既に「名作」の呼び名を欲しいままにする『R.O.O.M.』/『鏡~』大千穐楽(東京公演最終日)

すっかり春といった風情の2019年2月24日(日)、その名作は新潟と東京併せて17日間18公演の最後の幕を下ろしました。ここまで5週間、律義にほぼ週末毎に、見たこともない「異空間」を立ち上げて私たちを魅了してくれていたその名作が、一旦、国内でのすべての公演を終えたのは、東京の吉祥寺シアター、時刻にして19時少し前のこと。深い感動や満足と同時に、もうあの「異空間」にまみえることは叶わなくなった事実が棘のように刺さった時刻でもありました。

観客は勝手なものです。演じる者たちの身体のあちこちに増えることはあっても減ることのないテーピングが物語る身体を痛めつけ続けた過酷な日々にも拘わらず、まだまだ観たかったなどと容易く口にするのですから観客は本当に勝手なものです。

しかし私たち観客も知っていたのです。この5週間に目にしたこの2作が紛れもない名作だということなら。そしてその名作の記憶は、この度演じた13の身体、その所有者の名前とともに私たちの内部に刻まれることになりました。終演後、捧げられた惜しみない拍手と歓声、スタンディング・オベーション、それらは皆、それぞれの身体の限界ギリギリのところで「異空間」を立ち上げて魅せてくれた13人の舞踊家が当然に受け取るべき「栄誉」な訳ですから、私たちはもっと長く、もっと激しく、まだまだ拍手していたかったのでした。

今回、その刺激に満ちた豊饒な2作品がどんなふうに映じたか、個人的な印象を以下に書いてみようと思います。(読まずにおきたい向きは、☆☆☆印から★★★印までを飛ばして下さい。)

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

『R.O.O.M.』。目を奪うほどの威容を示す「箱」の中で展開される実験とその観察(全12場面)。架空の種、その「胚」の発生を辿るかのような体験。滴り落ちるも自らが何であるかを知ることのない原初の「胚」。やがて、手を発見するも未だ使い方は知らず、それを照らす光源をいぶかし気に見上げたかと思ううち、それが動くことに気付き、そこから意のままに動かすことを覚えていきます。足についても同様。両方の足の甲で床を打つことを通して、足を発見。動かしてみると動いたことから、動きを獲得していくと、いつしか立つことを覚え、遂にはつま先立ちをするまでに至ります。(但し、四肢に類する部位として、手を介して、頭部をも発見しますが、それはどうやらあまり使い途がないようで、なんとも皮肉です。)
それぞれの「胚」が示す発生の過程にあっては、時に他の「胚」が辿った過程を掠め取るかのように一足飛びの発生を見せる「胚」(ジョフォアさん、池ヶ谷さん)も現れてきます。更に、女王然とした「胚」を踊る井関さん。ひとり超越的な別次元の運動性を獲得する迄に至ります。

そうして個体が確立されると、次に待っているのは、他の個体とのせめぎ合い。同種間の、そして異種間の闘争に似た様相を呈して、それは描かれていきます。女性舞踊家の「種」が示す、男性舞踊家の「種」に対する優位性には、『NINA』を彷彿とさせるものがあり、その威圧感たるや半端ないものがありました。未だ覚醒を見ていない自らの力能、それを覚醒させるためには、「触媒」として他の個体すらも利用していきます。そしてそこから先は「適者生存の理」に従い、振るい落とされていく個体と残る個体の別を見ながらも、最終的には全てが篩にかけられてしまう迄を概観する「実験」。私たちが見詰めるのは「箱」の内部だけながら、その外部も大いに気になる作りになっていると言えるでしょう。そして最後にやってくるカタルシスには圧倒的なものがあります。

