勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)

『ロミジュリ(複)』in富山、一夜限りの舞台が客席沸かす

予報に違わず、酷暑が日本全土を襲った
三連休初日の2018年7月14日(土)。
Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ROMEO & JULIETS』が
「ホーム」新潟を離れ、最初のツアーの地、
富山のオーバード・ホールの舞台に登場しました。

開演1時間前、午後4時になると、
当日券を求める人が並び、
順に、それぞれ、出来るだけ良い席を確保しようと、
示された座席表に目を落とし、
真剣に席を選ぶ姿が見られました。

欧州の劇場かと見紛うような
大層立派な劇場、オーバード・ホールの威容。
鮮やかな差し色も美しい場内のあちこちには、
様々なアート作品が飾られ、
それはそれは本当に素敵な大劇場でした。

加えて、この日、ホワイエの客席入口脇には、
地元・チューリップテレビからNoismとSPACに贈られた花と、
和田朝子舞踊研究所からかつて所属していた中川賢さんの
「凱旋」に対して贈られた花とが飾られ、
富山での今公演の実現を祝していました。

…午後5時を少し回って、客電が落ちる前の場内に
あの音楽が流れ出し、
いよいよ富山『ロミジュリ(複)』開演です。…

こんなに立派な劇場での公演がツアーに組み込まれていたのですから、
恐らく、富山にお住いの方々は、
この日が今作初鑑賞という方が大多数だった筈。
金森さんが仕掛けた様々な見せ場に、
客席からは、とてもダイレクトで、素直な反応が返されていました。

1幕、金森さんが提示する「厚み」に気持ちよく翻弄されたことでしょう。
幕がおりたあと、ややあって、あちこちから拍手が起こり、
それがやがて、会場中に広がりました。

2幕、冒頭から眼を凝らして見入る張り詰めた空気感のうちに
ラストの衝撃まで連れて行かれたことでしょう。
繰り返されたカーテンコールでは、
スタンディングオベーションと「ブラボー!」の声が送られました。

で、客電が点いたあとも幕があがったことで、
「えっ?」という笑顔を浮かべて並ぶ実演家たち。
その姿を目にした客席からも、笑みが広がり、
更に大きさを増した拍手が送られて、
和やかな空気感のうちに
一夜限りの富山公演は締め括られていきました。

twitterで金森さんが呟いていた「追加された演出」、
…わかりませんでした。(涙)

しかし、個人的には初めて訪れた劇場オーバード・ホールで、
富山のお客さんたちと一緒に、新たな気分で翻弄され、
心臓はバクバク、
大いに楽しみました。
中川賢さん繋がりということもあってのことでしょうが、
何より、昨年の射水市に続き、
今年もこの公演を組んでいただき、
富山を再訪する機会に恵まれたことも
心底嬉しかったです。

ツアーに出た『ロミジュリ(複)』、
次の訪問地はSPACの「ホーム」静岡。
7/21分は前売り完売で、キャンセル待ち。或いは当日券対応があるかも(?)で、
翌7/22も残り席はホントに数枚とのこと。
それでも、何としてもご覧頂きたい真の意欲作です。
更に、静岡公演についてはその劇場形状から「変更」箇所もあるとのこと!
私は行けないのが残念でなりません。
皆さま、是非お見逃しなく!
(shin)

『ロミオとジュリエットたち』感動の新潟楽日を終えて、アフタートーク特集

2018年7月8日(日)、雨予報を裏切り、晴れるも、相当な蒸し暑さの一日。
感動のうちに、「新潟 3 DAYS」全3公演の幕が下りました。
この日のアフタートークでのSPAC・舘野百代さんの言葉を借りれば、
「一幕の丁々発止のやりとりから、このまま二幕も転がる感じがした」との、鼓動が高まり、「胸熱」だった新潟公演の楽日。

一幕の終わりにこの日も拍手が沸き起こり、(私も拍手しました)
終幕には「ブラボー!」の掛け声、(私も叫びました)
そしてスタンディングオベーション。(私も自然と立ち上がっていました)

