大学生たちが見たNoism『境界』⑤(公演感想)

Noism0/Noism1『境界』の世界

 2021年12月26日の東京芸術劇場で上演されたダンスカンパニーNoism Company Niigataの『境界』を鑑賞した。これは二幕の構成で、一幕はゲスト振付家に山田うんさんを迎え、Noism1メンバーが踊っている。二幕ではNoism芸術監督金森穣さん演出振付でダンサー井関佐和子さん、山田勇気さんと共にNoism0の作品として構成されている。

 一幕Noism1の演目、タイトルは『Endless Opening』。1楽章「風のような姿 花のような香り」、2楽章「誰かに手を伸ばしたくなる」、3楽章「この大海原に誕生の祝福」、4楽章「種子 突風に乗って つと」で構成されている。最初に9人のダンサーがそれぞれ色とりどりのレオタードを着て、柔らかい風になびいて舞うオーガンジーの羽織を身にまとって登場する。ダンサーの息づかい、地面の擦れる音が聞こえるような静かな空間の中で舞い踊る姿はまさに花のように美しかった。体が動いた後にオーガンジーの羽織もその軌道を追ってついていく。その止まることなく永遠に続く様子が春の喜びを感じられるような情景であった。そこからまた誰もいない静かな空間になる。小道具を一人一つ持ってダンサーが現れるが、私はこれをベッドだと捉えた。ここでは人間、生命の生まれを踊りで表現していると感じた。上からのスポットライトを浴びて、その光に向かっていくように手足を伸ばしていく。それぞれ違う動きで起き上がり、最後に羽織を脱ぎすて、人としての成長を表わしているのではないかと考える。静かな世界から一変し、早い曲調の楽曲が流れる。2人、3人ずつの踊りでは、お互いの空気感を感じながら息の合ったダンスを繰り広げていった。人数が増え、最後の総踊り、一糸乱れぬ美しいダンスは見ている人の心に幸福感を感じさせるほどで、幸せを得ることができた。

 二幕Noism0『Near Far Here』。一幕とは変わってバロック音楽の中、薄暗い空間の中でピンスポットがあたる。ここでは生と死がテーマになっており、その境界を表現していた。決して激しく踊り狂う訳ではなく、その劇場の空間を自分の体で吸収し、丁寧に舞っている。すると下手(しもて)に影を映すスクリーンのようなものが降りてくる。今見えている世界と影の世界、お互いが全く同じ動きでシンクロしている。影の世界に最初は一人しかいないと思わせていたが、そこから分離し、もう一人いることがわかる。そして真っ白の衣装を身に纏う女性が、見える世界に現れる。重力を感じさせないリフト、アクリル板を使ったパドドゥ、三人での踊りは身体全体からエネルギーが溢れていることを感じさせる。しかし激しく乱雑に踊るのではなく、まるで美術作品を見ているようなゆっくりと濃い絡みであった。そして最後に舞台上、客席にも降ってくる赤色の花びらは、この生と死の境界がある世界の儚さや脆さをその空間で表現していると感じた。

 Noism0/Noism1 『境界』を鑑賞し、コロナ禍で人とのつながりが一時は途絶え、孤独な時間を多く過ごしていた日々があったことを思い出した。人との間に壁があると寂しいもので、それだけで距離が離れているように感じられる。コロナ禍で制限しなければならないことが多くあり、その中でも大切な家族、友人と過ごす時間はかけがえのないものであり、その有難さを改めて考えなければいけないと思った。この作品で見た人の生まれる感動、生と死の境界は儚くありながらも美しい。そして先がどうなるかはわからないが、きっと明るい未来が待っている、そう感じさせるその空間は幻想のような世界観で温かかった。

(米原花桜)

 皆さま、ここまで、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修にて稲田奈緒美さん(舞踊研究・評論)の指導のもと、「舞踊作品研究B」という科目を学ぶ学生さん5人による5本のレポートを5日連続でご紹介して参りましたが、如何だったでしょうか。
 瑞々しい感性で綴られた5つの瑞々しい文章をこうして続けてご紹介できたことはとても喜ばしいことでした。Noism Company Niigataを「生で」観るのは初めてという人も多かったようですが、今回のレポート執筆が、5人の(そしてそれ以外の多くの)学生さんたちにとって、Noism Company Niigataとの良き「出会い」となり、このあとも継続して接し続けて貰えたら、そう願っています。
 なお、掲載したそれぞれの文章は読みやすさに照らして、文意を変えない範囲で若干の修正を施した箇所があることもここにお断りしておきます。その点、悪しからずご了承ください。

 書くことで初めて見えてくるものがあります。また、書くことは自らをさらけ出す事であるとも言えるでしょう。
 対象のなかにただならぬものを見出し、対象と格闘しながら、なにがしかの文章を書くという行為は、対象に従属する受け身の行為に収まらぬ、極めて創造的な行為にも転じ得るものです。そして、書かれた文章が、それを読む者と繋がり、触発・刺激していくこと、その豊かさを知る者が文章を書き続けるのでしょう。今回、文章を掲載した5人にとって、そんな豊かさに繋がるきっかけを、ここに提供することが出来ていたなら望外の喜びです。また書いてください。 (shin)

大学生たちが見たNoism『境界』④(公演感想)

舞踊作品研究批評課題 Noism Company Niigata <境界>
2021.12.26観劇 @東京芸術劇場(プレイハウス)

はじめに
 私は12月26日、日本初の公共劇場専属舞踊団である、Noismの『境界』を観劇した。Noismには、プロフェッショナル選抜メンバーによるNoism0、プロフェッショナルカンパニーNoism1、研修生カンパニーNoism2の3つの集団がある。この度の公演は、2019年冬公演に次いで、ゲスト振付家を迎えて行われたダブルビル公演であり、Noism0をNoismの芸術監督である金森穣が、Noism1をゲストである山田うんが、それぞれ「境界」を共通のテーマとして振付した。

