20周年記念公演「Amomentof」記者発表に出席してきました♪

2024年4月19日(金)の新潟市は、雨こそ落ちてはこないものの曇天そのもので、薄着では肌寒く感じられるような一日でした。そんなお昼の時間帯(12:00~13:00)に、りゅーとぴあの〈スタジオA〉で開かれたNoism Company Niigata 20周年記念公演「Amomentof」の記者発表に出席してきました。

Noismの出席者は金森さん、井関さん、山田さん、そしてその後ろにNoism1及びNoism2全員の総勢25名。揃って居並ぶ様子は壮観でした。この日の会場には県内マスコミ各社が駆けつけていたほか、オンラインで約20社ほどの参加があったとのことです。
ここではその記者発表での様子についてご報告いたします。

☆井関佐和子さん(Noism 国際活動部門芸術監督): 今回の公演の意図と経緯
・新作2本(『Amomentof』『セレネ、あるいは黄昏の歌』)を上演。
・演出振付家の金森に依頼するにあたって、20年を通過点とみて、「蓄積」(=今までのもの)ではなく、飛躍のためにも、「蓄積」の次の一歩を、と思った。
・演出振付家への信頼、メンバーへの信頼とともに、観客への信頼がある。「次は何を作るんだろう」「それに観客はどう反応するんだろう」→金森には「何もテーマを決めることなく、今、現時点で作りたいものを作って欲しい」と依頼。→作品はほぼ仕上がりつつあるが、「20周年記念」に相応しいものになったと思っている。

★金森穣さん(Noism 芸術総監督): 今回の演出振付作品について
・芸術家は何もテーマがないところから創作は出来ない。必ず、そこには対象がある。
・『Amomentof』の対象は井関佐和子。その身体のなかにNoismの歴史がある。そしてマーラーの交響曲第3番第6楽章から感じる「舞踊とは何か」を井関佐和子という舞踊家を通して顕現させたいと思った。
・『セレネ、あるいは黄昏の歌』に関しては、現代の科学技術の進歩の恩恵は計り知れないが、それによって脅かされているもの、失われていくもの、忘れられているものがある。再び忘れてはならないものに向き合うきっかけを与えるものが芸術のひとつの力と考えている。「人間とは何か」ということを軸に集団として表現したい。また、『Amomentof』とも共通して、Noismとして蓄積してきた身体性が総動員されている。春夏秋冬、異なる身体性で創作している。

☆山田勇気さん(Noism 地域活動部門芸術監督): Noism2メンバー出演に関して
・研修生カンパニーNoism2は2009年に発足。地域の学校公演、地域のイヴェント等で活動している。今回は『Amomentof』に出演する。
・カンパニー全体としての層の厚さ、空間的な広がり、奥行き等を表現出来たら嬉しい。
・次の5年、次の10年、次の20年に向けて鼓舞したり、希望となるような公演にしたい。

★質疑応答:
【Q1】20周年を迎えてどんな思いか?
 -金森さん: 「A moment」、一瞬だった。20回、循環する四季の巡りを体験してきたが、ひとつとして同じ季節はなかった。時間の蓄積と多様性が大きな変化。20年ということに「節目」感はない。裏を返せば、毎日が節目。
 -井関さん: 現時点では、一瞬といえば一瞬だが、いろんな道のりがあった。この20年の歩みのなかで、この道しか自分を生かす道はないなと思った。この道を歩くというのをこの20年で定めた。

【Q2】公演に向けてここからどう進めていくのか?
 -金森さん: 作品としてラフスケッチは出来たが、更に練って練って試行錯誤。舞踊家の身体に入れていく。演出という行為は、そこにある空間・もの・気配などを活かすことではなくて、変容させること。それは振付も同様。舞踊家が変容していくさま。無自覚で潜在的な能力や才能、輝きみたいなものを引き出すために振付はある。そのためには時間もエネルギーも必要。我々のこのような環境でなければ辿り着けないもの。Noismにおける金森穣の舞台芸術は、金森穣のアイディア、コンセプトに基づいて生まれるものではあるが、ひとり残らず、参加するNoismの実演家たちによって生み出されるもの。そうした実演のされ方が重要。
 「どれだけの時間をかけてきたんだ、この人たちは」といったものを我々の舞台を通して感じて貰えるようでなければ、Noismとしての存在意義はないと思う。

【Q3】「一瞬の」と読める作品、もう少し説明して貰えないか?
 -金森さん: 20年前からずっとNoismを追ってくれている人たちにとっては涙がとまらないような作品になるかもしれない。極めて具体的にNoismの20年を想起させる演出をしている。一方、初めてNoismを観る人にとっても、舞踊芸術への昇華ぶりを目の当たりにして感動して貰える作品にしたい。

【Q4】改めて今、金森さんにとって、「舞踊とは何か」を聞かせて欲しい。
 -金森さん: 詩や音楽やあらゆる文化・芸術が生み出される前に、そして、我々が身体をもって生まれる限りにおいて、そこには既に舞踊がある。それだけ根源的な芸術こそが、「人間とは何か」を表現するのに最も相応しい、それが私の舞踊観。「人間とは何か」の問いは、どれだけ時代が変わり、社会が変容し、技術が発展したとしても問われ続けていくこと。そうした舞台芸術を新潟市という一地方自治体が文化政策として掲げていることの価値や意義には大きなものがある。生涯、命が尽きるまで舞踊と向き合っていく。「私を見てください。それが舞踊です」

【Q5】(メンバーへの質問)「20年」の歴史の節目に立ち会っている思いと公演への意気込みを聞かせて欲しい。
 -Noism1・三好さん(井関さんからの指名による): これまでの様々な人の顔が思い浮かび、プレッシャーに感じることもあるが、この一瞬にどれだけ同じような愛情を注げるか。今、自分が日本の劇場で働けていることは誇り。海外への憧れよりも、もっと素敵な「夢」を20年かけて作ってきてくれたという思いをのせて公演をよいものにしたい。

【Q6】ファンの人たちへの思いは?
 -金森さん: 感謝しかない。感謝という言葉では足りない。見て貰えなければ成立しないものだから。ただ、その人たちのためにやっているのではない。そのあわいを失すると芸術家として死んでしまう。物凄い感謝を感じつつ、背を向ける。その背中で愛を感じて欲しい。
 今、私が思っている未来は、このふたつの作品に全て込めている、それが今、演出家として言える全て。

【Q7】舞踊家・井関さんのどこに創作の源泉を感じるのか?
 -金森さん: 一舞踊家として様々な要素があるが、何より生き様とか献身する姿。これだけ舞踊芸術を信じ、献身する舞踊家を見て触発されない演出振付家はいないだろう。

【Q8】『セレネ』に関して、前作と今回作との関係性は?
 -金森さん: どちらも「セレネ」という役が出て来ること、イメージ的には前回は黒が基調の世界観に対して、今回は白と反転。(井関さんからの囁きがあって、)共通するのは儀式性。 

【Q9】『セレネ、あるいは黄昏の歌』、ヴィヴァルディを選んだ理由は?
 -金森さん: 四季の巡りのテーマからリサーチをした。最初にヒットしたのがヴィヴァルディだったが、「これは作品化できないなぁ」と思って、更にリサーチして、マックス・リヒターの編曲版と出会い、「これはいける」と感じた。
そのふたつの『四季』に関して、「何故この音楽には舞台空間が見えて、何故この音楽には見えないか」は本質的な問い。「この(創造の)能力は果たして何なのか、どこから来ているのか」、答えられる者はどこにもいないと思う。「見えた」ということ。

【Q10】井関さんの身体に蓄積された年月というアプローチには『夏の名残のバラ』もあったが、今回との違いなどあれば聞きたい
 -金森さん: そこは私の魂の同じ箇所から出てきている。過去作のなかで類似するものがあるとすれば、『夏の名残のバラ』だと昨日あたりから考えていたところ。しかし、今回は先にマーラーの音楽を舞踊化するというのがあり、その感動を表現するのに、井関佐和子を軸にしたアプローチをという発想。マーラーのあの崇高な音楽を聴いたときに、愛や献身や喜びや苦悩、「生きるとは何か」が迫ってくる。それを舞台上に顕現させる方法論として、井関佐和子という舞踊家が蓄積してきたものを舞台化することで、マーラーの音楽を自分なりに表現出来ると感じたということ。

