっていた空がまるで突然に破けでもしたのではないかと思うような凄まじい雷鳴が、すぐ頭の上で聞こえたのでした。その後、やはり(!)雨も降り出します。これらも金森さんの演出か!?そんな感じでした。

 不穏な作品に不穏な天気が追い打ちをかけてくるのです。でも「怖い思い」はもうたくさん。帰りは車のナビで「砺波IC入り口」を検索して、車を走らせることにしました。県道229号線方向に左折すると、目の前にトンネル!見覚えがあります。思い出しました。そうそう、この道、この道!そこからの帰路はあまり怖い思いをすることもなく、新潟を目指すことができました。『めまい ~死者の中から』の余韻を『恐怖の報酬』で上書きすることなしに、です。蛇足でしたが、ご参考まで。

 以上、少し歩くだけですぐに汗が噴き出す暑さはあっても、蜻蛉も多く飛び交い、一足早く、確実に季節の移行も感じさせるこの時期の利賀芸術公園、『めまい 〜死者の中から』初日レポートとさせて頂きます。

(shin)

SCOTサマー・シーズン2024 Noism0+Noism1『めまい』公開リハーサル♪ ~ヒッチコックとトリュフォー、キム・ノヴァクのことなども~

 2024年8月11日(土)、夜には新潟まつりの花火が打ち上げられるこの日、白山公園駐車場は一部終日閉鎖されていたりしたこともあり、車で駆け付けるのもなかなか容易ではなかったような事情もありましたが、そんななか、りゅーとぴあ〈スタジオB〉にて、12:30から正味1時間、たっぷり『めまい』の公開リハーサルを見せて貰いました。

 今夏「SCOT SUMMER SEASON 2024」の公式チラシに読める今作の紹介には「ヒッチコックのサスペンス映画『めまい』の原作となっているボアロー=ナルスジャックの小説『死者の中から』にインスピレーションを得て制作される作品。自他の境を見失っていく人間の様態を踊る」とあり、映画『めまい』に魅了された者としては興味を惹かれない筈がありません。

 そのピエール・ボワロー&トマ・ナルスジャックによる原作小説『死者の中から』についてですが、フランソワ・トリュフォーが敬愛するアルフレッド・ヒッチコックに行った50時間に及ぶインタビューを収録した名著『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(1981)(*註)のなかに、同小説がヒッチコックに映画化されることを念頭において書かれた数篇の小説のひとつであり、その映画化権をパラマウント社がヒッチコックのために買い取ったという事実がトリュフォーの口から語られるのですが、ヒッチコックは自身を巡るそうした経緯をまるで知らなかったことが読めます。(同書pp.249-250)

 続けて、トリュフォーがその小説のどこに惹かれたのか訊ねると、ヒッチコックは、「主人公が、死んだ女を生き返らせようとするところ、生きている女を死んだ女のイメージに重ね合わせて愛してしまうところ」(同p.250)と答えています。

 しかし、ヒッチコックのその『めまい』(1958)は、本来、ヴェラ・マイルズ主演で構想されたものの、彼女の妊娠がわかり、それを断念。キム・ノヴァクを主演に据えて撮影されることになるのですが、撮影前のそんな事情もあって、「映画のリズムがうまくつかめなくなってしまった」(ヒッチコック)として、ヒッチコック自身からの同作及びキム・ノヴァクに対する評価が低いことにも触れられています。(同pp.254-255)

 また、それに関係して、もうひとつここで触れたいと思うのは、映画『めまい』を観ていると、ヒッチコックのキム・ノヴァクに対する「距離」或いは「隔たり」が否応なく感じられるということです。同作に起用されたキム・ノヴァクの素晴らしさはトリュフォーも言及している通りで、間違いないことなのですが、他のヒッチコック作品における監督から主演女優に捧げられる「愛」とも呼ぶべき親密さが目に映ずることはありません。(個人的な印象ですが、的外れではないと確信しています。)映画って怖いなぁと…。

 そんな色々な経緯がありながらも、ヒッチコック自身のために書かれた小説を本人自らが映画化した訳ですが、ブロンドのマデリンとブルネットのジュディ(キム・ノヴァクの二役)がそれぞれ登場する前半と後半の「間」に、ヒッチコックは(周囲には猛反対されたと明かす)作品構成上の大きな改変を差し挟んでいます。彼の慧眼はそのことによって心理的なサスペンスを導入することに成功したのでした。
 「はてさて、金森さんはそのあたりどう処理して表現していくのだろう?」興味は尽きませんでした。否、正確には、そこが気になって仕方なかったと言うべきだったでしょうか。で、基本的にはストーリーを踏まえつつ、「なるほど、そうなのか!」という舞踊作品に仕上がっています。

 さて、その金森さんと井関さん、そしてNoism0+Noism1(浅海侑加さん、樋浦瞳さんは出演されないようですが、)による舞踊作品『めまい』です。監督と主演女優の間の葛藤は、当然、ここには存在しません。
 金門橋をはじめ、サンフランシスコのランドスケープを背景に、自動車で経巡る迷宮めいた街路や霧など効果的に用いて展開されるヒッチコック作品に対して、金森さんの舞踊作品版は、自他の間に横たわる「2」という数を随所に象徴的に用いながら紡がれていきます。で、キム・ノヴァクが演じた役どころは井関さんと三好さんが担い、痩身ジェームズ・スチュアートについてはやはり似た体つきの糸川さんがそのイメージを引き受けつつ、情感豊かな熱演を見せてくれます。

