『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』新潟公演2日目(アフタートーク付き)レポート(2026/06/28)

2026年6月28日(日)、気温もあがり、蒸し暑かった新潟。しかし、それに負けず劣らず熱かったのは、りゅーとぴあ〈劇場〉のNoism界隈ではなかったでしょうか。

前日、公演初日のブログを書いてくださった久志田渉さんが、「詳細」を伏せつつも、なるべく早い入場を勧めていたこと、(その「詳細」も既に各種SNSにて広く知られた感がありますが、ここではまだ頑なに伏せつつ進めさせて頂きます(笑)。ご了承ください。)それに関連して、開演前のホワイエは普段の光景とは様相を異にし、その熱気は弥増すばかりでした。さすがの金森さんとはいえ、『ヴェクサシオン』の旋律を840回繰り返し、一曲通しで流すことこそしませんが、そのピアノのリフレインのなか、ルネ・マグリットっぽいシュールさを演出してくれています、とだけ。で、敢えて、私も繰り返します。「詳細」は伏せますが(笑)、今公演はなるべく早く入場された方がよろしいかと。

そんなシュールさから横滑りするかのように、公演2日目の幕が上がりました。官能の『私は海をだきしめていたい』、戦慄の改訂版『春の祭典』、どちらにも渾身の実演を見せつけられ、由って来たるところこそ違えど、心拍数が増加して、耳たぶは熱くなり、ドクンドクンという音が聞こえてくるといった同種の身体反応が生じたのでした。この日のカーテンコールも拍手は鳴りやまず、「ブラボー!」の掛け声が飛び交うなか、幾度も繰り返されることになりました。

ここからは、この日の終演後に開催されたアフタートークについての掻い摘んでのご報告とさせて頂きます。登壇者は、Noism芸術総監督の金森さんと国際活動部門芸術監督の井関さんです。(16:40~17:23)

(なお、このあと、月が変わると、新潟・埼玉併せて4公演が控えている事情から、作品の内容や構成に深く関わり、ネタバレに繋がるものは、今この場ではご紹介いたしませんので、その点、ご了承ください。そうしたやりとりにつきましては、全6公演終了後に「補遺」というかたちでご紹介させて頂くつもりでおります。暫くお待ちください。)

Q: どうしてそんなに踊れる身体でいられるのか?
 -井関さん:
 日々のことをただただやっていたらここまで来た。やればやるほど面白味が出てきた。踊れる幸せを感じる。この先の次元が楽しみ。長くやっていればこそ、見出せる領域がある。ふたりとも負けず嫌いなので、一生懸命ストレッチはしている。

Q: 身体で表現するときに大切にしていることは?
 -井関さん:
 色々あるので難しいけれど…(暫し熟考したのち、)呼吸ですかね。身体の隅々まで呼吸が行き渡るようにすると、身体を感じることが出来る。
 -金森さん: 呼吸のコントロールが一番難しい。
 -井関さん: 呼吸が乱れていると、「酔っているな」と反省する。

Q: パイプオルガンと共演するのはいつか?
 -Noismスタッフ・上杉さん: 来年3月13日になる。

Q: 『私は海をだきしめていたい』をピアノの構成にしたのは何故か?
 ー金森さん:
 小説を読んだ際、ある種のシンプリシティ(単純さ・素朴さ)を感じた。そしてサティの精神を最も反映するのはピアノだろうと。ここまでピアノだけで作品を創ったことはなかった。

Q: 『春の祭典』創作におけるインスピレーションについて。
 -金森さん:
 これまで学んだこと、気付いたことが出てくるのであって、ことさら、何かを入れようというようなことではない。

Q: 昨日と今日、前方席と後方席で観て、見え方が異なった。お勧めの席はあるか?
 -金森さん:
 前で1回、後ろで1回、右で1回、左で1回(笑)。プロセニアム・アーチのなか、見え方は異なる。一期一会でもあるし、見え方が異なるのは劇場文化の豊かさ。

Q: 印象的だった椅子や装置、衣裳など、どのくらいの段階で決めるのか?
 -金森さん:
 1年くらい前、遅くとも半年前には決める。プロダクションが大きくなると2年前とかも。自分の場合、丸投げはしない。椅子についても、(須長檀さんと)「割れたら血が出ている」「五線譜はどうか」などイメージのやりとりを重ねていった。