回数を重ねたカーテンコールのラストに至り、
退団が決まっている中川賢さんと吉﨑裕哉さんに、
金森さんから情熱的な赤色が印象的な花束が手渡されると、
会場中から一層大きな拍手が贈られたこともここに書き記しておきます。

この日はアフタートークに先立って、
客席で一緒に新潟楽日の公演を観た篠田昭・新潟市長の挨拶があり、
「文化発信都市」を自認する一地方都市・新潟市にあって、
ここまでNoismが担ってきた役割の大きさについて話され、
今後も持続可能な活動を作っていきたいと結ばれました。

「ホーム」新潟・りゅーとぴあ公演における一大アドバンテージと言ってよい3日間のアフタートークには、
連日、Noism1からは、金森さん、井関さん、山田さん、
SPACからは、武石さん、貴島さん、舘野さんの合わせて6名が終演後の舞台に登場して、様々な質問に答えたり、色々なお話を聞かせてくださいました。

で、ここからは、今回の分厚い力作『ロミジュリ(複)』を観るにあたり、
期間中のアフタートークから、
読んでおけば、少しは参考になる事柄などを少しご紹介していきたいと思います。
ネタバレはしないつもりですが、それでもご覧になりたくない向きには、
この下の部分(☆★を付した部分)をそっくり読み飛ばしていただきますようお願い致します。

☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★
〇井関さんの役柄「ロザライン」: 原作では直接登場してこない役どころながら、「元来、物語全体がメインの人物だけに付随する構造は好きじゃない。
ほんのちょっとしか登場しない人が見ている世界の方が豊かなこともあり得る」(金森さん)ということで、ロザラインの比重が大きくなったのだと。
ロザラインはアンドロイドの看護師(全機、両手に手袋)、
他の看護師ふたりは歪な体はしているが、人間、
金森さんが演ずる医師ロレンスは半人半機(片手の手袋)の存在。
◎その井関さん: 「一番楽しいシーンが一番大変で、大変過ぎて笑っちゃうくらいだった」と明かす。←きっと「あの」シーンです。

〇患者たち、チームC(奇数)とチームM(偶数)について:
「キャピュレットは奇数っぽかったし、モンタギューは偶数っぽかったので、そういう患者ナンバーを割り振った。(笑)」(金森さん)
彼らはみんな、ナンバー化され、ナンバーとして管理される存在。それぞれの背中、縦一列にナンバーが付けられている。
◎彼らの体のあちこちに貼られたテープ2種の意味合い:
暖色(オレンジ)→パワーアップしている部位、
寒色(青緑)→マイナスがかった部位、 をそれぞれ示している。
【例】山田さん演じるポットパンは頭に「寒色」: おつむが弱い。
5人のジュリエットたちも喉に「寒色」: 発話しない(できない)。
反対に、ティボルト(中川さん)は両手が「暖色」、
マキューシオ(シャンユーさん)は両足が「暖色」。
〇両足「寒色」で車椅子のロミオについて:
「車椅子を押してまっすぐ行くのも、曲がるのも難しい。人の体なら通じるのに、物はなかなか通じない」と井関さん。
ロミオ役の武石さんは「車椅子での事故はなかった。愛があった」と。

◎精神病院でのロミジュリ、あるいは、多様性(diversity)と包括性(inclusiveness)の問題:
「今の時代を言い現わす象徴的な2語だろう。
多種多様な人たち、多種多様な趣味嗜好、多種多様な価値観が混在する世界。
それはどのように包括されたらよいのか。
『視線』が複雑なものにならざるを得ないのが、まさに(現代の)世界。
今回の作品も同じ。そのどこを見て、何を感じるのか。
作品に正解を求めるのではなく、どう見るかを問いたい」(金森さん)
〇金森さんが師と仰ぐ鈴木忠司さんの『リア王』も精神病院を舞台にしていたが、その類縁性について:
「絶対、言われるだろうと思っていたが、好きなので、『まあ、いいや』と。
今回の『ロミジュリ』に関しては無自覚だった部分もあったのだが、
大好きなので、そういう文脈で観て貰えることは嬉しい」(金森さん)