 舞踊作品ですから、展開されていく舞踊を観るのが本筋な訳で、原作(や映画)のストーリーに過度に頓着・執着するべきではありませんが、やはり文化史的な「教養」の一部としてヒッチコックの映画は観ておいた方がよいかなとは思います。未見の方はこの機会に是非ご鑑賞ください。

 たっぷり全編を見せて貰って、13:30、この日の公開リハーサルは終了しました。1時間ものの大作です。観終えて圧倒されている私たちに、「いつにもまして皆さんシーンとしていますね」と笑って切り出した金森さん。「このあいだの20周年記念公演のあと、こんな作品を作っていたんです。16日には利賀に行きます。(Noism0とNoism1)みんなで行くのは初めてですが、その経験も必ず今後に活きると思いますし、活かしていきます」と今後の展開も視野に収めつつ力強く語りました。

 「Noismの公演(『めまい』)は完売ということなので、またどこかで」そうも語った金森さん。この意欲作、ほぼ2週間ののち、利賀村の新利賀山房でご覧になられる、その意味で「幸運な」方はどうぞ期待してお待ちください。

 私はエサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルス・フィルによるバーナード・ハーマン映画音楽集CDに収められた『めまい』の音楽をかけて、今日の余韻を楽しみながら、花火までの時間を過ごすことと致します。

(shin)

【*註】この『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(山田宏一・蓮實重彦訳:1981・晶文社)という本には、ヒッチコックがイギリスから移り住んだアメリカにおいて、偉大な「映画作家」と看做されることなく、単なるサスペンス映画の「職人」として不当に低く評価されてきたことを看過できなかったフランスのトリュフォーが、「映画作家」としてのヒッチコックの真価、その凄さをアメリカに逆輸入・再評価させるための「教育」或いは「啓蒙」の書として企画されたものという側面もあります。
 また、ヒッチコックの『めまい』(1958)に関しても、現在では映画史に残る名作の呼び声を欲しいままにしていますが、公開当時は興行的な成功を収めることがなかっただけでなく、同作に対する評価が真に高まりを見せるのも後年になってのことです。 (shin)

岩波書店「思想」(2024年第8号)、鈴木忠志さんへの熱い思いを綴る金森さん♪

皆さま、先月末(7/31)に金森さんがXで呟いていましたが、鈴木忠志さんを特集した岩波書店「思想」(2024年第8号)はもうお手にとられましたでしょうか。「SCOT SUMMER SEASON 2024」をすぐすぐに控えたこの時期に、「知」のあり方を問い、超絶硬派、ハイブローで知られる「あの」雑誌が組んだ鈴木忠志さん特集。そこに金森さんも寄稿されておられるのです。そんなことでもなければ、私にとってはなかなか手に取ることもない雑誌なのですが(汗)。

ですが、ですが、金森さんにとって、モーリス・ベジャール、イリ・キリアンと並んで、「師」と仰ぐ3人目、鈴木忠志さんの特集ですから、金森さんが寄せた9頁分の文章「過剰の思想」には、鈴木さんに寄せる金森さんの思いの熱さが溢れていて、読み応え満点なのです。

2023年の自著『闘う舞踊団』(夕書房)においても、第Ⅱ部の「6.Noismの身体性を模索する」と題された章で、「鈴木忠志の衝撃」として記されていた内容と重なるものではありますが、今回の「思想」誌においては、いつも通りの切れ味鋭い明晰な文章に溢れんばかりの敬慕の念を込めて、「師」の存在を知った際のその「衝撃」が、更に、既に自らと同じ「闘い」を経験し、紛れもなくこの国の文化シーンにおいて変革を成し遂げた道程への「驚愕」が綴られていくのです。そしてそれは恐らく、自らを照らす「希望」の光としても。

で、誠に恐縮なのですが、ちょっと私自身のことを書かせていただきます。利賀には『still / speed / silence』(2019)を観に行ったことがあり、今月の『めまい』も観に行くことにしていますが、未だ鈴木忠志さんの作品は観たことがない私です。そしてこの「思想」誌についても、ここまでに読んだ部分もまだまだ少ないのですが、頁を繰っているだけで、今回の利賀行を『めまい』だけにしたことを少し後悔する気持ちも湧いてくるほどです。その裏には、巻頭の「思想の言葉」で、柄谷行人さんの「鈴木忠志と『劇的なるもの』」なる文章が読めてしまうこともあるかもしれません。若かった頃、彼の『マルクスその可能性の中心』や『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』『内省と遡行』などを心躍らせて読み、彼が、書かれたもの(エクリチュール)をその他多くの作品たちと呼び交わすような開かれた「読み」の相において捉え、原テキストからは想像もつかないような途方もない豊かな「読み」の可能性を引き出してしまうその精緻な手捌きに大いに刺激を受けたからです。でも、そうした「間テクスト性(アンテルテクスチュアリテ)」こそ、金森さんとNoismの舞踊にも大いに見出せる要素ではないかと思ったりもして、さきの「後悔」にも繋がるのです。

私事はそれくらいにして、金森さんが同誌に寄せた文章に戻ります。その分量にして9頁の「過剰の思想」ですが、綴られた鈴木忠志さんへの敬慕は、その奥に、金森さん自身を取り巻くこの国の状況とそれに関する金森さんの問題意識を読むことができるものでもあります。その意味からも必読の文章と言えるでしょう。まだ手にとられていない方も勇気を出して(笑)、是非!

