『ROMEO & JULIETS』、世界に誇るべき新バージョンの誕生

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第35号(2019年1月)

新潟市の公共劇場りゅーとぴあの専属舞踊団Noism1が『ROMEO & JULIETS』を上演した。この振付を担当した金森穣は、最近のコンテンポラリー作品が複雑な動きの連鎖にこだわり過ぎ、「物語」を劇的に語るおもしろさから離れる傾向にあることを懸念したようだ。観客が難しいステップの成り行きなどを気にかけずに、舞台展開を気楽に楽しめるようにと「劇的舞踊」を企図した。そして2010年の『ホフマン物語』を皮切りに、2014年の『カルメン』、2016年の『ラ・バヤデール―幻の国』を順次発表して大きな反響を得た。その第4弾が『ROMEO & JULIETS』なのだ。これはシェイクスピアの書いた悲劇「ロミオとジュリエット」の舞踊化のはずだが、タイトルをよく見るとジュリエットが複数表示になっている。

 バレエ・ファンにはおなじみの、プロコフィエフ作曲の序曲が流れ、幕が開いた。シェイクスピアの書いた冒頭の台詞(日本語訳)が朗々と語られ、その主要部分はスクリーンに文字となって映し出された。ダンサーたちが現れると、その衣裳が長めの白衣であることに気付く。これは病院の眺めではないか。と思ううちにロミオ(武石守正)が車椅子に乗って登場。ジュリエットは複数の女性患者が……。舞台には、半透明のガラスをはめた縦長の衝立がいくつも並び、それをてきぎ移動させることで場面が変った。これは、白い壁とガラスの障壁で仕切られた病院の普通の眺めだった。冒頭でシェイクスピアの言葉を示したスクリーンには、舞台上のあちこちの様子がランダムに映され、病院内の監視モニターのように見えた。

 両家の壮絶な対決シーンが始まり、観客はあっという間にシェイクスピアの世界に引き込まれた。ジュリエット役の浅海侑加、鳥羽絢美、西岡ひなの、井本星那、池ヶ谷奏の5人がさまざまな現れ方で場面に関わった。キャピュレット家の婚約披露の宴会での、ロミオとジュリエットの出会いは、群舞の中にパリス(三島景太)とジュリエットの位置を微妙にずらした踊りを設定し、ロミオとの偶然の触れ合いの機会をこしらえた。バルコニー・シーンはジュリエットの映像を、高い位置のスクリーンに映して二人の位置関係を示しつつ、愛が急速に深まる様子をたっぷりと描いた。さらに、ティボルト(中川賢)とマキューシオ(チャン・シャンユー)の決闘シーン、それに続くティボルトとロミオの死闘が、スリリングに設定され、観客はそれらが病院の中の患者同士の出来事であることを、しばし忘れた。

 後半冒頭に金森の長いソロがあった。金森は病院の医師で患者全体をコントロールする立場にある。物語の上ではロレンスの役を演じてジュリエットに秘薬を与えるので、このソロには彼が全体を仕切る張本人であることを示す意味があったかもしれない。井関佐和子は、ロザラインと看護師の2役を演じてひんぱんに物語の流れに関わり、ダンスの見せ場をはなやかに盛り立てた。最後の墓場のシーンでは、舞台中央のベッドに誰かが横たわっている。そこへロミオが現れて二人の死の場面となる。どうやら先に横たわっていたのは井関が演ずるロザライン(または看護師)だったらしい。それを見た観客サイドは、シェイクスピアの元のストーリーを思い出して両家の和解を想像するなど、つい先を急ぎがちだ。しかしよく考えてみると、ここにロザラインが登場するのは「異常」ではないか。井関の演ずる看護師が、前の場面でアンドロイド風の動きをしていたことなどを思い返すうちに、これはシェイクスピアの芝居の最終シーンではなく、どうやら病院の一風景らしいと気付く。舞台には患者たちの何気ない日常がもどっていた。

