『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日、「舞踊」と一体化して踊った舞踊家たちに客席は熱狂!そしてプレトークのことも♪

この「55分」と「15分」の組み合わせを僅か「3回」しか含まない「3日間」は如何に短い時間であったことか。そんな思いに駆られている今は2025年6月29日(日)の夕刻。陽が傾いていて、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日の舞台の幕は既に降りてしまっています。

「3日間」で「3回」、その3日目で3回目の舞台は、舞踊家たちが「舞踊」と一体化した感のある渾身の踊りを見せてくれたお陰で、客席でその一挙一動を細大漏らさず見詰めようとした私たちも、自分のなかにこんなに滾る思いがあったのかと、驚くばかりの「熱狂」に引き摺り込まれてしまうことになりました。りゅーとぴあ〈劇場〉にはそんな非日常過ぎる時間が訪れていたのでした。この表現には、一片の誇張も含まれていません。そしてこの日の高揚感を味わってしまった者は誰しも、既に「Noism沼」の只中にいる自分を見出している筈かと。この表現も、全く大袈裟なものではありません。ただの帰結に過ぎないからです。私、今もまだ余韻に浸っています。

動きが流れるような滑らかさを獲得したことに加えて、表現には一層のエッジが利き、作品はどこをとってもその強度を増して、悲劇性が哀しくも美しく胸に迫ってきた『アルルの女』。
胸熱の高揚感は言うまでもなく、身体、衣裳、照明、装置の全てが綾なす色の美しさは息をのむほどで、金森さんの美意識がこれでもかと詰め込まれた『ボレロ - 天が落ちるその前に』。
両作品によって心を激しく揺さぶられ、興奮の坩堝と化した客席からは、(この日も)割れんばかりの拍手+「ブラボー!」+スタンディングオベーションが沸き起こり、その「熱狂」のなか、新潟公演の幕は降りていきました。

そこから時間を随分と遡ることになるのですが、開演時間(15:00)の1時間前に初めて取り入れられた趣向である「プレトーク」についてご報告することも、この日のブログの務めと認識しておりますので、ここからは、金森さんが大勢の前で語った内容を掻い摘まんでご紹介させて頂きます。(13:58~14:17)

○初めての「プレトーク」、やりたいと言い出したのは井関さん。「踊っていないので、やれますよね」と言われて。元来、前もってしゃべることは好きではないのだが。色々書いたりはしているけれど…。

●(『アルルの女』のあらすじに触れながら、)祖父、母、フレデリ、そして原作では「ばか」と呼ばれる弟ジャネという家族構成中、「一番大切なフィギュアなんじゃないかと思った」のは、弟ジャネ。「アルルの女」と息子、母と息子、家族と村、村と都会、様々な問題について、その全てを見詰めながら、ある種の「知的判断」を下さない存在。

○そのジャネをその身振りから、犬や猫という「ペット」と見た人もいたりするみたいだが、彼は弟。しかし、自由に発想して欲しい。皆さんの感性が何を読み解くか、それが「芸術」。

●祖父の役名は「常長」とした。初めて欧州に渡った日本人のひとり(支倉常長)。原作の舞台は南仏だが、「模倣」してやっても仕方ないので、そこになにがしか「和」の要素、身体的・精神的な繋がりのエッセンスを盛り込みたいと思ったもの。

○南仏の死生観、(花々を投げ込むような)祝祭性のなかに、すっと入り込んでくる死。死の捉え方を南仏のものではなく、「和」的なものに置き換える。(「メメント・モリ」、『葉隠』に言及しながら、)武道をもってある種の「生きること」「死ぬこと」を見る。

●南仏と日本人。『ファランドール』の感動。聴いたとき、木刀となぎなたを持つ日本人の姿が見えた。そんな自分を「変な人なんです」と金森さん。

○ビゼーによる『アルルの女』、もともとは「劇付随音楽」として作曲されたもの。ビゼーの死後、後世の人たちが「組曲版」を構成。もとが悲劇だけに、「劇付随音楽」には、不安や哀切を掻き立てる旋律があり、そのCDに出会ったとき、これはオリジナルなものが作れるなと思った。このような音楽構成で『アルルの女』をやっている例は他にない。

