Noismプレビュー公演…そして、創作は続く(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@りゅーとぴあ)

プロジェクト・ベースで才能を呼び集めるかたちでの多くの公演が、「人の移動」に依拠する点において、コロナ禍の停滞に見舞われざるを得ないなか、それとは一線を画し、関係者が全て新潟市民であり、レジデンシャルでの創作を続けてきた点で、いち早く公演を実現させ得たこの度のプレビュー公演。金森さんにしてみれば、本公演を打てないことの無念さもあっただろうが、混迷を極めるなか、届けられた舞台には妥協などといったものは微塵も見て取れはしなかった。これこそが私たちが誇りとするNoismなのだ、そんな思いを抱いたのは私ひとりではなかったろう。

『Adagio Assai』

共振、共鳴、離れて向き合うふたつの身体が作り出す微細な空気の震えに目を凝らす冒頭。その後、別々の方向を向き、仰け反ったアンバー似の姿勢での静止を経て、デュエットに転じるや、醸し出されていく極上の叙情。その一変奏、スクリーン手前の井関さんが山田さんのシルエットと踊る多幸感溢れる場面に、心は引き付けられ、鷲掴みにされる。

『Adagio Assai』
撮影:村井勇

出会い、邂逅も、やがては別れへと。

そう、別れ。先に触れた仰け反った立ち姿では、自然と視線は上方向、それも遠くに向かわざるを得ず、その夢を追うかのような、ここではない何処かを求めるかのような姿勢が既に暗示していた帰結に過ぎない。「繋ぎ止めておくことなど望むべくもない」、最初からそんな予感漂う他者ではなかったか。

背後からその人の腕を追い、身体を抱こうとするも、痛ましくもすり抜ける、腕も身体も。そのさまは切なく美しい。今度は、揺さ振られ、掻き乱される心。そうして立ち去る井関さん、戻らぬ人。

「しかし、その人のことは一緒に踊ったこの身体が覚えている」、山田さんの身体がそんな声にならぬ声を発するのを、私の両目は聞きつけていた、間違いなく。

『FratresIII』

「贅沢だ、贅沢すぎる、どこを見詰めろというのだ」

勿論、金森さんのソロから視線を外すことなど出来ない。しかし群舞は群舞で、その同調性には陶酔に誘われるものがある。

『FratresIII』
撮影:村井勇

そこで、欲しいのは「近代絵画の父」ポール・セザンヌ(1839-1906)が提示したような多視点。しかし実際にはそんなもの望んでも無駄だ、無理なのだ。人の視覚には不向きな作品なのかもしれない。そのあたりをどう言おう、そう、神々しいのだとでも。神の視点から眺められるべき作品なのかもしれない。

光の滝の如く流れ落ち、身体を打ち続けた穀粒、足許に残るその無数の粒に、動く身体が残した軌跡の一様性にも息をのんだ。それは何やら梵字めいていて、そうすると、全体は動く曼荼羅のようでもあったな、また別な印象も湧いてくる。

もしかすると、この時分なら、恐らく、コロナ禍との文脈で見られることも多いのだろうけれど、それは極めて普遍的な性格を有する、多義的な作品であればこそ。

いずれにしても、これを観る者は揃って激しく鼓舞されることになるだろう。

『春の祭典』

休憩時間のうちに緞帳の前に、横一列、隙間なく並べられた椅子は五線紙めいた風情。

腰掛けに来る者はみな、社会を忌避し、拒絶し、常に怯え慄く者たちばかりだ。ほぼ他と目を合わせることも出来ず、隣り合う席に座ることなど嫌で仕方ない者たち。ためらいながら、或いは妥協したり、威嚇したりしながら、座る場所を選ぶさまはおしなべて不機嫌。他者と一緒になど毛頭なりたくはない胸襟を開かぬ楽音たち。

決して収まるべき場所に収まったとは思えない不穏な導入。イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)なのだ。不協和な楽音が形作る変拍子の律動、その同調性の陰に、既に常に付き纏う不安や怯え。

不承不承にしろ何にしろ収まった筈の構図も、背後に、やおら、その口を開いた「魔窟」たる場に蹂躙され、無きものとされてしまう、易々と。

『春の祭典』
撮影:村井勇

やがて、「魔窟」がその本性を現し、魅入られたように足を踏み入れる楽音たちを絡め取っていく。その場の磁場に煽られて、身体内部に酷薄な獣性を目覚めさせる楽音たち。生じる同調圧力と暴力、或いは、お定まりの排除と生け贄。

その様子を観ているうち、想起された名前はトマス・ホッブス(1588-1679)。彼が人間の自然状態とみた「万人は万人に対して狼」「万人の万人に対する闘争」への逆行。

2020年の今、目撃しているのはまさにそれでしかなく、ここ新潟で、ストラヴィンスキーの楽音を介して、現代社会が内包する「病」に向けられた金森さんの今日的な視線が、幾世紀も隔てた古典的な知と極めて自然に合流することにハッとさせられたが、そんな途方もない結びつきと戯れる醍醐味は格別だった。

しかし、即座にこうも思ったものだ。今回、金森さんが使用したピエール・ブーレーズ(1925-2016)+クリーヴランド管弦楽団による『春の祭典』(1969年録音)を更に聴き込んで来年の本公演に備えなきゃ、と。インスピレーションの源泉に沈潜すること。

何しろ、相手は金森さんである。時間の限り、創作は続くのだろうし、これが最終形である訳がないことだけははっきりしている。 (2020/9/3)

(shin)

2020年8月 プレビュー公演を観て(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@りゅーとぴあ)

「えっ?これって本番じゃ…?」と驚いた感動の公開リハ。いい体験をしました。支援会員でないと参加できません。なっててよかった! まだ会員になっていない方、お得ですよ。いいもの観れますよ。ぜひどうぞ。

それから2ヶ月。待ちに待ったプレ公演。来年は本公演もあるからお楽しみはこれからだ。

今回はブラボー禁止令が出ていたのでスタンディングオベーションで力一杯の拍手を。 では、思いつくまま感じたままに。

『Adagio Assai 』:  動かなければ何も始まらない。満を持して片方がほんのちょっとだけ動くと、間の空気が動きもう片方が呼応する。気功をする両手の様な二人。 静止映像。スナップ写真。うつされた瞬間に過去のものとなる。時は進む。

「人は一人一人各々の川を持っている。普段は別々に流れているが、何かの加減で合流することがある。しかし流れの質、速さなどが違う為にまた離れて行く。一瞬でも合えば “縁”。」

