【インスタライヴ-14】前回、佐和子さん受賞の裏で…穣さん、謎のブルゾン…諸々もろもろ

2021年5月2日(日)21時から行われたインスタライヴは前回から約2ヶ月振り。前回は佐和子さんの芸術選奨文部科学大臣賞受賞が発表された翌日のライヴでしたが、その裏で、今度は穣さんに纏わる、喜ばしい「大人の事情」を抱えていたとは!

 *穣さん、紫綬褒章受章に関して

  • 「びっくりした。紫綬褒章?あれ、どういうやつだっけ?」みたいな感じ。(穣さん)
  • 前回のインスタライヴ前日17時に佐和子さんの受賞が公表解禁。携帯を手に喜びの穣さん、twitterにあげた直後、課長から一報が入り、佐和子さん後転。そこから約2ヶ月。
  • 今もまだ実感ない。何も状況は変わらないから。嬉しいことは嬉しいんだけど。そのうち、あそこから新しい章が始まったんだなという認識はくるのかなと漠然と思っている。(穣さん)
  • 周りの人が喜んでいる姿がいいなぁと思った。(佐和子さん)
  • 知ってもらうきっかけになることは有難い。(穣さん)
  • 「他言して漏れたら、内定取り消しの可能性もあります」の通達もあり、周りはヒヤヒヤしていた。(穣さん)

 *忙しかったこの2ヶ月

  • 3月、東京バレエへの振付の第1回クリエイション。(10日間):Noism以外への新作振付。緊張感もあったが、斎藤友佳理さんをはじめ、物凄くウエルカムな体制にして貰って嬉しかった。
  • 戻ってきて、Noism1メンバー振付公演(3/27、28):芸術監督の仕事(オーダー決め・時間配分等)を山田勇気さんに任せて、穣さんと佐和子さんは本番だけを見た。「初日、楽しかった。みんながやりたいことを追求したなという感じ」(佐和子さん)(←佐和子さんは基本、褒めないのに。一方、穣さんはけなすこともあるが、褒める。)
  • 春休み:高知への凱旋帰省。高知市長を表敬訪問。温かい歓迎。
  • Noism2定期公演vol.12:10年振りの振付。「大変だった」(ふたり)「みんな頑張った。舞台上で良くなってくれたから、それは嬉しかったけど、まあ、大変だったね。何が大変って、若いから、自分がどれだけ出来るかまだわかってないじゃん。『まだいける!』と声を掛けなければならない、マラソンで併走するしんどさ」(穣さん)「エネルギーが吸い取られる」「でも、食らいついていこうとする気持ちはあったし、3日間でどんどん変わっていくのが観られたし良かった」「俯瞰でカンパニーを見ていたら、Noism1のメンバーたちが教え始めていたし、Noism2のメンバーたちも有難く受け取っていたし、そういう先輩・後輩みたいなのが出来てきた方が良い」(佐和子さん)15分休憩の間、約3分位でリノリウムを白から黒に張り替えたり、照明を手伝ったり、色々な仕事を経験できたのは、Noism1メンバーにとっても良いことだった。「みんなで一緒に何かやるのは楽しい。みんなで『ああだ、こうだ』言いながら、野球とかやりたい。監督じゃなくて」(穣さん)

 *穣さんの「謎の」ブルゾンのこと

  • 宮前義之さんとISSEY MIYAKEのエイポック・エイブルのチームの方々からのお祝いの品、TADANORI YOKOO・ISSEY MIYAKEの “KEY BEAUT.Y.”。 横尾忠則さん好きの穣さんが欲しがっていたもの。めっちゃ派手で、「新潟市で着ている人は多分、俺しかいない」「新潟の原信でこの服を見かけても声を掛けないでください」(笑)(穣さん)
  • 佐和子さんからのプレゼントはエイポック・エイブルのジャケットとパンツ(ユニセックス)。着心地良いし、水洗い可能。(この日、パンツを着用。)

