1年半振りのインスタライヴで語られた『アルルの女』と『ボレロ』♪

2025年7月15日(火)の夜20:00から、金森さんと井関さんが1年半振りのインスタライヴを行い、2日前に大好評のうちに全6公演の幕をおろした『アルルの女』/『ボレロ』公演について大いに語ってくださいました。

とても興味深いお話が聴けますので、まだお聴きになっておられない向きは、こちらのリンクからお進み頂き、アーカイヴをお聴きになることをお勧めします。

このブログでは、以下に、おふたりのお話を掻い摘まんでご紹介したいと思います。

*『アルルの女』について
○構想は大体1年前くらいからあったが、クリエイションを始めたのは、「円環」公演が終わった3月からで、黒部の『めまい』の稽古と並行して。
●原作を読み、「劇付随音楽」を見つけて「いけそう」と思った金森さんに対して、当時、その「劇付随音楽」を知らなかった井関さんの反応は芳しいものではなかった。しかし、構想と登場人物について聞いて不安は消えた。最後の決め手は複雑で重層的な原作で、オリジナルなものが作れると思った。
○テーマカラーはオレンジと黒。オレンジは人間の網膜が闇のなかで一番認識する色味だとなにかで読んでいて、『アルルの女』の世界観として「これでいける」と思った。コンセプトにあったフレームをオレンジにして、衣裳を全員、黒でいくことにした。

●黒の衣裳: 抽象度を保ちながら、物語の本質を届けるチャレンジにあって、出来るだけ単色として、色による説明を排そうとし、また、全体として「死」がテーマであり「喪に服す」意味合いや、超極彩色の花との対比も意識した。
○衣裳・井深麗奈さん: 井関さんの踊りのファンで、ポートフォリオを送ってきてくれていた。和と洋のミックス、あまり語り過ぎないが、ディテ-ルや繊細さがあるもので、「合うんじゃないかな」と今回初めてお願いしたが、良かった。

●井関さんが踊った「母親」: 昔なら「母親」っぽさ、ある種の具体性とか考えがちだったが、 今回は考えなかった。その裏にあって一番大きかったのは、「演出振付家」(金森さん)への信頼。わざわざ自分がそこに何かを付け加えなくても、何者かになろうとしなくてもいいと。ただ、ディテールを深めて、与えられたものの中でどうやって生きるか。
○「演出家」として、物語や役柄を伝えようとする際に、大切なのは「関係性」。社会的な記号としてではなく、関係性によって「母親」に見えることの方がより本質的。
●こういう家族構成の作品を創ろうと思ったことには、今のNoismのメンバー構成やタイミングがあったのは間違いない。

*『ボレロ』について
○「映像舞踊」ではない『ボレロ』は1年半前のジルベスターコンサート(新潟)が初めて。やる度に構成が少しずつ変わってきている。
●たった15分なのに、「しんどい」。(井関さん)
○金森さんが井関さんに言ったのは、「絶対死ににいっちゃいけない」、それを肝に銘じた。「踊り切って、全身全霊、エネルギーを使い果たして終わる」ことで届けるのは、実演家の自己満足で妄想。「死ににいく」ことで削がれてしまうディテールも物凄くある。コントロールし、制御し、観客の中で「燃え尽きた」ように見えればいいのであって、「芸」の本質としては「燃え尽き」てはいけない。そして今回、敢えてそう言ったのは、「生き方」「死に方」を見つけるのかどうか見ていたかったから。案の定、時期ごとに色んなアプローチをしていて、「ああ、いいなぁ」と思った。演出家としては舞踊家を見て気付くことも沢山あり、それは欠かせないこと。井関さんが見つけていっているものを金森さんも見つけていっていた。
●「再演」: 自分がやったことは自分のなかに残っている。前回、「サラダ音楽祭」で、金森さんから「よかった」と言われ、なにか脳味噌に残っていて、そのときの自分の状態にすがって、リハーサルが始まり、まずはそこにいくことを重要視した。金森さんはそのアプローチは違うなと思ったので、「違うと思うよ」と言った。
○今回の『ボレロ』での、金森さんによる井関さんの「観察」の最終過程、「最終章」は次、来月の「サラダ音楽祭」。そこまでがワンセット。
●昨年、ライヴで都響(=東京都交響楽団)とがっぷり四つで、(「死ににいっている」)素晴らしい実演があり、録音でのアプローチで色々見出した今回があり、それを踏まえて、再びライヴで都響とやるときにどうなるか。

