Noism2026夏公演、熱狂的な喝采のなか大千穐楽の幕おりる♪+6/28アフタートーク補遺+ひとつの考察の試み(サポーター 公演感想)

2026年7月26日(日)、Noism0 + Noism1『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』大千穐楽の幕が、埼玉の地でおりました。この日、舞踊家たちが見せた気迫の籠った舞踊はまさに一期一会の絶品。終演後、熱狂的な喝采と波のように広がっていったスタンディングオベーションを受けることになったのもいたって当然のことに過ぎませんでした。むしろ、もっとずっと拍手し続けていたかったという者ばかりだったのではないでしょうか。実際、私はそうでした。

最初の演目『私は海をだきしめていたい』については、下に考察の試みをアップしますので、そちらに譲ることとして、改訂版『春の祭典』に関して、少し書き記しておきたい事柄がありますので、まずはそちらから。

これまでの『春の祭典』においては、衣裳のボタンを留めて襟を立てる/ボタンを外して襟を開く、その違いで集団の凝集性や同調圧力、そしてそれによる排除が可視化されてきましたし、この「改訂版」においても途中までそれは踏襲されていくのですが、最後に置かれた排除にあっては、全員が一様に襟を立てながらの排除なのであり、差別・排除に繋がる徴としての差異を認めることは出来ません。それこそ差別・排除が極めて恣意的な性格を強めているさまに映り、心底震えました。それはこの「改訂版」の恐ろしさのほんの一例に過ぎませんが、この「改訂版」が描いたのは局所的な「コップの中の嵐」などではなく、まさに今日の私たちと社会の姿に違いないのだと言い切りたいと思います。

それでは、ここからは6月28日(日)に行われた金森さんと井関さんのアフタートークに関して、ネタバレへの配慮からここまでご紹介せずにきたやりとりを「補遺」というかたちで載せていくことと致します。

*6/28金森さん&井関さんアフタートーク補遺
Q: (新潟公演における)開演前のホワイエでの金森さんのパフォーマンスについて
 -金森さん: 日常と虚構の間の境界線を曖昧にしていく。皆さんの反応を見て、「じっと見てくるなぁ」とか「無関心なんだなぁ」とか「あっ、写真撮るんだ」など思いながら。

6/27(土)新潟公演初日の開演前、ホワイエでの金森さん

Q: 『私は海をだきしめていたい』、ラストの海はどこの海か
-スタッフ:
 映像は村松浜*。  【*註: 新潟県胎内市】
-金森さん: 音はどこか(の海のもの)。

Q: 『私は海をだきしめていたい』、途中で緞帳がおりることについて 
 -金森さん: 繰り返しが多い音楽(『天国の英雄的な門への前奏曲』)にインスピレーションを受け、同時に、その音楽的な構造が面白いと思い、あの繰り返しにした。振付は全く同じで、世界でもそうそうない。
 -井関さん: (全く同じ振りは)人生で初めてだった。

Q: その繰り返しを踊るとき、気持ちは同じなのか
 -井関さん: それは勿論、違う。一回目と二回目では全然異なる。それでも敢えて同じ形に持って行こうとすることで、観ている者が想像出来る。形は形、感情は感情。リピートするからこそより集中が必要になる。稽古のときには、一回目が終わると、「これ、もう一回やるのか」と思う。結構、しんどい。

この日のブログ記事の最後に、新作『私は海をだきしめていたい』について、「サポーター 公演感想」の枠組みで、ひとつの考察の試みとして拙文を載せさせて頂きます。是非お読みください。

*考察の試み
『私は海をだきしめていたい』、ラストの繰り返しをどう捉えるか

先ずは、安吾をさほど読んでこなかった自身の読書歴に関係するのだが、金森さんが安吾の同名短編にインスパイアされて創作したその新作は、新潟公演初日、私の目には、随分、サティの音楽寄りのものに映り、「インスパイアとはどういうことなのか」との疑問が浮かんできた。「どこかで、時々、思いがけなく現れてくる見知らぬ姿態のあざやかさを貪り眺めていた」男が見詰める女の向こうを「物凄い荒れ海」にせず、ある意味、原作からドラマ的なるものを排除した金森さんでもあるので、尚更に。

そこで、金森さんが口にしていた「繰り返し」を念頭に置きつつ、安吾の短編に再びじっくり向き合ってみる。すると、金森さんの新作の上に、間違いなく、安吾もその像を結んでくるように思えてきたのだ。

サティと金森さんの向こうの安吾を確かめようとガン見したそのラストシーン。新潟公演二日目。「えっ!?やはりそうなのか!?」動揺するも、自分の目に確信が持てず、勇気を振り絞って、アフタートークの質問シートに書き込んだ。「全く同じではないですか」と。すると、「全く同じ振付です。よく見てましたね」と金森さん。井関さんも「人生で初めて」と明かしてくれた。やはり全く同じ振りが繰り返されたのだ。

そのラストシーン。先ず観る者は、金森さんが新作に取り込み、可視化した『天国の英雄的な門への前奏曲』の音楽構造に呆気にとられざるを得まい。その構造、楽譜の途中に、サティによって書き込まれた「幕(RIDEAU)」の6文字(インターネットで確認可能*)があるというもの。その先、静寂も束の間、やがて曲の最後の部分が聴こえてくるのだ。その構造に面白みを見出した金森さんだが、そこは金森さん、サティの指示にそのまま従うことはしない。今作で一度目の「幕」が降りてくるのは『天国の英雄的な門への前奏曲』全曲が終わってからであるし、二度目の(正真正銘の)「幕」は、サティが書いた「幕」の箇所と言えなくもないが、正確を期すなら、その先を完全に無音にしたのち、暫く経ってからだ。

