「新潟はスゴイ」を見せつけた興奮の『鬼』埼玉公演楽日♪

2022年7月10日(日)、大きなワクワクを抱え、今公演のNoismと鼓童ダブルネーム入りTシャツを着込んで、真夏の新潟から真夏の埼玉へ向かいました。一昨日、埼玉公演初日を観たfullmoonさんのレポートに「舞台美術に変更アリ!?」などとあったものですから、『ROMEO & JULIETS』の映像差し替えの例に見るまでもなく、常にブラッシュアップの手を止めない金森さんのこと、どう変わっているのか、もう興味は募る一方でした。

そして、更に、個人的な事柄ではありますが、もうひとつ別の角度、音楽の原田敬子さんへの興味も日毎に大きなものになってきていました。
今公演の特設サイトで見られる「Noism×鼓童『鬼』Trailer原田敬子さんver.」において、「楽器或いは声で実演するための音楽」への拘りを語る原田さん。続けて、「人間の、演奏する人たちの身体を媒体として、音を媒体として、人間の身体と、それをコントロールする脳、精神の可能性を限界まで拓いていく」と自らの音楽を語っておられます。音楽の素養のない身にとっては、それら語られた言葉を、単なる語義を超えて、それが表わす深い部分までまるごと理解することなどできよう筈もありませんでした。新潟での3公演を観たことで、更に原田さんの音楽について知りたいと思うようになり、CDを求めて耳を傾ける日々が続きました。

お昼少し過ぎに大宮に連れて行ってくれる新幹線、移動中の座席では、原田さんの旧譜『響きあう隔たり』のライナーノーツを熟読して備えました。同ライナーノーツのなかに、彼女が折に触れて繰り返す「演奏の瞬間における演奏者の内的状態」という自身の志向性に関して、今公演に繋がるヒントとなるものを見つけたからです。
原田さんは語ります。「私のいう内的状態とは感情的なものではなく、拍の数え方・呼吸の仕方・音の聴き方等、演奏に不可欠な実際面での技術である。新しい音楽というものに、何か役割があるとすれば、それはこれまでの習慣だけではなく、少しでも新たなアイデアが加えられ、奏者のイマジネーションを刺激しつつ、実はそれを実現するための技術の部分に挑戦するというポジティヴな未来志向性を、身体を通して聴き手に提示することかも知れない」(CD『響きあう隔たり』ライナーノーツより)
この言葉、「音楽」に纏わる語を「舞踊」関連に置き換えて、名前を伏して示したならば、金森さんが言ったものと捉えてもおかしくない言葉たちではないでしょうか。まあ、優れた芸術家は通じ合うものと言ってしまえばそれまでですけれど、この度のコラボレーションの必然性が見えてくるように思えたのでした。

公演の詳細は書けないからといっても、前置きが長くなり過ぎました。

入場時間になり、ホワイエまで足を運ぶと、そこにはNoismスタッフ上杉さんと話す小林十市さんの姿があり、周囲に光輝を放っていました。それから、芸術監督の近藤良平さんに、評論家の乗越たかおさんもおられました。また、劇的舞踊で参加されていた俳優の奥野晃士や元Noism1メンバー・鳥羽絢美さんとは、それぞれ少しお話しすることができました。この日は関東地区での千穐楽でしたから、華やかさが際立っていたと言えます。
また、この日の物販コーナーでは、缶入りの浮き星に加えて、Noism×鼓童TシャツのSサイズも売り切れとなっていたことも記しておきます。こうしたことからも今公演が多くの方の心に届いているものとわかります。

開演時間が来ます。先ずは『お菊の結婚』です。ストラヴィンスキーの音楽に操られるようにして動く人形振りですが、動きは細部にわたって確信に満ち、練度が増しています。蔑みの眼差しで見詰められたオリエンタリズムのなか、拡大していく「歪み」が招来するものは…。淀みなく展開しながらも、「おもしろうて、やがて…」のような味わいは繰り返し観ても飽きることはありません。

休憩後は『鬼』です。緞帳があがり、櫓が顕わしになっただけで、ザワッとして、一瞬にして心を持って行かれてしまうのはいつもの通りです。そこから40分間、透徹した美意識が支配する演目です。fullmoonさんが触れた、ある場面での「舞台美術の変更」も、禍々しい効果を上げていました。
この演目、原田さんによる音楽を(1)鼓童が演奏し、(2)それを、或いはそれに合わせてNoismが踊るという、ある意味「2段階」を想定するのが普通の感覚なのでしょうが、鼓童の音とNoismの舞踊の間にはいささかも空隙などはなく、してみると、その当たり前のように成し遂げられた同調性が高いコラボレーションは、敢えて言えば、原田さんの楽譜を、(1)鼓童が演奏すると同時に、(1)金森さんもNoismを「演奏」しているかのような錯覚をきたすほどです。(無論、金森さんの演出振付を不当に矮小化しようというのでは毛頭ありません。)この演目、カウントで成立するものではないのですから、人間業とは思えない途方もないレベルの実演であることはいくら強調しても足りないほどです。「聴くこと」の重要性は原田さんが常に唱える事柄ですが、それが鍵を握る「共演」であることは言うまでもないでしょう。Noismと鼓童、恐ろしいほどに「新潟はスゴイ」(金森さん)を見せつけた興奮の埼玉楽日だったと思います。

終演後のカーテンコールでは、鳴り止まない拍手に、大勢のスタンディングオベーションが加わり、感動を介して、会場がひとつになった感がありました。繰り返されたカーテンコールはfullmoonさんがレポートしてくれた前日同様、客電が点いてからも続き、客席は温かい笑顔で応じました。そのときの多幸感たるやそうそう味わえるものではありませんでした。

今日は原田さんを中心に書いてきましたが、原田さん繋がりで、個人的なことをひとつ記して終わりにしようと思います。先日の「1.8倍」云々の件がありましたので、お見かけしたら、再びご挨拶せねばとの強い気持ちをもって埼玉入りした部分もありました。すると、開演前、この日も座席表付近で原田さんの姿を認めましたので、お声掛けしました。で、様々に感謝を告げようとするのですが、やはり緊張してしまい、この日も頭は真っ白に。にも拘わらず、笑顔で対して頂き、不躾なお願いでしたが、CDにサインも頂きました。感謝しかありません。その後、fullmoonさんと一緒に再度ご挨拶することもできました。

