お待たせしました。今回は、先月、「2まみれ」の水曜日(2022/2/2)に開催され、「2時間」に及んだ濃密な標記特別講座を、当日、聞き手を務められた久志田渉さんご本人による気合いの入りまくった文字起こしでお届けします。その23,000字超の圧倒的なボリュームをお楽しみ頂きましょう。
なお、同講座につきましては、当ブログでは講座翌日(2/3)にいち早くfullmoonさんによるレポート を掲載し、多くの方からお読み頂いているものと思います。
また、この後、新潟市民映画館シネ・ウインド刊行の「月刊ウインド」4月号(4/1発行)には、コンパクトかつ分かりやすい要約版が掲載されます。まだNoismを知らなかったり、疑問があったりする向きにも、新潟市にNoismがあることの「意義」が伝わる内容となっていますので、ぜひそちらの一読をお勧めください。
それでは、ここからは垂涎の完全採録版で、当夜の講座を余すところなくお楽しみください♪ (shin)
「にいがた市民大学特別講座 にいがた文化の音霊」『劇場専属舞踊団・Noism Company Niigataの挑戦』
*話し手 りゅーとぴあ舞踊部門芸術監督、Noism芸術監督、演出振付家、舞踊家 金森 穣 *聞き手 舞踊家・井関佐和子を応援する会 さわさわ会役員、「月刊ウインド」編集部、安吾の会事務局長 久志田 渉 (2022/2/2 Wed. 18:30~20:30 @りゅーとぴあ・能楽堂)
久志田 ◆今日の講座ですが、前半はNoism Company Niigataのこれまでを振り返り、後半はその未来、今後について芸術監督・金森穣さんに伺っていこうと思います。最初に、「Noismを観たことがある」という方、挙手いただけますか? (8割の方が挙手)久志田 ◆では、観たことが無い方は? (2割ほどの方が挙手)金森 ◆結構いらっしゃいますね。久志田 ◆そうですね。ではまず、Noism設立から18年。今何を思いますか?金森 ◆2004年のNoism設立から18年経ちましたが、新潟に続く劇場専属舞踊団は未だに出来ていない。これが残念ですね。久志田 ◆坂口安吾は『地方文化の確立について』(1946年)で、「東京の亜流になるな」と書きましたが、Noismは新潟という地方都市に拠点を置き、圧倒的な作品によって首都圏ひいては世界に挑んでいる。金森 ◆劇場の認識やありようが、日本とヨーロッパでは違うんです。日本の地方劇場はまず、市民が使う場所としてある。そして東京の公演を呼んできて、見る場所。ヨーロッパではその劇場を拠点に専門家たちが文化を創作・発信し、地元の人々はその作品を見る。久志田 ◆新潟で創作を18年続けてきて、思うことは?金森 ◆新潟に根付く文化として、自分が残せるものは何か。たとえ自分が素晴らしい作品を生み出し、世界に発信したとしても、毎回成功するとは限らない。作品依存のみでは、文化として継続は出来ない。では、どうするか? そのために基礎となる練習法「Noismメソッド」があるんです。作品になる前の、舞踊家の身体の質が重要。久志田 ◆芸術性だけではなく、Noismとしての軸を作ってゆく。
久志田 ◆Noismの環境がいかに恵まれているか。このコロナ禍中でも公演が続けられて、毎日練習ができて、観客も劇場へ足を運ぶことができる。これがいかにすごいことか、なかなか観る側はわからないですが、実作者・舞踊家として、例えば東京のバレエ団やダンサーたちが置かれている状況と比較してどう思いますか?金森 ◆それは完全に、「身体の質」なんですね。この厳しいコロナ禍にあって、我々も一昨年4月に劇場を閉じた時は稽古場に集まれませんでしたが、それでも稽古を続けてきた。本公演は延期になっても、(りゅーとぴあの専属舞踊団だから)稽古・トレーニングを続けていけることで、担保される身体の質がある。作品になる前の、舞踊家の質、身体の質を確保しておくことは、舞踊芸術においてすごく重要です。それが東京などの民間ベースの集団は、お金を払って場所を借り、作品を作る必要がある。稽古より、作品を作ることに重きを置いて、いい作品を作れれば有名になり、公演も打てるっていうこと。それが、舞踊家の身体を鍛えることより(目的として)強い。ところがコロナになるとなおのこと集まれなくなるし、集まったとしても少人数で作品を作る。だから作品も少人数(に合った)の小さなものになっていくし、確保できる場所もなくなるし、みんな生活出来ないからバイトに明け暮れる。そうすると、稽古をしたくてもその前に忙殺される、どんどん質が下がっていく。それは今現在の問題だけではなく、数年後に影響が出てくる。数年経った時に日本の舞踊のレベルが下がっているのだから。久志田 ◆舞踊に限らず色々な文化がコロナによる中断を経て、その影響が出てくるのは少し先だということですね。以前バレエ経験のある一般の方向け講座「サマースクール」で、Noism1メンバーが講師を務めている様子を見学しました。感動的だったのは、ダンサーたちが、受講者に向って「もっと自分のやっていることを信じて」といった、的確な言葉で励ましつつ、Noismのメソッドを伝える姿。そこに「学校」を感じた。ただ良質な舞台を届けるだけではなく、若者たちが毎日ここで練習し、金森さんや色々な人に教えられる中で、自分たちが教育者となって、それを次の人へと繋いでいく。メンバーの入れ替わりがあるとはいえ、Noismを18年続けていくなかで、そういう「学校」のような性質も育まれているのでは?金森 ◆メンバーが入れ替わってもなお蓄積され、継承されていくという長期的なサイクルなんですね。今、「持続可能な社会」ということが政治的なレベルでも語られますが、それは文化的な活動も同様。これからより一層、持続可能性とか、継承されるものが大事な要素として、身体の文化が社会にとって重要なものになってゆく。久志田 ◆金森さんは以前のインタビューで、日本で舞踊が行われる時に、「民族舞踊」や「ナショナリズム」の方向に行くのではなく、外来の文化であるバレエ、ダンスを、日本の土地の中でしっかりと実践し、経験を積むことで独自の文化が生まれてくると語っています。表層的に「日本的」なものではなく、土地にしみこんでいくことかと思いました。金森 ◆日本に西洋のダンスが入ってきてから、大体120年くらい。まだ、それしか経っていないんです。デンマークやロシア、フランス、アメリカではそれぞれにバレエが独自の発展をしている。私見ですが、日本のバレエ界はまだ「日本のバレエ」として世界に持っていける方法論・トレーニング論・身体性が確立されていない。海外のバレエ団の日本公演はあるけれど、じゃあ日本のバレエを世界に発信していますか? その問題意識を前提に、私は日本のバレエを開拓する意味をもって「Noismバレエ」を作り始めた。ただ西洋のバレエを日本的に置き換えるだけではなくて、日本には能、さらに遡れば修験道(今一番興味がある)など、身体と信仰、スピリチュアリズムとが密接な文化があるんです。そういう身体文化みたいなものを、現代の身体に、ある種の方法論として落とし込む。それが「Noismメソッド」。その日本独自の伝統的なもの、西洋から由来するものがひとつに入ってきたとして、日本が世界に貢献し得る舞踊文化として新潟から発信していこうとしているのがNoismなんです。