【*註: https://s9.imslp.org/files/imglnks/usimg/c/cd/IMSLP08170-Prelude_de_la_porte_heroique_du_ciel.pdf 
上の譜面では、2頁目の下から2段目、後半に「RIDEAU(幕)」の6文字が出てくる。これだけ、他と異なり、全て大文字で記されている。】

話を金森さんと井関さんのデュエットに絞ろう。その一度目の「幕」の前後に配置されるのは全く同じ振り、つまり、「幕」を挟んで、正確な「繰り返し」が踊られることになるのだ。(それは「幕」の文字の後、それまで出て来なかった旋律を書いたサティとは全く異なるものだ。)作品のラストに至り、「深まり」を排して、平板に横滑りするかの印象で締め括られていくなど、Noismの舞台でも異例中の異例の構成と言えよう。

金森さんと井関さんふたりが踊るデュエットだからと、無意識のうちに、その関係性に「深まり」を錯視してしまってはならない。それは徹底して「深まり」を欠いたデュエットなのであり、意図的な「繰り返し」、その同一性が淡々と正確に踊られていくのだ。そんなサティと金森さんによる「繰り返し」が立ち上げるものこそ、安吾の「永遠の孤独」或いは虚無に他ならない。

その場面において、演出振付家・金森さんは実に意地悪だ、敢えてそう言わねばなるまい。「繰り返し」の最終盤、正確には、二度目の(正真正銘の)「幕」の直前、男(舞踊家・金森さん)に傘に加えて帽子までとらせているからだ。その振舞いは一見、何らかの「深まり」へとミスリードする力能を有してあまりあるものと言えるだろう。しかし、それでもなお、男は黒い上着に己を護らせ続けていたのではなかったか。全体の同一性を揺るがす変化ではなく、「繰り返し」のモチーフの変奏、或いは「差分」に過ぎないのだ。(一度目の「幕」の少し前、)ホリゾントに映し出されたモノクロの「波」の静止画が動き出すのも同様に理解され得るだろう。

そして、演目を閉じることになる二度目の「幕」に関するならば、仮に緞帳がそのおりる機能に失調をきたしたりでもしたならば、私たちは延々と男と女による三度目以降の「繰り返し」すら目撃することになってしまったに相違なかろう、そう言い切ることも出来そうだ。あの緞帳はつまり「繰り返し」を二度目の途中でカットアウトするためにおりてくる「幕」に過ぎないのだ。「もう充分」とばかりに。

可視化される永遠の「繰り返し」など、もう「嫌がらせ」に過ぎず、ここにおいて、そのフランス語をそのまま曲名とし、開演前のホワイエから流れていた『ヴェクサシオン』に正確に回帰することになり、この新作の構造的な特質は幾重にも強調されることになるだろう。

「満ち足ることの影だにない虚しさ」の域で、ただ繰り返されること。安吾とサティに金森さんが重なるところ、一瞬の美しさへの憧れとは裏腹に、索漠とした「永遠の孤独」や虚無を色濃く立ち上げることになる「繰り返し」。「変化」を期待しがちな私たちの視線を悉く裏切りながら、仕掛けられたのは『天国の英雄的な門への前奏曲』の構造に呼応する、只事ではない類の「繰り返し」。しかし、刮目されねばならないのは、新鮮味など微塵も存しない筈の「繰り返し」の最中に浮かび上がってくる光景ではないのか。安吾もサティも遠景に退き、作品の説話論的な流れを超え出たところで、ただ「繰り返し」を踊ることのみに専心する金森さんと井関さんの剝き出しの「今」が生々しく私たちの目に届くだろう。そんな大胆な驚異を可能にする至芸はもはや人外の域かと。ほくそ笑む演出振付家・金森さんの顔が目に浮かぶようだ。舞台は虚心坦懐に見詰められねばならない。

最後にもうひとつだけ。安吾による男の独白中、「肉慾の上にも、精神と交錯した虚妄の影に絢(あや)どられていなければ、私はそれを憎まずにはいられない。私は最も好色であるから、単純に肉慾的では有り得ないのだ。」の2文が、少しかたちを変えながら、否、ほぼほとんどそのままに、客席から、金森さんとNoismが立ち上げる非日常を見詰めることを愛する私、私たちへと繋がるものであると気付かされたことも書き記しておきたい。「精神と交錯した虚妄」、Noismの舞台にはいつもそれが溢れている。

(shin)

埼玉に降臨したNoism、客席を埋め尽くした観客を魅了♪(埼玉公演初日)

2026年7月25日(土)、ドキドキそわそわした一日。朝、待ちに待った彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉でのNoism0 + Noism1『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』を観るべく、ドキドキそわそわしながら、上越新幹線で新潟から大宮を目指しました。朝から既に暑い暑い一日。

乗車したのはいつもより少し遅めの新幹線で、大宮着は10:20。下車する少し前からこの日のドキドキそわそわは「2乗」になります。というのも、9月の利賀芸術公園、「SCOT SUMMER SEASON 2026」で上演されるNoism『水妖譚』の電話予約がこの日の10時からの受付開始だったからです。私が行けるのは週末の土曜日のみ、争奪戦必至な訳です。

下車準備をしておいて、10時を迎えると、デッキ部へ移動して、ガタゴト音のなか、スマホを操作します。繋がりません。大宮で下車して、早速、ホームでも。繋がりません。埼京線で宿泊予定の赤羽へ。そこからも何度もかけました。繋がりません。再度、埼京線で与野本町を目指し、到着後は公演会場の彩の国さいたま芸術劇場を目指し、(周囲の安全を確かめながら)一歩ごとの歩きスマホでした。繋がりません。劇場に着いてからは、Cafe Paletteで食事しながらの鬼電です。繋がりません。諦めきれず、何度も何度も。かけ直すこと、251回。(スマホはちゃんと回数を表示してくれるのです。)そして時間は13:15、「あっ!」と声が出そうになります。遂に繋がったからです。しかし、電話の向こうからは、無情にも、土曜日の公演は既に満席との由。撃沈でした(涙)。

