「纏うNoism」#08:杉野可林さん

メール取材日:2023/06/19(Mon.) & 06/21(Wed.)

翌週末にダブルビルのNoism0 / Noism1「領域」公演が迫り、準備に余念がない頃かと思われますが、その最中、杉野可林さんとのやりとりをさせて頂き、ここに「纏うNoism」の第8回をお送りする運びとなりました。ホント有難いことです。先の『Der Wanderer -さすらい人』での胸を打つ感動的な踊りの記憶も新しい杉野さん。今回は様々に「纏う」杉野さんを拝見して参りましょう。

「ファッションで最も難しいのは、そのロゴで知られることではなく、そのシルエットで知られることだ」(ジャンバティスタ・ヴァリ)

それでは「纏うNoism」杉野さんの回、始まりです。

纏う1: 稽古着の杉野さん

おおっとぉ、まさかの横倒し!
手は90°、足は30°、頭は40°くらいでしょうか、コレ。

 *このスタイルも今までにないもので、まずは登場の仕方にも気を遣っていただき、有難うございます。では、この日の稽古着について教えてください。

 杉野さん「このTシャツはユニクロで購入したもので、数年前から気に入って着続けています。胸元にアポロチョコのイラストが描いてあるのと、生地が薄くすっきりとしているところが好きです」

 *おお、ユニクロのコラボTシャツ!侮れませんよね。で、杉野さんのチョイスは可愛いピンクに可愛いアポロが3つ♪で、アポロ、明治(製菓)が1969年から製造販売しているロングセラーの名作チョコレート菓子ですよね、言わずと知れた。
 「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」(アームストロング船長)で有名な米国による人類初の月面着陸。そのアポロ11号の司令船を模したフォルムで、着陸のすぐ後に発売されたお菓子、アポロ。
 この頃のお菓子のネーミングって社会事象を取り込んだもの多いみたいですよね。1965年発売開始の源氏パイ(三立製菓)がNHKの大河ドラマ『源義経』にあやかったものだったりとか。
 おっと、のっけから話が逸れまくりでスミマセン。戻します。ユニクロのコラボTシャツにはマンガの有名キャラクターなども取り上げられたりしていますが、他には何かお持ちですか。

 杉野さん「あとはユニクロのTシャツは一枚も持っていません。(笑) 他のTシャツはNoismTシャツやご当地Tシャツなどを着ています」

 *なるほど。NoismのTシャツも種類豊富ですしね。私も毎日、色んな過去ものをとっかえひっかえ着ています。あと、ピンク、お似合いですけれど、杉野さんのお好きな色なのですか。

 杉野さん「ピンクは一番好きな色です! 昔から好きで、今もストレッチポールやタオル、イヤホンなどがピンク色です」

 *あの画像見てわかります、わかりますとも。好きな色って、気分を上げてくれますからね。そんな様子が伝わってくる画像ですよね。私もピンクとか赤とか好きですけど、それとは無関係に、いい画像だなと。

 *ついで、稽古着に関して「お約束」の質問です。お好みの靴下などありますか。お気に入りポイントも教えてください。

 杉野さん「リハ用の靴下は全部無印良品のものを使用しています。適度に薄くて足先が綺麗に見えるかなと思って履いてます。色は様々で、ピンクや緑なども履いています」

 *杉野さんはこれまで被りのない無印良品派。靴下ひとつとっても好みは色々なんですね。人それぞれ。無印良品の靴下、今度試してみなきゃって思ってます。世界が注目する「ブランド」ですしね、「MUJI」。

纏う2: 杉野さん思い出の舞台衣裳

 *これまでの舞踊人生で大事にしている衣裳と舞台の思い出を教えてください。

 杉野さん「2021年に開催された『Dance Dance Dance @YOKOHAMA』でNoismと小林十市さんの共演の時に着た衣裳です。まさか同じ空間でリハーサルをするだなんて夢にも思っていませんでした。写真は衣裳合わせのオフショットとして十市さんに撮影していただきました!」

 Noism Company Niigata × 小林十市『A JOURNEY ~記憶の中の記憶へ』ですね。素敵なワンピースですよね。この衣裳自体の思い出やお気に入りポイントなども教えてください。

 杉野さん「お気に入りポイントは裾のフリルとリボンの可愛さです。あとスカートがしっかりとしていて、回ったりするとふわっと広がって少しお姫様みたいな気分になれます!」(笑)

 *上の2枚はどちらも十市さん撮影なのですか。宝物の写真ですね。
それと、「どうして訊かないんだ?」と怒られる前にお訊きしますが、ご一緒にリハーサルをされた時の十市さんはどんな風だったか教えてください。

 杉野さん「目線の向け方や動き方などふとした瞬間もとてもオーラがあり、思わず見とれてしまっていました。(笑) 休憩中では気さくに話しかけてくださったのでとても嬉しかったです」

 *でしょうとも、でしょうとも。気が付くと一ファンに戻っちゃってる瞬間があったりしたのでしょうね。凄く貴重な体験をされましたね。「憧れていると超えられない」(大谷翔平)なんて言える人はごくごく僅かで…。(笑)うん、やっぱり普通に「羨ましい体験」の範疇ですね、それ。うん。そうです。そうそう。

纏う3: 杉野さんにとって印象深いNoismの衣裳

 *Noismの公演で最も印象に残っている衣裳とその舞台の思い出を教えてください。

 杉野さん「『春の祭典』の衣裳です。Noismに入って初めての穣さんとのクリエイションだったことと、楽譜を片手に振りを創っていくというのが驚きでした。本公演前にはリノリウムに皆で色を付けていったのも思い出に残っています」

 *楽譜を片手のクリエイションとは驚きですね。楽譜は皆さん読めるのでしょうか。あと、そもそも、これまでに他にも楽譜を片手のクリエイションというのはあったりしましたか。

