裏話満載でマジ必聴!今年初のインスタライヴは『Near Far Here』アフタートーク♪(2022/01/30)

前週末に開催告知があり、2022年1月30日(日)の夜20時(当初予定の21時を変更)から、今年初の金森さん+井関さんによるインスタライヴがありました。『境界』公演に関するアフタートークとされた内容は、より正確には『Near Far Here』のアフタートークであり、約1時間にわたり、たっぷりと裏話などを話してくださいました。今回もおふたりのインスタアカウントにアーカイヴが残されていますから、是非ともそちらでお楽しみ頂きたいと思うものですが、こちらでもごくごくかいつまんだご紹介をさせていただこうと思います。

*ペアルックのおふたり、着ているのはゴールドウィンのNEUTRALWORKS「リポーズ」というスウェットの上下。高知公演の折の頂きもので、疲労回復を促すなどのすぐれものとのこと。

*Noism0『Near Far Here』クリエイション: 「何も知りたくないままのスタジオ入り」(井関さん)で、1曲ずつ作りながら進んでいった。

*冒頭の井関さんの「瞬間移動」: 着物の動きも止めて見せるにはギリギリの移動だった。舞台のど真ん中に、見る対象なしで立っている(止まっている)のはキツかったと井関さん。当初のアイディアでは金森さんと勇気さんの予定だったものを白い女性の姿にすることで「シンボライズ」できるからと変更したとのこと。

*フレームが下りてくる場面: 人力で下ろしている。東京公演の初日、勇気さんを見詰めながら繋がりながら動いていた金森さん。顔ギリギリのところにフレームが下りてきて、表情は変えられないが、内心「うううっ」となった。

*白いスクリーンが下りてくる場面: テレビ放送のための収録が行われた日、機械トラブルのため、タイミング通りにスクリーンが下りてこなかった。歩いてくるとき、背後になるため、それに気付かない井関さん。その先に本来いない筈の金森さんの姿を認めて…。最終的に「『おおっ、これは即興(で踊る)か』と思ったけど、下りてきたから…。」(金森さん)で収まるまでのドキドキヒリヒリのトラブル対応を巡るやりとり、この生々しさは、同時に抱腹絶倒でもあり、必聴です。何しろ、「下りてこなかったら、何してたかわかんない」(金森さん)そうですから。

*バッハの流れる「影」の場面: テーブルが出てくる影絵は収録した映像で、同じ速度で動いていると面白みがないということで、倍速で撮って、ゆっくり2分の1倍で再生し、カウントに落とし込んでいる。で、ひとつの動きに10カウントかけることにしたところ、井関さんは「…9、10」を数えるのに難儀し、「12345678せ~の」と数えていた。そこに楽しそうに突っ込む金森さん。

*アクリル板の場面: 体温が伝わらず、ホントに難しかった。体感がない。あれだけくっついていても一緒になれない。たった1枚でも時間差が凄かった。滑り落ちる危険もあり、「毎回、『気を抜くな』と自分に言い聞かせていた。あのシーンに関しては、気持ちよかったことは一日もなかった」(井関さん)

*動く床の上での金森さんのソロ: 人力で引っ張っている。金森さんの重心の移動と負荷のかかり方を理解して引っ張る必要があり、一方、金森さんも上半身でアクセントを入れながらも、下半身はあとからにするなど、両者に繊細さが求められた。

*真っ暗な中、浮き上がった井関さんの映像の場面: 映像収録時、「パフォーマンス」をした瞬間にOKが出たため、そこに音の小さなズレが生じることになり、それに合わせて踊ることはやめたと語った井関さん。それに対して、金森さんは「初めてその映像に向き合って踊る『一期一会』のライヴ感」が重要と。「最終的にはそこに落ち着いたでしょ」(金森さん)「落ち着いた」(井関さん)
「過去の自分とか、自分の起こしたアクションに対して責任をとるのが今の自分。実人生でも、自分が言ったこと、やったこととどう向き合うか。今をどう生きていくかということ」(金森さん)
この場面が本作のなかで一番最初の構想にあった場面だったとのこと。

*フィナーレのカーテンコールについて: 『オンブラ・マイ・フ』で浮かんだイメージ。「ゼッタイやりたい!」その瞬間、やり方、手順も見えた、と金森さん。
「最後の曲はお辞儀だけだから」と言われた井関さんと勇気さんは「?」となったという。
で、その真っ赤なバラの花びらの大地を用意するのに「30秒以内で」とする金森さん。「その時間じゃ無理」と言う舞台監督に、「ゼッタイいける」と金森さん。上手(かみて)側から段ボールに入った花びらを縦一列の6人がかりで撒きながら舞台を一回で通過することで実現。
更に客席にも降る花びらやら照明やらの詳細を含めて、このあたりの演出上のこだわりに関してはこの日のハイライトと言えます。必聴です、ここ!

*質問1: 『Near Far Here』の着想はどこからきたのか?
-金森さん「根底に、コロナ禍で人と人が同じ空間を共有できない痛みがあり、それとは別に、西洋と東洋の文化への興味があった。日本では、江戸時代に禁教令、隠れキリシタン、信仰心や異文化との出会いがあった一方、同じような時代に、西洋では、信仰と密接に繋がった宗教音楽としてのバロックが隆盛していた。遠いけれど同じ時期に別な形をとった信仰。そんな時期にバロック音楽を聴いて感動。好きな音楽、興味があること、全部を頭に入れて『ガラガラポン』、最初からそれがやりたかった」
-井関さん「Noism0だから、お互い挑戦できることが楽しい」
-金森さん「実験ができるから。自分もどういうものができるかわからないドキドキを味わいたい。新しいことに挑戦したいから」

*質問2: 雷音に託した思いは?
-金森さん「演出的に一番初っぱなに印象づけたかったことと、3回くるのは、アレ、『Near Far Here』。ヴァリエイションを調整した(距離を示す)言葉のメタファーとしての雷音」

*質問3: 3人の衣裳が象徴するものは?
-金森さん「(金森さんと勇気さんのは)ひとりの男の人の衣裳を分割。西洋の神父・聖職者・僧侶と日本の侍の袴をガチャッとデザインとして集めてデフォルメした感じ。(井関さんの方は)ひとりの西洋の女性のドレスとその上に羽織、洋の東西の服飾のエッセンスを入れたかった。黒と白はシンプルに陰と陽みたいに分けたかった」