ですが、そんな「傷心」さえ忘れてしまうほど、熱い感動で揺さぶってくれたもの、それこそ、この日、埼玉の大入りの舞台に降臨したNoismの2演目でした。

まだ明日、1公演を残していますから、ネタバレを避けつつ、その意味では、まだまだ「微妙な」ご紹介に留めさせて頂きます。開場すると、そこにサティの『ヴェクサシオン』が流れているのは新潟4公演と変わりありませんでしたが、探せども、ホワイエに「その人」の姿はなく、はや、開演時間が迫ってきます。5分前くらいになっていたでしょうか。客席後方の入り口付近に漸く「その人」を認めました。そこからは、新潟公演の初日と似た流れで、『私は海をだきしめていたい』に繋がっていきました。

その妖しくも謎めいた、心地よい迷宮のような赤と黒を目の前にしたならば、もう心はすっかり連れ去られてしまい、抜け殻のようになった身体でうっとり見詰める以外ないのではないでしょうか。(この新作については、明日、大千穐楽の幕がおりてから、ひとつの拙い考察の試みをアップさせて頂こうと考えております。)

15分の休憩を挟んで、改訂版『春の祭典』です。新潟4公演でも心を鷲掴みにされてきてはいたのですが、根がボンクラなもので、お恥ずかしながら、この日になって漸くピントがカッチリ合ったように思えました。危ういバランスで成立していた関係性が何かをきっかけに崩れ、様々に移ろっていく様子が恐ろしいが迄に可視化されていきます。描かれる危機感はまさに今日的なものであり、ヒリヒリする痛みの実感を伴う点で、リアルホラーと言っても過言ではないでしょう。

終演後、(新潟4公演と同様に)金森さんも登場するカーテンコールでは、盛大な拍手と「ブラボー!」の大音声が場内に長く谺したことは言うまでもありません。場内を埋め尽くした観客が贈る拍手に対し、やがて、金森さんが、そして、舞台上の舞踊家全員が拍手して返すに至るその瞬間、場内に漲る一体感は即、多幸感でもあり、一人残らず、埼玉の地で非日常の圧倒的な高揚感を味わい得たことでしょう。

暑い暑い(そして熱い熱い)一日の締め括り。感動に包まれながら、宿泊するホテルにチェックインし、「土用期間」ということで、こちらはなんとか手に入れることが出来た老舗名店の特上鰻弁当を頬張りつつ、この日のふたつの演目を回想する豊かさも噛み締めたことを書き留めておきます。

(shin)

『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』新潟公演2日目(アフタートーク付き)レポート(2026/06/28)

2026年6月28日(日)、気温もあがり、蒸し暑かった新潟。しかし、それに負けず劣らず熱かったのは、りゅーとぴあ〈劇場〉のNoism界隈ではなかったでしょうか。

前日、公演初日のブログを書いてくださった久志田渉さんが、「詳細」を伏せつつも、なるべく早い入場を勧めていたこと、(その「詳細」も既に各種SNSにて広く知られた感がありますが、ここではまだ頑なに伏せつつ進めさせて頂きます(笑)。ご了承ください。)それに関連して、開演前のホワイエは普段の光景とは様相を異にし、その熱気は弥増すばかりでした。さすがの金森さんとはいえ、『ヴェクサシオン』の旋律を840回繰り返し、一曲通しで流すことこそしませんが、そのピアノのリフレインのなか、ルネ・マグリットっぽいシュールさを演出してくれています、とだけ。で、敢えて、私も繰り返します。「詳細」は伏せますが(笑)、今公演はなるべく早く入場された方がよろしいかと。

そんなシュールさから横滑りするかのように、公演2日目の幕が上がりました。官能の『私は海をだきしめていたい』、戦慄の改訂版『春の祭典』、どちらにも渾身の実演を見せつけられ、由って来たるところこそ違えど、心拍数が増加して、耳たぶは熱くなり、ドクンドクンという音が聞こえてくるといった同種の身体反応が生じたのでした。この日のカーテンコールも拍手は鳴りやまず、「ブラボー!」の掛け声が飛び交うなか、幾度も繰り返されることになりました。

ここからは、この日の終演後に開催されたアフタートークについての掻い摘んでのご報告とさせて頂きます。登壇者は、Noism芸術総監督の金森さんと国際活動部門芸術監督の井関さんです。(16:40~17:23)

(なお、このあと、月が変わると、新潟・埼玉併せて4公演が控えている事情から、作品の内容や構成に深く関わり、ネタバレに繋がるものは、今この場ではご紹介いたしませんので、その点、ご了承ください。そうしたやりとりにつきましては、全6公演終了後に「補遺」というかたちでご紹介させて頂くつもりでおります。暫くお待ちください。)

Q: どうしてそんなに踊れる身体でいられるのか?
 -井関さん:
 日々のことをただただやっていたらここまで来た。やればやるほど面白味が出てきた。踊れる幸せを感じる。この先の次元が楽しみ。長くやっていればこそ、見出せる領域がある。ふたりとも負けず嫌いなので、一生懸命ストレッチはしている。

Q: 身体で表現するときに大切にしていることは?
 -井関さん:
 色々あるので難しいけれど…(暫し熟考したのち、)呼吸ですかね。身体の隅々まで呼吸が行き渡るようにすると、身体を感じることが出来る。
 -金森さん: 呼吸のコントロールが一番難しい。
 -井関さん: 呼吸が乱れていると、「酔っているな」と反省する。