 杉野さん「楽譜を読むのも高校生以来で、クリエイション中に楽譜を使用するのは人生で初めてのことでした。
 読んでいて分からない部分があった時は音楽をやっていたりおちゃん(=三好綾音さん)に、皆聞いたりしていました」

 *Noism Web Siteへのリンクを貼ります。
 2021年の『春の祭典』の画像をどうぞ。

そうそう、あのリノリウム。前年のプレビュー公演のときには「白」だったものが生命力の爆発を思わせる着色がされていたのでした。その色塗り、杉野さんは主にどんな場所にどんな色を塗ったのでしょうか。

 杉野さん「どこに色を塗ったかはあまり覚えていません。(笑) 一発勝負だったので皆で相談しながら思い切って色を入れてました」

 *ですよね。愚問でした。相談しながらも、勢いのままに、って感じだったのでしょうね。うん、うん。

纏う4: 普段着の杉野さん

 *この日のポイントと普段着のこだわりを教えてください。

 杉野さん「この花柄のシャツは叔母が昔着ていたのをおさがりでもらいました。
冬はシンプルなものが多いですが、夏は柄物をよく着ています。特に花柄が好みです」

 *上品な花柄のシャツですね。おさがりとは!素材はシルクですか。それとも…。

 杉野さん「シルクです!」

 *そうですか。やはり。着心地もよいのでしょうね。しっかり着こなしておられますね。素敵な帽子も含めて、全体が「絵」になっていますね。キャスケット帽でしょうか。帽子はよくかぶられるのですか。帽子についても教えてください。

 杉野さん「ロングヘアーだった時はあまりかぶっていなかったのですが、髪を短く切ってから帽子をかぶるのもアリかもしれないと思い始めました。今持っているのはキャップとキャスケットです」

 *ホントよく似合ってますね。他の帽子をかぶっているところも見たいです。

 *あと、「冬はシンプル」とのことですが、冬のお洋服の色目は黒中心だったりするのですか。

 杉野さん「色はそんなに気にしてはいないですが、冬だと柄物は少なくて一色のみのモノが多いです」

 *なるほどです。で、大阪生まれの杉野さんにとって新潟の冬はどんな感じでしょうか。

 杉野さん「私の地元はほとんど雪が降らなくて、積もっても1~2センチほどだったので、オーディションで初めて訪れた時に駐車場に集められた雪の山を見て衝撃を受けました」

 *ですよね、もろ衝撃だったことでしょう。でも、今はその「雪国」の一市民ということですからね。人間は順応する生き物なのですね。もうそんな雪もすっかり楽しめるようになっているものと思います。
杉野さん、どうも有難うございました。

杉野さんからもサポーターズの皆さまにメッセージを頂いています。

■サポーターズの皆さまへのメッセージ

「日頃からの応援、誠にありがとうございます。皆様からの声援が本当に励みになっております。
より良い舞台をお届けできるよう日々精進してまいりますので、これからもどうぞよろしくお願いします」

こちらこそ、「領域」公演を控えた忙しい時期にどうも有難うございました。『Floating Field』での躍動、楽しみにしております。といったところで、「纏うNoism」第8回、杉野可林さんの回はここまでとなります。

これまで、当ブログでご紹介した杉野さんの次の記事も併せてご覧ください。

 「私がダンスを始めた頃」#21(杉野可林さん)

杉野さんには、今後、いずれかのタイミングで、現在、休載中の「ランチのNoism」にもご登場頂きたいと思っておりますので、その際はどうぞ宜しくお願いします。

ということで、今回の「纏うNoism」杉野さんの回、いかがでしたでしょうか。では、また次回をお楽しみに♪

(shin)

『記憶の中の記憶へ』から1週間余、「ゲスト!小林十市さんでーす!」のインスタライヴは超脱力系♪

2021年10月25日(月)、予定されていた18時半より15分ほど早くそれは始まりました。「それ」とは、ゲストに小林十市さんをお招きした金森さんと井関さんによるインスタライヴ。予定が繰り上げられた理由はゲスト・十市さんのお腹の空き具合によるものとのことで、ここでもキーワードは「十市さんのお腹」だったことになります。(笑)私は告知されていた18時半でも間に合わないことが確実だったため、最初からアーカイヴ狙いでしたから、直前の変更による影響はほぼ被ることもありませんでしたが…。

そんなふうに始まったゲストシリーズ初回のインスタライヴ(58:54)です。もうとことん、潔いくらいに脱力系のトークが展開されていきました。今回は、その雰囲気をお伝えすることを主眼に書いてみますが、開始に間に合わなかった人も多かったでしょうし、直に皆さんの耳で、実際の脱力具合を確かめて欲しいものです。インスタライヴ「ゲスト!小林十市さんでーす!」のアーカイヴへはこちらからどうぞ。

☆十市さんの膝
『記憶の中の記憶へ』は、脱力がテーマの『エリア50代』のソロとは真逆。運動量が莫大に増え、「強い身体」を求められたときの反動が膝にきた。その膝は治療中だが、半月板の内側のすり減りは年のせいで、手術は不要、「十字靱帯は大丈夫なので鍛えてください」と言われたと明かす。
「皆さん、聞いて下さい。この(十市さんの)膝は私のせいじゃありません」(金森さん)「勿論、穣くんのせいじゃない。そんなこと思ってない」(十市さん)「十市さんファンに恨まれる」(金森さん)「そんなことはない」(十市さん)

★50代の十市さんが挑んだ『記憶の中の記憶へ』
「楽しかった?」(金森さん)の問いに、「はい」と答えた十市さん。しかし、初日、最初のピルエットがまわれなかったと後悔。「力が出せなかった。燃え尽きようと思ったけど、先に力尽きちゃった。そこが残念だったかなと」とし、また、ゲネプロ、本番初日、本番2日目と踊ると、3日目(本番2日目)には「回復していない。それが若い時との違い」と感じるとも。