 *再び「紫綬褒章受章」に関して

  • 17年間のNoismの活動が評価された。この国の芸術・文化への寄与。
  • 集団性・集団活動の良さ。
  • 「人は入れ替わるが、17年間、ここ(Noism)を通っていった人が作った。Noismの集団性が残っている」(佐和子さん)「たとえ3ヶ月とかであっても、この子がいたっていうこと、痕跡、残影っていうものが記憶のなかに残っているし、Noismのスタジオ、集団のなかに、無自覚・無意識のレベルで残っていて、新しく来る子はそれ、その気配を感じて、一員になっていく」(穣さん)「それがある意味、歴史なのかもしれない」(佐和子さん)「そうね。だから、時間がかかるんだよね、それは」(穣さん)
  • 「目指してきたものが現実のものになり始めているのが、嬉しい」(穣さん)
  • 「今回頂いたものが何かの始まりになるんだとすれば、それはもうちょっと後なんだろうね」「いつも応援してくださっていて、『もっと認められていいのに』と思っている方たちが自分事のように喜んでくださっているとわかるのが、何より嬉しい」(穣さん)
  • コロナ禍で天皇への拝謁はなし。月末に伝達式はある予定ながら、同伴者不可、平服。

 *身体は筋肉痛、頭のなかも大変なことに…

  • 穣さん、絶賛振付中:①サラダ音楽祭(お披露目できるかどうか未定)、②小林十市さんとのDDD、③春の祭典、④夏の名残のバラ、⑤冬の公演、と頭の中に5つの違う公演のプログラムがある状況は今までにない。
  • 佐和子さんはふたつの作品ながら、似ている身体性のため、ほぼ同化し始めている。
  • 「でも、舞踊に打ち込める環境にあるから、ヒイヒイ言いながらもそれを楽しむしかない」(穣さん)「全然全然、それは。朝、起きれないだけで、楽しいです」(佐和子さん)

 *これから…

  • 「変わらないです、何も。まだまだ戦い続けるし、多分、まだまだいっぱい失敗して、いろんな反省もして、これからもそれは変わらないんじゃないかと思う。何を失敗しても、何か大切なことがあって、自分が信じていることがあって、そこだけは目指し続けていきたいので、引き続き、宜しくおねがいします。頑張りま~す。有難うございま~す」(穣さん)

…と、そんな感じでしたでしょうか。盛り沢山で充実のトーク、是非ともアーカイヴにて全編をご覧下さい。それでは、この場はこのへんで。

(shin)

山野博大さん追悼(1):Noism芸術監督対談「舞踊を語る!」(金森穣×山野博大)再掲

初出:サポーターズ会報第29号(2016年6月)

*さる2021年2月5日に惜しまれながら急逝された山野博大さん。生前、サポーターズの会報に掲載させていただきながら、その後、本ブログには再掲せずにいたものがふたつありました。この度、感謝と追悼の気持ちを込めまして、それらを掲載させていただくことに致しました。まずは金森さんとの対談(2016年3月)からお届け致します。深い内容を熟読玩味頂きますとともに、在りし日の山野さんを偲ぶよすがとなりましたら幸いでございます。 (shin)

* * * * *

春まだ浅い2016年3月22日。

舞踊評論家の山野博大さんを東京から新潟にお招きし、りゅーとぴあで金森芸術監督と対談していただきました。

お話は舞踊批評を中心に、舞踊の歴史とメソッド、海外との文化比較、劇場専属舞踊団の存在意義、そして劇的舞踊『ラ・バヤデール-幻の国』の創作秘話まで多岐にわたり、和気藹藹とテンション高く進みました。

photo by Ryu Endo

劇場

金森 今日はよろしくお願いします。

山野 こちらこそ。先ほど、館内を案内していただいて劇場やリハーサルを見せていただきましたが、なかなかいい環境だね。だけど、劇場のステージはもう少し奥行きがあるといいね。

金森 そうなんですよ。さすがよくわかってらっしゃる。奥行きがないのはなかなか大変です。やはり日本の劇場は建てる時にそこを使う専門家集団が不在のまま建てているので、どうしてもその辺の問題は出てしまうでしょうね。

山野 どこの劇場もそうなんだよね。建築家にも劇場に来てもらえるといいね。

金森 そうですね。

山野 帝劇っていう劇場があったでしょ。

金森 日本バレエ発祥の。

山野 そうそう。あそこを最初に建てたときに、歌舞伎もやりたいというニーズがあって、タッパをちょっと低くして間口を広くした。だから他のものをやるにはバランスが中途半端なんだけど、その後出来た劇場は、みんなそこを真似て造ってるんだよね。1970年くらいまでの公的ホールは全部その寸法。その後は外国のものを観る人も出てきて、縦長のものも増えましたけど。

金森 なるほど、帝劇モデルだったんだ。

山野 その帝劇は今はもう無いんだけどね。

金森 帝劇から日本の洋舞は始まってますもんね。

山野 そうそう。帝劇はそこだけ除くと他は素晴らしい劇場だったね。

舞踊批評

金森 そもそも山野さんは何故、批評を始めたんですか?