原田さん、度々突然お邪魔することになり、失礼しました。と同時に、重ね重ね有難うございました。この日も音楽を起点とする実演に圧倒されました。

諸々の高揚感のうちに、新幹線に乗って新潟へ戻ってきた訳ですが、ツアーはこの日でふたつ目の会場を終え、次は一週間後(7/17・日)の京都です。関西のお客様、お待ちどおさまでした。お待ちになられた分も、たっぷりとお楽しみください。

(shin)

『境界』メディア向け公開リハーサルに行ってきました♪

12/9(木)久しぶりに晴れて、気持ちのいい一日となりました♪ りゅーとぴあ劇場で14時半~『境界』公演、山田うんさんの『Endless Opening』メディア向け公開リハーサルに行ってきました!

まず驚いたのは「台車」? ベッドのようにも棺のようにも見えますが、山田うんさんによると『身体(からだの象徴)』なのだそうです。

人は生まれるのも死ぬのもベッドの上で、生きている間は横たわっている時間がとても長い。生と死の象徴でもある、この台車(?)を自分の身体のように使いこなさなければならないのですが、ちょっと難しそう。『ロミオとジュリエットたち』の車椅子を思い出しましたが、それよりも難しいのでは。

でももちろん、ずっと台車と一緒にいるわけではなく、素晴らしいダンスを見せてくれます♪ 花のような風のような、見ていると優しい気持ちになります。「献花」「多幸感」「喜びの花束を渡したい」という、うんさんの言葉通りの踊りです。

音楽はボロディンの弦楽カルテット第2番 第1~4楽章で、とてもきれいな曲です。 衣裳は花のようにカラフルと聞いていますが、この日はまだ稽古着でした。本番が楽しみです♪

30分のリハーサルのあとは山田うんさんと金森さんの囲み取材。山田うんさんは「新潟はすべてが綺麗で美しく、食べ物も飲み物も美味しくて、最高!」と話されました。Noismメンバーについては、力強くしなやかな身体、素晴らしい躍動感、Noismは新潟の宝物であり財産であり、一緒に舞踊を創っていくのはとても光栄と褒めてくださいました。

対して金森さんは「ゲスト振付家のうんさんに褒めてもらったが、ダンサーはその言葉に応えなければいけない。私では引き出せないものを、うんさんから引き出してもらいたい」と話し、「ぜひ見てください!」を連呼しました。

また、ご自身の作品については「うんさんと全く同じ心境です」とし、井関佐和子さんのお祖父様が最近亡くなられたお話をしました。井関さんは「生きている間は特に思い出したりしないものだが、亡くなるとその人のことを考え、より身近に感じる」と話されていたそうです。まさに『Near Far Here』ですね。

NCNがクリスマスに贈るふたつの作品、どうぞ大切な人とご一緒にご覧ください。

Noism0 / Noism1 境界新潟公演 | Noism Web Site

(fullmoon)
(撮影:aqua)

【追記】
この日のリハーサルの模様を伝えるUX新潟テレビ21のニュース動画へのリンクを貼りますので、ご覧下さい。
 → UX新潟テレビ21「キーワードは『境界』…三途の川も表現」(12/9木20:39配信)

(shin)

勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)

『ROMEO & JULIETS』、世界に誇るべき新バージョンの誕生

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第35号(2019年1月)

 新潟市の公共劇場りゅーとぴあの専属舞踊団Noism1が『ROMEO & JULIETS』を上演した。この振付を担当した金森穣は、最近のコンテンポラリー作品が複雑な動きの連鎖にこだわり過ぎ、「物語」を劇的に語るおもしろさから離れる傾向にあることを懸念したようだ。観客が難しいステップの成り行きなどを気にかけずに、舞台展開を気楽に楽しめるようにと「劇的舞踊」を企図した。そして2010年の『ホフマン物語』を皮切りに、2014年の『カルメン』、2016年の『ラ・バヤデール―幻の国』を順次発表して大きな反響を得た。その第4弾が『ROMEO & JULIETS』なのだ。これはシェイクスピアの書いた悲劇「ロミオとジュリエット」の舞踊化のはずだが、タイトルをよく見るとジュリエットが複数表示になっている。

 バレエ・ファンにはおなじみの、プロコフィエフ作曲の序曲が流れ、幕が開いた。シェイクスピアの書いた冒頭の台詞(日本語訳)が朗々と語られ、その主要部分はスクリーンに文字となって映し出された。ダンサーたちが現れると、その衣裳が長めの白衣であることに気付く。これは病院の眺めではないか。と思ううちにロミオ(武石守正)が車椅子に乗って登場。ジュリエットは複数の女性患者が……。舞台には、半透明のガラスをはめた縦長の衝立がいくつも並び、それをてきぎ移動させることで場面が変った。これは、白い壁とガラスの障壁で仕切られた病院の普通の眺めだった。冒頭でシェイクスピアの言葉を示したスクリーンには、舞台上のあちこちの様子がランダムに映され、病院内の監視モニターのように見えた。

 両家の壮絶な対決シーンが始まり、観客はあっという間にシェイクスピアの世界に引き込まれた。ジュリエット役の浅海侑加、鳥羽絢美、西岡ひなの、井本星那、池ヶ谷奏の5人がさまざまな現れ方で場面に関わった。キャピュレット家の婚約披露の宴会での、ロミオとジュリエットの出会いは、群舞の中にパリス(三島景太)とジュリエットの位置を微妙にずらした踊りを設定し、ロミオとの偶然の触れ合いの機会をこしらえた。バルコニー・シーンはジュリエットの映像を、高い位置のスクリーンに映して二人の位置関係を示しつつ、愛が急速に深まる様子をたっぷりと描いた。さらに、ティボルト(中川賢)とマキューシオ(チャン・シャンユー)の決闘シーン、それに続くティボルトとロミオの死闘が、スリリングに設定され、観客はそれらが病院の中の患者同士の出来事であることを、しばし忘れた。