その瞬間は真実だったのだ。

『Fratres III』:  暗いトンネルの向こうから現れる孤高の修行者。まさに真のソリスト。指導者でもアンサンブル(群舞)を率いるリーダーでもなく。 とはいえ、抜きん出てストイックに自らを律する。痛めつける。 修行の滝(またはもっと痛いもの)に打たれる時も衣服で防御せず生身で受ける。矜持。背中で教える、みたいな存在。

『春の祭典』:  ダンサーが各々違う楽器の旋律を担当。椅子の背もたれのデザインは五線。というのはリハを観た後で知った。その時はただただ「ベジャールも良いけど金森版よ〜く出来てるわ!」と思った。 楽譜の音を拾いながら振り付けしたといいますが、前知識が何にもなかったとしたら、「先に踊りがあってそれに合わせてストラヴィンスキーと言う人が作曲したんだとさ。」を信じる人がいるかもしれない。 実際、プティパの振り付けした白鳥の湖に合わせてチャイコフスキーが作曲したらしい。

『NINA』の生きてる椅子の作者の五線椅子、一個欲しいです。バリケードになったり柵や檻になったり大活躍でしたが、そこで思い当たった。 楽譜って、作曲者やアレンジャーが忘れないように書き留めておくもの。第三者が見ても分かるようにしておく記録。しかし音符にしてみれば線に串刺しにされてるか挟まれてるかである。身動きが取れない。本当は自由に動きたいのに。 そこで演奏者(今回はダンサー)の出番。秩序は保ちながらも音を楽しく遊ばせてやる。檻から解放する。

こう思い当たると楽譜の見方が変わった。高校の時ピアノの先生に言われるがままにやった曲を久しぶりに弾いてみた。もっともっと気楽に弾ける気がした。(要猛練習)

衣裳も良かったです。シャツのボタンをどこまで止めるかでキャラ、属性が変わる。全止めすれば丸っこくて女性または中性。外すと開衿で首元が鋭角になり男性的。これも良く出来てる〜。

今回の三作品のキーワードは“距離感”かもしれない。この時代に生きていればイヤでも意識せざるを得ない事。

音たちも距離を取ろうと病的に振舞っていたが、ズカズカ踏み込んでくる者がいたりして不協和音が生じる。音同士の距離が近いほど緊張感のある音になる。

しかし、そうならない事にはストーリーが動かないのだ。

まだまだ思い当たることは出てくると思われますが、こんなにみせていただいて、まだプレですよ!さらに進化、熟成するであろう本公演、楽しみです! その前に一月の公演もあるけど。 (2020/8/30)

(たーしゃ)

プレビュー公演楽日(2日目)、練度の高い実演に言葉を失う

2020年8月28日(金)の新潟市は、前日ほどではないにせよ、予報通り、極めて高温多湿。しかしこう何日も続くともう「暑い」などと口走る行為がいかにも陳腐な同語反復に過ぎず、限りなく慎みを欠いた、はしたない振る舞いに思えてしまうような、そんな一日だったとも言えます。

暑さを云々するより、どこまでいっても「これでよし」ということのない、文字通り、神経をすり減らすようなコロナ対応を求められながら、それでもこうしてプレビュー公演を実現してくれた方々に心からの感謝と敬意を捧げたいと思うものです。来年夏に延期された本公演への通過点としてのプレビュー公演を2日続けて観たのですが、この日(楽日)の練度の高さは尋常ではありませんでした。前日は気迫漲る舞踊に大変感動したのですけれど、謂わば、それは力ずくで圧倒され、蹂躙された感じの力業だったのに対して、この日見詰めたパフォーマンスは、気持ちが籠もったという点では同じにしても、より繊細さを増し、無理なく染み込んでくる感じの迫力に満ちたもので、一口に「感動した」と言っても、その肌合いを異にしていたように思います。

やはり定刻を3分ほど過ぎた18:03頃、緞帳は上がり、『Adagio Assai』の幕開けです。やや距離を置いた位置にあって、共振し、共鳴するふたつの身体、井関さんと山田さん。その距離を詰めていき、絡み合って踊られるデュエット。しかしそこから山田さんが抜け出すと、スクリーンの裏側へと駆けていき、こちら側に取り残された井関さんがシルエットとなった山田さんと踊る場面の叙情は到底書き表せるものではありません。この小品の大きな見所と言って差し支えないでしょう。その後、スクリーン手前に戻ってきた山田さんとの再びのデュエットから、今度歩み去って行くのは井関さんの方。残された山田さんですが、その身体が井関さんを覚えている…、そんな具合に余韻をたっぷり残しながら閉じられていきました。

舞台上手方向にゆっくり消えていく山田さんと入れ替わるように、中央奥からゆっくりと歩み出てくる姿こそ、金森さん。しなやかであるとともに、強靱で美しい筋肉にも目を奪われるでしょう。そして、金森さんがソロを踊り始めてから、ややあって、舞台奥から11人がこれまたゆっくり姿を現すと、全員で一糸乱れぬ群舞を展開し、金森さんのソロに厚みが加えられていく、『FratresIII』です。前日、どこを観るかでせわしなく視線を移した反省から、この日は中央の金森さんに視線をロックオンして、後景の11人をアウト・オブ・フォーカスで見ることを選択。これ、何という贅沢でしょう。加えて、知っていながらも毎度、「アレ」の場面ではハッとさせられたりもして、激しい動悸とともに、この神々しい作品を心ゆくまで堪能しました。

休憩になり、知り合いと一緒になる機会があっても、お互い、「良かったですね」とか「凄かったですね」とか、口から出てくる言葉は、どれも言っても言わなくても良いようなものばかり。それくらい「良かった」「凄かった」ってことなのですけれど、何とも情けない話です。(汗)言葉を紡ぎ出すには熟成期間を要する、それがNoismの舞台だったりする訳です。

休憩後の40分は『春の祭典』、前のふたつも含めて、3つとも全く肌合いが違う作品であることも驚くべきことです。全部、ひとりの演出振付家の手になるものなのですから。そして後半に置かれた、この実験舞踊、圧倒的な推進力をもって展開していき、手もなく、感情の昂ぶりにまで連れ去られてしまう訳なのですが、光やら、椅子の白と赤やら、白シャツの襟やら、はたまた昇降する装置や幕などといった無数の細部が読み解かれることを待っていて、例えば、数学の図形の証明のように、適切な「補助線」を引くことが必要なのかもしれませんね。本公演は来年夏なので、まだまだ回数を重ねて観たいと強く思う次第です。まあ、観ながら身中で味わう高揚感が本物なのですから、それ以上、何を望む必要もない訳なのですけれど。