久志田 ◆「Noismメソッド」というのは、西洋的な垂直と、日本・アジア的なものとしての水平、両方を意識しつつ身体を鍛えていくと理解していますが。金森 ◆西洋の場合、垂直だけではなく「上へ」。久志田 ◆天へ。金森 ◆バレエには人間ではなくて、妖精、白鳥といった存在が登場する。ポワントシューズが典型ですけど、大地から離れるから、重力を感じさせない、上へ上へという芸術性。久志田 ◆「人ならぬ者」というか。金森 ◆そう。日本だともっと下に。大地に根差していくという身体性がある。そして水平軸。西洋は騎馬民族がルーツだけど、私たちは農耕民族。田植えなど水平に進んでいく。久志田 ◆重心を下に取って。金森 ◆(西洋と東洋の)身体性をいかに融合するかというよりも、両方を今身体に取り込んでいくとどういうことが起こり、表現としてどうなっていくんだろう、ということ。久志田 ◆海外へもNoism公演を観に行ったことが何回かあります。私は、Noismが「日本」に縛られず、無国籍的であり、自由であり、そこに憧れを感じる。しかし海外で観ると、すごく新潟や、日本的な要素が見える。ルーマニア・シビウ公演(17年)での『マッチ売りの話』冒頭の新潟の冬の風の音。モスクワでの『劇的舞踊 カルメン』公演(19年)では、熱のこもった現地の反応に、動きなど日本・アジア的なのだなと、異郷で観ることで気づくことがある。金森 ◆モスクワはバレエの殿堂というか、劇場文化が日常に根付いているし、観客は様々な「カルメン」を見ている。そういうところに出た時に、単純に物語の再解釈だけでは、「まあ、それは面白いね」で終わるんですね。バレエの技巧を何となく真似しているだけではなく、彼らが知っているバレエに似ているけれども、身体性が異なる、重心の位置が異なるとか、そういう身体性・演出・脚本全部ひっくるめて、総合芸術として海外に出る。思考にないものに出逢って衝撃を受けるのが劇場文化であり、それが海外公演をする意図。日本から来たバレエ団に、現地の方たちが期待するのはモスクワで観られる何かと一緒ではなくて、そのオリジナル性。 海外のお客さんは、バレエをやってない人でも「バレエとは何ぞや」ということが頭に入ってるんです。そういう方たちを相手に勝負するのが、私たちの立場なんです。久志田 ◆金森さんの背景についても伺います。金森さんの恩師であるモーリス・ベジャール(1927~2007)。彼が作った学校「ルードラ」には舞踊だけではなく、剣道や演劇の授業もあったと。金森 ◆恩師ベジャールは60年代にはベルギーで「ムードラ」という学校を作っていて、そこでも恩師は「20世紀はバレエの時代」と明言していた。身体を使って演じるものが、世界人類の価値になり得るという思想がそこにはあった。だから世界中のインドやアメリカの舞踊が学べたり、日本の身体性として剣道の授業があったり、総合的に身体芸術にまつわるクラスがある学校。彼がスイス・ローザンヌでカンパニーを作った時に、「ルードラ」という学校を立ち上げた。世界中をツアーして、日本にすごく興味を持ち、坂東玉三郎さんと公演したり、日本へのシンパシーもあった方。なぜ「剣道」を選んだのかは聞いたことがないけれど、最初の2年間はほぼ毎日剣道の稽古をした。久志田 ◆バレエ・ダンスは動き・音楽によって構成され、言語が無いからどこの国で上演されても伝わるものがある。言語で表現しないものを作る時の基礎に、言葉を用いる演劇や、異なるジャンルがあることで深まるものがあるように思うが。金森 ◆歴史的に人間の営みとしての芸術文化の発端に、舞踊があるという認識が、あらゆる舞踊を信仰する人たちの理念としてある。だから、まず言葉を発したり、歌を唄いだしたりする前に、身体を動かすということがあり、そこにはスピリチュアル性を含んでいたり、シャーマニズムとも密接だったりする。久志田 ◆金森さんはアングラ演劇にも影響を受けている。早稲田小劇場を経て、現在は富山県利賀村を拠点に活動する鈴木忠志さん(1939~)もその一人。Noismの面白さには、アングラ演劇に通じる金森さんの演出のケレン味もある。あっと驚かされたり、想像を遙かに超えるものを毎回見せられる。金森 ◆Noismを立ち上げた頃、04年のシンポジウムで鈴木忠志さんと初めてお会いしました。その後、鈴木さんの芝居を観に行った時にドカーンと衝撃を受けた。その衝撃が何かというと、「身体性」。それまで私が思っていた演劇ではなく、トレーニングを伴う身体性を現出させている人たちがいる。それが、「鈴木メソッド」(スズキ・トレーニング・メソッド)。独自のメソッドに基づいて役者たちが毎日トレーニングしている。久志田 ◆鈴木忠志さんの舞台って発声や身のこなしなど、非常に特徴的ですよね。金森 ◆その役者たちの身体を見た時に、これは舞踊家に通じるものがあると思った。久志田 ◆鈴木忠志さんの劇団「SCOT(Suzuki Company of Toga)」は富山県利賀村で共同生活を送り、行政と連携しつつ、長く活動している。集団を維持してゆくうえで影響を受けたことは?金森 ◆それはもちろん凄いと思うけれど、鈴木さんからの影響は芸術的な部分ですね。行政との関係もあるけれど、それは鈴木さんや他の方もやられているし、欧州の劇場のことも色々参考にしているし。もっと言うと、それを参考には出来ないですよ。これは新潟で18年やってきて思うことなんですけど、やはり各地色んな自治体がありますよね。でも「地方行政」という言葉で括れないですよ。新潟には新潟の行政・劇場文化があって、その中でどう舞踊の芸術家として、その劇場文化の一翼を担っていくかを考えざるを得ない。「静岡県舞台芸術センター」(鈴木忠志さんが芸術総監督を務めていた)が凄いからといって「静岡みたいにするべきだ」みたいに言っていたら、ここまで続かなかった。もちろん共通する部分はありますが、大事なのは新潟の、このりゅーとぴあの劇場専属舞踊団としてどうするか、ってことをずっと思ってますね。久志田 ◆初めて新潟に来られたのは、りゅーとぴあ開館5周年記念ミュージカル『家なき子』に出演された時?金森 ◆実は15歳くらいの時に、新潟のバレエ教室の発表会に出てるんです。所属していたバレエ教室系列の先生が教えてらっしゃるところに、男の子が必要だからということで、1回来てるけど、ほとんど記憶がない。久志田 ◆新潟は城下町ではなく、湊町。城という中心がなく、外来の文化が流入し、踊りも盛んと言われる。新潟だから出来たこと、やりやすいことは?金森 ◆新潟の風土・歴史とすごく密接に関わっていたわけではないけれど、戦前戦後のバレエの歴史で言うと、日本から海外ツアーに行く時って新潟港から出発するんですね。新潟から船で大陸へ渡って、シベリア経由でモスクワへ。当時の日本の海外へのアクセスを考えたら、新潟はすごく重要な場所。だから、今は湊町としての新潟という感覚が失われているような気がして、すごく残念なんです。もっと国際的な視点で、東京ではなく大陸の方を見ている自治体として、開かれた街であってほしいし、そのルーツがあるはずなのに。もっと大陸の方をみたほうが新潟の可能性や力が活きるような気がしますね。久志田 ◆「裏日本」という言葉があるけれど、地図をひっくり返せば日本海側こそがアジアへの玄関口。新潟にはNoismがあって、ここから世界に挑んでいくぞという意味で、すごく「新潟的」な存在と思うし、今後その存在はもっと重要になるのでは。金森 ◆対岸の国々との関係が重要なので、そこがもうちょっと良くなると、大陸を見る眼がもっとポジティブになるような気がする。