第一章
 まず、Noism1山田うん振付の『Endless Opening』が始まった。幕が開き、そこに広がっていたのは、舞台美術もない、照明もシンプルでフラットな白い世界であった。Noism1は男性4名女性5名計9名でダンスが展開された。衣裳は全員、色がバラバラで、しかしパステルカラーの半透明な羽織にはっきりとした色のレオタードを着用していることは共通していた。ダンサーは次々と出てきて踊り始めた。時には3~4人の小グループでそれぞれ踊るシーンがあった。踊っている中で、カウントを一個ずらし時差を持たせて踊ったり、小グループメンバーが離脱・参加したりと、常に同じメンバーでは踊っていないところが複雑にできていた。それに対して群舞のシーンでは半透明な羽織が良い効果を出していた。山田うんはインタビューの際、「花束をお渡ししたい」という言葉を語った。まさに花と思わせるような衣裳がダンサーを綺麗に彩っていた。ダンスの世界では当たり前なのかもしれないが、9人もダンサーがいるのにも関わらず、足音が全くしないことがダンスを学んでいる私にとって、とても印象的で、よく鍛え上げられていると感じた。このシーンでは群と個で踊るシーンや小グループで踊るシーンがあり、そこの間に境界があるというように見えた。
 途中、ついにベッドのような小道具が出てきた。円形に回り、どんどん増えていく、そして舞台に規則的に並べられた。ベッドに座ったり、寝たり、立ったり、様々な手法で踊られていた。車輪がついている不安定なベッドの上で踊ったり、隠れるシーンでは全くはみ出ることなく隠れたり、ダンサーの稽古時の努力を感じた。ベッドが並んだ時、前からの照明により、後ろの白い壁に柵ができたように見えた。ダンサーがベッドと共に後ろに向かうシーンでは地平線に歩いていくような、境界に向かっていくような、テーマを提示しているようだった。照明がシンプルに作られており、ダンサーの邪魔をしないよう工夫されていると感じた。身体がよく見え、ダンサーが最大限に身体を使い、花を表現していたと感じた。

第二章
 次に、Noism0金森穣の『Near Far Here』が始まった。幕開き、そこに広がっていたのは舞台美術がないのは先ほどの作品と共通していたが、照明が暗く、同じ舞台と思えない黒い世界が広がっていた。副芸術監督である井関佐和子が白い高貴な衣裳を着ており、照明が彼女を当てては消え、当てては消えを様々な場所で行い、井関が瞬間移動しているように見えた。金森穣とNoism1リハーサル監督である山田勇気のふたりが黒い衣裳で同様の演出で舞台に現れた。見ていて、先ほどのグループより踊りの感じや熟練度や経験に違いを感じ、さすが選抜メンバーだと感じた。舞台上方から木の枠が下りてきた。普段の生活感覚からしてみればただの木枠だが、この舞台では鏡に見えた。前から照明が来ていて、背景に影が一致していて「鏡」感を出していたと感じた。鏡の先と今立っている場所とが木枠によって境界を表現しているのだなと感じた。木枠が上がって次に白いスクリーンが下りてきた。スクリーンには事前に撮られた影の映像と実際に今光で当たっている影が映し出された。影同士が踊り、ダンサーと影、現実世界と影の世界、映像の自分と今の自分、スクリーンを境界として色々考えることができた。次にガラスの板と共に、ペアで踊るシーンでは、ペアで踊るにも手や足以外でも物でつながることができることを提示していた。ガラスの板という境界、その境界をうまく操りながら踊るというのがとても印象的だった。最終シーンでは舞台一面が赤くなっていて、上から赤いバラのようなものが降ってきて、一つ境界の先の世界のイメージがあったと感じた。歩いているだけなのに音響の効果やその世界に鳥肌が立った。

まとめ
 山田うんと金森穣が同じテーマで作品を作ったのを見て、照明がシンプルだったり凝っていたり、舞台が白かったり黒かったり、衣裳がカラーだったりモノクロだったり、演出が正反対と言ってもよいくらい違うのに、どちらも『境界』という作品として出来上がっており、様々な表現ができるダンスの多様性を感じた。

(田中来夢)

大学生たちが見たNoism『境界』③(公演感想)

様々な境界

はじめに
 「境界」はあらゆるところに存在する。今回 Noism の『境界』という作品を鑑賞してそれを多くの場面で感じた。ダンサーの踊りはもちろん、照明や様々な舞台装置を駆使した素晴らしい演出。それらから表される物語性や演出家の意図に注目していく。

第一章
 まず山田うんさん振り付けの『Endless Opening』についてだ。最初に目に入ったのはひらひらとした花びらのようにも鳥の羽のようにも見える衣装。衣装はピンクや水色など、淡い色が多く使われており、女性らしいという固定概念に当てはまるようなものだった。その中で男性ダンサーも女性と共に踊っており、女性と全く同じ衣装を着ていたのが印象に残っている。男性らしさと女性らしさの概念をはっきりと分けないジェンダーレスという現代だからこその衣装構成だと感じた。ダンサーそれぞれが優雅ながらもパワフルに動き、唯一無二のダンスを生み出していた。
 最も興味深く感じたのが作品の後半、自らのひらひらした袖を外し、ベッドのようなものに置いて舞台に下がってくる幕の中へと消えていくシーンだ。舞台上にいるダンサーではなく、背景に映し出される影に自然と目がいってしまうような演出と無音の中でダンサーが後ろに向かって歩いていくシーンは、特に凄い技術を見ているわけではないのに見入ってしまった。自ら取った袖をどこかに置いてきたダンサー達は弾けるように踊る。そこに幕という物理的な境界によって生と死の見えない境界線が描かれていると感じた。