Q: パイプオルガンと共演するのはいつか?
 -Noismスタッフ・上杉さん: 来年3月13日になる。

Q: 『私は海をだきしめていたい』をピアノの構成にしたのは何故か?
 ー金森さん:
 小説を読んだ際、ある種のシンプリシティ(単純さ・素朴さ)を感じた。そしてサティの精神を最も反映するのはピアノだろうと。ここまでピアノだけで作品を創ったことはなかった。

Q: 『春の祭典』創作におけるインスピレーションについて。
 -金森さん:
 これまで学んだこと、気付いたことが出てくるのであって、ことさら、何かを入れようというようなことではない。

Q: 昨日と今日、前方席と後方席で観て、見え方が異なった。お勧めの席はあるか?
 -金森さん:
 前で1回、後ろで1回、右で1回、左で1回(笑)。プロセニアム・アーチのなか、見え方は異なる。一期一会でもあるし、見え方が異なるのは劇場文化の豊かさ。

Q: 印象的だった椅子や装置、衣裳など、どのくらいの段階で決めるのか?
 -金森さん:
 1年くらい前、遅くとも半年前には決める。プロダクションが大きくなると2年前とかも。自分の場合、丸投げはしない。椅子についても、(須長檀さんと)「割れたら血が出ている」「五線譜はどうか」などイメージのやりとりを重ねていった。

Q: 最前列から見ても「バミリ」は見えないが、どうやっているのか?
 -井関さん:
 星の数ほどある。彼(金森さん)の場合、曖昧さは存在しないから。『春の祭典』初演時はリノリウムにペイントをしていたので、バミリは大変で、大きいものだった。今回の改訂版では黒いリノリウムなので、割とバミリは見えやすいのだが、脚光がつくと見えなくなって本当に大変になる。

Q: この度の改訂版『春の祭典』には戦争への恐怖を感じる。意図してのものか?
 -金森さん:
 その都度、手を入れているが、今回は凄惨なイメージにした。それには、この時代の危機感が反映している。しかし、虚構のなかで凄惨さを伝えることのなかには、そこに現実は異なることへの祈りや願いがある。

Q: 黒部の前沢ガーデン屋外ステージとここりゅーとぴあ〈劇場〉は大きく異なる舞台だがどう考えているか?(黒部・前沢ガーデンのガーデンマスターからの質問)
 -金森さん:
 空間によって身体は規定される。その空間をどう活かすか。屋外ステージに比べて、自由があるように見えるかもしれないが、制約はある。照明効果で色々なことを表現している。(黒部では、勿論、天井からの照明は釣れないが。)

Q: 今回の作品では、男性と女性、はっきり分かれる演出が見られた。演者それぞれを分けて振付を行っているのか。
 -金森さん:
 あくまでも目の前の舞踊家に振り付けている。その舞踊家からインスピレーションを受けて振り付けている。

Q: 井関さんは男性の身体がいいなと思ったことはあるか?筋肉量は多い方がよいのか?
 -井関さん:
 20代前半には男性みたいに踊りたいと言っていた。表面的な筋肉量は関係ないが、力はあった方がよい。金森さんは筋肉を使う前に、骨が動く。お腹のセンターの力が凄くて、安心感がある。振り回されても大丈夫だなと。しかし、(若い人となら、自分のコントロール内で踊れるが、)これだけ力のある人(金森さん)と踊ると疲れる。それは、自分の「範疇」の外に出されてしまうからで、結構シンドイ。見た目で言えば、筋肉がある方が良いですよね(笑)。
 -金森さん: 性差を超えたところに、表現し得る何かがある。なんとも言えない感じで、究極の贅沢かと思う。若い頃にいたベジャールさんのところには魅力的な男性が多くいて、そのあたりの感受性が強くなった。

Q: 『私は海をだきしめていたい』には鏡面的なものを感じる。どのようにインスピレーションが湧くのか?
 -金森さん:
 小説が持っているものよりも、作家に興味がある。何故こういうものを書いたのか。一人の人間が自他を描く。安吾も自分の内なる女性を描いたということ。鏡面性がある。サティの「繰り返し」に見られる偏執的な精神性に安吾が惹かれた。安吾が書いた同名の短編小説は7部立て、そこからのインスピレーションで、サティの7曲で構成することにした。

…と、(ネタバレに繋がりそうなものは一旦除外して、)大体そんなところでしたでしょうか。頑張ってはみましたけれど、寄る年波もあって、聴きながらのメモもきちんととれなかったりしましたし、これくらいでご容赦願います。m(_ _)m

ご紹介することになる最後の言葉はこのところ金森さんからよく聞くようになったものです。

金森さん: 「ちょっとわからないところがあったなぁ。」そう思ったら、繰り返し観て欲しい。2度観るとわかると言われます。

私もまだまだわかりたいので、来週末もまた観に来ます。是非、皆さまも。
では、これを以ってこの日のブログの締め括りと致します。また今週末に。

(shin)

金森穣、Noismメンバーの献身と反骨に滂沱(『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』公演初日)(サポーター 公演感想)

2026年6月27日(土)、ついにNoism0・Noism1『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』が初日を迎えた。金森穣Noism芸術総監督に、「安吾の会」世話人代表、シネ・ウインド代表・齋藤正行が「坂口安吾作品を舞踊化してほしい」と伝えてから長い時が過ぎたが、ついに結実する日を迎えた。

シネ・ウインドや安吾の会メンバーはNoismを長きに渡って応援してきたが、金森穣さんの「退任」、安吾作品の舞踊化とあって、これまで以上に公演の盛り上げに奔走した。寄付を募っての新潟日報紙での「坂口安吾生誕祭120」と『私は海をだきしめていたい』をPRする一面広告掲載(4月24日)、シネ・ウインドでの『私は海をだきしめていたい』特大ポスター掲示や、『ジョン・クランコ バレエの革命児』上映(5月16日〜6月5日)などなど、今回の公演がひとりでも多くの方に届くよう、心を込めて広報を展開した。