*質問4: 花びらを客席に降らせるアイディアはどこから?
-金森さん「『オンブラ・マイ・フ』、曲自体が語りかけてくるように、今ここにいることの尊さ、かけがえのなさ、共にいることの素晴らしさを表現・共有したかった。舞台は観客がいなくては成立しないもの。客席を巻き込んで初めて『舞台』というかけがえのない場所が出来る。それを全部、愛で包みたい、そういうイメージだった」

*いつか再演したいと金森さん。また、3月6日のテレビ放送に関しては、「映像は切り取っちゃうので、映像としての作品になる。そういうものとして見る楽しみがある」と金森さんが言えば、井関さんは「『寄り』とか超イヤ!」と。

最後、週末に迫ったメンバー振付公演についても「観に来てください」としたところで、この日のインスタライヴは終了しました。

いつも完成度が高いNoism Company Niigata。それもNoism0となると、もう「どーん」とした圧倒的な風格があるので、この日の裏話に聞かれたみたいな内心のドキドキなどまったく想像もしない世界でした。
ですから、はじめは意外な感じもしましたが、それをおふたりが丁寧かつ具体的に話してくださったので、惹き込まれて聞く裡にマジマジとした「体感」を伴いながら、演者の「リアル」を共有することが出来たように思います。圧巻のアフタートークでした。繰り返して楽しみたいと思います。

以上、粗末なまとめで、失礼しました。(汗)

(shin)

ほくそ笑む金森さんを想像して膝を打つ、新潟と池袋の『境界』公演(サポーター 公演感想)

☆Noism0 / Noism1『境界』新潟公演・東京公演

 新たなレジデンシャル制度への移行に際して、「芸術監督」の任期が取り沙汰されるなか、先にNoismの活動継続の折に求められていた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会の提供と、金森さん自身がかねてから唱えている「劇場文化100年構想」の今後の展開とをリンクさせるかたちで結実したこの度の『境界』公演。それは、私たちの、言ってみれば「平穏」やら「安定」やらを志向しがちなやわな気持ちを大きく揺さ振る、「越境」の意志に満ちた大胆な公演だったと振り返って思う、今。

 先ずは、山田うんさんが招聘されて演出振付を行ったNoism1『Endless Opening』。ボロディンの弦楽四重奏曲第二番、その旋律が伝えてくる軽やかな華やぎと、時折、そこに差し込むある種の切なさが、9人の舞踊家の「個」を魅力的に見せつつも、より大きな調和へと回収するかたちで踊られていくことで、端正なイメージを残す爽やかな作品。主に「生」と「死」を巡る「境界」が主題化されているとみたが、「死」が組み込まれて流れる「生」の時間の在り方を首肯せざるを得ないものとしつつ、それでも踊らずにはいられない、或いは、それ故にこそ抗して踊らんとする舞踊家の意志、または宿痾とも呼ぶべきものが清冽に発散される愛すべき演目だったと言える。

 身体のメカニクス的に「踊れる」舞踊家9人を前にして、楽しくて仕方なくて、「もっともっと」と要求していったのだろう山田さんと、作品が求める笑顔のままに、それに応じ続けた舞踊家9人との創作過程を想像してしまうのも宜なるかなといったところか。踊り終えて、下りた緞帳のその向こう、舞踊家9人の荒々しい息遣いが客席まで届いてきたその演目、それをNoism的なるものと非Noism的なるものの化学反応が結実した果実とみるなら、それはまさしく、当初、両者の間に存した「境界」の双方からの「越境」そのものなのであり、同時に、それは冒頭に挙げた「Noism以外の舞踊鑑賞」機会が提供されたことをも意味しよう点で、金森さんが期待し、思い描いたところが十全に成し遂げられたということにもなろう。その後の20分間の休憩時間を、まるで夢見心地の、ふわふわした気分で過ごしたことが思い返される。

 しかし、休憩という「境界」を挟んで、まったく異質の時空に身を置くが如き体験が待っていようとは、いかに予想していようと、していないも等しいほどであった。

 金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』、先刻までの夢見心地も何処へやら、冒頭、雷鳴に続いて、井関さんの姿が闇に浮かび上がる場面から、力ずくで「越境」してくる途方もない凄みには観る度に圧倒され、捻じ伏せられるより他になかった。

 「バロック」が意味する「歪な真珠」然として、敢えて統一感を放棄したかのような幾つもの部分からなる作品構成には、ただ繰り出されるものを整理する間もなく受け取ることしか許され得ず、いったい今がいつで、ここ(Here)はどこなのかを不分明にしてしまう効果が絶大で、私たちは手もなく、これに続く「越境」の渦中に自らを見出すのみである。

 そうした敢えての不統一のなかにあって、下りてくる「枠(フレーム)」を巡る金森さんと山田勇気さん、或いは、「影(シルエット)」の前景で踊る3人、そして大写しにされた自身の「映像」の前で踊る井関さん、そのいずれもが「二重性」という共通項をもって、見詰める目に迫ってきたことは印象深い。彼は、彼女は誰なのか、その「境界」はどう画されるのかという訳であり、ここで想起したのは、フランスの哲学者ジャック・デリダの「差延(さえん)」という概念であった。「自己同一性」はアプリオリ(先天的・先験的)に自明な「境界」を有してはおらず、他との「差異」に遅れて現われてくる(現前する)ものに過ぎないとするものである。しかし、そうした概念と共に見詰めてしまうのは、「観ることの純粋な驚き」を減じかねない危険性を孕むことでもあり、決して望ましい態度ではないのかもしれないが、よぎってしまった以上、もう仕様がない。それでも充分に刺激的な視覚体験であったうえに、同時に、一種、哲学的な(自分という存在の「境界」を巡る)問題系に放り込まれたことで、嗜虐的な快楽を愉しんだことは記しておきたい。

 そして圧巻はラストの場面。目の前に広がったえも言われぬ光景には、呆然とし、息を呑んだ。もしかしたら、あらゆる人の裡に共通して存在するイメージが可視化されたのではないかと思われるような光景。また、それは「人」という存在にプリインストールされた内なる「宗教心」(それは実際のあれやこれやの宗教に向けてのものではない)のようなものに触れる場面だったという言い方も出来るかもしれない。その怖いような美しさを前にして味わった感覚は、勿論、快感でありながらも、「戦慄した」という表現の方が似つかわしいものという思いは今も拭えない。