☆「ゆるい、頑張らずに踊れるは妄想」(金森さん)
「『楽で、お客さんが喜んでくれる』はそうそうない。振付家から作る段階で、ツラいかどうか、もうちょっと楽にしてあげようか、というのはインスピレーションにない。最初から『楽に』を前提にしたりはない」「ダンサーが『今、いいな』というのを積み重ねていって、結果、そんなにシンドくなかったら、それはラッキー」「ツラくある必要があるとは思ってないけど、結果的にやっぱりある程度のエナジーは要るし」(金森さん)
十市さんは「インスタのピルエット、成功したところしかあげてなかった」のに、そうと知らず、それを見たから「まわるのは負担がないんだと思って振り付けたんだけど」と金森さん。
「今回、穣くんの腕の動きを何とか真似したいと思って頑張った。『大きく、遠く、広く、デカく』、そうしたら肩が痛くなった」(十市さん)
3人で踊る場面、プリエの深さが全然違っていたが、周りがちゃんと固めてくれた。また、いつも、若手には「枠からはみ出さないと…」と言っているのに、枠に収まっている自分っていうのが、「違うじゃん」と十市さん。「本番ではふたり(金森さんと井関さん)を脇に、『松葉杖か』っていう。それで思いっきりプリエしましたよ。…今回、Noismとの共演ということで、自分のなかでも最低限、ここまではみたいなのがあった」とも。

★「今回の作品は間違えやすい作品」(井関さん)
「凄いカウントするよね。ギリシャとか、8と10だっけ。なんとなく数えているふりしながらフレーズで(踊っていた)」(十市さん)
「本当に集中してないと間違えそうだなぁというのが結構あった」(井関さん)「今回、ちょっと振りが違った?どう違う感じだった?」(金森さん)「足にきた」(井関さん)「えっ、プリエ?」(十市さん)「穣さんの作品、結構、プリエ多いんだけど。ベジャールさんに寄せているって言ってたじゃない、穣さんのなかで。イメージが、結構、2番プリエとか多いんじゃない」(井関さん)

☆「兄ちゃんのなかで、オレのはシンドイっていう固定観念が…」(金森さん)
「次はまた違う感じのを」(金森さん)「次があるの?」(十市さん)「次があったら、違う感じの作る」(金森さん)「嬉しい」(十市さん)「この感じやったじゃん。おいら、同じ感じの繰り返すの嫌な人だから」(金森さん)「(Noism)0に特別出演して貰って…。0は結構厳しいですよ」(井関さん)「勇気さんの背中、テーピング見たとき、びっくりしちゃって…」(十市さん)「身体が痛いけど、集中したときの集中力が凄い。若い人たちのエネルギーも良いんだけど、それとはちょっと違う…」(井関さん)

★「十市さんって、一緒に踊ってて、凄い目を見てくれる」(井関さん
「凄く踊りやすい。いろんなダンサーと踊ってきましたけど、結構少ないんですよね。目をただ見てるだけじゃなくて、その人のなかに入ってくる、その感じが」(井関さん)「昔からそう?」(金森さん)「芝居やるようになってからかもしれない」(十市さん)「どんなに上手い人と踊っていても、そこの通じ合いがないと舞台に立っていて、全然楽しくないから、そういう人と踊れることは本当に幸せ」(井関さん)

☆「脱力」をめぐる応酬も…
翌日10時からというレッスンにも、いかにも及び腰で「脱力しなきゃいけない」とする十市さんに、「脱力する前に一回あげなきゃ」と金森さん。十市さん、すかさず「脱力するウォームアップで」と返すも、金森さんからは「脱力はウォームアップ要らない」と。で、負けじと、十市さん「脱力するためのウォームアップを脱力してやって、脱力する踊りを踊って…」と言ったのですが、金森さんから「でも、そんなのばっかりやってるとまたダメになるから、稽古は稽古でして、脱力系を踊って…」と敢えなく一蹴されてしまう十市さんでしたが、「愛されキャラ」振りはよ~く伝わってきました。

…とまあ、そんな感じにしてみました。
「伸びてきた髪を週末に切る予定」の十市さんをゲストに迎えたインスタライヴ、幾分かだけでも紹介できていたなら幸いです。でもまあ、どこをとっても楽しい話ばかりですから、一番は、実際にアーカイヴを聴いてみることですけれど。
それでは今回はこのへんで。

(shin)

10/17『A JOURNEY』横浜千穐楽直後、感動の余韻のままに金森さん×長塚圭史さんのインスタライヴ

10/17(日)、「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」のフィナーレを飾るNoism Company Niigata × 小林十市『A JOURNEY ~ 記憶の中の記憶へ』が多くの人たちの脳裏に、胸に、記憶として刻まれてまもなく、17:45からKAATのインスタ・アカウントにて、金森さんとKAAT 神奈川芸術劇場芸術監督・長塚圭史さんのインスタライヴが配信されました。劇場界隈で、或いは劇場からの帰路で、その様子をご覧になった方も多かったと思われます。かく言う私は、「旅」先でもあり、まずは本ブログに公演レポをあげなければならぬという事情から、当初から、後刻、アーカイヴを観ることに決めていました。そして、日付が変わって、翌朝、(NHKの朝ドラ『おかえりモネ』に続けて)楽しませて貰った口です。ですから、皆さん、もうお楽しみ済みと考えますが、こちらでも内容をかいつまんでご紹介させていただきます。