終演後、客席のほぼどのブロックにも例外なく、スタンディングオベーションをもって、感動を伝えようとする観客がいて、その数の多さは目撃したこの目の奥に刻まれています。横一列に並ぶ白の舞踊家たちに黒の金森さんが加わったとき、場内の興奮と拍手は最高潮に達したと言いましょう。

そして、拍手が途切れることなく響くなか、金森さんから退団するメンバーに花が手渡されていきました。まず、Noism2の長澤さん、森さん、そして橋本さんの3人に花一輪ずつが渡され、ついで、Noism1のタイロンさんと池ヶ谷さんにブーケが贈られたのですが、その際に金森さんから頭を抱えられたのは池ヶ谷さん。その後、タイロンさんも井関さんに頭を抱きかかえられていました。どれも寂しいけれど、良い光景でしたね。皆さんのご健康とご活躍をお祈り致します。

ところで、明日の夜(正確には今夜)は、穣さんと佐和子さんによるインスタライブが告知されています。今回、開催されなかったアフタートーク的な内容のものが楽しめる様子。どんなことが語られるでしょうか。大いに興味を掻き立てられますよね。

そして来年夏、新加入のメンバーが加わって本公演として踊られるとき、どんな舞台が届けられるのでしょうか。その際、また新しいNoismに出会えることを楽しみにしたいと思います。

(shin)

猛暑日の新潟市で『春の祭典』/『FratresIII』プレビュー公演初日

2020年8月27日(木)の新潟市は気温が37℃を上回る体温超えで酷暑の「猛暑日」。

立秋はおろか、暑さも収まるという処暑さえ過ぎて、暦上は立派な「秋」である筈なのに、フェーン現象のため、猛烈な暑さに見舞われた新潟市のりゅーとぴあまで、Noism版の『春の祭典』や厳しい冬のイメージ漂う『FratresIII』を観に来るなど、季節は一体どうなっているのか、と眩暈を禁じ得なかったりもした訳ですが、そもそも劇場は非日常の空間ですし、そこで春だ、冬だと言われてしまえば、それぞれ前後左右を一席ずつ空けて、市松模様状態に割り振られた席に身を沈めた者たちはみな、さっきまでの暑さなどすっかり忘れて、季節不明の異空間に身を置く自分を見出すことになったような成り行きの筈です。

緞帳があがった19:03頃。客電も落ちきらぬままといった明かりの具合から、それと気付かぬまま、日常と地続きに見える非日常へと導き入れられてしまう私たち。その目に飛び込んでくるのは、舞台下手に立つ井関さん、向かい合って立つ山田勇気さんは上手側。真横から見るふたり、まずは不動。そこから「非常にゆるやか」に動き出したかと思えば、ぐんぐん加速して腕を振り回します。同時上演の『Adagio Assai』から公演は始まりました。時折、舞台後方に映し出される静止画像が、ふたつの身体の静止振りや速度を際立たせるなか、踊られる切ないデュエットに瞬きも忘れて見入る私たち。陶然たる時、恍惚の境地。

一段落し、微かに風の音が聞こえてくると、緞帳は下りず、今度は冬枯れを思わす暗めの照明のなか、『FratresIII』へと移行していきます。「I足すIIがIIIです」という金森さんの言葉通りの『FratresIII』。金森さんが手前中央でソロを踊り、その背後、舞台狭しと11人が群舞を踊ります。ソロと群舞が極めて高いレベルで拮抗するなか、ほぼ今回がラストとなる舞踊家も観たいし、勿論、金森さんも観たい。では一体どこを観れば良いというのか。私は心底迷いながら、絶えず目を動かして眺めていたように思います。公開リハーサル時にはなかった「アレ」も加わり、腹にズシンと響く超重量級の作品に仕上がっていました。

休憩時間のホワイエには、もう既に思いっきり魂を揺すぶられ、上気した者たちばかりが目につきました。まだ、後半が残っているというのに、です。恐るべきパフォーマンスに、気温とはまったく別物の、興奮で熱した空気が漂っているように感じられました。

休憩が終わると、『春の祭典』です。壇上には、いつの間にかキチンと並べられた椅子があり、その背もたれ、連続した細い横五本のラインは五線譜のようでもあります。白塗りの顔、白シャツとそこから生え出たかのような2本の素足。虚ろな表情を浮かべた21人の現代人が自分の座る場所を選ぶところから始まります。他人を必要以上に意識しながらも、一切の関わりを避け、心を閉ざしていたい者ばかりです。そんな彼ら、見えない舞台の外部に対して揃って不安を抱き、恐れ慄いていた筈が、いつしか理性の対極に位置するかのような、心を掻き乱す不穏なリズムと不協和音に満ちたポリフォニーに煽られて、内側の暴力性を目覚めさせていきます。その変容のさまを、白シャツを汗まみれにするだけでは足りずに、汗の飛沫を飛び散らせながら、有無を言わせぬド迫力で、可視化していく舞踊家たち。頭をガツンと殴られでもしたかのように感じる作品と言っておきましょう。

こんな物凄い芸術があってくれて良かった。それもこんな時期に、ここ新潟に。どうしても観に来られなかった人がいて、躊躇った末に観ることを諦めた人がいるなか、今、これを観られることの僥倖を噛み締めた一夜でした。と同時に、何か後ろめたいような思いもあって、心の中では、この先、芸術を求める者は誰でも、安心して、その求める芸術によって心が満たされる、当然と言えば当然でしかない、そんな日常が一日も早く戻って来ることを願いました。

(shin)

公開リハーサル2日目、金森さん「今回お見せできてよかった」

2020年6月14日(日)の新潟市はお昼頃から雨。しかし、あまり気温が上がらなかったため、不快感はさほどでもなかったのが救いでした。

そんななか、新潟在住の活動支援会員を対象とした公開リハーサルの2日目です。今日も取材クルーの姿が数多く見られ、前日と併せて、県内全てのテレビ局が大きな機材を抱えて劇場を訪れたように思います。

で、この日の感染予防措置ですが、検温機器の設置場所に前日からの変更点があり、まだまだ手探り状態にあるといった様子で、検温スタッフにとっても、この2日間の全てが「リハーサル」であったり、ある意味、「実証実験」でもあったりするのだろうと理解しました。