久志田 ◆しみじみ思うのは、Noismを観ることで、観客もまた鍛えられているということ。舞踊を観る眼や、何が面白いのかとか。私も観始めた頃は眠くなったり、何を面白がればよいのかわからなかったり。それでも観続けることで、今回はメンバーの誰それの動きが良かったねとか、作品の原典を追ってみようとか、観客の眼が養われてゆく。観客の変化を感じますか?金森 ◆それは大きく感じますね。「アフタートーク」で終演後にお客様に質問をいただく機会がありますが、設立当初は「好きな食べ物なんですか?」「この後どこか食べに行くんですか?」とか、ちょっとミーハーな質問がちらほらありました。それが活動を続ける内に、作っているこちら側が刺激を受けるような質問が飛んでくるようにどんどん変わった。若い観客も増えてきましたし。設立当初は新潟の中学・高校のダンス部の子もあんまり来ている印象が無かったんですけど、ある時から先輩が行ったから後輩も来たりとか。先生に連れられてとか。今、公演期間には必ず「今日のこの回は学生が来るんだね」と、客席が学生で埋まっている日もあります。先日お話を伺ったお客さんは、子育ての手が離れてNoismを観に来るようになり、その後結婚した娘さんと一緒に、更に娘さんの子どもも未就学児じゃなくなったから、三世代で観に来ているそうです。そういうことが実現していると伺うと、やっぱり18年という月日が為せる業だと思いますね。久志田 ◆スタッフの方に聞きましたが、Noismは男性ひとり客が多いと。私もそのひとりですが。ひとりでバレエとかダンスって抵抗がありますよね。金森 ◆女性の方が圧倒的に多いですし。久志田 ◆要因って何でしょう?金森 ◆そうですねぇ。演劇、特にアングラ的なものって男性客が圧倒的に多い。その系譜を、作風として継いでいる部分もあって。だから男性がよく来るのかなと思いますね。久志田 ◆華やかなだけではない。金森 ◆悲恋物語だけではない。久志田 ◆むしろ人間の暗いところであったり。金森 ◆基本暗いですね。久志田 ◆若い頃はNoismを「大人の世界だな」とか、女性ダンサーの身体や動きを「エロチックだなぁ」と思って観ていた。金森 ◆かつてのバレエってそうですよ。客席はほとんど男性ですから。大体パトロン、若い女性が好きな男たち。あの子が良い、この子が良いとか。久志田 ◆Noismの特徴として、ダンサーの男女の区別が無い作品がある。チュチュは付けず、タイツだけを纏って身体を掘り下げていく。それが観客にとっての見易さ、受け止めやすさであったりするのか、と。金森 ◆それも表裏ですね。ジェンダーレスな表現があまり好きじゃない方もいる。これも、ある種の問題提起。「この身体とは何ぞや」「性別とは何ぞや」と問いかけようと思うと、必然的にそういうポーズは出てきますね。恩師ベジャールやそのバレエ団の多くの方が同性愛者だったし、そうであることによってしか出てこない男性の色気みたいなものがあって、それも身体・舞踊のエロスの表現のひとつ。私の第二の恩師イリ・キリアン(1947~)はヘテロセクシュアルですが、本当に男性が女性を引き立てる舞台だし。こと舞踊でも性差について多様な表現がある。久志田 ◆少し関連する質問として。『畦道にて~8つの小品』(20年)という新潟市洋舞踊協会の若者たちに向けて金森さんが振り付けた作品があります。日頃教えられたり、親しんでいるバレエの世界観とは違う金森さんの作品や、演出から彼女・彼らも刺激を受けたと思いますが。金森 ◆最初は、日頃先生たちから「こうしなさい」って言われていることを崩すことが不安だし、先生たちも心配でクリエイションを見ているんです。でも、それは回を重ねるごとに踊っている子も先生たちもどんどん楽しそうになってきて、最終的にはすごく喜んでくれました。でも、最初はやっぱり怖いんですよ。「正しい」と思っていることと違うことが提示された時、人はまず避けるじゃないですか。でも、それを受け入れて新しい価値観に気づいた時に、世界が広がる。私自身、その一助となればと思って、子どもたちに向けて作品を作った。それが、彼らにとって新しい舞踊や人生への興味へつながっていればいいなと思っています。久志田 ◆作品に感動したのはもちろん、新潟の若者たちへ向けて創作され、きっとこの子たちの中に何かが残って、次につながるだろうという複合的な感動があった。金森 ◆それが芸術にしか出来ないことなんです。こういう活動を続けていると、「来場者が何人だった」とか「チケット収入がいくらだった」とか、どうしても数字しか評価基準がない。でも、実際にはそこでご覧いただいた方、あるいは出演した子たちが、その後どういう人生を歩んで行き、どこでそれが価値となって社会に波及するかは、なかなか目には見えないし、誰もその計算法は分からない。だから、ないがしろにされがちですけど、絶対的にそこには大事なものがあると、我々は信じています。久志田 ◆『カルメン』モスクワ公演の際、案内をしてくれた大学勤務の若い女性が、急遽舞台を観ることになった。歌舞伎や日本文化を研究している人でしたが、観終えると明らかに表情が変わっていた。上気して、「井関佐和子さんってすごいですね。足先まで動きがフィジカルで。こんなすごいものを初めて観た」と。例え一人の中で起こった変化だとしても、それがつながっていけば大きく社会が変わってゆく。それが本当の意味での日本文化の発信だと思う。
久志田 ◆井関佐和子さんの存在について。金森 ◆設立当初からいるのはもう佐和子だけ。「Noismとは何ぞや」と問うなら、金森穣にではなくて、井関佐和子に聞いた方が早いです。彼女は舞踊家として、日本で初めて出来た唯一の劇場専属舞踊団で生きているし、我々が構想しているトレーニングフォームをずっと途切れなく体験している。20代から、今40代になりましたけれど、ずっとそれを彼女の身体を通して実体験して来た人だから。久志田 ◆観客にとっても井関さんはミューズであり、感動を与えてくれる存在。それに加えて、Noismメンバーも入れ替わりこそあれ、何か共通して流れているものがある。また、ある時期から海外からのメンバーが増えた。その頃からの変化はありますか?金森 ◆今はコロナの影響でなかなか海外からのメンバーを受け入れられず、だいぶ減りましたが。日本でずっと活動してきた若き舞踊家たちは、Noismに来ると、日々の稽古場とかトレーニングの中で、どうしても井の中の蛙になりがち。私自身も欧州に出た時、まず衝撃を受けたのが、コミュニケーションの仕方ですね。向こうだと、何か言わなければ意見を持っていないことと見なされる。日本だと、意見を言わなくても「何かあるけど言わないんじゃないかな」って。でもヨーロッパでみんなが喋っている時に発言しないと、それは存在していないことと同じ。外国人と一緒に活動すると、彼らはすごく自己主張するんですね。言われたことをまずするんじゃなくって、自分から能動的に発信する。