◎実演家として大事だと思う事柄:
SPAC武石守正さん(ロミオ役): 「関係性。ある瞬間が切り取られたものが舞台。
他者との関係の中で、声も演技も定まってくる」
SPAC貴島豪さん(グレゴリー/キャピュレット役): 「見られている感覚。
本番までどういう準備をして、舞台に立つのか。
お客さんが舞台を観に来られる理由はさまざま。
何が観る者の心を動かすのか」
Noism山田勇気さん: 「関係性。例えば、武石さんが体から発しているものがあって、自分はそこにどう居るべきなのか、肌で受け止める。そうやって何かが生まれたら嬉しい」(そこで金森さんの「感受性だね」の言葉に一同頷く。)

〇シェイクスピア『ロミオとジュリエット』は「死ぬことでしか叶わない愛」を描くが、「今回のロザラインには『死ねないことの悲哀』を込めた」(金森さん)
(また、「ジュリエットたち」が果たしてどうなっていくかについても要注意、と書くことに留めておきます。)
・・・場合によっては、読み飛ばして欲しい箇所、ここまで。
☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★

Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ROMEO & JULIETS』、
「お互い境界線を感じない、ひとつの舞台を創る舞台人」(井関さん)として、
舞踊家と俳優とががっぷり四つに組み、
渾然一体となって取り組んだこの野心的なクリエイションで、
双方の実演家の皆さんが異口同音に、
大きな刺激を受けたと語っておられたことも印象的でした。
それはひとえにどちらも「劇場専属」という在り方に関わっているのだとする金森さんの指摘にも首肯する他ない事実が含まれているように思いました。

また、「繰り返される一回性」や「一瞬、一瞬」という言い方も、
日頃の金森さんがよく口にされる「刹那」とピタリ重なり合って、
動かしようのない「舞台の真実」を物語っていました。

「繰り返す『一回性』」と語ったのは武石さん。
更に続けて、「舞台は日々模索し、発見するもの。
再現することが出来ないことも多いのだが、
再現しなきゃならない」とも。
で、井関さんが、「舞台は立たないとわからない。常に発見があり、
お客さんが入ると、本気を越えた本気になる」と言えば、
貴島さんも、「毎日、フルパワーでやっていても、日々違うものがある。
一回一回新しいものがどんどん生まれている。
いろんなところに『宝箱』があって、それを探しに行く感じ」と応じました。
山田さんは、「舞踊でも演劇でもない『劇的舞踊』がようやくわかってきた。
やっているなかで、見出すもの」と語り、
舘野さんも、「神秘的で曰く言い難い魅力」を指すらしい「ドゥエンデ」という
言葉を使って、それがあるのが舞台であると纏めました。
そんなふうに、舞台のうえで生まれる「一瞬、一瞬」を共有しに、
私たちも劇場に足を運び続けましょう。
…人生を豊かにするために♪

以上、力の及ぶ限りの「採録」を試みてみました。
ご覧になられた方にとっても、これからご覧になられる方にとっても、
僅かでも何かの参考にしていただけたなら、望外の喜びです。

さて、3日間、新潟の地に大きな驚きと感動をもたらした『ロミジュリ(複)』、
次は、週末7/14(土)、中川さんご出身の富山県はオーバード・ホールに参ります。
演出・振付家、舞踊家、俳優が揃って創りあげるこの渾身の舞台、
ゆめゆめお見逃しなきように!
(shin)

『ロミジュリ(複)』、「世界を驚かす」まであと2日!

Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ロミオとジュリエットたち』、
2度の公開リハーサルを観た感触から、この新作は「観た人の人生を変える可能性がある舞台である」と言っても、何ら大袈裟ではないと断言しましょう。
古典に則りつつ、現代的な問題意識をもって、それを脱構築して描かれる野心作。
支える突出した身体、そして押し寄せる言葉、音楽、文字、映像。
まさにこの時代における「総合芸術」が、
日本、まずは新潟から発信されることは誇り以外の何物でもありません。
世界初演まであと2日。きっと「世界を驚かす」ことになるでしょう♪
7月は今週末の新潟を皮切りに、富山、静岡、そして9月の埼玉を見逃してはなりません!