Q: 最前列から見ても「バミリ」は見えないが、どうやっているのか?
 -井関さん:
 星の数ほどある。彼(金森さん)の場合、曖昧さは存在しないから。『春の祭典』初演時はリノリウムにペイントをしていたので、バミリは大変で、大きいものだった。今回の改訂版では黒いリノリウムなので、割とバミリは見えやすいのだが、脚光がつくと見えなくなって本当に大変になる。

Q: この度の改訂版『春の祭典』には戦争への恐怖を感じる。意図してのものか?
 -金森さん:
 その都度、手を入れているが、今回は凄惨なイメージにした。それには、この時代の危機感が反映している。しかし、虚構のなかで凄惨さを伝えることのなかには、そこに現実は異なることへの祈りや願いがある。

Q: 黒部の前沢ガーデン屋外ステージとここりゅーとぴあ〈劇場〉は大きく異なる舞台だがどう考えているか?(黒部・前沢ガーデンのガーデンマスターからの質問)
 -金森さん:
 空間によって身体は規定される。その空間をどう活かすか。屋外ステージに比べて、自由があるように見えるかもしれないが、制約はある。照明効果で色々なことを表現している。(黒部では、勿論、天井からの照明は釣れないが。)

Q: 今回の作品では、男性と女性、はっきり分かれる演出が見られた。演者それぞれを分けて振付を行っているのか。
 -金森さん:
 あくまでも目の前の舞踊家に振り付けている。その舞踊家からインスピレーションを受けて振り付けている。

Q: 井関さんは男性の身体がいいなと思ったことはあるか?筋肉量は多い方がよいのか?
 -井関さん:
 20代前半には男性みたいに踊りたいと言っていた。表面的な筋肉量は関係ないが、力はあった方がよい。金森さんは筋肉を使う前に、骨が動く。お腹のセンターの力が凄くて、安心感がある。振り回されても大丈夫だなと。しかし、(若い人となら、自分のコントロール内で踊れるが、)これだけ力のある人(金森さん)と踊ると疲れる。それは、自分の「範疇」の外に出されてしまうからで、結構シンドイ。見た目で言えば、筋肉がある方が良いですよね(笑)。
 -金森さん: 性差を超えたところに、表現し得る何かがある。なんとも言えない感じで、究極の贅沢かと思う。若い頃にいたベジャールさんのところには魅力的な男性が多くいて、そのあたりの感受性が強くなった。

Q: 『私は海をだきしめていたい』には鏡面的なものを感じる。どのようにインスピレーションが湧くのか?
 -金森さん:
 小説が持っているものよりも、作家に興味がある。何故こういうものを書いたのか。一人の人間が自他を描く。安吾も自分の内なる女性を描いたということ。鏡面性がある。サティの「繰り返し」に見られる偏執的な精神性に安吾が惹かれた。安吾が書いた同名の短編小説は7部立て、そこからのインスピレーションで、サティの7曲で構成することにした。

…と、(ネタバレに繋がりそうなものは一旦除外して、)大体そんなところでしたでしょうか。頑張ってはみましたけれど、寄る年波もあって、聴きながらのメモもきちんととれなかったりしましたし、これくらいでご容赦願います。m(_ _)m

ご紹介することになる最後の言葉はこのところ金森さんからよく聞くようになったものです。

金森さん: 「ちょっとわからないところがあったなぁ。」そう思ったら、繰り返し観て欲しい。2度観るとわかると言われます。

私もまだまだわかりたいので、来週末もまた観に来ます。是非、皆さまも。
では、これを以ってこの日のブログの締め括りと致します。また今週末に。

(shin)

活動支援会員特典として、『私は海をだきしめていたい』2回目の公開リハーサルを観てきました♪

2026年6月20日(土)、前日に続き、公演まであとちょうど一週間というタイミングで開催された『私は海をだきしめていたい』2度目の公開リハーサルを活動支援会員として見せて貰ってきました。(12:00~13:30)

なお、この日は、視覚・聴覚に障がいをもつ方々及び開志専門職大学の学生さんたちも一緒ということで、入場前のホワイエにはいつもと違う雰囲気が感じられたのでした。

この日は、先ずは『私は海をだきしめていたい』を通しで、続けて、コレクション(ダメ出し)、その後に照明づくりの様子を見せて貰いました。

新作『私は海をだきしめていたい』。私自身、「無頼派」坂口安吾は読んでいる作品が限られていて、恐らくステレオタイプと思われる破天荒で骨太なイメージがつきまとっています。差し詰め、上にもあげた超有名な「汚部屋」写真によって流布されるイメージと言えるでしょう。安吾の同名短編からもその印象は濃厚に感じとられたように思います。