第二章
 次に観劇した金森穣振さん振り付けの『Near Far Here』は言葉にするのは難しく、とても神秘的な作品だ。Noismはたとえ何もない空間だとしても、場面展開が早く、ダンサーの技術と共に、見ていて目が離せなくなってしまうのが一つの特徴だと思う。今回の作品もシンプルな額縁やスクリーンがあるだけなのに、そこで繰り広げられる沢山の物語が次々と見えてくる。そんな洗練されたこの作品には様々な境界が存在する。私には本物と偽りの境界、またどこからが境界かが段々とわからなくなっていく不思議さを作品の中に感じた。例えば、スクリーンに映し出された三人のダンサーとそのスクリーンの前で踊るもう一組の三人のダンサー。言い換えれば、実際にそこにいる本物とスクリーンの向こう側にいるように見える偽り。最初は互いに違う動きをしているのだが、段々と動きがリンクしていき、しまいには一人がスクリーンの中に入ってしまう。そこにスクリーンを挟んだ一つの境界があると感じた。最も印象的だったのはラストだ。舞台一面に真っ赤な花が散りばめられていた演出だった。美しさに見惚れていると、観客席にも赤い花が降ってきた。舞台と客席の間にも一つの境界があると考えると、花が降ってくる光景はまるで客席も舞台と化しているようだった。だからこの境界がなくなったとき、私は何か大きな境界がなくなった気がして不思議さを覚えた。またダンサーが舞台から降ってくる花に驚いている私たちをただ立ち尽くして見るというのも面白い光景だった。ダンサーと同じ空気を吸い、同じ空間にいることを自覚させられたような感覚だった。

まとめ
 今回初めてNoismの作品を生で観劇して、固定概念に囚われない演出が凄く新鮮で、自分にとって参考になった。一つの小物や小さな動き、衣装が少し変わるだけで、そこから多くの物語が始まっていくのを目の当たりにし、表現の可能性は無限だと感じた。

(三田ひかる)

大学生たちが見たNoism『境界』②(公演感想)

様々な『境界』の世界

 「境界」を共通ワードとした山田うん演出振付のNoism1『Endless Opening』、金森穣演出振付のNoism0『Near Far Here』の2本立てで構成された公演。

 『Endless Opening』は何もない無機質な空間に、明かりが入り、音が入り、そして、動きが入る。カラフルでひらひらとした衣装が、この無機質な空間に映える。踊りが進んでいくと、ベッドのようなものが次々と出てくる。そこで踊った後、また何もない真っ白な空間で踊り出す。集団になったり、個々での動きだったり、また衣装も相俟って演者たちは鳥を表しているのではないかと感じた。ベッドの上でスポットライトが当てられ踊る姿は、それぞれの死や苦しみのようなものに見えた。上着を脱ぎ自らベッドを暗闇の中に運び、真っ白な空間で踊りだした。暗闇は自分の命の終わりで、真っ白な空間は死の世界、又は新たな命の世界なのではないかと感じた。
 私はこのように解釈したが、「観客の皆様にそっと寄り添う、時間の花束のような舞踊をお届けできたら、境界という不確かな美を感じていただけたら幸いです」という山田うんが実際に表したものは、「喪失感や虚無感を優しく撫でる光のカーテン」である。この解説を読んだ後、作品を思い返すと、何もない空間が演者によって段々と色付けられていく時間でもあったと感じた。一つ残念に思う点は、ベッドを運んでくる音だ。演出の一部であるのかもしれないが、運んできた時の「ギギッ」という音はあまり良いとは思わなかった。

 『Near Far Here』は常に異世界のような空間にいる感覚があった。少しずつ変わっていく空間。上から四角い枠のようなものが降りてきて、演者が踊る。ただの枠がまるで鏡のように見える演者の動きや、後ろに映る影が1つから2つへ、大と小の動きが幻想的である。照明による影からスクリーンを使った影へと変わり、スクリーンに映る影と実際の影の融合は、現実と映像の境界にある空間を作っている。また影から人物へ、影の時と同じようにスクリーンと実際の人物の境界。幕が閉じ、会場に響く重低音。優しく明るいメロディーが鳴り、幕が開くと、あたり一面真っ赤な花びらの空間になり、客席にも頭上から花びらが降ってくる演出であった。最初に幕が開いた瞬間、何か凄いものが始まるのではないかと感じたのが率直な感想だ。袖幕を取っ払い、照明は剥き出し、上には色々なものが吊られていて、『Endless Opening』とは全く違う空間があった。
 金森穣はこの作品を「近くて、遠い、此処」と表している。此処とは何処なのか、言葉にはできない此処の空間、時間があったと感じた。スクリーンを使うという考えは、現代社会を簡潔に表していると思う。スクリーンが映しだす現実と虚実、実際に演者が動く現実が融合されて、「境界」というワードが当てはまる作品であると感じた。

 2本の作品を観て、「境界」というワードによって、観た人の解釈は様々なものになるのではないかと感じた。コンテンポラリーダンスは、表現の方法が多様である。多様である故に、作る人によって独特な表現で作られる為、受け取る人の解釈も様々であると思う。「境界」というワードがあるだけで、それぞれの作品に隠された「境界」の空間を感じ取ることができるのもコンテンポラリーダンスの面白さであり、それぞれの作品の面白さを感じ取れた公演であったと感じた。

(中川怜菜)

大学生たちが見たNoism『境界』①(公演感想)

いつも公演批評を書かせていただいております、稲田奈緒美と申します。
私は現在、桜美林大学 芸術文化学群 演劇・ダンス専修で教鞭をとっており、秋学期には私が担当する授業「舞踊作品研究B」で、世界のさまざまな振付家、作品を取り上げました。
オンライン授業だったため、映像ではありましたが、学生たちはたくさん見た作品の中でもNoism作品に大変感動していました。

また、演劇・ダンス専修では、教員が学生たちに観てほしいと思うダンス公演、演劇公演のチケットを購入し、学生たちが見られるようにしています。そこで、秋学期にはNoism Company Niigata による公演《境界》を取り上げました。「舞踊作品研究B」を履修している学生たちも《境界》を見に行き、課題レポートとして批評を書いて提出しました。

学生たちはダンスへの興味も様々で、注目する点も異なります。また、舞台スタッフの視線で上演を見て、レポートを書いた学生もいます。演劇・ダンス専修でダンスや演劇を学ぶ、若い学生たちの瑞々しい視点による、初々しい批評をお読みいただければ幸いです。(稲田奈緒美)

Noism Company Niigata の『境界』観劇して

 世の中がクリスマスムード一色のなか、東京芸術劇場プレイハウスにおいて2つの“境界”を目撃することとなった。

 2021年9月に、Noism1に新たに5人のダンサーが加わった。新潟出身のダンサーが加わったことで、より“新潟からの発信”ということが厚みを帯びたように感じた今作。山田うんと金森穣による“境界”へのアプローチは、同時にNoismの存在価値の表明を意味しているのではないだろうか。山田うんと金森穣の2人の振付家が織りなすNoismダンサーの異なる魅せ方をみていきたい。