 更に、その後も「越境」が追い打ちをかけてくる。舞台のみならず、客席にも紅い花片を降らせることで、両者の「境界」を「越境」したかと思えば、カーテンコールを行わないことで、(正確には、新潟公演の初日に、鳴り止まない大きな拍手に、仕方なく、やや渋面をつくって3人が姿を現した例外があるし、高知公演がどうだったかはこの目で観ていないので語り得ないが、)公演がもつ時間的な「境界」を「越境」してみせた。その鮮やかな手捌きには今回も唸らざるを得なかった。「お見事!」(と、黒沢清『スパイの妻』(2020)で、夫(高橋一生)の計略に嵌まったことに気付いた妻(蒼井優)が叫ぶ場面が脳裏をかすめる。)

 カーテンコールにて自らの感動を熱く演者に伝えることからは、なにがしかの心地よさが得られるものと心得ているが、そうはさせてくれないのが今回の金森さんである。いくら手を叩いても「それ」は行われない。やがて、無機質な「本日の公演はすべて終了しました」のアナウンスが放送装置から耳に達するだろう。それでも「それ」を求めて拍手を止めない観客たち。「非日常」に浸食されたまま放置される「日常」、そんな客席をよそに、舞台袖、或いは、楽屋で、にこやかに「はい、お疲れさん」などと言いながら、その実、ほくそ笑む金森さんを想像してみるのは、思わず膝を打ってしまうくらいにご機嫌なことであった。実際にほくそ笑んでいたかどうかは知り得ようもないが、意図してラストの「越境」を仕掛けた以上、そうであって欲しい、否、そうであるべきだと思っている、今。

(shin)

Noism『境界』大千穐楽、土佐の地層に井関佐和子の光源を見た(サポーター 公演感想)

☆『境界』高知公演+同時上演『夏の名残のバラ』(井関佐和子芸術選奨文部科学大臣賞受賞記念)(@高知市文化プラザかるぽーと)

 2022年1月10日(月・祝)高知市文化プラザかるぽーとでのNoism0/Noism1『境界』大千穐楽、そして井関佐和子さんが故郷に錦を飾る『夏の名残のバラ』同時上演に駆け付けた。高知公演を知った時から「駆けつけねば」と思っていたが、「井関佐和子を応援する会 さわさわ会」代表・齋藤正行(新潟・市民映画館シネ・ウインド代表 安吾の会世話人代表)、詩人・鈴木良一さん(安吾の会 世話人副代表、さわさわ会)、Noismサポーターズ・越野泉さんという、過去もNoismを追ってロシア、ルーマニアや日本各地を訪ねた仲間との久方ぶりの旅となった。
 1月8日(土)に高知入りし、様々に珍道中を繰り広げたが、9日(日)の道程は特筆したい。井関佐和子さんのお母様の故郷であり、お兄様が代表を務める漬物店「越知物産」に向かい、おふたりに挨拶。絶品のしば漬などを購入(お土産に芋けんぴをいただき恐縮)。そして、龍河洞へと向かう。坂口安吾が『安吾新日本風土記』三回目の取材で高知を訪れ、「次は綱男(ご子息)を連れてきたい」と語ったという龍河洞(安吾は桐生に帰宅した翌朝に急逝)。そのこの世とは思えぬ絶景の中に、まるで『Near Far Here』の舞台上での井関さんの姿を留めたような鍾乳石を見つけ、絶句する。暗闇の中で「光」を求めるようなあの作品との、奇跡的なシンクロに、息を呑んだ。

越知物産さんにて

龍河洞でシンクロニシティ

 1月10日(月・祝)。完売となった高知公演へ。15時前にかるぽーとへ到着したが、既に長蛇の列(コロナ対策の為、定員の半分の座席とはいえ)。15時半の開場後、二階前列右寄の座席を確保し、開演を待つ(バレエを学んでいると思しき若い方含め、場内は公演への期待が匂い立つようだった)
 16時、『夏の名残のバラ』から開演。井関佐和子という舞踊家の「矜持」を昇華する舞台の一瞬一瞬に吐息を漏らし、山田勇気さん・カメラ・配線・落ち葉との「共演」に唸り。幾度観ても新鮮に涙する作品だが、井関さんの身体の動き、手を打つ音、解放感が炸裂する終盤、いずれも瑞々しく、軽やか。カーテンコールに立った井関さんに、惜しみ無く拍手を送った。

 続くNoism1『Endless Opening』(山田うん演出振付)は、新潟・東京公演を経て、9人のメンバーの動き・音楽・演出が噛み合い、思わず身体がノるほどに仕上がっていた。全メンバーの名前を挙げたいほど、各々の個性・色彩が滲み、9台の台車と共に舞うシークエンスもパシリと決まる。調和された動きではなく、そこから溢れるものを謳う山田演出に応えつつ、やはりその「地力」が、跳躍や腕や爪先の動きに滲み出るNoismメンバー。客席の空気も、舞台とシンクロするように高まってゆく。

 そしてNoism0『Near Far Here』。バロックの名曲に乗って、舞踊・照明・映像・更に演出のケレン味とが、一瞬の隙なく連続する本作。暗闇の中、照明のマジックも相まって、非現実のように舞台に現れる井関さんの一挙手一投足に涙が溢れる。やがて訪れる現世の色彩(客席にも降り注ぐある色彩)、鳴り止まない拍手を経ても訪れないカーテンコール。冴え渡る金森穣演出の揺るぎなさを再確認。

 鈴木良一さんは少年が「すっごく面白かった!」と興奮気味に語る様子を見たという。筆者も、「さわさわ会」会報配付ブースに立ち、バレエを習っていると思しき少女たちに会報を配りつつ「おじさんは新潟から観に来たんだよ」と冗談めかしたが、Noismの自由さ・基礎や先人たちへの敬意に裏打ちされた「型破り」が、若い魂に響く瞬間を見るようで、胸が熱くなった。

 公演後、齋藤代表・鈴木さんと、かるぽーと傍の居酒屋で一献しつつ、Noism高知公演パンフを眺めていたら、金森さん・井関さんの文章が胸に染みて、二人に朗読して聞かせてしまった(内容は下の画像でご覧ください)。走り書きになってしまったが、井関さんを育んだ土佐の地、彼女とNoismを支える新潟。ふたつの土地への万感が込み上げてくる、忘れ難い鑑賞体験となった。

高知公演パンフレットより


久志田渉(さわさわ会役員 安吾の会事務局長 月刊ウインド編集部)

