穂の国とよはし芸術劇場PLATへいきました♪(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@穂の国とよはし芸術劇場PLAT)

2020年12月12日(土)、Noism Company Niigata「春の祭典/FratresⅢ」を観に、穂の国とよはし芸術劇場PLATへ行きました。

豊橋駅から見た
「とよはし芸術劇場PLAT」。
駅から専用通路で直結しています。

豊橋は「愛・地球博」の際に乗り換えで駅を利用しただけで、街を訪れるのは初めてです。また、とよはし芸術劇場PLATについては、知り合いがこの劇場の特色でもあるアーティスト・イン・レジデンスで滞在制作活動をしたことがあり、「劇場スタッフが親切で市民とも交流できて良い環境だった」という話を聞いて、いつか来てみたいと思っていました。

豊橋には路面電車(豊橋鉄道)が走っています。

劇場に到着すると、地元の方に混じり、東京や新潟でよくお見かけする方々もいらっしゃいます。また、りゅーとぴあの仁多見支配人もロビーでにこやかに応対されていました。

とよはし芸術劇場PLATの主ホールは客席が傾斜に配置され舞台との距離が近く、舞台の高さがあまり高くない(椅子の座面の高さ程度)のが特徴と思います。それと客席がコンパクトな割に天井が高いです。ダンスや演劇にとても良い環境のように感じました。

当日のタイムスケジュール。

各演目の印象を簡単に述べます。「Adagio Assai」は、照明の効果で、井関さん山田さんの舞踊がより際立ってみえました。8月のプレビュー、9月のサラダ音楽祭と3回目の鑑賞ですが、よくよくみるとお二人の踊りはなかなか噛み合わず(もちろん意図的)、ただ別れのストーリーという受け取りではすまないようです。

「FratresⅢ」は「Adagio Assai」の暗転から続けて上演されました。中央でもがき苦しむ金森さんと、高い緊張状態が伝わる群舞。観る方も緊張感MAXのところで「※」が落ちてきます。これには毎回はっとさせられます。先日観たベジャール「M」の大量の桜吹雪が落ちて散るシーンが蘇り、あの時も同様の衝撃・感動でした。そしてふと思ったのが、サラダ音楽祭での「FratresⅢ」の名演は、都響との共演もさることながら、「※」の演出がない分、通常よりも出し気味にしていたのかな、と。

「春の祭典」は8月のプレビュー公演で観た際は全容が把握できず(いろいろ見落としているのでは)と思いましたが、再び観ることで前より深く感じることができました。数ある「春の祭典」の中でも、生け贄を選ぶ(というか押しつける)過程が陰湿で、いじめ問題のように、弱者をターゲットにすることで自分を守ろうとする希薄な集団性を思います。今回は新メンバーも加わり、この難曲を見事に演じていて素晴らしかったです。(準メンバーの樋浦さんが出演されていなかったのは残念でした。)

終演後は、会場中、大きな拍手でダンサーをたたえます。止まないカーテンコールにこたえ、客席から金森さんが登場しました。金森さんの着ているTシャツの背中にはかわいいイラストが描かれていました!(金森さんと井関さんでしょうか?)

終演後はすっかり暗くなっていました。
駅前にきれいなイルミネーションが!

「集団性」の難しさ、尊さ、危うさ、といったテーマが込められた今回のプレビュー公演。本公演ではどのように変化するのでしょうか(演る方も観る方も)。とても楽しみです。

(かずぼ)

揮発しゆく『春の祭典』(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』プレビュー公演(@りゅーとぴあ)

Noism Company Niigataの作品を見る時、今日的な状況に照応させて観てしまいがちなのは何故だろう。 公共空間でしか目にしないような長い椅子は白く、一人掛けの椅子の連結により作られていた。所在なさそうに、しかしそこに座らねばならないかのように一人、また一人と登場する。のっぺりと塗られた白い顔。纏われた白いシャツの身幅は広く、身体のラインを拾わない。膝上まで素足の身体が正面を向いて一列に座ると、没個性化した衣装ゆえに体格差という個性に目が向く。余剰の布は身体に遅延して皺を形成し、時に照明を半透過させた。

このNoism版『春の祭典』は、音の構造から舞踊を作る実験舞踊であり、ひとりの舞踊家がひとつの楽器を担う。しかし楽器の射影に留まらず、音楽と舞踊の相互作用により空間は充溢していく。図形楽譜という記譜法があるが、さらに三次元に拡張したコレオグラフィックノーテーションとも言うべきであろうか。楽譜は椅子の背の5本の線にも象徴されていた。