 照明が白く灯り、『Endless Opening』の幕が上がった。これまでのNoism1では考えられないほど、色鮮やかな衣装を纏っているように感じた。ここから、山田うんと金森穣のNoism1のダンサーの魅せ方の異なりがみえてくるのではないだろうか。山田うんは今回、“新潟”という地での滞在から感じたものをダンサーひとりひとりの身体に落とし込んだ。また、Noism1の新メンバーも半数以上が新潟の地に来てまだ間もないという中の今作品。『Endless Opening』という名の通り、始まりに相応しいかのように華やかさが止まらない。この華やかさの連続性は、作品の中で何度も用いられるカノンの振付にも影響していたのではないだろうか。ダンサーが華やかな衣装に身を包み、舞台上を駆け回って群舞で舞う姿は、まさに花束を観客へと届けるかのようであった。照明のカットアウトの多さから、物語性ではなくダンサーの人間らしい “動”的な部分が強く印象に残った。新潟の地で感じた自然の数々をダンサーに投影し、観客とコミュニケーションを図る技法は、国内外の様々な地でワークショップを行い老若男女問わず様々な人と関わってきた山田うんにしかできない作品であった。また、今作品で使用されたローラー付きの大道具はダンサーの身体性の高さによってローラーそのものにロックをかけずとも成り立っていたのではないだろうか。

 一方で、休憩後中の余韻もお構いなく幕の上がった『Near Far Here』。始まりから、山田うんと対称的に主導権は金森穣にあるようだ。それでも、観客は“待っていました”と言わんばかりに前のめりであった。「近くて、遠い、此処」。私たちが現代社会で見えているもの・感じ取っているものは、果たして何なのか突きつけられているようであった。舞台上に映し出されたNoism0のダンサー3人の影は、私たちが見ようとしてこなかった、あるいは関係のないものとしてきた遠いものなのだろうか。劇場に響き渡るバロック音楽に、決して負けることのない3人のダンサーの身体の運びは、一見客席との境界線を生んでいるかのようであるが、今ココに生きているということを共有し、境界線を無きものとしていたのであった。新潟に本拠地を置くNoismが県外で公演を行う意味、新潟市の様々な問題と向き合う金森穣だからこそ他人事にして欲しくない何かがあるのだろうか。バラが宙を舞う。高知公演の『夏の名残のバラ』に続いていくかのように幕を閉じた。

(石井咲良)

2022年7月Noism×鼓童公演に向けて、『鬼』特設サイト設けらる♪

きたる7月、Noism Company Niigataと鼓童という、世界に向けて本県のパフォーミングアーツを牽引する「新潟ツートップ」が本格的に初共演します。双方の本拠地である新潟を皮切りに、埼玉、京都、愛知、山形と巡るツアーですが、募るその期待感の「受け皿」として、この度、強力な特設サイトがオープンしました。

こちら、もうご覧のことかと存じますが、内容「鬼」充実で、読み応え満点なうえ、更に以前の金森さんと鼓童・船橋裕一郎さんの「代表対談」動画も見ることが出来ます。2020年7月に配信されたこちらの動画に関しては、本ブログでも取り上げております(「金森さん×「鼓童」船橋裕一郎代表オンライン対談@鼓童YouTubeチャンネル」)が、そのなかで、金森さんが「オレ、せっかちだから」としながら、「そのへんの制作の人」に訴えた「2022年の春夏でお願いしま~す」の共演が実現するのがズバリ2022年7月!さすがはこれまで数々の開かずの扉をこじ開けてきた「有言実行の人」金森さんですね。

作曲家・原田敬子氏による新曲でNoism×鼓童により新たに創作される『鬼』。原田さんと言えば、富山・利賀村で上演されたNoism0『speed/ still/ silence』(@第9回シアター・オリンピックス:2019)の音楽に立ちこめる不穏な濃密さの印象が記憶に新しいところです。そして同時上演されるのはディアギレフ生誕150周年記念・Noism版ストラヴィンスキー作曲『結婚』。こちらのバレエ・カンタータも打楽器と歌を中心とした特異な組み合わせの楽曲ですし、出るのは鬼か蛇か、今から両作に溢れるだろう豊穣なリズムに乗って展開される「異形」の舞踊を妄想しております。

この新作2本立てダブルビル公演は、最初の速報チラシによる告知以来、ワクワク感しかなかった訳ですが、この特設サイトを見ることで、更にそのワクワク感は加速し、身悶えするまでに至ること必至です。まだご覧になってない方は是非とっぷりご堪能ください。

(shin)

あの感動をご家庭で♪ NHK-BSプレミアムステージ『境界』放送迫る

さあ、いよいよ迫って参りましたね。勿論、NHKのBSプレミアムでの『境界』放送です。明日3月6日(日)の「プレミアムステージ」枠での放送は夜23:20から翌7日(月)2:59まで(『境界』は同番組前半にオンエア予定)。週頭の深夜となるので、リアルタイムで観ることが難しかったりするかもしれませんが、その場合は録画か、或いはNHKオンデマンドでの視聴も選択肢に入ってくることでしょう。

山田うんさん振付演出のNoism1『Endless Opening』と金森さんによるNoism0『Near Far Here』、あの感動の舞台がまた観られるかと思うと本当に嬉しくて嬉しくて、今、言葉にならないくらいです。

同公演に足を運ばれなかった方も、今回はBSの電波に乗って届けられますから、「近い」や「遠い」といった「境界」もなく、皆さんにとっての「ここ」で観ることができる機会な訳ですから、ホント見逃し厳禁ですよね。