前日とは異なる動線の配置
「正常な体温です♪」
検温機器にそう言われない限り、
この先には進めません
この光景、初めての方には物々しく映りますよね
脇道に逸れますが、感染経路を追うためという
趣旨はホテル等の宿帳も同じと聞いています

この日もリハーサル開始時刻が近付くにつれ、静寂が場内を支配するようになり、その静けさがいつまでも続くかと感じられ始めた頃、15時を2分ほどまわっていたでしょうか、これまた音もなく、スルスルと緞帳が上がり、井関さんと山田さんの脚部から、体幹、そして顔が、順に、真横から見るかたちで、私たちの目に入ってきます。ためらうような、たゆたうような、求め合うような、そんなふたり。『Adagio Assai』(仮)です。見惚れるしかないふたり。映像との相互作用も、通り一遍のものではないため、目は舞踊家と映像の行き来を求められるなど、上品な刺激に満ちたものと言えます。緩やかな切なさが印象的な小品です。

そして、ある効果音が聞こえてくると、そのまま『Fratres III』に接続していくのも前日観た通りです。舞台中央奥、登場時点から既に金森さんの目、或いは表情は、「同志」を先導する者のそれにしか見えません。そこから始まる「祈り」と同義でしかないソロと群舞が創出する豊穣な時間。ブレることなく、自らコントロールできることのみに専心する愚直な潔さが観る度に胸を打ちます。

休憩後は、実験舞踊vol.2『春の祭典』。金森さんのこの新作で、ストラヴィンスキーの手になる変拍子や不協和音に合わせて、21の身体を通して可視化される世界は、バーバリズム(野蛮・未開)とは異なる、極めて今日的な主題の体系に収まるものと言えるでしょう。混沌としていながらも、(須長さん制作の椅子に代表されるような)直線的なシンプルさ、或いは明晰さも同居したものであり、照明の果たす役割が印象的な作品と言うに止めておきます。

全て終わった後、この日も「ブラボー!」の掛け声が飛ぶなど、目にした舞台が、もはや「公開リハーサル」の範疇で語られるものではないことは誰しもが共通して感じていた事柄に過ぎません。ただ、舞台両袖に様々な道具や資材の類いが隠されることなく、全て顕しにされていたことのみが、これが「リハーサル」であることを思い出させるくらいだった筈です。

最後の挨拶。この日の金森さんは笑顔で話されました。「ほとんど本番。今まで仕上ったもので、最上のものであり、何の出し惜しみもありません」と。更に続けて、「今、ここに彼らがいて、皆さんがいて、今、この日の実演を彼らがやって、今、この瞬間が非常に貴重だということです。この困難な社会を生きていくうえで、一助になれれば嬉しい。これからも精進していきます」とも。

金森さんがそう語り、一通り、挨拶も終わった感が伝わってきた頃合いで、金森さんの後方、一列に並んだ舞踊家たちの列の中央、井関さんがしきりに隣のジョフォアさんの腕を掴んで、前に押すような仕草を見せています。

そのタイミングで、金森さんが、「ジョフ(ジョフォア・ポプラヴスキーさん)は今シーズンで終わり。8月から、次のカンパニーが始まるので、7月で(Noismを)離れなきゃいけない」と告げるではないですか!「他にもいるんだけど…」と「悲報」の多くは語られなかったものの、ジョフォアさんについては、「今回お見せできてよかった」と言い、8月のプレビュー公演には出演しないことが明らかになりました。(涙)

前日とこの日、『春の祭典』の冒頭、ジョフォアさんの登場場面、大柄の体躯を小さく折りたたむことで表出された「可愛らしさ」が個人的にはツボだっただけに何ともショックな報せでした。

でも、彼がNoismのDNAとでも言うべきものを次なる場所に拡散してくれて、異なる場所にいるNoismファミリーとして踊り続けてくれることを期待したいと思います。そして、この先も長く、新潟のことを覚えていてくれたら嬉しいです。いつまでもみんなで応援していきましょう。

さて、実演は一旦終了ですが、今週の金曜日(6/19)にはシビウ国際演劇祭2020 online special edition にて、Noism1の『R.O.O.M.』がオンラインで配信されます。奇しくも、「実験舞踊」繋がりでもあり、あの野心作、久し振りに堪能したいと思います。配信はライヴ配信のみで、朝4;20からと、夕刻16:20からとのこと。詳しくはこちら、Noism Web Siteをご覧ください。

(shin)

渾身!熱い思いで実現した活動支援会員対象 公開リハーサル初日

数日前に梅雨入りが報じられましたが、この日も新潟市に雨はありません。2020年6月13日(土)の新潟りゅーとぴあ・劇場、年頭からのコロナ禍に延期に次ぐ延期を余儀なくされ続けたNoismの舞台にまみえる機会を、全国の、否、世界中のファンに先駆けて手にし得た果報者は、Noism Company Niigataの「ホーム」新潟に住む活動支援会員、およそ50名。更には、開場前からメディア各社も集結しており、「劇場再開」への関心の高さが窺えました。

待ちに待った案内…

沸き立つ心を抑えつつ、足を踏み入れたりゅーとぴあの館内で私たちを待っていたのは、長い空白の果てに漸く、この日を迎た劇場の「華やぎ」ではなく、「With Corona」時代の劇場が直面する「物々しさ」の方だったと言えるかもしれません。

館内に入ると先ず
サーモグラフィーカメラで検温
この後、劇場前に並びます
距離をとって2列に並んだ先、
劇場入り口手前はこんな感じ
6つの「お願い」近景
入場直前に再度の検温

列に並んでいる間、りゅーとぴあの仁多見支配人をお見かけしたので、ご挨拶した後、少しお話する機会を持ったのですが、すぐに検温スタッフが飛んできて、もう少し距離をとるように注意されたような次第です。

入場受付スタッフは当然、衝立の向こう
ホワイエには連絡先記入用紙も
受付時に座席指定がありました

漸く迎えたこの日、久方ぶりに集う見知った顔、顔、顔ではありましたが、それ以上に「重々しさ」が漂うホワイエは、私たちに今がどんな時なのかを決して忘れさせてくれませんでした。

公開リハ開始15分前、促されて劇場内の指定された席へ進みます。すると、この日の席は一列おきのうえ、両横が3つずつ空けられて配され、そのため、中央ブロックは各列4人、脇のブロックは1人ないし2人しかいないというこれまで見たこともない光景を目にすることになり、その裏に、この日を迎えるための厳しいレベルでの安全管理意識の徹底振りにハッとさせられたものです。