…大体、そんな感じでしたでしょうか。その後に写真撮影がありました。

写真撮影をもちまして、この日の記者発表は終わりました。

以下に、Noismの広報スタッフより提供して頂いた「公式」画像をアップさせて頂きます。ご覧ください。(どうも有難うございました。)

最後に、この日の記者発表の席上、スタッフの方から『セレネ、あるいは黄昏の歌』の公開リハーサルが来月あること、そして、金森さんからは、その前作『セレネ、あるいはマレビトの歌』の再演予定もある旨、語られたことも記しておきたいと思います。

そして、テレビ各局の報道に関してですが、私が確認した限りでは、NHK新潟放送局が同日夕刻の「新潟ニュース610」内において、この記者発表を取り上げていました。そちら、一週間、NHKプラスで見ることが出来ますから、是非。おっと、同じものがもっと簡便に、こちらからもご覧いただけます。NHKの「新潟 NEWS WEB」です。どうぞ♪
あと、他局の放送、及び各紙誌の掲載が楽しみです。

それでは以上をもって、この日の記者発表報告とさせて頂きます。

(photos: aqua & shin)
(shin)

「柳都会」Vol.27 栗川治×山田勇気(2023/7/23)を聴いてきました♪

2023年7月23日(日)、暑い日が続く文月下旬、日曜日の夕方、スタジオBを会場にNoism地域活動部門芸術監督・山田勇気さんが初めてホストを務めるかたちで開催された「柳都会」vol.27を聴いてきました。

山田さんの「柳都会」デビューとなる今回のゲストは栗川治さん(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程ほか)。視覚障がいを持つ栗川さんは、2019年から続く「視覚障がい者のためのからだワークショップ」に初回から参加し、山田さんと共に、同ワークショップの充実・発展に多大な寄与をしながら、普通に、一観客として、本番の公演にも足を運ばれておられます。

栗川さんには、いったいどんな世界が「みえている」のか。打合せ、メール、ワークショップ、公演を通して重ねてきたやり取りを手掛かりに、参加者の皆さんとも一緒に身体や芸術についてイメージを膨らませ、思索を深めます。

Noism Web Site より

申し込みの動きも早く、定員に達して迎えたこの日の会場。参加者は全員、おふたりによる大いに刺激的な対談を堪能しました。

障がいのある人も障がいのない人と同様に、普通の生活を送るべきであり、双方、社会生活を共にするべきとする「ノーマライゼイション(Normalization)」の考え方に基づいた社会参加を行い、サッカー観戦などにも出向く栗川さん。観客4万人のビッグスワンでは、ゴールを外したときや決めたときをはじめ、その場の雰囲気、臨場感に、「見えていないんだけど、その場に身を置いているだけで楽しい」と語り、聞いているし、感じているし、「見ている」だけではない(視覚優位ではない)「五感で開く可能性」に関して、「視覚障がい者のためのからだワークショップ」のこれまでを紹介することを中心に、山田さんと示唆に富む対談を聞かせてくれました。ここでは、かいつまんでそのやりとりのご紹介を試みようと思います。

(1)ワークショップ1回目(2019年12月18日): 手のひら合わせ→相手を感じて動く/踊りになっていく
・この時期は、Noism存続問題で大変だった時期と重なり、一層の地域貢献が求められていた。
・サッカー観戦と異なり、声を出せない劇場の性格から、いきなりの舞踊鑑賞は課題も多い。互いに理解し合う必要があった。
・栗川さん「実際に舞踊家の身体に触ってみてくださいと言われ、全身を触りまくった」
・山田さん「手が求めている。手が目である。触りにきているその勢いに頭が真っ白になった」
・栗川さん「肌と肌の触れ合いのなかで一緒に動いていくことに大きな意味がある。視覚障がい者に対する一般的な鑑賞サポートの在り方が、(1)オーディオガイドによる『ことば』を使った説明、(2)事前事後に組まれる『タッチツアー』と呼ばれる大道具や小道具を触る機会の提供だったりするなか、『ことば』に依らないで、ダンスを感じて、体験することを目指すもので、『とてもよかった』。『ことば』は理解するには優れたツールであるが、ダンスを鑑賞するには、足りないし、場合によっては害になり得る。本来、『ことば』では表現出来ない筈のものを『ことば』に還元してはダメ」

(2)ワークショップ2回目(2020年12月19日): Noismの作品『春の祭典』を踊ってみる
・実際の舞台を経験して貰えないかが出発点。
・『春の祭典』の冒頭部、椅子に座って、踵で床をリズミカルに踏み落とす。(2グループで違うリズムで)
・また、『夏の名残のバラ』の音楽に合わせて、身体で相手を感じて、繋がり、踊った。
・栗川さん「金森さんが『ダンスによる音楽や物語の可視化』と言ったものを、再不可視化したとき、何が残るかを楽しみにして本番の公演を観に来た。音、重量感、拍手、米の音や振動、息遣い等、触れるように感じることが出来た。体験したものが始まる瞬間には『来たー!」という嬉しさがあり、身体が覚えているものは一緒に動いて踊っているように感じた。しかし、映像作品(映像舞踊『BOLERO 2020』)には何も感じなかった」 
・栗川さん「視覚的には『見る』とは網膜に映すことを意味するが、網膜を介さなくても頭にイメージが浮かべば『見た』ことになるのではないか。何らかのかたちで外界をキャッチすることが『見る』ではないか」
・山田さん「踊っているとき、まだ見えないものやこれからの動き等、半分はイメージの中にいる。そういう時間軸のなかで踊っている。
・栗川さん「目で『見る』というのはほんの一部に過ぎない。視覚は強烈な感覚であるだけに人を惑わすこともある」
・山田さん「そのことは舞踊の本質と関係ある。いろんな要素が絡み合って、いい舞踊となる」

(3)ワークショップ3回目(2022年3月12日): Noismの作品『Nameless Hands - 人形の家』を踊ってみる
・栗川さんから「物語、ストーリー、Noismの世界観を感じたい」とのリクエストを受けて実施。
・山田さん「『ことば』だけでなく、身体で直接、伝え導いて振り付けることは出来ないかと考え、人形浄瑠璃にヒントを得た、黒衣による人形振りの作品を選んだ」
・栗川さん「本当に後ろから抱きかかえられて、人形となり、それが踊りになっていくのは面白かった」
・山田さん「最後はアラベスク、足を上げる動きまでいった」

(4)ワークショップ4回目(2022年12月17日): 『Der Wanderer - さすらい人』を踊ってみた
・スタジオBに設えられた本番の舞台で、空間も共有し、本番の曲を踊るに至った。
・更にワークショップの終わりには、車座になってのディスカッションの時間が初めて設けられ、感想や疑問を出し合った。
・栗川さん「本番も観に来たが、スタジオBでは、(劇場ほど大きい空間ではないので、)空気を切って動く動きまでを全身で感じることが出来た。また、歌曲の歌詞も貰っていたので、点訳したものに触りながら鑑賞することが出来た。リハーサルでは倒れて死んでいる筈がハアハアしていたのが、本番ではピタッと息を止めていた」(笑)
・山田さん「栗川さんが来ているときの本番では、踊りが『やかましくなる』。(笑)そこにいる人にどうしたら何かが届けられるか、届けたいと思うから」

(5)『Floating Field』 声の踊り: 新たな試み、その映像の紹介
・山田さん「舞台上のあちこちで展開される、抽象的で踊りそのもののような作品『Floating Field』。それを踊っている映像に、演出振付・二見一幸さんの許可を得て、Noism2のメンバーたちによって、『シュッ』『ダッ』『ドンドン』などの声(一種のオノマトペ)をインプロ(即興)でかぶせて録音してみた」
・栗川さん「割といいかもしれない。可能性があるかもしれない。意味のある『ことば』よりもスピード感やきざみがあって、動きに近い。例えば、リヒャルト・ワーグナーは楽劇を創るにあたって、キャラクターの音形を『ライトモチーフ』として予め設定しておいて、それを用いて構築していくスタイルをとった。また、これはこれで現代音楽としても面白いんじゃないか」