この『境界』公演につきましては、当ブログにも稲田奈緒美さんのご批評を掲載させて頂いていますし、「ダンスマガジン」2022年3月号(新書館)には渡辺保さんによる批評(「官能の焔」)のほか、三浦雅士さんによる金森さんへのインタビュー記事(ダンスマガジンインタビュー「21世紀のバレエが動き始めた」)のなかでの言及もあります。どれも読み応えのあるものばかりですから、今回の放送を機に、改めて目を通して浸る愉悦の時間まで手にしたと言えようかと思います。はたまた、金森さんと井関さんによるインスタライヴでの公演「裏話」の方へ行くというのも楽しいでしょう。

そして、それら反芻的な振る舞いにとどまらず、こうしてテレビ放送されることには、様々な「境界」を越境していく波及効果に大なるものがあると信じます。

でも、まずは私が、あなたが、数時間後に迫った放送を堪能致しましょう♪
あな待ち遠しや、待ち遠しや♪

(shin)

Noism0 / Noism1《境界》東京公演 

稲田奈緒美(舞踊研究・評論)

 2019年からゲスト振付家を招いて催しているダブルビル公演。芸術監督による色を鮮明に打ち出すことで、カンパニーとしての個性を獲得してきたNoismが、いわば外から血を入れることで、多様な視点を獲得し、新たな可能性を見出す機会となっている。今回招かれたのは、山田うんであった。
 
 山田は、圧倒的な身体能力と豊かな感性を持つメンバーで構成するカンパニー、Co.山田うんを主宰しており、その点ではNoism芸術監督の金森穣と等しい。ストイックにダンスを追求する点は同じだが、Noism作品は構築的でエッジの効いたものが多いのに対し、山田うんの作品から受ける印象は対照的である。山田はよりほんわか、ふんわりと包み込んでダンサーの個性を活かしつつ、身体的、芸術的な要求を高め、最大限引き出そうとするのだ。その山田が、今回初めてNoism1のメンバーに振り付けた。プログラムにある金森の文章によると、創作途中でキーワードを山田に尋ねたところ「境界」があがり、偶然にも金森と重なったことから、今回の公演タイトルが決まったそうだ。個性も創作方法も全く異なる二人の振付家が挙げた「境界」をテーマに、この公演が構想された。

 一作目は山田うんの演出、振付による『Endless Opening』。第1章から第4章まで分かれており、幕があがると、カラフルな布で作られたシャツとパンツに、柔らかな薄布を花弁のように散らした上衣を羽織ったダンサーたちが、やわらかく、流れるように踊り始める。色の組み合わせはそれぞれ異なるが、男女の区別はない。体形や性別による役割、民族的な差異ではなく、それぞれに色、個性が異なるだけなのだ。そんなジェンダーを揺さぶる小さな仕掛けは、山田の作品に珍しくない。群舞になり、ソロになり、グループに分かれと自在に構成を変えながら、音楽を浴び、光を受けて軽やかに踊るダンサーたちの心地よさが、客席まで伝わってくる。但し、それだけでは面白くない。山田は、動きと動きのあいだの粘りや余韻を振付にいかし、何気ないステップを繋ぐかに見せて、意表を突く。それらがごく自然にダンサーの身体から生まれており、動きの余韻が空気に溶け込んで、フォーメーションやステップの変化によってダンサーとダンサーの関係性が緩んでいくようである。ダンサーたちのからだがおだやかに、やわらかく開かれていくことで生まれるダンスが、自らの身体と空間という境界を、自らの身体と他者の身体という境界を、浸潤していくようである。


 山田は創作のために新潟で滞在した折のことを、以下のようにプログラムに記している。「信濃川のほとりを歩くと、水面を蹴る光、厚い白雲、草の匂いを感じながらその全てが心地よく新鮮で、私に創造する力を与えてくれました」。山田が信濃川のほとりで感じた、光や音や風の有機的な動き、生まれ、消えゆくときの余韻のようなものがインスピレーションを与えたようだ。それがダンスという表現に生まれ変わることで、物理的な境界としての身体、それを囲む空間、自己と他者という境界が、やわらかく浸食しあいながら溶けていくようであった。親和することで、境界がゆるみ、互いに浸潤していくのだ。


 ところが第3楽章になると、ダンサーたちの動きは止まり、一人一人が運んできた台車をのぞき込む姿でフリーズする。台車はベッドになり、棺になって、それをのぞき込んだ体勢のまま動かないダンサーの身体が、死と決別の悲しみ、苦悩、鎮魂を現出する。台車の中に収められ、隠された死と、それを上からのぞき込む生々しい肉体。生と死の境界は断絶されているのか。いや、この境界さえもこのシーンではやわらかく浸潤し合う。そして台車の上に横たわるダンサーたちの身体が、今度は胎児のように縮こまり、種子のように凝縮したところから、揺らぎ、もがくことによって新たな命として誕生していく。そうして生まれ変わったダンサーたちは、両腕にまとってきた薄布の花弁のような袖を脱ぎ、手向けるように台車において、舞台の奥へ向かって台車を押して進んでいく。その姿から色彩が消えて黒いシルエットのみになったとき、台車とダンサーのあいだに幕が降り、幕によって隔てられた明るい空間が再び現れる。

 第4章は、再びあかるく軽やかな音楽に乗って、ダンサーたちは一人で、デュオで、アンサンブルで踊っていく。そのダンスは、他者と共に動くことによって身体という境界を拡張していくようである。最後は全員がひとかたまりとなって踊るのだが、それは一糸乱れぬ群舞が美しい、というある種のダンスの価値観とは異なるものである。個を消して合わせようとするのではなく、個と個が境界を侵食し合うことで緩やかな塊となって動く生命体のようであった。

Noism1『Endless Opening』
撮影:篠山紀信

 心地よい動きや美しいアンサンブルといった、一見ウェルメイドなダンス作品のようでありながら、山田らしいユーモアや痛み、挑戦や揺らぎ、踊る喜びを巧みに配した作品。ダンスによってからだを、個を、生を開き続けていくことで、死と喪失に向き合い、受け入れていく。そんな山田の思いに、信濃川の陽光とNoism1のダンサーたちが応え、観客に伝えてくれた。