*その実際のアーカイヴはこちらからもどうぞ。

金森さんと長塚さんはほぼ初対面。その長塚さん、劇的舞踊『カルメン』が印象に残っていて、特に「老婆」のインパクトが凄かったと語るところからやりとりは始まりました。

今回、思いがけない作品でびっくりした。どのようにして作られたのか。(長塚さん)
 -金森さん: 第一部冒頭「追憶のギリシャ」、十市さんと一緒に踊る場面の音楽はマノス・ハジダキス(1925-1994)。ベジャールがよく使っていたギリシャ音楽の作曲家で、ルードラ時代から思い出深い人。その人の楽曲を使って作れないかなと考えた。今回の楽曲は『I’m an eagle without wings.(私は翼のない鷲)』、今回のメインテーマである十市さんにもう一度、羽を獲得して欲しいとの思いを込めて選曲した。
『BOLERO 2020』の舞台版は、コロナ禍で創作した映像版で不在だった中心に十市さんを迎えて、他者と熱量を共有したいという鬱積した思いや願いなどを十市さんにぶつけるかたちをとり、そこから第二部へ行けたらと、この構成にした。
 -長塚さん: まず最初、十市さんの記憶から始まった。ダンス遍歴として受け取った。
 -金森さん: コロナ禍の苦悩が発端だったが、人間は人生の折々に、色々な境遇でそうした感情を抱く。時代を超えて、普遍性を持ったものであって欲しい。自由に受け止めて貰えれば良い。
 -長塚さん: 同時多発的で、凄い情報量。ドラマティックな「ボレロ」として刺激的だった。
あと、始まり方に驚いた。十市さんの劇のように始まった。こんなにひとりのダンサーに向けて作品を製作したことはあったか。
 -金森さん: 初めて。最初から最後まで「兄ちゃん」のために考えた作品。

第二部(The 80’s Ghosts)について
 -金森さん: 音楽はユーグ・ル・バール(1950-2014)、80年代にベジャールさんと一緒に作品を作っていたフランスの映画音楽の作曲家。十市さんがベジャールバレエ団に所属した1989年に、ベジャールさんが初演していたのが『1789…そして私たち』。フランス革命から200年後、革命にまつわる作品で、ユーグ・ル・バールがたくさん使われていた。十市さんとベジャールさんの出会いの頃。
その『1789…そして私たち』、200年前の革命で民主化された筈の世の中も、貧富の差は拡大し、争い事は尽きず、何も変わっていないという問題意識をベジャールさんは持っていた。80年代を振り返り、ベジャールさんを思い起こすとき、それは過ぎたことではなくて、今もなおアクチュアル。今現在、我々が生きている世の中の問題とも繋がっている。そのなかにあって、小林十市という舞踊家が52歳になって再び舞台に立とうとしている。その時間スパンをユーグ・ル・バールの曲を用いて表現できないかと思った。
ベジャールもユーグ・ル・バールも度々来日していた。80年代の日本は「バブル」。今から振り返ったら、じゃあ何だったんだろう、と。今もまだ続いている問題は何で、その上で、我々はここからどう「旅」していくかということを、逆に、舞踊家・小林十市に託した。

十市さんの「道化師」、52歳の十市さん
 -金森さん: 孤独で塞ぎ込んでいた17歳の頃、十市さんはいつも笑顔で優しかった。ベジャールさんの作品のなかでも、十市さんが担っていたポジションは「猫」の役など、人間を傍から、社会を斜めから見る目。あらゆる困難、苦悩、悲しみを見たうえで、それを笑いに転化しようというエネルギーを小林十市という舞踊家に感じていた。「道化師」は必然。その明るさ、道化的な要素をNoismメンバーに共有して欲しかった。通常のNoismではなかなかないようなことを十市さんと交わることで生みたかった。十市さんは落語家の孫。落語は人間の業を肯定する話芸、その遺伝子を継いでいる。
 -長塚さん: 道化師、俯瞰して、傍から見ている。今回の舞台でも、座って見ている時間が長かった。そこから踊り始めるのは結構負荷がかかるのではないか。52歳の十市さんの肉体と向き合ってどういう発見があったか。
 -金森さん: 2日目、カーテンコールが終わって、十市さんがちょっと悔しそうにしてたのが何よりかな。稽古して、求めれば求めるほど満足はいかないものだし、舞台に立ち続けるとはそういうこと。苦痛や不安を乗り越えていく、それが舞台芸術の美しさだと思う。十市さんの年齢を考えて振付したけれど、十市さん的には結構 too much だったかも。
でも、やっぱり十市さんは大きな舞台の人だと思う。世界中ツアーして、3,000人とかに向けて大空間で踊ってきた舞踊家。それは絶対、身体のなかにある筈だし、実際ある。
 -長塚さん・金森さん: 『BOLERO 2020』の最後、円のなかに入っていく、あれ、出来ないですよ。あのエネルギーのなかに行って、立つっていう。
 -長塚さん: 一緒に踊ったことはなくても、知り尽くしてるんですね。
 -金森さん: いやあ、だって、たった2年ですからね。妄想、妄想。知り尽くしてないです。(ふたり爆笑)
 -長塚さん: カンパニーとしての「出会い」はあったか。
 -金森さん: いい刺激になったと思う。凄い経歴、数々の舞台に立ってきた52歳でも、本番前に緊張したり、本番後、あそこがもっとなぁとか思ったり。若いメンバーが踊り続けていくなら、その姿が、彼らが共有したことがハッと気付くときが来る。今、もう既に目の輝きに表われてきたりしている。「舞踊道」、長く続く豊かなものである。たとえ、若い頃のように踊れなくなったにしても、そこにまた何か表現の可能性があることを感じて欲しかったし、感じてくれていると思う。
 -長塚さん: この作品がフェスティバルのフィナーレになったこと、凄い良かったなと改めて思う。
 -金森さん: 「クロージングで」ってことで話を貰ったので、なかなかの責任だったが、十市さんへの思いと持てるもの全てを十市さんのために注いだら、多分相応しい何かが生まれるとは思っていた。最終的に「兄ちゃん」が踊り切ってくれて良かった。
 -長塚さん: この構想を聞いてから、事前にプロットを考えて、そこに十市さんに入って貰ったのか、それとも十市さんと一緒に作っていったのか。
 -金森さん: line で、十市さんが踊った楽曲、思い出、写真など送って貰い、情報は共有したが、作品に関しては、自分のなかでどんどん先に作っておいた。あと、十市さんが入ってから、十市さんとの振付は、実際に十市さんに振付ながら生んできた。


