2026年7月26日(日)、Noism0 + Noism1『私は海をだきしめていたい』/改訂版『春の祭典』大千穐楽の幕が、埼玉の地でおりました。この日、舞踊家たちが見せた気迫の籠った舞踊はまさに一期一会の絶品。終演後、熱狂的な喝采と波のように広がっていったスタンディングオベーションを受けることになったのもいたって当然のことに過ぎませんでした。むしろ、もっとずっと拍手し続けていたかったという者ばかりだったのではないでしょうか。実際、私はそうでした。

最初の演目『私は海をだきしめていたい』については、下に考察の試みをアップしますので、そちらに譲ることとして、改訂版『春の祭典』に関して、少し書き記しておきたい事柄がありますので、まずはそちらから。
これまでの『春の祭典』においては、衣裳のボタンを留めて襟を立てる/ボタンを外して襟を開く、その違いで集団の凝集性や同調圧力、そしてそれによる排除が可視化されてきましたし、この「改訂版」においても途中までそれは踏襲されていくのですが、最後に置かれた排除にあっては、全員が一様に襟を立てながらの排除なのであり、差別・排除に繋がる徴としての差異を認めることは出来ません。それこそ差別・排除が極めて恣意的な性格を強めているさまに映り、心底震えました。それはこの「改訂版」の恐ろしさのほんの一例に過ぎませんが、この「改訂版」が描いたのは局所的な「コップの中の嵐」などではなく、まさに今日の私たちと社会の姿に違いないのだと言い切りたいと思います。
それでは、ここからは6月28日(日)に行われた金森さんと井関さんのアフタートークに関して、ネタバレへの配慮からここまでご紹介せずにきたやりとりを「補遺」というかたちで載せていくことと致します。
*6/28金森さん&井関さんアフタートーク補遺
Q: (新潟公演における)開演前のホワイエでの金森さんのパフォーマンスについて
-金森さん: 日常と虚構の間の境界線を曖昧にしていく。皆さんの反応を見て、「じっと見てくるなぁ」とか「無関心なんだなぁ」とか「あっ、写真撮るんだ」など思いながら。

Q: 『私は海をだきしめていたい』、ラストの海はどこの海か
-スタッフ: 映像は村松浜*。 【*註: 新潟県胎内市】
-金森さん: 音はどこか(の海のもの)。
Q: 『私は海をだきしめていたい』、途中で緞帳がおりることについて
-金森さん: 繰り返しが多い音楽(『天国の英雄的な門への前奏曲』)にインスピレーションを受け、同時に、その音楽的な構造が面白いと思い、あの繰り返しにした。振付は全く同じで、世界でもそうそうない。
-井関さん: (全く同じ振りは)人生で初めてだった。
Q: その繰り返しを踊るとき、気持ちは同じなのか
-井関さん: それは勿論、違う。一回目と二回目では全然異なる。それでも敢えて同じ形に持って行こうとすることで、観ている者が想像出来る。形は形、感情は感情。リピートするからこそより集中が必要になる。稽古のときには、一回目が終わると、「これ、もう一回やるのか」と思う。結構、しんどい。
この日のブログ記事の最後に、新作『私は海をだきしめていたい』について、「サポーター 公演感想」の枠組みで、ひとつの考察の試みとして拙文を載せさせて頂きます。是非お読みください。
*考察の試み
『私は海をだきしめていたい』、ラストの繰り返しをどう捉えるか
先ずは、安吾をさほど読んでこなかった自身の読書歴に関係するのだが、金森さんが安吾の同名短編にインスパイアされて創作したその新作は、新潟公演初日、私の目には、随分、サティの音楽寄りのものに映り、「インスパイアとはどういうことなのか」との疑問が浮かんできた。「どこかで、時々、思いがけなく現れてくる見知らぬ姿態のあざやかさを貪り眺めていた」男が見詰める女の向こうを「物凄い荒れ海」にせず、ある意味、原作からドラマ的なるものを排除した金森さんでもあるので、尚更に。
そこで、金森さんが口にしていた「繰り返し」を念頭に置きつつ、安吾の短編に再びじっくり向き合ってみる。すると、金森さんの新作の上に、間違いなく、安吾もその像を結んでくるように思えてきたのだ。
サティと金森さんの向こうの安吾を確かめようとガン見したそのラストシーン。新潟公演二日目。「えっ!?やはりそうなのか!?」動揺するも、自分の目に確信が持てず、勇気を振り絞って、アフタートークの質問シートに書き込んだ。「全く同じではないですか」と。すると、「全く同じ振付です。よく見てましたね」と金森さん。井関さんも「人生で初めて」と明かしてくれた。やはり全く同じ振りが繰り返されたのだ。