15:00。客電が落ちてからは、そうした時間とはまったく異なる別の時間が流れました。最初はNoism0・井関さんと山田さんの『Adagio Assai』(仮)です。緞帳が上がると向かい合うふたり。無音。不動を経て、動き出すと、次いで流れるモーリス・ラヴェルのピアノ協奏曲、その第二楽章、そして映像。熟練のふたりによる「とてもゆっくり」流れる豊かな時間。『春の祭典』ポスターが舞踊家たちの足を捉えているのと対照的に、今作ではふたりの手に目を奪われます。

15:13頃。浸って見つめていると、緞帳は下りぬままに、次の演目であるNoism0 + Noism1『Fratres III』にそのまま移行しました。ですから、Noism0と言っても、井関さんと山田さんは不在で、金森さん+Noism1(併せて12名)とでも言った方がよい感じでしょうか。で、この完結版とも言える『Fratres III』ですが、いつかの折に、金森さんが「I 足す II が III」と言っていた通りの構成で、その言葉からの想像は当たっていましたが、実際、目にしてみると、これがまた圧巻。鬼気迫る金森さん、一糸乱れぬNoism1ダンサー。それはまさに「1+2=3」以上の深みと高揚感。圧倒的な崇高さが目を釘付けにします。「そうなる訳ね。ヤラレタ」と。更に、どうしても「コロナ禍の舞踊家」というイメージが被さってきましたし、「これを目にする者はみな勇気づけられるだろう。慰撫されることだろう」と、まさに今観るべき舞台との思いを強くした15分弱でした。

休憩を挟んで、今度はNoism0 + Noism1 + Noism2による実験舞踊vol.2『春の祭典』。ホワイエから戻り、自席から目を上げると、緞帳の前、横一列に綺麗に並べられた21脚の椅子。舞踊家にはそれぞれ別々の楽器が割り振られているとの前情報から、背もたれを構成する横に走る黒い5本の線が21脚分、一続きになって並ぶ、この冒頭部においては、何やら五線譜を想像させたりもしますが、須長檀さんによるこの一見、無機質に映る椅子は、この後やはり、様々に用いられ、様々な表情を示すことになります。

作品に関してですが、私自身、先行する『春の祭典』諸作について深く知るものではありませんので、次のように言うのも少し躊躇われますが、ストラヴィンスキーのあの強烈な音楽に導かれると、畢竟、情動的なものへの傾向が強くならざるを得ないのだろうと、そんな印象を抱いていました。それが金森さんの新作では、情動のみならず、理知的なコントロールが利いていて、つまりはスタイリッシュな印象で見終え、私たちの時代の『春の祭典』が誕生したとの思いを強く持ちました。また、この作品、若い西澤真耶さんが大きくフィーチャーされていることは書いておいても差し支えないでしょう。準主役の立ち位置で素晴らしいダンスを見せてくれます。ご期待ください。

ネタバレを避けようということで書いてきましたから、隔靴掻痒たる思いも強いことかと思われますが、ご了承ください。今回、公開リハーサルとしながらも、休憩を挟んで、見せて貰った大小3つの作品は、どれひとつ取っても、大きな感動が約束されたものばかりだと言い切りましょう。『春の祭典』の終わりには、「ブラボー!」の掛け声がかかり、会場の雰囲気はリハーサルとは思えないようなものであったことを書き記しておきたいと思います。

また、こちら過去の記事4つ(いずれも「Noismかく語る・2020春」)ですが、併せて御再読頂けたらと思います。

最後、客席から黒いマスク姿の金森さんが登壇し、挨拶をした場面について触れない訳には参りません。

舞台上、熱演した舞踊家たちに、”You guys can take a rest.(さがって休んで)”と指示を出した後、「本当は昨日が初日だったんですけど、…」と語り始めた金森さん、そこで声を詰まらせ、続く言葉が出て来ません。そのまま後ろ向きになると、私たちの目には、必死に涙を堪えようと震える背中が、そして私たちの耳には、その手に握られたマイクが拾った嗚咽が。瞬間、客席にもこみ上げる熱い思いと涙が伝播します。やがて、「…ご免なさい。こんな筈じゃなかったんだけど。言うことも考えていたし…。」と言った後、続けてキッパリと言い切ったのは「これが今の我々に出来るベストです。我々にとっての本番です」の言葉。「出来る限りを続けていきます」とも。

更に、「今出来る限りをやりたいということで、スタッフにも演出家のワガママに付き合って貰いました」と、リハーサルらしからぬリハーサルが実現した舞台裏を明かしながら、スタッフに向けられた感謝の言に溢れていた、この日に賭ける並々ならぬ気持ちに打たれなかった者はひとりもいなかった筈です。

いつ果てるとも知れない、暗く長いトンネル。未だ「抜け出した」とは言えないような日々。不安で不自由な環境の中にあってさえ、共有されていたNoismというカンパニーの鍛錬に纏わる揺るぎない精神性。同じものを見詰める「同志」たる舞踊家たち。その凄さを垣間見せることになったのが、この日の公開リハーサルだったと思います。

終演後は、大きな感動に包まれながらも、場内放送で、後方の席から順番の退場を指示されるなど、私たちの周囲にある「現実」に引き戻された訳ですが、そうした「現実」があるのなら、勿論、「生活」だけでは満たされ得ず、真に「生きる」ために、こうした優れた「芸術」や「文化」が必要であることが身に染みて感じられた次第です。裏返せば、それこそ、私たちが「Noismロス」になる理由です。(長い文章になってしまったのも、ここまでの長い「Noismロス」の故とご容赦ください。)今回、ご覧になれない方々、次の機会まで今暫くお待ちください。今度のNoismも、必ずその辛抱に応えてくれますから。

この日、確かに、Noismの歴史がまたひとつ刻まれたと言っても過言ではないと思います。それを目撃し得たことの、否、ともにその時間を過ごし得たことの喜びに、今、浸っています。

(shin)

「空気を吸う」(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』東京公演

例えば、ひとつひとつの動きがある種の記号であると考える。
それはローマ数字やピクトグラムのような、
あるいは象形文字のような
それ自体がハッキリとした意味を持つ記号と考えることもできるが、
ここではむしろ平仮名やカタカナ、アルファベットのように個々には意味を持たないが、
いくつかが連なることで単語あるいは文章という意味性を持つ
“意味のない記号”と考えたほうが面白い。

すると、さまざまな方向から(上からまでも!)現れる記号は、
まさに頭の隅々から次々と現れ、
それが連なることで文として成り立っていく文字要素という記号に似ていることに気が付く。