そして公演初日に併せて、本日10時からは安吾のご子息・坂口綱男さんの案内による、恒例の安吾の生地・西大畑界隈の街歩きを開催。関東から参加された2名を含む5名の参加者が集まった。今回から街歩きの集合場所が「ゆいぽーと」(旧二葉中学校)に変わったこともあり、綱男さんはまず日本海の風景を見るルートを取った。好天に恵まれ、青く透き通るようだった海もまた、安吾原作の舞踊の誕生を寿ぐように思えたのは、私の牽強付会だろうか。今回の街歩き参加者全員が、Noism鑑賞を予定していたことも嬉しいことであった。


今日のりゅーとぴあでは、Noismに加えて「新潟A・フィルハーモニック第5回定期演奏会」にて「〜坂口安吾生誕120年に捧ぐ〜ジムノペディ ドビュッシー版 第1番」としてエリック・サティの楽曲が演奏された為、両会場で安吾関連書籍の販売も実施。学芸員・岩田多佳子さんによる新刊『新潟県人物小伝 坂口安吾』(新潟日報メディアネット刊)を、多くの方に手にしていただけた。


そして16時半、Noism公演の開場を迎えた。私は書籍販売の為、既に劇場ロビーに入っていたが、開場直前になって『私は海をだきしめていたい』の冒頭で使用されるサティの楽曲が場内に流れ始めた為、「おや? こんなことは今まで無かったぞ」と違和感を覚えた。その答えは間もなく明かされたのだが、今は詳述を控える。ただし、明日以降の公演に出掛ける方はなるべく早めに劇場ロビーへ進んでいただきたい。私は「客席が安全ではない、舞台を他人事に思わせない」Noismを始めとする舞台芸術に心惹かれて来たが、この驚きに満ちた開演間際までの時間は、「客席」と「舞台」、「劇場」と「ロビー」の境界を突破するようであり、金森穣さんの並々ならぬ気合とアバンギャルドさに、「安吾的だよ!」と興奮を抑えられなかった。

そして始まった『私は海をだきしめていたい』初演。詳述は控えるものの、シンプルに研ぎ澄まされた照明の元、安吾描くところの男女の「遊び」をサティの調べに載せて、いつまでもこの時間が続くことを願うような舞踊作品に昇華した金森さんの演出と、躍進著しいNoismメンバーが見せる静謐でいて激しく、艶めかしくも透き通るような舞踊にため息さえ漏れた。初期Noism作品に濃厚だったエロスが、時を経て「性愛」を俯瞰するような成熟を見せたように思う。メンバーひとりひとりの名前を挙げたいくらいだが、今回は特に庄島すみれ・さくら姉妹、太田菜月さん、春木有紗さんの身体表現が安吾描く観念的な「女」に、熱い血肉を与えたこと、その美しさに魂を奪われるようであったことを特筆したい。

公演後、坂口綱男さんに感想を尋ねたところ、「とっても良かった!」とサティの楽曲と安吾の作品精神がピッタリ噛み合った舞台を絶賛されていた。
そして、黒部シアターでも鑑賞した改訂版『春の祭典』もまた、舞台版として更なる高みに到達していた。相互監視や全体主義と、自由を確立しようとする者との相克を私は本作に感じてしまうが、井関佐和子さんと太田菜月さんのある「相克」を描く場面からは涙が溢れ出し、音と身体表現を全身で浴びる喜び、Noismが新潟にあることの僥倖を思い、恍惚にも似たところへ運ばれた。

その後、幾度も繰り返されたカーテンコールの熱さ・温かさには、これまでのNoismのどの公演とも違うものがあったように思う。舞台の為に献身し、圧倒的な芸術を届けることで、カンパニーが追い込まれた苦境を突き破るような、素晴らしき「反骨」。その結実と、豊かな未来を確信させられるようで、いつしか舞台上のメンバーと客席には涙だけでなく、笑顔さえ拡がったのだ。

不可逆の時間の中で、舞台の一瞬にかけるNoismの営為が、坂口安吾が生を受けた新潟の地でまた新しい到達を見せたことを、心から祝したい。

久志田 渉(「月刊ウインド」編集部、安吾の会事務局長)

活動支援会員特典として、『私は海をだきしめていたい』2回目の公開リハーサルを観てきました♪

2026年6月20日(土)、前日に続き、公演まであとちょうど一週間というタイミングで開催された『私は海をだきしめていたい』2度目の公開リハーサルを活動支援会員として見せて貰ってきました。(12:00~13:30)

なお、この日は、視覚・聴覚に障がいをもつ方々及び開志専門職大学の学生さんたちも一緒ということで、入場前のホワイエにはいつもと違う雰囲気が感じられたのでした。

この日は、先ずは『私は海をだきしめていたい』を通しで、続けて、コレクション(ダメ出し)、その後に照明づくりの様子を見せて貰いました。

新作『私は海をだきしめていたい』。私自身、「無頼派」坂口安吾は読んでいる作品が限られていて、恐らくステレオタイプと思われる破天荒で骨太なイメージがつきまとっています。差し詰め、上にもあげた超有名な「汚部屋」写真によって流布されるイメージと言えるでしょう。安吾の同名短編からもその印象は濃厚に感じとられたように思います。

そして観た金森さん×Noismの『私は海をだきしめていたい』は、そのステレオタイプのイメージ通りだったのか。果たして…。

特権的な「赤」の衣裳に身を包んだうえで、そこから露出した肌が視線を惹き付けるその効果も知り尽くす女。一方、黒づくめで、ハットやアンブレラに身を守らせつつ、先ずは安全な場所に身を置こうとする男。そこからの妖艶、頽廃、優美、粗野、虚栄、真実、放縦、孤独、共振、たゆたい…それらが何の違和感もなく同時に成立してしまう時空。それを支えているのは、紛れもなくピアノで奏でられるエリック・サティの音楽。