そこの部分で、日本人である彼らが知らない文化、みたいなものに直に触れる機会にはなりました。とはいえ、海外から来た子たちも、日本人の(言葉で)発さないけれど内側で持ってるんだよということに、私がヨーロッパで衝撃を受けたように、彼らもそこに衝撃を受けた。久志田 ◆双方向に衝撃を。金森 ◆彼らにとっての刺激にならないのであれば、彼らがNoismにいる必要は無いわけだし。だから、どっちが良いとかではなく、それは異文化交流のマストな条件。久志田 ◆楽屋で金森さんと話していた時に、「ダンサーはどちらかというと身体で表現する。言葉で表現するより、身体が先に立つ人が多い」と。でも、金森さんは言語化することに注力されていますよね。金森 ◆注力というか、必要に迫られている。若い頃から振付をしてきたんで、相手に自分の振付の意図を言語化して伝えなければいけなくて。あるいは日本に帰って来て、こういう活動をしていれば、行政の担当の方、劇場の職員の方、舞踊の専門家では無い方たちに、どういう風な思いで活動しているのか、何でこれが必要なのかということを、言語化しないといけない。ただ「必要です」と言うだけでは理解はしていただけない。久志田 ◆相手にわかりよく。金森 ◆相手の言語で話す。久志田 ◆主観ですがNoismの舞台を観ていると、ダレないんですね。舞台転換の間で飽きるとか、音楽の切れ間がなく舞台が展開していったり。演出・構成がすごい。金森 ◆最初の頃、寝てたんでしょ。(笑)久志田 ◆観始めた頃は分からなかったけれど、繰り返し観るうちに気付けたんです。金森さんは子どもの頃から、舞台・演劇を観る環境があったんですか?金森 ◆無いですね。バレエやダンスはやっていましたが、あんまり観に行った経験は無いですね。ヨーロッパに出てからですね。久志田 ◆観る側の生理が分っていると思うけれど、それは実演者としての感覚から?金森 ◆19歳から欧州でプロとして踊っていましたが、その前18歳の頃から作品は作り始めたし、プロになってからも作品を作る機会を与えられ、その中でずっと振付と実演の両輪なんですよ。20歳くらいの時ですが、舞踊団の活動は17・18時には終わるんですね。劇場専属でやっていると、その劇場に他からいっぱい公演が来るわけです。それを時間があったり、ツアーが無い時は、基本観に行く。しかも、舞台の裏から。他にいないですよ、そうやって舞台を観る子たちは。自分は足繁く通っていて、ある時、公演を観た後に廊下で恩師キリアンと会って、「お前何してるんだ?」「いや(舞台を)観に来たんだ」って言ったら、「こんなもんを観てるのか?」って。「こんなもん観てるのかって、勉強だからしょうがないじゃないか」と思ったけど。でも「こんなもん」って彼が言ったのは、彼らは小さい頃からいっぱい舞台を観てきているから。そういう文化の中で育ってきた。色々観てきた果てに、自分がこれだというものしか観ないのは分かるけど、私は小さい頃からそういう文化が無い所で育っていたから、とりあえず観ないと、教養が追い付かない。周りの人たちは皆舞台に親しんで育ってきたから、当たり前のように「これは知ってる」「これは観たことがある」って。そういう人たちと一緒に活動し、なおかつ「自分はこれをこう素晴らしいと感じたから、好きなんだ」と言えなければ、存在していないような扱いを受ける社会なので。教養を付ける為に、本も読むは舞台も観るは、必死でしたね。久志田 ◆西洋の劇場文化が下地にある人との差を埋めていく過程。金森 ◆能動的に踊らなければオーディションなんか受からないんですよ。身体は使えるんですけど、でもどうしてそう使えるのか、どういうトレーニングをしてきたのか、その下地・歴史、基礎みたいなものが無いんですね。だから、欧州で一から能動的に学んできたし、日本に帰ってきてからも調べて、学習してきました。久志田 ◆Noismの存在もまた、メンバーに限らず、市民・観客にとっても教養を高めたり、背景を深堀りしてゆく入り口になれば。金森 ◆そうであってほしいなぁと思いますね。
(休憩が明けて)金森 ◆皆さん寝てませんか?久志田 ◆眠かったら言ってくださいね。後半はNoismの未来の話をしていきます。昨年11月にNoismの新体制が発表されました。活動期間は22年9月からの5年間。大きく変わった点として、「国際活動部門」と「地域活動部門」が設けられ、「国際活動部門」芸術監督に井関佐和子さん、「地域活動部門」芸術監督に山田勇気さんが就任。金森さんは芸術総監督に就かれます。金森 ◆今Noismには「Noism0」「Noism1」「Noism2」という三つの集団があって、「Noism0」は山田、井関、私、40代の熟練の舞踊家が所属。「Noism1」には海外の舞踊家含め大体10人くらいで構成されて、カンパニーの核となっている。0も1の芸術的な面、例えばどういうゲストを振付家として招くかとか、海外にどういう作品を持っていくかとか、国際的な活動の部分は井関が担う。そして市民向けのオープンクラスとか、研修生カンパニーである「Noism2」が、市内のイベントに出演するとか、行政と打ち合わせを重ねてNoismをどうやったら地域に発信していけるかということを担当してもらうのが山田。そのうえで私は、ちょっと俯瞰的な所から、彼らの相談を受けたりとか、あるいは3人で知恵を絞ってアイディアを出したりもしますが、基本的には彼らに任せて行こうというのが、次の体制です。久志田 ◆山田勇気さんはNoism1のメンバーを経て、一旦離れてから、Noism2のリハーサル監督などを務めてきた方。金森 ◆最初は「Noism2」の振付家として戻ってきて。その後ずっと稽古監督として、次に地域活動部門芸術監督に。久志田 ◆「Noism2」の特徴として、研修生カンパニーであることに加え、地域の学校に出かけて公演したりとか、「水と土の芸術祭」のようなイベントの中で、例えば樽砧と共演したりとか。あまり舞踊を観ない人からも「Noism2なら観たことがある」という声を聞いた。その活動を支えてきたのが山田勇気さん。そして、井関佐和子さんといえば、Noismの「看板」と言っていいと思いますが、その方が世界に向けた発信をしていく要となる。この体制を聞いた時、すごく素敵だなと思いました。金森 ◆やっぱり、すごく期待していますね。ただ、二人もまだ現役で舞台に立っていくでしょうから、丸投げは出来ないでしょうし、私自身が色々担ってきたことも多過ぎるので、あまり一遍に渡すと彼らがパンクしてしまうので、徐々に徐々にと。久志田 ◆「Noism0」には、遠方でも公演を実現できる機動性がありますよね。金森 ◆機動性があるとはいえ、3人が結構重要なポジションなので、我々が公演で不在となると、その時誰がNoism本体を統括するのかということで、「Noism1」稽古監督にフランス人のジョフォア・ポプラヴスキーを付け、浅海侑加を「Noism2」稽古監督に付けたり、もし我々がツアーに行っても、Noismが回るように体制は組んでいます。久志田 ◆最近だと、「Noism0」が富山県利賀村で公演をしたり、京都ロームシアターで雅楽の生演奏で舞われたり。遠方まで出かけて公演を観る者としては、新潟ではなかなか観られない、思いがけないものを見せてくれる存在として、その舞台の凄さ・面白さを感じています。金森 ◆それこそ10人のメンバーを連れて遠征して作品を作るという希望が先方になかったとして、「Noism0」の3人でならという意味での機動力はあるかもしれないですね。