 後半は、金森穣の演出、振付で、Noism0の3人が出演する『Near Far Here』。真っ暗な舞台上に、白いプリーツの打掛のような衣装を纏った井関佐和子が一瞬現れ、暗転。再び白い衣装の井関が現れると、まるで空間移動をしたかのように立ち位置が変わっている。再び暗転から一瞬の明滅で現れる。それを繰り返しながら後方へと移動し、照明がつくと白いオブジェのような井関の前に、黒い衣装の金森が影のように重なっている。やがて動き出した二人が徐々に別れると、矩形の枠が現れ、山田勇気と金森が鏡に映った実体と影のように同調し、重なりながら動き、別れていく。バロック音楽の峻厳で美しい響きが舞台を満たす中で、3人の身体が重なり、離れ、ぶつかり、引き寄せ合いながら踊っていく。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 やがてスクリーンが上方から降ろされると、3人の影が映し出され、影が踊り始める。さっきまで目の前で踊っていた3人が映し出されていると思いきや、微妙なずれから予め撮影された映像と、今起こっているダンスの影で構成されていることがわかってくる。今、ここで、目の前で起こっているリアルな現象と思い込んでいることが、じつは今、ここではない時間と場所で起こったことであり、その判別が困難であることを示す。次に山田が透明のひし形プレートを持って現れ、それをあいだに挟んだまま、触れ合うことのないまま井関と踊る。手を伸ばせばすぐに届きそうでありながら、決して到達することのないその距離は、私たちの日常を彷彿とさせる。さらにスクリーンが上部から降りてくると、鏡を重ねたように映像がコピーされながら奥へ奥へと、無限に反復していく。それはコピーと反復によって作られた、ここから遠くへと引き延ばされていく、目の眩むような時間である。このように様々な象徴的な仕掛けによって、様々な遠近を見せながら、3人は別々に、あるいはデュオで踊っていく。ここにいる自分と他者、ここにいるはずが幻影であった他者、近くにいるのに触れることはできない距離などが、次々と呼び寄せられ、それらを隔てている境界が身体によって検証されていくかのようだ。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 様々な思いを投影しながら井関と金森がデュオで踊っていると、パーセルのオペラ『Dido and Aeneas』から「remember me」という歌詞が切なく響く哀歌が流れ、静かに幕が降りる。生が死によって引き離されるかのような静けさが漂うが、再び幕が上がると舞台一面に赤い紙吹雪が積もっている。ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』が天上から降り注ぎ始めると、三人が舞台へ進み出て挨拶をする。通常は作品と切り離されたカーテンコールが、ここでは死から再生という境界、舞台と客席という境界を超える演出になっているようだ。客電が点くと、赤い紙吹雪が客席にも降ってくる。血潮のように赤い紙吹雪が劇場中に舞うことで、観客である私たちにも境界を超えるための息が吹き込まれるように。

Noism0『Near Far Here』
撮影:篠山紀信

 今回は山田作品、金森作品ともに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延という現状を含めた別離や鎮魂を経て、救いや希望へと向かう意思を感じさせた。鋭敏な感性の持ち主である振付家、ダンサー、スタッフらが自ずと時代を映し出したのだろう。山田は、ダンサーの身体によって、身体という境界を浸潤し、親和しようとする。対して金森は、境界についての世界を立ち上げ、物語るために、ダンサーの身体とその動きは様々な象徴や記号として変化しながら立ち現れる。二人の振付家とダンサーたちによる、身体の、人と人の、時間と空間の、リアルとバーチャルの様々な境界に関する思索が、全く異なるアプローチによって表現されることで、身体を媒体とするダンスの豊かさと可能性を噛みしめる充実した公演であった。

(2021.12.24(金)/東京芸術劇場〈プレイハウス〉)

PROFILE | いなた なおみ
幼少よりバレエを習い始め、様々なジャンルのダンスを経験する。早稲田大学第一文学部卒業後、社会人を経て、早稲田大学大学院文学研究科修士課程、後期博士課程に進み舞踊史、舞踊理論を研究する。博士(文学)。現在、桜美林大学芸術文化学群演劇・ダンス専修准教授。バレエ、コンテンポラリーダンス、舞踏、コミュニティダンス、アートマネジメントなど理論と実践、芸術文化と社会を結ぶ研究、評論、教育に携わっている。

裏話満載でマジ必聴!今年初のインスタライヴは『Near Far Here』アフタートーク♪(2022/01/30)

前週末に開催告知があり、2022年1月30日(日)の夜20時(当初予定の21時を変更)から、今年初の金森さん+井関さんによるインスタライヴがありました。『境界』公演に関するアフタートークとされた内容は、より正確には『Near Far Here』のアフタートークであり、約1時間にわたり、たっぷりと裏話などを話してくださいました。今回もおふたりのインスタアカウントにアーカイヴが残されていますから、是非ともそちらでお楽しみ頂きたいと思うものですが、こちらでもごくごくかいつまんだご紹介をさせていただこうと思います。

*ペアルックのおふたり、着ているのはゴールドウィンのNEUTRALWORKS「リポーズ」というスウェットの上下。高知公演の折の頂きもので、疲労回復を促すなどのすぐれものとのこと。

*Noism0『Near Far Here』クリエイション: 「何も知りたくないままのスタジオ入り」(井関さん)で、1曲ずつ作りながら進んでいった。

*冒頭の井関さんの「瞬間移動」: 着物の動きも止めて見せるにはギリギリの移動だった。舞台のど真ん中に、見る対象なしで立っている(止まっている)のはキツかったと井関さん。当初のアイディアでは金森さんと勇気さんの予定だったものを白い女性の姿にすることで「シンボライズ」できるからと変更したとのこと。

*フレームが下りてくる場面: 人力で下ろしている。東京公演の初日、勇気さんを見詰めながら繋がりながら動いていた金森さん。顔ギリギリのところにフレームが下りてきて、表情は変えられないが、内心「うううっ」となった。

*白いスクリーンが下りてくる場面: テレビ放送のための収録が行われた日、機械トラブルのため、タイミング通りにスクリーンが下りてこなかった。歩いてくるとき、背後になるため、それに気付かない井関さん。その先に本来いない筈の金森さんの姿を認めて…。最終的に「『おおっ、これは即興(で踊る)か』と思ったけど、下りてきたから…。」(金森さん)で収まるまでのドキドキヒリヒリのトラブル対応を巡るやりとり、この生々しさは、同時に抱腹絶倒でもあり、必聴です。何しろ、「下りてこなかったら、何してたかわかんない」(金森さん)そうですから。