 後半冒頭に金森の長いソロがあった。金森は病院の医師で患者全体をコントロールする立場にある。物語の上ではロレンスの役を演じてジュリエットに秘薬を与えるので、このソロには彼が全体を仕切る張本人であることを示す意味があったかもしれない。井関佐和子は、ロザラインと看護師の2役を演じてひんぱんに物語の流れに関わり、ダンスの見せ場をはなやかに盛り立てた。最後の墓場のシーンでは、舞台中央のベッドに誰かが横たわっている。そこへロミオが現れて二人の死の場面となる。どうやら先に横たわっていたのは井関が演ずるロザライン(または看護師)だったらしい。それを見た観客サイドは、シェイクスピアの元のストーリーを思い出して両家の和解を想像するなど、つい先を急ぎがちだ。しかしよく考えてみると、ここにロザラインが登場するのは「異常」ではないか。井関の演ずる看護師が、前の場面でアンドロイド風の動きをしていたことなどを思い返すうちに、これはシェイクスピアの芝居の最終シーンではなく、どうやら病院の一風景らしいと気付く。舞台には患者たちの何気ない日常がもどっていた。

 プロコフィエフの音楽でラブロフスキーやクランコらが振付けた「ロミオとジュリエット」が、シェイクスピアの原作を忠実に再現したものであることを我々は知っている。病院の中という状況設定以外は、展開のポイントをまったく変えることなく、金森も自分の『ROMEO & JULIETS』を作った。彼の「劇的舞踊」は、観客の心の中にあるシェイクスピア原作の記憶を刺激して、別に設定した状況に同化させ、そこに新しいダンスの場面をふんだんに織り込むことで成り立つ「舞踊作品」だった。

 病院という閉ざされた世界で、名作バレエのストーリーを再現した例としては、マッツ・エック振付の精神病院内の『ジゼル』(1982年作)がある。金森の『ROMEO & JULIETS』は、無理のないストーリー展開、要所に置かれたダンスのおもしろさ、音楽、舞台美術の的確な運用などを備えており、まさに劇的な出来栄え。世界に誇るべき病院版『ロミオとジュリエット』の誕生だった。

サポーターズ会報第35号より

(2018年9月14日/彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

興味津々、家具デザイナー・須長檀さんをお招きした「柳都会」vol.19に耳傾ける

2018年12月2日(日)、心配された天気は上々。
気温もそれほど下がらず、「冬の一日」にしては過ごしやすかったでしょうか。
師走最初の日曜日のりゅーとぴあでは様々な催し物があり、駐車場は軒並み「満車」の表示。

そんななか、私たちのお目当ては勿論、14:30からの柳都会。
今回はNoismの作品で美術を担当して、極めて印象深い仕事をされている須長檀さんのお話が聞けるとあって、
皆さん、混雑を物ともせず、楽しみに集まってこられている様子が窺えました。
また、この日は、先に露国・サンクトペテルブルクに『ラ・バヤデール』を観に行かれた「幸福な方々」との久し振りの対面の機会ともなり、入場を待つホワイエでは、そのときのお話が聞こえてきていました。

開始10分前に、スタジオBへの入場が始まり、
予定時間ちょうどに、お待ちかねの「柳都会」は始まりました。
お二人のために用意された席の前には、須長さんがこれまでNoism作品のために制作された
椅子が3種(『solo for 2』、『ZAZA』及び『ロミオとジュリエットたち』、『NINA』)と
テーブル(『ロミオとジュリエットたち』)とが並べられ、
その向こうに座ったお二人のやりとりをお聞きしました。

大きなテーマはふたつ。
北欧と日本、そして日常と非日常。
全体的には、まず須長さんがお話をし、それを聞いた金森さんが様々な質問をぶつけては、
須長さんが言葉を選びながら答える。
すると、またその答えに金森さんがツッコミを入れ、
また須長さんが答えて、といった具合で、
20年来の親友という関係性を基に、
金森さんが繰り出す様々な質問を通して、
須長さんのプロフィールが立体的に立ち上がってくるといった感じで進行していきました。
主に攻める金森さん、主に困る須長さん、お二人とも本当に楽しそうでした。
ここでは、以下にそうしたなかから一部紹介を試みようと思います。

北欧と日本
☆スウェーデンのデザイン: 1880年代迄のデザイン史には「グスタビアンスタイル」と呼ばれる王侯貴族のためのデザインのみ。
女性解放運動家のエレン・ケイ(1849-1926)が登場し、女性的視点を取り入れ、生活に即した日常的なデザインを提唱。「生活者のデザイン」を重視。
★日本のデザイン: 浮世絵が「ジャポニズム」として輸出され、もてはやされる状況を危惧。
土着的な民芸品を高く評価し、「用の美」を唱えて、民藝運動を展開した柳宗悦(1889-1961)や
その実子で、前回(1964)の東京五輪・聖火トーチやバタフライ・スツール等で有名な柳宗理(1915-2011)の無意識のデザインが呼応する。
手から生まれるデザイン。それは量は質に転化する「反復」の点で、舞踊にも重なり合うものと言える。(蛇足ですが、我が家でも、柳宗理氏の片手鍋と薬缶を使っているのですが、手にすっと馴染む、使い勝手の良さには実に気持ちいいものがあります。)
☆北欧と日本の地政学的親和性: アニミズム的心性と「森」。
北欧が誇るガラス作品制作において、火は絶やすことができない。→その点でも「森」の国であることが重要。
また、「森」との関連からよい刃物が不可欠で、それが家具作りを後押しした。
一方の日本: 「森」(森林率)は世界第2位に位置する。