そして観た金森さん×Noismの『私は海をだきしめていたい』は、そのステレオタイプのイメージ通りだったのか。果たして…。

特権的な「赤」の衣裳に身を包んだうえで、そこから露出した肌が視線を惹き付けるその効果も知り尽くす女。一方、黒づくめで、ハットやアンブレラに身を守らせつつ、先ずは安全な場所に身を置こうとする男。そこからの妖艶、頽廃、優美、粗野、虚栄、真実、放縦、孤独、共振、たゆたい…それらが何の違和感もなく同時に成立してしまう時空。それを支えているのは、紛れもなくピアノで奏でられるエリック・サティの音楽。

照明もまだこれから、という段階で観て、もう確信出来た新たな傑作の誕生。約35分間。身を持ち崩してみたい、そんな途方もない衝動さえ禁じ得ないものがありました(笑)。おっと、書き過ぎ、書き過ぎ、ですね。必見! そう書けば、一言で済むところでした。

そしてその後、冒頭部の照明づくりを見せて貰った訳ですが、興味を惹きつけられて、食い入るように見詰めていると、舞台から客席の方に移動してきた井関さんに尋ねられました。
「こうやって照明つくってるの見てて楽しいですか」
「はい。楽しいです。とても」
「でも、これ、延々続くんですよ。結局、さっき1秒が出来上がらなかったし…」
…本当に気が遠くなるような、凄い作り込み方をしているのだなぁ、としみじみ。

冒頭にも書きましたが、公演の幕があがるのはきっかり一週間後。楽しみでなりません。楽しみでない筈がありません。チケットは好評発売中。お早めにお求めください。

そして公演初日の本ブログは、「安吾の会」の久志田渉さんに書いて頂けるよう、只今、調整中です。果たして安吾はどんな人だったのか。久志田さんがこれまで読んできて辿り着いた「深さ」から書かれる記事もまた楽しみです。

さて、私事で恐縮ですが、私が一昨年の秋から「コソ練」を続けているのが「3マス(=3か月でマスターする)」サティのジムノペディ第1番。随分「時間」オーバーで、一向に上手くならず、「伸びしろ、伸びしろ」と怪しい呪文を唱え続けているのですけれど、この日、うっとり魅了されっ放しだった公開リハーサルを観た後の練習です。ましな音が出るかもしれない、そんなふうにひとり勝手に期待感をもっています。
さて、コレ書き終えたので、鍵盤に向かいます。そちら、果たして…。

話を戻します。皆さま、来週の土曜日、りゅーとぴあ〈劇場〉でお会いしましょう。繰り返しますが、必見ですよ、必見♪

(shin)

『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』活動支援会員/メディア向け公開リハーサル(2026/6/19)にいってきました。

公開リハーサルが始まる15分前に劇場に到着すると、ホワイエには沢山の報道陣が囲み取材の準備をしていました。かつてないほどの多さに戸惑いつつ、開場を待ちました。


本日(2026年6月19日)は『私は海をだきしめていたい』の通しリハーサルを見せていただけるとのこと。定刻時間、衣装を着けた舞踊家達が舞台上で動きを確認するなか、劇場後方に案内されました。先ず目に入ってきたのは女性舞踊家の赤いドレス。その赤は白い肌に重なりとても美しく、瞬時に惹きつけられました。男性舞踊家の衣装は黒、床のリノリウムは白だったので、よりその美しい赤が際立ちます。その魅力はリハーサルが始まると、舞踊家達の見事な身体表現と共に加速していきます。動きに合わせて表情ゆたかに揺れる赤いドレスは、この物語の言葉に出来ない心情を掻き立ててくるものがありました。


登場人物は、一人の男と女。それを複数の舞踊家たちが表現していきます。リハーサル中、金森さんが「一人の男の様々な側面を表現しているのだから…」と伝えます。その場面の“複数”の男性舞踊家は1人の男の異なる側面であり、ほんの少しの動きで「別の人間になってしまう」という指摘がありました。そこから動きの微細な修正。その修正後には、先程とは見え方、見ている側の感じ方までもが変わります。また、表情や内面の在り方について「浴びて! 浴びているものが途切れるから倒れる!」と指摘する場面。それによって舞踊家の表情や身体から発するものが変わります。「ああ!これが公開リハーサルの醍醐味!」と心の中で叫び、心が踊りました。