久志田 ◆金森さんが提唱している「劇場文化100年構想」について。これは『劇的舞踊 カルメン』初演時の14年に、舞踊評論家・乗越たかおさんのインタビューに金森さんが答えたものです。「つまり三世代に渡って劇場文化を育成していくという構想です。私がアーティストとして全力でできるのが30年くらいだとして、その成果が次の世代に受け継がれてはじめて、文化と言えるだろうと思うんです」。これが金森さんが構想している長期構想。極端な話、金森さんが離れるようなことがあったとしても存続可能な。金森 ◆いや、あるでしょう。久志田 ◆それを衝撃をもって受け止める方もいて。金森 ◆でも、衝撃をもって受け止めちゃうと。久志田 ◆昨年の活動継続発表時に、芸術監督の任期は5年、最長10年と明記された。これは行政がNoismを組織化するに当たって。任期が明確化・明文化されたということ。発表時は不安もありましたが、このシステム自体が変わっていく可能性もあるだろうから、金森さんの言っていることが明文化されたんだなと。金森 ◆でも、今のところ体制としては「10年上限」と。10年以上活動出来ないんですね。そこに関してはこれから色々な議論の中で、変わったらいいなと思いますね。何故なら私自身18年芸術監督を務めて、ようやく築けたこと、なし得ていることがある。もちろんNoismが今までやってきたことを下地として、どなたかが10年やったとしたら、我々みたいに0からじゃないんで、そこは違うとは思いますが。それでも一人の人が長い年月をかけて見出すものもあると思う。別に長ければいいってもんじゃないですが、10年以上は無理っていうのは、いつか変わったらなとは思いますね。久志田 ◆そこは「変わる余地がある」と受け止めました。金森 ◆そうあってほしいですね。久志田 ◆最近金森さんがTwitterに書かれていましたが、「晩年」の夢として、しっかりした舞踊・舞台文化を教える学校を作りたいと。それが民営か公営なのかは分からないけれど。金森 ◆やっぱり、恩師ベジャールがそういう学校を作り、私自身がその恩恵を受けてきたんですね。亡き恩師から受け継いだものとして、私が生きている内に、何らかの「学校」を作る活動をしたい。機会があれば、ぜひ実現したいなと思っています。クラシックバレエや現代舞踊の垣根を越えて、ひとつの学校で、ありとあらゆる、それこそインドの舞踊が学べたり、国際的な身体文化を学んでいく。夢ですから大きく言いますけど、その学校に入りたい人たちが世界中からオーディションに集まる。そこで同年代の国際的に優れたアーティストたちが互いに刺激しあって。その学校が新潟にできたらと思うんですが、新潟で学んだ一流のアーティストが、卒業して母国へ帰っても、世界中のそこここで芸術監督になったり、素晴らしい芸術活動をしていて、その履歴には若い頃に新潟で学んだって書かれている。それは素晴らしいじゃないですか。もちろん新潟市民の皆さんに、具体的にNoismがあることで提供できることを考えることも大事ですが、それでもやっぱり世界的な視座、世界の文化に貢献し得る新潟市っていうヴィジョンも、私は個人的に持ち続けたいと思います。久志田 ◆そこで「新潟」という言葉が世界共通言語になって、そこに行けばNoismが築いた学校があるとなったら、ものすごく素敵なヴィジョンだと思います。金森 ◆もっと視野を狭めると、今、東京で舞台・舞踊芸術活動をアクティブにしている子たちの多くが元Noismメンバーです。元Noism=新潟で踊っていた子たちが、東京の色んな舞台に出演したり、Noismを入り口にどんどん派生していって、結構な人材を輩出している。舞踊界というニッチな範囲で見たら、新潟がすごく稀有な街になっている、その価値をどうやったら市民の皆さんと共有出来るかということは、これからの課題です。久志田 ◆ルーマニア公演の時、シビウという街に行きました。シネ・ウインドの齋藤正行代表、Noismサポーターズ事務局の越野泉さん、私など4人で。「新潟からわざわざ観に来た人がいるぞ」ということで、現地の新聞記者さんに取材を受け、それがネットニュースになりました。シビウには国際演劇祭があって、日本からも中村勘三郎や野田秀樹も参加したことがありますが、その総合芸術監督コンスタンティン・キリアックさんが来日した際のインタビューで「日本には新潟という街がある。そこにはNoismがあり、ファンがシビウまで応援に駆け付けるような街だ」と強調してくださった。金森 ◆彼は一流のプロデューサーで、Noismが公演した時も気に入ってくださって、活動理念にもすごく共鳴されて、「このカンパニーはもっと評価・認識されるべきだ」と言ってくださっていた。文化を維持・継承していくことの難しさを、当然シビウでも身をもって体験されている方なので、来日時にそう語ってくれてありがたかったです。久志田 ◆これもお金では測れないし、数値化出来ない「価値」ですね。新潟に住んでいる「Noismは知っているけれど、観に行ったことはない」という人たちにもっと知ってもらいたいし、積極的に観に来てほしいですね。「地域活動部門」も出来ますが、今後Noismがもっと新潟に染み込むような、作戦ってありますか?金森 ◆うーん、そうですね。山田に任せます(笑)。もちろん色々ありますが、私が公言して、それを山田なり井関が実現するという体制じゃなくて、山田の中にもヴィジョンが一杯あるだろうし、それを活かして欲しい。 私がもし理想的なヴィジョンを掲げるとしたら、ようやくNoismを任期付きとは言え、新潟市が文化政策として制度化したわけです。今までNoismはりゅーとぴあ内の一事業だった。それが、新潟市の文化政策と明言されたわけですから、そこは新潟市としてNoismをどうやって市の文化として発信してくか、市の担当の方たちが能動的になってくださることを望みますし。りゅーとぴあに関しても「演劇・舞踊・音楽の三部門の一事業なんだから、他とのバランスが」って言われていたところが変わったのだから、りゅーとぴあとしてNoismをどう活用していこうかという、劇場・文化行政を巻き込み、担当の方たちの知恵・経験がNoismに注がれたら、もっと出来ることが増えるんじゃないかなぁと期待しています。久志田 ◆市の体制や政治は流動的であり、為政者も変わるし、永続性は無い。その意味でも、Noismがキチンと制度化されたということは、金森さんのひとつの成果。内容には疑問もありますが、レジデンシャルカンパニーが明文化されたのはすごく大きな転換。金森 ◆そうですね、新潟市の成果だと思います。久志田 ◆それに加えて、金森さんのNoism外部の仕事も増えていますよね。「日本から発信するバレエ」という意味に於いて、東京バレエ団に振り付けている『かぐや姫』は、それになり得る作品だと思う。金森 ◆そうなってほしいですね。また第二幕を振付けますが。久志田 ◆Noismを核としつつ、ますます活動が広がっていくことで、新しい人がNoismに触れてくれるんじゃないかなぁと。