「8-12月の Noism と私」(サポーター 感想)

☆オープンクラス~公開リハーサル(SaLaD音楽祭、DDD@YOKOHAMA2021、『境界』)~小林十市さん(柳都会~『エリア50代』)~『かぐや姫』~公演『境界』

とにかく盛りだくさんな充実したNoismライフだった。りゅーとぴあまで車で1時間弱の田舎に住んでいるが、通った通った…
あまりにも次々とイベントがあり、先週何を観たのかやったのか思い出せないくらいだったが、印象は間違いなく脳内と身体に刻まれている。観たもの感じたことは自分の中で同化して変貌しているので、事実や他の方の記憶と違ってきている可能性もある。「え~??そんなだったっけ~?」という部分があってもスルーしていただけたら幸いです。

オープンクラスは10/3から12/12まで計7回、皆勤賞でした!
「バレエ初級」ある意味このクラスは一番キツい。汗ダクである。人数制限中で10人程度なのでNoism 2メンバーがほぼマンツーマンで付いて優しくキビしく指導して下さる。基本中の基本を徹底的にやるのでごまかしが効かない。Noismらしく踊るには必須のクラスだ。

「レパートリー初級」2回あったのだが、10/3は『Training Piece』だった。「やった!」と心の中でガッツポーズ。Noismメソッドを作品化したもので憧れの演目。心拍音に合わせて起き上がって行き、いろんな動きに発展していくのだが、アイソレーション(ダンスに不可欠な身体各部分を独立して動かす手法)が出来ないとなんかヘン。今までやった事が無いので出来なくてアタリマエ、課題が見つかって嬉しい、とポジティブに。
11/21は『passacaglia』これも「Yes !」
かなりの時間が”歩く”練習に使われた。舞台上を歩く事はステップを踏む以上に難しいと思う。ただ普通に歩けば良いわけではない。役柄に合った感情表現をしながら後ずさったり、緩急をつけたりして全方位に進まなければいけないのだ。それも鑑賞に耐えるよう美しく。井関佐和子さんの歩き方を思い出していただければ納得できると思う。
この曲は悲しみをたたえて歩く感じなので、人生経験の長いヒトは有利だったかな??

いつも楽しい、勇気先生の「からだワークショップ」他のクラスでもやる準備運動で手のひらで全身をさする、叩くというのがある。自分の身体を目覚めさせる、輪郭(外部との境界?)を確認する。手のひらだけでなく手の甲でやったり、身体全体を手のように見なして床と触れ合うというのもやった。
これがすごく新鮮だった。”床との親和性”が初めて実感できた!吸い寄せられるように床に近づいて行き、体の一部が床に密着すると、あとは自然に擦れ合ったり転がったりしていくのだ。そうか、これが発展すると踊りになるのか。足先から徐々に砂に変わって行き崩れ落ちるのも、これが出発点か。
本題は、2人で向かい合いお互い右手と右足を前に出して(古武術でいうナンバ)相手が押したらその分引くというように必然的なリアクションを続ける、というもの。みんな「こう来たら~」「こう来て~」と声に出してやっていた。
このクラスはバレエ無経験の人が多いのだが全く関係無し。武術に近いのでバレエっぽいとかえってヘンだ。しか~し、あら不思議、ラストに一組づつ発表したのだがパドドゥに見えるのだ。スローモーション的に動いたからやれるのだが、メチャクチャNoismっぽい! 
「皆さん相手をよく見ているからです」と先生。
ローザンヌ国際バレエコンクールの実演付き解説の山本康介先生(浅海侑加先生の先生)がコンテンポラリー部門の批評で言っていた「わざとらしくなく、リアクションで踊ってるように見えると良いですね」の意味がクラスを受けてよくわかった。

中級クラスはバレエ、レパートリー共に難易度が上がる。
バレエクラスは井本星那先生だが、私は先生の踊りが好きなのでレッスンを受けられて嬉しい。サブに今期からNoism 1に上がった坪田光さんが付いてくれた。彼のチャーミングな雰囲気、踊りも大好き。まだNoism 2の時に初級クラスでアドバイスいただいた事があるので親近感有り。
ジョフォア先生のレパートリークラスはブレインストーミング。心身共に真っさらにして、がんばって気負いを消して臨んでいる。
毎回「え~⁈ こんなのを私ごときがやっていいんですかぁ~(出来ないけど)」という演目(のホンの一部)を教わるのだが、今回は、小林十市さんのための作品『A JOURNEY ~記憶の中の記憶』だった!

今年のNoismの関係者のNo.1キーパーソンと思われる十市さん。彼は新潟に、「DDD@YOKOHAMA」で上演されるその作品のクリエイションの為に滞在した。その最中の10/4、りゅーとぴあ能楽堂での金森さんとの対談「柳都会」ではお茶目な素顔を見せてくれた。歩きスマホをしてクルマに轢かれそうになった…とか。金森さんは、自由な「兄ちゃん」を尊敬しながらも時にはハラハラしながら見守る弟のようだった。

そして10/9には支援会員向けの公開リハーサル。
公開リハには2種類ある。創作している過程、ダメ出しをしながらの練習風景を見せるもの。それと舞台装置、照明は無いものの衣装は着けて通しで見せるもの。これは新潟以外の地でしか上演されない演目を特別に見せてくれる場合が多い。今回は休憩を挟みながら通しで見せていただいた。とても有り難い、お得な企画なので興味のある方はぜひ支援会員に!
『A JOURNEY ~記憶の中の記憶』は十市さんの今までの歩みを描いた作品だが、『BOLERO 2020』が組み込まれていた。新メンバーも参加し、久しぶりに浅海侑加さんの踊りも見れた「改訂版リアルボレロ」。ラストは十市さんが真ん中。
それを舞台でなくスタジオBの同じフロアで間近に観たら、心の底から「来世はぜったいにダンサーになる!」という思いが湧き上がってきた。そのくらい迫力が自分の中に入って来たのだ。

その十市さんと近藤良平、平山素子両氏の3人がおちゃらけトークを交えながら1人づつ真面目に踊る、という企画『エリア50代』(11/14)。
これも能楽堂で行われたのだが、Noismメンバーの皆さん勢揃いで観客席に。行く道ですからね。歳を重ねて現役だからこその遊び心、心配事、これからどうやってダンス寿命を伸ばすか、どういう方向を目指すか…などなど。アマチュア「エリア60代」としても参考になりました。

