凄いものを聴いた!観た!-「サラダ音楽祭」メインコンサートの『ボレロ』、圧倒的な熱を伝播♪

2024年9月15日(日)、長月も半ばというのに、この日も気温は上昇し、下手をすれば、生命すら脅かされかねない暑熱に晒された私たちは、陽射しから逃げるようにして、這々の体(ほうほうのてい)でエアコンの効いた場所に逃げ込んだような有様だったのですが、まさにそのエアコンが効いた快適な場で、全く別種の「熱」にやられることになろうとは予期できよう筈もないことでした。

「サラダ音楽祭2024」のメインコンサートは早々に完売となり、当日券の販売もなく、期待の高さが窺えます。池袋・東京芸術劇場のコンサートホール場内では文芸評論家で舞踊研究者の三浦雅士さんの姿もお見かけしました。この日ただ一度きりの実演な訳ですから、期待も募ろうというものです。

私自身、先日の公開リハーサルを観ていましたから、この日の『ボレロ』が見ものだくらいのことは容易に確信できていましたけれど、大野和士さん指揮の東京都交響楽団とNoism Company Niigataによるこの日の実演は、そんな期待やら確信やらを遥か凌駕して余りあるもので、凄いものを聴いた、凄いものを観た、と時間が経ってさえ、なお興奮を抑えることが難しいほどの圧倒的名演だったと言わねばなりません。

そのメインコンサートですが、まず15時を少しまわったところで、ラターの《マニフィカト》で幕が開きました。私にとっては初めて聴く曲で、「マリア讃歌」と呼ばれる一種の宗教曲なのですが、そうした曲のイメージからかけ離れて、親しみ易いメロディーが耳に残る、実に色彩豊かで現代的な印象の楽曲でした。更に、前川依子さん(ソプラノ)と男女総勢50人を超える新国立劇場合唱団による名唱も相俟って、場内は一気に祝祭感に包まれていきます。「ラター」という人名と聖歌《マニフィカト》とは私の中にもしかと刻まれました。

20分の休憩を挟んで、後半のプログラムは、ドビュッシーの交響詩『海』で再開しました。こちら、どうしても、金森さん演出振付による東京バレエ団のグランドバレエ『かぐや姫』、その冒頭ほかを想起しない訳にはいきませんよね。粒立ちの鮮明な音たちによって、次第にうねるように響きだす音楽によって、そこここであの3幕もののバレエ作品を思い出さずにはいられませんでした。その意味では、都響によるダイナミックレンジが広く、階調も情緒も豊かな熱演が、同時に、次の『ボレロ』へのプレリュードとしても聞こえてくるというこの上なく贅沢な選曲の妙、憎い仕掛けにも唸らされたような次第です。

そしていよいよラヴェルの『ボレロ』です。金森さんと井関さん共通の友人でもあるコンサートマスターの矢部達哉さんが楽団員たちとのチューニングを始めると、客電が落ち、井関さんをはじめNoismメンバーが上手(かみて)袖からオーケストラ前方に設えられた横長のアクティングエリア中央まで駆け足で進み出て、特権的な赤い衣裳の井関さんを中心に、フードまで被った黒い8人が円を描くように囲んで待機します。金森さんの師モーリス・ベジャールの名作と重なる配置と言えるでしょう。やがてスネアドラムがあの魔的な3拍子のリズムを静かに刻み始め、フルートがそこに重なって聞こえてきます…。昨年末のジルベスターコンサートでの原田慶太楼さん指揮・東京交響楽団の時とは異なり、今回は中庸なテンポです。

金森さんによるこの度の『ボレロ』ですが、先ずは赤い井関さんと周囲の黒ずくめ8人の関係性の違いが、ベジャールの名作と最も大きく異なる点と言えるかと思います。音楽のリズムやビートを最初に刻むのが井関さん。そしてその中心からそのリズムやビートに乗った動きがじわじわ周囲に伝播していくことになります。

両腕を交差させて上方に掲げたかと思えば、両手で上半身を撫でつけたり、或いは、両手を喉元までもって来ることで顔が虚空を見上げるかたちになったり、苦悶と言えようほど表情は固く、如何にも苦しげな様子を経過して、決然たる克己の直立へ戻るということを繰り返すうち、次第に、井関さんから発したその身振りが断片的に、先ず周囲の幾人かに伝播していくのです。この「抑圧」が可視化されている感のあるパートで用いられる舞踊の語彙にはベジャール的なものはまだ含まれておらず、これまでのNoismの過去作で目にしてきたものが多く目に留まります。

やがて井関さんとその周囲、赤と黒、合わせて9人のポジションは、(徐々に黒い衣裳を脱がせながら、脱ぎながら、)3人×3という構成にシフトしていきます。それは即ち、最初の円形が横方向へ伸びるフォーメーションへの移行を意味します。そうなるともう多彩な群舞の登場までは時間を要しません。Noism的な身体によるNoism的な舞踊の語彙が頻出する限りなく美しい群舞が待っていることでしょう。見詰める目の至福。そしてそこに重ねられていくのは師へのオマージュと解されるベジャールの動きの引用。ここに至って、感動しない人などいよう筈がありません。飛び散る汗と同時に、9人の表情もやらわぎを見せ始め、笑みさえ認められるようになってきます。それは演出でもあるのでしょうが、自然な成り行きに過ぎないとの受け止めも可能でしょう。可視化されるのは「解放」です。その「解放」があの3拍子のリズムに乗って圧倒的な熱と化して、見詰める目を通して、私たちの身体に飛び込んでくるのですから、一緒に踊りたくなってうずうずしてしまう(或いは、少なくとも一緒にリズムを刻みたくなってしまう)のも仕様のないことでしかありません。(私など全く踊れないのにも拘わらず、です。)そして同時に、心は強く揺さぶられ、狙い撃ちにされた涙腺は崩壊をみるよりほかありません。

金森さん演出振付のダンス付きの、この都響の『ボレロ』は、最初のスネアドラムが刻んだかそけき音に耳を澄まし、それと同時に生じた井関さんの動きに目を凝らしたその瞬間から、最後の唐突に迎える終焉に至るまで、刻まれる時間と場内の空気は全てオーケストラによる楽音とNoismメンバーの身体の動き、ただそのふたつのみで充填し尽くされてしまい、夾雑物などは一切見つかりようもありません。両者、入魂の実演はまさに一期一会です。そんな途方もない時間と空間の体験は、それが既に過去のものとなっているというのに、未だに心を鷲掴みにされ続けていて、落ち着きを取り戻すことが難しく感じられるのですから、厄介なことこの上ありません。

繰り返されたカーテンコールで、満面の笑みを浮かべて拍手と歓声に応えた金森さんの姿も(腕まくりと駆け足も含めて)忘れられません。そんなふうに凄いものを聴き、凄いものを観た9月折り返しの日曜日、Noism20周年のラストを飾るに相応しかったステージのことを記させて貰いました。

(shin)