照明もまだこれから、という段階で観て、もう確信出来た新たな傑作の誕生。約35分間。身を持ち崩してみたい、そんな途方もない衝動さえ禁じ得ないものがありました(笑)。おっと、書き過ぎ、書き過ぎ、ですね。必見! そう書けば、一言で済むところでした。

そしてその後、冒頭部の照明づくりを見せて貰った訳ですが、興味を惹きつけられて、食い入るように見詰めていると、舞台から客席の方に移動してきた井関さんに尋ねられました。
「こうやって照明つくってるの見てて楽しいですか」
「はい。楽しいです。とても」
「でも、これ、延々続くんですよ。結局、さっき1秒が出来上がらなかったし…」
…本当に気が遠くなるような、凄い作り込み方をしているのだなぁ、としみじみ。

冒頭にも書きましたが、公演の幕があがるのはきっかり一週間後。楽しみでなりません。楽しみでない筈がありません。チケットは好評発売中。お早めにお求めください。

そして公演初日の本ブログは、「安吾の会」の久志田渉さんに書いて頂けるよう、只今、調整中です。果たして安吾はどんな人だったのか。久志田さんがこれまで読んできて辿り着いた「深さ」から書かれる記事もまた楽しみです。

さて、私事で恐縮ですが、私が一昨年の秋から「コソ練」を続けているのが「3マス(=3か月でマスターする)」サティのジムノペディ第1番。随分「時間」オーバーで、一向に上手くならず、「伸びしろ、伸びしろ」と怪しい呪文を唱え続けているのですけれど、この日、うっとり魅了されっ放しだった公開リハーサルを観た後の練習です。ましな音が出るかもしれない、そんなふうにひとり勝手に期待感をもっています。
さて、コレ書き終えたので、鍵盤に向かいます。そちら、果たして…。

話を戻します。皆さま、来週の土曜日、りゅーとぴあ〈劇場〉でお会いしましょう。繰り返しますが、必見ですよ、必見♪

(shin)

『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』活動支援会員/メディア向け公開リハーサル(2026/6/19)にいってきました。

公開リハーサルが始まる15分前に劇場に到着すると、ホワイエには沢山の報道陣が囲み取材の準備をしていました。かつてないほどの多さに戸惑いつつ、開場を待ちました。


本日(2026年6月19日)は『私は海をだきしめていたい』の通しリハーサルを見せていただけるとのこと。定刻時間、衣装を着けた舞踊家達が舞台上で動きを確認するなか、劇場後方に案内されました。先ず目に入ってきたのは女性舞踊家の赤いドレス。その赤は白い肌に重なりとても美しく、瞬時に惹きつけられました。男性舞踊家の衣装は黒、床のリノリウムは白だったので、よりその美しい赤が際立ちます。その魅力はリハーサルが始まると、舞踊家達の見事な身体表現と共に加速していきます。動きに合わせて表情ゆたかに揺れる赤いドレスは、この物語の言葉に出来ない心情を掻き立ててくるものがありました。


登場人物は、一人の男と女。それを複数の舞踊家たちが表現していきます。リハーサル中、金森さんが「一人の男の様々な側面を表現しているのだから…」と伝えます。その場面の“複数”の男性舞踊家は1人の男の異なる側面であり、ほんの少しの動きで「別の人間になってしまう」という指摘がありました。そこから動きの微細な修正。その修正後には、先程とは見え方、見ている側の感じ方までもが変わります。また、表情や内面の在り方について「浴びて! 浴びているものが途切れるから倒れる!」と指摘する場面。それによって舞踊家の表情や身体から発するものが変わります。「ああ!これが公開リハーサルの醍醐味!」と心の中で叫び、心が踊りました。

公開リハーサルの間、金森さんが全体を見て振りの細かなニュアンスや振り一つひとつをどう活かしていくのかをアドバイスし、井関さんが舞踊家に振付の具体的なアドバイスをしていく作業を見ながら、ひとつの舞踊団としての共通言語があるからこその修正の素早さ、的確さがあることを実感しました。
(公開リハーサル前に金森さんと井関さんはリハーサルを終えたとのことで、本番ではお二人とも出演とのことですのでご心配なく。)

『春の祭典』は先般の黒部公演で拝見したのですが、今のNoism、本当にひとり1人の舞踊家達のレベル、状態、魅力が見るごとに増していっていると感じます。今回の『私は海をだきしめていたい』でも、その魅力と輝きは爆発的にアップしていました。見逃したら損しちゃいます。今回は、全4回公演、土日で月またぎで開催されます。お見逃しなく♪

それでは、囲み取材での質疑応答についてお伝え致します。

-『私は海をだきしめていたい』この作品に込めた思いは
金森さん: 坂口安吾という作家は勿論知っていたし、作品もいくつか読んでいたが、安吾の小説を題材として作品を創ることになるとは思っていなかった。「安吾の会」から依頼を受けて、今回こういうかたちで創ることになったことを嬉しく思うし、新潟の方には是非観ていただきたい。

-安吾への印象
金森さん: 色々なタイプの芸術家がいると思うが、ある特定の精神性を持ち、芸術作品に自らが書いていたものと私生活=どうやって生きるかということをなかなか分離しがたく、密接に結びつく強度が強い芸術家というのがいる。サティと安吾というのは、それに属する芸術家だと思っている。私自身、芸術家の端くれとして常に自分の中の芸術性というものと、日常との折り合いをつけながらやっている。安吾の芸術家としての生き方に憧れるというのはあるが、現実的には難しいという思いがある。自分の人間性に照らし合わせるとこういう生き方は出来ないなと思うと、大先輩の芸術家へのアイロニックな感情を持ちますね。