そのラストシーン。先ず観る者は、金森さんが新作に取り込み、可視化した『天国の英雄的な門への前奏曲』の音楽構造に呆気にとられざるを得まい。その構造、楽譜の途中に、サティによって書き込まれた「幕(RIDEAU)」の6文字(インターネットで確認可能*)があるというもの。その先、静寂も束の間、やがて曲の最後の部分が聴こえてくるのだ。その構造に面白みを見出した金森さんだが、そこは金森さん、サティの指示にそのまま従うことはしない。今作で一度目の「幕」が降りてくるのは『天国の英雄的な門への前奏曲』全曲が終わってからであるし、二度目の(正真正銘の)「幕」は、サティが書いた「幕」の箇所と言えなくもないが、正確を期すなら、その先を完全に無音にしたのち、暫く経ってからだ。
【*註: https://s9.imslp.org/files/imglnks/usimg/c/cd/IMSLP08170-Prelude_de_la_porte_heroique_du_ciel.pdf
上の譜面では、2頁目の下から2段目、後半に「RIDEAU(幕)」の6文字が出てくる。これだけ、他と異なり、全て大文字で記されている。】
話を金森さんと井関さんのデュエットに絞ろう。その一度目の「幕」の前後に配置されるのは全く同じ振り、つまり、「幕」を挟んで、正確な「繰り返し」が踊られることになるのだ。(それは「幕」の文字の後、それまで出て来なかった旋律を書いたサティとは全く異なるものだ。)作品のラストに至り、「深まり」を排して、平板に横滑りするかの印象で締め括られていくなど、Noismの舞台でも異例中の異例の構成と言えよう。
金森さんと井関さんふたりが踊るデュエットだからと、無意識のうちに、その関係性に「深まり」を錯視してしまってはならない。それは徹底して「深まり」を欠いたデュエットなのであり、意図的な「繰り返し」、その同一性が淡々と正確に踊られていくのだ。そんなサティと金森さんによる「繰り返し」が立ち上げるものこそ、安吾の「永遠の孤独」或いは虚無に他ならない。
その場面において、演出振付家・金森さんは実に意地悪だ、敢えてそう言わねばなるまい。「繰り返し」の最終盤、正確には、二度目の(正真正銘の)「幕」の直前、男(舞踊家・金森さん)に傘に加えて帽子までとらせているからだ。その振舞いは一見、何らかの「深まり」へとミスリードする力能を有してあまりあるものと言えるだろう。しかし、それでもなお、男は黒い上着に己を護らせ続けていたのではなかったか。全体の同一性を揺るがす変化ではなく、「繰り返し」のモチーフの変奏、或いは「差分」に過ぎないのだ。(一度目の「幕」の少し前、)ホリゾントに映し出されたモノクロの「波」の静止画が動き出すのも同様に理解され得るだろう。
そして、演目を閉じることになる二度目の「幕」に関するならば、仮に緞帳がそのおりる機能に失調をきたしたりでもしたならば、私たちは延々と男と女による三度目以降の「繰り返し」すら目撃することになってしまったに相違なかろう、そう言い切ることも出来そうだ。あの緞帳はつまり「繰り返し」を二度目の途中でカットアウトするためにおりてくる「幕」に過ぎないのだ。「もう充分」とばかりに。
可視化される永遠の「繰り返し」など、もう「嫌がらせ」に過ぎず、ここにおいて、そのフランス語をそのまま曲名とし、開演前のホワイエから流れていた『ヴェクサシオン』に正確に回帰することになり、この新作の構造的な特質は幾重にも強調されることになるだろう。
「満ち足ることの影だにない虚しさ」の域で、ただ繰り返されること。安吾とサティに金森さんが重なるところ、一瞬の美しさへの憧れとは裏腹に、索漠とした「永遠の孤独」や虚無を色濃く立ち上げることになる「繰り返し」。「変化」を期待しがちな私たちの視線を悉く裏切りながら、仕掛けられたのは『天国の英雄的な門への前奏曲』の構造に呼応する、只事ではない類の「繰り返し」。しかし、刮目されねばならないのは、新鮮味など微塵も存しない筈の「繰り返し」の最中に浮かび上がってくる光景ではないのか。安吾もサティも遠景に退き、作品の説話論的な流れを超え出たところで、ただ「繰り返し」を踊ることのみに専心する金森さんと井関さんの剝き出しの「今」が生々しく私たちの目に届くだろう。そんな大胆な驚異を可能にする至芸はもはや人外の域かと。ほくそ笑む演出振付家・金森さんの顔が目に浮かぶようだ。舞台は虚心坦懐に見詰められねばならない。
最後にもうひとつだけ。安吾による男の独白中、「肉慾の上にも、精神と交錯した虚妄の影に絢(あや)どられていなければ、私はそれを憎まずにはいられない。私は最も好色であるから、単純に肉慾的では有り得ないのだ。」の2文が、少しかたちを変えながら、否、ほぼほとんどそのままに、客席から、金森さんとNoismが立ち上げる非日常を見詰めることを愛する私、私たちへと繋がるものであると気付かされたことも書き記しておきたい。「精神と交錯した虚妄」、Noismの舞台にはいつもそれが溢れている。
(shin)
shinさま
大千穐楽ブログ、ありがとうございました!