ひとつひとつの動きに意味を見いだすことはできなくても、
その出現の仕方、場所、方向、そして次の個との連なりなどによって
確かに揺さぶられる心情。
なるほど、これは文章なのだ。

思えば、そのヒントはすでにタイトルにも内包されていた。
『ROOM』ではなく『R.O.O.M.』。
この4つのアルファベットに、それぞれ意味は割り振られているが
要は一文字一文字が記号として独立した個、ということではないか!
・・・と、一人悦に入ろうとした瞬間、
その思考は簡単に打ち砕かれた。

こういう時、私の浅はかで理屈っぽい思考を無下に打ち砕くのは、
いつも井関佐和子その人。
そこに舞い降りた(そう、文字通り降りてきた!)彼女は、
まったくもって記号などではなかった。

記号と言うには、あまりに自在で
記号としての定型感がなく、
それはむしろ色とか雰囲気とかニュアンスといった種類に近く、
いわば、さまざまな記号を包み込むように漂う空気感のようなものだ。

それは、読み解くものでは無く吸い込むものなのだ、空気のように。

だとしたら、包まれる記号と包む空気との関係とは何か。
いや、この舞台において両者はそのように対峙するものなのか。
そもそも“両者”と区別すべきものなのか
・・・だが、違う、明らかにそれは種が違うのだ。

という、いつもの疑問に辿り着いた頃、無情にも『R.O.O.M.』の幕は下りた。
                Kinya(2019.2.23:吉祥寺シアター)

新潟から届いた箱の中に入っていた心のときめき

Noism1:実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』を見る

山野博大(舞踊評論家)

 新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ専属舞踊団Noismが吉祥寺シアターで公演を行い、金森穣の新作、実験舞踊『R.O.O.M.』と『鏡の中の鏡』を上演した。舞台には長方形の巨大な箱が置かれていた。内部には、銀色の正方形のパネルが上から奥、そして両サイドまでぴたりと張り巡らされていて、客席側の紗幕(実際には紗幕は無いが)から、奥に広がる何もない空間が見えた。日本の能、歌舞伎、日本舞踊などの世界には、黒衣(くろこ)とか、後見(こうけん)と呼ばれる舞台で演技者を助ける役割の者が存在し、それを「見えないもの」とする約束事がある。それと同様に、そこに紗幕がなかったとしたら…。ダンサーたちは、完全に密閉された箱の中で踊り、それを見る人は誰もいないという状況が出現しているのではないか。金森穣は、そんな設定で実験舞踊を創ったのだという想いが頭をよぎった。

『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信
『R.O.O.M.』撮影:篠山紀信

 突然、カミ手寄りの天井のパネルが開き、男性ダンサーの下半身が現れるという思いがけない成り行きで『R.O.O.M.』は始まった。男性5人が次々と落ちてきた。彼らは特に何かを表現するということもなく、ただただ力一杯に動き回った。次いでトゥシューズの女性ダンサー6人がやはり上部のパネルのあちこちに開いた穴から登場し、バレエのステップを粛々と展開した。井関佐和子のソロがあり、次いで、はじめに登場した男性5人のひとり、ジョフォア・ポプラヴスキーとのデュエットになった。デュエットでは男女のさまざまな心理的変化が描かれることが多いのだが、このふたりはむしろそれを排除して踊っているように見えた。さらに男女12人のダンスが続き、箱のそこここにぽっかりと開く穴からダンサーたちが忙しく出入りした。最高潮で暗転となり、全員が現れて前にずらりと横一列に並んだ。これはどう見てもカーテンコールの風景だ。ひとしきり動いて次々に退場。最後に井関が中央奥の穴から退いて作品は終った。劇場の黒い幕が降りて長方形の巨大な箱を隠すと、劇場空間の舞台と客席を分かつ基本構造のからくりが、精密に仕組まれたダンスの紡ぎ出す人間の感情を抑えた『R.O.O.M.』のドライな触感の余韻と共に、にわかに明らかになった。

 舞台と客席を幕で仕切った劇場という空間は、よく考えてみるとおかしな場所だと思う。舞台の上で繰り広げられる出来事とまったく関係のない人間がそこにつめかけ、一喜一憂するのだ。演出家をはじめとする多くの人たちが寄り集まって、客席との一線を意識させないようにいろいろと工夫を凝らし、観客の心を舞台の上で進行している出来事に取り込もうと手を尽くす。そのおかげで、観客は、普通ではなかなか体験できないような不思議な世界に遊ぶことができる。そんな劇場という空間の基本的な仕組みを、金森穣は観客に思い出させた。

 次の『鏡の中の鏡』の幕が開くと、金森が中央に座り、カミ手後方に等身大の鏡がはめこまれている空間が見えた。密封された箱の中という状況は同様だった。金森が力強く動いては、時おり鏡に自身のからだを写した。しばらくして、その鏡に井関佐和子の姿がダブって写った。鏡は半透明になっており、その背後のものに光をあてると、それが同時に写るように仕組まれている。暗転後、パ・ド・ドゥとなった。人間的な感情の交換がたっぷりとあり『R.O.O.M.』のデュエットとの対比は明らかだった。しばし踊った後、二人ははなれたところに座り、もう動こうとしなかった。金森がわずかに動いたところで暗くなり、そのまま『鏡の中の鏡』は終わった。

『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信
『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信
『鏡の中の鏡』撮影:篠山紀信

 新潟から届いた巨大な箱の中に入っていた、人間的な感情の交換を徹底的に排除した『R.O.O.M.』と情感たっぷりの『鏡の中の鏡』の対比が心に残った。金森穣が設定した外から見ることができないはずの空間での実験に立ち会った私は、劇場の持つ意味を改めて確認し、「見られないはずのものを見せてもらった」ひそかな心のときめきを覚えつつ劇場を後にした。

(2019年2月21日/吉祥寺シアター所見)

漸く来た!Noism、2020年8月まで活動期間更新の報せ♪

Noismを愛する皆さま。既にご存じかとは存じますが、
本日(2019/3/6)、Noism活動期間更新の悦ばしき報せが入りました。
2020年8月までとのこと。
従来の「3年単位」ではありませんが、先ずは一安心といったところですね。

しかし、あくまでもこれは「暫定措置」とみるべきで、
中原市長の市政においても、
Noismがこれまでと同様にしっかり新潟市に根を張った活動を展開していくためには、
やはり「3年単位」の更新を勝ち取っていかなければならないとの考えに変わりはありません。