11/20に、東京バレエ団(金森さん振り付け)の『かぐや姫』を観た。
席選びに失敗し、残念な事に集中出来なかった。コールドのフォーメーションを見たくて三階最前列を取ったのだが、席の前にバトンがせり出していて、翁の家など舞台の前面が欠けてしまった。身を乗り出すわけにもいかず…この歳になると、見えないというのはかなりのストレスである。
全幕公演の際は一階席を取ろうと思う。

コールドはとても良かった。久しぶりにクラシックダンサーのコールドを観たが、体型や踊りなど、同質性が求められるのを再認識した。クラシックバレエに特化した身体だというのも。
クラシックバレエをずっとやってきた私がコンテンポラリー、Noismに惹かれて自分でも踊りたいと思い始めたのはここら辺に理由があるようだ。ユニゾンできっちり合わせるパートでもひとりひとりの個性を出せる。体型や髪型が違ってもよい。重力を感じる、より人間的なダンスである、という点に。

Noism 1メンバー各々の個性(色彩)を視覚化したのが、今回の公演『境界』の山田うんさんの作品『Endless Opening』の衣装と振り付けだ。
衣装で印象に残ったのは、井本さんの水色、坪田さんの紫、樋浦さんのオレンジ、そしてジョフォアさんのライトグリーン。単色ではなくパッチワークのように様々な色を配している。人はいろんな面を持ち合わせているから。
うんさんは各自のオーラの色が見えたのだろうか。自分の色を纏ってみんな伸び伸び楽しそうに踊っていた。クラシックっぽい振りもたくさん出てきたが、もしかしたら昔からある動きの方が身体により入っているので自由に踊れる部分もあるのかなと感じた。今回は樋浦瞳さんについ目が行った舞台だった。

個々が持っている台車。この歳になると棺桶を運んでいるとしか見えないが、まあそういうものだろう。生まれてから死ぬまで持っている。生をまっとうし、身に付けたものを外してネクストライフに向かって行く。行く先は待機場所の「境界」。
私のイメージは『2001年宇宙の旅』のラスト、スターチャイルドが浮かんでいる場所だ。

Noism 0の『Near Far Here』はモノトーンの荘厳な世界。冒頭は暗い庭園に置いてある彫像たちが稲妻に照らされているように見えた。音楽はゆっくりとしたバロックの三拍子。三拍子と言ってもワルツでは無い。人々が楽しむために踊るワルツは終わりが来るが、これはずっずっずっと永遠に進み続ける音楽。なにかとても大きいものがゆっくりと回転している。終わる事はない。
金森さんの決意、方針が伝わってくるような作品だった。

立ち姿が神々しいとまで言える井関さんの白いドレスと打掛のようなガウン、和と洋が同居している。バレエと武道、両方のスピリットを融合させたNoismの化身のようだった。

全体を通して重厚な雰囲気が漂っていたが、途中に3人ならではのアルアル、1:2に分かれてバランスを崩すという人間的なコミカルな場面もあって面白かった。シルエット(各々の別の面?)も加わると更にややこしくなる

白と黒、そしてラストの暗赤色の花びら。私は、これは”血の色=人間”のように感じた。人間を含めた生き物かもしれない。天と地の間に動き続ける生き物たち。

初日に花びらをひろって帰ったら、ほとんど同じ色のコサージュを持っていることに気づき、楽日はそのコサージュと同色のストール、あとはオールブラックスといういでたちで観た。知り合いに見せまくって「いっぱい拾って作った」と言ったら一瞬信じた人がいた!
今回は演目に関係したファッションで行くという楽しみも満喫できた。

2021年は本当にいろいろ楽しませていただきました。
8/6に東京での「SaLaD音楽祭」のリハも通しで見せてもらい、後で公開動画を観たのですが、画面のテロップに「Noism Company Niigata」と出た時に、なんとも言えない誇らしさを感じました。やはりNiigata が付いてると付いてないでは大違いです。

2022年も私なりに応援して行きたいと思います。1月-3月のオープンクラスも全クラス申込みました。
豪雪やホワイトアウトにならない限り通います!

(たーしゃ)

『境界』東京公演千穐楽、圧倒的な余韻を残してその幕を下ろす

前夜、東京に僅かな雪片ながら、年内の「初雪」が記録されるなど寒冬の2021年12月26日(日)、Noism0 / Noism1『境界』の東京公演が人々の網膜に、心に、圧倒的な余韻を残しながら、その幕を下ろしました。

入場後のホワイエに、元Noism1メンバーの西澤真耶さんとお母様の姿を見つけたので、お声掛けして、少しお話しすることが出来たのも、個人的に嬉しい出来事でした。同時に、山田うんさんの作品を踊る彼女を妄想し、綺麗だったろうな、観たかったなとか思うことしばし。

15時。涼風にのって舞うパステルカラーの花びらと化した、或いは、天使然とした9人のNoism1メンバーが生を言祝ぐかのような、山田うんさん演出振付の『Endless Opening』。ボロディン弦楽四重奏曲第二番の美しい旋律と一体化したダンスによって誘われた先で味わうのは、まさに弾むような「多幸感」そのもの。
例えば、随所で、編み上げられていく群舞に、そしてそれが時間差でほどけていくさまに、また、細かいところでは、例えば、諸々の象徴であるところの9台の台車が、ジョフォアさんひとりの上半身を見せながら、勝手にするするその向きを変えていくかの場面の、そのえも言われぬ平滑さ加減に、観ることの愉悦を感じなかった者などいなかった筈です。
終演後に繰り返されたカーテンコール、笑顔でその生命力を横溢させた、身長も不揃いのパステルカラー9人には、いつ果てるともない大きな拍手が贈られました。それは、踊りというかたちで届けた彼ら・彼女たちの生の躍動に対してのものでもあり、同時に、見詰めた私たちの生に向けてのものでもあり、という側面があったように思われます。拍手しながら、そのときの場内に、生を共通項とするある種「祝祭」的な空間が立ち上がっていたように感じていました。