●ドーデの原作「戯曲」には、村、コミュニティ、家族といった囲い(フレーム)が出てくる。人はひとつのフレームのなかに、またいくつものフレームを抱えて存在している。フレームはその人を規定する要素でありつつ、それによって、どれだけ束縛され、囚われて生きているか。フレームのメタファー。そのひとつとして、劇場舞台のプロセニアム・アーチも挙げられる。(それがために、かつて街なかへ出たりした人たちもいたが、やがて劇場に回帰した。)『アルルの女』では、それを視覚的に意識して貰いつつ、物語的には、他にもフレームが登場してくる。

○フレームと関連したものとしての「静止」のシーン。ある種の「絵画性」がある。静止画は、物質化した「もの」として見ようとする見方による。身体を単純に「もの化」することは出来ないが、そこにある身体を極めて非日常な「もの」として、或いは、身体の可能性として、美しい身体を提示したい。カラヴァッジオが描いた、ルネサンス期の絵であるような身体を。
今回は演出としても、いつも以上に意識的に「静止」を多用している。絵画から発せられる非言語的な何かを視覚的に読み取ろうとすることは、舞台芸術に対する場合も同じ。

●(「プレトーク」も終わりに至り、)一旦、今聴いたことは全て忘れてください。舞台芸術を観ている時間は本当に自由な時間。正しいか、正しくないかではなく、「自分はこう感じた」を大切に。

…頑張ってみたつもりです。金森さん初めての「プレトーク」の試み、ご紹介は以上とさせて頂きます。

さて、6月のNoism公演はこの日をもって終了し、今度は2週間後の7/11(金)、12(土)、13(日)、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉での「埼玉3Days」に引き継がれます。
埼玉でご覧になる予定の方、もう少しの辛抱です。その間、期待値をバクあげしておいてお運びください。それでもその「期待値」想定を遥かに凌駕する大きな感動と出会えることに間違いないものと信じます。「しあわせは食べて寝て待て」ってことですかね。

書き終わってみると、既に「大河ドラマ」は終わっていました(汗)。蛇足でした。

(shin)

「凄絶」極まる雪に見舞われた新潟市、「Choreographers 2024」新潟公演(2/7)を観てきました♪

この数日間、各地に大雪を降らせ、人々の生活に難儀をもたらしている「JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)」。耳慣れのなかったそんな略称が盛んにひとの口の端にのぼるようになり、新潟にも、気象庁から「顕著な大雪に関する情報」なるものが出されるなど、「凄絶」で危険なまでのドカ雪が襲った如月の週末2月7日(金)、りゅーとぴあ〈スタジオB〉で、「JCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)」のコンテンポラリーダンス新進振付家育成事業2024「Choreographers 2024」新潟公演を観てきました。

こちらにその特設サイトへのリンクを貼ります。

振付家に光をあて、社会に対して発信すること。振付家、そしてダンス作品の価値や社会的意義を積極的に打ち出し、新しいダンスの観客を開拓すること。同時に各地の劇場とのネットワーク作り、各地域のダンスの刺激剤となる場を目指す、公演&トークのプログラムです。 (特設サイトより)

お恥ずかしながら、寡聞にして、これまでよく知らずにきたシリーズでしたが、元Noism1の池ヶ谷奏さんが新潟の「しもまち」をテーマにした作品が観られるというSNSに触れて興味を覚え、是非とも!と足を運んだ次第です。

過日の池ヶ谷奏さんのインスタへのリンクも貼っておきます。

公演前には、「メディアとしてみる、コンテンポラリーダンス!?」のタイトルのもと、吉田純子さん(朝日新聞社 編集委員)と呉宮百合香さん(アートコーディネーター・舞踊評論)のおふたりによるプレトークがあり、とても興味深く刺激的なお話をお聞きすることが出来ました。(聞き手はJCDN理事長の左東範一さん。)

吉田さん(今回が「初新潟」): 記憶にある初コンテンポラリーダンスは、上野水香さん・草刈民代さんが踊ったローラン・プティ『デューク・エリントン・バレエ』。自分が観ているものが何かわからない楽しさがあるのがコンテンポラリーダンス。自分のなかの常識で理解するのではなく、自分の現在地における頭の中を見たり、そのときどきの自分の感情・感覚を確かめることが出来るとし、事実の底流にあって、未だ言語化されていずに、うごめいているものを見る体験がコンテンポラリーダンスを観ること。例えば、コンクールの結果などには、観る「基準」の外注化という側面もあり、思考がからっぽになってしまうようなことも起こりかねない。しかし、からっぽにさせないのがコンテンポラリーダンス。