作品に関して
 -長塚さん: 深い愛情が詰まった舞台であり、なおかつ、そこにとどまらず、今現在、これから先に向かっていくという作品は本当に素晴らしかった。
 -金森さん: 十市さんを思っている沢山の方々(お母さんやファン)の気持ちを裏切らないように作ったものが、昨日、無事に届いた感覚があって、それが何よりだった。
 -長塚さん: 十市さんのストーリーとして始まっていくのに、その間口がとにかく開かれていることが素晴らしいと思った。個人史みたいなところに行かず、歴史と記憶と現在とことを詰めたことが、閉じないことに繋がっている。作品としては、異質なのかもしれないが、十市さんというダンサーを通してできるひとつのレパートリーになっていくような、「幅」をとても強く感じた。
 -金森さん: 十市さんのために作ったが、十市さんにフォーカスしたいうよりも、「金森穣」の作品を作るうえでの妄想空間があり、そこに十市さんを入れ、そこで十市さんに自由に暴れて貰って、それで作った。十市さんが入ったことで、新たなインスピレーションのチャンネルも多数開いたので、十市さんには感謝している。
 -長塚さん: 全然閉じていなかった。特に開けていて、凄く面白くて素敵な公演だった。

…と、まあこんな感じでしたかね。ここでは拾い上げなかった部分も面白さで溢れていますから、是非、全編通してご覧になることをお薦めします。

そして、更に「もっともっと」という方には『エリア50代』初日(9/23)の公演後に配信された小林十市さん×長塚圭史さんのインスタライヴ(アーカイヴ)もお薦めします。こちらからどうぞ。

それではこのへんで。

(shin)

奇跡の現場に身を浸した10月17日、『A JOURNEY〜記憶の中の記憶へ』千穐楽

個人的な事柄から書き出します。前日(10/16)のチケットも購入していましたが、職場の周年行事と重なっていたことに遅れて気付き、あえなく見送りにせざるを得ず、この日(10/17)の千穐楽が最初で最後の鑑賞機会となりました。はやる気持ちを抑えつつ、朝イチの新幹線で本当に久し振りの横浜入り。ホテルの部屋からはみなとみらいの大観覧車などを望むことができたのですが、雨煙る窓外のそれらは何とも平板で、そこここで営まれている筈の数多の人生たちも一切華やぎを立ち上げるべくもなく、灰色のなかに没していました。奇跡など存しないかのように…。

しかし、奇跡。そう、奇跡。「Dance Dance Dance @YOKOHAMA 2021」の掉尾を飾るNoism Company Niigata ✕ 小林十市『A JOURNEY〜記憶の中の記憶へ』(KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉)はその名に値するものだったと言えるでしょう。肌寒い10月の平板な日常のなかに、刮目すべき類稀な70分(休憩含む)の「旅」を用意してくれたのですが、それはベジャールさんとローザンヌを巡る記憶に基づいた十市さんの旅であり、用意した金森さんの旅であるのみならず、Noismメンバーにとっても、観客にとっても、まさにそれは奇跡的な旅だったと言えるかと思います。

プログラムによれば、第一部(25分)は、「Opening I」「追憶のギリシャ」「BOLERO 2020」とあります。

その第一部。16時を少しまわった頃、風の音が聞こえてきて、緞帳があがると、舞台中央に旅支度を整え、椅子に腰掛けた十市さん。諦念を滲ませながら、古びたトランクから数枚の写真を取り出しては視線を落とします。舞台奥に映される画像によってそれらがベジャール・ダンサーとして一世を風靡していた頃のものとわかります。そこに上手(かみて)から金森さん、そして、遅れて井関さん、舞踊とは別種の「旅」など祝する様子も皆無で、自ら踊りを繰り出しては舞踊の醍醐味に連れ戻そうと誘いをかけます。その場面、ある種のストーリーを完全に逸脱した、喜色満面の金森さんの笑顔に打たれます。「兄ちゃん」十市さんと踊る奇跡を表情から、体中から発散しているのです。そしてそれは、とりもなおさず、観客にとっても奇跡に立ち会うこと以外の何物でもありませんでした。その愉悦。多幸感。

そこからの『BOLERO 2020』、十市さんは下手(しもて)ギリギリの位置に移した件の椅子に腰掛けて、12人の舞踊家により、新たな『BOLERO』が踊られるさまを、微動だにせず、見詰めるでしょう。コロナ禍の舞踊家を扱ったクリエイションは、途中まで、あくまで舞踊家12人の孤独な舞踊であり、そこには本来、観客は不在の筈で、想定されていない観客として、それを見詰めるいると、音楽の盛り上がりとともに、次第にシンクロしていく構成に、心臓は高鳴り、我を忘れて興奮する他ありません。

そのさなか、今回、「映像舞踊」版に追加されたものがあり、ドキッとすることに。それは大クライマックスへと移る瞬間、濁点付きの「あああっ!」という大音声の叫び声。山田勇気さんが発したものでした。そこからはもう一気呵成、舞台奥にベジャールさんの作風を彷彿とさせる真上からの映像が映ると、舞踊家たちが形作る円の中心に進み出る十市さん。力強く上方に腕を伸ばし、何かを掴んだかのような確かさや一瞬の煌めきも束の間、その場に倒れ込んでしまいます。そこに緞帳が降りてきて、第一部の終わり。大きな拍手が沸き起こりました。