椅子は一直線に置かれて境界を成し、またランダムに置かれ、積み上げれられ、檻になり、円陣を形づくった。分断は随所にあり、翳りがちな表情の群衆の畏怖や脅威はざわめき、エコーチェンバー的に増幅していくようだった。奥から射す光に導かれる者、そうでない者。おそるおそる踏み出した者もあった。間断のない収縮と弛緩がなす震え、硬直的な身体、開かれたままの手のひらは不安な情動を接ぎ木したようでもあった。

『春の祭典』
撮影:村井勇

自己省察的表現は抑制的なトーンをもたらし、だが突如として野性的なものにも変容する。変容は不意に訪れ、揮発する。それは我々の裡にもあるものだ。舞踊は時間軸をもった揮発性芸術であり、それゆえいつかの私の感情をなぞるのかもしれない。『春の祭典』は美しさと、現在のアクチュアリティに満ちた刺激的な作品だった。

(のい)

Noismプレビュー公演…そして、創作は続く(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@りゅーとぴあ)

プロジェクト・ベースで才能を呼び集めるかたちでの多くの公演が、「人の移動」に依拠する点において、コロナ禍の停滞に見舞われざるを得ないなか、それとは一線を画し、関係者が全て新潟市民であり、レジデンシャルでの創作を続けてきた点で、いち早く公演を実現させ得たこの度のプレビュー公演。金森さんにしてみれば、本公演を打てないことの無念さもあっただろうが、混迷を極めるなか、届けられた舞台には妥協などといったものは微塵も見て取れはしなかった。これこそが私たちが誇りとするNoismなのだ、そんな思いを抱いたのは私ひとりではなかったろう。

『Adagio Assai』

共振、共鳴、離れて向き合うふたつの身体が作り出す微細な空気の震えに目を凝らす冒頭。その後、別々の方向を向き、仰け反ったアンバー似の姿勢での静止を経て、デュエットに転じるや、醸し出されていく極上の叙情。その一変奏、スクリーン手前の井関さんが山田さんのシルエットと踊る多幸感溢れる場面に、心は引き付けられ、鷲掴みにされる。

『Adagio Assai』
撮影:村井勇

出会い、邂逅も、やがては別れへと。

そう、別れ。先に触れた仰け反った立ち姿では、自然と視線は上方向、それも遠くに向かわざるを得ず、その夢を追うかのような、ここではない何処かを求めるかのような姿勢が既に暗示していた帰結に過ぎない。「繋ぎ止めておくことなど望むべくもない」、最初からそんな予感漂う他者ではなかったか。

背後からその人の腕を追い、身体を抱こうとするも、痛ましくもすり抜ける、腕も身体も。そのさまは切なく美しい。今度は、揺さ振られ、掻き乱される心。そうして立ち去る井関さん、戻らぬ人。

「しかし、その人のことは一緒に踊ったこの身体が覚えている」、山田さんの身体がそんな声にならぬ声を発するのを、私の両目は聞きつけていた、間違いなく。

『FratresIII』

「贅沢だ、贅沢すぎる、どこを見詰めろというのだ」

勿論、金森さんのソロから視線を外すことなど出来ない。しかし群舞は群舞で、その同調性には陶酔に誘われるものがある。

『FratresIII』
撮影:村井勇

そこで、欲しいのは「近代絵画の父」ポール・セザンヌ(1839-1906)が提示したような多視点。しかし実際にはそんなもの望んでも無駄だ、無理なのだ。人の視覚には不向きな作品なのかもしれない。そのあたりをどう言おう、そう、神々しいのだとでも。神の視点から眺められるべき作品なのかもしれない。

光の滝の如く流れ落ち、身体を打ち続けた穀粒、足許に残るその無数の粒に、動く身体が残した軌跡の一様性にも息をのんだ。それは何やら梵字めいていて、そうすると、全体は動く曼荼羅のようでもあったな、また別な印象も湧いてくる。