*バッハの流れる「影」の場面: テーブルが出てくる影絵は収録した映像で、同じ速度で動いていると面白みがないということで、倍速で撮って、ゆっくり2分の1倍で再生し、カウントに落とし込んでいる。で、ひとつの動きに10カウントかけることにしたところ、井関さんは「…9、10」を数えるのに難儀し、「12345678せ~の」と数えていた。そこに楽しそうに突っ込む金森さん。

*アクリル板の場面: 体温が伝わらず、ホントに難しかった。体感がない。あれだけくっついていても一緒になれない。たった1枚でも時間差が凄かった。滑り落ちる危険もあり、「毎回、『気を抜くな』と自分に言い聞かせていた。あのシーンに関しては、気持ちよかったことは一日もなかった」(井関さん)

*動く床の上での金森さんのソロ: 人力で引っ張っている。金森さんの重心の移動と負荷のかかり方を理解して引っ張る必要があり、一方、金森さんも上半身でアクセントを入れながらも、下半身はあとからにするなど、両者に繊細さが求められた。

*真っ暗な中、浮き上がった井関さんの映像の場面: 映像収録時、「パフォーマンス」をした瞬間にOKが出たため、そこに音の小さなズレが生じることになり、それに合わせて踊ることはやめたと語った井関さん。それに対して、金森さんは「初めてその映像に向き合って踊る『一期一会』のライヴ感」が重要と。「最終的にはそこに落ち着いたでしょ」(金森さん)「落ち着いた」(井関さん)
「過去の自分とか、自分の起こしたアクションに対して責任をとるのが今の自分。実人生でも、自分が言ったこと、やったこととどう向き合うか。今をどう生きていくかということ」(金森さん)
この場面が本作のなかで一番最初の構想にあった場面だったとのこと。

*フィナーレのカーテンコールについて: 『オンブラ・マイ・フ』で浮かんだイメージ。「ゼッタイやりたい!」その瞬間、やり方、手順も見えた、と金森さん。
「最後の曲はお辞儀だけだから」と言われた井関さんと勇気さんは「?」となったという。
で、その真っ赤なバラの花びらの大地を用意するのに「30秒以内で」とする金森さん。「その時間じゃ無理」と言う舞台監督に、「ゼッタイいける」と金森さん。上手(かみて)側から段ボールに入った花びらを縦一列の6人がかりで撒きながら舞台を一回で通過することで実現。
更に客席にも降る花びらやら照明やらの詳細を含めて、このあたりの演出上のこだわりに関してはこの日のハイライトと言えます。必聴です、ここ!

*質問1: 『Near Far Here』の着想はどこからきたのか?
-金森さん「根底に、コロナ禍で人と人が同じ空間を共有できない痛みがあり、それとは別に、西洋と東洋の文化への興味があった。日本では、江戸時代に禁教令、隠れキリシタン、信仰心や異文化との出会いがあった一方、同じような時代に、西洋では、信仰と密接に繋がった宗教音楽としてのバロックが隆盛していた。遠いけれど同じ時期に別な形をとった信仰。そんな時期にバロック音楽を聴いて感動。好きな音楽、興味があること、全部を頭に入れて『ガラガラポン』、最初からそれがやりたかった」
-井関さん「Noism0だから、お互い挑戦できることが楽しい」
-金森さん「実験ができるから。自分もどういうものができるかわからないドキドキを味わいたい。新しいことに挑戦したいから」

*質問2: 雷音に託した思いは?
-金森さん「演出的に一番初っぱなに印象づけたかったことと、3回くるのは、アレ、『Near Far Here』。ヴァリエイションを調整した(距離を示す)言葉のメタファーとしての雷音」

*質問3: 3人の衣裳が象徴するものは?
-金森さん「(金森さんと勇気さんのは)ひとりの男の人の衣裳を分割。西洋の神父・聖職者・僧侶と日本の侍の袴をガチャッとデザインとして集めてデフォルメした感じ。(井関さんの方は)ひとりの西洋の女性のドレスとその上に羽織、洋の東西の服飾のエッセンスを入れたかった。黒と白はシンプルに陰と陽みたいに分けたかった」

*質問4: 花びらを客席に降らせるアイディアはどこから?
-金森さん「『オンブラ・マイ・フ』、曲自体が語りかけてくるように、今ここにいることの尊さ、かけがえのなさ、共にいることの素晴らしさを表現・共有したかった。舞台は観客がいなくては成立しないもの。客席を巻き込んで初めて『舞台』というかけがえのない場所が出来る。それを全部、愛で包みたい、そういうイメージだった」

*いつか再演したいと金森さん。また、3月6日のテレビ放送に関しては、「映像は切り取っちゃうので、映像としての作品になる。そういうものとして見る楽しみがある」と金森さんが言えば、井関さんは「『寄り』とか超イヤ!」と。

最後、週末に迫ったメンバー振付公演についても「観に来てください」としたところで、この日のインスタライヴは終了しました。

いつも完成度が高いNoism Company Niigata。それもNoism0となると、もう「どーん」とした圧倒的な風格があるので、この日の裏話に聞かれたみたいな内心のドキドキなどまったく想像もしない世界でした。
ですから、はじめは意外な感じもしましたが、それをおふたりが丁寧かつ具体的に話してくださったので、惹き込まれて聞く裡にマジマジとした「体感」を伴いながら、演者の「リアル」を共有することが出来たように思います。圧巻のアフタートークでした。繰り返して楽しみたいと思います。

以上、粗末なまとめで、失礼しました。(汗)

(shin)

ほくそ笑む金森さんを想像して膝を打つ、新潟と池袋の『境界』公演(サポーター 公演感想)

☆Noism0 / Noism1『境界』新潟公演・東京公演

 新たなレジデンシャル制度への移行に際して、「芸術監督」の任期が取り沙汰されるなか、先にNoismの活動継続の折に求められていた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会の提供と、金森さん自身がかねてから唱えている「劇場文化100年構想」の今後の展開とをリンクさせるかたちで結実したこの度の『境界』公演。それは、私たちの、言ってみれば「平穏」やら「安定」やらを志向しがちなやわな気持ちを大きく揺さ振る、「越境」の意志に満ちた大胆な公演だったと振り返って思う、今。