*会場からの質問01: ワークショップといった体験なしに、実際の舞台を見ることは可能か?
 -栗川さん: 「領域」ダブルビル公演は体験なしに観た。金森さんと井関さんの『Silentium』はとても静かな作品だったので、ステージの気配を感じ取るハードルは高かったが、『Floating Field』の方は動きが激しいので感じ易かった。

*会場からの質問02: ダンスという非日常の体験を経て、日常の何かが変わったようなことはあるか?
 -栗川さん: 便秘気味だったが、「ピョンピョン」とか「ブルブル」とか、身体を大きく動かしたり、細かく動かしたりして、便通がよくなった。内臓にもいいのでは。Noismのお陰かなと。(笑)

*会場からの質問03: 視覚障がい者のためのからだワークショップ、ひとつの舞台のように見えた。見学できないか?
 -山田さん: 人数が多くなると大変なところもあるが、今後、目が見える人と一緒にやることなどもあっていいかもしれない。

…と、そんな感じだったでしょうか。一緒によりよいものを目指して、模索し、工夫に工夫を重ねて、「視覚障がい者のためのからだワークショップ」をアップグレードしてきたおふたり。「柳都会」の終わりにあたり、山田さんが「ワークショップで出会えた人たちに感謝します。踊りが広がり、身体感覚が深くなった」と語れば、栗川さんは「一緒に芸術を創っていきたい」と応じました。

手探りで始められたのだろう「ワークショップ」が僅か4回で大きな進歩を遂げてきたことに驚きを隠せません。

そして、何より、山田さんのみならず、金森さんも井関さんも常々、ワークショップに出られる視覚障がい者の方たちの感覚が、「本当に踊れる舞踊家のようだ」と語っている、その一端を垣間見ることができて、多くの学びを得ることが出来ましたし、今回の「柳都会」のおふたりのやりとりの中心にあった『見る』ことや、逆に、やや旗色の悪い趣だった『ことば』の働きについて、更なる思索に誘われる刺激に満ちた時間となりました。そうした空気感だけでも伝えることができたら幸いです。それではこのへんで今回の「柳都会」レポートを終わりとさせて頂きます。

(shin)


Noism『境界』大千穐楽、土佐の地層に井関佐和子の光源を見た(サポーター 公演感想)

☆『境界』高知公演+同時上演『夏の名残のバラ』(井関佐和子芸術選奨文部科学大臣賞受賞記念)(@高知市文化プラザかるぽーと)

 2022年1月10日(月・祝)高知市文化プラザかるぽーとでのNoism0/Noism1『境界』大千穐楽、そして井関佐和子さんが故郷に錦を飾る『夏の名残のバラ』同時上演に駆け付けた。高知公演を知った時から「駆けつけねば」と思っていたが、「井関佐和子を応援する会 さわさわ会」代表・齋藤正行(新潟・市民映画館シネ・ウインド代表 安吾の会世話人代表)、詩人・鈴木良一さん(安吾の会 世話人副代表、さわさわ会)、Noismサポーターズ・越野泉さんという、過去もNoismを追ってロシア、ルーマニアや日本各地を訪ねた仲間との久方ぶりの旅となった。
 1月8日(土)に高知入りし、様々に珍道中を繰り広げたが、9日(日)の道程は特筆したい。井関佐和子さんのお母様の故郷であり、お兄様が代表を務める漬物店「越知物産」に向かい、おふたりに挨拶。絶品のしば漬などを購入(お土産に芋けんぴをいただき恐縮)。そして、龍河洞へと向かう。坂口安吾が『安吾新日本風土記』三回目の取材で高知を訪れ、「次は綱男(ご子息)を連れてきたい」と語ったという龍河洞(安吾は桐生に帰宅した翌朝に急逝)。そのこの世とは思えぬ絶景の中に、まるで『Near Far Here』の舞台上での井関さんの姿を留めたような鍾乳石を見つけ、絶句する。暗闇の中で「光」を求めるようなあの作品との、奇跡的なシンクロに、息を呑んだ。

越知物産さんにて

龍河洞でシンクロニシティ

 1月10日(月・祝)。完売となった高知公演へ。15時前にかるぽーとへ到着したが、既に長蛇の列(コロナ対策の為、定員の半分の座席とはいえ)。15時半の開場後、二階前列右寄の座席を確保し、開演を待つ(バレエを学んでいると思しき若い方含め、場内は公演への期待が匂い立つようだった)
 16時、『夏の名残のバラ』から開演。井関佐和子という舞踊家の「矜持」を昇華する舞台の一瞬一瞬に吐息を漏らし、山田勇気さん・カメラ・配線・落ち葉との「共演」に唸り。幾度観ても新鮮に涙する作品だが、井関さんの身体の動き、手を打つ音、解放感が炸裂する終盤、いずれも瑞々しく、軽やか。カーテンコールに立った井関さんに、惜しみ無く拍手を送った。

 続くNoism1『Endless Opening』(山田うん演出振付)は、新潟・東京公演を経て、9人のメンバーの動き・音楽・演出が噛み合い、思わず身体がノるほどに仕上がっていた。全メンバーの名前を挙げたいほど、各々の個性・色彩が滲み、9台の台車と共に舞うシークエンスもパシリと決まる。調和された動きではなく、そこから溢れるものを謳う山田演出に応えつつ、やはりその「地力」が、跳躍や腕や爪先の動きに滲み出るNoismメンバー。客席の空気も、舞台とシンクロするように高まってゆく。

 そしてNoism0『Near Far Here』。バロックの名曲に乗って、舞踊・照明・映像・更に演出のケレン味とが、一瞬の隙なく連続する本作。暗闇の中、照明のマジックも相まって、非現実のように舞台に現れる井関さんの一挙手一投足に涙が溢れる。やがて訪れる現世の色彩(客席にも降り注ぐある色彩)、鳴り止まない拍手を経ても訪れないカーテンコール。冴え渡る金森穣演出の揺るぎなさを再確認。

 鈴木良一さんは少年が「すっごく面白かった!」と興奮気味に語る様子を見たという。筆者も、「さわさわ会」会報配付ブースに立ち、バレエを習っていると思しき少女たちに会報を配りつつ「おじさんは新潟から観に来たんだよ」と冗談めかしたが、Noismの自由さ・基礎や先人たちへの敬意に裏打ちされた「型破り」が、若い魂に響く瞬間を見るようで、胸が熱くなった。

 公演後、齋藤代表・鈴木さんと、かるぽーと傍の居酒屋で一献しつつ、Noism高知公演パンフを眺めていたら、金森さん・井関さんの文章が胸に染みて、二人に朗読して聞かせてしまった(内容は下の画像でご覧ください)。走り書きになってしまったが、井関さんを育んだ土佐の地、彼女とNoismを支える新潟。ふたつの土地への万感が込み上げてくる、忘れ難い鑑賞体験となった。

高知公演パンフレットより


久志田渉(さわさわ会役員 安吾の会事務局長 月刊ウインド編集部)

Noism Company Niigata 《春の祭典》

稲田奈緒美(舞踊研究・評論)

 2021年7月23日、この日は「東京オリンピック2020」が始まる日でもあった。新国立競技場での開会式とほぼ同時刻から、Noism Company Niigataの公演が始まった。

 幕開きは、2019年初演の〈夏の名残のバラ〉。井関佐和子が楽屋でメイクをし、赤いドレスの衣装を着て舞台に出演するまでの映像が映し出される。静かな、一人だけの時間が流れるが、それは井関がダンサーとして舞台に立つために自らを奮い立たせ、かつ冷静に集中力を研ぎ澄ましていくルーティンだろう。幾度となく繰り返しながら歩んできたダンサーとしての年月が、その佇まいに、背中に、美しく滲んでいる。恐らくは同時間に新国立競技場では、わかりやすくショーアップされた開会式のパフォーマンスが繰り広げられている。その光景を想像しながら井関の姿を見る時、彼女の身体とそれを映像に捉える視点からは、馥郁たるアートの豊かな香りが漂ってくる。アートを特権的な地位におくわけではないが、私が見たいのはこういうものなのだ。様々な意味が、思いが、何層にも積み重なり、あるいは混沌としながら意味を生成していくような、イマジネーションを掻き立てるもの。オリンピックに世間が沸く一方で、このように上質なダンス公演を楽しむことができるのは幸運である。

