新潟から発信された、圧倒的普遍性(サポーター 公演感想)

2023年8月11日(金・祝)日本バレエ協会主催「令和5年度全国合同バレエの夕べ」金森穣演出振付『畔道にて~8つの小品』再演感想

2020年、金森穣さんが初めて新潟市洋舞踊協会の依頼を受けて創作した『畔道にて~8つの小品』初見時の感動は今も忘れられない。若き舞踊家たちが、所謂「稽古事」や「バレエ」の枠を越えた金森作品に出会い、作品を生き、その体験がやがて「何か」をもたらすだろう予感と、作品そのもののシンプルかつ力強い魅力。Noismが新潟という土地に根差して生まれた傑作という感を覚えたものだ。その『畔道にて』が、日本バレエ協会主催の「バレエの夕べ」で再演されるとあって、先日の「サラダ音楽祭」に続いて東京へ出向いた。


会場は初台の新国立劇場内中劇場。「新国」と言うと、井上ひさしの『紙屋町さくらホテル』や「東京裁判三部作」制作などで幼い頃に存在を知り、いつかは訪ねてみたい場所だった。Noismと新国立劇場との共同制作の経緯について、金森さんの著書『闘う舞踊団』(夕書房)で知り、愕然としたことも記憶に新しい。


8月11・13日の二日間に渡って開催される「バレエの夕べ」。11日は関東・中部・関西・東北・甲信越・東京の六支部の作品が上演された。ご家族連れやバレエ関係と思しき方々で会場は華やぐような賑わい。休憩中には金森さんや評論家・三浦雅士氏を見かけ、『畔道にて』のバレエミストレスを初演時に続いて務めた池ヶ谷奏さんにもお声がけいただいた。


甲信越支部は19時過ぎからの五番手。上演が進むにつれ、照明の美的センスと間断無く(拍手する間など無く)展開する金森演出と、新潟の若き舞踊家たちの演技に、客席の空気が変容してゆく。若い世代の「孤独」にこそ寄り添い、「友情」や「恋」を衒いなく見せる振付。そして『NINA』の一場面を想起させる深紅の照明の中、灯火を手にした16人の舞踊家たちが登場する『歌い、』のシークエンスでは、その美しさに会場が静まり、やがて感動が拡がっていくようだった。門山楓さん・山本莉鳳さんにNoism1メンバー(中尾洸太・坪田光・樋浦瞳・糸川祐希)が加わる『愛や、』の悲愴感、まだ幼い福山瑛未さんに井関佐和子さんが未来を託すように寄り添って舞う『夢を、』の連続に、涙腺が決壊し、アルビノーニの「オーボエ協奏曲」(向田邦子作「ドラマ人間模様『 あ・うん』」の水田家と門倉の団らんシーンで使用されていた)に乗っての希望に充ちた祈りを思わせる群舞『語る。』に至って、『畔道にて』は新潟から生まれた傑作に留まらず、世界中の様々な土地で懸命に生き、惑う若者たちの万感を映し出す普遍的な「名作」との感を強くした。
公演後の場内のどよめきや、ご家族連れのお父さんが「度肝を抜かれた」と漏らす声を漏れ聞けただけでも、新潟から応援に駆け付けた甲斐があった。

(久志田渉)

新潟日報「Noism 脱皮への次章」、地域貢献に期待する声を報じる

2021年12月29日(水)の新潟日報朝刊は、前日分(「上」)に続き、文化面に「Noism 脱皮への次章」を掲載しました。前日のブログにて、3回展開かと予想しましたが、この日の掲載分は「下」とのことで、なら、「前編」「後編」の方が良くないか、とか思いながらも、その気持ちは棚上げし、(←こうして書いてしまっては、「棚上げにならない」の声も聞こえてきそうですが、)とにかく、「下」をご紹介します。

新潟日報・2021年12月29日付け朝刊より

今回は、新「レジデンシャル制度」のひとつの眼目でもある、「地域活動部門」設置に関する記事構成となっています。端的に言えば、前回の活動継続期に「課題」との位置付けがなされた「市民還元」の取組みに梃子入れをして、更に浸透度を増そうという体制に関するものです。

触れられているのは、市山流宗家、にいがた総おどり、全国大会で上位に食い込む高校ダンス部の活躍等々、「舞踊のまち新潟」を印象づける数々。

そのなか、まず紙幅が割かれているのは、新潟市洋舞踊協会の第9回記念合同公演(2020/10/4)、井関さんのほか、当時のNoism1メンバーだった林田海里さん、チャーリー・リャンさん、カイ・トミオカさん、スティーヴン・クィルダンさんが新潟市内のバレエ教室に通う若者たちと共演したのでした。作品は『畔道にて~8つの小品』、金森さんが一から振り付けた完全な「新作」でした。勿論、当日、私も客席からその舞台を観ていたのですが、「これはひとつの大きなメルクマールになる」、そう思って目頭が熱くなったものでした。