また、新潟3デイズのあとの公演地である、
富山・オーバード・ホールのHPでも
充実した『ロミジュリ(複)』特集ページをご覧いただけます。
Noismに関する様々に要を得た説明のほか、
退団される中川賢さん(富山県射水市出身)のコメントなども
紹介されていますので、是非お目通しください。
こちらからどうぞ♪

なお、残席僅かな公演日もあります。
お席の確保はお早めに。
(shin)

Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ROMEO & JULIETS』公開リハーサル、分厚さに圧倒される

(*今回の記事は、富山公演の会場であるオーバード・ホールが発信するDMにも
転載される予定です。)

2018年6月16日、時折吹く風は肌に冷たく感じられながらも、動くと汗ばむという
寒暖が「混在」する土曜日の午後3時、りゅーとぴあ・スタジオB。
Noism1×SPACによる注目の新作、
『ROMEO & JULIETS』の公開リハーサルを観てきました。
この日朝の金森さんのツイートによれば、
参加申込者は43人。
いつものようにスタジオBの三方の壁面に沿って置かれた椅子に腰かけて、
第一幕の通し稽古を見せて貰った訳です。

りゅーとぴあ・劇場の舞台と同サイズで作られているスタジオBに、
プロコフィエフによるバレエ音楽が流れだすと、
前方には自らの体を叩き、身を仰け反らせ、煩悶、懊悩する舞踊家たち。
そして最背面に居並び、楽の音に口上を重ね合わせることで、
唱和される謡(うたい)に似た響きを重々しく立ち上げたかと思うと、
次の瞬間、あたかも将棋盤上にあって横一列に配された「歩」の駒が、
一斉に躙り寄りでもするかのように、
能を思わせる摺り足で観る者の側へと迫り出してくる役者たち。
それらすべてが渾然一体となることで発せられる「圧」。
「これから2時間ご覧あれ」と物語世界のとばくちで誘われるだけで既に、
良く知る「あの」古典的な戯曲とは異なる、
ただならぬ予感に包まれてしまう他ありません。
音楽と肉声、舞踊家と役者、身体と声、西洋と東洋、
更に、これまでの作品で目にしてきた三角柱の塔や車椅子、ベッドといった
「金森穣的世界」の記憶を呼び覚まさずにはおかない装置一つひとつに至るまで、
幾重にも重なり合う「混在」振りが示す「分厚さ」に目も眩む思いがしました。

伝え聞くところによれば、舞台は病院、それも精神病棟とか。
メンバーで最近鑑賞したという映画『カッコーの巣の上で』(ミロス・フォアマン)(1975)や、
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』などをも彷彿とさせながら、
狂気と正気も「混在」していくのでしょう。

そして何より、タイトルが仕掛ける今回の配役も謎のままです。
池ヶ谷さん、浅海さん、井本さん、西岡さんと鳥羽さんの女性舞踊家5人が
「ジュリエットたち」であるだろうことは察しがつきましたが、
しかし、なにゆえ5人なのか。
更に、最も大きな謎は井関さん。果たして彼女は何者なのか。
5人を束ねる6人目なのか。

知らない者もないほど有名なシェイクスピアの戯曲に、多くの謎が「混在」し、
古典的な物語と、現代的な問題意識が「混在」する。
そうした多様に夥しい「混在」振りが私たちを途方もない幻惑へと導く作品のようです。
ならば、浴びるように観、浸るように観て、驚くこと。
しかし、緻密に構成された動きに至っては、
「謎」の対極にあるものとして観る者の目に飛び込んでくるでしょう。
その点に関しては揺るぎないものがあります。