呉宮さん(今回が「初新潟市」): 初コンテンポラリーダンスはNoism『NINA』!コンテンポラリーダンスを踊る身体は超ハイコンテクストで、物凄い情報量の世界。そのときの自分に受け止め切れないものに出会い、自分が揺るがされて、世界が書き換えられていく体験。言語的に考えている(縛られている)ものではたどり着けないものを観ること。それだけに居心地がよいものばかりではない。作品になった時点で、違う時間軸に入るものであり、それは属人的に観ることを意味する。日本では、作者の意図を重視し過ぎ。
しかし、例えば、コンクールにおける審査時など、自分の価値観を捨てることは意外と難しいため、「本当に新しいもの」は見出し難かったりもする。審査員同士の対話のなかで見方が変わっていき、自分のなかで、作品が更新されていったりするため、作品との関係性は上演だけでは終わらず、その後の時間も含めてのものとなる。
また、所謂「再演」というものはない。毎回、新しくて、全く違った作品に見えてくるもの。

左東さん(「高校だけ新潟」): 22年前にここで『男時女時』を観ている。KYOTO AWARDの審査は「闘い」。各自こだわりがあり、「ここまで評価が違うか」と思うことも多い。真に新しいものを見出すため、「自分はこれがいい」ということを常に疑っている。
ダンスにとって時間は関係ない。踊る人によって違ったものに見えてくるもの。
このシリーズでは、振付家に焦点を当てているが、振付家とは、動きのムーブメントを振り付けるだけではなく、照明、演出をはじめ、作品全てをつくる存在。思想家・哲学者とも呼べる所以。

以下、この日の3作品について簡単に記します。

○「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD (KCA) 2022」受賞振付家作品
☆大森瑶子さんの『Tuonelan』: 大内涼歌さん、大森瑶子さん、尾上実梨さん、水谷マヤさん、八木橋華月さん

クラシック曲、ノイズ音、YUIの懐かしのJポップ、ラヴェルのあの超有名曲等々、どんな音楽にもしなやかにビートを刻み、フレキシブルに踊り切ってしまう、そんなダンスへのパッションが横溢する小気味よい作品。衣裳の白、ピンク、緑も若々しい生命力を感じさせ、現代風のカチューシャも印象的。

○2000年代のコンテンポラリーダンスの名作をリバイバル
☆砂連尾理さん+寺田みさこさん(じゃれみさ)の『男時女時』リバイバルver.: 長野里音さん、関口晴さん(2/7)、(カナール ミラン 波志海さん(元Noism2)(2/8))  

冒頭、聞こえる声「惚れる、好き、愛、恋、恋人」に寄りかかっていては、肩透かしをくらってしまう。格好良さやエロスを徹底的に排除して、いかにもゆるく、オフビートを装いながらも、いつの間にか、そうした溢れる「だるい動き」が反転して居心地の良さに変わってくる演目。「高揚感」など簡単に生み出すことが出来ることを示す中間部も含めて。

○地域の若手ダンサーと作る新作
☆池ヶ谷奏さんの『湊に眠る者たち』: 天野絵美さん、髙橋陽香理さん、波多野早希さん、樋山桃子さん、堀川美樹さん(元Noism2)、横山ひかりさん(元Noism準メンバー)、池ヶ谷奏さん(元Noism1)

新潟市の「しもまち」歩きをベースに、そこで拾った土地に眠る、或いは、土地に連綿と生き続けるものたち、そして土地に流れる時間を、7人の感性・身体というメディアを通して、私たちに豊かに伝えてくれる一作。土地の「糸」で紡がれてリズミカルに進んでいく心地よさは、観る者を、未だ見たことのない「しもまち」へと誘っていく。

奇しくも、この日(2/7)はNoism「円環」埼玉公演の初日にもあたっています。コンテンポラリーダンスの多様性を意識する機会となりました。

終演後、21時をまわったりゅーとぴあ周辺には、やって来た17時頃から少なくとも30cmはかさ増しされた積雪があり、人は未踏の雪原を歩かねばならないといった光景が広がっていて、さすがに呆然としてしまい、画像を撮ったりする余裕もなく、帰路を急ぎました。
その後、新潟市の大動脈である新新バイパスも通行止めになってしまったとの報に接し、何とか帰宅できたことを心から喜んだような次第です。しかし、家に着いてからも、自宅の駐車スペースは膝までの高さの雪に覆われているのを目にし、まずは30分くらい雪かきをしなければ、車を入れることすら出来なかったことも併せて記しておきます(大汗)。

以上、雪の「Choreographers 2024」新潟公演の報告とさせて頂きます。

(shin)