(shin)

荘厳なる金森演出の円熟と原点回帰(サポーター 公演感想)

富山県黒部市の前沢ガーデン・野外ステージでの「黒部シアター2024 春」 Noism Company Niigata新作『セレネ、あるいは黄昏の歌』公演。18日(土)の初演では言葉を失うほどの感慨に打ちのめされたが、19日(日)の公演も幸いにして鑑賞出来た。

前日の快晴からうって変わって、ポツリポツリと雨が降り出した黒部。公演前にお見掛けした井関佐和子さん始めNoismメンバーも、濃密極まる作品の公演前であることに加え、天候を心配してか、険しい表情が垣間見えた。新潟や関東圏から駆け付けたNoismファンの方々と言葉を交わしつつ、時折天気予報を調べては「公演中は大丈夫そうだね」と無事の開演を祈る思い。会場には、金森穣さんが「師匠」と仰ぐ鈴木忠志氏や、Noism「劇的舞踊」シリーズの常連俳優・奥野晃士氏の姿も。また、前沢ガーデンハウス内の鈴木忠志氏の演劇活動を紹介する一室では、昨年のNoism公演のドキュメンタリーが上映されており、やはり圧倒的だった舞台を思い返しつつ、私はじめ見知った顔が収められている映像に笑みをこぼした。

6月末からのNoism20周年記念公演でも『セレネ、あるいは黄昏の歌』は上演される為、詳述は控えねばならないが、前述したように終演時には会場が静まり返り、日ごろならスタンディングオベーションしつつ「イェイ!」「井関! 金森!」など声援を送る私も、「この余韻を壊したくない」「この感動は、簡単に言葉にしたくない」と口をつぐみ、ひたすらに拍手を送るのみだった。マックス・リヒターがヴィヴァルディの『四季』の根幹部を抽出するように編曲した楽曲の強靭さを背骨に、やはり壮絶なまでの神々しさを発する井関佐和子さんを中核として、舞台の刹那を生ききる舞踊家たち。自然の摂理そのものを体現するような井関さんの一挙手一投足に呼応して、音楽を視覚化するように若きメンバーが躍動する冒頭から、幾度も涙が溢れたが、舞台が進行するにつれ、その荘厳さと猥雑さが共存する世界観に「畏れ」さえ覚えた。ある「暴力」に及ぶ者を冷徹に凝視し、集団によってその「性」を露わにされる者を優しく抱きしめ、過去の「恍惚」を豊かに追想する、祭祀の指導者に扮する井関佐和子さん。その眼差しの凄絶さ、照明も相まって白く発光するような全身は、現実から遊離するほどに美しかった。

生が芽生え、繁茂し、成熟し、やがて豊かに老いて「死」と直面してゆく。人間と自然の「業」「摂理」を、イメージ豊かに舞踊に置き換えてゆく「円熟」を感じさせたかと思いきや、初期Noism作品に漂っていた濃密なエロスや暴力性を突き付けて、観客を圧倒する金森穣演出は、どこまで到達するのだろう。舞台に吞み込まれ、翻弄され、この舞台に立ち会えた一瞬や自身や他者の「生命」、その周囲にある自然まで慈しむような余韻に浸る約1時間は、まさしく僥倖だ。黒部の土地もまた舞台を祝福するように公演中は雨がやみ、舞台に余韻が深まる夜陰にかけて、静かな雨に包まれた。

20周年公演では、りゅーとぴあ・劇場でどのように作品が再創造されるか、心して待ち構えたい。

久志田 渉(新潟・市民映画館鑑賞会副会長・「安吾の会」事務局長)
(photos: aco)

再演の「鬼」ツアー、神奈川公演初日(2024/01/13)♪

2024年1月13日(土)、Noism×鼓童「鬼」再演のツアーはこの日、KAAT神奈川芸術劇場でその初日を迎えました。この度の再演のツアーは前年訪れなかった土地を巡るものです。その皮切りに立ち会いたいとの思いで、朝、雪が降りだす前の新潟から横浜を目指しました。途中、三条を過ぎたあたりから案の定、窓外は雪。関東も昼過ぎには雪になるとの予報でしたから、雪の一日を覚悟していましたが、トンネルを抜けたら、あっけらかんと青空が広がっていたので、正直なところ、やや拍子抜けしたりする気持ちもありました。しかし、その後、ぽつりぽつり雨が落ちてきましたから、本格的に崩れる前に、KAATへと急いで移動したような次第です。

KAATに入ると、吹き抜けの下、アトリウムに、前年7月の「柳都会」(Vol.27)にご登場され、刺激的なお話を聴かせてくれた栗川治さんの姿を目に留めましたので、ご挨拶。栗川さん、新潟での公演は都合がつかず、今回、横浜での用向きに合わせてご覧になるのだと。で、大晦日のジルベスターコンサートでもお見かけした旨伝えると、興奮の面持ちで、Noismの『Bolero』はもとより、亀井聖矢さんのピアノが凄かったと話されたので、激しく同意しながら「2週間前」の感動を噛み締めたりさせて貰いました。

そんなこんなで、開場時間を迎えると、公演会場の〈ホール〉へと上がりました。メインロビーへと進み、トイレなどをすませていると、今度は原田敬子さんの姿が目に入ってきました。如何にも偉丈夫の黒コート姿の男性と一緒にこちら、奥の方へと歩んで来られます。前年の初演時にも「最上の音をお届けするために」とほぼ全会場に足を運んでおられた原田さん。この再演にあたっても、新潟でお話できましたし、「今回も」と、またここでもご挨拶をして少しお話出来ました。原田さんが仰るには、会場によって、音の響き方が異なるのは当然としても、こちらは少し大変だったのだとか。そんな話をしてくださった後、原田さんが件の黒コートの男性のことを「御大」と言い表して、そちらに戻って行かれるに及んで初めて、その男性が誰かを認識し、瞬時に凍りつくことに。そうです、その男性は誰あろう鈴木忠志さんだったのでした。金森さんも師と仰ぐまさに「御大」。不調法で失礼なことをやらかしてしまったような訳です。凹みました。(汗)

