2021年12月26日の東京芸術劇場で上演されたダンスカンパニーNoism Company Niigataの『境界』を鑑賞した。これは二幕の構成で、一幕はゲスト振付家に山田うんさんを迎え、Noism1メンバーが踊っている。二幕ではNoism芸術監督金森穣さん演出振付でダンサー井関佐和子さん、山田勇気さんと共にNoism0の作品として構成されている。
二幕Noism0『Near Far Here』。一幕とは変わってバロック音楽の中、薄暗い空間の中でピンスポットがあたる。ここでは生と死がテーマになっており、その境界を表現していた。決して激しく踊り狂う訳ではなく、その劇場の空間を自分の体で吸収し、丁寧に舞っている。すると下手(しもて)に影を映すスクリーンのようなものが降りてくる。今見えている世界と影の世界、お互いが全く同じ動きでシンクロしている。影の世界に最初は一人しかいないと思わせていたが、そこから分離し、もう一人いることがわかる。そして真っ白の衣装を身に纏う女性が、見える世界に現れる。重力を感じさせないリフト、アクリル板を使ったパドドゥ、三人での踊りは身体全体からエネルギーが溢れていることを感じさせる。しかし激しく乱雑に踊るのではなく、まるで美術作品を見ているようなゆっくりと濃い絡みであった。そして最後に舞台上、客席にも降ってくる赤色の花びらは、この生と死の境界がある世界の儚さや脆さをその空間で表現していると感じた。
皆さま、ここまで、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修にて稲田奈緒美さん(舞踊研究・評論)の指導のもと、「舞踊作品研究B」という科目を学ぶ学生さん5人による5本のレポートを5日連続でご紹介して参りましたが、如何だったでしょうか。 瑞々しい感性で綴られた5つの瑞々しい文章をこうして続けてご紹介できたことはとても喜ばしいことでした。Noism Company Niigataを「生で」観るのは初めてという人も多かったようですが、今回のレポート執筆が、5人の(そしてそれ以外の多くの)学生さんたちにとって、Noism Company Niigataとの良き「出会い」となり、このあとも継続して接し続けて貰えたら、そう願っています。 なお、掲載したそれぞれの文章は読みやすさに照らして、文意を変えない範囲で若干の修正を施した箇所があることもここにお断りしておきます。その点、悪しからずご了承ください。
第二章 次に、Noism0金森穣の『Near Far Here』が始まった。幕開き、そこに広がっていたのは舞台美術がないのは先ほどの作品と共通していたが、照明が暗く、同じ舞台と思えない黒い世界が広がっていた。副芸術監督である井関佐和子が白い高貴な衣裳を着ており、照明が彼女を当てては消え、当てては消えを様々な場所で行い、井関が瞬間移動しているように見えた。金森穣とNoism1リハーサル監督である山田勇気のふたりが黒い衣裳で同様の演出で舞台に現れた。見ていて、先ほどのグループより踊りの感じや熟練度や経験に違いを感じ、さすが選抜メンバーだと感じた。舞台上方から木の枠が下りてきた。普段の生活感覚からしてみればただの木枠だが、この舞台では鏡に見えた。前から照明が来ていて、背景に影が一致していて「鏡」感を出していたと感じた。鏡の先と今立っている場所とが木枠によって境界を表現しているのだなと感じた。木枠が上がって次に白いスクリーンが下りてきた。スクリーンには事前に撮られた影の映像と実際に今光で当たっている影が映し出された。影同士が踊り、ダンサーと影、現実世界と影の世界、映像の自分と今の自分、スクリーンを境界として色々考えることができた。次にガラスの板と共に、ペアで踊るシーンでは、ペアで踊るにも手や足以外でも物でつながることができることを提示していた。ガラスの板という境界、その境界をうまく操りながら踊るというのがとても印象的だった。最終シーンでは舞台一面が赤くなっていて、上から赤いバラのようなものが降ってきて、一つ境界の先の世界のイメージがあったと感じた。歩いているだけなのに音響の効果やその世界に鳥肌が立った。
第二章 次に観劇した金森穣振さん振り付けの『Near Far Here』は言葉にするのは難しく、とても神秘的な作品だ。Noismはたとえ何もない空間だとしても、場面展開が早く、ダンサーの技術と共に、見ていて目が離せなくなってしまうのが一つの特徴だと思う。今回の作品もシンプルな額縁やスクリーンがあるだけなのに、そこで繰り広げられる沢山の物語が次々と見えてくる。そんな洗練されたこの作品には様々な境界が存在する。私には本物と偽りの境界、またどこからが境界かが段々とわからなくなっていく不思議さを作品の中に感じた。例えば、スクリーンに映し出された三人のダンサーとそのスクリーンの前で踊るもう一組の三人のダンサー。言い換えれば、実際にそこにいる本物とスクリーンの向こう側にいるように見える偽り。最初は互いに違う動きをしているのだが、段々と動きがリンクしていき、しまいには一人がスクリーンの中に入ってしまう。そこにスクリーンを挟んだ一つの境界があると感じた。最も印象的だったのはラストだ。舞台一面に真っ赤な花が散りばめられていた演出だった。美しさに見惚れていると、観客席にも赤い花が降ってきた。舞台と客席の間にも一つの境界があると考えると、花が降ってくる光景はまるで客席も舞台と化しているようだった。だからこの境界がなくなったとき、私は何か大きな境界がなくなった気がして不思議さを覚えた。またダンサーが舞台から降ってくる花に驚いている私たちをただ立ち尽くして見るというのも面白い光景だった。ダンサーと同じ空気を吸い、同じ空間にいることを自覚させられたような感覚だった。