金森 ◆そうですね。最終的にこれからのヴィジョンとして、Noismが劇場・行政とタッグを組んで、新潟の中でより発展・継続的に活動していく中で、必然的に世界に評価される芸術作品を生み出すという理念があるじゃないですか。「国際活動部門」芸術監督となる井関は振付をしないので、ゲスト振付家をお招きするなど色々なことを考えるでしょう。私自身は一芸術家として、色んな経験を積んで、レベルアップして、世界の人を驚かせるようなものを作れる才能をもっともっと磨いて、それをNoismに振付けて、それによってNoismが世界的に評価されるようになれば、別に私が芸術監督である必要はないんです。久志田 ◆うん、そうですね…。金森 ◆あれ、違いますか?久志田 ◆金森さん不在でもNoismが盤石に続いていければ、と思いつつ。複雑です。その意味でも、Noismは外部振付家公演があると、毎回新鮮。例えば森優貴さんや山田うんさんなど、全く金森さんと作風が違う人たちがNoismの身体を通して表現する面白さがある。我々も金森さんの作品だけを知るのではなく、こういう表現もあり、こういう振付家もいるんだなと気付く。Noismを追っていくと世界が広がり、掘り下げているつもりが、別のところにも興味が向かっている。金森 ◆舞踊の外部振付に関しては、私の作品に限らず、色んな作家の作品を観る機会であり、観る側にとっての意義もある。そして、うんさん、森さん始め国内外で精力的に活動されている芸術家も、Noismに来た時に、彼らが常にやっている活動とは違うものを体験するんです。朝から晩まで舞踊家が稽古場にいて、「Noismメソッド」で鍛え上げられたメンバーたちとクリエイションすることで、彼らにも芸術家として得るものがあって、新しい作品を生み出す原動力となるんですね。芸術家にとっての意義あるものを新潟のNoismは提供出来るということが、大事なんです。そうしないと、ただゲストを呼んで、作品が違うということだけになってしまう。久志田 ◆山田うんさんもTwitterでNoismから受けた刺激について書かれていました。金森 ◆うんさんや森さんも、どこかの劇場専属となり、独自の活動をNoismのようにしていただいて、私がそっちに行ったりとか、劇場間の交流、集団同士の交流っていうものができる未来が来ると嬉しいですね。久志田 ◆私が抱く夢ですが、例えば東京へ行けば歌舞伎座があり、兵庫には宝塚歌劇場があり、いつも何かしら公演が観られる。それくらいに、新潟へ行けば「ああNoismやってるね、じゃあちょっと寄って観てみようか」というくらいにNoismが大きくなり、このりゅーとぴあに全国から人が駆け付けてくる。それが日常の風景になったらすごいなぁと。金森 ◆そうですねぇ、でもその為にはまだまだまだ、まだまだ、階段を上がって行かないとならないですね。久志田 ◆ファンも頑張って応援して参ります。
久志田 ◆さて、ここからは質疑応答です。会場からたくさん質問が届いていますので、金森さんに問いかけていきます。「大きな問ですみません。教養を追いかけるという話にもつながりますが、文化資本の格差を埋めていく手立て、文化政策はもちろんなのですが、どうお考えですか?」金森 ◆東京を向いて、東京へ行かないと一流のものは観られないから、東京から一流のものを呼ぶ為に、劇場があるということじゃなくて、自分たちの地域で世界レベルのものに触れられる機会を増やしていかないと。人って何かに出会って衝撃を受けた時に、初めて自分の至らなさに気付くんですよね。自分が理解できる範囲のものだけに触れていて、至らなさに気付かないと、勉強しよう、教養を入れよう、とは思わないじゃないですか。私はヨーロッパに無教養で行ったから、余計に衝撃が強くて、必死になりましたよ。日々大変でしたけど。それでも、観たことが無いものに触れる機会を提供する場所として劇場を定義すると、よりいいだろうし。新潟市の全小学校は必ず一回はりゅーとぴあで舞踊を観るという授業が出来るようになったら本当にいいですね。訳も分からず劇場に来て、寝ててもいいし、全然分からないと思ってもいいけれど、その経験によって、自分たちの知らない世界に触れ、「踊り」という、観たことがない異次元のものを体験する機会を提供することで、彼らの中に新しい気付きであったり、何か興味が湧いたり。そういう大きいけれど小さなことの積み重ねでしか、教養は増やして行けないでしょうね。久志田 ◆自分の理解の範疇を超えたものに出会った時の方が、感動が生まれる。金森 ◆それを楽しめるようになる為にも、やっぱり教養が必要なんですよね。久志田 ◆それを育む場としてのりゅーとぴあ、Noismであればいいですね。次の質問です。「市民の理解を深める為に、公演の他に何か活動していることがあれば、教えてください」。金森 ◆市民向けの体験、「舞踊とは何ぞや」ということを、舞踊経験の無い方たちに受けていただくクラスをやったり、市内のイベントに「Noism2」が出ていって公演したり、市内の中で色々Noismを目にしたりとか。そういう機会を今までもやっていますが、それをもっと、我々の想像がつかないような所に飛躍発展させていく為に、行政の専門家の知恵とか経験値を借りられたら、嬉しいなと思います。JRの電車のサイネージとかもそうですね。久志田 ◆この間、本業の会社でも「電車で観たことがある」って言われましたね。金森 ◆そういう、目に触れる機会によって「あ、こういうのもあるんだ」って気付いていただきたいですね。久志田 ◆間口は広く。次の質問です。「Noismのメソッドというのは、ベジャールやキリアンのメソッドを、ここを変えたり、こうしたらもっとよいのにと思って開発されたものなのですか? コンテンポラリーにメソッドがあるか良く分からず、クラシックバレエよりはNoismとベジャールが近く、その中での違いということなのか、バレエ全体の中でのメソッドなのかということを知りたいです」金森 ◆ベジャールもキリアンも、独自の訓練法というのは作ってないんです。むしろ振付の中で、新しい身体表現、彼らのスタイルを確立しましたが、それをトレーニングの方法にしていないんですね。それが20世紀のいわゆるコンテンポラリーダンスの振付家たちの傾向。そこに問題意識を持って、やっているのが金森穣。だから、私はもちろん新しい表現とか、恩師から受け継いだものを次へ継承したいとか、思いはありますが、じゃあ舞踊家として両マスターから学んだ、身体に入っているものを、どういう方法論で落とし込めば鍛錬として残して行けるか、活かしていけるかっていうのを考えていて。ベジャールさんは亡くなってしまいましたが、どこかでNoismを観て「これ、なんか俺の振付っぽいじゃないか」って言ってそうな気がする。恩師の振付をトレーニングにしようと思ってはいないですけど、身体に入っているものを方法論化すれば、必然的に出てくる。それに、キリアンは生きていますから、いつか私の作品を観たら、何処にキリアンのエッセンスが入っているかは、本人が一番よく分かると思います。久志田 ◆東京バレエ団『かぐや姫』東京公演では、最初にベジャールさんの『中国の不思議な役人』、次にキリアンさんの『ドリーム・タイム』があって、最後に『かぐや姫』が上演された。