「うわあ!」とか思いながら、少しテンパった気分で買い求めた席につくと、私たち家族の2列前には鈴木さん!更に横を見ると、私の3つ右の席には原田さん!これもまた「うわあ!」です。いつも以上に緊張しつつ、開演を待つことになりました。

16時を少しまわって、波の音が聞こえてくると、『お菊の結婚』の始まりです。ストラヴィンスキーのバレエ・カンタータ『結婚』、その炸裂する変拍子とともに滑り出すほぼ人形振りによるコスチューム・プレイの見事さに、(しくじった)我を忘れてのめり込むことが出来ました。この日、これまでよりやや後方の席から見詰めた舞台は照明全体を、ある種の落ち着きのうちに観ることを可能にしてくれたと言えます。一例を挙げるならば、今まで気付かなかったのか、それとも、金森さんが今回変えてきたのか、そのあたりは定かではありませんが、中央奥、襖の向こうに印象深い赤を認めたりした場面などを挙げることが出来ます。そんな細部への目線を楽しみながらも、同時に、不謹慎な(と言ってもよいだろう)諧謔味に浸りながら、するすると見せられていくことのえも言われぬ快感はこの日も変わりません。何度観ても唸るばかりです。

呆気にとられながらあのラストシーンを見詰めたとおぼしき客席は、緞帳が完全に下り切るまで水を打ったように静まり返っていましたが、その後、一斉に大きな拍手を送ることになりました。

休憩になると、なんと、横の方から原田さんが「音、どうでしたか」などと訊いてきてくださったのですが、それは高い音が強く聞こえることを気にされてのことで、素人の耳には特段感じるようなこともなかったのですが、、休憩後の『鬼』に関しては、少しわかるようにも思いました。まさに一期一会の舞台な訳ですね。

(また、休憩中の通路には宮前義之さんの姿もありました。書き残しておきます。…以前にはご挨拶したこともあったのですが、この日は流石にもう無理でした。)

で、『鬼』です。客電が消えて、緞帳があがり、鼓童メンバーが控える櫓が顕しになると、そのキリリと引き締まった光景に対して、客席から一斉に息を呑むような気配が感じられました。前年から繰り返して観てきたこの超弩級の作品も、私にとっては、この日が見納め、「鬼」納めです。目に焼き付けるように観ました。鼓童が発する音圧を受け止めながら、舞踊家の献身に見入る時間も最後になるのですから、一挙手一投足も見落とせはしません。そんな覚悟で見詰めた次第です。繋がりも(漸く)クリアにわかってきた感がありましたし、この日も、妖艶さ溢れる姿態から妖気漂う様まで、振り幅の広い、目にご馳走と言うほかない場面がこれでもかと続きました。初めて観たときの驚きとは別種の、その力強い構成力と実演の質への驚きを抱きながら全編を追って、まさに最終盤に差し掛かったとき、目を疑うことになりました。動きが、演出・振付が明らかに違っている!またしても!!ラストのシークエンスを大きく変えてきたのです、金森さん、またしても!!!再演のラストシーンは初演のときとは違っていましたが、この日、そこに至るまでのシークエンスにも大きな変化が生じていたのでした。これからはこれで行くのでしょうか。それとも、まだまだ変更の余地があって、これも「神奈川ヴァージョン」なのでしょうか。いずれにしても、私にとっては「鬼」納めの舞台でしたから、この後のことについては、レポートや報告を待つよりほかにありません。やはり一期一会なのですよね。

「このあと、舞台はどうなっていくのだろうか」若干後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、客席を後にしました。最後に原田さんと「音の聞こえ方」についてお話出来たらなどとも思いましたが、原田さんは鈴木さんたちと一緒におられます。同じ轍は踏めませんから、サポーターズ仲間たちと一緒に外に出ました。すると、強い横殴りの風に煽られた雨が時折、霙(みぞれ)になったりするなど、待っていたのは寒々しい冬の天気でした。帰りの新幹線のこともあり、東海道線に遅れが生じたりされては困るので、まずは横浜へ、そしてその先、上野へと急ぐことで締め括られた私の2024年Noism始めでした。

そうそう、この日の『鬼』に関しては、最後、緞帳が下り切る少し前から、拍手が鳴り始めたのでしたが、きっと、もうそれ以上我慢し切れなかったものと理解できます。そんな訳で、この日、一緒に客席で見詰めた観客のなかから、今取り組まれているクラウドファンディングへの協力者が多数出ることを信じて、否、確信して、新潟への帰路に就いたような塩梅でした。

(shin)

「鈴木忠志・金森穣・瀬戸山美咲による対談」(2023/12/20)(サポーター レポート)

SCOT吉祥寺シアター公演での「対話」へ行ってきました。
舞踊と演劇に関して様々な話題が出ましたが、主に金森さんに関連する部分をレポートさせていただきます。 乏しい記憶力と書きなぐりメモが頼りゆえ、事実と違ったり、話の順番やニュアンスが正しくないかもしれない点はご容赦ください。

劇場の黒い舞台の下手から鈴木忠志さん、金森さん、瀬戸山美咲さんと並び、皆さんモノトーンの装いで、シックな雰囲気。客席には井関さんのお姿も。

まず鈴木さんがおふたりを紹介し、おふたりからも簡単な自己紹介。
鈴木さんは、これまで2人に利賀でやってもらったが、今後も何かやれたらと思う、将来を嘱望されている2人がこれから活躍するにあたり、何が問題かをどんどんしゃべってほしい、何か力になれれば、と前置き。
『闘う舞踊団』については、良く書いたなー、読む方は誰かわかるでしょ?とコメント、皆ジワッと笑い。