いつもにも増して気迫漲る舞台でしたね!
見るこちらも気合が入りました。
美しい『私は海をだきしめていたい』。とても好きです。
物凄い踊りです。
あの原作と、あの音楽で、あのように作品を具現化するなんて、
金森穣Noismにしかできません。
本当に素晴らしいです。
りゅーとぴあでの、開演前の金森さんのパフォーマンスも忘れられません。
改訂版『春の祭典』は音楽と動きがピッタリなことに、改めて瞠目しました。
それだけでも驚きなのに、その内容!
shinさんも書かれている通り、極めて今日的で、グサグサ刺さってきます。
井関さんを指さす太田さんの腕がいつもより30度ほど上向き、この決定的な場面がますます印象付けられました。
改訂の度に変貌する『春の祭典』!
平和的祭典?になる日は来るのでしょうか??
そしてそして、
『私は海をだきしめていたい』ラストの繰り返しについてのshinさんの考察!
深掘りキター!
『天国の英雄的な門への前奏曲』楽譜のリンク、『ヴェクサシオン』(嫌がらせ、癪の種、という意味(1分間の曲を840回繰り返す))についても載せていただきありがとうございました。
こういうことを全く知らなくても作品は十分感動的ですが、知るとますます理解が深まりますね。
私にとってのshinさんの考察のキモは、最後の方、
「しかし、刮目されねばならないのは、新鮮味など微塵も存しない筈の「繰り返し」の最中に浮かび上がってくる光景ではないのか。安吾もサティも遠景に退き、作品の説話論的な流れを超え出たところで、ただ「繰り返し」を踊ることのみに専心する金森さんと井関さんの剝き出しの「今」が生々しく私たちの目に届くだろう。そんな大胆な驚異を可能にする至芸はもはや人外の域かと。」という箇所です(いいとこどりでスミマセン)。
埼玉公演では繰り返しの前と後では明らかに違っていましたね。
井関さんは繰り返し後、微笑んでいました。
それだけで全然印象が違う。
踊りも伸びやかに見えるというものです。
安吾もサティも(ストラヴィンスキーも)咀嚼し、飛び越えて、独自の作品世界を切り拓く、天才 金森穣!
いつものことではありますが、またまたやられました~
やられて嬉しい私です。
最後に、shinさん考察の名言
「『精神と交錯した虚妄』、Noismの舞台にはいつもそれが溢れている」。
ありがとうございました。
(fullmoon)
fullmoon さま
コメント有難うございました。
やられちゃいましたね、それもこてんぱんに(笑)。
今回の2演目(も)、どちらも既に風格を漂わせていましたね。ホント豪華な夏公演でした。まさに天才ですよね、金森さん。
その時々に変貌してやまず、都度、強烈な印象を残し続けてきた『春の祭典』、末恐ろしい限りです。
りゅーとぴあでの4公演では、ホワイエから金森さんのパフォーマンスが始まっていて、日に日に大勢の目を惹き付けていました。
私にとって、個人的に一番ツボだったのは、新潟公演の初日、劇場内、後方の客席に傘をさしたまま不動+無表情で腰かける金森さんの姿でした。なんともシュールで、コミカルで、そしてとてもチャーミングでしたから、また観たいと思っていたのですが、その日限りでした。でも、今でも目に焼き付いていて、自然とその光景は浮かんできますからいいですけれど。
その『私は海をだきしめていたい』。死後、自宅アパートからは同じような黒い傘が100本も出てきたとか、雨の降る日には、自分は濡れながらも、傘は濡らさないようにコートの下にして歩いていたとか、傘に関する偏執的な逸話には事欠かないサティが、もし、あのラストのシークエンス、あのように開いたままの傘がそっちのけにされているのを目にしたならば、これも護身用に常に携行していたというハンマーで襲いかかったりするかもしれない等々、不在のサティの「影」にも大いに楽しませられるものがあります。
そして、そうです。埼玉公演での「繰り返し」を踊る井関さん、その際の笑顔にはとても印象深いものがありました。そして、夏公演が終わったこのタイミングで井関さんが股関節の手術に踏み切ると公表されましたから、それを含めた笑顔でもあったのだなとも。「シン・佐和子」さん、大いに期待して待つことと致します。
(shin)
金森さんは、6/28(日)新潟公演2日目のアフタートークで、安吾『私は海をだきしめていたい』が7章だてなので、「7曲」使ったと言っていましたが、開演前から流れていて、そのまま演目内に繋がっていくヴェクサシオンを入れると8曲になり、その「数のズレ」の面でも、7曲からなる『梨の形をした3つの小品』なんていう作品も残したサティ的だなぁ、など思っていたりもします(笑)。
(shin)