無意識・無作為
☆『NINA』の赤い皮の椅子「ウワバミ」*: 基本的に、スチールパイプの構造体に濡れた皮を被せる作業に無駄な作為は一切介在せず、10%程度縮んで固まっただけ。
ネジも一切使用していない。素材が形の決定性をもっているだけの作品。(現在は金森さんの私物なのだそうです。)
須長さん「どうしてこれを使ってくれたのですか?」
金森さん「皮膚の緊張感を感じる。身体の張りとエネルギーを要する椅子。知的なレベルの理解とそれを越える美しさ。そして時間が止まって見えること。『舞踊とは何ですか?』には『この椅子です』と答えられる、そんな椅子。普通に座れるが、身体を休ませることを許さない椅子。」
*「ウワバミ」のネーミングは、サン=テグジュペリ『星の王子さま』に登場する「ゾウをこなしている」ヘビに由来するとのこと。
★『ZAZA』の正立方体+アクリル板の椅子: 常に壊れるんじゃないかという感じがつきまとい、楽に座ることの出来ない椅子。正立方体のため、垂直方向にも、水平方向にも綺麗に並ぶ。(金森さん)
☆正立方体が歪んだかたちのテーブル: 『ZAZA』では使われず、『ロミジュリ(複)』で登場。歪みを特徴としながらも、ただ一方向、「正立方体」に見える角度がある。世界の見え方の喩。
★軽井沢のアトリエ「RATTA RATTARR」: 4つの「ART」のアナグラム。「うさぎのダンス」のようでもあり。
「唐突の美」: 淡い期待とすれ違いの繰り返しの狭間に唐突に現れる美をつかまえる。
障碍者(無意識・無作為)と支援員(他者の目)の二人でひとつの作品を作るスタイル。
パウル・クレー(1879-1940)は、制作の際、自分の中に他者の目を持つことを心掛けたという。
天才でなくとも、二人でなら可能になる。「ART」の再構成。予想外のものが返ってくる、発見の喜びがある。
ストップをかけずに感覚的に作る者(障碍者)+舵取りをする者(支援員)。極力舵取りをしなかった製品がよく売れる傾向がある。
それに対して、「個人の内的なプロセスでも可能ではないか」として、大きな差異を認めず、
「そこに座って観ているだけで、ワァッ!となるものを創っていかなければならない。」とするのは金森さん。

無関心
☆「棚がなくなる」: 現代は物質が情報化される時代。家具自体がなくなる、或いはシェアされる流れにある。
→所有欲や親密性も新しい姿に書き換えられざるを得ず、そのことに怖さと楽しみの両方がある。
世代を越えて使われる家具: 修理、愛着。他者にまつわるイマジネーションの問題。

無防備
★Noismを観ること: 圧倒的な情報量に晒されること。ある時から、舞台に対して無防備な状態で向き合うことにした。
混沌とした状態で観終えて、その後の道すがらから、観た舞台の再構築化を楽しむ。それが大事。
Noism以外では、このようなことは体験したことがない。
そうした再構築化が可能となるのは、一人の作家(金森さん)の作品をずっと見続けてきたことによるもの。
繰り返して何度も観てきたので、根底に流れているものにも気付けることはあるのだろう。
☆『solo for 2』の傾いた椅子: 非日常。この上なく身体を必要とする自立しない椅子。同時に、「片足が折れている」ことのメタファー。
驚くほど軽量であるうえ、美しく設えられた八角形のビスを外すと、バラすこともできるという優れもの。そのビスに代表されるように、客席からは見えない細かな部分まで手が込んでいる。
→舞台上で実演家が感じるクオリティは還元されて客席に伝わる。(金森さん)
公演時、舞踊家が椅子を離れると、椅子も逆方向にパタッと倒れたのが、「椅子が踊っている」ように見え、感動した。最も好きな椅子。(須長さん)

強度のあるデザイン
★「美しいものを作るためには誰かのために作らなきゃならないよ」: 行き詰まりを感じていた頃、金森さんからかけられたこの言葉にハッとした。(但し、金森さんは「そんなこと言った記憶はない」と言うので、真偽のほどは不明ながら。)
デザインの強度: 「切望」を相手にするデザイン。自分のためではなく、他者のためのデザインであること。舞台の仕事も良いトレーニングとなった。

これからのデザイン
☆AIの可能性: 売れるものを作るためにはAIに優位性あり。また、スタディの結果、奇抜さでもAIが勝る可能性がある。(人間らしいエラーすらスタディされてしまいかねないのだから。)
何故、AIに抗うのか?→物を作る喜びを探しているだけかもしれない。(須長さん)
現代のリアクションとこの先のリアクションが異なるのは当然だろう。知性が問われる。
現在の主潮は「対AI」的感覚だが、そのうち「対人間」的なものになる時が来るかもしれない。
「人間とは何か?」: 舞踊芸術として常に向き合っているテーマ。(金森さん)
いい意味でも悪い意味でも変わっていかざるを得ないだろう。面白いじゃない。(金森さん・須長さん)

そんなふうに時空を縦横に行き来しながら、創作というものの神髄を感じさせてくれた、
本当に濃密な2時間でした。
途中に一度、「トイレのための小休憩」(金森さん)という10分休憩がとられたのですが、
その間も、多くの方がトイレに行くことなど後回しにして、須長さんの作られた椅子とテーブルを見て、触って、持ち上げたりする姿が見られ、すっかりお二人のお話の虜になってしまっていたようでした。
それはまさに私のことでもあり、到底見るだけでは済まず、すべて触って、それでも足りずに持ち上げてみてを繰り返し、ほぼ10分間ずっと、それらの感触を実際に自分の手で確かめて過ごしました。

そんな今回の「柳都会」も最終盤に至って、
須長さんに向けて「実際にその椅子は買えるんですか?」との質問が出たのですが、
それに対しては、「家具デザイナーですから」と言うのみで、否定はされませんでしたから、
もしどうしても欲しいという方は、須長さんに相談してみられたらよろしいかと思います。

須長檀さん、物腰の柔らかい、穏やかな方でした。
問うこと及び考えること、その愉悦に満ち、とても刺激的だった「柳都会」は予定通り、16:30にお開きとなり、
その後、金森さんたちは足早に、同じりゅーとぴあ内のコンサートホールへ、17:00開演の東京交響楽団の公演を聴きに行かれました。
「Liebestod」や「タンホイザー」序曲など、予てより金森さんが興味を寄せるワーグナーの楽曲が並んだプログラム。
この日のワーグナー受信がいつか金森さんをしてどんなアウトプットを成さしめるのか、
そんな日のことを夢想しながら帰路につきました。