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『夏の名残のバラ』
撮影:篠山紀信

 井関を捉える映像が舞台へ切り替わり、舞台上で井関が踊り始める。舞台で踊りながらカメラを井関に向けるのは、ダンサーの山田勇気。カメラが井関の顔を、手足を、密着するように、あるいは遠くからとらえ、舞台上のスクリーンに映し出す。観客は目の前で踊る井関と山田を見ると同時に、異なるアングルからクローズアップされた二人をスクリーン上に見る。井関が赤いドレスを翻しながら舞台を疾走し、全身を山田に投げ出して表情をこわばらせ、また柔らかく肢体をくゆらせ、あるいは鋭く空間へ切り込んでいく。常に全身を燃焼させながら踊る井関も、それを果敢に受けとめる山田も、ダンサーとしては円熟期を迎えつつある。しかし、そこにネガティブな要素はない。〈夏の名残のバラ〉は、今なお、その凛とした姿を形にとどめているのだ。私たち観客の眼前にあるダンスと、その遠近をかく乱しながら映し出される映像をシンクロしながら見ていると、最後にその思い込みが見事に覆される。鮮やかな手法。それは次回の上演を初めて見る観客のために秘密にしておこう。

 井関は、自身の過去と未来を、いまここにある身体に重ね合わせながら踊る。強靭なしなやかさで、そのダンスと生きざまを美しく表現し、観るものを引き寄せる。この踊りで井関は、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。井関の“いま”を鮮やかに見せる振付と、ダンスと映像による仕掛けを施す構成、演出をした金森穣は、日本ダンスフォーラム賞を受賞した。

 二作品目は、昨年コロナ禍による自粛が続く中でその状況を見事に映像化した映像舞踊〈BOLERO 2020〉が、劇場のスクリーンで大写しにされた。踊ることを日課とするダンサーたちが、それぞれ閉塞的な部屋にこもり、一人きりで踊る姿を編集し、ウェブ上で配信されたもの。この状況では、いつものように空間を縦横に動き回り、手足を存分に広げ、またダンサー同士で会話したり触れ合いながら創造するという、彼らの日常が封印されている。その苛立ちを、まだるっこさを、不安を吐き出し、なおも踊らずにはいられない身体の生々しく、ヒリヒリとした痛みや熱が画面から伝わってくる。筆者は昨年、パソコン画面上で拝見したが、今回のスクリーン上映では、大写しになったダンサーたちの身体のディテールと、「ボレロ」という単調な反復がやがて大きな渦となる音楽とのシンクロが、より迫力をもって伝わってくる。映像舞踊という実験がまた一つ、ダンスを創り、観る可能性を広げてくれた。

映像舞踊『BOLERO 2020』
撮影:篠山紀信

 3曲目は〈Fratres〉シリーズの最終章〈Fratres Ⅲ〉。ラテン語で親族、兄弟、同士を意味する言葉であり、使用されているアルヴォ・ペルトの音楽タイトルでもある。

 幕が上がると、薄暗い空間の中心に金森。その周りを取り囲むように群舞が配置される中で、ヴァイオリンが鮮烈なメロディを畳みかけるように奏で始める。ダンサーたちは男女の別なく、修道士のようなフードのついた黒い衣装をまとっている。彼らの動きは顔を上げる、手を伸ばす、俯く、床に倒れこみ、這うといったミニマムなものが多いが、それを見事に音楽と他者にシンクロしながら反復していく。一つひとつの動きには、研ぎ澄まされた内への集中と同時に、空間を構成するすべてのダンサーや光、音楽へと向けられている。その場に佇んだまま、または蹲踞の姿勢を取りながら続いていく様は、儀式のようでもある。そのため観客はシンプルな動きが単なる身振りではなく、天を仰ぎ、地を希求するかのような意味を様々に見出し、解釈することができる。

 集団によるアンサンブルの集中度が極まったとき、頭上から米が降り注ぐ。群舞はフードをかぶり、一人一人の頭上で受け止めるが、中心の金森だけはフード(我が身を守るモノ)をかぶらずに全身で受け止める。受苦であり浄化でもある、頭上からの米を一身に浴びるという行為からは、自己犠牲を超えた祈りを感じる。踊ることで天と地をつなぐダンサーである彼らは、もはや儀式や祈り、畏れを忘れた現代人のために、そこにいるのだ。しかし突出したカリスマに扇動されるのではなく、その集団の調和によって、そこにいることの強度を増している。Noismが多くの団員を抱えるカンパニーとして存在することの意義と可能性を、舞台は表している。

『FratresIII』
撮影:村井勇

 4曲目は公演タイトルにもなっている〈春の祭典〉。この作品が1913年に初演された際は、ストラヴィンスキーの音楽、ニジンスキーの振付共に時代から遥に進んでいたため、観客の多くは理解できず、評価も得られなかったことは舞踊史ではよく知られている。しかし時代と共に音楽は高く評価され、20世紀の古典となり、数えきれないほどの振付を生んできた。そのため振付家は、どのような設定で、コンセプトで、振付、演出をするか想像力を掻き立てられると同時に、恐ろしくもあるのではないか。金森が選んだのは、ダンサー一人一人にオーケストラの演奏家のパートを振り分けて、オーケストラが踊りだす、というコンセプトであった。それはしばしば「音楽の視覚化」と言われる振付の手法を超えた、厳密にして挑発的な試みである。

 客電がついたまま幕があがると、舞台前方には横一列に椅子が並べられている(椅子:須長檀)。椅子の背はワイヤーのようであり、それが一列に並んでいると、まるで鉄格子か鉄柵で囲まれているように見えるため、囚人、隔離された人々の空間を思わせる。井関から一人ひとり、おどおどした様子で背中を曲げながら登場し、椅子に座っていく。中央に井関と山田。全員が横一列に座ると、客席の方へ、舞台の中へと、何ものかにおびえているように見つめては後ずさりし、音楽に合わせて手を震わせる。男女全員が白シャツと白い短パンという同じデザインの衣装を着ており、その色と画一的なデザインが精神病院かどこかに囚われているようにも思わせる。

『春の祭典』
撮影:村井勇

 音楽が激しいリズムを刻み始めると、その不規則なリズムにぴったり合わせながら、群舞が踊る。椅子に座ったまま両足を床に打ち付けながらリズムを刻み、あるいは半分が立ち上がり、また座り込み、と見事である。やがて、椅子の後方にある幕の内側が紗の間から照らされると、誰もいない空間が広がっている。四方を半透明の柵に囲まれた空間は、閉ざされ、隔離された空間であることがわかる。空間は人々をおびき寄せるように、サスペンションライトで床を照らしている。覗き込む群衆。幕があがると、群衆は恐れながらもその中に入っていく。

 そして激しくなる音楽そのものを踊っていく。椅子を円状に並べ、座る人と、前方中心に向かって倒れこむ人がいるシーンや、ダンサーが自分の腕で自分の腹部を打つような動きはピナ・バウシュへのオマージュだろうか。また、男女が下手と上手に分かれて群れとなり、男の群れが帯状の光の中を激しく跳躍しながら突進してくるシーンは、ベジャールへのオマージュだろうか。〈春の祭典〉という音楽と舞踊の歴史への敬意が感じられる。