山野 中学2年生のときにね、バレエ団で踊ってる同級生がいて、それを観に行ったんですよ。そしたら、「これはなかなか面白い」と思った。面白いと思ったら、自分がやるのが普通でしょ。ところが、その同級生が稽古で学校へは出て来れないし、留年しちゃうし、大変でね。それで「こりゃ、やるより観るほうがいいな」と思っちゃったわけですよ(笑)。そこから観始めて、大学2年生のときに批評家になりました。アントニー・チューダーのライラック・ガーデンでノラ・ケイを観たときに、それまでクラッシック・バレエっていうのは“こういうものだ”という固定観念で観ていたのが全く違う世界に出会って衝撃を受けた。「舞踊とはここまで表現できるものなんだ!」と。ならば一生この世界で生きてもいいなと思ってね。

金森 中学校の同級生の公演を観に行って以降というのは、その方の公演とかをご覧になっていたんですか?

山野 いや、外国から来たものはなんでも観に行ったりしながらのめり込んでいきました。新聞に投稿したりとかしてね。当時は一般的に男の子が舞踊を観に行くということに対して、否定的でしたからね。

金森 そうでしょうねぇ。

山野 うちの場合はね、母親が芸事が大好きで理解があったんですよ。観に行くことに反対もされなかったし、チケットも買ってもらえた。そんななか、次第に趣味の域からは離れていきましたね。あるとき、図書館で本を読んでいたら、学校の先輩が「君、バレエの本を読んでるみたいだけど、興味があるの?」と声をかけてきてくれてね。当時はコピー機がないから書き写しをしていたんだけど、「その本なら家にあるから遊びにおいで」って言ってくれた。

金森 そのエピソード、山野さんの本(「踊る人にきく」三元社)に書いてありましたね。

山野 そうそう。それがきっかけで日本を代表する大評論家の光吉夏弥さんの家に通えるようになったんですよ。光吉さんに当時自分が書いた評論を見せたら、「これは中学生の作文だ。批評というのはちゃんとルールがあって書くんだ。感想文じゃないんだ」って言われた。「批評の第一は“舞台で何が行われていたのかを正確に書く”こと。その次に“批評”がくる。そうでなければ、その人がどう観て評価しているのかわからないじゃないか」と。しかも「歴史的な流れがどうあって、今ここがあるのかを理解していないと批評というのも意味がない」と言われてね。観てることをちゃんと書いて、それが歴史的にどうなのかというところも理解した上で自分の意見がどうなのか。批評というのはそういうふうに書きなさいと言われましたね。

金森 素晴らしい方にお会いしたんですね。そのような批評は、残念ながら日本ではなかなか目にしませんね。 “舞台上で何が行われていたか”だけか、“自分がどう感じたか”だけのものが多くて、その間が無い。歴史を踏まえた上でどうなのかというところは専門的知識がないと書けないものだとは思うんですが。

山野 だからね、批評家になるには少なくとも10年は観てないと、批評家って看板はかけられないんですよ。今を批評するならば、それ以前のことを把握し、理解を深めて自分の知識を補強していかないとならない。

金森 そうですよね。バレエでもなく現代舞踊でもないNoismがやっているような表現を、何舞踊というのか、山野さんに名称を考えていただきたいな。コンテポラリーという名称は嫌なんですよ。消費文化の象徴のようで。コン、テンポラリーじゃないですか。テンポラリーって一時的なものですよね。今の批評家のお話じゃないですけど、歴史性を踏まえてこれから何をするかと考えていくときに、自分の世代、育ちにおいては、やはり洋舞の影響なしには語れません。ただアイディア的に面白いとか、一時的なものではなく、バレエや現代舞踊、また、日本舞踊や舞踏など日本のなかで培われてきた歴史的身体の知識みたいなものと、自分がヨーロッパで学んできたものなど全部を活かして日本の21世紀の舞踊スタイルとして何かを残したいと考えています。

photo by Ryu Endo

舞踊の歴史とメソッド

山野 洋舞が一番影響を受けているのは、日本舞踊だと思うんですよ。我々日本人の立居振舞いを基本にして出来ているからね。日本舞踊が歴史的に培ってきたものをもっと使えばいいと思う。

金森 日本舞踊って型があるじゃないですか。稽古はどのようにしているんですか?

山野 稽古のメソッドはないんですよ。

金森 ないんですか?