20分の休憩を経て、金森さん演出振付、Noism0『Near Far Here』。雷鳴が聞こえ、一瞬浮かび上がる強烈な白。それは井関さん。あたかも稲光のよう。数度、場所を変えつつ、鮮烈に浮かんでは、残像を残して消える井関さんの姿にはインパクト絶大なものがあります。最奥に場所を移した井関さんの前に蹲る黒い姿は金森さん。向こう向きのまま、素早く広げられる両腕の不穏なばかりの力強さ。苦悶。観る者は一瞬にして、作品のトーンを掴み、その渦中に放り込まれた自分を見出すことになります。上手(かみて)前方からやはり黒い衣裳の山田勇気さん。雰囲気は中和されることなく、金森さんとのデュオに移行しますが、それに一瞥もくれることなく、上手(かみて)奥の袖へとゆっくり歩んで消えていく井関さん。その後、黒白のなか、様々に登場しては消えていく3人。張り詰めた不穏さは和らぎの兆候すら見せないまま、舞台が進行していきます。
するすると下りてくる矩形の枠。鏡なのか、異界への入口なのか。不穏さは相変わらずですが、金森さんと勇気さん、やがて、井関さんも加わった極みの達人芸は目のご馳走というほかありません。
また、舞台上手(かみて)を斜めに切り裂くような大きなスクリーン。束の間もたらされた安らぎもやがてめくるめくかの混乱に陥り、影の黒に覆われ尽くすことでしょう。
更に、コロナ禍を象徴するアイテムであるアクリル板と勇気さん、井関さんによる「パ・ド・トロワ」の場面には、この日、最も目を凝らして、食い入るように見詰めたと言ってもいいかもしれません。隔てられてなお、(その菱形の「落下」などあり得ない、)強い繋がりを示す超絶技巧に酔いました。
一様な黒を背景に、井関さんひとりを映す全く奥行きを欠いた映像が続きますが、それがもたらす「異界」感も尋常ではありません。その手前、時折、シンクロする生身の井関さんの踊りは、今度は手を伸ばしても伸ばしても届かないもどかしさ、或いは距離を可視化していました。
黒白で展開していた舞台がラストに至り、下りていた緞帳が上がり始めると、まずは隙間から漏れ出る光輝のなか、「その色」が目に入ってきて、次第に視界全体へと拡大していくときの怖いような美しさ。それはまさしくこの世のものとは思えないような光景です。しかし、ここまでSNS各所で数多く触れられているその詳細については、この後、高知公演(トリプルビル!)をひとつ残している事情から、ここではまだ記さずにおきます。ひとりでも多くの方の驚きのために。ぐうの音も出ないほどの圧倒的な体験が待っています、とするだけに留めておきます。

そう、圧倒的。本公演の2演目はその趣をまったく異にするものですが、『Near Far Here』の幕切れが示す「境界」の無効化の効果もあり、ふたつの作品がもたらした余韻は、舞台を見詰めた私たち観客の「日常」へと横滑りし、嵌入したまま、それを浸し続けることでしょう。途方もなく永く。

これを書いている私の『境界』公演はこの日まで。言葉で表現出来ない類いの感動に身震いした東京公演千穐楽。『境界』を越え出て、私たちをどこまで連れて行こうとするのか、Noism Company Niigata。身震いは今も止むことはありません。

(shin)

「聖性」降臨に息を呑む東京芸術劇場『境界』2日目

2021年12月25日(土)、イエス降誕の日とされるこの日の朝、まだ雪が降り出す前の新潟市から新幹線を利用して池袋へ。穏やかな青空を見せる首都圏にいることに安堵しながらも、新潟駅前を撮るライヴカメラの中継で、遠くて近いそこに降雪が始まってはいないか、随時チェックして過ごしていました。

かつて「IWGP(池袋ウエストゲートパーク)」として知られた「GLOBAL RING」に隣接する東京芸術劇場界隈は、ひとつ前の記事にfullmoonさんが聖夜の美しいイルミネーション画像をアップしてくださいましたが、この日も多くの人たちが足を止めて楽しむ光景が見られました。

東京芸術劇場は中に一歩足を踏み入れて、どの方向に目をやってみても、その目を楽しませてくれるお洒落で素敵な施設です。

エスカレーターで上がると、プレイハウスのエントランスがあり、山田うんさんと金森さんが仕掛ける「非日常」との「境界」を画す円柱の間を進んで、期待を胸に入場しました。

17時を少しまわって、緞帳が上がると、山田うんさん×Noism1『Endless Opening』から。怪我も癒えて、前日から復帰していた中尾洸太さんが見られたことにホッとしましたし、その東京公演初日はやや硬かったというメンバーの表情もこの日は柔らかく、全員で生きることを肯定するダンスを、これ以上は想像できないくらいの清らか(浄らか)さを立ち上げつつ踊っていきました。荒くなっていく一方の呼吸もものともせず、笑顔を浮かべ、「俗」を脱ぎ捨て、天上界を思わせる「聖」の高みへふわり飛翔していく9人の姿には見る目に眩しいものがあります。大きな拍手がずっとずっと続くのも不思議はありません。心地よいのです。

休憩時間中のホワイエでは、元Noism1メンバーの鳥羽絢美さん、林田海里さんの姿もお見かけしました。新旧メンバーから常に、そして当たり前のようにして、感動を貰えていることはまさに驚きであり、感謝しかない訳です。そんなことを思いました。

見る度に圧倒されるのが、金森さんによるNoism0『Near Far Here』であり、最初の数秒にして既に抗おうにも抗えない空気感に包まれてしまうのは、この日も変わりありませんでした。どこかにそこはかとなく喪失感や哀しみ、或いは死の影のようなものを宿すのが金森作品の変わらぬ魅力。そうやって惹きつけるだけ惹きつけておいてからの「聖性」の降臨…。まだまだ詳細は書かないでおきますが、日常と非日常の「境界」を越境するだけでなく、更に、そうした私たちの非日常レベルを一瞬にして置き去りにして、その極北とも言うべきイメージで塗り替えてしまう想像力/創造力のもの凄さ。それがこのクリスマス時期、巷に溢れる厳かな神聖さに似たものとして捉えられたとしても無理もないことでしょう。季節の大いなる贈り物として。そしてそれに浸され、降伏する他ない観客の無上の幸福。

この豪華なダブルビルの東京公演も残すところ、あと一日。ふたりの演出振付家の作家性と舞踊家たちの身体性、そしてそれらが相俟って降臨する聖性に蹂躙される幸福はそうそう味わえる類のものではありません。明日の東京芸術劇場•プレイハウス『境界』は東京公演の千穐楽、まさに必見です。

(shin)