 プロコフィエフの音楽でラブロフスキーやクランコらが振付けた「ロミオとジュリエット」が、シェイクスピアの原作を忠実に再現したものであることを我々は知っている。病院の中という状況設定以外は、展開のポイントをまったく変えることなく、金森も自分の『ROMEO & JULIETS』を作った。彼の「劇的舞踊」は、観客の心の中にあるシェイクスピア原作の記憶を刺激して、別に設定した状況に同化させ、そこに新しいダンスの場面をふんだんに織り込むことで成り立つ「舞踊作品」だった。

 病院という閉ざされた世界で、名作バレエのストーリーを再現した例としては、マッツ・エック振付の精神病院内の『ジゼル』(1982年作)がある。金森の『ROMEO & JULIETS』は、無理のないストーリー展開、要所に置かれたダンスのおもしろさ、音楽、舞台美術の的確な運用などを備えており、まさに劇的な出来栄え。世界に誇るべき病院版『ロミオとジュリエット』の誕生だった。

(2018年9月14日/彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

Noism《15周年記念公演》で『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』 『Fratres I』を見る

山野博大(舞踊評論家)

Noismの《15周年記念公演》が、『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』と『Fratres I』の2作品により行われた。どちらも金森穣の振付だ。

『Mirroring Memories』は、昨年4月《上野の森バレエホリデイ2018》Noism1 特別公演で初演したものの再演。初演の会場は、東京文化会館小ホールだったが、今回はりゅーとぴあに続き、東京のめぐろパーシモンホールという開放感を伴う明るい感じの空間での上演だった。 私は「めぐろ」公演を見た。天井の高い石造りの荘重な雰囲気を漂わせた上野から移ったことで、舞台の印象が大きく変わった。ドアーサイズの鏡12枚(上野では10枚だった)を横に並べ、その半透明の鏡の前と後にあるものを同時に見せる仕掛の中で、彼がこれまでに作ったさまざまな物語舞踊の見せ場を次々と並べた。全体の流れは初演とだいたい同じだったが、観客が客席から鏡の列を眺める角度の違い、鏡の前に広がる空間の大きさなどが「めぐろ」の観客をよりいっそう作品の奥へと引き込むことになった。

微妙な角度で並べられた鏡のひとつひとつに、その前で踊る者の後姿が少しずつ違って映る。ソロであっても、その背後に12人分の動きが出現する光景は、見る者にある種の快感をもたらす。そのような空間での冒頭の金森穣のソロは、ローザンヌのベジャールのアトリエで、彼が振付を習った当時を振り返るシーン。金森は、師の舞踊劇創作の手法を独自に発展させて、作品を創り続けてきたのであり、その初心を改めて観客に示したのだ。金森のしっかりと体幹を鍛えた肉体から送り出される舞踊表現は、ベジャールへの想いをストレートに伝えるものだった。

『Mirroring Memories』は、彼がこれまでに作ってきた作品のハイライトシーンをいろいろと並べて見せたものであり、前に見た時とほぼ同様の進行だった。しかし個々の場面の印象はかなり変わっていた。再演の舞台を見る観客には、その作品に対する「慣れ」が働き、理解度が増す。作品は再演されるごとに、作者と観客との距離感を縮めて行く。今回はその「慣れ」に劇場の構造の違い、そしてNoism全体の努力の積み重ねが加わったことで、金森舞踊の核心がよりいっそう明らかになった。

やはり「慣れ」の効果は大きい。再演を見る観客はより深く場面に入り込んで、その踊りのひとつひとつをゆっくりと楽しむことができるようになる。しかし今回は、それ以上にダンサーひとりひとりが振付をしっかりと理解して、作品とみごとに一体化したところが、初演との大きな違いだった。『マッチ売りの話』の中でマッチを次々と点火させながら息絶えたかのような娘を前にした金森穣と井関佐和子の踊りの、大きく全体を包み込んだ感動的な愛情表現をはじめ、その他の場面でも個々のダンサーの肉体の動きがより強く心に沁み入る瞬間が多かった。

『Fratres I』は、アルヴォ・ペルトの音楽による15人の群舞作品だった。「Fratres」は、ラテン語で親族、兄弟、同士を意味する言葉だそうだが、人と人の関係が薄くなり、引きこもりが多くなったり、いじめで死を選ぶ子どもが後をたたない今日この頃、現代の日本人には、心に重くのしかかるタイトルだ。それに対して金森は、全員が感情を交えずに同じ動きをこなす連鎖を見せ、その後に個々のダンサーに天井からとつぜん白い紛(※)のシャワーを浴びせかけるという思いがけない舞台を作り上げた。