金森さん曰く、役者の台詞はすべて河合祥一郎訳に拠っているとのことで、
多少、前後の入れ替えがある点を除けば、
他の『ロミオとジュリエット』の舞台となんら変わるものがないとのこと。
「それをNoismがやれば、こうなる」と金森さん。
役者の発する言葉と舞踊家の動きがスパークする、
この新作は、紛れもなく、現代における総合舞台芸術のひとつの在り様を
示すものとなることでしょう。必見です。お見逃しなく。

そして富山の皆さま。
昨年8月、射水市・高周波文化ホールでの洋舞公演において、
『Painted Desert』を踊った、和田朝子舞踊研究所出身の中川賢さんに送られた
熱狂的な熱い拍手と歓声の記憶も新しいところですが、
残念ながら、その中川さんもNoismの退団が発表されております。
ですから、中川さんの故郷・富山の地で、
Noismの一員としての中川さんを目にするのは、今回が最後の機会となります。
即ち、「凱旋公演」の趣のある、Noism在籍8年間の集大成の舞台。
中川さんは入魂の舞踊で、有終の美を飾ってくださるものと確信しております。
7月14日(土)のオーバード・ホール、是非ともご来場ください。
(shin)

【追記】
金子國義の絵が妖しい雰囲気を放つ、
河合祥一郎訳の角川文庫版・新訳『ロミオとジュリエット』。

冒頭の口上はこんな具合です。
「花の都のヴェローナに 肩を並べる名門二つ、
古き恨みが今またはじけ、 町を巻き込み血染めの喧嘩。
敵同士の親を持つ、 不幸な星の恋人たち、
哀れ悲惨な死を遂げて、 親の争いを葬ります。
これよりご覧に入れますは、 死相の浮かんだ恋の道行き、
そしてまた、子供らの死をもって
ようやく収まる両家の恨み。
二時間ほどのご清聴頂けますれば、
役者一同、力の限りに務めます。…」

声に出して読んでみると、独特の跳ね感ある河合訳のリズムと
金森さんのクリエイションは決して不可分ではないでしょう。
或いは、ここにももうひとつ「混在」を見るべきでしょうか。
そのあたりも、是非、劇場でお確かめください。

中川賢さん、「故郷に錦を飾る」富山県射水市・高周波文化ホールの巻

2017年8月11日(金)、祝日「山の日」の富山県射水市、高周波文化ホール。
この日、富山県芸術文化協会等が主催し、開催された芸術鑑賞・洋舞公演は、
中川賢さんが当地の和田朝子舞踊研究所出身ということで実現した1日限りの特別公演。

予定された16時を少しまわり、和田朝子舞踊研究所による第1部が始まる頃には、大ホール(1220席)の客席は満席。
やがて聞き覚えのある華麗な楽の音が響き、緞帳が上がります。最初の演目は『チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲』。名曲に合わせたクラシックバレエ・スタイルの、華やかで美しい作品でした。もう一人前のバレリーナといった趣の女性たちに混じって、まだ幼いプチバレリーナちゃんたちが元気一杯に登場してくるのを見ていると、ついつい保護者目線になってしまい、目尻が下がり、頬が緩んでくるのを禁じ得ませんでした。

続く2番目の演目は『握手の魔法』。「けんかしてても大丈夫 握手しようよ」と、子どもたちの純真さ・溌剌さが眩しい作品だったのですが、大勢の女の子のなかに唯一人、半ズボンをはいた男の子が含まれていました。一旦、その子を目に留めると、幼い日の中川さんもこんなふうだったのかしら、と勝手に想像してしまい、微笑ましくて、そこからはもうその子の姿を追うことになっていました。

その後も、今回の公演ポスター&チラシにその画像が用いられた、下村由理恵さん、柳下規夫さんら5人による大人テイストの意欲作『金糸雀(カナリア) 最後に見る夢は…』に至るまで、第1部和田朝子舞踊研究所パートは全7作品、様々なタイプの舞踊作品が並ぶ充実したラインナップで、どの作品にも場内から大きな拍手が送られていました。