-「安吾生誕120年」という節目に作品を創るということについて
金森さん: 先に話した通り、「安吾の会」の皆さんからお声掛けいただかなければ、なかなか自分からは歩み寄っていくイメージがなかった。本はいくつも読んだが、舞踊化できないと思っていた。ただ今回、お話を頂いてから改めて安吾の小説を出来るだけ多く読んだり、安吾について色々調べていくなかで、安吾が心酔した音楽家のサティという存在があったことを知った。私の作品創作においては、音楽が一番大事で、どの小説であれ音楽が決まらないと創作出来ないと思っていたので、安吾とサティの世界観から「これでいける!」と思った。

-作品のテーマや赤と黒の衣装など、観客の皆さんにどんな想いを感じて欲しいか
金森さん: この小説の登場人物は一人の男と一人の女だけであり、男の中の多面性とか、女の中の多様性みたいなものが主題になっている。安吾の作品には常に付き纏う“孤独”とか“不安”というものが随所に散りばめられていると感じている。色味の世界観としては、今回エリック・サティの世界観や精神性も安吾と拮抗するかたちで用いている。男性の衣装のハットや傘は完全にサティの世界観。

-作品の中でハットを男女で取ったり、被せたりといった場面があったが、どういった意図があるのか 
金森さん: その解釈については自由でいいというか、あまり限定したくない。我々がやっていることは非言語の表現なので、抽象的であることによって解り難いとか一般性がないと思われがちだが、実は言語化さて具体化されるものほど、人と人との溝を生むし、軋轢を生む。こういう抽象化された音楽であったり、舞踊だったり、一概にこういうことを言っていると言えないものと向き合った時に自らの感受性を基に自由に発想するとか、それを基に他者と会話するとかがすごく大事だと思うし、それが芸術の役割だと思う。なので、自由に解釈してくれると嬉しい。

-リハーサル中、「もう一人の男と言えども同じ男」という言葉を伝えていました。そういうことを始めとしてこの作品に込められたテーマはあるか
金森さん: ひとりの人間の中には様々な側面がある。対象や環境が変わると別な側面が見えてしまうこともある。それが人間だと思う。この人はこういう人だとか、一概に言えない。この人がこういう人だと決めつけてしまうことの暴力性みたいなものがある。安吾やサティはそれに対してすごく敏感なふたりであると思う。だからこそ、ある種の堕落性とかある種の負の感情を抱くということも肯定するべきであるのは、それが人間の本質であるからという世界感。そこを踏まえた上で舞踊化するときに、一人の男、一人の女が分裂したような構成を取ることで、一人の男、一人の女の多様性というものを群像劇的に展開できると思った。
テーマを上げるとしたら「繰り返す」。サティの音楽も繰り返しが多い。安吾も然り。とても飛躍した言い方をすると「人間、同じことを繰り返すよね…社会も同じことを繰り返すよね…」

-改訂版『春の祭典』ということで、このタイミングでの再演の意図
金森さん: 作品が再演できるということは、振付家にとって大変嬉しいこと。常に完成はない。公演をする度に作品のここをもっとこうしたいという思いを抱くのが振付家だと思うので、今回の改訂にあたっては出演人数を減らして、演出もシンプルにして、その分“音楽と身体”という舞踊の根源に迫るもっと強度のあるものに出来上がっている。再演を決めたのはこちら(井関さん)です。
井関さん: 『春の祭典』ではNoismならではの集団の強さをお客さんに是非、感じて欲しい。改訂版は人数を減らしたことや舞台美術もシンプルにしたことによって、ほんとにNoismらしさ全開な作品になったと思う。“身体そこに在りき”というものになった。音楽も有名なものですし、Noismを観たことのない方でも、そのエネルギーを劇場で直に見るという体感は、満足してもらえるものだと思うので、是非観ていただきたい。

-Noismがレジデンシャル制度としては終了と発表され、ダンサーの皆さんはどのような思いでこの公演を迎えているのか
井関さん: 年明けから色々あり、様々な気持ちになったと思う。彼らの年齢で、なかなか経験出来ないことを経験して大変だったと思うが、それが血肉になっているのをすごく感じる。りゅーとぴあでは、あと3プロダクションで終わるというのが分かっているからこそ、この空間で舞台稽古が出来ることの有難みとか様々なことを再認識していると思う。それは慣れてきていたりすると感じ難いことなので、そういう意味では毎日を大切にしながら過ごしているなと感じている。Noismとしての強度が上がってきているなと感じる。

-半年色々あったなかで、おふたり(金森さん、井関さん)は、どんな思いで定期公演を迎えたのか
井関さん: もうほんとに色々ありすぎて、本当に半年だったのかなと思うほどだったが、この公演を始める前に穣さんが「Noismは継続します」という事を発表できたのは大きかったと思っている。メンバー、スタッフ、応援してくださる方々にとって、どうなるか分からない未来だったが、そのたった一言がすごく大きな希望を与えたと思うし、自分自身も今は前を向いて希望を持って見えてきているものがあり、それをどう実現していくかということに思いが向いているので、今回の公演をこれくらいポジティブな気持ちで迎えられていることがすごく嬉しいです。

-色々なことがあり、環境についてこれまで言葉で伝えてきた訳だが、いよいよ作品で伝えられると思うことは何かあるか
金森さん: それに関しては、「絶対的に自信があるので是非、観て欲しい」としか言いようがないし、そのクオリティを揺るがなく維持するために、みんなでこの怒涛の五ヶ月の間も立ち止まらずに稽古は続けてきたので、その成果を是非観てほしいと思います。

-「X」で「Noismは終わらない」と書いていたが、その辺の思いや今後について
金森さん: いたって前向きに来年の夏以降もNoismは続けていこうと思っている。支援者や協力者の方達の協力を仰ぎながら、先ずは拠点をどこに定めるかを決めていき、整備し、活動を続けていきたいと思っている。りゅーとぴあでの活動を終えると縮小してしまうとか立ち行かなくなってしまうというような懸念は全く無い。我々は活動を続けるし、我々が生きている限り芸術活動を続けていく。それに賛同してくれる若者たちがいれば、是非一緒にやりたいと思うし、それに賛同するスタッフがいれば、是非協力して欲しい。何かの終わりではない。次への始まりだと思っている。

以上です。ぜひぜひ、お見逃しなく!