○「『ボレロ』は終わったときに息切れてちゃ駄目だよ」(金森さん)に対して、「あの作品で息が上がらないって、どういうことだろう?」、でも考えても無理だと思った井関さん、次の日に、考える前に、身体がそのイメージを掴んでくれていた。「あれっ、息がほとんど切れていない」。頭で考えることを止めない限り、そこには行けない。
●最初、闇のなかで待つ時間が長い。3分くらいの感覚。身体の輪郭だけが見えて、あとは空っぽの状態で立っている状態で、考える必要がないってことと理解。
○「ゼロ・ポイント」(金森さん): そこにいるってだけのために必要最低限のエネルギーで、思考も呼吸の意識もなく、邪念もなく、ただそこにポッとある状態。一回、「しんどさ」がわかると、記憶があるために、やる前から「しんどさ」が来て、そっちに引っ張られがちになるのだが、経験も記憶も何もない「ゼロ」の状態に持っていくのは一番目指すところであり、一番難しいところ。でも、それが掴めたら、あらゆることが「初めて」になる。
●『ボレロ』はゆっくり始まるから、点で、何かがよぎる。それをなくすことは絶対無理だが、そこに留まらないで、過ぎていく感じがあるのは、「再演」を重ねてきたお陰。
瞬間に色々なことが起きているのだが、ずっと流れていて、終わったあとに「あれは何だったのだろう?」と。(井関さん)→「自然。全ては流転する」(金森さん)
○(観世寿夫さんの本『心より心に伝ふる花』を手にした井関さん)「自然」という言葉を、昔は「ふと」と読んでいたと。自然は流動的であり、何かに留まろうとするから、苦しいのだなと。
●自然なままに生きる感受性の強い身体であるためには鍛錬が必要であり、鍛錬は自然ではない。しかし、舞台上では鍛錬したことにしがみつくのではなく、全部捨てて、ぽおんと自然のままの状態的にいること。(金森さん)
○舞台上で「立つ」ことは本当に怖いこと。ピラティスで「立つ」ことを学んできたため、怖さは一切なかった。それが自分の中では鍛錬だった。心が落ち着いたということではなく、単純に体重をかけて、どこにアライメントをおいて、立っていることが。(井関さん)
●脳味噌は不思議。自分で翻弄して、自分でびびって、自分で悩んで、自分で解決している。(金森さん)

○井関さんから金森さんに質問、「見ているときって緊張するの?」: 『アルルの女』では見ているシーンの多かった井関さんは「頑張れ、みんな!」と緊張したというが、金森さんはどんどん緊張しなくなってきたという。若い頃は、自分の思う「100%」みたいなものがあり、「みんなミスしないように」と緊張していたが、今は自分が想定する「100%」というのが如何にレベルの低い話かと経験上わかってきているので、逆に、どう想像を超えてくれるかなと期待をして見ている。(金森さん)→それを聞いた井関さんも、自分に対しては全く同じで、集中はするが、緊張はしなくなって、どう超えてくれるかなと自分に期待していると。「経験だと思う」で一致したおふたり。

Q:今回の公演は観客の熱気が特別凄かったと感じた。それについては?
 -A: 「こちら側もそう感じた」、と井関さん。「特に関東であんな感じになるって、そんなにない」と金森さん。井関さん、「有難かった」
Q:ステージからはどうでしたか?
 -A: (井関さん)「ステージからは結構感じた。(Noismの)お客さんは見ているときのエネルギーでわかり易い。上演中に『これは届いているな』とか、『きょとんとしているな』とか」
Q:(金森さんから)最も「きょとん度合い」高め、引っ張れてない感覚があったのは?
 -A: (井関さん)「引っ張れてない」というより、「ふわっとした」感覚があったのは、『Der Wanderer - さすらい人』と『鬼』。時と場合、公演場所による。(井関さん)
コメント: 3公演観ても足りないです。
 -A: (井関さん)「Noismは何回観ても面白いって言ってくださるからね」
Q: 配信とかライヴとかはやらないのですか?
 -A: (金森さん)「ないですね」 
     (井関さん)「なるべくしたくない。やはり生(なま)で。でも、自分たちが死んだりしたら、配信して貰ってもいいと思う。今現在、生(なま)で出来ているのだから、今一緒に生きたい。でも、死んでしまった後は、金森穣という人の作品を色々な人に観て貰いたいので、いっぱい配信してもいいと思う」
     (井関さん、鈴木忠志さんの本『初心生涯 私の履歴書』(白水社)に出てくる「今生きている人の賞は貰わない」に触れながら、)「今、完結されてしまうことに否定的になってしまう」
     (金森さん)「俺はどうでもいいけど」