公開リハーサルの間、金森さんが全体を見て振りの細かなニュアンスや振り一つひとつをどう活かしていくのかをアドバイスし、井関さんが舞踊家に振付の具体的なアドバイスをしていく作業を見ながら、ひとつの舞踊団としての共通言語があるからこその修正の素早さ、的確さがあることを実感しました。
(公開リハーサル前に金森さんと井関さんはリハーサルを終えたとのことで、本番ではお二人とも出演とのことですのでご心配なく。)

『春の祭典』は先般の黒部公演で拝見したのですが、今のNoism、本当にひとり1人の舞踊家達のレベル、状態、魅力が見るごとに増していっていると感じます。今回の『私は海をだきしめていたい』でも、その魅力と輝きは爆発的にアップしていました。見逃したら損しちゃいます。今回は、全4回公演、土日で月またぎで開催されます。お見逃しなく♪

それでは、囲み取材での質疑応答についてお伝え致します。

-『私は海をだきしめていたい』この作品に込めた思いは
金森さん: 坂口安吾という作家は勿論知っていたし、作品もいくつか読んでいたが、安吾の小説を題材として作品を創ることになるとは思っていなかった。「安吾の会」から依頼を受けて、今回こういうかたちで創ることになったことを嬉しく思うし、新潟の方には是非観ていただきたい。

-安吾への印象
金森さん: 色々なタイプの芸術家がいると思うが、ある特定の精神性を持ち、芸術作品に自らが書いていたものと私生活=どうやって生きるかということをなかなか分離しがたく、密接に結びつく強度が強い芸術家というのがいる。サティと安吾というのは、それに属する芸術家だと思っている。私自身、芸術家の端くれとして常に自分の中の芸術性というものと、日常との折り合いをつけながらやっている。安吾の芸術家としての生き方に憧れるというのはあるが、現実的には難しいという思いがある。自分の人間性に照らし合わせるとこういう生き方は出来ないなと思うと、大先輩の芸術家へのアイロニックな感情を持ちますね。

-「安吾生誕120年」という節目に作品を創るということについて
金森さん: 先に話した通り、「安吾の会」の皆さんからお声掛けいただかなければ、なかなか自分からは歩み寄っていくイメージがなかった。本はいくつも読んだが、舞踊化できないと思っていた。ただ今回、お話を頂いてから改めて安吾の小説を出来るだけ多く読んだり、安吾について色々調べていくなかで、安吾が心酔した音楽家のサティという存在があったことを知った。私の作品創作においては、音楽が一番大事で、どの小説であれ音楽が決まらないと創作出来ないと思っていたので、安吾とサティの世界観から「これでいける!」と思った。

-作品のテーマや赤と黒の衣装など、観客の皆さんにどんな想いを感じて欲しいか
金森さん: この小説の登場人物は一人の男と一人の女だけであり、男の中の多面性とか、女の中の多様性みたいなものが主題になっている。安吾の作品には常に付き纏う“孤独”とか“不安”というものが随所に散りばめられていると感じている。色味の世界観としては、今回エリック・サティの世界観や精神性も安吾と拮抗するかたちで用いている。男性の衣装のハットや傘は完全にサティの世界観。

-作品の中でハットを男女で取ったり、被せたりといった場面があったが、どういった意図があるのか 
金森さん: その解釈については自由でいいというか、あまり限定したくない。我々がやっていることは非言語の表現なので、抽象的であることによって解り難いとか一般性がないと思われがちだが、実は言語化さて具体化されるものほど、人と人との溝を生むし、軋轢を生む。こういう抽象化された音楽であったり、舞踊だったり、一概にこういうことを言っていると言えないものと向き合った時に自らの感受性を基に自由に発想するとか、それを基に他者と会話するとかがすごく大事だと思うし、それが芸術の役割だと思う。なので、自由に解釈してくれると嬉しい。

-リハーサル中、「もう一人の男と言えども同じ男」という言葉を伝えていました。そういうことを始めとしてこの作品に込められたテーマはあるか
金森さん: ひとりの人間の中には様々な側面がある。対象や環境が変わると別な側面が見えてしまうこともある。それが人間だと思う。この人はこういう人だとか、一概に言えない。この人がこういう人だと決めつけてしまうことの暴力性みたいなものがある。安吾やサティはそれに対してすごく敏感なふたりであると思う。だからこそ、ある種の堕落性とかある種の負の感情を抱くということも肯定するべきであるのは、それが人間の本質であるからという世界感。そこを踏まえた上で舞踊化するときに、一人の男、一人の女が分裂したような構成を取ることで、一人の男、一人の女の多様性というものを群像劇的に展開できると思った。
テーマを上げるとしたら「繰り返す」。サティの音楽も繰り返しが多い。安吾も然り。とても飛躍した言い方をすると「人間、同じことを繰り返すよね…社会も同じことを繰り返すよね…」