山野 日本舞踊というのはね、先生と弟子が1対1で相対して、先生が三味線弾いて、振りを写していくんです。

金森 集団で稽古をしないんですか?

山野 振りを写していくのが稽古。つまり、日本舞踊って「システム」じゃないんです。作品集なんですよ。

金森 なるほど。でも上達はどのように見ていくんですか?

山野 師匠によって良し悪しが下される。エリアナ・パブロワが日本で最初にクラッシックバレエを教えたんだけど、それは日本舞踊と同じやり方で教えていた。

金森 パブロワが何の規範もなく、いいとかよくないとか言うわけですか。

山野 そう。つまり、パブロワはバレエ団に属していませんでしたからね。

金森 そうですよね。そこですよね。

山野 パブロワは貴族で、先生を家に呼んで教わっていた。貴族が没落して、日本に流れてきてバレエを教えながら生活していたんだね。その後、オリガ・サファイアという人が日本に来て、理論と技術を日本に伝えた。そこで初めて世界のバレエと日本が繋がったんだね。

金森 日本に初めて来たバレエ団がロシア系だったわけで、バレエと言えばロシアというところがあったし、新国立劇場ができたときにも最初にロシアのスターを招いていた。それはオリガ・サファイアからの影響だと思うんですが、なぜ日本のバレエ界は日本のバレエのメソッドを創らなかったんでしょうね。

山野 日本のバレエのメソッド…創れないですよ。

金森 創れますよ! デンマークだってブルノンヴィルが創っているし。フランスだって、イタリアだって、イギリスだってそうだし、アメリカだってバランシンの影響があるにしてもアメリカのバレエだなって感じがするじゃないですか。日本は何故いつまでも海外の真似をして、海外のスターを呼んで公演をしているんでしょう。

山野 つまりはね、海外に繋がっていることで日本というのは評価される。

金森 そう! それが情けなくてしょうがない。

山野 う~ん。そこが日本なのね。でもね。バレエの歴史というのは500年あるわけよ。

金森 そうですね。

山野 日本のバレエの歴史っていうのは、まだ100年ほどなんだよ。無理だよ、まだ。

金森 なるほど。これからですかね。

山野 これからは、あなた方の番だね。やらなきゃならないね。

劇場専属舞踊団

山野 日本のバレエというのはね、スタートがそうだったから、なかなか劇場でバレエをやるというスタイルになってこなかったんですよ。だから、日本のバレエ団は個人名がついているわけ。海外でね、個人名のついているバレエ団は少ない。

金森 そうですね。海外では結局、劇場がその国や街の文化政策として運営されているから、その劇場専属の舞踊団も当然その国や街の名前が付けられていますね。

山野 向こうは劇場に舞踊家が棲んでいるわけですよ。日本みたいに個人がバレエ団を創って、劇場を借りてやるんだということを考えた人は、世界でディアギレフが最初。日本はずっとディアギレフ・スタイル。

金森 でも、ディアギレフは天才的なプロデューサーとして、すごい芸術家たちを集めてやっていましたよね。日本の舞踊団はバレエ団のトップの方がいなくなると成り立たなくなってしまう。

山野 そういう在り方は世界では非常識で、劇場についてるバレエ団というのが常識なんですよ。そう考えると、りゅーとぴあに在るNoismっていうのは世界の常識に適っているわけだよね。日本では他に新国立劇場しかない。やはり、それ以外にも公的なところが舞踊団を持とうとして劇場を提供してくれるようなシステムが出てこないと世界と伍していけないわけよね。

金森 なんでできないんですかね。

山野 まだまだ、世間の関心が低いんですよ。

『ラ・バヤデール』平田オリザ脚本

山野 今回の『ラ・バヤデール』では平田オリザさんが脚本を書いているということですけど、平田さんとはどういう関係性があったんですか?

金森 2年前の夏に演出家の鈴木忠志さんが拠点とされている利賀村の演出家コンクールで審査員を依頼された際に、平田さんが審査委員長でしたから、お会いしたんです。初めてお会いしたのはおそらく10年近く前だと思うのですが、ゆっくりとお話ししたのはそこが初めてでした。利賀村に入っていると演劇を観る、あるいは食事をする以外の時間は空いていますから、そこにいる専門家たちと非常に密な話ができるわけです。そんななかで平田さんにどんどん興味を持つようになって、「いつかNoismのために脚本書いてください」って言ったら、「いいですよ」と言ってくださって。

山野 平田さんの芝居は観たことあるの?