 やがて男女が分かれて入り乱れ、一人の女性が生贄として選ばれる。これまで多くの振付家が作ってきた作品では、生贄として選ばれた女性、または男女ペアと、それを取り巻く群衆は対立構造を取ることが多い。それがこの作品では、生贄の女性を守ろうとするのは、もう一人の女性(井関)である。か弱い女性を男性が守るのではなく、女性が女性を守っている。男女のペアで無いところも現代ならではの視点だ。その二人に対して攻撃するような群衆。この辺りは、群れを作ったとたんに匿名の集団が凶暴性を増す、現代社会を投影しているのだろうか。同調圧力やSNSでの誹謗中傷などを思い起こさせる。しかし、最後に守られていた女性が、井関を指さす。「この女こそ生贄だ」と示しているかのように。信頼が裏切りに変わる、人を裏切り、売り渡すような現代社会を表しているのか。

 井関は一人で群衆の苦しみ、恐れを受けとめるが、最後は全員が手をつなぎ、後方へ向かってゆっくり歩んでいく。手をつなぎ共に歩み始める人々の姿は、救いと希望を感じさせる。

 もちろん振付家は、ベタな現代社会の投影を意図して振り付けてはいないだろうが、今回の公演では様々に現代社会を喚起させるシーンが多かった。言葉ではなく身体で表されるからこそ、観るものの想像力を多面的に刺激し、その意味を考えさせ、より深く目と耳と、胸と頭と、皮膚感覚に残る。なんと贅沢な公演だったのだろう。また、これだけ体力と集中を必要とする作品を、(映像作品は含めず)3曲も次々と踊っていく団員たちにはまったく感服する。そのダンサーたちは国籍も民族も身体も多様性に富んでいる。このように多様かつ優れたなダンサーたちを育てた金森や井関、山田、そして新潟という日本海から世界に向かって開かれた土地に改めて拍手を送りたい。 

(2021.7.23(金)/彩の国さいたま芸術劇場)

PROFILE | いなた なおみ
幼少よりバレエを習い始め、様々なジャンルのダンスを経験する。早稲田大学第一文学部卒業後、社会人を経て、早稲田大学大学院文学研究科修士課程、後期博士課程に進み舞踊史、舞踊理論を研究する。博士(文学)。現在、桜美林大学芸術文化学群演劇・ダンス専修准教授。バレエ、コンテンポラリーダンス、舞踏、コミュニティダンス、アートマネジメントなど理論と実践、芸術文化と社会を結ぶ研究、評論、教育に携わっている。

【インスタライヴ-15】『春の祭典』ツアー後の大質問大会

2021年8月1日(日)20時、『春の祭典』最後のツアー先である札幌から(2時間前に)新潟市に戻ってきたばかりの金森さんと井関さんが、「眠い」なか、前回のインスタライヴ以来、ほぼ3ヶ月振りとなるインスタライヴを行ってくれました。広く質問に答える形式での『春の祭典』大質問大会、約1時間。以下にその概要を抜粋してお伝えします。

*この日の晩ご飯: 北海道名産・鮭のルイベ漬(佐藤水産)
*今回のインスタライヴ中のおやつ: 福島産の桃

札幌公演は15年振り。「皆さん、待っててくれた感じ。(hitaru)楽屋のトイレは入る度に音楽が流れる『最新設備』だった」(笑)(井関さん)

Q:照明の調整に時間はかかったか?
-金森さん「ツアー地では凄く時間がかかって、ゲネが無理になり、本番直前のテクニカルランで初めて通せる感じなのが、今回は設備が良くて、順調だった」
-金森さん+井関さん「札幌スペシャルの照明、次やるときはテッパン。最後にちょっと違う演出・照明が加わっている。もう一個『外部』の世界を感じる照明にした」
-井関さん「最後の最後までライヴ感が凄かった」


Q:『春の祭典』音源はどのように決めたか?
-金森さん「入可能なものは手当たり次第に入手して、実際に踊ってみた。既に作っていた構成に合っていて、演出家としてビビッとくるものがあったのがブーレーズ盤だった」
-井関さん「色々なテンポのものがあったが、ブーレーズ盤が一番、音の粒が立っていると言っていたのを覚えている」
-金森さん「ブーレーズ盤は、情感でいくというより、理知的。音がクリアで構造がはっきりしている印象。後から、ベジャールさんもこれを使っていたと聞いた」

Q:踊るときに一番大切にしていることは何か?
-井関さん「その瞬間をどう生きるか。邪念を抜きにして、その瞬間の空気とエネルギーをどう感じるか。邪魔は入るが、それさえも『瞬間』と捉えて乗り越えること」
-金森さん「舞台に立てば立つほど、緊張感をコントロールする術も判ってくるが、『失敗しないかな』との適度な緊張感で集中度も上がる。そのときの音楽の響き、観客のエレルギー、自分の状態を大切にしたい。そこに身を投じる。そこに居続けるための集中」

Q:一人ひとりに楽器を割り当てた『春の祭典』、音を聴いて踊るのか?
-井関さん「楽譜で割り当てていて、全員で完全にカウントを数えているので、一応判っている。それが大前提で、カウントの取り方、『音色になる』ことの難しさがある」
-金森さん「舞踊家は音楽に合わせることに慣れているが、『音になる』っていうのはどういうことか。「(音が)来る」と判っていることではない。音の呼吸・強度を身体化するという完全にはなし得ないことを21人に求めた」
-井関さん「音に合わせすぎると、音に見えない。外からの目がないと成立しない」
-金森さん「一人ひとりが演奏者であるということが肝。自分が動いたことで、その音が発されているように見えることの難しさ」

Q:しんどいとき、それを超える秘訣は?
-井関さん「体力は、稽古でも頑張ってMAXやるが、本番でガンガンあがっていく」
-金森さん「身体は記憶する。最初の通しは滅茶滅茶しんどいが、そのしんどさを求めちゃったりする。これが危ない」
-井関さん「それに酔っちゃったりするのが危ない。語弊はあるが、作品を超える体力と精神力があって、しんどそうに見えて、しんどくないのがベスト。表現の幅が増えてくる。身体も精神も鍛える稽古、また、本番では最高の作品にするべくコントロールすることが重要。身体でやり切って、その先に見える何かを頭を使って見つけて、身体で試す」
-金森さん「舞踊家は馬であって、同時に騎手である。しかし、騎手であり続けながら馬を鍛えることは出来ない。鍛錬は馬にならなければ出来ない。馬が仕上がった後から、騎手が来るというバランスがいい」

Q:踊った後、どれくらいすると食欲がわくものか?
-金森さん「すぐは無理。でも、作品による」
-井関さん「本番の時は『食欲』はない。『食べなきゃ』っていう感じで『義務』。『完全にコレ、仕事だな』って思ったことも」
-金森さん「遅くならないうちに、できるだけ身体にいいものを、って感じだが、美味しいものの方が入り易い。当然、幸せにもなるし」

*照明や装置の微細な違いに気付く舞台人のビビッドさについて
「なんかちょっと違う。今日、(照明が)眩しい」って言って怒り出すのが「佐和子あるある」と金森さん。「で、照明家さんたちが『えっ、変えてないです』ってザワザワってなる。(笑)でも、厳密に言うと、毎日、照明はチェックで触っている。で、微細には変わっている。どれだけビビッドな感覚で舞台に立って感知しているかは、多分、照明家さんには想像できない」(金森さん)

Q:『Fratres』のお米は使い回しか?
-金森さん「はい。演出部さんが、毎回、終演後にザルでほこりを取っている。降らしたときに詰まっちゃったりするので。金銀山の砂金採りかみたいなレベルで」(笑)

Q:リノリウムのペイント、そのコンセプトは?
-井関さん「近々、映像をアップする予定」
-金森さん「コンセプトを伝えて、(俺以外の)メンバーみんなで塗ったもの。そのコンセプトは上から落ちてきてバチャ。みんなのは噴水みたいにバチャ。まあ、似てるんだけど、上から落ちてくることが…」
-井関さん「みんなで話し合って、やっぱりちょっとずついこうと。ひとり一色ずつ持って」それで、「これ、いけるんじゃね」と最初は井関さんから塗っていった。「踊っているとき、毎回、一瞬、海のような、波のようなエネルギーを感じた」
-金森さん「プレヴュー公演やっているときに、何かが必要と感じていて、『ああ、これか』と気付いたもの。『春の祭典』の色彩の爆発、色の欲情みたいなものを精神的な爆発として付与したかった。アクションペインティングのように上からペンキを落とそうと思ったが、さすがに、劇場の人に『大変なことになるからやめて下さい』と言われて…」