15分の休憩を挟んで、第二部(30分)。「The 80’s Ghosts」と「Opening II」(!)とあります。「ん?」って感じでしたけど。

再び緞帳が上がると、ほぼ第一部ラストの倒れたままの十市さん。違いは下手(しもて)ギリギリにあるのが椅子ではなく、先のトランクであることです。

すると、舞台奥にほぼ正方形の開口が生じて、スモークのなかから、グレーの衣裳に見を包んだ12名が現れます。『中国の不思議な役人』を彷彿とさせる不気味さで、十市さんを脅しに来ます。まるでそれは、十市さん内部の、踊ることへの妄執ででもあるかのように。現実味は希薄ですが、迫力満点です。

やがて、そこにプラスされるのは諧謔味。そして言葉。「彼らは舞踊家です」であるとしながら、翻って、「そして私は俳優です」でよいのか。「そして私は…」と言葉は途切れがちになり、後が続きません。「俳優」であることに安住出来ない気持ちが噴出してきます。

と、トランクに仕舞い込んでいた道化師の衣裳が、井関さん、ジョフォアさん、中尾さん、三好さんによって取り出され、あろうことか、彼ら4人によってバラバラに着られてしまいます。自らも赤い鼻を付ける十市さんですが、4人に翻弄され続けます。『ASU』のコミカルな1場面の趣きです。

次いで、三好さんがトランクから新聞と思しき紙片を取り出すと、唐突に「3億円のサマージャンボ宝くじ」発売を告げる女性の声が聞こえてきたり、そうかと思えば、ミラーボールが降りてきてからは、タンゴ調の音楽が耳となり、弾かれた光が客席全体に散らばるうちに、気付くと「革命とは…」というベジャールさんの声に転じています。やがて、観客は、舞台奥に投影される古いフランスの写真や映像に、混乱、或いは動乱の様子を見ることでしょう。

流れてやまず、とどまることを知らない時間、付随する避け難い加齢という現実…、十市さんにとっての踊る意味とは。そして、同様に、襲い来る様々な困難や苦境…、そこにあって舞踊家が踊る意味とは。そうした踊る意味への問いは否応なく芸術の意味への問いとして普遍化されていきます。そのとき、私たち観客も漏れなくその問いのなかに包含されていることにならざるを得ません。

「Opening II」とは、この奇跡的な共演を機に、舞踊の旅に立ち返ることになる他ないのだろう「兄ちゃん」十市さんの新章へのエールであり、十市さんと踊ったNoismメンバーの今後への期待でもあり、それを観た観客にとってさえ、一人ひとり前を見て歩むことを力強く後押しするものだったと言い切りたいと思います。

「Opening II」と表記されたクロージングにあって、金森さんは十市さんに上着を渡し、写真を渡し、トランクを渡します。どこまでも優しい仕草です。それを受けて、客席の方へ歩み出す十市さんの表情も諦念とは無縁のものになっています。滋味を加えた舞踊家として。

ラストで手渡された1枚の写真。それが何を写したものだったかは示されません。しかし、繰り返されたカーテンコールの際、舞台奥には、まず、十市さんと金森さんの写真を皮切りに、Noismメンバーとのクリエイション時の十市さんの写真が映されていきました。私は、最後の写真は、時空と構成を超えて、そのときの1枚だったと受け取ります。ベジャールさんのもと、ローザンヌで交差したふたりの(或いはベジャールさんを含めた3人の)人生に発したものが、まったく無縁に思えた新潟でのクリエイションを経て、第3の場所、横浜のフェスティバルで多くの人の目を虜にし、心を鷲掴みにする、そんな奇跡的な70分だった訳です。なんとロマンティックなことではありませんか。鳴り止まぬ拍手と時間を追うにつれ、数を増していったスタンディングィング・オベーションとがその証左です。

…平板なようでいて、こんな奇跡も内包するのが日常なら、愛おしさも込み上げてこようというものです。帰ったホテルの窓外に広がる光景が、今度は魅力的に見えたのは灯りが点っていたことだけがその理由ではなかったでしょう。そして、この日観たものがひとつの奇跡であるとするなら、またいつか目にし得る日が来るかも、そんな奇跡さえ期待したい気になろうというものです。ただ、今の私たちにはわからないだけで…。

(shin)

金森さんの愛を感じた「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」活動支援会員対象公開リハーサル(土曜日の部)

正確に一週間後に控えたNoism Company Niigata × 小林十市さんの公演(「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 2021」)を前に、10月9日(土)に開催された活動支援会員対象の公開リハーサルを観てきました。(@りゅーとぴあ・スタジオB)以下、ネタバレなしでいきます。

この日と翌10日(日)、二日間に設定された公開リハーサルですが、両日各12人と限られた人数しか目にすることができないとあって、申込開始日には朝から緊張して、ドキドキしながらメールを送信し、その後、「受け付けました」旨の受信を見た際には安堵の気持ちが湧いてきたことが思い出されます。

先日の「柳都会」を聴いて、金森さんが「奇跡」と表現する「兄ちゃん」十市さんとの共演への期待は募る一方でしたので、待ち遠しかったこの機会。

そして3日前(10/6)になって届いたメールには「終了時刻変更」とあります。当初、30分の予定だったものが、1時間に延長されると知らされたのです。「もしかして全部観られるの?」そんな思いを胸に足を運んだ土曜日のお昼過ぎでした。

「1時間もの」に延長されて
実施された公開リハーサル

で、その公開リハーサル、もう随所に金森さん(とスタッフの皆さん)の愛が溢れた至福の約70分だったと言わねばなりません。まず、折から「劇場に空きがない」とりゅーとぴあでの公演が叶わず、目にする機会に恵まれない新潟市民に向けられた愛。フラットな床面、アクティングエリア「きわきわ」に据えられた椅子に腰掛けて、まさに目と鼻の先で見せて頂いたのですが、もちろん、そこに緞帳はありません。全てが顕わしの空間で、金森さんの「カーテンが上がってます」と「カーテンが下りてます」の言葉に挟まれた、当日の舞台の一部始終(それは言葉の正確な意味での「一部始終」で、ホントに最初から最後まで)を見せて頂いたのでした。

