「SCOT SUMMER SEASON 2024」、新利賀山房にて『めまい ~死者の中から』初日を愉しむ♪

 2024年8月24日(土)の富山は前日ほどではないものの酷暑の予報。更に午後には雷雨の可能性も高いとのこと。穏やかな天気となることを願って、朝早く新潟を車で出発して、利賀芸術公園を目指しました。

 この日、車のナビもスマホのgoogle先生も富山ICからの利賀入りを推していたため、それに従いましたが、待っていたのはつづら折の狭い狭い山道で、それこそ生きた心地がしないウイリアム・フリードキン『恐怖の報酬』(1977)のようなドライヴ。ちょっと大袈裟?いや、マジで。ホントのホント。
 「えっ?前はそうでもなかったんだけどな…」以前に来たときには砺波ICから利賀に入るコース(国道359→国道471→県道229)だったのですが、そちらの方が運転してて、格段に楽なので、ルートを思案中の方には、私、迷わずそちらお勧めします。

 でも、そのような思いをしてまでも観たかった、そして観てよかったのが、金森さん演出振付の新作『めまい ~死者の中から』でした。

 開演時間は14時。受付開始はその1時間前でしたが、入場整理番号は既に電話による観劇予約の順番で割り振られていますから、示された整列開始時間までに受付を済ませて会場前に並べばよい訳です。

 今回、その会場は新利賀山房。金森さんは「狂気の生まれる場」と書いていますが、まさしく「禍々しい」と言ってよいような、圧倒的な「場」の力を宿す建物でした。外観は合掌造りの所謂「和テイスト」そのものですが、中はガラリとその雰囲気を異にします。凹凸があり陰影に富む表情豊かな壁の手前、横長に広がる空間(アクティング・エリア)。そこに敢えて不可視の領域を作り出さんとでもするかのように突き刺さる角ばった黒い2本の柱の存在感。そして照明に(逆に)浮かび上がるかのような闇。のし掛かかってくるその威容に観客は一瞬にして飲み込まれてしまわざるを得ません。

 その威容に一歩も引けを取らない濃密な舞踊を私たちは目撃したのでした。それはまさにその「場」だからこそ生まれた圧巻の作品だったと言えるでしょう。

 金森さんは「演出ノート」に、今作(そのタイトルも途中から『めまい』ではなく、『めまい ~死者の中から』に変更されています。)が、あくまでもボアロー=ナルスジャックの原作『死者の中から』にインスピレーションを得た制作であると書いていて、ヒッチコックの映画『めまい』に関する言及は使用音楽について見出されるのみと、極めて限定的なものでしかありません。「女優(井関さん)」と「探偵(糸川さん)」をめぐる展開に関しても下敷きにされたのがどちらかは明らかでしょう。

 では、こう考えてみるのはどうでしょうか。『死者の中から』からインスピレーションを得て作品を作った者がふたりいて、私たちはふたりによるふたつの作品を愉しむ豊かさを手にしている、と。

 今回の井関さんも、いつも通り、冒頭からまったく見事な存在感を示しており、目は釘付けにされるでしょう。その点ではヒッチコック映画のキム・ノヴァクも同様です。違うのは、監督と演出振付家からふたりへの「愛」が感じられるかどうかです。その点で、映画『めまい』において、観客はキム・ノヴァクではなく、ジェームズ・スチュアートにシンパシーを感じながら見詰めることになるのですが、金森さんの『めまい~死者の中から』にあっては、そこは間違っても、糸川さん寄りの目線にはならない訳です。ですから、伴って、新利賀山房の私たちはあたかも「男Ⅰ(山田さん)」の共犯者のようにして事のなりゆきを見詰めていたのでしょうし、まあ、少し控え目に言っても、「未必の故意」的な心持ちでその推移を目撃し続けるのだろうことくらい最初から予見できてしまう恐ろしい「場」に身を置いていたとは言えるのではないでしょうか。

 で、同じひとつの原作から生まれたふたつの作品に認められるそうした味わい或いは肌合いの違いはまさしく互いに相照らすことで豊かさを増すものでもあり、私たちはここで「2」という象徴的な数字を前にすることになります。「2」の象徴性は、まさしく金森さんが今回の作品のあちこちに(岩波書店「思想」2024年第8号風に言えば、「過剰に」)散りばめたものです。「1」は自立し得ないとでも言うかのように…。

 その「場」の凄さを構成する要素のひとつに照明があることに異を唱える者はいないでしょう。で、その照明スタッフとして、金森さん、丹羽誠さんふたりの名前に先立ち、先頭に「御大」鈴木忠志さんの名前も見られるのです。これからご覧になる方は、凝りに凝った照明もご期待ください。

 …とまあ、ネタバレしないように気を配りながら、あの「場」で、そしてその後、私が個人的に感じたことを書いてきました。あくまでも個人的な感じ方に過ぎません。しかし、観終えたら、「はい、おしまい」で済むような作品ではないことは確かです。初日をご覧になられた皆さんの目にはどのように映り、どのように感じられましたでしょうか。とても興味があります、ハイ。