で、2020年8月以降の活動につきましては、
これまで1年前に決定されるのが常だったことを考え併せますと、
今年の8月~9月くらいに方針が出されるものと考えられます。
今から約半年後となります。まさしくここが正念場な訳です。

幸い、先頃の実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』で
初めてNoismをご覧になった市長はかなり好印象を持たれた、
という話も伝わってきております。
そうした追い風も大事にしながら、
Noismの安定した活動を手にしてするべく、
サポーターズ一丸となって応援していかなければなりません。

また、先日の特別アフタートークの席上、
会場から「Noismのために何をしたら良いですか?」と問われて、
金森さん、即座に「友人、知人、見知らぬ人を劇場に連れてきて下さい」との答え。
何を措いても基本はまずそこなのでしょう。
皆さまからの益々のご協力、ご支援をお願いする次第です。
この機に、追い風に乗って、
明日に向かって滑空していかなければなりませんね。
どうぞ宜しくお願い致します。
(shin)

名作『R.O.O.M.』/『鏡~』を反芻する「桃の節句」、特別アフタートーク特集

2019年3月3日(日)16:30のスタジオB。先週その幕を下ろした「名作」実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』に纏わるディープな話に耳を傾けんと、大勢の方が詰めかけ、スタッフは大急ぎで椅子を増やして対応していました。関心の高さが窺えるというものです。そして私たちの向かい側、私たちが見詰める先には「桃の節句」らしい雛壇こそありませんでしたが、並べられた人数分の椅子に、つい先日までとは打って変わってリラックスした表情の13人の舞踊家が腰掛け、この日の特別アフタートークは始まりました。
ここではその一部始終をお伝えすることなど到底できませんが、なんとか頑張って、少しでも多くご報告したいと思います。

勢揃いした13名。左から順に、西澤真耶さん、西岡ひなのさん、カイ・トミオカさん、チャン・シャンユーさん、チャーリー・リャンさん、池ヶ谷奏さん、金森さん(中央)、井関さん、浅海侑加さん、ジョフォア・ポプラヴスキーさん、林田海里さん、井本星那さん、そして一番右に鳥羽絢美さん。お内裏さまが居並ぶような華やかさがありました。

併せまして、noiさんがtwitterにおける今回公演に関するツイートのまとめを二度に渡って行ってくれていますので、そちら(togetter)も参考にされてください。
 ☆新潟公演時点でのまとめ 
 ★東京公演のまとめ

先ずは『R.O.O.M.』、天井のアイディアのきっかけ
NHKのドキュメンタリー番組でシャーレを観察する様子を見て、感銘を受けて、「上からかぁ。スタジオBならできるかなぁ」と金森さん。
そこからは、柱もないこともあり、荷重を巡って、「一度にあがるのは3人くらいがせいぜい」と言う舞台監督と、「12人」と言う金森さんのやりとりが始まっていったのだと。
天井高については、井関さんの逆さ天井歩きから自ずと導き出された高さであるとのこと。

「プロジェクションマッピング」に関して
チャーリーさんの腹部と背中のそれに関しては最初から用意していたものを途中から使った。
一方、井関さんの方は、ソロのバックに何かが足りない、映像であることの必然性が足りないと感じて、撮影して追加したもの。お陰で、「過ぎた時間と対話して踊る」印象になった。(別の機会に、井関さんから、井関さんが増えて見えるそのシーンが『おそ松くん』と呼ばれている旨伺っていたこともここに書き添えておきます。)
また、投影方法に関しては、新潟は上から、東京は下からと異なった。(東京では井関さんから「眩しい」と文句を言われたとか…。)

ポワントについて
金森さん「ポワントなしだと何かが足りない。数センチ足したら、これでいい、と。今後も使うつもりはある」
池ヶ谷さん「目線が高くなり、床面との距離感が変わって最初は怖かったし、筋肉痛もあったが、履くことで出る新しい動きを楽しみながら履くようにしていた」
浅海さんも同様で、「ポワントでしか出来ない動きがあり、新しい発見があって面白かった」
井本さん鳥羽さんは「ポワント履いて普段やる動きではないので、思わぬところが破けたり、消耗が早かったりした」
西岡さんの「大胆な動きが多かったので、『ポワント、可笑しいだろ』と思った」には会場中が大爆笑。
西澤さん「なかなか昔の感覚が戻ってこなくて、穣さんに『お前、ホントに履いてたのか?』と言われた」
井関さんは「20年振りだった」と。

Noismに入ろうと思ったきっかけ
カイさん「日本人とイギリスのハーフ。ストリート系が主流のイギリスのコンテとは異なるスタイルの日本のダンスがどんなものか、日本でしか学べないものを学びたかった」
シャンユーさん(今回、新加入ではありませんが、)「10年前、台湾で『NINA』を観て、金森さんと井関さんからサインを貰って、写真を撮って貰った。先輩のリン(・シーピン)さんが所属していたので、自分もできるかなとオーディションを受けた」
チャーリーさん「2017年、香港の大学を卒業後、フリーランスで踊っていたが、つまらないと感じ始めていた頃、『NINA』公演の際、オーディションを受けた。その後に『NINA』を観たのだが、今まで観たことのないダンスだった」 (帰国後、「オーディションの結果はどうだった?」とチャーリーさんから定期的にメールが来ていたことを金森さんが明かすと、会場は笑いに包まれました。)
ジョフォアさん「Noismのことは知らなかった。日本人の彼女がいることから、日本には来たいと思っていたのだが、所属するカンパニーを離れる決断はつかなかった。そんな折、芸術監督の交代とNoismの募集が重なった」
林田さん「6年間、欧州にいた。Noism出身の人もいたので噂は聞いていて、興味があった。当時、チェコにいて、生活のリズムや働き方のスタンスの違いに直面し、自分のやりたいことが出来るのか疑問に感じていた。何かを変えないとやりたいことに到達できないと思って、オーディションを受けた」

あのチャーミングな靴下について
元々はグレーでいくつもりだった(確かに公開リハのときはそうでした。)が、衣裳を着けてみると「色味が足りない」となった。それが本番の週の頭のこと。で、井関さんの靴下ボックスから色々並べてみて、オレンジ(女性)、ピンク(男性)とすることになり、買いに走ったもの。女性用はチュチュアンナ、男性用はユニクロでお買い上げ。但し、男性用は途中を切って縫い直してあるのだそう。

次にあの「銀色」の正体について
床は(業務用)アルミホイル+その上に透明なシート。天井と横も同様にアルミホイル。「何度も買い足しを行っただけでなく、その店の在庫全部を買ったこともあった」(制作の上杉さん)