第一部は「映像舞踊」として観てきた演目の実演版。出演者も入れ替わり、「あっ、この人がこれをやるんだ」という楽しみ方もあります。そして何より、十市さんを配して追加された場面はまさに眼福で見とれます、マジで。ネタバレを避ける配慮から書けないのが残念ですが、横浜で、或いは明日の公開リハでご覧になられる方はどうぞお楽しみに。ベジャールさんと、そして十市さんへの愛に溢れていることは言うまでもなく、金森さんが、2020年、「コロナ禍」の舞踊家を念頭において、「中心」不在に映る映像を撮ったことで、周囲にある種の磁場が形成され、十市さんが召喚されたのに違いないと思うほどです。このはまり方、金森さんには最初からこのイメージが見えていて、ただ謙遜して「奇跡」と呼んでいるだけじゃないのか、などとも。

そして踊り終わった後には、本番、横浜の舞台での演出についても説明してくれた金森さん、もう愛の人でしかありません。後光が差して見えました。大袈裟でもなんでもなく。

10分(本番では15分だそうです)の休憩を挟んで、新作を見せて貰いましたが、これはもうこれまでのNoismのイメージとは一線を画すもので、「兄ちゃん」十市さんのキャラクターや資質が色濃く投影されたクリエイションだっただろうことが明瞭です。「兄ちゃん」への愛。十市さんに触発された結果、「お初にお目にかかります」的Noismに仕上がっていると言っても過言ではないでしょう。音楽を含めて全てが斬新。しかし、それがどんなものかは今は伏せておきます。なにしろ、ネタバレ厳禁が大命題ですから。ただ、新しいNoismとの出会いが待っていますとだけ。

また、この日の公開リハーサルの楽しみは他にもてんこ盛り状態でした。第一部で再び踊る姿を観た浅海侑加さん、相変わらず素敵でした。またどんどん踊って欲しいものです。そして、先日、「私がダンスを始めた頃」で続けてご紹介した新加入の庄島さくらさん、すみれさんの踊りもガン見しましたし、この度、昇格してNoism1で踊る中村友美さん、坪田光さんにも目が行きました。多くの面で、とても興味深く、中身の濃い時間を過ごせたと思います。

そんなこんなで、終了したのは、13時40分頃だったでしょうか。始まったのが予定の12時半を少し回っていたとはいえ、約70分間、何の出し惜しみもなく、もう「最後の最後まで」全て見せて貰っちゃった訳です。これほどまでに愛ある「リターン」があるなんて、もう活動支援会員でいて良かった♪今日スタジオBにいた誰もが一人残らずそう思っていたことは間違いありません。あそこまで見せられたら、もうスタンディングオベーションで応える他ないじゃありませんか。みんな笑顔笑顔で立ち上がって拍手を送った、そんな公開リハーサルでした。

(shin)

「柳都会」vol.24:小林十市さんを迎えて、回想されるローザンヌの日々、それから…

コロナ禍の影響で、9月11日(土)に開催予定だった「柳都会」が、10月4日(月)18:00からという平日の異例な時間帯に振り替えてまで実施された裏には、金森さんの強くて深い思いがあったからと解してまず間違いはないでしょう。この日のゲストは、金森さんが「兄ちゃん」と親しみを隠さない「エリア50代」小林十市さん(ダンサー・振付家)。接点はモーリス・ベジャール(1927-2007)、そしてふたりが彼の許で過ごしたローザンヌの日々。その2年間を回想しながら、金森さんが繰り出す質問と答える十市さんを基軸に、観客の前に浮かびあがってくる巨匠ベジャールの「横顔」。気負ったところのまるでないおふたりのお話にはとても興味深いものがありました。そのあたりが少しでも伝えられたらと思います。

1992年の出会い。舞踊団「ベジャール・バレエ・ローザンヌ」所属の十市さん23歳、バレエ学校「ルードラ・ベジャール・ローザンヌ」一期生の金森さん17歳。
 金森さん「人生で一番孤独な時期だった」
 十市さん「そんなに大変だった?一期生だし、自立して、自分の世界を持っている人たちのひとりに見えていた」
 金森さん「閉ざしていただけ」
前年(1991年)の暮れ、カンパニーに大リストラが断行され、60数名いたダンサーが25名に絞られ、同時に、(表向きは)「創作活動を濃密に」と学校が創られることに。(その学費はゼロで、後にベジャールの私費でまかなわれていたことを知ったと金森さん。)

一方、十市さんはジョージ・バランシン(1904-1983)に憧れて、NYに短期留学(バランシンが設立したバレエ学校SAB)。その後、日本に帰る気はなかったものの、アメリカでのワーキングビザ取得は困難を極めたため、母親が好きで、自分も観たことがあったベジャールに履歴書を送ったところ、すぐに返事が来て、3泊4日のプライベートオーディションの機会が設けられた。眼光鋭く、レッスンの様子を見ていたベジャールに「君のこと気に入ったから、一緒に仕事をしたい」と言われ、採用されたのが1989年。そのとき、十市さん20歳。ベジャール62歳。その後、腰の怪我で辞めるまで14年間、ベジャールの許で踊った。バランシンやってみたい気持ちがなくなっただけでなく、他の振付家の作品を踊りたいと思ったこともなく、ベジャールの作品のなかで違う作品をやりたかっただけだったと十市さん。
 金森さん「怪我に対してベジャールさんは寛容だったの?」
 十市さん「全然、寛容じゃない。昔の人だったし、舞台命の人だった。『痛い』と言っても、『僕も痛いよ』と言われちゃうと、もう何も言えなかった」
 金森さん「ジョルジュ・ドンさんって、どんな感じでしたか?」
 十市さん「カンパニーのなかでひとり別格。ひとりだけ、スターって感じ。ホテルの浴衣を羽織って、パイプの先に煙草をくゆらせて…、ちょっと近寄り難い存在だった」