*今回の『照明』について
●「片明かり」とか増やした。「御大」(=鈴木忠志さん)からの言葉も自分のなかにあったし、「額縁」のなかの(カラバッジオみたいな)ルネサンス絵画(静止画)みたいなものを考えたときに、あの時代、ドラマチックな絵を産むときに、明かりの方向性は重要だった。フラットにならずに、敢えて強めに、片側だけ強めにした。(金森さん)→「初めてだった。面白かった」と井関さん。
○表情: 昔の日本画では、女性はみんな同じ表情をしていた。それはそのシチュエーションで表情で語らせる必要がなく、観る側が表情を想像することが出来た。表情は見えなくても、その時の身体の在り方と美術や人との関係性の在り方とで、その人がどういう表情をしているかは観客はわかる。(井関さん)→その時々の重要な人物への明かりの当て方、バランスは気にした。(本当に大事なところは顔が見えなくても伝わる。)(金森さん)

Q: 音楽とは何か?
 -A: (金森さん)人類が生んだ最高のものじゃないですか。

終わり間際、残り時間も極めて少なくなったなか、金森さん(と井関さん)から、Noismの次の公演は来月、利賀村での『マレビトの歌』であり、それを上演する場が鈴木忠志さん率いるSCOT「50周年」となる夏のフェスティバルであること(かつ、前掲の近著『初心生涯』の素晴らしさ)が触れられ、次回インスタライヴについても、その利賀村の後、「サラダ音楽祭」の前に、「今度は近いうちにやります。さよなら」と、この日のインスタライヴは終わっていきました。

…こんなところをもって、ご紹介とさせて頂きます。それではまた。

(shin)

『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日、「舞踊」と一体化して踊った舞踊家たちに客席は熱狂!そしてプレトークのことも♪

この「55分」と「15分」の組み合わせを僅か「3回」しか含まない「3日間」は如何に短い時間であったことか。そんな思いに駆られている今は2025年6月29日(日)の夕刻。陽が傾いていて、Noism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日の舞台の幕は既に降りてしまっています。

「3日間」で「3回」、その3日目で3回目の舞台は、舞踊家たちが「舞踊」と一体化した感のある渾身の踊りを見せてくれたお陰で、客席でその一挙一動を細大漏らさず見詰めようとした私たちも、自分のなかにこんなに滾る思いがあったのかと、驚くばかりの「熱狂」に引き摺り込まれてしまうことになりました。りゅーとぴあ〈劇場〉にはそんな非日常過ぎる時間が訪れていたのでした。この表現には、一片の誇張も含まれていません。そしてこの日の高揚感を味わってしまった者は誰しも、既に「Noism沼」の只中にいる自分を見出している筈かと。この表現も、全く大袈裟なものではありません。ただの帰結に過ぎないからです。私、今もまだ余韻に浸っています。

動きが流れるような滑らかさを獲得したことに加えて、表現には一層のエッジが利き、作品はどこをとってもその強度を増して、悲劇性が哀しくも美しく胸に迫ってきた『アルルの女』。
胸熱の高揚感は言うまでもなく、身体、衣裳、照明、装置の全てが綾なす色の美しさは息をのむほどで、金森さんの美意識がこれでもかと詰め込まれた『ボレロ - 天が落ちるその前に』。
両作品によって心を激しく揺さぶられ、興奮の坩堝と化した客席からは、(この日も)割れんばかりの拍手+「ブラボー!」+スタンディングオベーションが沸き起こり、その「熱狂」のなか、新潟公演の幕は降りていきました。

そこから時間を随分と遡ることになるのですが、開演時間(15:00)の1時間前に初めて取り入れられた趣向である「プレトーク」についてご報告することも、この日のブログの務めと認識しておりますので、ここからは、金森さんが大勢の前で語った内容を掻い摘まんでご紹介させて頂きます。(13:58~14:17)

○初めての「プレトーク」、やりたいと言い出したのは井関さん。「踊っていないので、やれますよね」と言われて。元来、前もってしゃべることは好きではないのだが。色々書いたりはしているけれど…。