金森さんは、日本では劇場の中にプロの専属集団がいないこと、プロではなく「趣味」に生きていると思われがちなこと、地方では多額の税金が、限られた市民だけ、または、東京から舞台を呼ぶことに使われている…という、これまでにもお話しされていた問題点を述べ、帰国して日本の状況に失望し、海外へ戻ろうと思った頃、鈴木さんと会って作品を見て、メソッドを持ち、何十年も身体と向き合っている集団があることに驚き、理解したいと思った。
日本の演劇には、物語はあるが、役者からのエネルギー、生身の身体があることの必然性が感じられないが、SCOTにはそれがあって感動した。
Noismを20年やっても公立の舞踊団は唯一で、新国立のバレエ団もコールドは給料で生活できず、新国立が海外から呼ばれることもない、というのが現実。
国の制度を変えたい、「御大(=鈴木さん)」の背中を見ていれば、変えられると思う、とのこと。

「劇場」について、鈴木さんは、劇場には空間(建築)があって思想があるべき。能舞台がそうで、海外ではピーター・ブルック等が自分の劇場を作っている。空間に合う思想を具現化する技術は何かを考えることが必要で、日本には劇場が沢山あるが、本当の意味での劇場がない…と熱い語り。
瀬戸山さんは、演出家の目線が入っていない劇場が多く使いづらいと指摘。
金森さんは、誰のための劇場かわからないと今後も同じことになる。公平性が社会的正義となると、(誰にでも)使いやすいことが優先されると危惧。

金森さんからの、鈴木さんの舞台は身体が強いので色々な空間で上演される、という言葉を受け、鈴木さんは、自分はどこでもやれる自信があるとキッパリ。能舞台があり能役者がいるのが素晴らしい、というのではなく「軸」が重要。思考の軸・基準がなければ、身体も集団もダメになる、とのこと。

また、「劇作家」「演出家」についての話の流れで、鈴木さんは、金森さんは演出家だと思うが、まだ言葉をしゃべったことがない、舞台の言葉は日常とは異なり、簡単じゃない、と語られましたが、これから言葉を入れることに挑戦してほしいという意味なのかどうか、よくわかりませんでした。

「地域への貢献」の話題で、金森さんは、今の世の中の今の新潟で、「軸」を失わずにできることをやる。「軸」のために闘い方を捻りだし、地域貢献も必要ならやる。今は主にNoism2 が行い、金森さん自身が直接関わらなくても良い仕組みを作ったと説明。

鈴木さんは、「地域貢献」は結果であり、「人類へ貢献したい」。「地域」は政治家が考えることで、芸術家の役割は、多民族や異なる思想を持つ人々の間に共通の悩みや問題があることを示し、それに役立つような共通の思考を見いだし、1つの共同体だけでなく異質なものに橋を架けること。「日本人だけ」はナンセンスとも。
瀬戸山さんが、日本は、日本の演劇を海外へ紹介する意識がないと言うと、金森さんは、日本の演劇の作り手は、そもそも、海外と勝負できる・人類の財産となると思っていないのでは…と一言。

鈴木さんは、公共と関わる場合は税金が使われるから難しく、「アナタの金ではないから偉そうなことは言うな」と言われるのは仕方ないが、本来そこは政治家が説得すべきこと。行政が芸術を助けるのでなく、経済人・政治家・芸術家が対等でなければならない。行政サービスとしてではなく、国家政策としてやらせることが重要と主張。
金森さんに対しては、政治家はいずれ選挙で落ちるけれど、自分は死ぬまで金森穣でやるから、(政治家に)もっと闘ってくれ、と言うべき、と煽り(?)、瀬戸山さんに対しては、日本語を守るためにも戯曲は大事だから、立候補したら?と唆し(?)。

鈴木さんから、自分はやりたいことができているが、このままではダメではないかと考えている。(2人に対して)でっかい態度で発言しなさい、悪口を言えばお金が出るから…と、まさに「御大」な発言が。もちろん「悪口の基盤が重要」と釘さし。

その後、利賀を作り上げるまでの逸話(今ではNGなことも)を披露。はじめは自費だったが、そのうち知事が来て行政からお金が出るようになったとも。
金森さんは、Noism設立時は、流行りの芸術監督制度をやりたいスタッフに自分が呼ばれ、今は、現市長は前市長のやったことをやめると色々言われるから続けている。
「やってください」と言われるまでになっていないので、覚悟しかない、と。

最後に鈴木さんから、「世界はこうだ、私は天才だ」と大きなことを言った方が良い。2人とも頑張っている、きっと思いは通じる。「あれだけのことを言うからには裏に何かある」と思ってくれる、と再び激励。
瀬戸山さんは、今は萎縮したり慎重になりがちだけど、大きな夢を語るのは大事ですね、と。
金森さんは、今、刀を研いでいます、追い出される前に追い出します、と不敵な笑み。

当初、「自分は司会」と言っていた鈴木さんも沢山話してくださり、そこに思いを2人が受け継いでくれるという期待が感じられました。それを聞く金森さんが、嬉しそうだったり、照れくさそうだったり、困惑したり、慌てたり、いつもと少し違う表情を見せていたのが印象的でした。

また、若き日のご自身を「老人キラー」と称した鈴木さんによると、金森さんも「老人キラー」だそうです。何人か殺しちゃってるんですね(笑)。

質問コーナーはなしで約1時間45分、貴重なお話をたっぷりと聞けました。この日の視点は主に作り手側から。いつか観客の視点を交えた対話の場が持たれることに期待します。