『Mirroring Memories』は、その中に並べた物語舞踊のひとつひとつに、それぞれ長い時間をかけてきた内容いっぱいの名作カタログだった。それに対して新作の『Fratres I』は、全員が同じ動きに従うことの多い、単刀直入の群舞。両作品の感触の違いは明らかで、最後をさらりと切り上げた組合せの妙が快かった。長く続く盛大な拍手の裡に、Noism《15周年記念公演》の幕が降りたことが、その何よりの証しだった。金森穣という逸材を選び出し、15年という時間をかけて、これだけ高度な舞踊芸術を世に送り出した新潟市の、多大なる貢献に感謝しなければならない。

(2019年7月27日所見)

※ くず米と確認

東京文化会館小ホールに登場したNoism

Noism1特別公演:『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』 〈上野の森バレエホリデイ2018〉(2018/04/28~30)

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第34号(2018年7月)

 東京で本格的なバレエ公演が行われるところとしては、上野公園にある東京文化会館の大ホールが広く知られている。その正面入り口の左手の緩やかなスロープを登ったところにあるコンサート用の小ホールが舞踊のために使われることは最近ではほとんどない。しかしここは天井の高い石造りの荘重な雰囲気を漂わせた空間であり、かつてはときどき舞踊にも使われていたのだ。その小ホールに、会館主催の《上野の森バレエホリデイ2018》の特別公演として新潟市の公共ホールりゅーとぴあの専属舞踊団 Noism1 が登場した。そして金森穣の新作『Mirroring Memories -それは尊き光のごとく』を上演した。ドアーサイズの鏡10枚を横に並べた舞台がひろがっていた。鏡は半透明でその後ろにあるものに光が当たると、前と後ろが同時に見える仕掛だ。鏡をいろいろに並べ替えて舞台を作った。

 金森のソロから始まった。シェイクスピアの芝居などで開幕に役者が登場し口上を述べる場面を思い出した。しかしこれは、エコール=アトリエ・ルードラ・ベジャール・ローザンヌで、彼が振付を習った当時の初心を振り返るシーンだった。金森は、師の舞踊劇創作の手法を彼の方法で踏襲し、作品を創り続けてきた。ここでは、2008年の『人形の家』より「彼と彼女」、09年の『黒衣の僧』より「病んだ医者と貞操な娼婦」、10年の『ホフマン物語』より「アントニアの病」、11年の『Psychic 3.11』より「Contrapunctus」、12年の『Nameless Voice』より「シーン9-家族」、14年の『カルメン』より「ミカエラの孤独」、15年の『ASU』より「生贄」、16年の『ラ・バヤデール-幻の国』より「ミランの幻影」、13年の『ZAZA』より「群れ」、17年の『マッチ売りの話』より「拭えぬ原罪」のハイライトを次々に披露した。

 黒衣(くろご)とか、後見(こうけん)と呼ばれる舞台で演技者を助ける役割の者が、日本の能、歌舞伎、日本舞踊などの世界には存在する。彼らは着物の肌脱ぎの手伝い、早替わりの糸の引き抜き、小道具その他の受け渡し、不要となったものの取り片付け、役者の座る椅子の調整などを行っているが、もともとは演技者が舞台を続けられなくなった時に、即座に代わることを主な役割とする人たちだった。客席にいる将軍などの要人に対して、舞台の中断があってはならないという配慮から用意されたと言われている。

 その黒衣が金森の作品にはしばしば登場して重要な役割を担ってきた。後見は着物姿だが、黒衣は黒装束に黒頭巾。日本の古典芸能の世界では、どちらも観客には見えていないことを約束事として舞台は進行する。ところが金森の使う黒衣は、黒の装束は同じでも、その役割はずっと重い。ドラマの進行そのものが黒衣のコントロール下にあるような感じを受ける場面もあるほどだ。主役同士の互いの意志だけで世の中の諸事が進むわけではなく、何かより大きな力によって思いがけない結末に転じて行くのが現実だ。そのようなところで、彼らの存在が際立つ。『Mirroring Memories』を見て、私はその感をいっそう深くした。