金森 稽古を見せていただいたことはありますが、舞台はまだ生では無いです。映像で観て感銘を受けたのと、書かれた本を幾つか読んでいます。でも、平田さんの演劇的なものをNoismで表現したいということではなく、彼の論理的構築の仕方や政治に深くコミットしているところに強く関心を持ちました。“なぜ平田オリザだったか”と言えば、やはり「政治」というキーワードですね。新しく劇的舞踊を考えるにあたり、社会的なことを盛り込まないといけないと感じた。今、我々が直面している社会的な問題や課題をもとにした戯曲を書くために、シンプルに深い洞察ができる人っていうのは、やはり平田オリザさんだな、と思ったんですね。そしたら、もう想像以上の脚本が来ました。今、まさに考えるべきことだし、創るべきものだし、皆さんにお届けするべき物語になりましたね。

山野 なるほど。

金森 平田さんは、要望があれば書き直すし何かを加えたいという希望もウェルカムだからと言ってくださいました。なので、結構自分のアイディアも盛り込んでいただきながら、今、第6稿まで詰めていただきました。

山野 そうなの! すごいねぇ。

金森 ありがたいです。

山野 そういうやりとりがあるというのがいいね。音楽や美術や照明など、その他の要素というのはどういうふうに?

金森 衣裳を宮前義之さん、空間は田根剛さん、木工美術を近藤正樹さん、そして今回は新たに笠松泰洋さんに音楽の部分をお願いしています。今回の創作にあたり、やはり彼らだなと強く思いました。彼らが『ラ・バヤデール』の物語を通して、今の時代の課題をどう考え、表現するのかに興味があります。世界的な視座を持って活動している同時代の信頼できるクリエーターたちですね。

山野 なるほど。楽しみですね。

金森 ありがとうございます。楽しみにしていてください。

(2016.3.22/りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)

(取材・文: fullmoon / aco ) 

PROFILE  |  やまの はくだい

舞踊評論家。1936年(昭和11年)4月10日、東京生まれ。1959年3月、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。1957年より、新聞、雑誌等に、公演批評、作品解説等を書き、今日に至る。文化庁の文化審議会政策部会、同芸術祭、同芸術団体重点支援事業協力者会議、同人材育成支援事業協力者会議、日本芸術文化振興基金運営委員会等の委員を歴任。文化勲章、芸術選奨、朝日舞台芸術賞、橘秋子賞、服部智恵子賞、ニムラ舞踊賞等の選考、国内各地の舞踊コンクールの審査にあたる。舞踊学会、ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク、日本洋舞史研究会等に所属。日本洋舞史を舞踊家の証言で残す連続インタビュー企画《ダンス=人間史》の聞き手をつとめる。《舞踊批評塾》主宰。インターネット舞踊批評専門誌「ダンス・タイムズ」代表。舞踊関係者による《まよい句会》同人。2006年、永年の舞踊評論活動に対し、文化庁長官表彰を受ける。NoismサポーターズUnofficial会員。2021年(令和3年)2月5日永眠。享年84。

『ASU~不可視への献身』の衝撃

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第27号(2015年6月)

 Noism1の横浜公演で金森穣の新作『ASU~不可視への献身』を見た。この作品は、*前年12月19日に本拠地のりゅーとぴあで初演したものだ。第1部が「Training Piece」、第2部が「ASU」という2部構成だった。

【註】*「前年」=2014年

 「Training Piece」は井関佐和子をはじめとする11人のダンサーが踊った。幕が開くと、全員が明るい舞台に等間隔で寝ている状態が見えた。ひとりひとりのダンサーが個々のシートに寝ているような、照明の効果があり、これはどこかのスタジオでのレッスンの風景のようだった。寝たままゆっくりと両腕を動かすところから、トレーニングが始まった。バレエのバー・レッスンは直立した肉体に対するトレーニングだが、ここではそれを寝たままの状態で行い、そこへさらに新しい要素を加えた。後半は白っぽい上着を脱いで、カラフルな衣装(ISSEY MIYAKE所属の宮前義之のデザイン)になり、フロアー全体を使ってのトレーニングとなった。

 ダンスのトレーニング・システムは、作品で使われるおおよその動きを予想した、そのダンス固有のテクニックの集大成であり、普通それは観客に見せない。しかし、ここではまずNoismダンスの種明かしが行われたかっこうだった。これと同様のことを、かつて伊藤道郎がやっていたことを思い出した。彼は『テン・ジェスチャー』という伊藤舞踊のエッセンスを作品化していて、それをダンサーのトレーニングに使うばかりか、しばしば観客にも披露した。