金森さんの恩師の作品を観た後で、金森作品を観ることで、共通性とか違いが良く分かる、とても面白いプログラムでした。金森 ◆キリアンは1・2・3という3部制をカンパニーでやっていました。1があって、2が若いメンバー。そして3っていうのが40台後半のメンバーなんです。それが、私がキリアンに学んだ後に、財政とか色々な理由で閉じてしまった。その時キリアンがすごく悲しんだということを人づてに聞いて、いつか私がそういう機会に恵まれたら、やらなければいけないことだと思いました。自分自身、そして佐和子・勇気も40代を迎えて、今「Noism0」という名称で実現しました。変質していく舞踊家の人生の道筋を、年を重ねたら踊れないのではなく、検証的に、もっと円熟味を増していくものとして残していくことは、キリアンの思想のみならず、この国の伝統に根ざしていること。伝統芸能は齢を重ねて成熟してゆく。だから、恩師の系譜を私なりに継いでいると自負しています。久志田 ◆この方からはもうひとつ質問があります。「日本のクラシックのお稽古の子たちは、振付やアイディアを出せないとよく言われますが、18歳から振付されていた源はどこにあるとお考えですか?」金森 ◆ちょっと意味が変わりますが、自分の中から何かを外に曝露する、表現するということが、この国の教育ではなかなか子どもの内から奨励されない。例えば、今中学・高校でダンスが必修科目となりました。現場の声は分からないんですが、想像するに、ダンスといって動いてみた、踊ってみただけなのでは。自分の内側から発する言いたいことや、それが見つかった時に、どういう風にそれをコミュニケーションとして表現したらいいかということを、本来であれば学ぶべきだし、もっと言うとアウトプットする前にインプットする必要があるんですね。だから、「鑑賞」するべきなんです。これはNoismを観に来てほしいから言っているのではなくて、もっと鑑賞体験を授業にする。誰か他者がコミュニケーションや、非言語の表現をしているものを観て、自分が何を感じたか考える。それもやっぱり鍛錬だから、そういうことを繰り返していくと、受容のされ方が深まっていき、そうして膨らんだものをどうアウトプットするかという時に、次のステップへ行ける。そこまで考えた上で教育現場に舞踊が普及していないことを考えると、バレエをずっとお稽古している子ですら、「自分で何か作ってみなさい」とか「表現してみなさい」とか言われても、なかなか難しいでしょう。久志田 ◆金森さんがそれを出来たのは、海外体験故?金森 ◆そうですね、17歳でヨーロッパに出て、それまでの自分が、普通だと思ってたことが、もう全部ぶち壊されたんです。そして、貪るように色んなものを吸収した。そうすると自分の中で膨らんでいくんですよ。そして何かの形で吐き出さずにいられない。そして欧州では、何かを吐き出さないとそこに存在していることにならない。学校で言えば、皆すごく面白い作品を作るわけですよ。で、明らかにベジャールが「今あの人に目をかけてるんだな」というのが、露骨に見える。「僕はこれが言いたいんだ」とか「これが美しいと思う」ということを表現しないと、存在意義が無いと言われる環境だったので、必要に迫られて叫んだ振付が、どうやら面白く受け止められたようで、そこからずっと続けているという感じです。久志田 ◆金森さんの言葉を聞いて思い出したのが、昨年シネ・ウインドでも上映した『リル・バック ストリートから世界へ』というドキュメンタリー。メンフィスでジューキンというストリートダンスをしていたアフリカ系アメリカ人が主人公です。彼はストリートダンスから始まって、クラシックバレエも学びたくなる。メンフィスは決して治安も良くなく、ギャングもいたり。その中で踊りをやっていないと、人を殺めかねない環境から抜け出したいという思いから、その青年はやっている。メンフィスには公立のバレエ学校があり、そこでバレエやクラシック音楽、映像作品に出会って、その子が世界的なダンサーになってゆく姿を描いたドキュメンタリー。それにも通じますが、踊り手側にハングリーなものがないと、自分から発信するものが出てこないのかな、と。金森 ◆それもそうだし、その環境が生むこともあって。だから周り全部ひっくるめてなんですけど、単純に「個」の問題ではなくて、そのバレエ教室の問題もあって、進路の問題、国の問題まで波及していく。久志田 ◆大きな話、文化からこの「日本」という国のあり方にまでいく話になりますね。では次の質問へ。「百年構想ということですが、なぜ百年かかると考えられているのでしょうか?」。金森 ◆日本に舞踊が入ってから120年くらい経って、今Noismが始まるとして、我々がやっていることが支持されて、それが本当にこの国の文化として根付くまでには、百年はかかるでしょ、ということです。同時に、一人の人間が社会に対して具体的に貢献出来る年数が大体30年ぐらいとすると、百年で三世代。おじいちゃん・おばあちゃん、その息子、そして孫がいて、皆が知っていて、大切だよねと思う文化になるまでに、大体百年のターンが必要かなという感じですね。 日本でいうと、今大体十年が一世代というか、生活環境が激変するじゃないですか。すごく消費されて変化していく中で、敢えて百年という「長くない?」という年数を掲げ、時代に逆らうようなことを打ち出していかなければ、この劇場という小屋は地域社会の中で存在意義を失うよ、という思いなんですね。久志田 ◆10年や5年なんて目先のことじゃなく、もっと遠い未来を見据えるからこそ見えるものがある。金森 ◆そうですね。久志田 ◆では、次です。「お話の中でも触れていましたが、なぜここまで専属劇団といった文化が、他の地方都市部においても根付かずにいるのでしょうか?」関連して「新潟という場をもって実現、残していけるものはどんなものでしょうか?」金森 ◆新潟に残していけるのは、Noismに代表される舞踊文化ですよね。劇場専属の集団がいるという。日本の歴史上無いんですよ。久志田 ◆専属舞踊団が。金森 ◆18年前に、歴史上無いものを新潟で始めたんですよ。凄いことのはずなんですよね。久志田 ◆もっと凄いことだと皆に気付いてもらいたい。金森 ◆日本で専属舞踊団が出来たことは、本当に凄いことだけど、私が凄いとかじゃなく、私はたまたまそこに居合わせたから前例となるだけ。新潟という場所が持つ、ある種の「場の力」があって、成しえたことだから。それは、色んな人がその瞬間、その場所にいたからこそ。後世の人も、同じようにそれを受け継いで、さらに飛躍・発展させていくことが大事なんじゃないかなぁ。久志田 ◆「Noismが設立されたのは奇跡的」と言われますが、「奇跡」といって思考停止してはいけないというか。金森 ◆そうですね。だから、Noismが設立される為の下地は、そもそもに新潟にあって、系譜があって、そういう人たちがその系譜の中でその時新潟に居合わせたから始まったことかもしれない。それはその人たちにとっての財産であると同時に、その人たちがいなくなったら価値を失うものであってはいけないんですよ。それぐらい大きなものが始まったという風に思っていただかないと、「金森穣がやいやい言って、何となく篠田(昭前市長)さんに認めてもらって、Noismは始まった。