 最後は金森と井関佐和子のデュエットだった。女性ひとりを舞台中央に残して彼らは鏡の背後に…。鏡のそれぞれには、それまで彼の作品を踊っていたダンサーたちがすでに並んでいた。その眺めは、役者の絵看板を並べた芝居小屋の風景であり、人気俳優のブロマイドを並べたような感じでもあった。彼は、日本の舞台芸能独特の黒衣を有効に活用する手法も加味して、師匠のベジャールに倣い舞踊劇を作り続けてきた。ここで上演された『Mirroring Memories』では、ハイライトを並べたことにより、彼の手法がより明確になった。 

 私は、彼が選んだ作品のすべてを見ていなかったし、そのハイライト部分がオリジナルのどのあたりだったかを明確に特定できないこともあった。また舞踊作家自身が自身の過去の作品を再演すると、どうしても今の自分を抑えきれず、オリジナルから離れるものだ。そんなこともあって、次々に手際よく展開された上野文化会館小ホールでのダンスの奔流を、私は彼の最新作という印象で見せてもらった。

「私がダンスを始めた頃」⑪ 西澤真耶

私が舞踊の世界に入るきっかけとなったのは4歳の時の出来事です。ある日突然、友達から「一緒にバレエやらない?」と誘われて、「うん、やる!」と二つ返事で答えたのがはじまりです。

バレエなんて見たこともなければ聞いたこともなく、何も知らないまま、近所の文化センターで開かれている講座の1つ『子供バレエ教室』に友達と応募しました。しかし応募人数が多かった為に抽選になってしまい、そこで私だけが入ることに。

バレエについての情報が何もないまま教室の扉を開けたのですが、身体が硬くて、音痴で、振り覚えの悪い私にはとても辛く、すぐにでも辞めたいと思っていました。ですが、負けず嫌いの私は自分に出来ないことがあるのが気に入らなくて、誰にも見られないところで自主練をしていたのです。(家族にも見られないように隠れていました。)

練習の甲斐があり徐々にできるものが増えてくると、バレエの先生はすぐに気づいて褒めて下さるので、それが嬉しくて、バレエは辞めずに続けてこられました。

小学校4年生の時、バレエの先生が出演している舞台を観に行きました。『くるみ割り人形』でした。客席に座って舞台を観たのはこの時が初めてで、キラキラした衣裳や舞台の華やかさにも感動したのですが、私の目を釘付けにしたのはダンサーの美しい身体でした。この時の感動から私のバレエへの想いは変わり、後に11年経って今の仕事に繋がりました。

“美しい身体”これは今でも私の目標です。 これからもずっと自身の身体を用いて追求していきたいと思います。

(にしざわまや・1997年東京都生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑩ チャーリー・リャン

ダンスを始めるまで、私は日常生活で運動らしいことはしていませんでした。当時、私は勉強するだけの日々を送っていたのです。高校卒業後に何がやりたいか、何をすることになるかなど見当もつかないままに。また、放課後に何かしようにも、余計なお金などありませんでしたし、私にとっての唯一の娯楽はテレビを見ることでした。でも、それがダンスを始める理由のひとつになったのです。

ある日のこと、私はダンスを扱う番組を見ました。踊っている男性ダンサーたちがとても魅力的なさまを見たのです。私は彼らから目を離すことが出来ませんでした。その時以来、私はYouTubeやほかのソーシャルメディアで本当に多くのダンス・ビデオを観るようになり、私が観たダンスがコンテンポラリーダンスと呼ばれるものであることを知りました。

私はビデオを通じてダンスを学ぼうとしましたが、それまで学んだこともありませんでしたし、誰もコーチをしてくれる人もいませんでした。その瞬間です、私は自分が何をしているのかわかってはいませんでしたが、私はそれを本当に楽しんでいましたし、初めて何かに夢中になることを経験し、ダンスについてもっと知りたいと思うようになったのでした。