『Near Far Here』は常に異世界のような空間にいる感覚があった。少しずつ変わっていく空間。上から四角い枠のようなものが降りてきて、演者が踊る。ただの枠がまるで鏡のように見える演者の動きや、後ろに映る影が1つから2つへ、大と小の動きが幻想的である。照明による影からスクリーンを使った影へと変わり、スクリーンに映る影と実際の影の融合は、現実と映像の境界にある空間を作っている。また影から人物へ、影の時と同じようにスクリーンと実際の人物の境界。幕が閉じ、会場に響く重低音。優しく明るいメロディーが鳴り、幕が開くと、あたり一面真っ赤な花びらの空間になり、客席にも頭上から花びらが降ってくる演出であった。最初に幕が開いた瞬間、何か凄いものが始まるのではないかと感じたのが率直な感想だ。袖幕を取っ払い、照明は剥き出し、上には色々なものが吊られていて、『Endless Opening』とは全く違う空間があった。 金森穣はこの作品を「近くて、遠い、此処」と表している。此処とは何処なのか、言葉にはできない此処の空間、時間があったと感じた。スクリーンを使うという考えは、現代社会を簡潔に表していると思う。スクリーンが映しだす現実と虚実、実際に演者が動く現実が融合されて、「境界」というワードが当てはまる作品であると感じた。
また、演劇・ダンス専修では、教員が学生たちに観てほしいと思うダンス公演、演劇公演のチケットを購入し、学生たちが見られるようにしています。そこで、秋学期にはNoism Company Niigata による公演《境界》を取り上げました。「舞踊作品研究B」を履修している学生たちも《境界》を見に行き、課題レポートとして批評を書いて提出しました。
一方で、休憩後中の余韻もお構いなく幕の上がった『Near Far Here』。始まりから、山田うんと対称的に主導権は金森穣にあるようだ。それでも、観客は“待っていました”と言わんばかりに前のめりであった。「近くて、遠い、此処」。私たちが現代社会で見えているもの・感じ取っているものは、果たして何なのか突きつけられているようであった。舞台上に映し出されたNoism0のダンサー3人の影は、私たちが見ようとしてこなかった、あるいは関係のないものとしてきた遠いものなのだろうか。劇場に響き渡るバロック音楽に、決して負けることのない3人のダンサーの身体の運びは、一見客席との境界線を生んでいるかのようであるが、今ココに生きているということを共有し、境界線を無きものとしていたのであった。新潟に本拠地を置くNoismが県外で公演を行う意味、新潟市の様々な問題と向き合う金森穣だからこそ他人事にして欲しくない何かがあるのだろうか。バラが宙を舞う。高知公演の『夏の名残のバラ』に続いていくかのように幕を閉じた。
後半は、金森穣の演出、振付で、Noism0の3人が出演する『Near Far Here』。真っ暗な舞台上に、白いプリーツの打掛のような衣装を纏った井関佐和子が一瞬現れ、暗転。再び白い衣装の井関が現れると、まるで空間移動をしたかのように立ち位置が変わっている。再び暗転から一瞬の明滅で現れる。それを繰り返しながら後方へと移動し、照明がつくと白いオブジェのような井関の前に、黒い衣装の金森が影のように重なっている。やがて動き出した二人が徐々に別れると、矩形の枠が現れ、山田勇気と金森が鏡に映った実体と影のように同調し、重なりながら動き、別れていく。バロック音楽の峻厳で美しい響きが舞台を満たす中で、3人の身体が重なり、離れ、ぶつかり、引き寄せ合いながら踊っていく。
様々な思いを投影しながら井関と金森がデュオで踊っていると、パーセルのオペラ『Dido and Aeneas』から「remember me」という歌詞が切なく響く哀歌が流れ、静かに幕が降りる。生が死によって引き離されるかのような静けさが漂うが、再び幕が上がると舞台一面に赤い紙吹雪が積もっている。ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』が天上から降り注ぎ始めると、三人が舞台へ進み出て挨拶をする。通常は作品と切り離されたカーテンコールが、ここでは死から再生という境界、舞台と客席という境界を超える演出になっているようだ。客電が点くと、赤い紙吹雪が客席にも降ってくる。血潮のように赤い紙吹雪が劇場中に舞うことで、観客である私たちにも境界を超えるための息が吹き込まれるように。