真冬の新潟市、雪に負けぬ花々の彩り - 『境界』新潟公演楽日

早くも来てしまったNoism0 / Noism1『境界』新潟公演 3 Daysの楽日、2021年12月19日(日)は、朝からの風雪。当初、天気予報では金曜、土曜あたりが降雪のピークと伝えられていたので、てっきり峠は過ぎたのかなと思っていたのですが、さにあらず。この日までずれ込んでいるというのが実際のところだった模様。(涙)
忍耐を試すかのような降り方をする雪に、しかし、50cmとか80cmとかの積雪もと言われていたのに較べれば「御の字」と気持ちを公演に切り替えて過ごしたのは私だけではなかったでしょう。圧雪状態を呈する路面をスリップしないように車を走らせるのは、ほぼ今季初でしたから、緊張感はありましたけれども。(汗)

でも、個人的には、そんな心を支えてくれたものがありました。それは『境界』新潟公演初日のサポーターズ・ブログに関するツイートを山田うんさんがコメント付きでリツイートしてくださったことでした。こちらがそのツイートです。目にした瞬間、まず、「えっ!」となって、その後、じわじわ喜びが込み上げてきました。嬉しい!ホントに!うんさん、本当に有難うございました。これからも頑張っていきます。

という訳で、新潟公演楽日についてです。この日も、もう大感動の舞台でした。

15時、その山田うんさん演出振付のNoism1『Endless Opening』から。この日も前日同様、中尾洸太さんは怪我で出演せず、横山ひかりさんが代役を務めました。「怪我の功名」ということもあります。中尾さんには東京公演までに良くなって、悔しさをぶつけて踊って頂きたいですし、全力で溌剌と踊っていた横山さんにはこれを機により自信を深めて頂きたいと思いました。越境に期待致します。
また、坪田光さんの身のこなしの繊細さ、樋浦瞳(あきら)さんの踊りが発する伸びやかな朗らかさにも触れておきたいと思います。

走って、跳ねて、回転して、ゆらゆらして、緩においても、急にあっても、その全身から踊ることの情熱を、喜びを、苦悩を、覚悟を迸らせて、微笑んで咲き誇る花々と化した3公演10人の全員に大きな拍手を贈りたいと思います。休む間もなく、音楽と一体化して踊るかなり苦しい作品かとは思いますが、いつまでも観ていたかった…。音楽が聞こえなくなってしまっても。少し馴染みを覚え始めたうんさんの舞踊語彙に酔い続けていたかった、いつまでも…。そんな思い。

終演後、一列に並んだ、この日の9人に大きな拍手が贈られたことは言うまでもありません。最前列のスタンディングオベーションに頬を緩めたメンバーもいました。そこまで含めて、凍てつくこの日の新潟市に華やぎをもたらしてくれた、とても爽やかな舞台だったと思います。

そしてこれまで通り、20分のインターミッションを挟むと、がらり質を異にする時間、金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』です。冒頭から終演まで、透徹した美意識に貫かれたこの作品は、その美しさにおいて、心胆を寒からしめるものがあるとでも言わずにはいられないものがある、そう書きたいと思います。実はこの表現、初日のブログに一旦使ってはみたのですが、やはり「相手を心から恐れさせる」意はどうかと思い、削ってしまった表現なのです。(書き改める迄の、ほんの短い間に目にされた方もおられるかと思います。)「畏怖」の念というよりは「恐ろしさ」、そう、3日続けて、容赦なく捻じ伏せられた感覚はやはり純粋に「恐ろしさ」こそが似つかわしいと、敢えて新潟楽日に書くことを選んだ表現。そこには私自身の語彙の限界(「境界」)が画されていることを思い知らされつつも、しかし、今、体感としては心胆を寒からしめられたと言うほかなしと。美しさと恐ろしさとは隣り合わせで認識され得る感覚なのですね。

そしてラスト、見詰める両目から入って、一瞬にして全身を浸してしまう、夢幻の体感はまさに悦楽。その想像力と創造力たるや、この日も、到底、人間業とは思えないほどでした。いや、大袈裟ではなく。参りました、金森さん。

サポーターズ・インフォメーション5号・裏面

様々な越境に満ちたNoism0 / Noism1『境界』。新潟公演は、その幕を下ろしましたが、今度はばっちりクリスマス期の東京に舞台を移し、そこでも多くの観客を魅了することでしょう。『Endless Opening』と『Near Far Here』、あなたの人生に嵌入する「事件」が起こります。その「多幸感」、是非、ご体感ください!

(shin)

『境界』新潟公演2日目 - 想像力/創造力で遠くへ連れて行ってくれるクリエイターが近くにいること

2021年12月18日(土)17時、この日も至極当たり前のことのように、Noism0 / Noism1 『境界』新潟公演2日目の舞台に臨みました。

ホワイエに入ってみると、「ちょっとこれ見て」と教えてくれる友人がいて、目にしたのがこちら。この日の公演、Noism1の中尾洸太さんが怪我で出演されないということを知りました。

中尾さん、昨日、初日の舞台も怪我を押して出ていた模様です。心配していたところ、2階客席の最上段付近にお姿を認めましたので、お声掛けしたところ、笑顔で対して貰いました。幸い重傷ではない様子。一日も早い回復をお祈りします。

代役はNoism1準メンバーの横山ひかりさん。地元・新潟出身の方で、公開リハーサルの際、舞台上手(かみて)側、直近の場所から、真剣に舞台上に目をやる姿が印象に残っています。舞台で踊る姿はこの日初めて観ることになります。

やはり、舞台は「生もの」なのですね。私事で恐縮ですが、これを書いている私もこの日はアレルギーからか、右目のあたりが腫れて調子がよくありません。踊れるか/踊れないか。観られるか/観られないか。演者にとっても、観客にとっても、その日の舞台公演が「成立」するか否かは当然のことの範疇にはない訳です。有難いことと再認識しました。

山田うんさん×Noism1『Endless Opening』、冒頭から途中までは前日よりひとり少ない8人のメンバーが踊りました。振付や出番の変更もあったのでしょうが、まだ2回目でしたので、詳細はわかりませんでした。しかし、この日は前日の硬さがとれて、滑らかな印象。オフバランスの美しさに浸りました。

印象的なアイテム、台車のシーンからラストまでが横山さんを含む9人で踊られました。期せずしてのNoismデビューとなった横山さん、メンバー写真で観ていただけでしたが、小さな(と言って良いかと思われますが、)身体をフルに使って、他の8人に食い込んでいく赤い衣裳に、「頑張れ」との思いも抱きました。