そんな訳で、高校を卒業すると、私は香港演藝学院(HKAPA)に出願しました。しかし、ダンスのクラスを取ったこともなければ、ダンスの経験もまったくなかったのですから、勿論、結果は不合格。 その後、私は別の科目を学ぶことを選んだのですが、ダンスは諦めませんでした。勉強はもちろん、ダンスのクラスを受けるためのお金を稼ごうと、週末にはアルバイトもしました。その年、私は勉強と仕事とダンスでもうくたくただったのですが、何かを得ようと戦っている感覚は嫌いではありませんでした。すべては待つ者のところにやって来るものです。翌年、私は晴れてHKAPAのコンテンポラリーダンス専攻課程に入学することができたのです。

(日本語訳:shin)

チャーリーさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Charlie Leung

Before I started dancing, I never did any exercises in my daily life. At that time, there are just studying in my life. I didn’t even know what I want to do and what I will do after high school. Also, because there was no more extra money for me to join any after-school activities, the only one entertainment I can do was watching TV. It’s also one of the reason to start dancing.

One day, I watched a TV program about dance. And I saw that the male dancers was so charming when they were dancing and I could not take my eyes out of them. From that time, I started to watch so many dance videos on YouTube or any other social media and I found out that the kind of dance I watched is called contemporary dance. I tried to learn dancing from the video but I didn’t learn dancing before and no one was coaching me. At that moment, although I didn’t know what I was doing, I was really enjoying it and it was my first time that I was really into something and want to know more about dance.

That’s why, after graduated from high school, I applied the dance school of Hong Kong academy for performance arts(HKAPA). But I didn’t take any dance class before and didn’t have any experience in dance. Of course, I failed it.

After that, I chose to study another subject, but I didn’t give up dancing. Except studying, I went to do some part time job in weekends to earn some money to take dance class. In that year, although I was so tired between study, work and dance, I liked the feeling that fighting for something. Everything comes to one who waits. In next year, I got in HKAPA, majoring in contemporary dance.

(1993年香港生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑨ 林田海里

母と叔母が熊本でジャズダンスのスタジオを経営しています。小さい頃から彼女らに連れられ、稽古場や楽屋にいる事が当たり前だった僕は、見よう見まねでしたが、踊る事が大好きでした。

ですが、ちゃんと踊りを習いたいと言い出したのは10歳の頃でした。(実はあまり覚えていませんが。)母は僕が自らそれを言い出すまで無理強いしないと決めていたようです。母は、どんな踊りをするにもクラシックバレエを習ったほうがいいだろうと僕を地元のバレエ教室に連れて行きました。

毎年クリスマス恒例の『くるみ割り人形』に出演する度にバレエにのめり込んで行き、高校受験の頃には舞踊家を生業とするために留学したいという気持ちが固まっていました。当然勉強が手に付くはずもなく両親と衝突したりもしましたが、僕の将来の夢自体を否定された事はありませんでした。理解のある家族の支え無しに今の僕はいません。踊り続けられる身体と環境に感謝して、これからも踊っていたいと思っています。

(はやしだかいり・1994年熊本県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑧ カイ・トミオカ

私は今に至るダンスの旅を振り返って、私をここ、Noismというカンパニーへと導いた一連の出来事と決断をはっきりと認めることができます。

12歳の時、ロンドンの家の近くにあったローカルなスタジオでブレイクダンスとストリートダンスのクラスに入ったことを覚えています。ここからダンスへの私の愛情がスタートしたのです!もっとも、あまりうまく踊れた訳ではありませんでしたが。当時人気のダンス映画を何本も観ては、そんなふうな動きを身に付けたいと思ったものでした!