-改訂版『春の祭典』ということで、このタイミングでの再演の意図
金森さん: 作品が再演できるということは、振付家にとって大変嬉しいこと。常に完成はない。公演をする度に作品のここをもっとこうしたいという思いを抱くのが振付家だと思うので、今回の改訂にあたっては出演人数を減らして、演出もシンプルにして、その分“音楽と身体”という舞踊の根源に迫るもっと強度のあるものに出来上がっている。再演を決めたのはこちら(井関さん)です。
井関さん: 『春の祭典』ではNoismならではの集団の強さをお客さんに是非、感じて欲しい。改訂版は人数を減らしたことや舞台美術もシンプルにしたことによって、ほんとにNoismらしさ全開な作品になったと思う。“身体そこに在りき”というものになった。音楽も有名なものですし、Noismを観たことのない方でも、そのエネルギーを劇場で直に見るという体感は、満足してもらえるものだと思うので、是非観ていただきたい。

-Noismがレジデンシャル制度としては終了と発表され、ダンサーの皆さんはどのような思いでこの公演を迎えているのか
井関さん: 年明けから色々あり、様々な気持ちになったと思う。彼らの年齢で、なかなか経験出来ないことを経験して大変だったと思うが、それが血肉になっているのをすごく感じる。りゅーとぴあでは、あと3プロダクションで終わるというのが分かっているからこそ、この空間で舞台稽古が出来ることの有難みとか様々なことを再認識していると思う。それは慣れてきていたりすると感じ難いことなので、そういう意味では毎日を大切にしながら過ごしているなと感じている。Noismとしての強度が上がってきているなと感じる。

-半年色々あったなかで、おふたり(金森さん、井関さん)は、どんな思いで定期公演を迎えたのか
井関さん: もうほんとに色々ありすぎて、本当に半年だったのかなと思うほどだったが、この公演を始める前に穣さんが「Noismは継続します」という事を発表できたのは大きかったと思っている。メンバー、スタッフ、応援してくださる方々にとって、どうなるか分からない未来だったが、そのたった一言がすごく大きな希望を与えたと思うし、自分自身も今は前を向いて希望を持って見えてきているものがあり、それをどう実現していくかということに思いが向いているので、今回の公演をこれくらいポジティブな気持ちで迎えられていることがすごく嬉しいです。

-色々なことがあり、環境についてこれまで言葉で伝えてきた訳だが、いよいよ作品で伝えられると思うことは何かあるか
金森さん: それに関しては、「絶対的に自信があるので是非、観て欲しい」としか言いようがないし、そのクオリティを揺るがなく維持するために、みんなでこの怒涛の五ヶ月の間も立ち止まらずに稽古は続けてきたので、その成果を是非観てほしいと思います。

-「X」で「Noismは終わらない」と書いていたが、その辺の思いや今後について
金森さん: いたって前向きに来年の夏以降もNoismは続けていこうと思っている。支援者や協力者の方達の協力を仰ぎながら、先ずは拠点をどこに定めるかを決めていき、整備し、活動を続けていきたいと思っている。りゅーとぴあでの活動を終えると縮小してしまうとか立ち行かなくなってしまうというような懸念は全く無い。我々は活動を続けるし、我々が生きている限り芸術活動を続けていく。それに賛同してくれる若者たちがいれば、是非一緒にやりたいと思うし、それに賛同するスタッフがいれば、是非協力して欲しい。何かの終わりではない。次への始まりだと思っている。

以上です。ぜひぜひ、お見逃しなく!

(aco)
(photos by aqua)

「地方文化の確立について」考える傑作 Noismメンバーをお招きしての『ジョン・クランコ バレエの革命児』試写会レポート(サポーター レポート)

シネ・ウインドにて5月16日(土)〜6月5日(金)上映の『ジョン・クランコ バレエの革命児』のNoism Company Niigata・Noismサポーターズの皆さんに向けた試写会を、5月12日(火)に開催した。ドイツの地方都市シュトゥットガルトの公立劇場専属バレエ団を、世界有数の存在に高めた伝説的振付家ジョン・クランコ(1927〜73)の生涯を描く本作。上映企画時から、Noismの皆さんと、日本唯一の「劇場専属舞踊団」を擁する新潟に暮らす人たちに広く観ていただきたいと願い、今回の試写会を企画した。
16時からの上映を前にNoismメンバーがシネ・ウインドに集まり、ウインド有志で作成した6月からの『私は海をだきしめていたい』巨大ポスターを前に記念撮影。金森さん・井関さん始めメンバーは折々にウインドで映画を観てくださるが、全員がこの場に集う光景には、感慨無量だった。