ベジャールの創作風景について、
 金森さん「ベジャールさんは作品について説明したりしたんですか?」
 十市さん「モノによっては。振付は順番通りには行われなかった」
 金森さん「怒鳴ったりしたんですか?」
 十市さん「そういうイメージはない。自分が動きながら作品を創っていく。でも、恐い存在で、私語する人などいなかった」

 十市さん「振り返ってみるとローザンヌはどうしても行かざるを得なかった場所。分岐点に思える。果たして自分で選択しているのかどうか」
 金森さん「こうして新潟で並んで話していることが奇跡」
 十市さん「あっちの方で決まっているだろうシナリオを知らないだけで生きている。決まっているんだろうけどわかっていない」

今回のふたりのクリエーションについて、
 十市さん「まずは9月頭に2週間。1週目に振りを覚えて、次の週、身体が痛くなったので、『ハンディを付けて』と言ったら、『それは失礼なことだし、そんな十市さんは見たくない』と言われた。で、今日も勇気さんに教えて貰った治療院へ行ってきた」
 金森さん「今回の振付でベジャールっぽいところはありましたか?」
 十市さん「Noismメソッドに感じた」

事前に寄せられた質問
①新潟の印象は?
 十市さん「自転車に優しいところが『いいな』と感じた。自転車で近付いていくのを感じるとよけてくれたり」
②新潟で美味しいと思ったものは?
 十市さん
「ホテルで食べている朝食のお米。日本は何でも美味しい。海外ツアーをやってたとき、耐えられたのはイタリアだけ。ドイツは大味だし、スペインは油っぽいし…、日本は世界で一番美味しい」
③40代から50代、身体の維持方法は?
 十市さん
「よい鍼(はり)の先生に出会うこと。(笑)今回のように、これだけの運動量があると代謝もあがり、食生活は気にしないで済むが、母は常にお腹のチェックが厳しくて、よく矢沢永吉を引き合いに出しながら、『永ちゃんは腹出てないから』と言ってくる。まるで呪縛のように、『ちゃんとしなさい』って言われてきたが、それって何?」
④初めて観たNoism作品は何?
 十市さん
「多分、映像で観た『NINA』。メソッドにもある立っているやつ。それと、2010年に池袋で観た『Nameless Poison』。そのとき、ふたりでツーショットの写真を撮っているから」
⑤17年間、金森さんがNoismを続けてきたことに関してどう思うか?
 十市さん
「凄いよね、大変だよね。細かいことも聞いたけど、活動できる場を与えられているのは、やはり人かなと思う。穣君と新潟市との関係。ベジャールさんとローザンヌのように」

「常に自分のことで精一杯」という十市さん、「これからどうするんですか」と金森さんに問われると、まわりの3人の女性(母、妻、娘)と折り合いを付けながら、自分の幸せ=舞台に立つことを追い求めていきたいと語り、「舞台の上から、暗闇(客席)の中を凝視し、内観しながら、何かを探る感じが好き」とし、演劇や映像も経験してみて、「やはりダンサーの中身、ダンサーとしての記憶が残っている。自分を捨て切れなかったから、役者にはなり切れなかった」と感じているのだそうです。しかし、演劇に行ったことについては、その要素も濃かったベジャールさんを理解するうえでは大きかったとも。

もう一度、ベジャールの存在について、
 十市さん「ベジャールさんがやめるまでやるつもりだった。ベジャールさんに『指導で残ってくれ』と言われたけど、踊りたかったから、踊っている人たちを教えられないと思ったから」
 金森さん「でも、1年くらいで腰の痛みはなくなったんでしょ?」
 十市さん「1年半。日本で、福島の外科医さんに椎間板に注射一本打って貰ったら痛みがひいた」
 金森さん「でも、戻るとは考えなかった?」
 十市さん「世代交代だと思った。で、演劇へ。でも、今は舞踊で舞台に立ちたい」


 十市さん「踊っていた14年、その後も含めると15年、ベジャール・ファミリーに入って生活していて、そこで創られた自分が今に至っているのかなと」
 金森さん「逆に、2年しかいなくて、空きがなくて入れなかったから、憧れがある。その呪縛から、もっと新しいもの、もっと美しいものを求めてきたけれど、離れることは出来ない。そして今、東京バレエや十市さんが寄ってくる感覚が不思議」
 十市さん「ベジャールに思いを馳せて作品つくりをしているが、『怪我をしないように』と穣くんに言われても、穣くんの作品を踊っているのだし…」
 金森さん「作品つくりは妄想から始まる。で、『十市さんならもうちょっと、もっと行ける』となる。『これぐらいで良いかな』とか現実的になり過ぎるとできない」


最後に至り、十市さんが、数日前に、携帯電話で奥さんと話しながら萬代橋付近を歩いていた際、赤信号の交差点を、前方に見える青信号と勘違いし、渡ろうとして、「死にそうになった」経験から、「本番の舞台でなくても、常に悔いを残さないように全力でやらなきゃダメかな」と思ったと話せば、今回、新潟は劇場に空きがなくてやれないものの、「再演するかどうかは十市さんのお腹次第」と話した金森さん。予め90分という枠が設けられていなければ、いつまでも尽きることなく愉快に話は続いていったことでしょう。

そんなおふたりの初めてのクリエーション、「Noism Company Niigata × 小林十市」は、KAAT神奈川芸術劇場・大ホールにおいて、10月16日(土)と翌17日(日)の二日間の公演です。

そちらは観に行かれないという方にも小林十市さんが登場する舞台は新潟でも。「エリア50代」、11月13日(土)と翌14日(日)です。

この日のお話を聞いて、ますます期待が膨らみました。どんな舞台が観られるのか、待ち遠しい限りです。

まだまだ色々と書き切れませんでしたが、この日の「柳都会」レポートはこのへんで。

(shin)