14歳になった頃、スタジオは、より汎用性のある動き、異なる種類の動きを身に付けさせようとボーイズ・バレエのクラスをスタートさせたのでした。私もやってみようと決心し、そうしてクラシックダンスへの情熱に火が付いたのでした。

そのときの私は自分が踊ることを大いに楽しんでいましたが、それでもあまり本気で捉えてはいなかったかもしれません。他の趣味、例えば、サッカーや陸上、或いは演技と並行して踊っていたものですから。

でも、1年後、サッカーをしているときに鎖骨を骨折してしまったのです。それは「ロンドン・チルドレンズ・バレエ」の大事なオーディションを逃すことを意味するものでした。私が楽しみにしていたオーディションだったのに…。自分がやりたいもの、自らを託したいものがどちらなのか選ばなければならないと悟ったのはこの時でした。体に要求されるものが違っていたからです。で、勿論、私はダンスを選びました。

翌年、その同じオーディションに晴れて挑むことができました。結果は合格!そのステージで演じた後、観に来ていた Central School of Balletの先生の目にとまったことから、そちらにてフルタイムで学ぶオファーをいただき、16歳で、プロになるためのダンスのトレーニングを始めて、あとは皆さんご存じのとおりです!

今振り返ってみると、それは多くの犠牲を払って成り立っていることがわかります。そんなに若いうちから大人のような難しい決断をすることは並大抵のことではありませんし、自分の時間の多くをダンスに割くということは若者ならやりたいと思う筈の多くを見送ることを意味するものでもありました。ダンスに専心することは生涯にわたる決断なのです。でも私はそれをいささかも変えるつもりはありません。

(日本語訳:shin)

カイさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Kai Tomioka

I can look back on my dance journey so far and identify a chain of events and decisions that have led me to here to Noism dance company.

I remember at the age of 12 joining a breakdance and street dance class, at a local studios near to where I lived in London. This was where my love for dance started, even though I wasn’t very good! After watching popular dance films at the time I wanted to learn to move in those ways! When I was 14 they started a boys ballet at the studios, to try and encourage the dancers to become more versatile and move in different ways. I decided to give it a go and thus started my passion for classical dance. I was enjoying my dancing a lot but was still not taking it too seriously. I was dancing alongside my other hobbies, such as football, athletics and acting. But a year later, while playing football I broke my collar bone, which meant that I missed an important audition for a production called ‘London children’s ballet’. This was something I was very much looking forward to and this is when I realised I had to make the choice about what I wanted to do and to commit to one or the other, as the demand from the body is very different, and of course I chose dance.

The next year I was able to attend the audition again, and was successful! After taking part in this show, I was offered a full time place at central school of ballet after a teacher from the school had come to watch, so at 16 I began my professional dance training and then the rest is history!

Looking back on it now I can recognise that it took many sacrifices, and at such a young age it took a lot to make some mature and difficult decisions, spending much of my time dancing meant that I missed out on lots that you as a young person would want to do, committing to dance is a lifelong decision, but I wouldn’t change any of it.

(1995年イギリス生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑦ ジョフォア・ポプラヴスキー

姉が腰にトラブルを抱え、更に酷い内股だったため、 母は姉のそうした状況を改善することに繋がるだろうとバレエをさせることを決心。こうして残りの家族もすぐにそれに続くことになり、「この冒険」が始まったのです。

母はまた、私がよく姉のスカートをはいて、二階で踊ったものだとも言います。私もそんな一日のことを思い出すことができます。ですから、「それ」は私の中のどこかにあったのでしょう!

私は常にダンサーとしての自分の姿を感じたり考えたりしてはいましたが、実際、ダンサーになろうとは思ってもいませんでした。消防士になって人々を助けたいと思っていたからです。

でも、ダンスの先生(男性)は私の才能を信じてくれていて、彼こそが、私の背中を押しては、学校を卒業後、どこへ行ってプロとしての訓練を積めばよいかに目を向けてくれていた人なのです。私はダンスについては多くを知りませんでしたが、打ち込めば打ち込むほど、成功したいと思うようになったのでした。

(日本語訳:shin)

ジョフォアさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Geoffroy Poplawski

As my big sister had trouble with her hip and was too much turned in, my mom decided that doing ballet would improve her situation. This is how the rest of the family soon followed and started this adventure. My mom also said that I used to wear my sister’s skirt and dance upstairs and I do remember one of those days so I guess it was somehwere in me !

I always felt and thought of myself as a dancer but I actually never thought of becoming one. I wanted to be fireman and help people. My dance teacher believed in me and he is the one who pushed and looked where I could go and train professionally after graduating from school. I didn’t know much about dance but the more I worked for it the more I wanted to succeed.