 あと、この日の利賀のことをもう少しだけ。作品に圧倒されて、新利賀山房を出ると、予報通りというか、雷鳴が轟くではありませんか。夏そのものの濃い青ではなく、舞踊作品に浸っているい時間のあいだに、すっかりグレーにその色を変えてしまっていた空がまるで突然に破けでもしたのではないかと思うような凄まじい雷鳴が、すぐ頭の上で聞こえたのでした。その後、やはり(!)雨も降り出します。これらも金森さんの演出か!?そんな感じでした。

 不穏な作品に不穏な天気が追い打ちをかけてくるのです。でも「怖い思い」はもうたくさん。帰りは車のナビで「砺波IC入り口」を検索して、車を走らせることにしました。県道229号線方向に左折すると、目の前にトンネル!見覚えがあります。思い出しました。そうそう、この道、この道!そこからの帰路はあまり怖い思いをすることもなく、新潟を目指すことができました。『めまい ~死者の中から』の余韻を『恐怖の報酬』で上書きすることなしに、です。蛇足でしたが、ご参考まで。

 以上、少し歩くだけですぐに汗が噴き出す暑さはあっても、蜻蛉も多く飛び交い、一足早く、確実に季節の移行も感じさせるこの時期の利賀芸術公園、『めまい 〜死者の中から』初日レポートとさせて頂きます。

(shin)

岩波書店「思想」(2024年第8号)、鈴木忠志さんへの熱い思いを綴る金森さん♪

皆さま、先月末(7/31)に金森さんがXで呟いていましたが、鈴木忠志さんを特集した岩波書店「思想」(2024年第8号)はもうお手にとられましたでしょうか。「SCOT SUMMER SEASON 2024」をすぐすぐに控えたこの時期に、「知」のあり方を問い、超絶硬派、ハイブローで知られる「あの」雑誌が組んだ鈴木忠志さん特集。そこに金森さんも寄稿されておられるのです。そんなことでもなければ、私にとってはなかなか手に取ることもない雑誌なのですが(汗)。

ですが、ですが、金森さんにとって、モーリス・ベジャール、イリ・キリアンと並んで、「師」と仰ぐ3人目、鈴木忠志さんの特集ですから、金森さんが寄せた9頁分の文章「過剰の思想」には、鈴木さんに寄せる金森さんの思いの熱さが溢れていて、読み応え満点なのです。

2023年の自著『闘う舞踊団』(夕書房)においても、第Ⅱ部の「6.Noismの身体性を模索する」と題された章で、「鈴木忠志の衝撃」として記されていた内容と重なるものではありますが、今回の「思想」誌においては、いつも通りの切れ味鋭い明晰な文章に溢れんばかりの敬慕の念を込めて、「師」の存在を知った際のその「衝撃」が、更に、既に自らと同じ「闘い」を経験し、紛れもなくこの国の文化シーンにおいて変革を成し遂げた道程への「驚愕」が綴られていくのです。そしてそれは恐らく、自らを照らす「希望」の光としても。

で、誠に恐縮なのですが、ちょっと私自身のことを書かせていただきます。利賀には『still / speed / silence』(2019)を観に行ったことがあり、今月の『めまい』も観に行くことにしていますが、未だ鈴木忠志さんの作品は観たことがない私です。そしてこの「思想」誌についても、ここまでに読んだ部分もまだまだ少ないのですが、頁を繰っているだけで、今回の利賀行を『めまい』だけにしたことを少し後悔する気持ちも湧いてくるほどです。その裏には、巻頭の「思想の言葉」で、柄谷行人さんの「鈴木忠志と『劇的なるもの』」なる文章が読めてしまうこともあるかもしれません。若かった頃、彼の『マルクスその可能性の中心』や『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』『内省と遡行』などを心躍らせて読み、彼が、書かれたもの(エクリチュール)をその他多くの作品たちと呼び交わすような開かれた「読み」の相において捉え、原テキストからは想像もつかないような途方もない豊かな「読み」の可能性を引き出してしまうその精緻な手捌きに大いに刺激を受けたからです。でも、そうした「間テクスト性(アンテルテクスチュアリテ)」こそ、金森さんとNoismの舞踊にも大いに見出せる要素ではないかと思ったりもして、さきの「後悔」にも繋がるのです。

私事はそれくらいにして、金森さんが同誌に寄せた文章に戻ります。その分量にして9頁の「過剰の思想」ですが、綴られた鈴木忠志さんへの敬慕は、その奥に、金森さん自身を取り巻くこの国の状況とそれに関する金森さんの問題意識を読むことができるものでもあります。その意味からも必読の文章と言えるでしょう。まだ手にとられていない方も勇気を出して(笑)、是非!

(shin)