事前に作品を鑑賞していた私も、皆さんと上映に臨んだが、舞踊映画を超えた本作の力に打ちのめされ、幾度も落涙した。ドイツの地方都市に世界各地からの舞踊家が集い切磋琢磨しつつ、圧倒的な舞台芸術を創造する過程。日本と比して戦争犯罪に向き合っているとされるドイツにもあった歴史修正や差別への怒りを作品に込めるクランコの姿(南アフリカ出身かつユダヤ系である彼の背景もしっかりと描写される)。そして、現役の「シュツットガルト・バレエ団」メンバーが、マルシア・ハイデ始め当時のメンバーを演じ、息遣いや情感まで見せきる舞台シーンの迫真に、この時代に広く届いてほしい傑作映画との思いを再確認した。クランコの「形をなぞるな。舞台を生きろ」という檄や、音楽と心体表現への「祈り」に通じる情熱、マルシア・ハイデ役であるエリサ・バデネスが全身で体現する舞踊家の矜持など、バレエを観たことのない人にも届くであろう。

上映後、熱のこもった場内からは自然と拍手が起こった。世界に誇る舞踊団を擁する新潟に於いてNoismに起こっている苦難に思いを馳せつつも、それを超える舞台芸術の豊かさを皆さんと噛み締めるようだった(不勉強故、クランコが金森さんの恩師イリ・キリアンの恩師であることを、上映後に知った)。

『ジョン・クランコ バレエの革命児』シネ・ウインド上映は5月16日(土)〜6月5日(金)まで。坂口安吾がアジア太平洋戦争直後に書いた檄文「地方文化の確立について」を思わせる本作を、新潟に暮らす皆さまにこそご覧いただきたい。Noismがあるこの街の意味を考えるためにも。

久志田渉(「月刊ウインド編集部」)



「日本」を飛び越える普遍性(『かぐや姫』5/5ソワレ)(サポーター 公演感想)

5月5日(火・祝)、東京バレエ団『かぐや姫』再演の為、東京へ駆けつけた。東京行きを決めたのは直近だったが、夜の部(18時半から)の「パリ・オペラ座公演記念応援シート」席を確保出来た。5月6日をもって長期休館に入る東京文化会館でNoism『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』(18年)を繰り返し観、合間に本郷台地の坂道を歩き倒したことを思い返しつつ、当時のNoism「活動継続」問題と今目の前にある金森穣さんの去就を巡る現実、また「国立劇場」問題にも通ずるこの国の文化軽視・利益至上の風潮を嘆かずにはいられなかった(公演前の東京文化会館前で反戦サイレントスタンディングを開催された方々をお見かけし、「何かプラカードを持ってくれば良かった」と思いつつ)。

夜の部公演前の17時50分からは、金森さんによるプレトークが開催された。『かぐや姫』に当て書きされたかのようなドビュッシーの楽曲に至るまでに多くの日本人作曲家の作品を聴いたこと、「最初はお見合いのようだったけれど、今は専属振付家になった気持ちでいます」と語る東京バレエ団(東バ)との創作、専用スタジオを複数要する東バの環境、舞台美術・衣装など要素を削ぎ落とし、手を加え続けてきた金森版『かぐや姫』の創作過程(この日の昼の部を観て、「あぁ、ここも変えたいけど夜の部には間に合わない」)についてなど。そして、今年末のイタリアでの『かぐや姫』一幕、来年のパリでの全幕公演については、「本当に楽しみ。いつかオーケストラ付き公演も実現したい。その為にも皆さん、今、応援してください」と強調しつつ、「5階席の方も見えますね。最前列の方も5階席の方もこの場で舞台を体験したことは心に刻まれるはず。それこそが舞台芸術の一回性」と語る金森さんの伸びやかな芸術観が印象深かった。