Q:『春の祭典』創作で一番苦労した点は?
-井関さん「一番というと、やはり楽譜読み。ホントに時間かかったし、待つ時間も長かった」
-金森さん「ユニゾンもそんなになくて、一人ひとりに振り付けていたから」
-井関さん「楽譜とにらめっこしていて、これはホントにダンスの作品なのかと。最初の1、2ヶ月くらいは」

Q:ふたりにとって、踊り・振付が「腹落ちする」っていうのはどのような感覚か?
-金森さん「踊っていて、『コレだ』って思うときってことなら、それが判るってことが『経験』なのかなと思う。今にして思うと、若い頃は、腹まで落ちないで、肺ぐらいで止まっていた気がする」
-井関さん「完璧な踊りはないが、その瞬間、光を浴びて、そこに集中していられているときが一番納得できるときか」
Q:振付が自分のものになり、無意識・ナチュラルなかたちで踊れるといった感覚か?
-井関さん「無意識はない」
-金森さん「おおっ、佐和子だねぇ。オレ、無意識だからね」
-井関さん「リハーサルで計算をとことんしておいて、そこからどれくらい外れたところへ行けるかっていうか」
-金森さん「結局、完全にはコントロールし得ないものをコントロールしようとしているから、どちら側に立つのかで違うし、この身体っていうのが凄い矛盾で、そういうものと向き合うことが踊ること。観てて感じる感想とは違う」
-井関さん「ここ最近になって、やっと、バランスっていうのが計算じゃないってことが判ってきた。その瞬間瞬間に選び取っていくこと、それが楽しいなと」

Q:『春の祭典』のキャスティングはどのようにして行ったか?
-金森さん「ホントに直感的なインスピレーションによった。楽器の音色からどのメンバーを想起したかっていうこと。癖も性格も判っているし、音色が舞踊家のもつエネルギー等に合うかどうか、という感じ」

Q:今後、『火の鳥』『ペトルーシュカ』に取り組む予定は?
-金森さん「『火の鳥』はNoism2のために作ったものがあり、それはいつかやりたい。『ペトルーシュカ』は『いつかやるのか?』と…、特に予定はないけど」

Q:昨年の「サラダ音楽祭」の演目、再演はないのか?
-金森さん+井関さん「『Adagio Assai』と『Fratres』に関しては、特別決まっているものはない。今回はジョン・アダムズの新作『ザ・チェアマン・ダンス』。42歳・井関佐和子、走れるのか。(笑)それと20年間、点で踊ってきている『Under the Marron Tree』。e-plus『SPICE(スパイス)』の記事を見てください」
-金森さん「『春の祭典』はいずれそのときのメンバーで再演するだろうし、『夏の名残のバラ』はやる予定がある」

…等々と、そんな感じですかね。疲れていた筈のおふたりでしたが、多岐にわたる質問ひとつひとつに丁寧に答えてくださっていました。その様子、是非ともアーカイヴにて全編をご覧ください。そして次回は「サラダ音楽祭」後かな、と予告めいたものもありましたね。楽しみにしています。

それでは、今回はこのへんで。

(shin)

「春の祭典」大千穐楽、北の街に炸裂した幻影♪(サポーター 公演感想)

☆ストラヴィンスキー没後50年 Noism0+Noism1+Noism2『春の祭典』(2021/7/31@札幌文化芸術劇場 hitaru)

 現メンバーによる最終公演でもあるNoism0、1、2「春の祭典」大千穐楽、札幌の地で無事終了しました。

 酷暑、拡大を続ける新型コロナ禍、某巨大スポーツイベントと、北海道行きをどれだけ躊躇したか。それでも、現代に切り結んだ傑作「春の祭典」のひとまずのラスト、この公演がラストになると思われるメンバーの勇姿を目撃する為、予定どおり応援旅行を決行しました。

さっぽろ創生スクエア
札幌文化芸術会館 hitaru(4~8F)
hitaruロビーからのさっぽろテレビ塔

 会場の「札幌文化芸術劇場 hitaru」はオフィスや放送局、図書館などが入る高層ビルの一角。さっぽろテレビ塔もロビーからよく見えます。
この劇場がスゴい! 5階~8階までが客席の為、舞台の天井が高く、また音響も抜群。井関佐和子さんの渾身と、山田勇気さんの安定の受けが冴える『夏の名残のバラ』に引き込まれつつ、「あれ? いつもより音楽が低音まで聴こえるぞ」と気付かされました。映像舞踊『BOLERO 2020』も、今まで観たどの会場よりもメロディが身体に響き、かつ舞台の高さもあって、最前列で鑑賞したにも関わらずとても見易かったです。

 『FratresⅢ』で金森穣さんが舞台に現れた瞬間、嗚咽が漏れたのは何故でしょう。活動継続の危機を経て、さぁこれからという矢先のコロナ禍。カンパニーだけでなく、観客である私たちも、いつ果てるとも知れない苦しみの中で、何とか希望を捨てず、祈るように暮らしています。その万感を、この荘厳な作品には重ねてしまうのです。Noism1メンバーひとりひとりの、いつも以上に気合いのこもった表情、完璧な動きのシンクロ、それを背中で見守るような金森さんのソロ。落涙しつつ、いつか「Fratresシリーズを観ていた頃は、辛い時期だったけれど、何とか越えられたね」と思える日が来ることを正に祈りました。

 そして、特筆すべきは「札幌スペシャル」と呼ぶべき演出の仕掛け。『夏の名残のバラ』ラスト、客席を驚かせる映像が、「hitaru」の客席を使って再撮影されていたのです。また、『春の祭典』ラスト、「人は人と手を繋ぐことが出来るか?」という祈りがこもるような場面で、客席を舞台奥から照射する強烈な光。舞台芸術ならではの、その時、その場での一回性が生み出す、深々とした感激。札幌の地まで出掛けたことで目撃できた「幻影」のようでいて、確かな実感を伴った公演の余韻を、じっくり反芻しようと思っています。

(久志田渉)

Noism「春の祭典」埼玉公演の千秋楽へ行ってきました♪(サポーター 公演感想)

☆ストラヴィンスキー没後50年 Noism0+Noism1+Noism2『春の祭典』(2021/7/25@彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉)

青い空と白い雲というまさに夏真っ盛りの天気の中、Noism「春の祭典」埼玉公演の千秋楽へ行ってきました。

青空と夏の雲と「春の祭典」の大看板
大ホールへ向かう大階段
空が気になる日でした。

本日は新型ウイルス禍なしては大盛況で、1階席だけでは収まりきらず2階席も解放していました。
客席には東京バレエ団の方もいらっしゃったようです。11月に金森さん演出振付のバレエ「かぐや姫」が初演されますが、そちらも楽しみです。
Noismの客席はいつでもどこでも静かですが(何故?)、このような情勢下では安心感がありますね。

開始のベルからしばらくして客席が暗くなり「夏の名残のバラ」が始まりました。井関さんの美しい踊りも素敵ですが、アップで映し出される人形のような顔も強烈な印象があります。
この作品の着想は恒例の篠山紀信さんによるフォトコールのように思いますが、私はカメラマン(山田勇気さん)の佇まいが好きです。

「BOLERO 2020」は映像作品。これまで何回も観ていますが、大画面でみると視点が変わりますし、何より劇場のスピーカーで聴けるので音響が素晴らしいです(演奏者の咳まで録音されていることに気づきました)。
私自身も最近になりZOOM会議の機会が増え(会議メンバーが突然踊り出したら面白いだろうな)、と思いながら観ました。

すかさず幕が上がり「FratresⅢ」が始まります。「Fratres」シリーズはずっと観続けてきましたが、Ⅲになってやっと(これはベジャールの「ボレロ」だ)と思うようになりました。どうやら今ツアー以降の上演は未定のようですが、折々に上演してもらいたい作品です。