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20分間の休憩をはさんで、第2部、Noism1(8名)による『Painted Desert』です。「高周波文化ホール」という名前とは関係ないのでしょうが、りゅーとぴあで観るときより音圧が高いように感じられる音響が、会場全体に、休憩前とは全く違う空気感を作り出すと、闇のなか、滑るように緞帳が上がっていきます。
第1部の出演者の家族、親戚縁者、友人、知人も多く含まれていたのだろう会場は、安心して自らを委ねることができるメロディが不在で、代わりに発せられる途切れることのないノイズの渦中で繰り広げられる舞踊に接し、最初、少しそわそわしている感もありましたが、Noism1のメンバーたちがその突出した身体性でねじ伏せていきます。白1色と影だけによる抑圧的、静的な時間が続いたあと、舞台が次々美しい色を纏うようになる頃には、観客たちも揃って自らを作品に同調させることが完了していたようです。

本作のクライマックス、池ヶ谷さんと中川さんのお互いコンタクトのみを頼りにした盲目のパドドゥと、その後、目を開いてからのコンタクトなしのパドドゥが、この大きな会場の後方の席でもキチンと見えていたのならいいのですが、そのあたり、どうだったでしょうか。しかし、たとえそれらが判別し難かったにせよ、ふたつの身体が発する緊張感に圧倒されて、客席はみじろきもせず、固唾を飲んで見入るより他ないようでした。

ラスト、池ヶ谷さんが口の動きのみでゆっくりとタイトルを伝えると、スルスル下りてくる緞帳。終演。一瞬の静寂の後、鳴りやまぬ大きな拍手。そしてカーテンコール。メンバーから手招きされて、振付家・山田勇気さんが舞台に上がると、喝采は一段大きなものとなりました。

また、客席からは「ブラボー!」の声のほかに、「さとしさ~ん!」という黄色い声も聞かれます。「さすが中川さんの故郷だ」などと感心し、納得していると、今度は舞台上手袖から赤の洋装の女性が大きな花束を手に満面の笑顔で登場し、舞台中央に進み出て、中川さんにそれを手渡しました。若き日の中川さんを指導されていた和田朝子さんです。中川さんがハグを返してまた大きな拍手。「半ズボン」の少年(恐らく)の立派過ぎる凱旋に対して会場中から送られた拍手は心のこもった温かいものでした。「ちょっと遠かったけれど、心温まる、とてもいい舞台だった」、そんな思いを胸に会場を後にしました。 (shin)

会員の皆様に、Noism1富山公演&NIDF2017のチラシをお送りしました

暑中お見舞い申し上げます

りゅーとぴあは改修中で休館、そしてNoismも夏休み中。
ですが、着々と準備は進んでいます。
公演情報等は当ホームページのメニュー欄からも、どうぞご覧くださいね♪

閑話休題:

Noism2『よるのち』演出振付の平原慎太郎さんと彼のカンパニーOrganWorksの砂丘館での、 歴史的24時間公演、無事終了しました。
私は残念ながら全部は見られませんでしたが、かなりがんばりましたよ。
24時間中、完全休憩は2時間×2回のみという過酷な耐久ライブ。
1時間ごとに内容の濃い、多様な公演が続きます。
公演と公演の間の小休憩のときも平原さんやメンバーがどこかで踊っています。
出演者&完走された方々&砂丘館の皆さんに拍手!

出演者には、『箱入り娘』でニート役だった元Noism1の佐藤琢哉さんもいて、ますますお元気そうでしたし、Noism1準メンバーとなる、Noism2の鳥羽絢美さんもお手伝い協力していました♪

さて、24時間公演の折込チラシの中に、9/9,10 砂丘館での、「加藤千明ソロダンスパフォーマンス」の予告チラシがありました!
加藤さんは元Noismの準メンバーで、元Noismメンバーの中野綾子さんと二人でこれまでいろいろなパフォーマンスをしてきました。
公演は8月上旬予約開始(砂丘館)のようです。ぜひどうぞ。

では皆様、楽しい夏をお過ごしくださいね♪
(fullmoon)