山田うんさんのこちらの作品では、見やすいところで言えば、まず、性別の「境界」を廃棄していく、越境が挙げられようかと思います。女性性や男性性を超え出るかたちで目指された中性的な身体の躍動が見ものかと。激しく踊り通されるのに、爽やかな印象を残すのも宜(むべ)なるかなといったところでしょうか。花々と涼風を観る思いが致します。

20分の休憩を挟み、金森さん演出振付のNoism0『Near Far Here』。或る効果音が耳に届き、緞帳があがっても、暗い舞台。そこに浮かび上がる井関さん。私は『夜叉ヶ池』(篠田正浩監督作品・1979)坂東玉三郎のビジュアルを想起しますが、瞬時にして、休憩前とは別の時空に引っ張り出されたことを知らされるオープニングです。

そこからはもう手練れの3人による達人芸の世界。バロックの「歪な真珠」感も手伝って、当たり前の日常との「境界」を越え出た、非現実感が極まる時空は重厚感を備えたものです。もう圧倒的な想像力と創造力とで遠くへ連れ出される観客。その点で言えば、観客は舞台が発する途方もない引力に惹き込まれながらも、舞台と客席の「境界」を意識させられる部分もある筈です。

しかし、金森さんの演出が最も冴えるのは、パフォーマンスが否応なしにもたざるを得ない時間的な「境界」を曖昧化しつつ、同時に、舞台上と客席の「境界」さえ破棄してしまうラストの斬新さにあるのでしょうが、ここではこれ以上書けません。是非、ご自身でご体感ください。

想像力/創造力で観る者を限りなく遠くへ連れて行ってくれるクリエイターが近くにいること、そしてそのアートが身近な「ここ」から世界に向けて放たれること、その豊かさを実感した『境界』新潟公演2日目でした。

本日、新潟公演は楽日を迎えます。現在、雪が舞う新潟市界隈ですが、観る者の心に永く、爽やかな、或いは馥郁たる「花」を残すNoism0 / Noism1『境界』、お見逃しなく!

【追記】
この度の公演に合わせまして、私どもサポーターズUnofficialは「Information #5」を作成し、入場時、各種チラシと一緒にお手許にお届けしております。ご鑑賞前、ご鑑賞後、ご覧いただくことで、Noismをより身近に感じて頂けたらと思います。是非、お楽しみください。
また、私どもサポーターズは随時ご入会を受け付けております。そちらもご検討頂けましたら幸いです。

サポーターズ・インフォメーション5号・表面

(shin)

「これはもう!」詳しく書けないのがツラい『境界』新潟公演初日

2021年12月17日、数日前から天気予報が新潟の大雪を告げていた金曜日、りゅーとぴあへ向かう道すがら、猛烈な風があらぬ方向から叩きつけてきたのはその時点では雪ならぬ雨。荒れた天候のなか、混雑した12月の道路の移動はかなりの時間を要し、「近くて遠い」感が致しましたが、それでも、この先、「多幸感」に浸れることを確信しつつ、胸を躍らせて車を走らせました。そしてそれは裏切られることがなかっただけでなく、それ以上に、眼前に展開された多彩さに終始、蹂躙され通しだった、Noism0 / Noism1 『境界』新潟公演初日。「これはもう!」書けないのがツラいレベルの、かつて見たこともないダブルビル公演でした。

19時を少し回った頃、山田うんさん演出振付のNoism1『Endless Opening』の幕が上がりました。とすぐに、荒天のなか大変な思いをした移動が早くも報われたように感じられることに。そう、様々な生きづらさに満ちた「現実」を傍らにさせてくれるような、咲き誇る色彩に富んだ若い花々を思わせる舞踊のギフトは、可憐でありながら激しく、これまで見てきたNoismとはひと味違う新鮮さに満ちたものでした。

例えば、「こんなジョフォアさん、見たことがない」ってくらい楽しみながら踊っていることを伝えてくる表情が印象的だったりしました。それは井本星那さんも三好綾音さんも同様です。更に、新メンバーに関するなら、目で追いかけるようにして観た「庄島シスターズ」、さくらさんとすみれさん、何とか見分けがつくようになりましたので、更にこれからは踊りの特徴を捉えられるようになりたいと思いましたし、また、決して大きくない身体の中村友美さんが、踊ると随分大きく見えることにはとても驚きました。

最初の1音からボロディンに合わせて、Noism1の9人が舞踊で織りなす「花束」の目に鮮やかだったこと。同時に、緞帳がおりたときに、その奥から聞こえてきた荒い息遣いも忘れられません。カーテンコールに及んで、井本さんが左右のカーテン奥を目で探し、ジョフォアさんが連れ出してきた山田うんさん。10人で一緒に大きな拍手を浴びる様子を見ながら、今回のクリエイションは確実にNoism1の新しい扉を開いたのだろうことを感じていました。

そこから20分の休憩を挟んで、金森さん演出振付、Noism0の『Near Far Here』です。これまでにない程、広くとったアクティング・エリアにぽつんぽつんと3人。茫漠とした「ここ」とはいったいどこなのか。この世なのか。それとも…。そのあたり、印象的な照明も相俟って、まったく判然としない程に作り込まれています。冒頭からラストまで、極めて実験的でありながら、同時に、言葉で言い表せないほどの圧倒的なヴィジュアルで展開されていく美し過ぎる作品には、身震いしながら没入する他ない、驚愕の視覚体験が約束されていると言っても過言ではないでしょう。この美しさはヤバイ。こんな表現があるのか、どうやったらこんなものが生み出せるのか、口あんぐりで陶酔するより他にありませんでした。そして余韻がまた相当ヤバイ。観終えてからもう数時間が経っているというのに、相も変わらずに夢見心地なのです。繰り返しになりますが、書けないのがツラいレベルとすることに一切誇張はありません。この到達点にはまったく身震いを禁じ得ません。是非、多くの方に身を以て味わって欲しいと思う次第です。

新潟市の雨は夜更け過ぎに雪へと変わりました。予報通りだとすれば、このあと、夜明けまでにはかなりの積雪を見ることになるのかもしれません。でもしかし、このダブルビル公演に関しては、安易に見逃す選択をすべきではないと思います。窓の外、唸りを上げる風の音もこの日の2作品が心に運んで来た「多幸感」を損なうことなどできよう筈もないからです。今はただ、Noism0 / Noism1『境界』、一言、必見です、とだけ。

(shin)