次にこの日の記事で見逃せないのは、「今期は初めて、市内の高校ダンス部出身者がプロカンパニー『ノイズム1』のメンバーになった」の1文でしょう。勿論、それは奇しくも、前日、本ブログ「私がダンスを始めた頃」に掲載した樋浦瞳さんのことです。そうしたことからくる期待もあるにはあるでしょうが、それ以上に、もっと純粋に、先般の『Endless Opening』で見せたその伸びやかな踊りに新鮮な魅力を感じた方も多くいらっしゃる筈です。かく言う私もそのひとりですけれど。で、その樋浦さんなら、新潟市や新潟市民とのリンクの役割を果たすことに不足はありません。そう感じた次第です。

記事に戻ります。その締め括りに置かれた市舞踊協会の若林さんの言葉、「金森監督には、今後も新潟を文化都市として成熟させるという大きな目標に向かって進んでもらいたい」。同感です。
そうした思いとは裏腹に、行政サイドは、恐らく、Noismのこれまでの「17年」を長いとみた部分もあるのでしょうが、決してそんなことはありません。新「レジデンシャル制度」で設けられた「1期5年」乃至「2期10年」の上限で目指される「目標」は、果たして大きなものたり得るのでしょうか。「文化都市としての成熟」はもっと長い射程で捉えられるべきものではないのでしょうか。金森さんが常々唱える「劇場文化100年構想」こそまず議論され、そして共有されて欲しい理想と言えます。

勿論、「国際活動部門」路線も重要な訳です。世界的にリスペクトを集める「余人をもって代えがたい」芸術監督・金森さん。彼がいてくれる新潟市の未来は明るい筈。真に文化的な方向での刷新を旨とする(庵野秀明氏ばりの)「シン・レジデンシャル制度」を求める所以です。

(shin)

新潟市にNoismがある豊かさが広く(再)認識された日、2020/10/4♪

2020年10月4日(日)は、Noism継続問題で揺れた前年に指摘された課題「市民への浸透度」において、画期的な進展が認められる重要な一日になったと言えるでしょう。

入口と出口が別になったりゅーとぴあ

写真は、この日のりゅーとぴあの催し物表示ですが、縦に並んだふたつ、上には14時開演の「和楽器集団ぐるーぷ新潟 第20回コンサート」、そして下には「新潟市洋舞踊協会 第9回記念合同公演」が昼13時30分からと夜18時からの2公演が示されています。

どちらも最上部に「第68回新潟市芸能まつり」とある通り、新潟市芸術祭2020の一環としての催しなのですが、どちらにもNoismの新たな作品(山田さん振付作品と金森さん振付作品)が組み込まれていて、どちらにもNoismメンバーが出演しているのです。

そして最も重要なことは、それぞれ和楽器と洋舞踊に打ち込む市民とNoismとが共演したことであると言えるでしょう。その意義の大きさは計り知れません。それも一日のうちにやっちゃった訳で、「重要な一日」と断言する所以です。

私は、先ず、ぐるーぷ新潟のコンサートを聴き、その後、新潟市洋舞踊協会の夜公演を観ましたので、その順に、若干触れてみたいと思います。

*和楽器集団ぐるーぷ新潟 第20回コンサート(@コンサートホール)

琴や尺八のほか、多くの和楽器が作り出す音を楽しむコンサートは、私のように全くその筋に疎い者の耳にも、極めて新鮮な響きとして届き、大いに楽しめました。山田さんの振付でNoism2が踊ったのは、コンサート最後の演目、4曲からなる組曲『新潟幻想』の第2曲《銀の吹雪》でした。作曲者の後藤丹さんの言葉に「夜半から降り始めた雪は段々と厳しさを増します。題名は蕗谷虹児の詩集から」とある通り、私たちの心象風景「新潟」に深く根を下ろした曲であり、組曲であると言えます。

司会も担当した朝倉劫山さんによれば、山田さんは初めて聴いた曲に振り付けたのだということ。白いフレームを持つ透明アクリル製の見覚えのある立方体の椅子を手に舞台上手の袖からゆっくり歩み出る9人のNoism2ダンサーたち。身に纏うノースリーブとパンツは全体が白でありながら、一部、黒ずんだ箇所があります。私たち新潟の者にとっての雪は、綺麗なだけの鑑賞対象ではなく、生活を営む上での厄介さも伴うものであることを一目で納得させたうえで、種々の和楽器の手前、若いダンサーたちがその身体で、新潟の雪の夜を出現させていきます。そこでは世代の違いも、洋の東西も消失し、幸福なコラボレーションしか見えてきません。最後、雪が大地を覆うかのように横たわる8人のなか、ひとり、尺八と打楽器の音と一体化する中村友美さんの立ち姿で曲が止まると、大きな拍手が沸き起こりました。曲の最後までいかぬうちに拍手が出たのはこのときだけです。その多くは、恐らく、この日初めてNoismを観た方々だったように思います。私がこの日初めて和楽器の公演を聴いたように。