【追記】この日は、Noism新作『R.O.O.M.』&『鏡の中の鏡』東京・吉祥寺シアター公演のチケット発売日でもあり、私も無事に2公演のチケットを押さえることができました。
須長さんは、金森さんからの依頼を受け、この新作のために新たな制作をされているとのこと。
奥深いお話しを伺い、これまで以上に須長さんの仕事を注視していきたいと思いました。
新作、そうした意味からも期待大です。
(shin)

中川 賢さん、吉﨑裕哉さんからサポーターズのみなさんへ

昨シーズンをもって、Noismを退団した中川賢さん、吉﨑裕哉さん。
この度、お二人のご好意により、急遽、サポーターズ事務局関係者(普段から発送作業等に参加していだいている有志のみなさん)と共にお二人からのメッセージをお預かりさせていただく機会をいただきました。
お二人ともNoismで培ったものを大切にこれからを歩んでいきたいと話していらっしゃいました。
今後、中川さんは舞踊家として。
吉﨑さんは振付家・舞踊家として。
ご活躍を期待したいですね!

aco

お二人の気持ちが書かれたロミジュリTシャツにて、サポーターズのみなさんへのメッセージをいただきました。
応援してくださったサポーターズの皆様へ!

渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)

2018年9月16日(日)。
この日の劇的舞踊Vol.4大千秋楽について記すにあたり、
NoismでもSPACでもなく、全く別の件から書き始めることをお許し願います。
時、まさに午後5時ちょうどくらい。
打ち震えるような感動に包まれつつ、会場を後にし、
歩きながら、劇場内ではOFFにしていたスマホの電源を入れなおした際、
目に飛び込んできたニュースの見出し、
「樹木希林さんが死去 最期は自宅で家族に看取られて」に心底うろたえたからです。
75歳。この秋も来月、映画『日日是好日』(大森立嗣)を楽しみにしていた矢先の訃報。
込み上げる喪失感。
飾らない人柄で、奥深い表現を欲しいままにしていた名女優。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

…喪失感。感動が大きかっただけに…。
勿論、それはまた『ロミオとジュリエットたち』のことでもありました。
すっきりと晴れたとは言い難いものの、気温もあがり、
雨が降って幾分肌寒かった前日とは違うこの日、大千秋楽の地、埼玉は与野本町の天候。
金森さんは、そして舞踊家と俳優はどんな舞台で私たちを圧倒してくれるのか。
退団される舞踊家(中川さん、吉﨑さん)の姿も瞼に焼き付けなくては。
みなさん、そうした共通の思いを胸に、彩の国さいたま芸術劇場を目指した筈です。

この劇的舞踊、途中に約2か月の間を挟むことで、
新たな彫塑が加えられ、
表現は、より自然さを増して嵌るべきところに嵌り、熟成の度を増しながら、
この日の大千秋楽に至った訳です。
そんな「大航海」を経ての最後の寄港地、彩の国さいたま芸術劇場。
そこはまた言うまでもなく、蜷川幸雄シェイクスピア劇の本拠でもあります。
金森さんのこの意欲的な挑戦を誰より喜んだのは、
物思わし気に娘・実花の写真に収まる今は亡き蜷川本人だったかもしれません。
次にご紹介するのは、メモリアルプレートに刻まれた彼の言葉です。
>最後まで、枯れずに、過剰で、
>創造する仕事に冒険的に挑む、
>疾走するジジイであり続けたい。
>Till the end, never wither, beyond limits.
>Take risks in creativity, and stay at top speed.
>So I wish as a man of theater. 蜷川幸雄

さて、『ロミジュリ(複)』です。
前日のブログにも書きましたが、それはとりもなおさず「生々流転」の舞台。
作品自体が、より自然であることを求め、
あたかも生き物ででもあるかのように、自ら呼吸を始め、
それに応えて金森さんが創造の手を休めることなく動かす構図とでも言いましょうか。
もしかしたら、新潟3公演、富山1公演、静岡2公演、埼玉3公演で、
どれひとつとして同じ舞台はなかったのかもしれません。
いえ、きっとそうに違いありません。

それはまた、新しい総合芸術の在り様を模索する営みでもありました。
舞踊(身体)、演劇(台詞)、文字、映像、更には呪術的な炎と、
あらゆるメディアを縦横無尽に駆使することで結実をみる作品です。
例えば、市川崑や庵野秀明が用いる明朝体寄りの文字が得体のしれない不気味さを示すのに対し、
今回、不在の大公を示すゴシック体の文字は、
威圧感たっぷりに抑圧やある種の「通じなさ」といったものを体現していました。
(それと同時に、仮に明朝体を採った場合、
否が応でも『エヴァンゲリオン』を想起させずにはおかないという側面もあった筈です。)

また、映像で看過できないのは、
ロザラインがポットパンを籠絡させて入手した手紙を読む大写しの映像です。
私の記憶する限り、緞帳に投影されるこの映像は2度差し替えられて、
順に次の3通りがあり、それを観る際も全く気が抜けませんでした。
その3つ、①新潟・富山:読み終えてからも、手紙は両手のなかにある。
②静岡:読み終えてから、それを破る。
そしてこの度の③埼玉:読み終えると、それは両手からするりと落ちる。
そのどれを目にしたかで、ロザラインの印象は全く異なるものにならざるを得ないでしょう。

「奈落」の演出に至っては、この日は会場の少なくとも2、3箇所から、
期せずして「あッ!」という驚きの声が上がり、
一番最初に新潟で観た時の感覚を思い起こすことができました。
ツアー中、唯一、静岡公演のみ、ピットが設けられない劇場形状のため、
「奈落」を用いることなく、亡骸が舞台上に留まるかたちで進行していったことも
ここに改めて書き添えておきます。
「その一瞬」の衝撃こそありませんが、逆に、舞台上が血で染まっていくかのような
おどろおどろしさを幻視するように感じたものです。
そしてその静岡公演以降、
冒頭部分が、舞台上を埋め尽くす夥しい死体のイメージで始まるかたちに改められたことも
大きな変更点と言えるでしょう。