夜の部でかぐや姫を演じたのは足立真里亜さん。21年の第一幕初演時にその溌剌たる姿に心惹かれたが、やっと足立さんによる三幕通しての舞台を観ることが出来た。全身でこの世界を跳躍するような姫に振りかかる男性社会の歪み、奪われる愛(道児と重ね合う手の振りや、抱きしめることの意味の変容)、無常の連鎖の末の「声なき絶叫」、その先にある「無」の非情な救済。幾度となく落涙しつつ、確信に至ったのは、「日本最古の物語」に基づく「国産バレエ」を謳いつつ、金森さんが本作で到達したものは「日本」など軽々と飛び越えて、この世界何処にもある孤独な魂や、権力に尊厳を奪われた人々を包み込む、圧倒的な「普遍性」ではないかと思い至る。日本的情緒を削ぎ落とすように、磨き抜かれていった衣装・装置・振付の無機質でさえある美にこそ、この世に生を受けたあらゆる人々がその思いを仮託できる「余白」が生まれたと思えるのだ。「救いがないことこそ救い」という坂口安吾言うところの「人間の絶対的孤独」と金森さんとの共振を感じたのは、Noismによる安吾作品『私は海をだきしめていたい』舞踊化を控えていることからの牽強付会かもしれないが。

パリ公演に向けて金森さんがこの豊かな余白を、更に拡げていくであろう期待を覚えつつ、幾度も繰り返されたカーテンコールでは汗だくになりながら声援を送った。

(久志田渉 「月刊ウインド」編集部)
(photo by fullmoon)

新潟日報紙に「坂口安吾生誕120年」を祝う全面広告掲載さる。「共鳴する安吾とサティ」とNoism新作広告も♪

2026年4月24日(金)、新潟日報の朝刊、その25面に「坂口安吾生誕120年」を祝う全面広告が無事、掲載されました。その左肩部分に「共鳴する安吾とサティ」の文字があり、Noism0+Noism1坂口安吾生誕120年/エリック・サティ生誕160年「私は海をだきしめていたい」公演(同時上演・改訂版『春の祭典』)広告も♪

パチパチパチパチ!まずはその全面です。実におめでたい♪

そして次に、Noismの公演部分のクロースアップ♪井関さんと(恐らく)金森さん画像のかぐわしいコラージュからは、まさにサティの「ジムノペディ第1番」が聞こえてくるかのようです。(この「幻聴」、私がNHK「3マス」ピアノの放送以来、「60の手習い」でほぼ毎日、同曲の独習を続けているからではなく、明らかに、テレビでの同公演スポットCMの影響と考えます(笑)。嬉しさのあまり、のっけから脱線し、個人的な話をしてしまいました。失礼しました。)

更に、本ブログでも寄付のお願いをさせて頂いてましたので、今度は掲載されたご芳名部分です。臙脂バックに「新潟が生んだ文化を誇りに」、いいですね♪

ご協力、どうも有難うございました。本当に誇らしいですね、はい。

6月、7月の『私は海をだきしめていたい』+改訂版『春の祭典』という豪華な公演、新潟、埼玉ともチケット絶賛発売中です。よいお席はお早めに!

このところ、立て続けにメディアに登場している感のあるNoism Company Niigata。このブログでも、その話題をお届けする充実した日々になっています。

そしてこの日の全面広告を見て、一連の言葉たちがあたかも泡立つかのようにシンクロして浮かび上がってきます。「無頼派」、「マレビト」、「アウトサイダー」、「(音楽界の)異端児」、そして「東京の亜流になるな」。

金森さんとNoismの刻んで来た足跡に関して、今、思うところがあります。それを誤解を恐れず、ここで書いてみたいと思います。
2004年、何か未だ先の知れぬ運命が交錯し、謂わば「奇跡」的な出来事として、金森さんをりゅーとぴあ芸術監督に招聘することが選ばれ、この国で初めての公共劇場専属舞踊団がスタートしたとき、確かに私たちはそれを抱えることに決めた新潟市によって、Noismを与えて貰ったことは事実でしょう。しかし、その後、金森さんの傑出した芸術性とその惜しみない舞踊への献身によって産み落とされた舞台の素晴らしさを「発見」し続けてきたのは、他でもない私たち(新潟市民、及び観客)であって、私たちは今日に至るまでずっとNoismを「発見」し続けてきたのです。(そうした思いがあってこそ、金森さんに宛ててあの「希望書」を書いたりも出来たのだと今にして気付きます。)