 先ずは、山田うんさんが招聘されて演出振付を行ったNoism1『Endless Opening』。ボロディンの弦楽四重奏曲第二番、その旋律が伝えてくる軽やかな華やぎと、時折、そこに差し込むある種の切なさが、9人の舞踊家の「個」を魅力的に見せつつも、より大きな調和へと回収するかたちで踊られていくことで、端正なイメージを残す爽やかな作品。主に「生」と「死」を巡る「境界」が主題化されているとみたが、「死」が組み込まれて流れる「生」の時間の在り方を首肯せざるを得ないものとしつつ、それでも踊らずにはいられない、或いは、それ故にこそ抗して踊らんとする舞踊家の意志、または宿痾とも呼ぶべきものが清冽に発散される愛すべき演目だったと言える。

 身体のメカニクス的に「踊れる」舞踊家9人を前にして、楽しくて仕方なくて、「もっともっと」と要求していったのだろう山田さんと、作品が求める笑顔のままに、それに応じ続けた舞踊家9人との創作過程を想像してしまうのも宜なるかなといったところか。踊り終えて、下りた緞帳のその向こう、舞踊家9人の荒々しい息遣いが客席まで届いてきたその演目、それをNoism的なるものと非Noism的なるものの化学反応が結実した果実とみるなら、それはまさしく、当初、両者の間に存した「境界」の双方からの「越境」そのものなのであり、同時に、それは冒頭に挙げた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会が提供されたことをも意味しよう点で、金森さんが期待し、思い描いたところが十全に成し遂げられたということにもなろう。その後の20分間の休憩時間を、まるで夢見心地の、ふわふわした気分で過ごしたことが思い返される。

 しかし、休憩という「境界」を挟んで、まったく異質の時空に身を置くが如き体験が待っていようとは、いかに予想していようと、していないも等しいほどであった。

 金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』、先刻までの夢見心地も何処へやら、冒頭、雷鳴に続いて、井関さんの姿が闇に浮かび上がる場面から、力ずくで「越境」してくる途方もない凄みには観る度に圧倒され、捻じ伏せられるより他になかった。

 「バロック」が意味する「歪な真珠」然として、敢えて統一感を放棄したかのような幾つもの部分からなる作品構成には、ただ繰り出されるものを整理する間もなく受け取ることしか許され得ず、いったい今がいつで、ここ(Here)はどこなのかを不分明にしてしまう効果が絶大で、私たちは手もなく、これに続く「越境」の渦中に自らを見出すのみである。

 そうした敢えての不統一のなかにあって、下りてくる「枠(フレーム)」を巡る金森さんと山田勇気さん、或いは、「影(シルエット)」の前景で踊る3人、そして大写しにされた自身の「映像」の前で踊る井関さん、そのいずれもが「二重性」という共通項をもって、見詰める目に迫ってきたことは印象深い。彼は、彼女は誰なのか、その「境界」はどう画されるのかという訳であり、ここで想起したのは、フランスの哲学者ジャック・デリダの「差延(さえん)」という概念であった。「自己同一性」はアプリオリ(先天的・先験的)に自明な「境界」を有してはおらず、他との「差異」に遅れて現われてくる(現前する)ものに過ぎないとするものである。しかし、そうした概念と共に見詰めてしまうのは、「観ることの純粋な驚き」を減じかねない危険性を孕むことでもあり、決して望ましい態度ではないのかもしれないが、よぎってしまった以上、もう仕様がない。それでも充分に刺激的な視覚体験であったうえに、同時に、一種、哲学的な(自分という存在の「境界」を巡る)問題系に放り込まれたことで、嗜虐的な快楽を愉しんだことは記しておきたい。

 そして圧巻はラストの場面。目の前に広がったえも言われぬ光景には、呆然とし、息を呑んだ。もしかしたら、あらゆる人の裡に共通して存在するイメージが可視化されたのではないかと思われるような光景。また、それは「人」という存在にプリインストールされた内なる「宗教心」(それは実際のあれやこれやの宗教に向けてのものではない)のようなものに触れる場面だったという言い方も出来るかもしれない。その怖いような美しさを前にして味わった感覚は、勿論、快感でありながらも、「戦慄した」という表現の方が似つかわしいものという思いは今も拭えない。

 更に、その後も「越境」が追い打ちをかけてくる。舞台のみならず、客席にも紅い花片を降らせることで、両者の「境界」を「越境」したかと思えば、カーテンコールを行わないことで、(正確には、新潟公演の初日に、鳴り止まない大きな拍手に、仕方なく、やや渋面をつくって3人が姿を現した例外があるし、高知公演がどうだったかはこの目で観ていないので語り得ないが、)公演がもつ時間的な「境界」を「越境」してみせた。その鮮やかな手捌きには今回も唸らざるを得なかった。「お見事!」(と、黒沢清『スパイの妻』(2020)で、夫(高橋一生)の計略に嵌まったことに気付いた妻(蒼井優)が叫ぶ場面が脳裏をかすめる。)

 カーテンコールにて自らの感動を熱く演者に伝えることからは、なにがしかの心地よさが得られるものと心得ているが、そうはさせてくれないのが今回の金森さんである。いくら手を叩いても「それ」は行われない。やがて、無機質な「本日の公演はすべて終了しました」のアナウンスが放送装置から耳に達するだろう。それでも「それ」を求めて拍手を止めない観客たち。「非日常」に浸食されたまま放置される「日常」、そんな客席をよそに、舞台袖、或いは、楽屋で、にこやかに「はい、お疲れさん」などと言いながら、その実、ほくそ笑む金森さんを想像してみるのは、思わず膝を打ってしまうくらいにご機嫌なことであった。実際にほくそ笑んでいたかどうかは知り得ようもないが、意図してラストの「越境」を仕掛けた以上、そうであって欲しい、否、そうであるべきだと思っている、今。

(shin)