(今回の劇的舞踊における斬新さの最たるもの、ロザラインとロレンスに関しては、
また別の場所(次号のサポーターズ会報)で、触れてみたいと考えています。
少し時間はあきますが、その際、こちらと併せてお読みいただけましたら幸いです。)

舞踊の枠組みに収まり切らない過剰さ加減には、
当然、当惑する向きもあるかもしれません。
しかし、作品同様、私たち自身が刷新されていく感覚は
あまり経験したことのない性質のものであり、
それはまさに「冒険」としか言いようのないものだったと思っています。

この日、当面これが最後の機会になると思いながら見つめた第一部の終わり、
舞台中央奥から白く胡乱な金森さんがゆっくり出てくる場面を観ているだけで、
客席にあって、全身を目のようにして見詰める体の、
その胸部から発する動悸が、あたかも出口を求めでもするかのように、
体内を揺さぶり、総身を経巡った果てに、
内耳に、そして外耳に至って、熱く激しい耳鳴りと化し、
同時に頭はのぼせていくような、まるで触知可能な身体感覚に囚われたことも
書き記しておきたいと思います。
気付くと、自然と拍手している自分がいました。

埼玉公演における驚きの最たるものは、
なんといっても、井関さんと金森さんのパドドゥがひとつ増えていたことを措いてありません。
そして、追加されたふたつめのパで、
ふたり(?←片方はアンドロイドだけに。)の立ち位置がより明瞭になる仕掛けでした。

最後の最後、所謂「屋台崩し」のようなボールチェーンの扱いに至っては、
見るたびごとに鳥肌が立つような感覚があり、この日も例外ではありませんでした。
舞台上、大千秋楽の全てが終わりを告げたとき、
渾身の熱演を繰り広げて、観客を魅了し尽くした舞踊家と俳優に対して、
鳴りやまぬ大きな拍手とあちこちから飛び交う「ブラボー!」の声たち、
更にはスタンディングオベーションが贈られたのは至極当然のことに過ぎませんでした。

拍手に応えるカーテンコール。
笑顔で並ぶ実演家たちの横一列。
中央に金森さん、その左隣(私たちから見て右側)に中川さん。
いつとも知れず金森さんの手のなかにあったそれに気付いたのは、
笑顔の金森さんからさりげなく、実にさりげなく、中川さんに向けて差し出され、
中川さんが反射的に、一層、相好を崩して受け取ったそのときでした。
「それ」、最終盤でベッド上から散らばった小道具の白い百合の花。
勿論、本物の花であろう筈もなく、
まき散らされた人工的な小道具のなかから拾い上げられたに過ぎないただの一片が、
ふたりが重ねてきたこれまでの時間を祝福する、
この上なく感動的なアイテムたり得ることを目撃したこの瞬間の感動には、
拙い言葉をどれだけ連ねても迫れないほどに味わい深いものがありました。
今、こうして思い出すだけでも熱いものが込み上げてきます。

意欲作『ロミオとジュリエットたち』が帰結した大きな感動に包まれながらも、
否、それが大きな感動であっただけに、同時に感じる思いにも強いものがあります。
7月に始まったツアーが全て終わってしまったことからくる寂寥感。
そして、中川さんと吉﨑さん、去っていく舞踊家ふたりへの感謝と喪失感。
かように、Noism 15thシーズンのスタートがいつになく寂しさが相半ばするものであったことも
この場では包み隠さずにおきます。
(shin)

『ロミジュリ(複)』埼玉公演2日目、こみ上げる「マジか⁈」

「秋の3連休ウイークその1」がスタートした2018年9月15日(土)、
この日早くからかなりの雨量をもたらした雨雲も去った与野本町の午後5時。
彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉で
『ロミオとジュリエットたち』埼玉公演2日目を観てきました。

この日に至るまでの金森さんのツイートや
前日の公演をご覧になった方々のSNSなどから
色々変更点もあるだろうことは予想していたのですが、
それでもそんな予想を上回る程に、あちこち手が入っていて、
「えっ、マジか⁈」となってしまいました。
特に、作品の根幹に関わる「ある関係性」を
より明確化して前面に押し出した部分など
まさに驚きを禁じ得ませんでした…。

7月の新潟、富山、静岡から、シーズンを跨いで迎えた埼玉3daysも、
いよいよ明日が大千秋楽。
もう1日残っていますし、
明日また変わる部分もあるかもしれませんから、
今は詳しくは書きませんが、
観る都度、刷新される舞台はまさに「生々流転」。
作品から響きだす声に耳を澄まし、
自ずと見えてくる世界に目を凝らし、
常にとどまることを知らず、
理想の舞台を追求してやまない金森さんの飽くことなき姿勢に、
これまでも、そしてこれからも、この人からは片時も目が離せない、
やはりこの人について行こう、
そんな思いがいや増すこととなりました。

シェイクスピアが書いた、年端の行かぬ若者ふたりの
「ボーイミーツガール」的な恋とその後の運命を描いた
あまねく知らぬ者などいようのない周知の枠組みに、
金森さんによる、今日的な問題系を踏まえた重ね書きが施され、
より緻密で重層的に立ち上げられた時空は、
そこにジュリエットが複数いるだけでなく、
恐らくみんなの共通認識のなかの姿より齢を重ね、ある種「拗ね者」と化したロミオがいて、
更に、「自然の力は偉大」としながらもそれに挑まんとする
医師ロレンスとその被造物ロザラインまでが配されることで、
原作にはない、怪しいほの暗さを纏って私たちを魅了します。

7月には唯一無二と承知していた筈なのに、
約2ヶ月の間をおき、大幅な変更を伴い、
装いも新たに、私たちに届けられたこちら埼玉の舞台は、
より一層の熟成、或いは深化を感じさせるものになっていました。

この日は第一部の終わりにも拍手が起こりましたし、終演後送られた拍手は途切れることを知らず、
それに合わせてカーテンコールが何度も繰り返されました。

明日9/16、遂にラストを迎える『ロミジュリ(複)』、
金森さんはそれをどんな作品に纏めあげてくるでしょうか。
大トリの舞台まで、メタモルフォーゼは続くのでしょうか。
もう既に驚く用意はできていますけれど、(笑)
明日を最後にNoismを離れるメンバーもいますし、
様々な思いが胸を去来したりもします。
今は、明日の公演が待ち遠しいような、
でも、明日はまだまだ来て欲しくないような、
そんな落ち着かない気分に包まれている
埼玉の深夜です…。
(shin)

9/14,15,16 ロミジュリ埼玉公演!