 第2部の「ASU」は一転して暗い舞台だった。灯火を掲げたダンサー9人が登場した。黒を基調とした、個々別々の衣裳をまとい、前半のはなやいだ雰囲気と一線を画した。舞台奥には木材を加工して作った大きな樹木のようなもの(木工美術=近藤正樹)が寝かされていた。舞台には、Bolot Bairyshevの「Kai of Altai/Alas」が鳴っていた。これはアルタイ共和国に伝わるカイ(喉歌)という種類の音楽だそうだが、私には太棹の三味線を伴奏に太夫が語る、日本の義太夫のようにも聞こえた。

 しだいに明るくなった舞台で、9人のダンサーたちが動きはじめた。その動きは今まで見たNoismのものと、大きく異なった。そこには今の時代の日常の人間関係から、歌舞伎や文楽などに残る義理人情の世界まで、いろいろなものが混ざり合っていたと、私は直感的に受け取った。日本では、20世紀初頭に西欧の動きを取り入れて「洋舞」とか、「現代舞踊」と称するものを生みだし、それを育ててきた。しかし「ASU」はそれらとはまったく異なる別の世界だった。

 戦前からの石井漠、高田せい子、江口隆哉、檜健次ら日本の現代舞踊の始祖たちは、とぼしい海外からの情報を足掛かりとして、そこに日本古来の動きを加味して「日本の現代舞踊」を作った。それは敗戦を契機としてアメリカからもたらされたマーサ・グラーム、ホセ・リモン、マース・カニングハムらのアメリカン・スタイルのモダンダンスに一蹴されたかに見えた。しかしバレエやコンテンポラリー・ダンス、そして日本古来の舞台芸能などと協調しながら、この日本に今もしぶとく生き続けている。

 舞台ではカイ(喉歌)の音が鳴り続け、近藤正樹の樹木のオブジェが大地に立った。そこで宮前義之の、いかにも動きやすそうな衣裳をまとったダンサーたちが金森穣の創り出した動きに専念した。彼は今の時代の西欧のダンスを習得して帰国し、新潟でNoismを立ち上げた。そこで西欧のダンス・カンパニーと同様の公演の形態を日本の土地で実現させようと、創作にはげんだ。彼の目は世界へ(西欧へ)と向いていた。

 しかしこんどの『ASU~不可視への献身』で、彼の目は別の方角を見ていた。とつじょ彼の中から「西欧ではないX」が噴出したのだ。現代の日本は、アジアに位置しながら西欧のものを生活の中に大量に取り入れ、アジアよりは欧米に近い日常を作り出している。昔から日本人は海の外からやってくるものに異常な関心を示し、いろいろなものをどんどん取り込んで「日本」を作ってきた。しかしいつも向こうのものをそのまま取り込むことはしなかった。たとえば、紀元前に北部インドで釈迦がはじめた仏教は6世紀頃に日本へ伝わったが、それから1500年が経ってみると、すっかり日本化して、元のものとはだいぶ様子が違う。また政治、経済のシステムにしても、海外のものを取り入れたはずにもかかわらず向こうのものと同じと言えない状況であることは周知の事実だ。それと同じようなことがいろいろな分野で起こり、今の「日本」が出来上がっている。

 かつて日本は、わずかな情報をもとに「洋舞」を作りだした。しかし世界の情報がリアルタイムで入ってくる現代にあっては、向こうのやり方をそのまま持ち込めば、それでよし。「日本らしさ」は、そこに自然に現われてくるものという考えが一般的となった。金森穣も、今まではこの「自然ににじみ出る日本らしさ」を作品の柱にしてきたと思う。それがこんどの『ASU~不可視への献身』で一変した。長い時間をかけて日本に蓄積した「動き」のニュアンスとでも言うべきものに焦点をあて、それそのものを作品化したのだ。

 私はこれを見る直前に、国立劇場で四国の土佐に伝わる古神楽の舞台再現に立ち会っていた。そこでは日本芸能の古層が随所に姿をあらわした。それを見たのと同じ感覚を、直後に金森作品から受けるとは思ってもみなかった。彼は日本の歴史の古くからの蓄積物に手をつけてしまった。これ以後は「自然ににじみ出る日本らしさ」だけで作品を作れない時代となるだろう。とんでもないものを見てしまったという思いが心中に広がった。

サポーターズ会報第27号より

(2015年1月24日/KAAT神奈川芸術劇場ホール)