金森さんが、「舞踊家たちの渾身も既にここにはなく、既に皆さんの記憶のなかにあるのみです」と、舞台の「一期一会」性を口にされたとき、観終えたばかりの者たちは皆、この黄昏時に共有し得た「刹那」のかけがえのなさを、そしてその僥倖を噛み締めていた筈です。加えて、金森さんは、昨年上演した『セレネ、あるいはマレビトの歌』を来年、欧州で、という話があることにも触れましたので、堀内さんが期待するNoism Company Niigataにとって、世界への「2つ目のルート」も稼働準備段階にあることはどうやら間違いないことのようです。
活動継続問題やコロナ禍の苦しみの中で、ひたすら舞う「Noism」の集団としての強さと祈りに幾度も涙した『Fratres』を、アルヴォ・ペルトの楽曲を駆使しつつ、作品の一部とし、全く違った文脈で再構築した『セレネ、あるいはマレビトの歌』。異端・来訪者を排斥し、互いを縛る「集団」と、個を確立した者が手を取り合う「連帯」との対比。女性同士の深い共感が、集団の論理に楔を打つ展開(井関佐和子さんと6人の女性舞踊家が織り成す洗練と爽やかなエロスに充ちたシークエンスには、ペルトの楽曲相まって涙が溢れた)。ベクトルの異なる舞踊の連鎖を休む間もなく躍り続ける井関佐和子さんやNoism1メンバー、野外ステージの高低差を活かした演出の中で「恐怖」さえ覚える登場を見せる山田勇気さん。そして、言葉を越え、この世界に生きる人の胸に確かに届くであろう「ヒューマニズム」を謳い、アンゲロプロスやタルコフスキーといった名匠が映画で描いた夢幻のごとき光景を現出させた金森穣さんの手腕に、陶然としてしまう。Noismを応援してきた者にとっての冥利を覚えつつも、この現到達点は、Noism Company Niigataの更なる未来と拡がりを想像させる。