もしかすると、この時分なら、恐らく、コロナ禍との文脈で見られることも多いのだろうけれど、それは極めて普遍的な性格を有する、多義的な作品であればこそ。

いずれにしても、これを観る者は揃って激しく鼓舞されることになるだろう。

『春の祭典』

休憩時間のうちに緞帳の前に、横一列、隙間なく並べられた椅子は五線紙めいた風情。

腰掛けに来る者はみな、社会を忌避し、拒絶し、常に怯え慄く者たちばかりだ。ほぼ他と目を合わせることも出来ず、隣り合う席に座ることなど嫌で仕方ない者たち。ためらいながら、或いは妥協したり、威嚇したりしながら、座る場所を選ぶさまはおしなべて不機嫌。他者と一緒になど毛頭なりたくはない胸襟を開かぬ楽音たち。

決して収まるべき場所に収まったとは思えない不穏な導入。イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)なのだ。不協和な楽音が形作る変拍子の律動、それが同調性を示してさえ、或いは、示すなら、その陰に、既に常に付き纏う不安や怯え。

不承不承にしろ何にしろ収まった筈の構図も、背後に、やおら、その口を開いた「魔窟」たる場に蹂躙され、無きものとされてしまう、易々と。

『春の祭典』
撮影:村井勇

やがて、「魔窟」がその本性を現し、魅入られたように足を踏み入れる楽音たちを絡め取っていく。その場の磁場に煽られて、身体内部に酷薄な獣性を目覚めさせる楽音たち。生じる同調圧力と暴力、或いは、お定まりの排除と生け贄。

その様子を観ているうち、想起された名前はトマス・ホッブス(1588-1679)。彼が人間の自然状態とみた「万人は万人に対して狼」「万人の万人に対する闘争」への逆行・遡行。

2020年の今、目撃しているのはまさにそれでしかなく、ここ新潟で、ストラヴィンスキーの楽音を介して、現代社会が内包する「病」に向けられた金森さんの今日的な視線が、幾世紀も隔てた古典的な知と極めて自然に合流することにハッとさせられたが、そんな途方もない結びつきと戯れる醍醐味は格別だった。

しかし、即座にこうも思ったものだ。今回、金森さんが使用したピエール・ブーレーズ(1925-2016)+クリーヴランド管弦楽団による『春の祭典』(1969年録音)を更に聴き込んで来年の本公演に備えなきゃ、と。インスピレーションの源泉に沈潜すること。

何しろ、相手は金森さんである。時間の限り、創作は続くのだろうし、これが最終形である訳がないことだけははっきりしている。 (2020/9/3)

(shin)

2020年8月 プレビュー公演を観て(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@りゅーとぴあ)

「えっ?これって本番じゃ…?」と驚いた感動の公開リハ。いい体験をしました。支援会員でないと参加できません。なっててよかった! まだ会員になっていない方、お得ですよ。いいもの観れますよ。ぜひどうぞ。

それから2ヶ月。待ちに待ったプレ公演。来年は本公演もあるからお楽しみはこれからだ。

今回はブラボー禁止令が出ていたのでスタンディングオベーションで力一杯の拍手を。 では、思いつくまま感じたままに。

『Adagio Assai 』:  動かなければ何も始まらない。満を持して片方がほんのちょっとだけ動くと、間の空気が動きもう片方が呼応する。気功をする両手の様な二人。 静止映像。スナップ写真。うつされた瞬間に過去のものとなる。時は進む。

「人は一人一人各々の川を持っている。普段は別々に流れているが、何かの加減で合流することがある。しかし流れの質、速さなどが違う為にまた離れて行く。一瞬でも合えば “縁”。」

その瞬間は真実だったのだ。

『Fratres III』:  暗いトンネルの向こうから現れる孤高の修行者。まさに真のソリスト。指導者でもアンサンブル(群舞)を率いるリーダーでもなく。 とはいえ、抜きん出てストイックに自らを律する。痛めつける。 修行の滝(またはもっと痛いもの)に打たれる時も衣服で防御せず生身で受ける。矜持。背中で教える、みたいな存在。

『春の祭典』:  ダンサーが各々違う楽器の旋律を担当。椅子の背もたれのデザインは五線。というのはリハを観た後で知った。その時はただただ「ベジャールも良いけど金森版よ〜く出来てるわ!」と思った。 楽譜の音を拾いながら振り付けしたといいますが、前知識が何にもなかったとしたら、「先に踊りがあってそれに合わせてストラヴィンスキーと言う人が作曲したんだとさ。」を信じる人がいるかもしれない。 実際、プティパの振り付けした白鳥の湖に合わせてチャイコフスキーが作曲したらしい。