『鏡の中の鏡』。①ソロ:苦悩のあまり蹲る金森さん。自らを纏め上げる全的なイメージがつかめず、心底から苦しんでいます。鏡が映す自らの姿にも満たされることはなく、出口なしといった感じです。そこに「天啓」のように一筋の光明が差し込みます。鏡に映る姿に己の別の姿を認めるからです。

②ソロ:鏡を見ながら孤独に苛まれ絶望する井関さん。他者との邂逅を求めるのですが、それは得られそうもありません。そこに導きが与えられます。きっかけはまたしても鏡。鏡が映す「手」から、孤独を埋める、埋めないだけではなく、自らを突き詰めることから他者へと至る道筋が拓けます。

③デュエット:苦悩する魂と孤独な魂。観客はそれらふたつを同じ「箱」空間のなかに目にしますが、踊る金森さんと井関さんの視線は交わることはありません。それは、ふたりを一緒に見ていながらも、「説話」構造的には、ふたりがまったく別の時間、別の空間に存在していて、一切触れあってはいないことを物語るものです。まったくの非接触を踊っていたものが、途中から身体的な接触を伴う動きに変わってさえ、視線は決して交わりませんから、異なる別の時空に存在するふたりと読み解くのが妥当と感じます。接触はたまたまのものに過ぎず、お互いが「説話」構造としては「デュエット」の相手を欠いたまま、「ソロ×2」として、(観る者の目には、舞踊的にこの上なく高度にシンクロする「デュエット」が)踊られていきます。金森さんと井関さんがソロ・パートをそう踊ったように、私たち観客も見えない筈のもの(デュエット)を見ていたのです。ため息の出るような美しさと言ったらありません。
踊っている間は苦悩と孤独を傍らに置くこともできたようですが、それも事故のような「天啓」に過ぎない訳で、長続きするものではなく、やがて訪れ、募るのはまたしても苦悩と孤独。しかし、遂に何か見る(気付く)ことができたようで、…。

★★★ ★★★ ★★★ ★★★ ★★★

まったく方向性を異にしながらも、それぞれ、あの緊密な空間にも拘わらず、広さと深みを備えた「分厚い」2作品。それらを同時に観るのですから、私たちの心は、受け止めるのに要すると暗に想定していた容量をいとも容易く超えられてしまい、驚き、慌てふためきながら、全く未開の領野を経巡ることになる、そんな体験をしていたように思います。(ですから、上に記したものは、驚きと動揺のうちに、精緻さを欠いて私の内側に形作られた印象に過ぎず、どこまでも個人的なものであることをお断りしておきます。)そして観るたびに常に瑞々しい、その意味でも驚くべき体験と言いましょう。観ているだけなのにも拘わらず、相当な体力を要した意味も分かろうというものです。それを「名作」と呼ばずして何と呼んだらよいのでしょうか。

私たちの記憶は抽象的なものではありませんから、この名作の記憶も、常にりゅーとぴあ・スタジオB、或いは、吉祥寺シアターという空間と切り離すことの出来ないものとして留まり、或いは、再帰してくることでしょう。名作とはその細部のリアリティに至るまで全てが自ら語り出してくるかのように噴出する何物かです。ですから、私たちはこのふたつの空間を細部のひとつとして喜びをもって思い出すことになるのです。曰く、「聖地」と。金森さんが、「聖性は場所にではなく眼差しの裡にある」と呟いた所以です。(2019/2/19twitter)

ああだ、こうだと、愚にも付かない事柄を書いている今ですが、既に手に余るほどに大きな「Noismロス」が始まってしまっています。それに抗するために、3月3日(日)開催の特別アフタートーク(「アフターアフタートーク」)でどんなお話しが聞けるのか楽しみにしていよう、と無理にも気持ちを切り替えているような次第です。

末筆にはなりましたが、これを締め括るために書き落としてはならないことを最後に。
「この長い公演期間を完走された舞踊家の皆さん、スタッフの皆さん、どうもお疲れ様でした。大きな感動を有難うございました。私たちはとても幸せでした」と改めて。
(shin)