●(『アルルの女』のあらすじに触れながら、)祖父、母、フレデリ、そして原作では「ばか」と呼ばれる弟ジャネという家族構成中、「一番大切なフィギュアなんじゃないかと思った」のは、弟ジャネ。「アルルの女」と息子、母と息子、家族と村、村と都会、様々な問題について、その全てを見詰めながら、ある種の「知的判断」を下さない存在。

○そのジャネをその身振りから、犬や猫という「ペット」と見た人もいたりするみたいだが、彼は弟。しかし、自由に発想して欲しい。皆さんの感性が何を読み解くか、それが「芸術」。

●祖父の役名は「常長」とした。初めて欧州に渡った日本人のひとり(支倉常長)。原作の舞台は南仏だが、「模倣」してやっても仕方ないので、そこになにがしか「和」の要素、身体的・精神的な繋がりのエッセンスを盛り込みたいと思ったもの。

○南仏の死生観、(花々を投げ込むような)祝祭性のなかに、すっと入り込んでくる死。死の捉え方を南仏のものではなく、「和」的なものに置き換える。(「メメント・モリ」、『葉隠』に言及しながら、)武道をもってある種の「生きること」「死ぬこと」を見る。

●南仏と日本人。『ファランドール』の感動。聴いたとき、木刀となぎなたを持つ日本人の姿が見えた。そんな自分を「変な人なんです」と金森さん。

○ビゼーによる『アルルの女』、もともとは「劇付随音楽」として作曲されたもの。ビゼーの死後、後世の人たちが「組曲版」を構成。もとが悲劇だけに、「劇付随音楽」には、不安や哀切を掻き立てる旋律があり、そのCDに出会ったとき、これはオリジナルなものが作れるなと思った。このような音楽構成で『アルルの女』をやっている例は他にない。

●ドーデの原作「戯曲」には、村、コミュニティ、家族といった囲い(フレーム)が出てくる。人はひとつのフレームのなかに、またいくつものフレームを抱えて存在している。フレームはその人を規定する要素でありつつ、それによって、どれだけ束縛され、囚われて生きているか。フレームのメタファー。そのひとつとして、劇場舞台のプロセニアム・アーチも挙げられる。(それがために、かつて街なかへ出たりした人たちもいたが、やがて劇場に回帰した。)『アルルの女』では、それを視覚的に意識して貰いつつ、物語的には、他にもフレームが登場してくる。

○フレームと関連したものとしての「静止」のシーン。ある種の「絵画性」がある。静止画は、物質化した「もの」として見ようとする見方による。身体を単純に「もの化」することは出来ないが、そこにある身体を極めて非日常な「もの」として、或いは、身体の可能性として、美しい身体を提示したい。カラヴァッジオが描いた、ルネサンス期の絵であるような身体を。
今回は演出としても、いつも以上に意識的に「静止」を多用している。絵画から発せられる非言語的な何かを視覚的に読み取ろうとすることは、舞台芸術に対する場合も同じ。

●(「プレトーク」も終わりに至り、)一旦、今聴いたことは全て忘れてください。舞台芸術を観ている時間は本当に自由な時間。正しいか、正しくないかではなく、「自分はこう感じた」を大切に。

…頑張ってみたつもりです。金森さん初めての「プレトーク」の試み、ご紹介は以上とさせて頂きます。

さて、6月のNoism公演はこの日をもって終了し、今度は2週間後の7/11(金)、12(土)、13(日)、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉での「埼玉3Days」に引き継がれます。
埼玉でご覧になる予定の方、もう少しの辛抱です。その間、期待値をバクあげしておいてお運びください。それでもその「期待値」想定を遥かに凌駕する大きな感動と出会えることに間違いないものと信じます。「しあわせは食べて寝て待て」ってことですかね。

書き終わってみると、既に「大河ドラマ」は終わっていました(汗)。蛇足でした。

(shin)

『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演中日、日々新たな感動と金森さんのアフタートーク♪

蒸し暑かった2025年6月28日(土)。この日が中日(なかび)だったNoism0+Noism1『アルルの女』/『ボレロ』の新潟公演ですが、本公演期間中、唯一、終演後に金森さんによるアフタートーク(約30分)が組まれた、その意味でスペシャルな一日だった訳です。