『NINA』の生きてる椅子の作者の五線椅子、一個欲しいです。バリケードになったり柵や檻になったり大活躍でしたが、そこで思い当たった。 楽譜って、作曲者やアレンジャーが忘れないように書き留めておくもの。第三者が見ても分かるようにしておく記録。しかし音符にしてみれば線に串刺しにされてるか挟まれてるかである。身動きが取れない。本当は自由に動きたいのに。 そこで演奏者(今回はダンサー)の出番。秩序は保ちながらも音を楽しく遊ばせてやる。檻から解放する。

こう思い当たると楽譜の見方が変わった。高校の時ピアノの先生に言われるがままにやった曲を久しぶりに弾いてみた。もっともっと気楽に弾ける気がした。(要猛練習)

衣裳も良かったです。シャツのボタンをどこまで止めるかでキャラ、属性が変わる。全止めすれば丸っこくて女性または中性。外すと開衿で首元が鋭角になり男性的。これも良く出来てる〜。

今回の三作品のキーワードは“距離感”かもしれない。この時代に生きていればイヤでも意識せざるを得ない事。

音たちも距離を取ろうと病的に振舞っていたが、ズカズカ踏み込んでくる者がいたりして不協和音が生じる。音同士の距離が近いほど緊張感のある音になる。

しかし、そうならない事にはストーリーが動かないのだ。

まだまだ思い当たることは出てくると思われますが、こんなにみせていただいて、まだプレですよ!さらに進化、熟成するであろう本公演、楽しみです! その前に一月の公演もあるけど。 (2020/8/30)

(たーしゃ)

本日(9/19)の新潟日報朝刊「窓」欄に拙文を掲載していただきました♪

先月末、かれこれ3週間前に地元の新潟日報紙「窓」欄に宛てた投書が、本日(2020年9月19日)の朝刊に掲載されました。下に載せますので、まずはお読みください。

2020/9/19新潟日報朝刊「窓」欄より

「投稿後、3週間」というのが掲載されるリミットのようですから、今回の投稿は「ボツ」なのだと思っていたところ、ギリギリ滑り込みで、6度目の掲載。新潟日報さん、どうも有難うございました。m(_ _)m

タイトルの変更と文章の整理を施していただいたうえでの、ギリギリの掲載は、採用されたタイトルが何やら中高生っぽくて赤面したくなる気も致しますが、「最高」は「最高」なんだから仕方ありませんね。そして、「最高」の2文字が持つ日報購読層への訴求力は小さくないのでしょうし。でも、そうなら、更にもう一歩踏み込んで「サイコーかよ」とでも表記して貰いたかった気も致します。(笑)

Noismの今回の公演のクオリティ、そしてそれを実現にこぎつけた関係者の方々の努力、それら全てが「サイコー」で、それら全てが「私たちの未来(新しい日常)を作っていく」、そう感じた次第でした。「未来とは、今である」とは、さる米国の人文学者(マーガレット・ミード(1901~1978))が語ったとされる言葉です。その意味で、「未来」に繋がる「今」を目撃した気持ちを込めて書いた文章でした。

追記: 平田オリザさんと金森さんの「柳都会」(2016/4/23/)につきましては、こちらにレポートをアップしてございます。そして、今回の投書で引いた元の発言は、「芸術そのものの役割」中の「被災時の『自粛』の風潮を巡って」語られたなかでお読みいただけます。気の利かない記事ですが、ご参照ください。

(shin)

本夕、BSNテレビ「ゆうなび」にて「サラダ音楽祭」が♪

新潟県内の皆さま、朗報です。本日の夕方(18:15~)のBSNテレビ「ゆうなび」のなかで、過日、同局クルーが同行取材されたサラダ音楽祭の様子がオンエアされるそうです。必見、必録ですね。

ワクワクものですね。で、放送後、同番組をご覧になられたご感想などもお寄せ頂けましたら幸いです。(以下、Noism Company Niigata のtwitterからの転載です。)

これを書いている今、時刻は朝の8時を回ったところ。あと10時間が待ち遠しい!BSNさんには、出来るだけ「尺」をとって頂きたいと思いますが、とりあえず、楽しみでしかありませんね。皆さま、どうぞお見逃しなく♪

*追記*  同特集の内容につきましては、下のコメント欄にて若干ご紹介させて貰いました。どうぞ、コメント欄にお進み頂き、併せてお読みください。

(shin)