(うどん)

「黒部シアター2023 春」前沢ガーデン野外ステージでの「稀有な体験」が語らしめたインスタライヴ♪

2023年5月23日(火)の夜20時から、昨年夏以来の金森さんと井関さんによるインスタライヴが配信されました。語られたのは前週末の2日間のみの野外公演のこと。僅か2日間のみその姿を現し、私たちの日常を活性化して去っていったまさに「稀人」のような『セレネ、あるいはマレビトの歌』とそれが踊られた舞台「前沢ガーデン野外ステージ」について、その「稀有な体験」が語らしめたアフタートーク的内容だったと言えます。全編(作品とほぼ同じ尺の約55分)はおふたりのインスタアカウントに残されたアーカイヴからご覧いただくとして、ここではかいつまんでご紹介させていただきます。

☆前沢ガーデン野外ステージでの公演、そのいきさつ: 昨夏、「御大」鈴木忠志氏から「金森、やってみるか」とお声掛け(=「挑戦状」)があり、0.5秒後にスケジュールも何も見ないままに「はい」と即答。「師匠」からの「新作」の依頼は2019年の『still / speed / silence』以来、2度目。中途半端なものは見せられない。気合が入る。それは井関さんも同じで、「何なら俺よりも(気合が入る)」と金森さん。対する井関さんは金森さんのことを「外からの『異物』があったときに燃える。本能的に闘いにいく人」と。

★「御大」の感想: はからずもその2回、褒めてくれた。今回、初日の後、ひとつ指摘をいただいた。「御大」からの指摘は常に具体的で、得心させられる。今回も「ああ、まさに」と感じ、対処した。「感覚ではなくて、具体的。聞いているだけで『画』が見える」(井関さん)

☆その「御大」の指摘: 空間の演出の仕方、バランスのとり方。その作品に限ったことではなく、もっと舞台芸術・総合芸術・空間芸術・実演芸術の本質に根差したもの。未来のクリエイションに繋がる指摘。野外ゆえの壮大なものを見つつ、舞踊家の身体、精神まで見てのもの。

★素晴らしい施設での「合宿」: 常に一緒。「スポーツでは必ず合宿やるんだ」と鈴木さん。「同じ釜の飯を食う」こと、集団性において意味大きい。

☆ゲネプロの日(金曜日)の雨: その夜の通し稽古、凄かった。冷えた空気のなか、火照った体から水蒸気が発散された。「まるで『北斗の拳』」(井関さん)「生まれてくる熱量が可視化された」(金森さん)

★アルヴォ・ペルトの音楽: 全編、ペルト。昨秋、会場(東洋的な森林に囲まれた西洋的な建築物、その融合した世界観)を見てイメージしたとき、合いそうだと思ったと金森さん。ペルトの歌曲は珍しいが、最後にそれを見つけたときに「ああ、これだ」と思った。

☆空間の使い方の工夫: 黒い舞台とその奥の緑の芝の丘、その境界をどう解釈して、どうつかむか。それが今回の作品の核だった。此岸と彼岸。その境を超えてやって来るマレビト。空間的なことって、現場に行かなければダメ。そこでアジャストしたつもりが、「御大」から「でもさあ、1個だけ…」と指摘があった。その指摘のキーワードは「7,3,1」と明かした井関さん。それに関して金森さん、「自分の作ったものに対して批評的な視座をもつためには冷静さが必要なのだが、最後のシーンについては感情移入してたんだと思う」

★野外ステージの魅力: 「せっかく良いもの出来たのにさあ」と金森さん。新潟にも野外劇場を!上堰潟(うわせきがた)公園とかに。前沢ガーデン野外ステージで観るNoism、毎年、ひとつの文化みたいに、恒例にしたい。
 金森さん「演出家として、空間をつかむことの本当の課題・難しさは(屋内)劇場では味わえない」
 井関さん「劇場の中で踊っていると気になることが、野外では『いいや!』と思え、そこに拘ること以上のものがあると直感的にわかる」
 金森さん「人工物(ハコ)の中でやっていると、踊りも演出も自分がどうしたいかに拘泥してしまう。野外に出たら受容するしかない」
 井関さん「屋外では本気で自分に集中していた。(屋内)劇場では自分を肯定しつつ、自己満足の部分が結構あると気付いた」
 金森さん「社会がどんどん人工化していくなか、野外でパフォーマンスすると、パフォーミングアーツの神髄や核にもう一度立ち帰れる」
 井関さん「やっと、もしかしたら何か知ったかも、という感覚がある」
 金森さん「(この『セレネ、あるいはマレビトの歌』を)世界中の野外劇場で上演したい」
 井関さん「野外は一様じゃないから、どうなっていくか経験してみたい」
 金森さん・井関さん「いろんな作品でいろんなところに行くんじゃなくて、同じ作品でいろんなところに行ってみたい」
 金森さん「また是非、来年!」

☆明日からは…: 「劇場というブラックボックスの中で良い空間を作ります」と金森さん。「この経験を踏まえた上で」と井関さん。『領域』、ふたりだけで20分強(25分くらい)踊る初めての作品。

…と、そんな感じだったでしょうか。

あと、この日のおやつは貴餅(きへい)さんの白玉ぜんざい。そして、途中、宅配便で高知から西瓜が届いたりするハプニングもありましたね。

それにしましても、また観たいですね、『セレネ、あるいはマレビトの歌』♪それもまた屋外で。ならば仕方ない、「新潟野外劇場プロジェクト」に漕ぎ出してみますか。(笑)

(shin)

Noismの現到達点たる『セレネ、あるいはマレビトの歌』、その夢幻(サポーター 公演感想)