『R.O.O.M.』の「壁」
横3ケ、奥6ケに分解でき、床は平台の上に載っている。移動は、10トントラック1台+4トントラック1台で行った。このあと、りゅーとぴあからシビウに向けて発送するとのこと。

『鏡の中の鏡』の音楽について
最初は振付を全く違うアルヴォ・ペルトの曲(『Spiegel Im Spiegel』)に合わせて行ったのだが、楽曲の使用料が高すぎることで断念、変更したもの。

キャストのアンダーに関して
この長丁場の公演、13人の舞踊家に不測の事態があったときのアンダーとして、準メンバーの片山夏波さんと三好綾音さんを同行させていて、ふたりで、女性キャスト6名のパートを半分の3名ずつに分けていたとのこと。それでも男性メンバーのアンダーは不在のため、もし何か起きたら、構成を変えるか、「俺がやるか」(金森さん)ということだったらしいです。

今回、全18回の公演を通した後の心身の変化について
西澤さん「最初、下りるとき、腕がプルプルしていたのが、2回公演でも平気、最後は全然余裕になっていた」
鳥羽さん「一日2回も『あっ、いけた!』と自分でも嬉しかった。リフレッシュしながら、違うお客さんに新たなものを見せることの大切さに改めて気付いた」
西岡さん「自分はルーティンを変えたくない人。リラックスの仕方が重要と思った」
井本さん「下りることが毎回同じにはならないことで、踊りに影響が出ていたりした。しかし、今は、『違っていいのだ』と違うことを楽しめるようになった」
カイさん「セクション毎に動きの質が違う作品。その都度違うことが起きるのは仕様がない。その都度学ぶことがあった。最後の公演で気付いたことを最初に気付いていたかった」
林田さん「公演期間中、生活にも緊張感があった。これほど体調に気を遣ったことは今までなかったこと」
シャンユーさん「Noism3年目で悩みもある。最初に肩を痛めてしまい、自分は踊らない方がいいんじゃないかとすら思ったりしたが、ストレスのある実人生も、ステージ上では幸せを感じた」
ジョフォアさん「全部のエネルギーでぶつかっていくタイプなのだが、『R.O.O.M.』は違った。頑張れば頑張るほど、金森さんの美学と違う方向へ行ってしまった。受け入れて、金森さんの求めるように動こうとしたら、味わったことのない痛みが味わったことのない箇所に生じたりしたが、しっくりいき始めた」
チャーリーさん「パフォーマンスは毎回、精神状態も身体のコンディションも異なる。日々違う自分と向き合う経験をした」
浅海さん「実験舞踊ということで、自分でもルーティンを止める実験をした。その日その日で違う18回、違う圧、違う空間を感じることが出来た」
池ヶ谷さん「公演回数が多いことは経験もあり、どこでどのようになるのか予想はついていたが、年齢から回復に時間を要するようになった。踊っている以外にも色々考えていなければならないことが多くて、集中するのが大変だった。濃い一ヶ月を過ごせた」
井関さん「過去にも20回公演などの経験がある。細かなことは覚えていないが、全て自分の血肉となっていると思う。今回も、全て踊り終わった直後、『踊りたい』と思った」
金森さん「その都度、その日やることをやるだけ。怪我とかせずに踊り通せたことは自分を褒めてあげたい。舞踊家として過ごしてきて、今、頭の中にフィジカルなものが浮かんでいる。今はフィジカルなものを作りたい気持ちでいる」

『R.O.O.M.』の振付について、或いは、振付(創作)一般について(金森さん)
「『R.O.O.M.』では、何かを計算してということではなく、意味とか情感から入るのではなくして、理路整然としたズレではないものを『面白いな』と選んでいった。どうなるのかわからないなか、やってみて、立ち上がったものから拾っていった感じ。」
「最初に動機はあるが、形や動きにしたときにどうなるのか客観的に判断しなければならない。生み出したものの責任を負う。それがより生きるためには何をするべきなのか。クリエーションにあっては、自分の作品なのだけれど、自分の所有物ではないという感覚、それを大切にしている」
「(自分の)感情を起点にして振付を行うと、限定的なものになり、作品が閉ざしてしまうことに繋がりかねない。敢えて、自分とは違うものを求めるなど、作り出す営為にはそれがどのように見えるかの視点が大切」

市長とのその後
Noismの今後の命運の鍵を握る中原(新)市長とは、市長の鑑賞後、まだこれといった交わりはなく、「近々、観に来ていただいたお礼を言いに行くつもり」(金森さん)とのことでした。

その他、国際性を増した新メンバーに関して、Noismメソッドの印象、自国と日本の違いなど、興味深いお話が続きましたけれど、さすがに全てをご紹介することはできません。そこで、ここでは林田海里さんとカイ・トミオカさんの言葉を引いて一旦の締め括りとさせていただきます。
まず、林田さん、「このジャンルは多様性ありき。色々な国籍の舞踊家がひとつのカンパニーにいて当たり前。見易い国籍の違いではなく、パーソナリティやアイデンティティの違いを楽しんで貰いたい」
そして、カイさん、「それぞれの舞踊家に対して、ここまで欲しいもの、欲しい身体がクリア(明確)な芸術監督は金森さんが初めて。これまでは至って自由だったと言える。その求めるものの結実を見たものがNoismメソッドだと理解している」また、「他国で踊っている舞踊家の方が舞踊家でいることが容易だ。こうしてNoismで踊れていることがどれだけラッキーなことかと思う」とのことでした。

記事の最後に重要なお知らせがあります。只今、6月のモスクワに招聘されている劇的舞踊『カルメン』の公開リハーサルの日程を調整中とのことですが、それをご覧になるには、支援会員であることが必要だそうです。
そして、その公開リハ、キャパの都合から2回行う方針だとのことでした。国内ではその2回が『カルメン』を観る機会の全てとなります。まだ、支援会員になっておられない方にとりましては、最重要検討事項であること間違いありませんね。

この日の特別アフタートーク、18:00の終了予定時刻を15分過ぎた18:15にお開きとなりました。105分間に渡って、それこそあの「名作」のように、どんな話が飛び出すか予測不可能な成り行きに身を任せて、あの「名作」を反芻することが出来ました。ここで取り上げられなかった事柄もまだまだ沢山あります。コメント欄にて、皆さまから書き加えたりして頂けましたら幸いです。宜しくお願い致します。

それでは、次は鮮烈な赤のチラシ&ポスターが既に私たちを挑発しているNoism2定期公演の会場でお会いしましょう。
(shin)