プレビュー公演楽日(2日目)、練度の高い実演に言葉を失う

2020年8月28日(金)の新潟市は、前日ほどではないにせよ、予報通り、極めて高温多湿。しかしこう何日も続くともう「暑い」などと口走る行為がいかにも陳腐な同語反復に過ぎず、限りなく慎みを欠いた、はしたない振る舞いに思えてしまうような、そんな一日だったとも言えます。

暑さを云々するより、どこまでいっても「これでよし」ということのない、文字通り、神経をすり減らすようなコロナ対応を求められながら、それでもこうしてプレビュー公演を実現してくれた方々に心からの感謝と敬意を捧げたいと思うものです。来年夏に延期された本公演への通過点としてのプレビュー公演を2日続けて観たのですが、この日(楽日)の練度の高さは尋常ではありませんでした。前日は気迫漲る舞踊に大変感動したのですけれど、謂わば、それは力ずくで圧倒され、蹂躙された感じの力業だったのに対して、この日見詰めたパフォーマンスは、気持ちが籠もったという点では同じにしても、より繊細さを増し、無理なく染み込んでくる感じの迫力に満ちたもので、一口に「感動した」と言っても、その肌合いを異にしていたように思います。

やはり定刻を3分ほど過ぎた18:03頃、緞帳は上がり、『Adagio Assai』の幕開けです。やや距離を置いた位置にあって、共振し、共鳴するふたつの身体、井関さんと山田さん。その距離を詰めていき、絡み合って踊られるデュエット。しかしそこから山田さんが抜け出すと、スクリーンの裏側へと駆けていき、こちら側に取り残された井関さんがシルエットとなった山田さんと踊る場面の叙情は到底書き表せるものではありません。この小品の大きな見所と言って差し支えないでしょう。その後、スクリーン手前に戻ってきた山田さんとの再びのデュエットから、今度歩み去って行くのは井関さんの方。残された山田さんですが、その身体が井関さんを覚えている…、そんな具合に余韻をたっぷり残しながら閉じられていきました。

舞台上手方向にゆっくり消えていく山田さんと入れ替わるように、中央奥からゆっくりと歩み出てくる姿こそ、金森さん。しなやかであるとともに、強靱で美しい筋肉にも目を奪われるでしょう。そして、金森さんがソロを踊り始めてから、ややあって、舞台奥から11人がこれまたゆっくり姿を現すと、全員で一糸乱れぬ群舞を展開し、金森さんのソロに厚みが加えられていく、『FratresIII』です。前日、どこを観るかでせわしなく視線を移した反省から、この日は中央の金森さんに視線をロックオンして、後景の11人をアウト・オブ・フォーカスで見ることを選択。これ、何という贅沢でしょう。加えて、知っていながらも毎度、「アレ」の場面ではハッとさせられたりもして、激しい動悸とともに、この神々しい作品を心ゆくまで堪能しました。

休憩になり、知り合いと一緒になる機会があっても、お互い、「良かったですね」とか「凄かったですね」とか、口から出てくる言葉は、どれも言っても言わなくても良いようなものばかり。それくらい「良かった」「凄かった」ってことなのですけれど、何とも情けない話です。(汗)言葉を紡ぎ出すには熟成期間を要する、それがNoismの舞台だったりする訳です。

休憩後の40分は『春の祭典』、前のふたつも含めて、3つとも全く肌合いが違う作品であることも驚くべきことです。全部、ひとりの演出振付家の手になるものなのですから。そして後半に置かれた、この実験舞踊、圧倒的な推進力をもって展開していき、手もなく、感情の昂ぶりにまで連れ去られてしまう訳なのですが、光やら、椅子の白と赤やら、白シャツの襟やら、はたまた昇降する装置や幕などといった無数の細部が読み解かれることを待っていて、例えば、数学の図形の証明のように、適切な「補助線」を引くことが必要なのかもしれませんね。本公演は来年夏なので、まだまだ回数を重ねて観たいと強く思う次第です。まあ、観ながら身中で味わう高揚感が本物なのですから、それ以上、何を望む必要もない訳なのですけれど。

終演後、客席のほぼどのブロックにも例外なく、スタンディングオベーションをもって、感動を伝えようとする観客がいて、その数の多さは目撃したこの目の奥に刻まれています。横一列に並ぶ白の舞踊家たちに黒の金森さんが加わったとき、場内の興奮と拍手は最高潮に達したと言いましょう。