5月11日、りゅーとぴあでの『セレネ、あるいはマレビトの歌』公開リハーサルの衝撃は忘れ難い。『Nameless Hands-人形の家』や『NINA』『R.O.O.M.』など舞踊家の渾身と演出振付・金森穣の魔術的洗練に圧倒される舞台に幾度も立ち会ってきたが、りゅーとぴあ〈劇場〉の舞台上に設えられた客席で展開された舞踊と音楽の濁流と、作品の精神には、真底打ちのめされた(リハーサル後、金森さんにバッタリ会い、「これは凄いです。大好きな作品です」と興奮気味に声を掛けてしまった)。

その本番が、5月20日・21日、「黒部シアター2023 春」として黒部市の前沢ガーデン野外ステージにて開催された。初日の圧倒的舞台についてはしもしんさんが当ブログにて詳報している。私もまたTwitterで「激賞」と呼べる感想を書き連ねたり、「月刊ウインド」6月号にて魚津滞在を含めた紀行記事を掲載予定の為、2日目(5月21日)の感想を主に記載する。

魚津駅から黒部駅へあいの風とやま鉄道の列車で向かい、前沢ガーデン行きのバスが発車する「ホテルアクア黒部」へ。新潟や東京から駆け付けたNoismサポーターの方々と合流し、16時発のバス車中では(初見の方も同乗しているので配慮しつつも)昨日の公演の素晴らしさをあれこれ語り合う(この様子を、同乗していた富山県市町村新聞の宮﨑編集長が聞いており、会場でお声がけいただく。公演について記事を書かれるとのこと。特に声の大きな私の放言、失礼しました)。
開演の19時迄は前沢ガーデンの圧倒的な空間美と自然に浸りつつ待機。鈴木忠志氏をお見かけしたり、会場入りする金森穣さんや井関佐和子さん、山田勇気さんにご挨拶(金森さんのご両親や鈴木忠志氏率いる「SCOT」の本拠地である南砺市長も足を運んでいた)。

そして、19時定刻に始まった本番。舞台は常に一期一会だが、野外公演は吹く風や、それにはためく衣装、空の色(この日は渦巻くような雲が空を覆いつつも、陽光がうっすらと覗く)が繊細なコントラストを生み、作品の強度は変わらぬとはいえ、観る者が受け取る印象が新鮮に変わっていく(舞台に立つ舞踊家にとっても、きっとそうなのだろう)。

活動継続問題やコロナ禍の苦しみの中で、ひたすら舞う「Noism」の集団としての強さと祈りに幾度も涙した『Fratres』を、アルヴォ・ペルトの楽曲を駆使しつつ、作品の一部とし、全く違った文脈で再構築した『セレネ、あるいはマレビトの歌』。異端・来訪者を排斥し、互いを縛る「集団」と、個を確立した者が手を取り合う「連帯」との対比。女性同士の深い共感が、集団の論理に楔を打つ展開(井関佐和子さんと6人の女性舞踊家が織り成す洗練と爽やかなエロスに充ちたシークエンスには、ペルトの楽曲相まって涙が溢れた)。ベクトルの異なる舞踊の連鎖を休む間もなく躍り続ける井関佐和子さんやNoism1メンバー、野外ステージの高低差を活かした演出の中で「恐怖」さえ覚える登場を見せる山田勇気さん。そして、言葉を越え、この世界に生きる人の胸に確かに届くであろう「ヒューマニズム」を謳い、アンゲロプロスやタルコフスキーといった名匠が映画で描いた夢幻のごとき光景を現出させた金森穣さんの手腕に、陶然としてしまう。Noismを応援してきた者にとっての冥利を覚えつつも、この現到達点は、Noism Company Niigataの更なる未来と拡がりを想像させる。

カーテンコール後、初日(5月20日)に続いて舞台に立った金森さんは「自分にとっても手応えのある作品」、「この作品を持って海外に出掛け、世界に挑みたい。新潟のカンパニーが黒部に滞在して創った作品です。東京(発)じゃないんです。それが文化」と語った。この挑戦を、更にしっかり応援していきたい。

(久志田渉)

控え目に言って「天人合一」を体感する舞台!「黒部シアター2023 春」の『セレネ、あるいはマレビトの歌』初日(サポーター 公演感想)

2023年5月20日(土)19時、黒部市の前沢ガーデン野外ステージにて祝祭的な雰囲気のなか、Noism0 +Noism1『セレネ、あるいはマレビトの歌』初日公演を観る。

前沢ガーデンとNoismをイメージした
ノンアルコールカクテル
太田菜月さん(左)と兼述育見さん

『イチブトゼンブ』とはB’z(実はさして詳しくもないのだが、)のヒット曲のタイトルであるが、それになぞらえて言えば、かつて私たちをあれほどまでに魅了し尽くした「ゼンブ」が今回、「イチブ」となり、それが属する「ゼンブ」によって、その肌合いや意味合いを異にしてしまう。その構成にまず驚く。

それは例えば、知らぬ者などいよう筈のないオーギュスト・ロダンの彫刻『考える人』が、ダンテの『神曲』に着想を得て制作された『地獄の門』の頂上に置かれた一部分であったように、あの名作『Fratres』をその一部とする作品が構想されようとは!そうした構成上の驚きである。

そもそも私たちは『Fratres』において、集団による求道者然とした献身の果てに達成された「平衡」、その高度な完結に酔いしれていたのではなかったか。『Fratres』とはつまり、純度の高いひとつの達成だったのだが、それがその記憶も新しいうちに、同じ演出振付家の手によって惜しげもなく解体されてしまうのを目にするのであるから、もしかすると「驚き」と呼ぶ程度では足りないのかもしれない。しかし、そう言ってしまってすぐ、過去にもラストシーンを変更することすら厭わない人ではあった、そうも思い当たる。金森さんは常にとどまることを知らず、前へ前へと進んでいく人なのだ。