金森穣や篠田さんがやったもの」ということではなくて、新潟で2004年にそういうことが起きた。それを、どう残していくか、その為に頑張っている。久志田 ◆それも「百年構想」のスパンだと見えやすいですよね。2004年にNoismが設立されたのは、バレエ・演劇史の中にも残る、歴史的なことであったと、後世の人からは見られる。金森 ◆そうですね。久志田 ◆では次へ。「Noismの起こりは? 先ほどダンス映像が見えた時に、ノイズ・騒音のような音楽が聴こえました。それと関係があるのでしょうか?」金森 ◆「No-ism」、無主義という意味がまずありまして、そこに「ノイズ」も含まれ、更に能、「お能イズム」も含まれる。この3つが合わさってNoism。だから「金森カンパニー」なんて変な名前付けなくて良かったなぁ、と。(笑) Noismなら誰でも出来るじゃないですか、No-ismなんだから。久志田 ◆Noismのカッコ良さって、現代音楽だけでなく、バレエ・クラシック音楽の古典だったり、作品によっては中島みゆきが使われたりする点にもある。金森 ◆本当に無主義なんで。あえて、主義と呼ばれるような「何かこれだけは」ということがあるとしたら、それはトレーニングですね。共通の身体訓練をした集団が、無主義で踊っている、色んな表現をやっているということですね。久志田 ◆基礎があるから、どれだけ作品の表層・振付が変わっても、残るものがある。金森 ◆だって歌舞伎や宝塚が残っているのは、身体的な様式美があるからですよ。その様式美を無くして、作品ごとに全然身体が違っていたりしたら、残らないですよ。久志田 ◆もうひとつ、「ダンス、サークルの起こりは? ダンスの時に輪ができます。よく自然に輪ができます。石器時代のストーンサークルと関係ないでしょうか?」金森 ◆実は、人と人が向き合うことのエネルギーって計り知れないんですね。それはアクリル板一枚挟んだだけで、すごく失われてしまうんですね。それを拡大して言うと、観客が舞台を観ている時、舞台に立つ者と対峙していると、ものすごく上質なエネルギーが生じるんですね。それを古代から人間は判っていて、感覚として円になった時に、その中央に生まれるエネルギーみたいなものを、理屈じゃなく感じていたはずなんです。そういう広い意味で感じるエネルギーみたいなものを、舞台上から我々は観客に届けなければいけない、劇場に来て「あっ、いる!」っていう強烈なエネルギーを観客が感じるから、客席も、身体を意識しつつ観るんじゃないかな。ダラーっとして観られない。それくらいの作用を劇場が客席に届けることによって、そのサークルから始まった人間の身体に古くからあるものが、現代に輝く。それが、劇場の役割であると思っていて、その為にトレーニングが必要なんですよ。相当にトレーニングされた身体じゃないと、その磁場は生み出せない。久志田 ◆本当に観客もNoismを観る時は前のめりになって、汗をかいて、観終えると、すっごく疲れるんです。この聞き役を務めるにあたって、過去のNoismの舞台を映像で観ましたが、映像だとまったく集中出来ない。劇場・映画館へ出かける、他の人と空間を共有する時の圧倒的な質量や、観る側も傍観者でいられないと気付けることもまた劇場の醍醐味だと思います。金森 ◆緊張感の問題だと思うんですね。これだけ弛緩した状態で日常を過ごせるようになると、なかなか緊張感を感じる機会ってない。あらゆる芸術には、それを観、体験している人にガッとスイッチを入れるものがあるんですよ。特に舞台芸術は同じ時間・空間を共有しますから。舞台上にある身体がちょっと弛緩したり、坐っている身体が弱かったりすると、もう観客は他所を観ちゃうし、実力が見えてしまうの。本当にシビアだからこそトレーニングは大切。久志田 ◆では最後の質問、同じ方から3つ来ています。「日本は欧米よりも、芸術的環境など、レベルがいつまでも低いのは何故だと思いますか?」 どうなんでしょうねぇ? 金森 ◆そうですねぇ。うーん。教育? 今目の前の教育とかじゃなくて、長い歴史の中で、第二次世界大戦があり、色んな国の変遷の中で、辿り着いた果てがこの状況ですから、未来のことを考えたら、何とかしていかないといけないし、本当に教育からだと思いますね。久志田 ◆何かを人に発信する為の教育とか、その自分の思いを伝えるとか。金森 ◆芸術性って作る側もそうだけど、観る側もまた作る側を育てるわけですから。それを行政、政治家、経済界などありとあらゆる社会を構成する人たちが、芸術的・文化的なものの価値を、理屈や、金になるからとかじゃなくて、当たり前に大切だよねと実感出来る社会を作らなければ、なかなか厳しい。久志田 ◆次行きます。「Noismに足りないものは何ですか?」金森 ◆足りないもの…。人。久志田 ◆それはスタッフ・ダンサーに限らず。金森 ◆全部ですね。やっぱりもっとマンパワーが必要ですね。久志田 ◆お金もっと欲しいですねぇ。金森 ◆(笑)久志田 ◆これも気になる質問ですね。「Noismのダンサーに求めるものは何ですか?」金森 ◆これは難しくて、もっとこういう風にあってほしいなぁという希望はあるんです。求めるものというと、その身体性とか。さっき楽屋でも話しましたが、私が用意した環境をただ受け止めるのではなくて、その中で如何に自分で目覚めていくか。もっともっと求めて欲しい。久志田 ◆貪欲に。金森 ◆もっともっと可能性があるんだし、彼ら自身が、夢を、野心を、憧れを、希望を持って、もっともっともっと彼らで考えて欲しいなぁ。久志田 ◆例えば金森さんがこういうトークをやる時に、Noismメンバーには「絶対に観に来なさい」ではなく、「興味があったら来て」という感じなんですよね。金森 ◆そうそう。今は稽古中だから、自分の興味の為に読んだり観たりしているんなら構わないけど、もっともっと色々なことに貪欲になって欲しいなぁ。久志田 ◆面白がって、食らいついて来て欲しいと。金森 ◆そう。そういう子がいないんですよね。昔はもうちょっといました。私も若かったし、その頃はは年齢が近い集団だったので。今、若い子たちが増えてくると、逆に遠慮しちゃうかなと思いますけど、その辺の貪欲さ、もっと自分で掴みに行く意志が欲しいなぁと思いますね。久志田 ◆金森さんもNoismメンバーもある意味「貪欲」に文化を築き、根付かせる為に頑張っています。私たち観る側もまた「貪欲」になって、食らいつくだけの価値がNoismにはあると思います。それぐらい価値あるものが新潟にはあって、お手軽な値段で、りゅーとぴあで観られるんだから、観ないことはないだろうと。折角だから時間を確保して、どんなものだろうと確かめるだけでも価値があるし、そこから何かが開けていくかもしれない。ということで、丁度時間となりました。金森さん、最後に何かございますか?金森 ◆Noismをご存知いただいている方は、新しい体制が今年9月から始まりますし、また観たことが無い方はこの機会に、一度観に来ていただければ嬉しいです。久志田 ◆7月には鼓童との公演もありますね。金森 ◆そうですね。鼓童とのコラボレーションが実現しますので、この機会にぜひご覧ください。久志田 ◆では以上で本日の講義を終わります。金森さん、そしてご来場の皆様、有難うございました。
(久志田 渉)