そして、拍手が途切れることなく響くなか、金森さんから退団するメンバーに花が手渡されていきました。まず、Noism2の長澤さん、森さん、そして橋本さんの3人に花一輪ずつが渡され、ついで、Noism1のタイロンさんと池ヶ谷さんにブーケが贈られたのですが、その際に金森さんから頭を抱えられたのは池ヶ谷さん。その後、タイロンさんも井関さんに頭を抱きかかえられていました。どれも寂しいけれど、良い光景でしたね。皆さんのご健康とご活躍をお祈り致します。

ところで、明日の夜(正確には今夜)は、穣さんと佐和子さんによるインスタライブが告知されています。今回、開催されなかったアフタートーク的な内容のものが楽しめる様子。どんなことが語られるでしょうか。大いに興味を掻き立てられますよね。

そして来年夏、新加入のメンバーが加わって本公演として踊られるとき、どんな舞台が届けられるのでしょうか。その際、また新しいNoismに出会えることを楽しみにしたいと思います。

(shin)

猛暑日の新潟市で『春の祭典』/『FratresIII』プレビュー公演初日

2020年8月27日(木)の新潟市は気温が37℃を上回る体温超えで酷暑の「猛暑日」。

立秋はおろか、暑さも収まるという処暑さえ過ぎて、暦上は立派な「秋」である筈なのに、フェーン現象のため、猛烈な暑さに見舞われた新潟市のりゅーとぴあまで、Noism版の『春の祭典』や厳しい冬のイメージ漂う『FratresIII』を観に来るなど、季節は一体どうなっているのか、と眩暈を禁じ得なかったりもした訳ですが、そもそも劇場は非日常の空間ですし、そこで春だ、冬だと言われてしまえば、それぞれ前後左右を一席ずつ空けて、市松模様状態に割り振られた席に身を沈めた者たちはみな、さっきまでの暑さなどすっかり忘れて、季節不明の異空間に身を置く自分を見出すことになったような成り行きの筈です。

緞帳があがった19:03頃。客電も落ちきらぬままといった明かりの具合から、それと気付かぬまま、日常と地続きに見える非日常へと導き入れられてしまう私たち。その目に飛び込んでくるのは、舞台下手に立つ井関さん、向かい合って立つ山田勇気さんは上手側。真横から見るふたり、まずは不動。そこから「非常にゆるやか」に動き出したかと思えば、ぐんぐん加速して腕を振り回します。同時上演の『Adagio Assai』から公演は始まりました。時折、舞台後方に映し出される静止画像が、ふたつの身体の静止振りや速度を際立たせるなか、踊られる切ないデュエットに瞬きも忘れて見入る私たち。陶然たる時、恍惚の境地。

一段落し、微かに風の音が聞こえてくると、緞帳は下りず、今度は冬枯れを思わす暗めの照明のなか、『FratresIII』へと移行していきます。「I足すIIがIIIです」という金森さんの言葉通りの『FratresIII』。金森さんが手前中央でソロを踊り、その背後、舞台狭しと11人が群舞を踊ります。ソロと群舞が極めて高いレベルで拮抗するなか、ほぼ今回がラストとなる舞踊家も観たいし、勿論、金森さんも観たい。では一体どこを観れば良いというのか。私は心底迷いながら、絶えず目を動かして眺めていたように思います。公開リハーサル時にはなかった「アレ」も加わり、腹にズシンと響く超重量級の作品に仕上がっていました。

休憩時間のホワイエには、もう既に思いっきり魂を揺すぶられ、上気した者たちばかりが目につきました。まだ、後半が残っているというのに、です。恐るべきパフォーマンスに、気温とはまったく別物の、興奮で熱した空気が漂っているように感じられました。

休憩が終わると、『春の祭典』です。壇上には、いつの間にかキチンと並べられた椅子があり、その背もたれ、連続した細い横五本のラインは五線譜のようでもあります。白塗りの顔、白シャツとそこから生え出たかのような2本の素足。虚ろな表情を浮かべた21人の現代人が自分の座る場所を選ぶところから始まります。他人を必要以上に意識しながらも、一切の関わりを避け、心を閉ざしていたい者ばかりです。そんな彼ら、見えない舞台の外部に対して揃って不安を抱き、恐れ慄いていた筈が、いつしか理性の対極に位置するかのような、心を掻き乱す不穏なリズムと不協和音に満ちたポリフォニーに煽られて、内側の暴力性を目覚めさせていきます。その変容のさまを、白シャツを汗まみれにするだけでは足りずに、汗の飛沫を飛び散らせながら、有無を言わせぬド迫力で、可視化していく舞踊家たち。頭をガツンと殴られでもしたかのように感じる作品と言っておきましょう。