(1991年フランス生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑥ 西岡ひなの

2歳から地元(滋賀)のバレエ教室に通い始めました。オムツが取れたばかりなので、もちろん当時の記憶はありません。始めた理由は、母が可愛い衣裳を着せたかったかららしいのですが、とてもやんちゃで先生の注意を聞かずに走り回り、木製のバーを舐めまわすような(ほのかな木の香りと、しょっぱかったのを覚えています)おてんば娘でした。

両親が共働きだったので、おのずとバレエ教室にいる時間が多くなり、それと同時に私のやんちゃさはバレエ教室内にどんどん広まっていきました。

ある日、教室の責任者である先生が「ひなのはどの子や!!!」とやってきて、三角座りのできない私を膝の上にのせて監視されたり(可愛がってくださいました)、まるで学校に行くかのようにバレエ教室に通っていました。

コンテンポラリーダンスと初めて出会ったのは小学3年生の時。バレエ教室には毎年夏休みに海外から先生が来てくださるのですが、その年はコンテンポラリーの先生でした。プライドが高かった私は、「今回もいつも通り私が真ん中で踊るんだ!」という気持ちでクラスを受けました。しかし、友達が一つ上のお姉さんと踊り、自分は同学年の子と端で踊ることになりました。

本当に悔しくて怒りながら教室を出て、家に戻ると、母から「(端で踊ったのは)当たり前でしょ。全然顔が笑ってないし、楽しくなさそうだった。それに比べて友達はニコニコして、元気でエネルギーがあったよ」と言われて、コンテンポラリーダンスでは、今まで自分がバレエで習ってきたことは通用しない、今の自分は他人と比べるのではなく、とにかく自分の踊りに一生懸命向き合わなくてはいけないんだと、初めて気づきました。 この経験は、舞踊家として踊る今も、毎日、毎公演、兜の緒を締め、舞踊と向き合うことの大切さを教えてくれます。

(にしおかひなの・1995年滋賀県生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑤ 鳥羽絢美

私が舞踊を始めたきっかけは姉でした。姉がすることは何でも自分もするものだと思っていた私は、姉がバレエを始めると当たり前のように真似をして、ちゃっかりバレエを始めました。

それに加え、当時、ディズニープリンセスやキラキラしたものが大好きだったようで、クラスで着るレオタードや、舞台衣裳にも惹かれていたようです。

初めて舞台に立ち、幼いながらに照明に当たりながら踊ることが好きだと感じました。今でも母に「絢美は昔から照明が好きだったからね〜」とよく言われます。もちろん、照明の下で踊ることができる本番の舞台は、今も変わらずとても興奮します。

余談ですが、自分が踊ったNoism作品の照明で一番好きなのは『NINA―物質化する生け贄』の『hidden glass』というシーンの照明です。黒幕裏に待機し、音楽が鳴り、黒幕が上がった時に見えた真っ暗闇の客席、シンプル且つ力強く美しい照明、舞踊家たちのシルエットに、私はとてもゾクゾクし、高揚し、今までにないほど興奮したことを覚えています。

ダンスを始めた頃に話を戻しますが、中学3年生の頃、仙台に住んでいた私は、父の転勤で東京の高校へ進学することになりました。どの高校にするか探していた時、バレエではなくコンテンポラリーダンスを授業のカリキュラムに含んだ高校があることを知りました。

今思えば、普通科の高校へ行くか、舞踊専攻がある高校へ行くか悩み、後者を選んだ瞬間が、これから先の未来も舞踊家として踊っていきたいと覚悟を決めた時だったのだと思います。そしてその高校の先生との出会いをきっかけにNoismを知り、今へと繋がっていきます。

私の両親は、私がやりたいことをいつも応援してくれますが、それと同時に「自分の行動や、選んだ道、自分が決めたことにちゃんと最後まで責任を持ちなさい」と言います。自分が選んできたこと、これから選ぶことにしっかり向き合い、責任を持ち、これからも舞踊家として精進していきたいと思います。

(とばあやみ・1995年静岡県生まれ)