今日のブログは、そのアフタートークを中心に書こうと思っていますが、先ずはこの日のふたつの演目について感じた事柄を簡単に書き記すことから始めさせて頂きます。

『アルルの女』、昨日に続けて2度目の鑑賞となると、当たり前のことですが、かなり余裕をもって見詰めることが出来ました。前日は拾えなかった細部にも目を凝らすことが出来てみると、この作品は、「ある種の抽象度」があるという触れ込みですが、「妄想」や「妄執」を中心に据えつつ、細部が知的かつ繊細に組み立てられた精緻な作品という思いを強くしました。ただ観ているだけでも相当に楽しい55分間なのですが、作品内で提示された関係性について考えてみようとすると、理詰めで細部から作品全体に迫る途が見えてくるように思えます。ですから、見終えた後もじっくり考えてみる楽しみがある作品と言えるでしょう。

『ボレロ - 天が落ちるその前に』となって、こちらもこの日が2度目の「シン・ボレロ」。散りばめられた師「ベジャール印」の引用と教え子「金森印」の動きが、ラヴェルのあの音楽内で同居し、かつ、豊かに絡み合う様子を見詰めることによって、私たちの目が感知するのは、師と教え子の間の深い愛情以外の何物でもないでしょう。注がれた愛情に報いんとばかりに、ありったけの思いを込めて両手を伸ばして、届け返そうとする先は、これもまた「天」。ですから、「天」はこの作品において、単に「杞憂」の対象であるばかりではないことを感じ、その意味でも胸を熱くしました。

そんなふたつの演目を一度に観ることが出来る「イヴニング」です。ホントに「マジ凄い」としか言えない訳です。

『アルルの女』の後も、客席からは熱のこもった反応が示されましたが、『ボレロ』の後はやはり、大興奮が客席を覆い、割れんばかりの大きな拍手に、「ブラボー!」が交じり、スタンディングオベーションが広がっていきます。舞台上もそれに応えるべく、金森さんも加わったかたちでの前日同様のカーテンコールが幾度も幾度も繰り返されることになりました。

ここからは、この日のアフタートークについて掻い摘まんでのご報告とさせて頂きます。登壇者はNoism Company Niigata芸術総監督・金森穣さん。先ずはいつも通りに、「今日初めてNoismをご覧になったという方、手を挙げてください」から。客席を見渡した金森さん、「割といるね。Noismのチケット買えないよね、ってふうにならないとね」と続けて、その後、スタッフが客席から回収した「質問シート」について、「今日は結構あるね」と言いながらも、ひとつひとつ丁寧に答えていってくれました。

Q1: ストーリーのある演目で、それぞれのキャラクターはどう確立させるのか?
 -A: キャラクターは個々に伝えていくが、最初からはあまり伝えない。舞踊家が音楽と振付からキャラクターを感じ取る。メンバー同士でも、どう感じて、どう出してくるか。そこからまたキャラクターを拾い上げていく。必ずしも当初のイメージ通りではないが、その舞踊家が見出したものは豊かだ。

Q2: 舞踊家の個性について
 -A: 個性のない人はいない。舞踊家にとって、如実に身体そのものが一人ひとりの個性。そしてそれをもって何になりたいかが大事。また、関係性のなかで、人格は形成されていく。例えば、Noismに入って形成されるものもある。日々深化し、日々見出されるものでもあり、それはまた、今のものでしかない。より高めよう、深めようとすること。 

Q3: 海外公演について
 -A: スロベニア公演が6年振りの海外公演。国際的な場で、どう評価されるか、世界中の反応を直に見てみたいと思っている。そして、それをもって「ホーム」新潟で公演したい。自分たちが信じている表現がどう受け止められるのか、如実にわかるのが海外公演。

Q4: なぎなた、木刀が象徴するものは?
 -A: ある種の「葉隠」。生きるとは?死ぬとは?これ以上は言いません。

Q5: 音楽と振付、どちらが先か?
 -A: 7~8割、音楽が先。音楽がなければ、振付が始まらないっていうのはシャクに触ったりもするが(笑)、この世にあって欲しいものの筆頭が音楽。音楽が先。

Q6: 「役を入れ込む」作業に関して
 -A: 「入れ込む」?彫刻家が彫っていく感じ。無駄なものを削いでいく。どうしてもくっつけたくなりがちだが、より強い表現は足していったものではなく、削いでいったものの方。

Q7: 今回の『ボレロ』における、ベジャールさんへのオマージュに関して
 -A: 例えば、師匠の「赤い円卓」が、井関さんの「赤い衣裳」になっている。師匠の円卓は、俺にとっては身体なんだと。