9月より、新メンバーを迎え、Noism 15thシーズン始動!
Noismの活動がますます楽しみです♪
https://mobile.twitter.com/NoismPR/status/1036841739212881920/photo/1
http://noism.jp/20180904_15th_start/

そして早速、来週開幕!
Noism1×SPAC『ROMEO&JULIETS』埼玉公演
日時:9月14日(金)19:00 、15日(土)17:00 、16日(日)15:00
会場:彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉
入場料:一般:5,500/U25 3,500円
※15,16日、残席わずか
http://noism.jp/npe/n1_spac_romeo_juliets_saitama/

7月からのロミジュリ各地ツアー公演、埼玉が最終となります。
どうぞお見逃しなく。
ぜひご覧くださいね!

埼玉でお会いしましょう♪

閑話休題:

★9月1日(土)ギャラリー蔵織(新潟市中央区西堀前通1)での
RGB2ライブに金森穣さん、極秘ゲリラ出演!
https://mobile.twitter.com/jokanamori/status/1035832756633128966?p=v

音楽 福島諭&映像 遠藤龍&立体 タンジェントデザイン(高橋悠+高橋香苗)による、第2回RGBライブに行ってきました!
http://www.shimaf.com/photo/20180901_event.html

昨年の第1回も行きましたが、今回は本当に驚きました。
福島諭さん(エレクトリックギター+コンピューター同時処理)の即興演奏×金森穣さん即興舞踊があるとは!
全くのサプライズで、びっくり仰天!!
なんというラッキー!!!
観客はそれほど多くなく、出演者の関係者とかの方が多かったかも(?)

最初、福島さん(コンピューター)と尺八の方の読譜演奏があり、そのあと福島さんが、「次に即興でやります」と言ったので、尺八との即興演奏かなと思っていたら、どこからともなく、いつの間にか、金森さんが現れていて、舞台の端にある椅子に座っているではありませんか!

どうしてここに金森さんが!?
静かにどよめく観客(私の席の周りには金森さんを知っている人たちが3,4人いたので)。

福島さんの、幽かな雨粒の音のような、ギター+コンピューターの演奏が静かに始まります。
椅子に座っている金森さんは瞼を閉じて瞑想しているかのようです。

演奏が進んでいくと、金森さんの指先が微かに動き、指から手、腕、上半身と、徐々に動きが伝わっていきます。
非常にゆっくりと、音楽に導かれるように、やがて椅子から立ち上がり、ある種奇妙な動きで、舞台中央へと移動していきます。

舞台と言っても狭く、壇があるわけでもなく、金森さんが踊るスペースは一畳分あるかどうか。
とてもゆっくりとした、いつもとは違う、しかし緊張感あふれる、金森さんの動き。
目が離せません。

そして音楽の盛り上がりと共に、次第に動きも大きく、激しくなっていきます。
クライマックスへ!

この感動をなんと言葉にすればよいのでしょうか。

やがて、音楽・舞踊とも、徐々に静まっていき、金森さんはゆっくりとした動きで椅子に戻っていきます。

全てが終わり、嵐のような拍手。
時間にして20分程度、金森さんが踊ったのは15分くらいでしょうか。
終演後、金森さんはどこへともなく、風のように去っていきました。

会場には秘密の通路があるようです。

私は福島諭さんの公演にはなるべく行くようにしていますが、こんなことがあるとは思いもよらず、なんとうれしいことでしょう。
即興ライブ、感激、感動しました。
寿命が延びた心地です。

たまたま私の隣席は、音楽ブログ専門ながら、Noism公演の感想ブログも書いてくださっている、いちかっこジョバンニさんで、お互いに感動の嵐!
ジョバンニさんの今回のブログ、ぜひお読みください。
RGB2の全容がわかりますし、私と違って芸術的な表現です。
http://clothoiddiary.blog.fc2.com/blog-entry-1127.html

翌2日、福島さんは岐阜県美術館で「ぎふ未来音楽展2018」のプレコンサート「音響室内楽」に出演。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/wp/wp-content/uploads/2018/08/6d7e5258f6bd0460bb149359d9d24dd5.pdf

あさって9日は「ぎふ未来音楽展2018」のガラ・コンサートに出演して新曲を演奏します。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/1667/

●同じく9日、
7月末のNoism2特別公演「ゾーン」演出振付、元Noism所属の
櫛田祥光さんのダンスカンパニー「Lasta」による公演「火の鳥」
が千葉県流山市民芸術劇場で17:00~18:30、開催されます。
櫛田さんご本人、そして、元Noism2の秋山沙和さんも出演します。
https://danpre.jp/5360/

真下恵ダンスパフォーマンス「dana」
日時:10月20日(土)①13時~②19時~
   10月21日(日)③13時~④15時~
会場:砂丘館ギャラリー(蔵) 新潟市中央区西大畑町5218-1
料金:一般/1,800円 学生/1,200円 
定員:各回20名

*9月19日(水)9:00~予約受付開始
申込:砂丘館TEL & FAX 025-222-2676
E-MAIL SAKYUKAN@BZ03.PLALA.OR.JP

詳細:https://www.sakyukan.jp/2018/08/6951

元Noism1メンバー・バレエミストレスの真下恵さんは、新潟でヨガインストラクター、バレエヨガ・コンテンポラリーダンス講師として活躍しています。
何度かインドに行かれていますが、この夏も行ってこられました。
『dana』とは、お布施とか寄付の意味もあるようですが、「与える give」という言葉のようです。