その密教的な合一をみた感さえある『Fratres』の解体は、破壊音に似た音楽により始まる。現出するのは『ASU-不可視への献身』や、もっと直接的には『春の祭典』における嬲るような排除の構図。女性対男性のある場面など『春の祭典』を思わずにはいられないほどである。

黒い衣裳の者たち(10人)は「聖」を目指す「俗」であり、その愛の有り様は「アガペー(無償の愛)」や「フィリア(友愛)」を志向しつつもそこには至らない。それはマレビトふたり、つまり、当初の「黒」を脱いだ井関さんとひとり「黒」とは終始無縁の山田さんのデュエットにおいて、井関さんが見せる(金森作品には珍しい)官能的な表情に浮かぶものが「エロス」以外の何ものでもないことからして、無理からぬことではある。井関さんもまた再び「黒」を身に纏ったりし、彼女すら「聖」と「俗」を往還する不安定な存在(「着換える人」)として描かれていく。そうした井関さんの立ち位置にもこれまでにないものが認められよう。

そして従来の「井関さん」的立ち位置は、山田さんによって踊られることになるだろう。二度、緑の芝の丘の向こうから姿を表す山田さん。ゆっくりと、しかし存在感たっぷりに。その二度目の登場場面が只事ではない。尋常ではない。それはほぼ作品のラスト近くに至ってのことなのだが、その「光背」を伴って(敢えて「発散して」と言いたいところであるが、)の登場は、仏像やキリスト像の造形やら数多の映像表現において目にしてきたものであるのかもしれないが、この日、この前沢ガーデンのランドスケープと一体化して見せられると、その神々しさにうっとり平伏すしかないほどの唯一無二の光景となる。そこに目撃される、否、体感されるのは、紛れもなく、刹那の「天人合一」だろう。控え目に言っても。

会場のもつ圧倒的な力。その点では、かつて金森さんと井関さんが原田敬子さんの曲で踊った『still / speed / silence』(第9回シアター・オリンピックス)、その会場・利賀山房でのラストの光景をも想起させるものがあるが、それと較べても、今回、そのスケールは甚だ大きい。宇宙との合一を果たすことになる場に居合わせて、その一部始終を目撃したのである。この日は曇天だったため、ラスト、揃って「個」としての(、そして恐らく「集団」としての)強靭さを増して、「黒」を脱した演者全員が見上げる空を、同様に客席から仰ぎ見ても雲に覆われた空を見るばかりではあったが、唯一、「宵の明星」金星は煌めいており、それを手掛かりに満点の星空を幻視することができた。(また、同様に、野外ステージということでは、照明に寄ってきた鱗翅目がその光を鋭く照り返す様子など、野趣を添える以上の偶然の効果を生んでいたことも書き添えておきたい。)

終演後、気迫の大熱演でこの作品を踊り切り、舞踊家としての矜持を示した全メンバーに、そしてその後、挨拶に立った金森さんに対して大きな拍手が湧き起こったことは言うまでもない。スタンディングオベーションを捧げる観客を含めて、拍手は長く続き、人の両の掌が発するその音は見詰めた者たちの感動を乗せて空へと昇っていった。

席を後にして出口へ向かう際に、(正面2列目でご覧になっていた)鈴木忠志さんが移動するすぐ後ろを(意識的に)歩いたのだが、彼が懇意にする新聞記者に対して、「ダンプ何台分も削って作った」と説明していたこのステージの客席は、そのどの席からも展開されるパフォーマンスをしかと観ることができる筈だ。私はこの日、演者たちの素足が舞台を擦る音や激しい息づかいまで聞こえてくる最前列を選んで腰掛けたのだが、仮に少し上方の席を選んで見下ろしていたとしたら、その姿はさしずめ、ロダンによる件の彫刻のようだったろう。

我を忘れて酔いしれた時間は過ぎたが、なお目を圧して灯る幻想的な大光量を振り返りつつ、前沢ガーデンハウスでトイレを済ませると、20:30発、最終のシャトルバスに乗って車を駐めていた特設駐車場へと向かった。そのバスに乗るまでも、そして乗ってからも、多くを語ろうとする者はいなかった。(「雨にならなくてよかった」以外には。)それくらい誰もがあの55分に圧倒されていたのだ、間違いなく。

金森さんは上で触れた挨拶で、今回の公演実現の経緯を「師匠と仰ぐ鈴木忠志さんから昨年、お誘いを受けた。でも、鈴木さんのお誘いは単なるお誘いではなく、『金森、どんなものを作れるか見せてみろ』という挑戦だった」とし、生涯初めての野外公演に際して夜遅くまで照明作りにあたってくれたスタッフを労いながら、「またここに戻って来たい」との言葉でそれを結んでいた。こんな唯一無二の場所での公演、この日の観客のひとりとしても、同様に「また戻って来たい」と思ったことは言うまでもない。

この度の『セレネ、あるいはマレビトの歌』は僅か2回のみの公演で、私が観たのはその1回に過ぎず、それに基づいて書いた拙文であるが、この驚嘆の作品の「ゼンブ」のうち、「イチブ」でも皆さんと共有し得たならば幸いである。そして書き終えた今は、各々バラバラに再演を望む「イチブ」でしかない者たちの思いが、束になって熱い「ゼンブ」と化し、いつの日か、再演の舞台にまみえることを夢想するのみである。

(shin)