Q8: キャスティングに関して
 -A: その世界のなかに見えることが大前提。しかし、今持っているものだけでキャスティングしていく訳ではなく、これからの変貌も楽しみ。苦労がある方がいい。

Q9: 『ボレロ』を作るときの思いにはいつもと違うものがあったか?
 -A:恩師の代表作ということはあるが、特別違うということはない。覚悟が要ることではあるけれど。

Q10: (山田勇気さんが演じた)「祖父」は侍なのか?
 -A: ドーデによる原作は南仏が舞台で、「常長」は架空の設定。欧州に初めて渡った日本人のなかに侍だった人がいた(=支倉常長(はせくらつねなが))。時代とともにその存在価値が失われていった侍。彼が欧州で家族を持ったらどんなだったかと空想してみた。

Q11: 本番までのプロセスに関して
 -A: 先ずは、信じる。→ついで、批判的に疑う。→そして、迷った末に見つける。そのループのなかで本番という瞬間を迎える。その時にはもう信じるしかないが、終わった瞬間に、また疑問が生じてくるもの。

Q12: ビゼー『アルルの女』の音楽に関して
 -A: 「劇伴音楽」として作曲されたもので、そこには不穏さや蠱惑的なものもあったが、コンサートでは、人はそんなものを聞きたがらず、「組曲版」では、明るくポジティヴなものだけが残ることになった。「そりゃ、そうだよね」。今回、「劇伴音楽」も使ったが、フェイドアウトやカットなどを除けば、特にアレンジはしていない。

Q13: 赤いフレームと衣裳のなかの「赤」に関して
 -A: どちらの色も実は「オレンジ」。衣裳には「傷」が欲しかった。その「傷」から見える内面の色、それをフレームと同じ色にした。オレンジは人間の網膜によって、闇のなかで一番強く認識される色でもある。

Q14: 動きと「語り」に関して
 -A: 常に口を酸っぱくして言っているのが、「動きで語りなさい」。もし語っていない瞬間があれば、それはダメ出しのポイント。

Q15: 『アルルの女』の衣裳に関して
 -A: 今回担当して貰ったのは初めて一緒にやるデザイナー(井深麗奈さん)。あるとき、ポートフォリオを送ってきてくれて、いつか一緒にやりたいと思っていた。先ずこちらからざっくりしたイメージと台本的なものを送り、デザイン画を描いて送って貰うところから始まった。また、お願いしたい。

Q16: どうして『アルルの女』をやることに決まったのか?
 -A: 自分のなかでは、気がついたら決まっていた。「もう『アルル』だなと」。たまたま原作を読んだら、「なるほどね」となった。だから出会い。机の上に読んでいない本や聴いていない音楽がたまっている。それがあるとき、ガチャガチャッと嵌まっていく。今この瞬間にやりたいのに、それが作品になるのが「2年後」というのも不思議と言えば、不思議。その間は「多重人格」的な自分がいる。『アルル』に恋した自分と、次のものに恋している自分。色々なものがアンテナに触れて、それでも失われない「恋」が本物。『アルル』は変わらなかった。
 あと、何作品作れるんだろう。これまで100作くらい作ったが、「今、これが最後になっても構わない」という思いで作ってきた。身体はひとつだし、時間も限られている。結構、本気。もっと色々作りたいのに、今、これしか出来ないそのひとつなので、賭けている。舞踊家の佐和子も、あと何回踊れるだろうという思いに向き合っている。終わるとなくなってしまい、後には残らない、舞台芸術の不条理。いつまで作れるのか、いつまで踊れるのか、わからない。まさに一期一会。だから、見逃さないで欲しい。
 明日もまだ少しチケットはある様子、是非もう一度。(19:15)

…ざっと、そんなところで、アフタートークのご報告とさせて頂きます。(ネタバレとなってしまうやりとりについてはご紹介を控えさせて貰いました。全公演終了後にでも、改めて書きたいと思います。)

さて、日付は6月29日(日)にかわり、はやくも今日が『アルルの女』/『ボレロ』新潟公演楽日です。空席を作っておくのは実に勿体ない、充実した公演であることは、ご覧になられた方はお分かりの筈。ならば是非、もう一度♪未見の方も是非、一度♪この公演を目にしてしまったなら、「必見」というどこまでも「無粋」でしかない言葉など使わずにおきたいところですので、こちらをお読みになられた方は是非、喜び勇んで、りゅーとぴあ〈劇場〉まで♪想像し得る限りの豊かな時間が保障されています。

(shin)