休憩の後は「春の祭典」。メンバー総出演の舞台はこれまでも劇的舞踊シリーズでありましたが、全員が一斉に舞台上で踊るのは初めてではないでしょうか。
金森さんが語る(音楽の可視化)、冒頭はそれぞれダンサーが楽器を分担している事がはっきり認識できますが、徐々にその分担ルールは緩やかになり、次第にひとつの音楽としての大きな動きと共にストーリー性を持って進んで行きます。
私自身は舞踊をしないせいか、舞踊を観る際に無意識に表情を追いがちになります。Noism版「春の祭典」は病人風メイクとボサボサの髪により、表情が分かり辛く、プレビュー公演時は正直面食らったのを覚えています。
一見すると見にくいことも現代を表すために敢えて用いているのでしょうし、実際ダンサー全員が「春の祭典」の住人になりきっていて圧巻でした。

カーテンコールでは鳴り止まない拍手と増えていくスタンディング。昨日は後ろの席で躊躇してしまいましたが、今日は私もピシッと立ち上がりました!
直前にみたオリンピック表彰式で、無観客のためその場にいる選手・関係者が一生懸命メダリストを称賛する姿に感銘を受け、私も良いものはきちんと称賛したいと思いました。

さあ、あとは札幌の大千秋楽を残すのみです。気になるメンバーの去就も明らかになっているかもしれません。私もワクチンの副反応次第ですが、可能な限り見届けたいと思います。

おまけ…与野本町駅構内にツバメの巣。乗降客や放送の音がすると「親が来た」と思って口をあけて鳴き始めます。

(かずぼ)

心に響くもの(サポーター 公演感想)

☆ストラヴィンスキー没後50年 Noism0+Noism1+Noism2『春の祭典』(2021/7/24@彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉)

私の初日となった、さいたま2日め。
タイトルは『春の祭典』だけど、4作品をたっぷりと。

どれも全くの初見ではないので、あの時はあんな印象を受けたなぁ…とか、あの時の自分はあんな状態だったなぁ…とか、うっすらと思い出しながら、ゆっくりと作品世界に入ってゆく感じ。

もう1年以上、多くの人たちが孤独と向きあい、胸に祈りをいだき続けている。
Noismの舞台も、様々な姿をした孤独と、祈りに満ちている。そして、(単純ではないけれど)希望もまた。
見る人によって、見る時によって、心に響くものは変わるだろう。

さいたま千秋楽は、私も千秋楽。
どうぞつつがなく。

(うどん)

劇場外のポスター
おまけ…与野本町駅前、真夏のお疲れ気味のバラ

「5-7月のNoism と私」(サポーター感想)

☆「市民のためのオープンクラス」・『春の祭典』新潟公演 ・ Noism Summer School2021

前シーズンのオープンクラスは申し込みに出遅れて受けられないクラスがあったので、今回はメール受付日に日付が変わると同時に送信した。我ながら大変な意気込みだ。

体験が経験に変わりつつあるのを実感しているのが、浅海侑加先生とNoism2メンバー総出の「Noismバレエ体験(初級)」だ。回数を重ねるとこちらも指導する方も慣れる。

参加者のカラーが毎回違うのもこのクラスの特徴。明らかにほとんどが経験者という時やら、いろんなレベル、バックグラウンドの人たち混在の時やら。

すばらしいと思うのは、回を追うごとにレッスン内容がどのレベルの人が来ても満足できる方向に行っている事。動きが複雑になりすぎないよう、長くなりすぎないようになっている。初心者はマネをしやすく、更にレベルアップしたい経験者は基本的なポーズ、動きに磨きをかけられる。 Noismバレエはクラシックが根底にあるが、基本となる腕の位置や角度などに違いがあるので、スタジオBに来たらこう動く!というのが身に付くまでどのくらいかかるやら…
出来るだけ長く通い続けて身体に染み込ませてカッコよく踊りたいものだ。

5/9初めてのバレエ中級。鳥羽絢美、西澤真耶先生。経験5年以上が対象なのでそれっぽいお姉さん方がほとんど。お手本になりそうな方の近くのバーにさりげなく陣取る。フロアになってからもコンクールに出そうな大きく踊る人の斜め後ろに位置取り。その人に頑張ってついて行った。
でも楽しかった!初級はNoismバレエの基本をキチンと身に付けたいのでポジション等に気を使うのだが、中級は「もうやったれ!」とばかり大きく踊り、ピルエットダブルも勢いで回る。

5月9日のレパートリー中級クラスは『BOLERO 2020』終盤のユニゾンでした。長さにすると1分ちょっとなのだがギッシリ詰まっているわ展開は速いわ…「踊ってみた」どころではない。「マネしてみた」にもならない。他の参加者さんたちは表現はともかく少なくともマネしてついていってるように見えたので気弱になってしまい、終わってからジョフォア先生に「今回は難しかった。ちょっと恥ずかしかっ…」言い終わる前に一喝「恥ずかしくない!!」反射的に「恥ずかしくない!恥ずかしくない!」と叫んだ私。

そうです。弟子が弱気になった時の迷いの無い師の一喝。これは大事です。勇気づけられました。これからも出来るだけ出席してコンテンポラリーに慣れたいです!

「今やったのはダンス以前のことなんです」
5月23日のからだワークショップの後で勇気先生とお話をした。
最初は自分の体をさすったり叩いたり、関節ごとに動かしたりして目覚めさせ、次は2人ひと組で向かい合って見覚えのあるあの動きを…

「これ、アレですよね?」「そう。アレです」先生と目で会話。『Adagio Assai』の冒頭の動き。相手と目を合わせ、自然に連動して動く。初対面の相手なのではじめはぎごちなかったりするが、だんだん角が取れて行く。仕掛けたり仕掛けられたりするうちにどっちがリードしているのか分からない状態まで行く。そしてより自由に動いて行く。
終盤は風に乗ってあちこち飛び回る。相手もどんどん変えて行ってその場の雰囲気に浸って自分を解放する。「無礼講」に近い感じである。

先生のクラスは最初から柔らかい空気が流れているのだが、終わる頃にはすっかりスタジオBが温かく練れた感じに出来上がっていました。
みんなお友達状態で、楽しかったですね!とあちらこちらで笑い合う。

マスクをしていてちょうど良かった。日本人は目を合わせるのが苦手だし気恥ずかしい。簡単には心を開けない。顔が全開だったらここまでたどり着けなかったのでは、と思う。かと言ってフルフェイス仮面をつけたとしたら、とてつも無くアヤシい雰囲気になるだろうし…
怪我の功名ならぬ、マスクの功名でした。

JAZZのジャムセッションに似ている。決め事をする時もしない時もある。まず誰かが動く。それに他の者が合わせて行き、進むに従ってリードする者が移り変わって行く。そして全体としてのグルーヴが形成されて行く。
その時の場所、メンバーの組み合わせ、お互いの技量そしてそれを測る能力等によって毎回違うものができる。一期一会。
もちろんこれは極めてうまく行ったケースです。いつもみんなが満足できるとは限りません。
楽器という道具を使うので、身一つでやる身体表現よりも自分をさらけ出しにくいかもしれない。

今回の私のオープンクラスは、6月に申し込んだ2クラスをキャンセルしなければなくなったので5/30のバレエ初級で最後となった。
ワクチン接種の副反応(と自分の中で確信している)の目まいが長引いたのだ。
何があるかわからないので皆様ご注意を!