然るに一方、ここまで自ら抱えた舞踊団への支援を続けてきた新潟市はといえば、市民に対して、ただ与えて奪える立場に留まり、およそ「発見」することを怠る日々を送ってきたのではないでしょうか。ですから、その価値に見合った正当な発信がなされることなど単に期待できなかったに過ぎません。前夕のBSN「ゆうなび」の特集内で金森さんが口にされた「そもそもりゅーとぴあで専属舞踊団を抱えていることが、この国のなかで、日本初だとか、日本唯一だとか言うけど、そのことの価値とか、判断を下す人たちはそう(充分には)捉えていない」は無理のないことだったのです。何も「発見」せずにきた訳ですから。

繰り返します。その出発点でNoismを与えて貰ったことは事実ですが、それを誇らしい「文化」にまで高めてきたのは、金森さんであり、私たち(新潟市民、及び観客)なのであり、決してそれを与えた新潟市ではなかったのです。専属舞踊団の設立というモーメント(契機)をもって、その後、東京の亜流ではない「文化」を創造してきたのは、金森さんであり、私たちだったのです。
ですから、新潟市が(そう言うと、語弊があるかもしれませんが、)勝手に拵えた「制度」のみを根拠に、私たちが築いてきた「文化」を勝手に奪おうとするなどは極めて専横的で、決して許されざる暴挙と言わざるを得ません。新潟市の将来の「文化」に資するよう、しなやかに、したたかに振る舞い、「制度」の修正や微調整を行うべきなのです。

新潟市には、この日の全面広告の中央を横に走る「新潟が生んだ文化を誇りに」の言葉を噛み締めて、今ここからの「最適解」を模索することを求めたいと思うものです。その「最適解」は容易に見つかるものと思われます。今度こそ、「発見」しそびれることなどなきよう。そして、今度こそ、私たちと一緒に「文化」を共創する意識を基に、真に行政が果たすべき役割を果たしてくれることを期待します。

全面広告が掲載された喜ばしい朝に。

(shin)

新潟日報「坂口安吾生誕120年」全面広告のお知らせと寄付のお願い ~新潟の文化醸成のために~

前年末にNoism芸術総監督・金森さんの「退任意向」が公になって以来、皆さん、ずっと心穏やかならぬ日々を過ごしているものと思います。その後も、状況好転の報せは届くこともなく、ただただ日にちだけが虚しく過ぎていくように感じされてなりません。

そのように、一時も心落ち着く暇もなく過ごすこととなっている本年ですが、新潟が生んだ「無頼派」の文豪・坂口安吾生誕120年にあたる年であり、金森さんが安吾の短編にインスピレーションを得て創作する新作『私は海をだきしめていたい』が近々上演されることについては、その「化学反応」に大きな期待感しかありません。

「東京の亜流になるな、自ら独自の創造をなせ」(『地方文化の確立について』)と書いた坂口安吾、そして、「新潟から世界へ」を標榜して、東京を介することなく、世界に繋がることを実践してきた金森さん。どちらも新潟市の誇りであり、私たちに大きなシビックプライドを感じさせてくれる存在です。

坂口安吾生誕120年という記念すべき年にあたり、安吾の会が働きかけるかたちで、新潟日報が全面広告を掲載する企画が只今準備中なのですが、安吾作品をベースにしたNoism公演が控えているのですから、サポーターズと「さわさわ会」もそれに一役買うことと相成った次第です。

同全面広告はまた、安吾の精神に照らし、新潟の文化醸成を目指す趣旨を有するものでもあります。懸案の「退任意向」を巡って、新潟市長と財団が盛んに「公平性と平等性」を持ち出す現状は、「新潟市総合計画2030」で目指される「文化芸術の発展・継承による心豊かな暮らしの充実」即ち「新潟の文化醸成」と相容れないと言わざるを得ません。「文化芸術の発展・継承」に鑑み、「新レジデンシャル制度」は再検討に付される必要があります。

つきましては、このブログでも、安吾と金森さんと新潟の文化とが濃密に重なり合う、この度の企画の実現に向けて、ご賛同頂ける皆さんからの寄付のご協力をお願いする次第です。

詳細につきましては、下のふたつのリンクもご参照ください。

 【参考資料①】新潟日報社・広告紙面概要説明書(PDFファイル)
 【参考資料②】安吾の会・協賛お願い文書(PDFファイル)

因みに、寄付(一口5,000円から。二口以上でお名前を掲載。掲載を希望されない方はその旨振込用紙にお書きください。)はサポーターズ宛てもお受けしております。

 ■振込先: 「Noismサポーターズ」 郵便振替 00520-5-43945 です。

寄付の募集期間は4月10日まで。広告は4月24日の掲載を予定しているそうです。

以上、ご検討のほど、どうぞよろしくお願いします。

(shin)