久しぶりの、真下恵さんの踊り、とても楽しみです♪
この公演は、真下さんのほか、コンテンポラリーダンサーさんたちも数名、出演するようです。

このパフォーマンスとは別に、
●西大畑町・旭町文化施設連携事業
【新潟 竹あかり花あかり】関連イベント
真下恵ダンスパフォーマンス

日時:10月20日(土) 18:00~
会場:砂丘館庭園
参加無料(予約不要・直接会場へお越しください)

というソロパフォーマンスもあるようです。

どうぞお運びくださいね♪
(fullmoon)

満席の『ロミジュリ(複)』静岡 2 Days、Noism1「14th シーズン」を締めくくる

関東地方の気温が摂氏40度に迫ろうかという週末、
2018年7月21日(土)及び22日(日)はまた、
Noism1×SPAC劇的舞踊Vol.4『ROMEO & JULIETS』静岡公演の週末。

舞台形状の都合上、「静岡オリジナル演出」が金森さんから予告されていた「2 Days」。
その二日目、静岡楽日の公演を、急遽、観に行ってきました。
前日に決めたばかりの日帰り弾丸静岡行、SPACの「ホーム」グランシップ。
前の座席の背もたれのてっぺんには通風孔があり、
そこから絶えず涼やかな微風が出ているのですね、静岡芸術劇場。
なるほど、息苦しさを感じずにいられる訳です。

しかし、早めに新潟に戻らねばならない事情があり、
「さわやか」のげんこつハンバーグを食べて、『ロミジュリ(複)』を観たら、
もう後ろ髪を引かれる思いを振り切って、
アーティストトークは聞かずに、
速攻帰らなきゃ(涙)---それがこの日の私。

でも、舞台さえ観られれば、
(+結局、ハンバーグを食べることへの拘りも捨てきれなかったのですけれど、)
との思いで行って参りました。
そして、結局、無事にそのふたつの「ミッション」は完了したのですが、
刺激的なこと請け合いのアーティストトークを聞いていないのですから、
本来、これを書く資格などない訳でしょうが、
そこは「大人の事情」(なのか?)、ご容赦願います。

まだ、9月の埼玉公演が残っているので、
間接的にせよ、過度のネタバレに繋がる要素は回避しながら、
「静岡オリジナル演出」など、この日私が目にしたものを、
今、書ける範囲で書き記したいと思います。

「あの終幕」を変更するとなると、
もう冒頭の「怯え」の演出から変えざるを得なくなる訳ですから、
それはもう「えらいこと」なのでしょうが、
そこは金森さん、最終的に決めたのは静岡入りしてからだったにせよ、
静岡でやるとなった最初の時点で既に織り込み済みだった筈とも。

で、静岡。
もうトップシーンから全く異なっていて、驚きました。
「怯え」の対象、「怯え」をもって見詰める方向が真逆になっていることから、
全員の存在の、その在り方がまるで違って見えてくる印象です。
(苦しいところですが、この点に関して、今はこれ以上書けません。ご容赦を。m(__)m)
そのあとも、随所に細かな変更を伴いながら舞台は進んでいきました。
より「演劇寄り」の雰囲気になっている印象で、
描かれる「死」は、唐突さの印象を薄め、
それを契機に「垂れ込める暗い運命」の禍々しさを濃厚に漂わせていたと思います。
敷き詰められた変わらぬ黒のリノリウムに
鮮血の赤色を幻視する思いがしました。

そしてこれは「ネタバレ」にはならないかと思いますので、書きますが、
井関さん演じる「ロザライン」の映像も差し替えられていて、
「えっ!?」となりました。(汗)

こちら、前日もご覧になったfullmoonさんから教えていただいたところによれば、
この日(7/22)になって初めて目にした、前日(7/21)までとは異なる箇所とのことで、
このあと、9月の埼玉でも踏襲されることになるものだろうと思われます。
アンドロイド「ロザライン」の哀しみや憧れとも言うべきものが
より前景に出てくるようで、切なさが身に染みる表現になったように感じました。

ですから、新潟公演~富山公演~静岡公演初日までをご覧になられた方にとっては、
是が非でも、埼玉の舞台に足を運ぶ必要がありそうです。(笑)

Noismの「14th シーズン」を締めくくるこの日の公演、
二幕が終わり、全篇の終幕に至って、
緞帳がさがり、客電が灯っても、なお、
会場は水を打ったような静寂に包まれていました。
まるで、即座に拍手することなど、野暮で無粋な振舞いだとでも言うかのように…。
漲る万感を一旦胸に収める必要があった、そんな感じで、
一様に客席中に下りてきて張り詰めた静寂。
一瞬あって、みな我に戻ると、今度は、堰を切ったように、
舞台上、横一列に並ぶ舞踊家と俳優に大きな拍手が贈られ、場内に谺しました。

SPACの本拠地で金森さんが仕掛けた「劇的舞踊」、
演劇を見慣れたこの地のお客様の目にはどのように映じたことでしょうか。
もしかすると、終演後のアーティストトークで、
そのあたりが語られていたのかもしれませんが、
そこはご報告できず、申し訳ありません。
どなたか、コメント欄にてお知らせ頂けましたら幸いです。

「アーティストトークも聞きたいけれど、…」
「…ならぬ『逢瀬』をなんとしよう、
なんとしよう…」
断ち切り難い未練を断ち切って、
JR東静岡駅へと向かうべく、
グランシップ出口を目指す私を、
神様が憐れんでくれたのか、
久しぶりにSPAC俳優・奥野晃士さんの姿が目に飛び込んできます。
少しお話をする機会が持てたことで、喜んでいると、
更に、奥野さんからSPAC芸術総監督・宮城聰さんにご紹介をいただき、
初めてご挨拶して、少し言葉を交わすことまでできてしまったという…。
誠に嬉しいハプニングでした。

「行けてよかった」
「案外近いじゃん、静岡」
喜びを胸に、
「このメンバーで踊られる『ロミジュリ(複)』はこれが最後か」
同時に、寂しさも感じつつ、
東海道新幹線、上越新幹線と乗り継いで、
新潟に戻ってきました。

でも、今はもう既に、
ああ、9月の埼玉公演が待ち遠しい。
皆さま、そんな思いですよね。
(shin)