(aco)
(photos by aqua)

新潟日報紙に「坂口安吾生誕120年」を祝う全面広告掲載さる。「共鳴する安吾とサティ」とNoism新作広告も♪

2026年4月24日(金)、新潟日報の朝刊、その25面に「坂口安吾生誕120年」を祝う全面広告が無事、掲載されました。その左肩部分に「共鳴する安吾とサティ」の文字があり、Noism0+Noism1坂口安吾生誕120年/エリック・サティ生誕160年「私は海をだきしめていたい」公演(同時上演・改訂版『春の祭典』)広告も♪

パチパチパチパチ!まずはその全面です。実におめでたい♪

そして次に、Noismの公演部分のクロースアップ♪井関さんと(恐らく)金森さん画像のかぐわしいコラージュからは、まさにサティの「ジムノペディ第1番」が聞こえてくるかのようです。(この「幻聴」、私がNHK「3マス」ピアノの放送以来、「60の手習い」でほぼ毎日、同曲の独習を続けているからではなく、明らかに、テレビでの同公演スポットCMの影響と考えます(笑)。嬉しさのあまり、のっけから脱線し、個人的な話をしてしまいました。失礼しました。)

更に、本ブログでも寄付のお願いをさせて頂いてましたので、今度は掲載されたご芳名部分です。臙脂バックに「新潟が生んだ文化を誇りに」、いいですね♪

ご協力、どうも有難うございました。本当に誇らしいですね、はい。

6月、7月の『私は海をだきしめていたい』+改訂版『春の祭典』という豪華な公演、新潟、埼玉ともチケット絶賛発売中です。よいお席はお早めに!

このところ、立て続けにメディアに登場している感のあるNoism Company Niigata。このブログでも、その話題をお届けする充実した日々になっています。

そしてこの日の全面広告を見て、一連の言葉たちがあたかも泡立つかのようにシンクロして浮かび上がってきます。「無頼派」、「マレビト」、「アウトサイダー」、「(音楽界の)異端児」、そして「東京の亜流になるな」。

金森さんとNoismの刻んで来た足跡に関して、今、思うところがあります。それを誤解を恐れず、ここで書いてみたいと思います。
2004年、何か未だ先の知れぬ運命が交錯し、謂わば「奇跡」的な出来事として、金森さんをりゅーとぴあ芸術監督に招聘することが選ばれ、この国で初めての公共劇場専属舞踊団がスタートしたとき、確かに私たちはそれを抱えることに決めた新潟市によって、Noismを与えて貰ったことは事実でしょう。しかし、その後、金森さんの傑出した芸術性とその惜しみない舞踊への献身によって産み落とされた舞台の素晴らしさを「発見」し続けてきたのは、他でもない私たち(新潟市民、及び観客)であって、私たちは今日に至るまでずっとNoismを「発見」し続けてきたのです。(そうした思いがあってこそ、金森さんに宛ててあの「希望書」を書いたりも出来たのだと今にして気付きます。)

然るに一方、ここまで自ら抱えた舞踊団への支援を続けてきた新潟市はといえば、市民に対して、ただ与えて奪える立場に留まり、およそ「発見」することを怠る日々を送ってきたのではないでしょうか。ですから、その価値に見合った正当な発信がなされることなど単に期待できなかったに過ぎません。前夕のBSN「ゆうなび」の特集内で金森さんが口にされた「そもそもりゅーとぴあで専属舞踊団を抱えていることが、この国のなかで、日本初だとか、日本唯一だとか言うけど、そのことの価値とか、判断を下す人たちはそう(充分には)捉えていない」は無理のないことだったのです。何も「発見」せずにきた訳ですから。

繰り返します。その出発点でNoismを与えて貰ったことは事実ですが、それを誇らしい「文化」にまで高めてきたのは、金森さんであり、私たち(新潟市民、及び観客)なのであり、決してそれを与えた新潟市ではなかったのです。専属舞踊団の設立というモーメント(契機)をもって、その後、東京の亜流ではない「文化」を創造してきたのは、金森さんであり、私たちだったのです。
ですから、新潟市が(そう言うと、語弊があるかもしれませんが、)勝手に拵えた「制度」のみを根拠に、私たちが築いてきた「文化」を勝手に奪おうとするなどは極めて専横的で、決して許されざる暴挙と言わざるを得ません。新潟市の将来の「文化」に資するよう、しなやかに、したたかに振る舞い、「制度」の修正や微調整を行うべきなのです。

新潟市には、この日の全面広告の中央を横に走る「新潟が生んだ文化を誇りに」の言葉を噛み締めて、今ここからの「最適解」を模索することを求めたいと思うものです。その「最適解」は容易に見つかるものと思われます。今度こそ、「発見」しそびれることなどなきよう。そして、今度こそ、私たちと一緒に「文化」を共創する意識を基に、真に行政が果たすべき役割を果たしてくれることを期待します。

全面広告が掲載された喜ばしい朝に。

(shin)