Noismバレエ(中級)
撮影:遠藤龍
Noismレパートリー(中級)
撮影:遠藤龍

回復途上でフラつきながら行ったシネウインドのボレロ上映会と公開リハ。
そしてほぼ回復して待望の公演。今回は初めてツレアイを誘った。満を持して、と言う感じ。演目もベジャールゆかりの有名曲だし、「他の2曲もすごいよ!オススメだよ!」と推した。
とても感動しておりました。次回も行きたいそうです。良い意味でこなれて一般受けするようになったからだと思います。各演目、ストーリーが想像しやすいし、『春の祭典』のアグレッシブさが印象的だったそうです。

7/2は2人で行き、7/4千秋楽は1人で最前列で観た。
『夏の名残のバラ』寄り添って見える時もあるが、執拗に執拗にダンサー(女優にも見える)を追うカメラ。あり得ないような角度からも時には残酷に写し出す。冒頭の鏡に向かって舞台化粧するシーンと繋がる。デュエットではあるが、ソロのように思えた。カメラは己れを客観視する自分自身。プロフェッショナルはそれをしなければならない運命にある。孤高の存在。
『Fratres III』の金森さんにもそれを感じる。他の人々がフードで身を守るのに対し、生身で試練を受けるストイックさ。自分自身に対する厳しさが見える。それでなければ他に対して厳しく接することは出来ない。
『BOLERO 2020』最前列だと全体が非常に見にくいので、今までみてない部分にフォーカスして観ることが出来た。いつか機会があればクラスでメタメタだったユニゾン部分のリベンジをしたいものだ。
そして『春の祭典』毎回変わっていく演出に、作品は生き物だ!と実感した。進化し、よりわかりやすくなっていると思った。皆さんのテーピングと汗…カラダを張っているから観客は感動出来るのですね。音楽そのものもエキサイティング。今回特に印象的だったのが「金管楽器って野蛮だ。打楽器よりもバイオレンスだ!」スクラップアンドビルド。
いつもより更に熱い公演でした。

映像舞踊『BOLERO 2020』
撮影:篠山紀信

そして私にとって今シーズン最後のイベント、「サマースクール」
毎年行われる舞踊家のための集中講座。2年前は見学だけさせていただいたが、今年は選考が通り参加する事ができた。Noismメソッド、バレエ、レパートリーの3クラス×5日なのだが1クラスのみの受講も可という事なので、メソッドを7月7日と9日に受けることにした。市民のためのオープンクラスは基本「体験」なので、継続していくつもりであればやはり一番根底にあるメソッドをやらなければと思ったのだ。

Noism Summer School 2021
Noismメソッド
撮影:遠藤龍
Noism Summer School 2021
Noismバレエ
撮影:遠藤龍
Noism Summer School 2021
Noismレパートリー
撮影:遠藤龍

今まで作品を観続けて来たが、こういうのに基づいて作られていたのか!というのが少し分かった気がした。レパートリークラスで踊りの一部分をやるというのも楽しいし意味があるのだが、私は不器用なので、コンセプトや基本的な動きが身体に浸透しないと不完全なマネも出来ず終わってしまう可能性大なのだ。

今回メソッドをほんの少しかじっただけだが、これからもいろんなクラスを出来るだけ受けて、スタジオBにいる時はNoism3、いや4?…… Noism24くらいのレベルにはなりたいな。
『Fratres』の蹲踞の姿勢からの、正座からの、膝立ちからの一連の動き等々。本当に地味で有意義でキツ~いクラスであった。でも大きな収穫があった。オープンクラスのからだワークショップと繋がったのだ。

Noism Summer School 2021
Noismメソッドでの山田勇気さん
撮影:遠藤龍

山田勇気先生、
ありがとうございました!
他の先生方にも感謝です!
次のシーズンも楽しみにしています。

(たーしゃ)

『春の祭典』、感動の新潟公演楽日の締めは金森さん相手のサプライズ♪

*この度の東海や関東を襲った豪雨とそれに伴う水の被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。

2021年7月4日(日)、『春の祭典』本公演の新潟楽日は舞踊家たちの入魂の熱演により、本当に感動的な舞台を観ることが出来ました。

バルコニー席にも一部、観客を入れるなど、この日の劇場はほぼ満席。埋め尽くされた客席から湧き上がる感動を伝える拍手は音量が違っていました。発声が止められているなら、もう本気で叩くしかありませんものね。そして、本気で叩かなければ済まないような舞台が続いたのですから、当然と言えば当然だった訳ですが。

新潟での全3公演をすべて観たのですが、この日は、新潟での見納めという思いを抜きにしても、どの演目も、その演目の持ち味が際立つ見事な舞踊が展開され、それを見逃すまいと目を皿にして見詰めるうちに、涙腺が決壊しそうになったり、鳥肌が立ったり、気持ちを煽られたりと大忙しで、感情の振り幅の大きさに身を浸し、その時間を堪能しました。

ここからはタイトルに含ませた金森さん相手のサプライズについて書くことに致します。この日の観客は劇場に足を踏み入れた時点で、全員ある計画の「共犯者」となり、その時を待っていたことになります。正確には、入場時、手渡されたプログラム、チラシの束の、その一番上に一枚、見慣れない「紫」の紙片を目にしたときからです。

「紫」色の紙片は「confidential(極秘)」
(「紫」の再現性がいまいちでスミマセン。)

「黒幕」は紛れもなく芸術副監督。知らないのは金森さんただひとりらしく、みんなが「ぐる」という「ミッション」は、もう完全な「うっしっし」状態で、心が躍りました。

そして、やがて、最後の演目『春の祭典』が客席を大きな感動に包んで、その幕が下りる時が来ます。客席からは、いつもの如く、否、いつも以上に大きな拍手とスタンディングオベーションが舞台に贈られました。とりあえず、新潟の3公演を踊り終えた舞踊家たちは前日までとは違ったリラックスした表情を浮かべています。その列に金森さんと井本さんが加わるのもこれまで通りです。もう会場中の誰もが笑顔で手を叩いている図になり、カーテンコールが繰り返されていきます。その笑顔はいつしか、「へまをしてはいけない」と自らに言い聞かせつつ、今か今かと「実行」の合図を待つ「ほくそ笑み」の要素が大きくなっていった筈です。たったひとりを除いて。

あれは何という曲なのでしょう、遂に、祝祭感に満ちた晴れやかな音楽が流れてきました。観客は一斉に「紫」の紙を掲げ、舞台上の舞踊家は金森さんの方に向き直っての拍手に変わり、場内の全員による紫綬褒章受章を祝う時間となりました。全ての視線は金森さんひとりに集中します。上方からはキラキラした紙片が舞い落ちてきます。場内の誰もがそれ迄に倍する笑顔に変わりました。事態が飲み込めず、キョトンとし、いつになくキョロキョロするたったひとりを除いて。

「6歳で踊り始めた穣さん、46歳で紫綬褒章受章。おめでとうございます」マイクを握った井関さんから、コロナ禍で授章式が中止となった状況下、「みんなでお祝いを」と、このサプライズの趣旨が話されたのですが、さすがは「大人の事情」に強い井関さん、一緒に暮らしていても感づかれたりすることなしにこの時を迎えられたようです。

『Fratres』のように容赦なくではありませんが、キラキラする紙片が舞い落ち続けるなか、『春の祭典』第一部後半のようにメンズとガールズに分かれた舞踊家たち。メンズが金森さんの長躯を掲げて、その下で騎馬を組むと、舞台シモ手袖からはNoism2リハーサル監督・浅海侑加さんを担ぐガールズの騎馬が登場。浅海さんの両手には大きな花束が抱えられていて、大喝采のなか、金森さんに贈られました。

「こんなの、Noismを17年間引っ張ってきて初めて」、更に「一生の思い出になりました。その思い出を多くの皆さんと共有できて本当に幸せです。…このような大変な時期に、こんなにも劇場に来て貰って」と感謝の言葉を口にした金森さん。その場の雰囲気を「引退式みたい」と表したときには、会場中から大きな笑い声があがり、すかさず、「まだまだ踊りたいですし…」と続けると、更に万雷の拍手が贈られました。観客もひとり残らず、この「サプライズ」に加われたことを喜んだ筈です。

豪華4演目と、その後、コンプリートしたミッションに、劇場はこの上ないくらいの幸福な一体感に包まれていました。お陰で、通常なら、楽日の終演後には必ず抱く「Noismロス」とも無縁で帰路につくことができた程です。この日の観客も一生、このお祝いのことは忘れないだろう、そんな確信をもってりゅーとぴあを後にしたような次第です。

さあ、『春の祭典』本公演、次は7月下旬の埼玉公演(7/23~25)、札幌公演(7/31)です。同地のお客様、感動の4演目、満を持して登場です。期待MAXで、今暫くお待ちください。

(shin)