こんな物凄い芸術があってくれて良かった。それもこんな時期に、ここ新潟に。どうしても観に来られなかった人がいて、躊躇った末に観ることを諦めた人がいるなか、今、これを観られることの僥倖を噛み締めた一夜でした。と同時に、何か後ろめたいような思いもあって、心の中では、この先、芸術を求める者は誰でも、安心して、その求める芸術によって心が満たされる、当然と言えば当然でしかない、そんな日常が一日も早く戻って来ることを願いました。

(shin)

Noism2定期公演vol.11楽日の余韻に浸る♪

2020年7月12日の新潟市は、時折、晴れ間が覗く曇天で、雨は小休止。湿度も低めで、案外過ごしやすい日曜日でした。昨日のソワレに続いて、この日が楽日のNoism2定期公演vol.11を観に行ってきました。

私は全4公演のうち、後半の2回を観たのですが、運良く、ダブルキャストの両方を観ることが出来ました。

『ホフマン物語』の「妻」役が前日ソワレの長澤さんから、この日は杉野さんに。

『人形の家』の「みゆき」役も、中村さんから橋本さんに、「黒衣」も坪田さんから中村さんに変わっていました。

それぞれの持ち味の違いが感じられて、嬉しかったです。

そのふたつ、回数を重ねることで、前日よりも滑らかな印象に映りました。

そして、暗転後、『Mirroring Memories』の場面転換の音楽が聞こえてきて、扇情的な「赤」の『NINA』に突入していきます。前日に観て、わかってはいても、ドキドキ鳥肌がたつ感じが襲ってきました。「これでラストだから、もう、むちゃむちゃやったれ!」みたいな気持ちで踊り切ろうという空気が感じられ、観ているこちらとしても、「頑張れ!頑張れ!」と心の中で声援を送りながら見詰めていました。そんな人、多かったと見えて、暗転後、絶妙なタイミングで思いを乗せた拍手が贈られることになりました。

15分の休憩を挟んで、山田さんの『黒い象/Black Elephant』。その「黒さ」が支配する45分間です。

自らの身体を隅々まで隈なく触れて、自己を認識することから始めて、他者或いは取り巻く世界を認識しようとする冒頭。そこからして既に断絶が待ち受けている気配が濃厚に漂います。

“Products”… ”cutting: a girl”…”少女”… ”cutting: three opinions”…”三つの言い分”… ”gossip”… ”in the dark”… ”Nobody”… ”in memory of”…、時折、暗示的な言葉が投影されるなか、いつ果てるともない音楽『On Time Out of Time』が立ち上げる、「現(うつつ)」の世界とは異質な時空で8人によるダンスは進行していきますが、焦点は容易には結ばれません。

象徴的な銀色の円柱と途中に一度挿入され、一瞬軽やかな雰囲気を連れてくる映画『Elephant Man』(ここにも象が!)からの音楽(『Pantomime』)とに、『2001年宇宙の旅』におけるモノリスとヨハン・シュトラウス『美しく青きドナウ』を連想したのは私だけでしょうか。

「そして私が知っているのは真実のほんの一部分だということにも気がつきませんでした」の台詞、そして叫び声。認識の限界或いは「不可知論」を思わせるような断片が続きますが、最後、リトアニアの賛美歌が小さく流れ出すなか、ひとり、取り出した「白い本(タブララサか?)」を円柱に立てかけると、一向に焦点を結ぶことのなかった認識の象徴とも呼ぶべき「黒い本」を愛おしむように抱きしめてじっとうずくまる人物…。暗転。

あらゆる認識もすべからく全体像に迫ることに躓き、その意味では、自分の視座からの解釈しか行い得ないというのに、認識すること/認識されることから逃れられない業を抱える私たちを慰撫するかのような優しさで締め括られるように感じました。

終演後、途切れることなく続く拍手。客電が点るまで、何度もカーテンコールが繰り返されるうちに、8人の表情が和らいでいったことをここに記しておきたいと思います。皆さん、本当にお疲れ様でした。

さて、次にNoismを目にする機会は、来月の「プレビュー公演」2 days♪ チケットは絶賛発売中です。お早めにお求めください。大きな感動が待つ舞台をどうぞお見逃しなく!

(shin)