全ての演目が終わると、司会も兼ねた朝倉さんが言います。「通常、アンコールは会場のみんなで『花は咲く』を歌うのですが、飛沫が飛ぶので、今回は今日やったなかから、皆さんが一番聴きたい、観たいものをやります」勿論、Noism2が参加した曲のことです。今度は立方体の椅子は持たずに、駆け足で、4人と5人に分かれての登場。そうして、客席は、雰囲気を異にする《銀の吹雪》を2回堪能した訳です。曲が終わると、この日一番の拍手が会場に谺したことは容易に想像して頂けるものと思います。(直後、山田さんから聞いたところによれば、このアンコール、急遽前日に言われたものだったとのことでした。)

*新潟市洋舞踊協会 第9回記念合同公演(夜の部)(@劇場)

合同公演の全体は3部に分かれていて、その間に15分の休憩を2度挟む長丁場です。2部までは、各バレエ教室ごとの発表会の形式で進み、あるときはまるで保護者になったかのような気分でドキドキ見守り、またあるときには微笑ましかったりもし、またまたあるときには「やるなぁ」とばかりに見入ったりと、私自身、かつて娘がまだ小さかった頃のバレエ発表会のときの記憶と重なる思いを追体験しました。この日の客席もまさにそう。それぞれに視線を送る先が異なり、盛り上がりのピークも若干異なる、出演者の身内が多い客席だったように思います。元来、そういうものなのです。

しかし、金森さん振付の合同作品『畔道にて ~8つの小品』が披露された第3部は肌合いがまったく異なっていました。この作品は「Ⅰ.畔道にて、」「Ⅱ.友と、」「Ⅲ.恋や、」「Ⅳ.孤独を、」「Ⅴ.歌い、」「Ⅵ.愛や、」「Ⅶ.夢を、」「Ⅷ.語る。」と読点と句点を伴って名付けられた8つのパートからなり、ヴィヴァルディやシューベルトなど耳に馴染みのある曲も使われているものでした。そして冒頭、夕陽を思わせる色味の照明のなか、どこかへの移動の手段に回収されてしまうことのない「畔道」の光景が示されると、演者が躍動するステージはもう「新潟」以外のどこにも見えてきません。

8つのパートには、バレエ教室の生徒さんたちからオーディションで選ばれたという出演者たちが、それぞれの年齢に応じて、青年期までの様々な関係や感情を可視化していきます。そして、「Ⅵ.愛や、」にはNoism1から林田さん、チャーリーさん、カイさんとスティーヴンさんが参加し、続く「Ⅶ.夢を、」には井関さんも登場し、全員で踊るラスト「Ⅷ.語る。」へと繋がる情緒を盛り上げていきます。その最後のパートの味わいは、金森さんが『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』において、浅海さんを配して描いた「未来を歩む者」に向けられた思いや慈愛と重なるものであるにとどまらず、事実として、Noismの「外」へと拡がりをもつものでもあり、より普遍性の強いものに映りました。

踊りの最後に盛り込まれた手話は、「新潟。私は舞踊が好きです。新潟。私は舞踊を続けていきます。新潟。本日はどうも有難うございました」と、例外なく、この日舞台を踏んだ者みんなに共通するものだった筈です。そしてそれを見詰める客席には、およそ舞台が産み落とし得る限りの「あたたかみ」が伝わってきたと言い切りたいと思います。終演に際して、耳をつんざくような拍手が舞台上へと送られていたのがその証左です。また、ホワイエに漂うその余韻、そして多幸感。是非、末永くレパートリーとして踊り次いでいって欲しいものです。

…そんな訳で、この日のコンサートホールの客席も、劇場の客席も、ともにそれぞれ、新潟市にNoismがあることの幸せを噛み締めることになり、結果、その豊かさが(再)認識された日と捉えて間違いないでしょう。これまでは、「畑違い」だったりし、または、逆に隣接するジャンル故に尚更遠ざけたりなどしてきたのかもしれません。しかし、この日を境に、それももう過去の話。Noismとの共演を通して経験した充実感は、自分が選んだ表現ジャンルへの熱を増すと同時に、きっとNoismへの関心を高めることにも繋がる筈です。この日のもつ意味合いには本当に大きなものがあったと書いて、この日のレポの締め括りとしたいと思います。

(shin)